講演録「チェルノブイリで子供たちに何が起きたのか!」小児甲状腺がんの現状

 菅谷(すげのや)昭先生  元 信州大学医学部第二外科助教授

    1999年8月1日 午後二時〜 新潟県柏崎市ワークプラザ大会議室にて 

              主催 プルサーマルを考える医師歯科医師の会 プルサーマルを考える柏崎刈羽市民ネットワーク

                             講演録作成 (有)ユメディア


(紹介)

 講師の菅谷昭先生のご略歴をご紹介申し上げます。

 菅谷昭先生は昭和18年(1943年)11月22日長野県更埴市にお生れになりました。1968年、昭和43年信州大学医学部をご卒業になられました。1968年4月から3年間、東京の聖ロカ国際病院にて研修されております。そして1971年に信州大学医学部第二外科にご入局されております。76年から78年まで2年位でしょうか、カナダのトロント大学の内科に留学されまして、甲状腺疾患の研究に携わっておられました。1982年、信州大学の第二外科の講師に就かれました。講師になられて4年目、1986年4月26日にチェルノブイリ原発事故が起こっております。

 1991年3月から松本市のNGOグループによるチェルノブイリ原発事故の医療支援活動に参加されまして、放射能汚染地域における小児甲状腺の検診を始めとし、ベラルーシ現地に7回もお行きになられまして、現在支援活動を継続されております。1993年には第二外科の助教授に就かれました。その2年後95年12月に第二外科を退職されております。これはベラルーシにおける現地の支援活動を行いたいという先生の強い意志によって国家公務員助教授という地位をなげうって、96年1月からベラルーシ共和国にお渡りになりまして、ミンスクの国立甲状腺ガンセンターで医療支援活動に携わっておられます。この7月からは高濃度汚染地域であります、ゴメリの方に移られて今後医療支援活動をされるということだそうです。

 一昨年NHKのドキュメンタリー番組で放射能汚染地域で子供たちの甲状腺ガンの医療支援活動をまったくの無償で行われている菅谷先生のことが報じられておりました。ご覧になられた方も大勢いらっしゃることと思います。今日その菅谷先生に柏崎に来ていただき、放射能汚染地域の様子を直接お伺いする機会をもてましたことは、本当に有り難いことと思っております。

 最後までご静聴頂きたいと宜しくお願い申し上げます。

(菅谷)

 皆さんこんにちわ。菅谷でございます。只今過分なご紹介、恐縮致しております。今日は市民ネットの皆様のお招きで、柏崎でお話させてもらう機会を与えられましたこと大変光栄に存じております。

 私は、大変話が下手なものでして、学術的な話をする場合は、これは当り前ですけども大変楽なんですけれども、このように一般の方々にお話するというのは苦手でございまして、今日も私に羽入先生にミンスクと柏崎でのファックスの中にですね、とにかく話は脱線していいからお前の好きなこと話せ、と言われましたものですから、話の途中で時々自分の思っていることとか、あるいはまた感じたことなどをお話させてもらいまして、フォーマルでなくて今日はリラックスさせてもらいますので、皆さんもどうぞリラックスして聞いて頂きたいと思います。雰囲気が固くなりますと私も緊張してきますと、途中で頭が老化してますからですね、途中で忘れてしまうと、ありますから、皆さんがリラクッスしてもらうと私も非常に楽でございますから、よろしくお願い致します。

 最初に私、申し上げておきたいことはですね、今日は私は汚染地であるベラルーシ共和国での子供の甲状腺の病気に関してお話します、主として。その後は、どうぞ皆さん方でご判断頂きたいと思います。私自身は思っていることございますけれども、現地の様子をお話しますから、その後は皆さんでお考え頂きたいと思います。それから中間で質問等受けるということをお聞きしておりますので、なんでもいいですから、お聞き願って、私が現地でわかる範囲のことはお答えしたいと思います。

 そして最初にお話しておきたいことは、私がどうしてチェルノブイリと関わったかということでございます。

 私は信州の生れで、信州の大学を卒業しまして、卒業するときに月並みでございますけども、どういう医者になるかということ考えましたときに、私としましてはですね、患者さんから「ああ、あの医者に診てもらってよかったな」とそういう医者になりたかったんです。そういうことで、私は東京に出まして臨床研修を受けまして、そういうなかでもって自分が医者として、医療従事者として、どのように生きて行くべきかということを多少考えて、それから、東京を去りまして、また松本、母校に戻りまして、外科の教室に入りました。それからが悪くなったんですね。ああゆう白い巨塔のなかにいますと人間てのは大変恐ろしいもんで、私もそういうかたちでもって医局の生活しているうちに、初心を忘れてはいないんですけれども、いつもやっぱり大学の中での生活の方におわれまして、自分の研究あるいはまた学会の発表、あるいは論文を書くこと、そして若い人の指導ということでおわれまして、ずーっとおわれましてね、そして海外の生活もありまして、ある意味では大変ハッピーでした。ほんとハッピーだと思います。皆さん方の税金で自分が学ばせてもらって、なおかつ大学の医療機関で自分の専門とする領域を深めるということは大変ハッピーでございました。

 ところが40ですね、超えて半ば前ですか、海外の発表など終りますと飛行機に乗りますよね、そういう中で私が、帰りの飛行機の中で、この飛行機が落ちたら必ず死ぬなと思いました。要するに自分の死を考えたんですね。そのときに僕は本当に良かったのかなっていうふうに思いました。このまま死んで良かったのかなと、良かったなっていう気持ちで死ねるかなと思ったときに、ぼくは本当に最初の頃に思っていた医療従事者の道を歩んでいるかと思いましたら、もう答は簡単でした。Noでした。これじゃいけない、とそう思いまして、私としてはそれじゃあどうしたらいいのかなと考えました。そういう中で私はこれほど、それほどなにかしたわけじゃないんですけれども、大変恵まれた環境の中で勉強させてもらった、そしてその自分の専門とする領域を、私外科医でございますけれども技術とかあるいはまた専門領域の知識が活かすような場所がないかなと、せめてものできることでしたから、そういうことで私は大学病院の生活しながら1991年でございますけれども、1月、私大学に行くまえにですね、朝のテレビを観てましたら、ちょうど91年ですから原発後の5年目ですかね、実はベラルーシの共和国では大変原発の事故による子供たちの障害がひどくて、なんとかして日本の皆さんに助けて欲しいというSOSが来てました。そういうなかでいくつかのグループが立ち上がったはずです。その一つが長野県の松本市に事務局を置くところのグループでした。その方がですね代表でもって朝出てました。NHKの場合ってのは上に時間が出ますよね、ですから内容を観なくても時間観ながら我々動いているはずなんですけれども、そういう中で私が、変な話なんですれどもトイレから出てきてですねズボンにバンドを締めながら観てたら、チェルノブイリのことやってて、あれ確かチェルノブイリの事故はあったけどもその後どうなったかぜんぜんわかりませんでした。そのとき私は、これは子供の甲状腺の病気増えるなというのが、私が甲状腺の専門をしてましたものですから、放射性ヨードにやられてしまうだろうなと思いまして、観てましたら、その事務局が松本市にあるということで私は大学行きましてすぐ電話を入れまして、もし私が甲状腺専門医ですからお役に立つことがあれば皆さん方のグループに参加しましょうって言いましたら、実は彼等は現地の視察のときは白血病が多いだろうと、皆さん方ご存知の通り長崎広島の場合には原爆を落とされてから5年位から急激に白血病が増えておりますけども、ですから核災害の一番の被害として最初に白血病が出るだろうということで松本のグループも白血病に対してですねどうしたらいいかということで出掛けたら、現地では甲状腺の病気をなんとかしてくれというふうに言われて、彼等は予定が狂っちゃってこれは困った甲状腺専門医をなんとかお願いしようということを帰りの飛行機の中で相談してたんですね。そこへ私が間髪を入れずに甲状腺専門医ということでもって電話したら向こうは向こうで渡りに船で。これが出会いでした。

 ですから私はチルノブイリがしたくて行ったんじゃなくてですね、自分の人生を別の方向に変えようと思ったときに偶然巡り合ったわけでございます。そして私は1991年の3月に初めてNGOのグループと一緒に現地へですね、医療専門家として視察に行ったのが最初でございます。それからは私が現地で長期滞在するまでの間に7回ほど現地へ渡りまして、そしていろいろやってきまして最終的には96年から向こうに長期滞在ということになったわけです。その辺のことはこれからスライドで見ていただきながらお話していきたいと思いますけれども、スライドお願いします。

 ご存知の通り先程羽入先生からのご紹介もありましたように、1986年の4月26日に、当時は旧ソ連邦ですけども現在独立しまして、ウクライナ共和国、そしてベラルーシ共和国の国境沿いで、しかもウクライナ側にあるところのチェルノブイリの原子力発電所の4号機が史上最悪の爆発事故を起こしたわけでございます。この辺は皆さんよくご存知だと思いますけども、そしてその放射性降下物です死の灰によるところの汚染は北半球全体やられましたよね。日本もそれなりに汚染されているはずですけれども、ただし高濃度で汚染されたのは主としてですね、ウクライナ共和国とベラルーシ共和国とロシアの西方ですね。この部分がかなり高濃度でやられて、さらに後ほどお話しますけどもポーランドも当然のことながら、この風向きの関係でベラルーシの隣ですけれども、ここも汚染されておりまして、勿論その意味ではもうすこし北へいきますとですね、バルト三国からさらにスウェーデンですよねノルウエー、北欧もやられておりますけれども、ですから事故が起こった当時、最初の情報っていうのはストックホルムから出たと思いますけれども、まあそういうことでですね、この史上最大、あるいは最悪の事故が起こったことによって北半球全体が汚染されてしまった、と言うわけでございます。次お願いします。

 もう一度地理的に確認させてもらいますけども、これが白ロシアと言いますけれども、ベラルーシ共和国でございます。その南にウクライナ共和国、そしてウクライナに属する国境沿いこれがチェルノブイリでございます。それからこちらがロシアの共和国で、モスクワがここにございます。そして私は、これまでミンスクっていうベラルーシ共和国の首都のミンスクで甲状腺ガンセンターに行きまして活動してまいりました。面積としましてはベラルーシは日本の半分ほど。人口は一千万少し、日本の10分の1のになるわけであります。それからこれがポーランドでございます。スウエーデン、ここがずうっと最初にやっぱり汚染されて、放射能がこちらに出まして、ここから情報が入り、その後は世界全体にいろんなことが情報が発信されたわけであります。次お願いします。

 そして先程申し上げましたように、1991年の3月に私が初めて現地に渡りまして、そこで本当に甲状腺の病気が増えているかどうかを、やはりきちんと自分の目というんですかね、きちんと検査をして、検証して、感情的にただ甲状腺の病気が増えてるんであっては市民運動としてはなかなか賛同を得られないということで、私はやはりこれはきちんとデータを出してですね、自分の手で。そしてやはりそれが甲状腺の病気が増えているとなればこれは皆さん方にも賛同を得られるということで、NGOのグループの方と相談しまして2年に渡って、現地で私の医局の先生方もお願いしてですね、小児の系統的な甲状腺検証を行いまして、これは触診、あるいは超音波の機械だけは持っていきまして、あるいはまた現地で血液また尿、おしっこの採取しまして、すべての検査をしてまいりました。このときにはベラルーシ共和国の中で高度に汚染されている地域とそれからそれに近隣して風の関係で丁度うまくですね、コールドスポットといってはいけませんですけれども汚染をまぬがれたところがございますから、そこの両地区でもって子供たち健診しまして、結果としましてやはり汚染地域では子供の甲状腺にしこりがある、増えているということがわかりました。その結果として私はそれでは本格的に取り組んでですね、私の知識なりあるいはまた技術を少しは活かされるだろうと思いまして、この運動に対して本格的に取り組みを開始したわけでございます。次お願いします。

