柏の木の葉はいつごろ落ちるのだろう、できれば落ちるところを見たいものだとずっと考えていた。今年はそんな疑問に足を突っ込んでしまった。
柏崎という土地に住んでいるが柏の木については柏餅に使われているあの大きな葉っぱのついている木であることくらいしか知っていない。
30年以上も前のことだが、勤務していた学校の校舎改築に伴って校庭も整備され、その中に1本の柏の木があった。校庭は風の通りのよいところで、冬は季節風が吹きまくる。その時に気付いたことだが、そんな冬の烈風の中でも、柏の木は絶対に葉を落とさないのである。風に揉まれて擦り切れても頑として大きな茶色の葉を落とすことはない。それが、春が来て初夏となり、ある日気が付くと新緑の新しい葉に入れ替わった姿になっているのである。あれ、何時の間に? と毎年びっくりしていたが、きちんと観察してみようとまでは思い至らなかった。
今春、桜のつぼみの膨らみ具合を見て歩いていたら、たまたま海を見下ろす高台に高さ2メートルくらいの株立ちになった柏の木を見つけた。ここは日本海の季節風をまともに受け、風のすさまじさは当地でも第1級のところである。こんな厳しい環境の中でも、柏の葉はやはりしっかりと落ちないで付いていた。そうだ、これを今年は見届けてみたいものだ、とカメラを背負って足を運び始めたのがきっかけである。3月27日から6月2日まで、2か月あまりの間に合計28回、家から片道2キロほどの距離を根気良く歩いて通った。どうしても用があって歩いて行けなかった日に車で近くまで行ったことも3回ほどある。
きっかけはそんなところだが、秋に落葉する樹木が多い中で、柏の葉が妙にしつこく木にくっついて離れないことが話題になったとき、惨めという言葉も出たが、そのときW先生は、徒然草の次の一節(第百五十五段)をよく口にされた。それが忘れられず、毎年この時期になると思い出していた。しかし、正確には覚えていないので、改めて先生にコピーしていただくなど、お手数をお掛けした。
春暮れて後、夏になり、夏果てて、秋の来るにはあらず。春はやがて夏の気を催し、夏より既に秋は通ひ、秋は即ち寒くなり、十月は小春の天気、草も青くなり、梅も蕾みぬ。木の葉の落つるも、先づ落ちて芽ぐむにはあらず、下より萌しつはるに堪へずして落つるなり。迎ふる気、下に設けたる故に、待ちとる序甚だ速し。生・老・病・死の移り来る事、また、これに過ぎたり。四季は、なほ、定まれる序あり。死期は序を待たず。死は、前よりしも来らず。かねて後に迫れり。人皆死ある事を知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来る。沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し。
ちょっと余計なところまで引用したかも知れないが、
木の葉の落つるも、まず落ちて芽ぐむにはあらず。下よりきざしつはるに堪へずして落つるなり。むかふる気、下にまうけたる故に、まちとるついで甚だはやし。
柏の木はこれだ、と思った。5月半ばから歯が痛み出し、観察に通うのが苦痛になって、根負けしそうになったが、はっきりと変化の兆しが現れたら1週間くらいでがらりと姿を変えた。仕事があってちょっとうっかりしていれば、あっという間の変化に驚くことになるのも無理はない。もう少し自分の気持を付け加えると、今年のこの観察では、芽ぐみの力に下から押されて落ちるというよりも、ぼろぼろの葉っぱは、ここまで来ればもう大丈夫だと次の世代が生き生きと育ち始めたことを見届けて去ってゆく、という感を強くした。散ってゆく葉っぱの心などというと笑われるかも知れないが、一連の変化の中に植物が子孫を大切に残そうとする愛情を感じてしまった。枯れた葉っぱをどう解釈しようと勝手ということで勘弁していただけるだろうか。
余計なところまで引用したと書いたが、
死は前よりしもきたらず。かねてうしろにせまれり。人皆死ある事を知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来る。
これも忘れがたく肝に銘じておきたい言葉、あえて長くなることを承知で付け加えた。駄文を深謝します。