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剣野地区の公共施設等

1 剣野保育園 〈所在地 柏崎市剣野町1-11〉

 剣野保育園は、市の中心部よりやや南に位置し、鵜川の流れに沿った所に柏崎市の公立保育園、90名定員として、昭和51年 4月 1日に木造平屋建てで創立された。
(敷地面積2,278.73平方メートル、建物面積479.23平方メートル)
 その後、昭和57年の鵜川の激特事業や豪雪地からの転居により、新興住宅地として急激に住宅が増加したため、昭和58年度に社会福祉法人米山台保育園が近くに新設された。この影響で、定員割れとなった当園は、昭和60年に定員70名に削減された。
 しかし、その後剣野周辺には団地やアパ−ト等も増え、若い家族が多くなってきて昭和63年には装いも新たに明るい園舎に改築され、この期に80名定員となったが依然として増加傾向にあり、現在は定員オ−バ−の状態である。
 三島神社の森という自然に恵まれた素晴らしい環境にあること、近隣には赤坂山公園をはじめ沢山の公園や施設があることにより、豊かな自然と良い地域環境のなかで、広がりのある保育と、一人一人の子供が伸び伸びと個性を存分に発揮できる保育が行われている。

保育目標

 年間行事は 4月の入園式に始まり、各月に 2〜 5回の行事が行われている。また、毎月誕生会・避難訓練・発育測定を行っている。
組分けは ぞう(5〜4歳) パンダ(4〜3歳) うさぎ(3〜2歳) りす(2〜1歳)に分けられ、園長以下11名の職員によって保育が行われている。
 早朝保育は午前 7時30分から、長時間保育は午後 6時までで、未満児保育は概ね 1歳から。園庭の開放、地域交流、卒園児交流、保育前児交流、育児相談、アトピ−除去食指導などが行われている。

2 米山台保育園 〈所在地 柏崎市米山台東4649-6〉

 米山台保育園は、柏崎の街並みを眼下に見渡せる高台に建ち、園庭の奥は自然がいっぱいの裏山へとつづいている。赤坂山公園にも近く、子供たちを心豊かにのびやかに保育するにはたいへん恵まれた環境にある。
 昭和50年代の中頃、宅地造成がさらに進められ人口が急増していた米山台地区で、保育所設置の要望の声が高まり、昭和57年 8月に保育園の経営主体である社会福祉法人・柏崎市保育事業協会が設立された。そして、昭和58年 4月 1日米山台保育園が開設された。園舎は赤い屋根の平屋建てで、建物面積が371.81平方メートル、敷地面積は2,202.86平方メートルある。

保育目標
自分の思っていることをはっきり言うことができ、最後までやり通す忍耐力をもち、相手の気持ちを尊重する思いやりのある人に育てる。

 保育定員は当初は60名だったが、開園以来園児数が45名前後で推移してきたため現在は45名となっている。職員は園長以下 9名で、行き届いた保育が行われている。保育時間は、午前 8時30分から午後 4時まで(土・正午まで)、長時間保育は、午前 7時30分から午後 6時までで、0歳児から受け入れている(平成10年度)
 年間行事は、春・秋 2回の遠足をはじめ、七夕祭り、運動会、いもほり、クリスマス会等、楽しい行事がたくさん計画されている。他に、体育教室、誕生会、身体位測定、避難訓練が月例で実施されている。

3 剣野小学校 〈所在地 柏崎市常盤台25-24〉

 剣野小学校は、平成 4年度、旧三中跡地に、大洲小学校、枇杷島小学校から分離・新設されたもので、剣野町、三島町、常盤台、米山台、新赤坂町から子供達が通学する。また、西部地区調理場を併設していて、剣野小学校、大洲小学校、鯨波小学校、第三中学校の給食を担当している。
 昭和39年12月に、現在の国道8号線が開通し、これに呼応するかのように、当時松林だった大久保地内に宅地が造成され、米山台団地が誕生した。同様に、常盤台、三島町、剣野町でも住宅が増え、人口が急増していった。
 昭和40年代になり、子供の数も増え続け、「この地に学校を!」の声が高まった。地元の人々が力を合わせ、市に対して学校設置の運動を展開。昭和59年12月のようやく新しい学校の建設が決まったという。そして、平成 4年 4月 1日に、“剣野小学校”が開校の日を迎えたのである。剣野小学校の名称は、江戸時代の頃からこの地一帯が剣野と称されていたことから、歴史的に考えてもふさわしいとして決定されたということだ。
“いきいき遊び、いきいき学ぶ子”の教育目標のもと、児童数434名(14学級)、職員 32名(含、調理場)でスタ−ト!精力的に学校運営が進められていった。敷地内には、剣野ランド、トリムコ−ス、みまもりの里等、子供達のための環境整備も計られ、地域にも開かれた学校として注目を浴びた。
 平成 8年度には、 5周年記念事業が実施され、それに先立って記念誌も刊行された。
 平成10年 3月には、第1期新入生達が卒業し、中学生となった。また、現在、念願のプ−ルの改築工事が行われている。今度の夏は、新しいプ−ルで子供達の歓声があがることだろう。
   (平成10年11月現在 児童数429名〈13学級〉、教職員23名)