 このように甲状腺の病気が増えていることがわかりましたもんですから、その反面ですね、現地では甲状腺の病気に対して、特に小児の甲状腺ガンですけども、それに対して、手術が行われているということで、本当に手術が行われているかどうかということも確認するために検診の後、現在私がおります、おりましたになりますけども、ミンスクの国立甲状腺ガンセンターを訪れまして、そこでセンター長のデミチク教授、この方はミンスク医科大学の腫瘍学講座の教授でございますが、変任されてですね、そのセンター長にお会いしまして、本当に子供たちの甲状腺のガンの手術が、あるいはまた甲状腺の腫瘍の手術を行っているのですかと聞きましたら、もちろんだともということで、すぐ別室に子供たちを呼んでくれたのがこの写真でございまして、おわかりになりますね、こういうチビちゃんがここに白いガーゼございますよね、これみんなガーゼですね、首かくしてますけども、こういう子たちが手術を受けていると、これを見ましてやっぱり本当にびっくりしました。私も長年甲状腺の専門医として、外科医としてやってきましたが、子供の甲状腺ガン、あるいは子供の甲状腺腫瘍というのはほとんどしたことがございません。ですからこういう子供が一度にこれだけ集まると本当ビックリしました。確かにやっぱりそうすると甲状腺の病気が増えているということがわかりました。その時に最後に記念ということで私と医局員二人ですね、この写真はナージャの村の本橋さんですけども、一緒に彼も行ったもんですから写真撮ろうよということで、記念だねということであの本橋さんが「はい、チーズ」を三回やったんですけども、笑うのは私共三人だけで、子供たちが決して笑ってくれなかったんですけども、確かに笑えるわけないんですけども、今となっては私も大変反省してるんですけども、これは私にとって非常に記念に残る写真でございますが、このように子供たちがガンの手術、あるいはまた良性の腫瘍の手術を受けてることがわかったわけでございます。次お願いします。

 その時に別の子供を呼んできてもらいますと、この少年の場合にはガンの手術して、耳の下からこういうすごい傷ですね、手術を受けているわけですけども。かつて20年、30年前の場合は日本で私共の教室の先代、先々代の教授などはこういう傷の手術をしてました。当時はこういう方が手術をやりやすい。患者さんの人権、あるいはクオリティーオブライフということは考えずにやっておりました。特にドクターサイドの一方的な考えでもって手術してたはずです。しかし現在はそうではなくてむしろ手術を受けた患者さんが受けた後で本当にハッピーな気持ちで生活できるということを考えてこういう傷はつけません。次お願いします。

 この少年の場合には病気が進行していたのか、あるいは技術的な問題かわりませんけども、 残念なことに声を出すところの声帯の神経を支配してる神経の両方をだめになってしまったということで、この子の場合にはもう声は出ません。もちろん声帯が閉じちゃいますから、動きませんから、息が出来ませんから、声帯の下に穴を開けて気管に穴を開けるんですね、そしてこの気管チューブでもって一生生きていかなければならないというような、本当に胸にかけた十字架が悲しいんですけども、こういう状況を見せつけられまして、私はなんて言ったらいいんですかね、医療の普遍性っていうんでしょうかね。どこの国にいても、あるいはいつの時代においても同じ、外科の場合は手術ですよね、あるいはまた他の、医療を受けられるのが普通ではないかと考えてしまいまして、日本でだったら子供たちがとてもいい手術を受けられて、あの国では受けられないというのはやっぱりおかしな話だなあと、これはだれもが思うと思うんですけども、私としてはこれはなんとかしなければいけないなあというふうに、だんだんだんだんその思いが強くなってまいりまして、ここのへんにきますと私はこういうことをするときに時々あなたは宗教的なバックグラウンドがあるんですかとか、あるいは哲学的な何か思想があるんですかと聞かれますけれども、私はまったくの普通の人間でむしろ常識のない人間でございまして、ある意味では本当に反省しなきゃいけないような生活をしてまいりましたんですが、ですからこういうとこを見ますとぼくは高邁な思想とかあるいはまた自分を支えられるのはなにか、バックボーンがなくたって普通の人だって誰でもこれはなんとかしなければと思うだろうし、しかもこの子供たちというのは原発の事故によって、本当に大人の身勝手さっていうんですかね、豊かさを求める科学の粋を映したああゆうものが爆発事故を起こしちゃって、その結果としてなんの本当に罪も、まったく何も知らされない子供たちがこういう状況で手術を受けるということを考えますと、余計私としては日本でもって勉強させてもらったそういうものが少しでも活きる場があればということで、いろいろ考えました結果としてですね、20数年に渡る大学の生活をあっさり辞めまして、そして次お願いします。

 これ96年なんですけども、95年の暮れに辞めまして、翌年の1月にベラルーシ共和国に渡りまして、たまに行っていろいろすることは簡単ですけどもそれでは本当のやっぱりヘルプになりませんもんですから私はやはりしばらくこの現地で長期滞在をしないとダメだと思いまして、1月に渡りました。1月というのは本当にあの国は寒いですね。マイナス20度からマイナス30度の中、私があえて別の人生の旅を歩むということで最初に安易な道を選んでしまうとこれはたいしたことないということで、私はあえて極寒の一番寒い時期を選んで、そしてベラルーシに旅立ちました。あいにく成田も本当久し振りに雪が降ったんですね。その時はびっくりしました。ベラルーシのベラっていうのは白いっていう意味ですから、まあ白い国ということで私も白い雪にさよならを告げまして、あの国に渡ったわけでございます。次お願いします。

 こちら右がセンター長のデミチク教授であります。それから左が息子さんで、現在お父さんの後を継いで腫瘍学講座の主任になっておりますけども、彼は基本的には肺外科が専門で日本に私と大学におりますときに彼が二ヶ月ほど研修に来ております。こういうように人間関係をちゃんと築いておきましたもんですから、それが私が現地に渡っても言葉の障害ありますけども、その後ある意味では私が考えたような形での支援活動がなされるようになったわけであります。海外での医療支援活動する場合っていうのは、やっぱりまずその国の人たちとの信頼を得る、あるいは又お互いの心が分かるような状況を作っておかないと大変難しいんではないかと思っておりますが、私は幸か不孝か幸の方ですけれども、そのような意味では大変ハッピーな状況で支援活動が続けられてきたわけでございます。次お願いします。

 この辺で96年ですか、かなり前の事ですけども、私が働いております、国立甲状腺ガンセンターの医療現場の話、特に手術場含めてお話しますけども、まあ手術場入りますと、一番びっくりしますのが、この透き通ったガラス窓から外が全部見えてしまう、中で手術をしていると。まあちょっと今日本では考えられない状況ですけども、あとで理由がわかったんですけども、それからまた透き通った窓ガラスを外してここは冷房がないもんですから、網のネット張っております。だから外の空気が出入りしてですね、この道路の病院の中庭の向こう側も車が走ったりしてここは丁度いい場所なんですけども、ダウンタウンですけども、ですから外の空気が出入りして、そういう状況の中でもって子供たちが手術を受けているということは大変びっくりしたわけであります。次お願いします。

 今度はこの手術場の中ではですね、手術台あるいはまたこの電気メスですが、これみんなこの病院自身がスターリンの時代ですから50年以上前できたんですけども、こういう医療器械も全部ですね手術器具もその当時のものなんとか使ってるんですけども、ベット、手術中に降りてきてしまうんですね。ダウンしちゃうもんですから10分ごとにペダルを踏んで上げなきゃいけないとか、電気メスの場合にはですね、手袋はめてんですけども小さい穴が空いている。そっからですね電流が流れてやけどするとか、あるいはここは附属病院ですから医学部の学生が臨床実習でくるんですけどもこれを見るとわかります通り、これも外の衣服のまんまジーパンで入ってきましてそしてただ足袋だけ、あとはこういう格好で、手術場というのは滅菌とか無菌が一番大事なんですけども、そういうこともほとんど考慮されない。学生用のこういうガウンが買えないということもあるんですけども。あるいはまたこの手術場の電気が非常に照明が暗くて手術がやりずらいんですけども、こういうものすべてが買えないんですね。ぼくなんか手術で目が見えなくなってしまうと奥の手術する場合でもなんとか成らないかと見上げるんですけどもすべてがニエットでございます。次お願いします。

 手術を受けたこの子の場合には見てもらってわかりますように、甲状腺ガンの手術の再発二回目ということで耳の下からこういうすごい傷で手術を受けております。そして傷の真ん中からですね、ドレーンといいまして縫った後全部閉じますと中にどうしてもやっぱり滲出液と血液がたまりますからそれを外に出すということで今度ゴムの管をつけて、そしてさらにこの中にたまったものをゴム球で陰圧でもって引き出すということをしているわけです。ここまではよかったんですけども。次お願います。

 そのゴム球がですね本当に窓ぎわに無造作に置かれて消毒もなにもしてないんですね。確かになんていいましょうか陰圧で引きますから、こちらの汚いのが中に入ることはないということはわかるんですが、しかし傷の中とですねこれがゴム管を通して繋がっているときにやっぱりですね考えてしまう。なんとかしてあげたい。あの子供たちですよね、自然発生に起こる問題、病気ならまあしょうがないですけども、特にこの放射性の誘発の甲状腺ガンのような子供たちの場合だったらせめてですね、せめて医療環境の良いところで手術を受けさせてあげたいなというのが、誰もそう思うでしょう。まあこういう状況ですね。次お願いします。

 この甲状腺ガンの子見ていただきますと、この傷の真ん中からドレーンが出てて、これがゴム球ですよね、こういう傷真ん中から出しますとこれあと治ったあとやっぱりどうしてもここが肉が盛り上がって汚くて、この会場の中にお嬢さんをお持ちの方もいらっしゃるでしょうし、お孫さんもいらっしゃるかも知れませんけども、ご自分の子供がもしこういう手術を受けたときに、あるいは傷がここでもって汚くなった場合に、一生どのようにしてこう生活していくかっていうのをご想像いただければと思います。次お願いします。

 またこれ手術場の中でございますけども、こちらの右端に手術場があるんですけども、ここは待ち合い室です。手術を受ける患者さんというのはですね、これもびっくりしたんですけども、普通日本の場合だったら手術する場合は必ず病棟で前投薬という注射を打ったあとで車のついた担架でもって手術室に運ばれてくるんですけども、ここでは手術を受ける患者さんが自分で歩いてきてですね、ご飯食べないで朝は、ここに座っておりましてですね、名前を呼ばれるとそこで初めて衣服を脱いで自分で歩いてベットに上がって、麻酔がかかるという状況で、非常に効率的なんですけれども、一方でちょっと考えられないんですけど、それをあの小さい子供たちが、いやあ強いなあと思いましたけれども、手術に対する不安はいっぱいあるんですけども、なおかつですね一人でですね看護婦さんにつれられてこの病室から中入って座っててですね、カチューシャとかナターシャとか呼ばれると自分でもってここでもって衣服をとって、そして一人で歩いてベットへ上がってそれから点滴受けて麻酔がかかると。本当に強いなあと思う反面それ以上私は言葉がでなかったんですけども、そういう状況でありました。次お願いします。

 病室にきますとこのようにですね、今日は甲状腺ガンのお話を主体にしますけども、このような子供から、もうちょっと大きいですよね14、5歳から、思春期のこういう少年あるいは少女たちがですね、2週間ごとにやっぱり入れ代わり立ち代わり甲状腺の手術のためにガンセンターに来るわけであります。この国の内規としましてですね、子供のガンはすべてミンスクの首都の甲状腺ガンセンターで行いなさいという司令があるもんですから、全国からここに子供が集まってきてこの一ヶ所でやりますから、裏をかえしますと非常にデーターがしっかりするわけであります。次お願いします。

 私は外科医でございますから、当然手術をします。しかし、日本ではできますけども、他の国では基本的にはライセンスがありませんからできないわけです。ですから私は向こうに渡るときも自分が手術するとは決して考えておりませんでした。若いドクターの指導、あるいは一緒になって相談しながらやってけばいいと思ってましたが、幸か不幸か私自身のキャリアを見てくれまして、デミチク教授が一カ月後から手術をしてほしいと、あるいはまた指導してほしいと言われたものですから、私は厚生大臣の特別な了解のもとで向こうのですよ、外科治療に参加するようになりまして、現在に至っているわけであります。まあ私は彼等と一緒に手術をやりながら、さあ一体私はどっから手をつけてどのようにしていったらいいのかなと考えておりました。ただ私は現地へ渡るときにはですねもう50を超えていましたから、自分の能力っていうのを充分わかっておりました。たいしたこと出来るわけではありませんから、じゃあぼくはどうするか、とにかくあせってもしょうがないし、それから自分がなにかしようなんて気負ってもしょうがないですし。ですから地道にしかもですね、決して無理しちゃいけないということで、自分が出来る範囲でというそういうモットーを持って出掛けていきました。ですから私は本当淡々としておりまして、出来る範囲でやればいいんだなあということでしたから、あせりもありませんでしたから、そのなかでじゃあぼくはどうするかということで、これからお話するのは多少このような医療援助しましたよということをお話します。次お願いします。

 まず最初にですね私自身がやっぱり自分が外科医で手洗いしますから、この手洗いのブラシをさっそくお願いしました。と申しますのはですね、このブラシはタワシなんですよね、ものすごい痛いんですよ、固くて。これ一日四回手術するとこれ四回洗ったらね本当皮膚がすごい状況になっちゃいまして、ですからせめてブラシだけはということで日本にお願いしまして、NGOのグループがブラシを送ってくれたんですけども、彼等は全部替えないんです、半分しか替えないんです。でどうしてかったらですね日本からの支援が途絶えるとですね、まだ使えるこれを捨ててしまったらあと国からなんにも予算がないから、だから替えないんだと。このブラシが擦り切れるまで使ってそれから、次のまた日本からのを使う。そんなこと言ってたらぼくの皮膚が擦り切れちゃうことだったんですけれども、次お願いします。

 まあそいうことで私は早速また日本のグループにお願いしまして、もっと送って下さいということで、今後日本でも定期的に送るよということで、ブラシを送りましたところ、替えてくれました。一番日本で安いやつですけども、こういうまず支援をしてもらいました。次お願いします。

 次は手袋ですね。ゴム手袋というのものもこれもサイズがございまして、私は大体7号というのを使うんですけども、むこうは7号の手袋が無くて8号という手袋だととても大きくて外科医だったらわかるんでしょうけども、もう8号の手袋使ってたらとても手術できないし、それからこれ一回で捨てるんですけども、あの国では、何回も使うんです。ですから小さい穴が開いてますと、先程言いましたような古い電気メスだと電流が流れてやけどしたりするもんですから、ゴム手袋をお願いしました。次お願いします。

 これは絆創膏ですけども、こういう絆創膏もですね、4年前までは国でまだ裕福でしたから、病院の備品として絆創膏買ってくれたんですけども、今はお金がないもんですから、結果として手術を受ける患者さん、大人も子供もその人たちが自分で絆創膏を買ってきて、それを持って手術室に入ってそれを使うということで、これもやはりびっくりしまして、安いもんですから、私はこういうものも日本にお願いしました。でこういうことを日本の皆さんにお願いしたんですけども、今そういうところから現地でこういうものを購入するネットが出来てまいりまして、現地で買いますとですね、非常に簡単ですし、なんていいましょうか、機械なんかでもそうですけども、現地で買った方がですね、アフターケアもいいですし、いろんなことでベラルーシの場合だったら、今非常に不況ですけども、外貨、ドルも落ちますから、一石二鳥ということで、そういうネットが出来てまいりました。次お願いします。

 これはドレーンであります。先程言いましたね、首の真ん中です。細いやつですね。これも全部滅菌されたやつですけども、当初日本から貰いましたが、けっこう大きな荷物になるもんですから、今はこれをドイツからの輸入、フランスから輸入したものを現地で購入するところまでなってきました。次お願いします。

 それから医療器具の中でも特に手術器具ですね。ハサミとかですね、ピンセットとかですね、それからメス、それから鉗子ですね。こういうものもですね。本当は日本だったら完全に廃棄されるようなものが、現在使われておりまして、ハサミなんか何回チョキチョキやっても糸が切れないとかですね、あるいは鉗子でつまんでもボトンと落ちてしまうとかですね、そういうものを使わざるをえないし、ドクターたちも苦笑いしてしょうがないんだよって言ってますけども、我慢強いですよね、あの国の人たちは。まあしかしこういう状況の中で、子供たちが手術受けるときに器具が悪くてですね、危険な状況も起こるもんですから、やはりこういうものも現地でですね購入しまして、私が現場におりますから必要な分を必要なときに必要に応じて、供給しておりますけれども、次お願いします。

 それからこういうですね、手術の後のですね、患者さんの管理室において、脈拍とか体温とかあるいは血圧、脈拍、呼吸数とかそういうものを調べるモニターがありますけれども、こういうものがないもんですから、現地で購入してそして、会社の方が説明して、こういことでもって現地で購入し調達しますとアフターケアとかあるいはまた現地でこういうものを買いますと、ドルが落ちますから、そういう意味でも一石二鳥で経済効果があるということで、そういうことでも漸く、今後の道が開けたという感じであります。次お願いします。

 変わった点と申しますと、私が先程ですね、外の景色が丸見えだと言いましたよね。こういうことを私が日本に帰ってきますとあちこちでお呼びいただいてお話するんです、そうすると会場にKGBの方がいらっしゃるようでして彼等はあるとき突然、ブラインドを作るようになったんですね。でこのブラインドを作ってくれたものですから、ああ良かったなと思って中が見えなくなって良かったなと思ったんですけども、なかなか降ろさないんですよね、せっかく作っても。よく考えましたらですね、この国の人達はやっぱり電力を非常に節電しようとしてるんですね。とてもいいことだと思うんです。ですから、手術場に電気があってもなかなか点けてくれないんです、天井にあっても。その分だけ太陽光線を外から入れて、できるだけ電気を使わないということをしております。こういうことはたまにぽっと行って私が先程言いましたようにこれはプライベートの問題、人権の問題って言いますけども、今彼等にとってはそれよりも電気をできるだけ使わないようにしようと、いう方向いるもんですから、こういう状況なんです。まあそういう意味では将来はプライベートの問題を含めて変わるでしょうけれども、少なくとも現段階では彼等は出来るだけ電気をですね、節電していこうと、そういう意味ではですね、やっぱり原発を考える場合でも私自身日本でもう少し生活スタイル、ライフスタイルを変える方向も平行していかないと多くの方々の賛同を得られないんではないかという気もいたしております。次お願いします。

 手術儀式、いろんな問題では傷をどうするかとか、あるいはまたリンパ腺のとる範囲をどうするかとか、甲状腺の切断をどうするかというようなことをいろいろ若いドクターと話をしながらですね、将来の問題として考えております。この国はいくら旧ソ連邦が崩壊して、共産主義なくなってもまだまだ古い体制が残っておりまして、特に病院の古い先生方っていうのは相変わらずヒエラルキーの形で自分の権限を渡しませんし、デモクラシーがございませんから若いドクターはなかなかいろんなこと話が出来ないのも現実でございます。ですから私はすぐ変えることは無理である、しかし将来は彼等があの国を背負うわけですから、その時のために今私は、彼等を応援しております。私が向こうに渡っておりますのは、あくまでも彼等が自立すると、自分の国の問題は自分たちで解決するとそういう事実事情に対して、少しでもお手伝い出来ればと考えております。いつも申し上げるんです。ですけど私は決してボランティアだなんてぜんぜん思ってません。本当は私ボランティアなんて考えてませんし、今だってそうです。ですから私は自分の日本で学ばしてもらった技術と知識がどっかで活きればということですから、これはチェルノブイリでなくて、日本の中でもいいですし、またアフリカでもいいでしょうし、あるいはアジアでもいいですけども、偶然私はチェルノブイリにぶつかったということでございますから、私の初期の目的が終れば、これは当然私はまた日本に帰って来るつもりでおります。次お願いします。

 見ていただきますとわかりますが、この少女はこういう傷ですね。先程言いましたように耳の下からのこういう傷でもって手術を受けております。繰り返しますけども、この中にお嬢さんお持ちの方はこういう傷の自分の娘に対して将来どう思うでしょうかね。次お願いします。

 私昨年帰ってまいりましたときに、九州で講演を頼まれて九州を回ったんです。その時にですね、実はリュデミラ・クラインカンさんという女性、22歳の大学院の学生ですけども、彼女と一緒に回って、というのは彼女がですね、15歳の時に甲状腺の手術を受けていました。術前診断は甲状腺ガンということで、先程のような傷でもって手術を受けております。結果的には良性だったんですね。そういう意味では私はあえて手術しなくても良かったんじゃないかなというふうに思っておりますが、その彼女がこの手術を受けたことによってですね、自分は将来どういう人間になろうかということで彼女は臨床心理士あるいはまたさらにもう少し高度な研究者として現在、大学院で学んでおりますけども、その彼女がですね15歳の手術を受けたときのその回想を講演で述べましたけれども、そしてもう一つ手術の傷跡からくる容姿の問題に耐えなければなりません。包帯を取って、多分2、3日後でしょうね、傷を見たときの絶望感と、なぜこんな傷をつけられる必要があるのと。時間の経過とともにいずれこの傷は目立たなくなるよという医師の説明にも、素直にうなずくことはできませんでした。多感な少女時代に友達とのつきあいの中でひとつのハンディがあることは事実です。確かにそうでしょうね。私はこの彼女の言葉を聞いて、今までもこうと私こういう彼女に知らなかったものですから、これを聞いて確かにこの問題は大きいんだなということがとわかりまして、そんな意味では私も向かい合ったときあの傷は何とかしたいなと思ってまして、彼女のこれを聞かせてもらってますます、そうだね、これはなんとかしかければいけないなというふうに思ったわけです。次お願いします。

 そこで手術のときにはできるだけシワに沿ってですね、ま、これは日本では普通にやられてるんですが、シワに沿ってやったほうが後々は目立たなくなるということを考えまして、ドレーンも脇から出してあげるとこれが自然に消えてきますからね、はい次お願いします。

 あるいは又、この少年のようにですね進行の甲状腺ガンの場合に耳の下にリンパ腺が転移しておりまして、この場合でもですね、本当は先程のように耳の下からこう切り上げた方が外科医としては非常にやりやすいんです、手術が。視野も良くなってですね。しかし手術の後のずーと続く患者さんにとってはどうでしょうか。ということで現在はああいう傷をつけなくなっております。そこで私はこの手術のときに二重のカラー線でやらせてもらって、初めてだということで、若い先生方もこれからこうして、しかし今やると上から叱られるから出来ないと言ってました。私の場合はある意味では特別で許可してもらったんですけども、それから又ドレーンは脇から出して細いドレーンで滅菌したものを使う。やっとここまできましたね。はい次お願いします。

 それからまた、もう一つの問題はですね、甲状腺の手術を受けたときに現在みんな子供たちはとってしまうもんですから、そうしますとホルモンがなくなってしまいますから、甲状腺ホルモンというのは大変大事なホルモンで、ないと死にますから、ということで、現在は甲状腺ホルモンの製剤が出来ております。これは非常に安いんですけれども、日本ではどこでもいつもフリーに手に入るんですけども、残念ながらあの国はですね、ミンスクでは首都ですからあそこでは手に入るんですけども、他の所では、要するにゴメリとかですね、他の地区ではなかなか手に入らなくてですね、子供たちはけっこうあちらから紹介されてるんですけども、薬が手に入らないとどうするかと言いますと、一日三錠飲むところを二錠にするとか一錠半にして減らして飲むわけですね。ですけども結局それが長く続きますと甲状腺機能が低下して具合が悪くなってしまうということで、私はミンスクでですね、薬を購入してこれをまたお願いしてゴメリの方に運んでもらったりしておりますけども、これも日本だったら簡単に手に入るもので、今回の帰国の間に薬屋さんとお願いしてなんとか手に入らないか考えておるところでありますけども、これは本当大事な問題で今後ですね、もっとあの国が良くなってくれればいいんでしょうけれども、現段階ではこういう薬が手に入らないというのが大きな問題であります。はい次お願いします。

 今迄の所は私自身に関連しますが、それ以外に日本には本当にいい方が、素晴らしい方がいますね。私は恥ずかしいんですけども、こういう活動に参加してから自分が今までどんな生活してたかなあと反省ばかりなんですけども、この活動に参加することによっていろんな方々と日本でお目にかかりまして、こんな素晴らしい、こんな日本をもっている方がいるんだって、日本大丈夫だって勇気づけられているんですけども、いろんな方々が話しますと、後で手縫いのものとか、あるいはまた他のプレゼントを送ってくれましてですね、それを今手術の前とかあるいは後の人たちにですね、婦長さんからがんばりなさい、日本の皆んなが応援してますよ、と言うことでもってプレゼントを与えて、もらっておるところであります。次お願いします。

 この辺でちょっと科学的な医学的なデータを示しますが、ベラルーシ共和国は先程言いましたように、日本の面積の半分位なんですけども、6つの州に分かれております。チェルノブイリがここにありますね、国境沿いに、ゴメリ州、ブレスト州、国境沿いのここが、後でお見せしますけれども汚染されて、これが真ん中ミンスク州で、その州都がミンスク市であります。それから北の方が比較的汚染が少ないというところであります。次お願いします。