4 第三中学校 〈所在地 柏崎市新赤坂町2886-1〉

 第三中学校は、平成 2年に現在の新赤坂町の校舎が完成し、剣野、大洲、鯨波、米山、上米山の 5つの小学校区から生徒達が通学している。米山や日本海、赤坂山方面が望まれる気持ちのよい丘の上に建っているが、冬は風雪がきびしく、通学する生徒達の苦労が、思いやられる。
 第三中学校は、昨年度(平成 9年度)創立50周年という節目の年を迎えた。ここまでの長い年月の間には、何度かの校舎の移転、分離、統合の歴史があった。

昭和22年 5月16日 新しい学制の施行により新制中学校として開校したが、戦後の混乱期で校舎は無く、柏崎小学校の体育館を借りて一中、二中、三中合同の開校式が行われた。授業は枇杷島、大洲、鯨波の各小学校や、柏崎農学校校舎の一部を使用して、先生方がそれぞれの校舎に出向く出張授業形式で、大変ながらも、のどかな光景が想像される。
昭和23年 4月 5日 新潟鉄工旧青年学校校舎(柏崎駅前)の使用を開始。学芸会や展覧会も開催され、活発な教育活動が展開される。
昭和33年12月12日 剣野地区の新校舎(現在剣野小学校がある所)へ移転。翌34年には体育館も完成。
昭和35年 3月 6日 校舎落成式
      11月 3日 9月に制定された校歌の披露式が行われた。
(作詞 宮沢 章二  作曲 下総 皖一)
昭和39年 5月23日 プ−ル完成竣工式。
昭和44年 4月 8日 市学校給食センタ−方式による完全給食開始。
昭和55年 4月 1日 上米山中学校を統合。
平成 2年 4月 1日 学校の分離・移転により校舎改築され新校舎(当時 大久保2886-1)で校務開始。鵜川東岸地区は、新設の鏡が沖中学校へ分離。
平成 3年 8月30日 プ−ル完成、学校に引き渡し。
平成 6年 4月 1日 米山中学校を統合。
平成 9年11月 2日 創立50周年記念式典、祝賀会、開校記念碑建立、50周年記念誌刊行。
平成10年 3月 武道場完成。

(平成10年11月現在、生徒数469名〈14学級〉、職員数29名)

5 赤坂山浄水場(急速ろ過池)〈所在地 新赤坂町1960〉

 赤坂山浄水場は、第三中学校の南東方向、市道をはさんで向かい合った丘の上に位置する。その敷地面積は、130,200平方メートルと広大で、給水能力は、76,160立方メートル/日、配水池容量は、 25,428立方メートルある。管理本館を中心に、沈澱池、ろ過池、配水池、調整池等が配置されている。また、5拡、6拡配水池の地上部はテニスコ−トとして利用されている
 柏崎市の水道は、昭和13年の創設時に川内ダムが造られて以来、 2次にわたる拡張工事で谷根川からの導水トンネル(延長2,334m)を築造、第5次拡張工事で谷根ダム(昭和44年完成)、第6次拡張工事で赤岩ダム(平成元年完成)が建設された。こうして、全国的にも例を見ない3つの水道専用ダム(総貯水量5,115,000立方メートル)が市民の生活を支える水がめとして完成したのである。
 赤坂山浄水場は、第3次拡張工事(S.39.4〜S.41.12)で建設され、第4次〜第6次拡張工事(昭和43.4〜平成3.3)にかけても、拡張・整備されてきた。現在では、赤岩・谷根両ダムから80,100立方メートル/日の原水を受け入れて、
 @着水井・フロック形成池 = A薬品沈澱池 = B急速ろ過池 = C塩素・滅菌処理
の過程を経て、配水池に蓄えられ、必要量に応じて各家庭や工場等へ配水されていく。ろ過工程で出る泥水の処理施設も備えており、上澄水は排水池に放流され、汚泥は産業廃棄物として搬出されている。
 管理本館3階では、 3つのダムの原水取水から赤坂山浄水場及び遠隔地の水道施設18ヶ所を100インチスクリ−ンに投影し集中監視操作している。
 真夏には、ダム取水口の切り替えをして、水深の深い所から原水を取るため、摂氏10度位の“しゃっこい水”が届けられて、大変喜ばれているとのこと。