 ここでですね、チェルノブイリの事故の前後でベラルーシ共和国における甲状腺ガンの数を出してあります。1974年〜1985年の事故前、86年からですから、事故前の12年間で、何人大人子供です。事故後の同じ年数12年でもって何人かを出してます。そうしますと子供見てもらいますと、子供は事故前が12年が8例だったのが事故後が600例と非常に増えてますね。大人の方は3〜4倍近くになってます。言いたいことは、子供が明らかに非常にガンが増えているということがわかります。これはベラルーシ全体でございます。次お願いします。

 甲状腺のガンができるというのは、理論的には放射性ヨードが、体に取り込まれてそこから出るところの放射線によって遺伝子に傷がついてガンが出来るんであろうと考えるわけです。放射性ヨードというのは、もっと言いますと、無機のヨードです。ワカメとか昆布とかいったところにありますけれども、ああゆう海のもの。ヨードはですね、甲状腺ホルモンの合成の場合の素材になるわけです。一番元になるわけです。今回の場合は結局その放射性ヨードが大量に取り込まれただろうということで推測するんですけども、その汚染マップで5月10日のやつでございますけれども。こういうマップがあったんですよね、最初の時から、それが事故後10周年のときに初めて公にされたんですけども、そういう意味では、やはりどんな場合でも情報の公開をきちんとしないといけないなと思うんですけども、これ見てもらいますとですね、ここにちょうどここに真っ赤なここが一番高汚染になりますけれども、チェルノブイリですね。このゴメリ州がかなり高度に汚染されてますよね。それからブレスト州ですね、それからモギリョフ州。この辺が高度に汚染された地域であって、現在も住んではいけない地域が当然ありますけども。それから風向きによってはホットスポットといってミンスクの中でも私ここにいるときにここでもやっぱり汚染地、基本的にいいますとほとんど全部完全に汚染されてますけどね、濃度の程度はありますけども、でも特にひどいのが、ゴメリとブレストですね。ここがかなりやられておると。次お願いします。

 これを見てもらいますと、子供の甲状腺ガン、先程言いましたように86年から98年に600例ですけども、ありますね。この子供たちが先程言いましたように全てが、ミンスクの甲状腺ガンセンターで手術を受けなきゃいけないもんですから、どこから紹介されたかを見たのがこのマップであります。そうするとここにチェルノブイリありますよね、ゴメリ州とブレスト州、とくにゴメリ値が半分近くですね。わかりますよね。ですから四人のうち三人がこの高汚染地域から紹介されてミンスクで手術を受ける。しかしたいへんなんですよ。ここをこう行くときに。300Kmか400km、この場合は500Kmありますかね。ここを子供たちがみんな来るんですよね、お母さん、お父さんにつれられて、夜行列車で、しかも日本のような素晴らしい列車じゃなくて立ち通しで来ることもあるということです。お金がかかりますからね、ですからそういう意味でいったら、大変今の経済不況がすべてチェルノブイリの子供たちの不幸せになっているのも事実でございます。次お願いします。

 今おわかりいただきましたように、高濃度の汚染地域からの子供が75%位占めてる。特に一番は高濃度のたくさんの半数近くいるところのゴメリ州ですね。ここもまたいくつかのブロックになって村になってますけれども、これを見てこのブロックから何人来てるかというふうにみましたのがこのマップなんですけども、ここにチェルノブイリありますよね。当然ここが一番高度に汚染されてるわけですよね。じゃあここが一番多いかっていうとそうではなくて、ゴメリ州がここが一番多いんですね。ここが一番多いです。どうしてかっていうことで聞きましたら、これも情報公開と関連ありますけども、大変残念なことは、旧ソ連邦のときっていうのは一番大事な行事っていうのはメーデーでございます。5月1日。で事故が4月26日ですね。ですから、全部ふせられましたよね。情報がなかった。子供たちはそういう黒い雨の降る中でメーデーのパレードを練習させられた。これはもう大人の勝手以外何ものでもないですけれども、そういう中でもって汚染されてしまった。ゴメリにあちこちからみんな呼び寄せられて、パレードの練習をしたということで、まあこの時に参加したお母さんがですね、今、あの当時はメーデーは人命に先行するんですよ、と言われたのが、今でも私の頭の中に残っております。次お願いします。

 次はですねこの表は、簡単なんですけども、普通子供の定義というのは、14歳まで子供としております。15歳超えますと大人に入れております。この場合は18歳までですね、手術受けた少年少女、1012例のうち事故当時、彼等は何才だったかを見たのがこの図です。見ていただきますと、事故当時、ガンの手術を受けた子供の5歳までですね、半分なんですよね。特にそれでもすごいのは1歳未満のがかなり高いですよね。正常の、普通の甲状腺の中に放射性ヨードが取り込まれますと、小さければ小さいほど甲状腺がやられるっていうことは認められているんです。それは私自身それを専門としてやってますと、そういうことははっきりしているものですから、そういうことは聞いてたんですけども、今回こういった具体的な事実を見ますと本当に小さければ小さいほど最初に甲状腺をやられてガンができてるということで、ある意味ではですね、私が学問的に学んだことが証明されているという状況であります。ですから事故が起こった場合には最初に小さいチビちゃんほど、早く初期対策をするってことが、大事じゃないかと思っております。次お願いします。

 次にこの図は事故の後じゃあその後ガンはどうなってるのって言われます。放射性ヨードっていうのは、半減期がだいたい8日間位ですから、そうすると大体放射性ヨードの影響っていうのは6ヶ月位で無くなってしまうんです。だからそれ以後は、少なくても甲状腺ガンは理論的にはあまりでないわけです。これ見てますと、事故の後ですね、甲状腺ガンになっているのは5人、ようするに1%だけなんです。ですから、あれだけ手術した子供たちの99%が全部事故の前にあるいは事故の時に生まれているということがわかりまして、事故後はほとんどガンが出てないということが分かるわけです。まあそういうことを言いますと、やはり事故当時のときに初期対策っということが、考えられるわけであります。次お願いします。

 こういうデータをですね、デミチク教授が出しましたら、世界に向けて、そしたらIAEAっていう国際原子力機関ですね、日本の偉い先生がトップを占めてやった調査委員会を、いやいや甲状腺ガンなんて増えてないよ。多分ベラルーシの国自身が子供のガンが多いんだよとそういうことが言われまして、あのデータを信用してくれなかったわけですよね。そこでまあ、デミチク先生は、それではじゃあもっと頻度として人口、例えば10万人の大人に対して1年間にガンがどの位出るかということを出したら、非常に客観的になります。そこでですね、ベラルーシ共和国における黄色いラインですけども、人口10万人の子供について1年間に何人の甲状腺ガンが出るかということを調べたわけです。世界的には10万人の子供に年間0.1、日本もそうですが、0.1か0.2位です。そこで黄色いライン見て下さい。そうしますと、86年事故当時ですね0.1なんですよね。だから世界水準と同じなわけですよ。要するにに100万人の子供に1人か2人で非常に稀なんです。小児の甲状腺ガンっていうのは。だから事故前っていうのは、ほとんど世界水準なわけです。それが、だんだん、だんだんに増えていきまして、95年には4.0ということで、10万人に4.0ですけども、要するに0.1のものが4.0に40倍になったということです。これはもう異常ですよね。これはベラルーシ共和国全体を平均した場合こうなんです。次お願いします。

 そこでですね、先程言いましたようにゴメリ一番汚染された地域、次がブレスト州です。それから北のビテプスク州っていうのが一番少ないと、じゃあそれで換算して人口10万でどうか見たのがこのグラフですけれども、紫のやつこれがゴメリ州ですけれども、おわかりの通りですね、91年から見ますと11.3とかあるいはちょっと下がってまた95年は12.0っていう形で100倍ですよね100倍以上になっているということですね、子供のガンの発生が。それからブレスト州でも60〜70倍。ところが汚染が非常に軽度であったビテプスクはほとんど変わりないと。このデータを示すことによって初めて10周年のときにWHOもIAEAもチェルノブイリの事故によって明らかに因果関係があるのは小児の甲状腺ガンであるっていうことを結論付けたわけであります。それ以外のですね、一番には白血病とか他の病気に関してはまだまだ結論出すのが時期尚早であるということでこれが今後やっぱりフォローしていかなきゃいけないと思っておりますが、現段階では白血病も思ったほど増えておりません。ですからそういう意味では広島長崎の場合の被曝とチェルノブイリの場合とはちょっと様子が異なるんでしょうね。少なくとも甲状腺ガンに関しては非常に早い時期にたくさん出てしまったということでまあこの辺は後ほどスピーキレーションとか想像は、まあ推測はお話したいと思いますけれども、いずれにしましても、人口10万人の子供に対してで割り出しますと明らかに異常に子供のガンが増えてしまったということであります。次お願いします。

 もう一度ですね、子供とそれから甲状腺のガンのことについてですけれども、事故前後におけるヤングジェネレーションの甲状腺ガンで、子供は先程言いましたように8例、事故前8例がその後12年間で600例、ティーンエイジャーの15歳から18歳はどうかといいますと、前が13例が132ということで10倍ですね。やっぱり増えてますよね。それからさらに29歳というと4倍位ですか、大人の場合、こっから大人になりますから、大人全体では3.5倍位増えていますが、さらに内訳見ますと、この年齢ですね、ティーンエイジャーから青年層この辺が今増えてきているという状況であります。次お願いします。

 そろそろ前半終りますけれども、チェルノブイリの事故の後の子供の甲状腺ガンの推移がどうなっているかですけれども先程言いましたように、だんだん増えていますよね、すーっと増えてます。95年には1年間に91例のガンの手術をセンターで行って、それからだんだん減ってきたんです。96年84例、97年が66例、昨年98年が46例、今年は私が帰ってくるまでだいたい10例ちょっとですかね、ですから単純計算でいきますと、半年で10例ですから、倍しますと20数例ってことで昨年に比べてやっぱり20名位減っていって、来年さらに4、5名になって2001年には、子供のガンというのは無くなるということで、大変嬉しいんですけれども、しかし先程から言いましたようにほとんどの子が事故前に生まれているわけですから、2001年っていうのはチェルノブイリの事故の後15周年になりますから、15っていうのはもう大人になりますよね。事故前に生まれた子供っていうのは全てが今度大人になるわけです。そうしますとこれから増えてくるのが、15歳を超えたティーンエイジャーであろうと、それが先程言いました黄色い表で15〜18歳が10倍が増えてきております。次お願いします。

 これは大人の方ですけれども大人は、子供は95年から下がってきました、大人は逆に増えてますね。こののが多分今後ヤングジェネレーションが増えてくるだろうと、まあ小さければ小さいほど放射性ヨードの影響を受けやすいということで、そういうことが早い時期に出てしまって、当時そうですね例えば、事故の時に15歳の子というのは現在28歳になるわけですね、13年経ちますから。だから15歳の子っていうのは1歳の子よりも放射性ヨードの影響が少ないわけですから、遅くなって出て来ている可能性もある。確かにそういう意味ではティーンエイジャーのガンが増えています。しかし予想された程増えていないというのも事実でございます。これで終りですかね。ということでですね、前半の方はこれで終りなんですけれども、現段階ではですね、子供の甲状腺ガンっていうのは、減りつつありますけれども、今後はですね、どちらかと言いますと若年齢の方々、若年齢というのは15歳以上のその辺が増えてきて、これに対してどう対応するかということになるわけでございます。


(質問)

 先程甲状腺を全部取っちゃうと、一生そのホルモンって言うんでしょうか、その薬を飲み続けなければならないわけなんですけども、そういうのっていうのは、保険というんでしょうかね、医療体制というか、そういうのはいかがなもんでしょうか。

(回答)

 これまで子供の甲状腺の手術をした場合、特にガンですけども、その子供たちは証明書がございまして、あなたはチェルノブイリの事故によってガンになったから、一生面倒見てあげますよ、っていうことで証明書があったんです。だからそれを見せると検査を含めて薬も全部ただだったんです。ところが、あの国が経済不況になったもんですから、そういうところに手が回らなくなったものですから、もう今は切りはじめたもんですから、薬は自分で買わなくちゃいけないんですね、お金。保険ないですからね。あの国は元々国営でございまして、医療も今国営なんです。ですから病院にいる人全部ただなんです。だからただだからあなた方は文句言えないという形になっちゃう。だからあの傷で手術したってお前ただでやってもらってんじゃないかって、なるわけですよね。だからいろいろ言ってもらっちゃ困ると。お分かりになりますか。要するに医療側が非常に強い訳ですよね。ただでみんな医療受けてるんじゃないかと、だからドクターサイドは非常にやっぱりそういう意味で言ったら、しょうがないですね、I dont know.と言いますから。そういう体制なんです、今。薬に関してはですから、あれは気の毒ですね、もう一生飲まなくちゃいけませんから、あれを買わなくちゃいけないわけです、薬を。先程言いましたようになかなか手に入らないわけですよね。しかもミンスクよりもゴメリとかブレスト州の方が患者さん多いわけですよね。あそこでは手に入らないわけですよ。薬屋さんに売ってないんですよ。あの国は甲状腺ホルモンの薬をほとんど作ってませんから、農業国ですから、輸入しなきゃならないんです、薬全部。ミンスク、東京にしかないんです。末端の所ではないんですよね。だから大変な問題になっちゃいまして、そういう末端の地域にあるお母さんたちのNGOのグループがありますから、そこと私はやっとネットワークが出来たものですから、そこに薬を支援している。という状況でございまして、日本からの支援グループなんかも今後そういうふうな形でいきたいと言っておりますけども。ただでなんとかして、あれないと死んじゃいますからね。甲状腺ホルモンないと、死にますからね。日本ではホルモン剤非常に安いですけれども、向こうではそう安くないですから、彼等の月収から考えますと、しかも子供ですからね、お父さんお母さん稼いだ金で買わなくちゃいけないから、家計にかなり響くわけですよね。その辺はまた後半でお見せしますけど、大変な状況であるということ。

(司会)

 じゃあスライドの準備できましたので、後半の方宜しくお願いします。


(菅谷)

 これは有名なダビンチのモナリザでございますけども、実は先程言いましたように、どうしてあのベラルーシで子供達にあんなにたくさんの甲状腺ガンがしかも早い時期に起こってしまったかっていうことの推測でございますが、実はベラルーシ共和国というのは、海が周りありませんですですね。ですからヨード、非常に不足しているんですね。海藻類食べてませんし、さしみとか美味しい魚、柏崎では食べられますけれども、そういうものがないもんですから、甲状腺はですね、機能としてホルモンを作らなくちゃいけませんよね、そうしますととにかくその素材のヨードを欲しい欲しいっていつも言っているわけです。その時に事故が起こって、空から放射性のヨードが舞い降りてきて、ところが甲状腺っていうのはこれは放射性ヨードこれは無機の心配なヨードと見分け出来ませんから、同じようにこれもホルモンの素材になると思いまして大量に取り込んでしまったんですね。それからヨード不足のところに放射性ヨードが死の灰として舞い降りてきましたから、子供たちの甲状腺は喜んでそれを取り込んだその結果として、あれだけたくさんのしかも早い時期に甲状腺ガンが起こってしまったということが、推測されるわけであります。次お願いします。

 そういう中でですね、実は先程お見せしました、ベラルーシの西隣がポーランドでございまして、ポーランドの国がそのチェルノブイリの事故の時にとった初期対策っていうのが大変素晴らしいことをしてくれたんですね。これは私達日本でもたくさん原発ありますけれども万が一の時のそういう対策としてはぜひともやっぱり参考にすべきと思うんですけれども、ポーランドの政府はですね、チェルノブイリの原発事故が86年の4月ですけれども起こりまして、その時の翌日の夜はじめて大気の放射能汚染を確認しまして、特にベラルーシの国境沿いでは高度に汚染されましてその大気汚染につきまして分析しますとその80%が先程から申し上げてる、放射性ヨードであることがわかった、最初に揮発性の放射性ヨードが出ちゃったんですね、28日の午前10時までにポーランド全土で大気、土壌、水の汚染を確認しまして、その時点でポーランド政府は、24時間の非常事態体制を発布、これは国で国家で24時間非常時体制をしきまして、28日の夕刻には初めてタス通信がチェルノブイリ原発で事故が起こった、これは非常に小さく報道されたのですね、状況はわからないわけですね、政府は緊急対策委員会を設置しまして、その時にもう既に国立の放射線予防センターでは18例の子供の甲状腺被ばく量をチェックしております。しかしモスクワからの信頼できる情報が全く無い訳ですから、そこで政府はですね最悪の事態を想定して初期予防対策を検討、ここらへんがたいしたものですよね、最悪の事態を想定したんですね、次御願いします。

 29日、事故より4日目なんですけども、もう遅いんですけどもね、本当は。正午に厚生省は中央薬剤協会に無機の、無機のヨードカリですね、ヨードの溶液剤の準備を指示しまして、その午後3時には薬剤の配布を指示しまて、すべての病院、保健所、学校、幼稚園等を通して入手できる。これ良かったらしいですね、みんなボランティアとしてものすごい迅速にこれをやったんですね、協力して。そして実はこういうことは世界で初めて起こったんですから、無機のヨードをどれだけ投与していいかっていうことも、実は我々専門家でもわからないんですね。で彼等はいろいろな資料をもとに専門家と相談して生まれたばかりの子供は15ミリ、5歳までの小児は50ミリ、6歳から大人までは70ミリと決めてですね、その中で投与して特に妊娠授乳中の女性には強制的ですけども内服するよう指示しまして、5月の2日までには一千万人の子ってことで、ポーランド小児人口の90%以上と700万人の成人が内服しました。一回投与ですね。その後大気汚染の状況が改善したので、再投与はしておりません。それから、ヨード剤っていうのは、即時性のショックを起こしたりすることがあってアレルギー反応が強い子供さんあるいは大人もいるもんですから、それに対する副作用がどうかということでしたのが、結局重篤な副作用はなくてアレルギー性の皮膚反応ですよね、かゆいものができたり、そういうことがあったんですけれども、あとは重篤な副作用はなかったということでございます。こういうことでですね、ポーランド政府の緊急対策としてヨード、無機のヨードをですね、事故4日目ですけども、子供を中心に投与した。これは本当良かったですよ。それから次お願いします。

 もう一つですね、対策として、これも本当、その被害の放射線に対する汚染予防対策ですけれども、5月の15日までは、乳牛に新鮮な牧草を与えることを全国的に禁止するっていうことで、結局この牧草の中に放射性のヨードが舞い降りてますからそれを食べた乳牛のお乳の中に放射性ヨードが含まれるから、そういう意味でもって牧草を与えることを禁止したってことですね。それから1000ベクレル/リットル以上の汚染ミルクを子供や妊娠授乳中の女性が飲むことを禁止。事故当時国境沿いのポーランドでも数億ベクレル/リットルのミルクがあったそうですから、かなりポーランドでも汚染されたわけですね。こういう中でもって子供はもちろんのこと、授乳中の場合でもお母さんが汚染ミルクを飲みますと、お乳から口から子供にいくわけですから、そういう意味で禁止して。4歳以下の子供には乳牛のお乳がなくて粉ミルクを飲ませると、まずいですけどもねでも粉ミルクを飲ませて、これも良かったですね、子供や妊娠授乳中新鮮な葉菜類、葉物の野菜を採らないように。こういうことを初期に対策したもんですから、もちろん4日目ですけども、遅れてるんですけれども、結果としては現在ポーランドでは小児の甲状腺ガンが増えてないということで、初期にきちんと対策すれば甲状腺のガンに関しては対策がなされると発生しませんけれども、もちろんそれ以外のセシウム、ストロンチウムそういうものに関しては、まったく別の問題でありまして、ひとつ事故が起きた場合には、そこに住めないわけですから全部退去ですからこの場合はあくまでも、子供の甲状腺のガンの発生に関してはこういう対策をしたら防げるということであります。まあ、原発のあるような近くのところでは、こういうことしてもしょうがいないでしょうし、逃げるしかないと思います。基本的にはこれはあくまでも離れた地域の問題でして、当地のような場合はどのような対策を立てるのでしょうか、皆さんお考え下さい。次お願いします。

 現地ではこういうようなベラルーシでは輸入して、ワカメ、昆布なんかをビン詰め売ってますけれども、食べてみましたけれどもあんまりおいしくないですね、私。ですから日本ではちょっと水こうやってすぐ食べられるようなワカメとか、その他海苔とかいろんなありますよね。ああゆうものを今後医療支援の中でもって、あの国へ、なんか援助できればと思って考えておりまして、検討してみたいと思っておりますけども。次お願いします。

 ここまでが私が、甲状腺ガンセンターで日々医療支援活動してるんですけれども、まあ2年半過ぎますと、私自身も少し余裕ができまして、もう一つやるべきこと何があるんだろうということで、やっておりますのがですね、実は、汚染地、主としてゴメリですけれども、そこに行きましてそして甲状腺の検診、それからゴメリからたくさん手術に紹介されますから、その子供たちの巡回診察、巡回診療ということで、彼等が元気でいるかな、学校はどうかな、悩みはあるかなと、あるいはまた両親たちが薬の問題、あるいは将来の問題どうかなということで、私がお手伝いできることがあれば、という思いでですね、月曜日から金曜日までは、病院にいますけども、金曜日の夕方友人の現地のドクターと一緒に、彼の車にポータブルの超音波の機械とか、あるいはまた日本の皆さんからいただいたプレセントまた、医療支援物資を積み込んで、350kmの道をとばして、日本のようなすばらしい高速じゃないんですけども、5時間か6時間かけて行きまして、次お願いします。

 翌日土日、近くの診療所でもって急遽、急ごしらえのベットの上で、こういうように超音波検診をしたりとか、あるいはまた触診をしたりしております。私共が考えておりますのは、これから増えていくであろうところの、ティーンエイジャーですね、15歳以上のあるいはまた20代の方々のチェックがメインですが、次お願いします。

 連れてくるのがですね、みんなこういうチビちゃんなんですよね。もうこの子たちは事故後、5年10年経って生まれたわけですから、本当は心配ないんですけども、親たちは、自分たちの子供それだけが心配なんですね。あたりまえですよね。どこの国でも、次を背負う子供たちに対して親の気持ちは同じであって我々日本人もそういう方向で考えていかなくちゃいけないんじゃないかと私は思っております。子供というのは人類の財産ですから、そういう立場から今後いろんな形で考えていかなくちゃいけないのかなと、痛感しておりますけれども、いずれにしましても、こういうチビちゃんがもう連日来るんですね、土日になると。本当は必要ないんだよって、言いたいんですけれども、やっぱりお母さん満足しませんから、全部超音波の検査してあげるわけですけれども。次お願いします。

 また手術した子供の家に行きまして、こういうポータブルの超音波で検査して、そしてそういう中でもっていろんな相談を受けたりしています。大変喜んでもらっております。じゃないと彼等はミンスクに術後の検診でこなきゃいけない、大変なんですから、こちらから出掛けていけば大変喜んでくれております。次、お願いします。

 このぼくが手術受けてるんですけれども、これが家族でございます。彼が夏にお母さんと一緒にミンスクの、ゴメリの田舎に住んでますから、センターに行く時にですね、一泊しなきゃいけないんですよね。電車で5、6時間かかりますから。そうするとやっぱり検診の日で見てもらって、その前の日にいかなくちゃいけませんから、そうするとその費用が、電車賃を含めると、このお父さんの月給の3分の2使っちゃうんです。だからお母さんも行きたいけども、家計が大変な状況で行けないんですよということを話してくれまして、少年も薬じゃあ飲んでる?、大丈夫?ということで、私としては今回は検診で診るからということで、今後も大変ですよ。先程のご質問ありましたけども、経済状況が非常に逼迫してますから、地方では。次お願いします。

 そんなことで私が検診に行く前に連絡しておきますと、お母さんは前の日から待っててくれまして、こんな大きなパンを焼いてくれて、ウオッカも用意してくれてまして一杯飲んでけってお父さん、けども、僕らの方では土日でまた日曜の夜300kmまた戻らなきゃいけませんし、患者さんいますから、いやいやって言うと、もってけっていって、本当このパンそれでも1週間もちましたですけれども、本当にやさしいんですよ。日本人と同じですね。日本人より我慢強いですけども、みんな耐えてるんですよね。経済不況の中で、しかも自分たちの子供がガンであってしょうがないんですけれども、次お願いします。

 彼女が先程お見せしたすごい傷の子ですけども、父さんと母さんですけども、お家伺いますと、大変喜んでくれまして、チビがいるとお母さんもニコニコしてくれるんですけれども、この子のエピソードとしてはですね、お父さんのお母さん、要するにこの子のおばあちゃんの家にちょうど4月26日の前ですけども、あの地方がちょうど春、とてもいい季節なんですけれども、じゃがいもの植え付けのシーズンでありまして、おばあちゃんが息子に手伝いに来てよといって、彼がチビ1歳半のときですけども、つれていってですね、そこでジャガイモの植え付けをしまして、お父さんはコルフォーズのトップしてますから帰って来て、このチビちゃんはアリョーナはおばあちゃんとこで3週間いたんですね。その間のときに事故が起きちゃってですね、それもぜんぜん知らないわけですよね。彼女は結局その後ですね、チェルノブイリの事故による甲状腺の検査の時にひっかかって、あの傷の手術を受けてしまったんですけども、後でおばあちゃんのところは高汚染地で、全部埋められてしまったんですよね。おばあちゃんの村なくなったんですけども、そういう中に何も知らない1歳半の少女があの春先の一番いい季節、長い冬が終わって、そこで何も知らずに遊んでいて、そういう中でもって放射性ヨードが体に入ってしまった、ゆうわけであります。次お願いします。

 このアリョーナを遊びに行かせてしまうと両親の顔つきがガラっと変わっちゃいます。わかりますよね、笑顔がなくなっちゃって、自分たちの問題じゃなくて、あの子を将来どうしたらいいのかということで、薬も飲んでるし、それからまた将来結婚できるかとか、子供生めるかとか、彼等のところも汚染されてるんですよね、軽度ですけども。モギリョフ州。自分たちがミンスクに移住したいとか、お金があったら日本に行きたいんですよなんて位まで、言ってくれるんですけれども。このように一つ事故が起きるとこういう状況が生まれるというわけであります。次お願いします。

 この二人も、両方共ですね、ゴメリ州から紹介されて術前診断は、甲状腺ガンでした。この子は残念ですけども甲状腺ガンでした。この子は手術中に良性っていうことで、とてもよかったんですね。退院の時にお土産渡しているところです。次お願いします。

 翌日お母さん迎えにきたけど、お母さんはこの子がガンであって将来が心配で、なおかつ今お父さんと離婚したもんですから、この子をどうやって育てていくか、ということでゴメリにいますけれども、次お願いします。

 逆にこちらの左側の良性に変わったお母さんは、わかりますよね、手術はしたけども、ガンでなかったって喜んでいますけども、まあしかしどっちにしても、大変なことでありますね。次お願いします。

 この姉妹は両方ともガンでした。同じ日に甲状腺ガンの手術を受けております。同じように退院の日にですね、挨拶に来てくれたものですから、お土産を渡して、次お願いします。

 お姉ちゃんにですね、自分の帰るところを指し示してっていうことで、汚染地図で見ますとですね、ここがミンスクであります。首都ですね。ここで今手術を受けて、ここにいるわけです。彼等は明日はここのゴメリ州の色のついた汚染地へまた戻って、ここがチェルノブイリですね。せっかく手術してもまた結局ここに戻って生活するんですね。この子たちは結局は汚染地で結婚してそしてそこで子供を産んで一生を終えて、この汚染地で生きていかなきゃいけないと、こういうのが現実であります。次お願いします。

 私が昨年の10月に往診っていうか、現地の診療ってことで、ゴメリのお宅に伺った時に、これが先程の姉妹です。1年半後ですけども、変わりましたけどもね。元気でした。そしたら別の子がいたんです。何かなと思ったら、この二人のいとこだと言うんです。こちらこの人が、この女性がこの二人のお母さんで、彼女のお母さんがこちらで、この二人が姉妹だということで、いとこだと、それで聞いてみたら、この子が二人よりも一年前にやはり甲状腺ガンの手術したということで、せっかく来るからってことで近くにいたもんで集まってくれて、やっぱりこの子もすごい傷で手術を受けていましたけれども、どっちにしましても、今こうなんですけども、大変ですよね。もうじき結婚の時期になって、お父さんお母さん達は、胸の痛みというかね、心の苦しみといったら大変なものでしょうし、もちろんこの子がうすうす気づきはじめて自分がガンであるということ、この二人はまだ知りませんけれども、今度帰ってくるときにですね、この子が結婚するということで、お母さんと挨拶に来てくれましたけれども、ま、私としては結婚して子供作ってもらってそれで問題ないと思いますけれども、ただ、将来この子がまたどっかで再発するとか、また子供になにか起こるとか、薬を飲まないといけませんし、妊娠中にはいろんなことが起こるかもしれませんし、そういう意味ではなんとも僕は言えないですけれども、せめてご主人になる人にですね、どういう事態が起ころうとも家庭だけは維持してほしいなとそういう思いでいっぱいでございます。次お願いします。

 これから私が巡回診療で、私もこの年でもって土日8時になるともう体がだんだん、だんだんに消耗してきたもんですから、少しペースダウンをしようということで、ミンスクにおるときは毎週ってわけにはいきませんから、2週とか3週にいっぺんであとはセンターの仕事をしております。こういう支援活動の中で大事なことというのは私は医療支援と同時に私はもう一つ教育支援ということが大事だなということで、あの国を背負う若いドクター、これ医学部の学生ですけれども、あるいは若いドクター達への教育をしていかなくちゃいけないだろう、というのはあの国ではなかなか国際的な情報が手に入らない。あるいはまた雑誌を買うお金もない、ドクターには。医学部もだいぶ苦学してますけれどもそういう意味で私は、日本での使ったいろんなビデオテープ資料のビデオテープとか、ビデオデッキを買ってここに置くとか、こういうような教育支援っていうこともさせてもらっております。次お願いします。

 こちらは病院のヤングドクターですけども、病院には図書室なんかなんにも無いんですね。ですから彼等は仕事だけしてあとはもう勉強したければ、市の中心に非常にすばらしい医学図書館があるんですけども、そこまでは行けないし、月給が30ドルで3600円ですからね、月給が。とても生活に追われてそんなことできませんから、せめてということで私のアパートを開放しまして、そして私自身が日本で今までいろいろと利用させてもらったようなスライド等をもって、私の家で勉強会を、小さいですけれどもね、たいしたことないんですけども、そういう場をみんながもしやりたかったらどうぞということで、開放してやっております。次お願いします。

 またこういうドクターに対する定期的な勉強会の時には、甲状腺学の話をしてほしいということで、そういう時には、本当はもう私はこういう状況からおさらばするつもりでいたもんですから、したくないんですけども、それでも、甲状腺の話をしてくれないかというものですから、やっておるところです。こういうような形で教育支援ということもさせてもらっております。次お願いします。

 これまでは甲状腺の話でしたが、もう一つは今日のパンフでも現地での子供たちはどうかということで、これは国立のミンスクにあります、小児の腎センターです。事故後より小児の出血性腎炎が非常に増えているということで、羽入先生もいらっしゃいますんですが、どうも子供の非常に難性の腎炎で汚染地からかなり来てるということで、場合によってはですね、ああゆう汚染物質食べますから、最終的な排泄としてはおしっこか便ですけども、そういう腎臓とか膀胱とかああゆうところにも、なにかやっぱり放射性物質に影響があるのかもわかりませんけども、そのへんはまだ、研究されてないんですけれども、このセンターに行きましてやっぱりわかりますよね、飲んでますけれども、こういう子供たちもいてくれましてですね、そこに行きまして、何か困ったことがあるかということでもって見せてもらいまして、そういう中でもってとにかく、超音波が欲しい、それから腎臓のバイオプシといいましてちょっと一部を採るようなそういうことができないと困っちゃうということで、今回私自身のささやかな基金ですが、そこから、超音波の機械と腎臓の生検の機械を購入しまして、今日お渡しましたニューズレターにもありますけれども、そういうような支援もさせてもらって、まあこういうことが今後増えてくるんでしょうけども国ではこういうことはあんまりオープンにしてほしくないこともありまして、これもやっぱり情報の非公開になるんですけども、こういう状況。次お願いします。

 自分たちの書いた絵をくれました後、日本のおみやげもらってさよならって、こういう子たちがいっぱい入院してるんですよね。そして同じようにミンスクの小児腎センターですから、この中には汚染地からやっぱり来るんですね。そうしますと汚染地のお母さんたちお父さんたちは、共稼ぎでないとやっていけないわけですね。そうすると見舞いに来れない、子供たちはひとりで耐えてる。こういう状況でもありまして、最近はですね今度は、ゴメリとかモギリョフとか、ああいうところに、こういう子供たちを戻してあげて、お母さんお父さん来れませんからみんな耐えてる、その中でもって検査もできないということで今回そんな事でもって、多少の支援もさせてもらっております。これが他にもいろいろあるんですけどもあるいは子供たちは汚染地では食べる物ですね、やっぱりどうしても食物連鎖で入りますから、偏食になりますよね。野菜食べないために血液がやっぱり貧血含めてやっぱりいろんなことが出て来ると、これも現在そういう状況にあります。次お願いします。

 これが私が住んでおりました、首都のミンスクであります。大変きれいな、人口2万人以上で3年半の滞在におきまして、私が初期の目的としていることがほぼ達成しましたもんですから、ミンスクにいましても、なかなか汚染地の耳に入らなかったかったんですね。それは大統領令で普通の人はもうチェルノブイリの事故の話をしちゃいけないという大統領令が出たんですね。そういうことをやっぱりしたのは、政府の命令以外は命令じゃなくて、流す情報以外はあなた方は口を出すなという状況なんで、ですから逆に言うとやっぱりそういうこといろんな情報でありますとですね、今の経済不況のあの国としましてはチェルノブイリのことをどんどん、どんどん削ろうと、予算をカットしようとしているわけですから、一般の人達にとってみてはチェルノブイリは語ってくれるなということで、私のところにでもですね、病院ではあまりチェルノブイリの話が出なくなってますから、私のすることも終ったし、残りの一年半はですね、私はあの高汚染地に渡ろうと決めまして、今回帰国の前に引っ越しまして、今度はゴメリの州立の州央センターで働くことにしました。もちろんミンスクのガンセンターでは、私が去るときに、お前はセンターにいるのが不満なのかとか、もっとやってもらうことがいっぱいあるけどもと言ったんですけれども、ぼくは、もう大体のことは終っているんだし、あとは君達の問題で、時が来なければそれは解決出来ないことがあるし、僕としては残りの1年半というのは高汚染地に行ってもう一度ゼロからやり直しということで、渡ったわけであります。次お願いします。

 見てくださいこれ10万円札ですよ。こんなに10万円札。皆さん欲しいでしょうね、これね。これどんなかなあと思います。千円位ですよね。ですから、現在私が帰ってるうちに、100万円札できまして、私のポケットいつも300万入っているんですよね、普段。それで今1ドルが、40万ですから、100万円持ってても、2ドルとちょっとしかないんですよね。200いくらですか、だから300万入ってても千円ならないんですよ。はい次お願いします。

 じゃこういう経済不況の状況です。ミンスクには今、移住者用の汚染地からの移住者用のアパートがたくさん立っておりまして、ここに若夫婦や子供たちが来てまして、おじいちゃんおばあちゃんたちはですね、こっちに移ってまた戻っちゃうんですね、汚染地へ。住めるところは。それはあたりまえだと思うんですね。おじいちゃんおばあちゃんたちは、事故がなかったらあの天の恵みと地の恵みでもって、一生そこでもって生きていけたわけですよね。それがこの事故によって、命につながるふるさと、あるいは心につながる、血につながるふるさとを捨てろっても捨てれないと思うんですよ。ですからおじいちゃんおばあちゃんは元に戻って、若夫婦、子供でここにいるわけですよね。ところが、今お見せしましたようにインフレのものすごい経済不況で移住してきた人たちだって、ミンスクにいる人でも仕事が、日本も大変なようですけれども、仕事がないのに、移住してきた人でももっと厳しいわけですよ。ですから、給料うんと低いわけですよね。そうすると食べるものどうするか一番大事な。それは汚染地にいるおじいちゃんおばあちゃんが作ってくれた、じゃがいもであり、キャベツであり、トマトであり、きゅうりでありって、それを週末にもらいにいくんですよ。ですから住んでるのはミンスクにいますけども、結局食べてるものは、おじいちゃんおばあちゃんで作ってくれた汚染地のものを食べているということで、どうですか、解決にならないですよね。それを結局子供たちが食べざるを得ないですよね。そういう状況でもあります。次お願いします。

 これがゴメリ州です。本当にいいですよね。こういうとこは見えませんし、匂いませんから、汚染されてると思いませんけれども、こういうところで人々は生活して、そして一生をまっとうするっていうか、ハッピーな状況で一生を送るわけですけども、それが突然ストップされているっていう状況であります。次お願いします。

 高汚染地ですね。ここではやっぱり住んじゃいけないと言われても、おじいちゃんおばあちゃんたちは、いやいや俺達はもういいよと、ここで生活して時々パンを売りに来るから、巡回のパンを買ったりとか、それからここでもってにわとりを飼って、そしてたまご食べたり、豚を飼ってその肉を食べたり、さっき言ったようなじゃがいとか自分に必要なお野菜を作って食べて、自給自足ですよね。やってるわけです。生きてはいけるんですけども、そっから取れる物は、もうおわかり頂けると思いますけども、汚染地で取れたものであります。まあこういう状況が今も続き、これからも多分ずっと続くでしょうね。次お願いします。

 汚染地でしかも強制退去された学校はこのままですよね。教材がみんな散らばってますけども、学校はこういう。ですから驚かすわけではないですけども、一つ事故が起こった時にはそういう近辺の地域はみんなこういう状況になって、誰も住めなくなるというわけであります。次お願いします。

 こういう悲しい話ばかりしてるといけませんから、最後に少し夢のあるお話させてもらいます。私は、現地で3年半になりますけれども、向こうにいますとですね、チェルノブイリに関する報道は、ちょっとおかしんじゃないかと、日本における。ただ悲しい、切ない、要するに可哀想だ、可哀想だという形でもって、いつも日本の方が上でむこうの現地の子供たちが下にいるっていう感じでいるもんですから、いやそんなことないんだ、あの子供たち確かに、非常に苦しみ悲しみを背負っているけども、一生懸命生きてるんですよね。そしてその笑顔をいつもつくり、そしてむしろ彼等のほうが遥かに日本の子供たちより生き生きしてます。それはなぜかなあと考える。答えは出ませんけれども、多分ひょっとしたら、彼等はああゆう汚染の中で生きて行かなくちゃいけないと、しかしだからこそ精一杯生きようと、そして命を大切にしていこうっていうそういう思いがあるから日々手術を受けた子供、いつもニコニコして、じっと悲しみに耐えているってそういうようなことがありましてですね、遥かに日本の子供たちより心が豊かなんです。そこで私はですね、そういう意味でいくならば一度日本の子供たちと交流の場を持たせて、その後子供同士の交流を作りながらお互いを支え合うそういう気運が生まれないかと考えておりまして、昨年の夏に私のところにある女性が子供を連れて、検診にきまして、それを聞きましたところその後であなたはどこのだれですかと聞きましたら、彼女が実は私は汚染地に住んでおりましてゴメリ州で、事故の後で子供たちが明るく強く生きてもらうために少年少女の子供アンサンブル。音楽舞踊団を結成したということで、ああそうですかっていうことで、そういうコンサートをヨーロッパにも行ったし、行っているんですよということで、その時に私が日本に来る気はありませんかったら、是非行きたいと、日本っていうのは夢の国だと、もう皆んなも行きたいと言っていると、そこで私は昨年夏に帰国しまして、そして私が呼ばれた弘前市とか青森市とかあるいは長野県内の小学校、中学校とかそういうところで、実はこういう話があるんだけれども、子供の交流を中心にして、決してチャリティーではないと、子供同士同じ目の高さでもって、語りあってそして今後お互い支え合うようなそういうチャンスを作れるようなコンサートを開きたいけどどうですかと言ったら、市民グループの方々が是非やりたいということで、昨年夏以降、私FAXのやりとりしながら、この夏にその公演が行われてですね、大変好評っていうは自分でもおかしいんですけども、お互いの交流ができる素晴らしい会が生まれたわけでございます。残念なことにもし柏崎で本当はこの講演会が昨年やってましたら、多分僕は今日こんなに沢山いやっしゃいますから、子供の交流公演ができたらですね、できるはず、これだけ皆さんいたら素晴らしい公演ができたと思うんですけども、いつかビデオでお見せしますけども、日本の各地区でもって素晴らしい公演が出来まして、この公演がきっかけになりまして、次のお願いします。

 同時に私は、これが子供たちなんですけども、見ていただくと本当に、汚染地に子供たち、先程の地図ありましたけれども、黄色い所に住んでいる子供たち、一生ここで生きて行くんですけども、本当見てもらったらわかりますけれども、子供らしい素直な表情してますし、生きてますね、この子供たちの交流がスタートしたわけです。次お願いします。

 私そこでもって、検診頼まれたもんですから行ったときの写真です。と同時に今度は子供同士いよいよ文通が始まりまして、英語でやってますけども、もう私の役目は終ったんですけれども、ここまで持っていけば後は子供同士でもって今度はお互いに文通しながら。私はもう一つチェルノブイリを考える時にですね、ここにいらっしゃる大人の方が一生懸命チェルノブイリ考えますけれども、しかしどうでしょうか子供たち、若者たちがどこまで考えていますか。これからやっぱりこういう運動を展開していくときにやっぱり次の世代へ移行しなくちゃいけないときにですね、どういう形でやったらいいのかと、なかなか若者たちに原発のことを考えてもらうの難しいと、そういう中で私もうお隣じゃなくて、あの現地に住んでる子供たちと日本の子供たちと交流させることによって、ナターシャちゃんはユーザちゃんは、あるいはエレナちゃんは、ああそうかあそこで生きてるのかと、そこは原発か、汚染地かということで、事故によって汚染されたあそこかっていうことで初めて原発っていうものはどういうものかっていうのを考えさせる、そういうきっかけを、自分たちで考えさせる、そういう場を大人たちは考えてあげる必要があるんじゃないでしょうか。私はそう思いまして、今回こういう橋渡しだけさせてもらって、後は彼等の問題で、今後これが大きく広がっていけばいいと思いますけれども。昨日も新潟でも子供たちを保養で受け入れたご家族がありまして、その後交流はどうですかというとやっぱり立ち消えなんですよね、それでは意味がなくて、私としては、それからどんどん広げていかなくてはいけないと、その為には大人がもうひとはだ脱がなくちゃいけないと。私も今までお見せしましたように月曜日から金曜日は病院で働いて、土日は300km離れた遠隔地行ってああゆう検診したり、子供のところ訪ねていって、それ以外にこういうことしてるとか、今回添乗員やりましたんですけども、19人の子供たちをつれて大変だなあと思いましたけれども、自分の健康が許す限りやっておりますけれども、一応私としては、そういう橋渡しを確かに忙しいけども、その中でもってもし子供たちに対しての何か出来たらぜひやってもらいたいと思っております。次お願いします。

 そろそろ最後ですけども、これはゴメリの汚染地です。今日こちらに来るとき、柏崎来るときにですね、特急に乗って本当素晴らしい新潟の穀倉地帯ですよね、おいしいお米が出来て、おいしいお酒が飲めるんですけども。ここ汚染されてるんですよね、するともし、へんな話ですが、あれは汚染されたら全部廃墟ですよね、誰もいなくなるんですよね。100年位住めないでしょうし、そういうことはやっぱり我々はそろそろ考えていかないと、それは自分の問題じゃなくて次の世代、あるいは次の世代のところまで考えて、もう一度やっぱり日本人っていうのは、自分たちの国のことを考える必要があるんでしょうね。もちろん皆さん今日お集まりの方考えていらっしゃるんですけども、継続していくべきでしょうね。次お願いします。

 ゴメリのりんごの花です。岸恵子さんがベラルーシのりんごっていうエッセイ書いてますけれども、本当にきれいですよね。汚染地にも春が来ると、忘れずに自然はこういう美しい咲かせてくれます。次お願いします。

 同じように非汚染地ですけども、汚染の国日本でも素晴らしい桜が咲きます。古き先人たちが日本の美しい自然を残してくれました。私たち今の大人たちはそれを次の子供たちに、きれいな日本、あるいはまた素晴らしい日本を残していく義務があるんではないでしょうか。私はこんなこと言える柄ではないんですけども、日本を去ってあの国にいて初めて、核の汚染っていうのは大変なことをしてしまうんだということを、毎日感じております。今日お見せしたスライド一部ですけども、皆さんが感じてもらえば私は本望でございます。次お願いします。

 これが最後ですけれども、ゴルバチョフさんがですね、NHKの番組で言われたときの言葉として、私は私でもって今の支援活動して医療活動しているときの思いですけども、この言葉は皆さんにも共感を得るんじゃないかと。「人々の意識を変えていくことが、重要なのです。人間の意識の変化は一度に起こるものではありません。受け入れる人もあれば、受け入れない人もいると、ここに行き着くには、長い道のりを歩まねばなりません。本当に長い道のりが。」ということでございまして、私の道のりも長いんですけれども、もう暫くがんばってみようと思っております。また今後皆さんとお会いできて、支援頂くことがあるかもしれませんけど、どうぞよろしくお願いします。今日は大変雑多な話だったんですけども、皆さんの前でいろんなお話させてもらうことができて大変感謝しております。どうもありがとうございました。 (拍手)


(質問)

 私6、7年前に、2週間ほど東大の小泉さんなんかのグループと一緒にあそこに行かせてもらった経験があるんですけども、それでロシアが経済的非常に困っているっていうようなことは一般に分かっているんですけど、どの程度に困っているかっていうのが実感として伝わらないと思うんですよね。先程先生のお話の中で、お医者さんたちの月給が日本円に換算して、3600円位だと、こういうようなお話で、それでだいたい一般の方わかると思うんですけど、たまたま私が行かせてもらった時には、計算しやすく、1ルーブルが1円というようなときだったんです。その頃ゴメリ州立病院の小児科医長さんが、私の月給は3500円位だとおっしゃっていました。私共がお土産に持っていったウイスキーのビンを指さしながら私の月給ではこれ一本買えませんよね、と笑っていらっしゃいました。チェルノブイリの事故のあったところで、働いている一般の労働者がどのくらいだかわかりませんけれど、私共の通訳をしてくだすった方はそこのどういう立場の人だかちょっと分かりせんけれど、その人はその時、月給が3万ルーブルというような事を言ってましたから、一般の人の10倍位もらっているような感じですよね。そういう意味で、だいたいどういうような状況なんだという事をお話しして下さると先生の話が実感としてお分かり、みんなから分かっていただけるんじゃないかなというような感じがしているんです。私が行ったときには、小学校に長く勤めていて、そして若手の先生方を指導する立場にあるとおっしゃった方が、2800ルーブル、2800円位、普通の小学校の先生方が平均すると2500円なんかもってないんじゃないかなっていうようなお話でした。私共を案内してくれた通訳の方は、若い方30歳位の女の方でしたけれども、モスクワ大学を卒業した人でその人の月給が1000ルーブルだと言ってましたね。年配の方は、私は1200ルーブルだ、とこういうふうに言ってましたので、なんか1000や1200円でなかなか生活がどうやってできるのかなという部分もあるもんですから、私は旅の間にいろいろ聞きましたから多少はわかるつもりですけど、そういう部分をお話していただくと今の話がもろわかるんじゃないかっていう感じがしたので、ちょっと質問します。

(回答)

 ご質問の中でですね、多分ルーブルでベラルーシルーブルとまたちょっと違うと思います。今ロシアのルーブルでございますね。ベラルーシルーブルもっとひどいですからね。月給等に関しましてですけれども、先程申し上げましたように、一般の方々の給料っていうのはですね、多分、どれくらいですかね、15ドル位じゃないですか、ならすと。ドクターの場合は多少良くて30ドル、それでもそういう額ですからね。それから先程言いました、田舎の方っていうのはひょっとしたら10ドルいってないんじゃないですか、2つの職業をしてても。ですから一般的な給料がだいたい15ドル位と考えてもらえると。

(質問)

 私が行った時には、コルフォーズなんかで、トラクターの運転なんかをしているようなちょっと技術を持った先端的な機械が出来るというような人はその人たちは割合に良くて、5000ルーブル位でした。

(回答)

 ベラルーシルーブルですか?ルーブルですか?

(質問)

 ルーブルだと言ってました。

(回答)

 ベラルーシの人ですか、ロシアですか?

(質問)

 通訳の方はロシアの人でした。

(回答)

 ですから今の給料っていうのはベラルーシルーブルですか?

(質問)

 私の行った時のあれは、ベラルーシでの聞いた話ですから、ベラルーシの。

(回答)

 ベラルーシルーブルですね。

 今インフレですから、とにかく40万ベラルーシルーブルが1ドルですからね。結局インフレはどんどん進みますから、給料は上がりませんから、逆に言ったら、給料下がるわけですよね。諸物価が上がっても、スライドして給料上がりませんから、結果的には逆に給料下がっちゃうというそういう状況ですね。

(質問)

 お話の中で、チェルノブイリのことがなかなか伝わってないっていうようなお話もありましたが、私もそれ実感していて、日本でも事故の直前の4月24、5日位になると、NHKなんかも一年に一回くらいやりますけれども、正確な情報が伝わらないんですよね。今日は初めて、ヨードですかね、ヨーソの濃度のデータとして伝わったですけど、私共が聞いている汚染の地図いうのは、セシウムですよね。その辺でああゆうような情報をできるだけ私共にも回るようななんか対策をどこかで立ってもらえないのかなというのが一つありますよね。そういうことをお願いしたい。

(回答)

 出来るだけそうしたいと思っておりますけれど。こういう情報っていうのを、あんまり公開してほしくないっていうのも、あの国の事情なもんですから、私が今日お見せした放射性ヨードのこういうものっていうのは、極秘でしょ。お見せしております。ですから、みなさん方手にはいらないと思いますし、それ以外データというのも、世界に発表してないことをみんな私、デミチク教授から、私日本に行ったらこれを発表していいですよってことで、許可もらってやってますけれども、これをどっか載せることは一応まだ公に出てませんから、今日はここに来ていただいた方だけにアップトゥデートの一番新しい情報をお知らせしているという状況でございます。

(質問)

 放射性ヨードの残存期間というのはどの位なのかなというのが、ちょっと素人なんでわかんなんですが、初期対策に非常に重要だと思うんですけれど、ただそればっかりじゃなくて食物連鎖とかもあるんだと思いますが、それが一点と、あと甲状腺ガンっていうのは早期発見、早期摘出手術をすればとりあえず生命には別状ないと思うんですけど、それが遅れた子供、そういう子もけっこういるのかなと、いうのをもし先生が分かっていたら、教えていただきたいと思いますし、今後の大人の甲状腺ガンもってるんですけども、そういった子供たちそれ以外の子供たちも含めて二世、三世への影響は医学的に考えると先生どうでしょうか。あと最後なんですが、柏崎ではプルトニウムを混ぜた燃料、MOX燃料というのを原発に混ぜてやるらしいんですが、それがもしこういう状態になったときに、どんなふうになるのかなと、医学的に先生が分かる範囲で教えていただければと思います。

(回答)

 こういう質問来ると僕もお手上げになって、実は恐れていたんですけれども、前半の部分をお答えします。

 放射性ヨードの半減期が1週間、だいたい8日ですから、そうするとこれがもし外界に洩れた場合の甲状腺への影響っていうのは、だいたい半年で消えます。あとはほとんど影響ないと思います。ですから先程の初期対策という意味では早い時期にヨードを与えるということで、昨日も申し上げたんですけども、本当は事故の起こる前に、前日に子供にヨードを飲ませておけばこれほどいいことはないです。ですから、せめて情報公開がはっきりしましたら、すぐ投与して下さい。ポーランドでも4日目にやってもあれだけいい成績でございますから、よろしいと思います。それから甲状腺ガンのことにつきまして、子供のガンですけども、600人のうち現在亡くなったのは1人だけなんですよね。甲状腺ガンっていうのは、非常にたちのよいガンなんです。だからこそ余計気の毒なんですよね。ガンを持ったまま生きていくわけですから、そういう中で結婚して子供を産むと、そうしますとやっぱり当然伴侶の一緒にいる方も、ワイフ金かかってしょうがないよなって言って、そういうことだってうまれるといっしょにいるのやだなというふうになったりとか、いろんな問題が出てくるんですよね。でそのお母さんにしてみれば、自分自身が肺に再発するとか、骨に出るとか、あるいはまた、今言った子供さんへの問題ですけれども、少なくともその自分のガンが子供にうんぬんというのはそれはないと思います。子供さんに関してはまた別の形でセシウム、ストロンチウムを結局摂取してそして低濃度の汚染で生きていくわけですから、そういうものが蓄積した場合に、本人ならびに子供にどう与えるかこれは本当に残念ですけれども、世界で初めてのことで、これからもフォローしていくしかないんですね。データーがないわけですから、だからこそ、チェルノブイリは終ってないんだなと、僕は思ってますけれどね。それを子供たちの精神的な大人もそうですけども、サイコロジカルな面もサポートしていかないと、今後ですね、若い女の子が結婚しないとか、子供産まないとかっていう状況が生まれてますと、あの国が今度逆に衰亡していくっていう状況も考えられるわけです。それからもう一つ甲状腺ガンが予後がいいって言うことで、私今日本当申し訳ない広河さんに批判的なんですけれども、ああゆうたった一例のものをですね、出して、そしてやるってことは誤解を招くと思うんです。決して悪いって意味じゃないんですけども、あれだけでなくて残りの人は元気でいるんですし、これから夢や希望をもって一生懸命生きて行こうという、そっちの面もスポットをあててあげないとあの国がかわいそうすぎると思うんです。ですから私は日本人のみなさんは、いつもこう見ててとんでもない、同じで見てあげて、逆の立場だったらどうでしょうか。日本人はプライドがありますから、むこうからめぐんで貰おうというときには、どういう反応するか。だから私たちの態度っていうのはやっぱり、同じ目でもってみてあげて理解していかないといけない。ベラルーシに関してですけども、ただ、柏崎の問題に関しては、これはまったくもう別の問題で、ぜひこの世界の財産であるチェルノブイリの事故を有効に活かしていくという、そういう対策を考えていくことが、私は是非皆さん方続けてもらいたいと思っております。

(質問)

 柏崎の原発もやたら事故が起こってるんですけれども、事故が起こると放射能が外部に洩れておりませんで、必ずはんこで押したように東電の方は発表するんですけれども、その場合に、まあ実は昨日私薬局に行ってヨーソ剤を発注してきたんですけれども、まあいくらもしないうちに届くと思うんだけども、そのたんびに飲んでもかまわんでしょうかね。大変安いっていう話ですし、事故があったよっていっていいかげん経ってから、実は大変な問題だったんだって言われたときに、なんでいったいそんな100円でも200円でもそんな、その程度だったら何とかなります、かまわんでしょうか。

 それとあとBSN(放送)さんがこういう重大な所に、一社だけこられたということは高く評価しまして、それから刈羽村の中に有線放送っていうのがあるんです。原発事故についてはまず、ほとんどやらないんです。こっちから聞くと、原発を止めるような、そういう慎重な運転をしているから近藤さん大丈夫なんですてって、俺何度か言われたんです。そんなに安全なんですかねと、とぼけてましたけども、すなわち報道機関が、何時ヨウソ剤を飲むかっていう鍵をにぎっている訳だから、じゃんじゃんと放送して下さい。

 すぐ飲んでかまわんもんなんでしょうか。

(回答)

 薬局で売られているような、ヨウド剤を飲んでいいんですけども、もっと安いことはですね。柏崎は海があって美味しい物がいっぱいあるわけですから、海藻類とか昆布とかおさしみとか、そういう海のもの食べてればいいわけですよね。ですから買わなくても。普段はここの海の近くに住まれている方は、子供さんはみんな、かなりやっぱりヨードがたくさん入っていると思いますけれども、それ以上に採ると逆にホルモンが出来すぎますと今度はアクティブにハイになっちゃいますから、副作用が出ますから、そういう意味では飲みすぎは注意した方がいいと思います。ただ事故が起こったときには飲みすぎてもいいですから、甲状腺の中をですね、ようするにたちのよい無機のヨードで一杯にした方が安全ですね。普段食べているうえに、さらに余分に入れてもいいですから、その時は外からの放射性ヨードを入れちゃいけないわけですから、で日常生活ではどうかと言われたら、普段は飲まなくてもいいじゃないですか。ただ、

(質問)

 事故が起きたよっと言ったときに、BSNが発表したときに、言われたときにそういうときにどうしたらいい。

(回答)

 そういう時はすぐ飲んで下さい。大量に。それは大人でなくて子供さんに。今日お見せしたように、チビであればチビであるほど。一歳未満の子があれだけ事故当時ガンになっちゃってるんですよ。だから小さい子ほど、それは溶かしって言うか工夫して、今回の場合、ポーランドは溶液ですから飲めるわけですよね。今度こういうその今の錠剤でしたよね今日、ただああゆうものがはたしての3ヶ月の子供にどうするかっていうと、つぶしてやるとかそういう具体的な、驚かすわけじゃないですけれども、そこまで考えておいたほうが安全ではないかと思っております。よろしいございますか

(司会)

 あとどうでしょうか。柏崎の場合は、まあ多いと月一回位のペースで止まる場合があるんですけれども、それ位でもそう問題ではないと、それはもういいですかね。

(質問)

 私が申し上げたいことは、柏崎の原発は事故起こさないっていうお話のようですけども、今聞きますと一月にいっぺん位止まるとか言われてますから。そういうことがありますから、今日お見せしましたように、予防対策でなくて、逃げてください、早い話、ここは。結論はそうでないですかね。ここは全部だめになりますから。逃げるときにヨードを飲んでると。わかりますか。今日お話してるのは、これはもうチェルノブイリでなくて遥かに離れたとこでやってるわけですから。原発のところはみんなもう30km以上全部住めないわけですから、だから万が一、いやそんな深刻な顔すると困っちゃうんですけど、いや起こればここには住めないんじゃないですか? 基本的には。じゃないの先生。

(司会)

 そうですね。先程、先生チェルノブイリも行ってこられたということですけど、30km位まで住めないですかね?

(回答)

 30kmゾーンは住めませんよ。廃墟です。

(司会)

 ここが7、8km。

(回答)

 それじゃもう答え出てるじゃないですか。だからもう30kmゾーンで、だから30kmゾーンはだめですから、もちろん100kmもダメですし、それから風むきによってはやっぱりもっと離れた所だって、ゴメリ市だって、あれみんな150km位離れているわけですからね、それでも、高汚染地スポットになってますし、200kmダメですから風向きで。よろしいございますか。そういうことです。

(質問)

 放射性ヨードの他にも、半減期の長い放射性物質というのはまだ相当残っていて、ちょっとやそっとの年月じゃ減らないと思うんですが、そういう長期的な被曝に対する、データーといいましょうか、あんまりデーターなんていう言葉は好きではないんですけれども、そういう影響の病気っていうのがどの程度出ているものなんでしょうか。

(回答)

 今作ってるんですよね。今ですからセシウムやストロンチウムっていうのは、半減期が30年ですよね。そうするとまだ半分も経ってないですね。事故後13年ですから、半減期のまだその半分もいってないわけですよね。先程見せたあれみんなストロンチウム、セシウム、それからプルトニウム含めて全部汚染されて、プルトニウムって半減期が、でね。半永久ですよね。ですから今の汚染地30kmのここ7kmでしょ、わかりますでしょ。100年以上使えませんよ。だから今の世代ということじゃなくて、子供、孫の世代までいきますから、そこを考えなくっちゃいけないということなんです。使えないですよ。ですからきっと日本のどっかに移住アパートが出来て、そこに住まなくちゃいけないと思います。ということなんですけども、チェルノブイリを現実に言ってみますとね。30kmゾーンはぜんぜん住めませんよ。

(質問)

 具体的に、体の病気といいましょうか、そういうのってのは。

(回答)

 これからなんです。今見てるんです。だから世界で初めてのことであるから、チェルノブイリっていうのは、大変大事な世界の財産であるから、終ったんじゃなくて、これから見ていって何が出るか、ですから低濃度の汚染地に住む、先程の可愛い子供たちは住んでいかなくちゃいけないんです。だからいつも、そういうことを背中に背負いながら、一生を送っていって自分たちに何、今後病気出るかもしれませんけども、それをフォローしなきゃいけないし、そういう状況を今度は遺伝子のレベルで行くと次の世代に何が起こるかですね。これはもうデーターないんです。

(質問)

 ものすごく時間がかかる。

(回答)

 ええ、生きてませんよ。もう、

(質問)

 そうですね。

(回答)

 そうですよ。死んで何代かしてからデーター出るんですから。だから僕達は見えないけども注意しなくちゃいけない。将来の問題として。あるいは結果的には何も出ないかも知れませんよ。だけど少なくてもやっぱり我々は汚染の所で生きるべきではないと、生活すべきでないと、こんなこと誰も分かってると思いますけどね。

(司会)

 だいぶ長くなってしまったんですが、最後これだけはというような方いらっしゃいましたら。

 いいですかね。そういうことで今日は本当にありがとうございました。もう一度大きな拍手で。

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