6 国道8号線

 国道8号線の拡巾改良が行われたのは、昭和36年 5月から昭和41年の満 5年有余の歳月を要した。
 工事に先行しての土地買収には、担当の北陸地方建設局長岡工事事務所の用地担当官が、柏崎市を 5月に訪れ、土地買収の進め方の協議が行われた。そして、昭和36年 6月長崎新田で町内会で代表者の参集を求めての説明会から始まり、西中通地区、山本地区、新田畑地区、下原地区、枇杷島地区、剣野地区、青海川地区、米山地区で昭和40年 4月までの満 4年の歳月を経て用地買収は完了した。同時進行で行われた工事も昭和38年 8月鵜川橋完成、昭和40年 3月米山トンネル完工。これで市内長崎から鯨波福浦海岸まで約 8qのバイパス部分全部が開通した。また、翌昭和41年11月 6日米山大橋竣工式をもって完結した。
 用地買収の折衝開始から満 5年有余の歳月を経て柏崎市の全区域は完了したのである。地盤が非常に悪く大変な工事であった。

7 与助道路

 市内大久保から、年金ホ−ム越路荘へ行く途中、「与助道路」という碑がある。公共の道路に個人名が付いているのは珍しい。これは、昭和15年に当時日米水産株式会社社長だった故五十嵐与助氏が、この道路建設費を寄付したので命名されたのである。
 この道路は当時、赤坂山に傷痍軍人療養所(現国立療養所新潟病院)が建設されたために、大久保や中浜から剣野山への山道が無くなったので地域住民のため、新しい山道を造らなければ成らなかったのである。この道路は、今の国立療養所新潟病院を一周する道路となっている。新国道の開発により一部国道となったが、剣野公民館の前より剣野小学校の前の道を通り剣野町にむかう道路に続いている。

8 金曲輪橋・新金曲輪橋

(1)金曲輪橋
 宮場町の鵜川神社近くには、河川改修前の鵜川の流れが現在も残っている。剣野地区から新金曲輪橋を渡って100m程のところに、この流れに架けられている小さな橋が金曲輪橋である。
 この辺りは、枇杷島城城址にあたる。城は平城で、本丸(現・県立柏崎農業高等学校)・二の丸(東曲輪)・三の丸(金曲輪)から成っていた。
 金曲輪とは、金;堅強な、曲輪;郭・廓とも書かれ、城等の囲いの意。ここを流れる鵜川に渡された橋が、この金曲輪橋だった。
 古くは木製の橋だったが、昭和9年に工費約2,000円をかけて架け替えられ、橋長15.52m、幅員 5mの現在の橋となっている。

(2)新金曲輪橋
昭和34年に、鵜川の改修に伴って架けられた橋が新金曲輪橋で、剣野地区と枇杷島地区を結ぶ掛け橋ともいえる。昭和53年に、上部の木製部分が現在のものに架け替えられている。橋長53.01m、幅員4.00m。
 さらに、三島神社前の道路拡幅工事に併せて、現在の橋の上流に新しい橋の建設が進められている。平成 4年度より用地買収、家屋補償、調査・設計等に取掛かり、平成11年度には完成の予定である。完成すると、橋長82.70m、幅員10.00m(車道7.5m、歩道2.5m)の鋼橋が出現する。総工費12億5,000万円(予定額)。

9 鵜川水害の歴史

 鵜川は、その源を尾神岳(標高757m)に発し、阿相島川、折居川を合わせ、清水谷を経て野田地内で田屋川、さらに芋川・軽井川等を合わせてから柏崎市街地を貫流し、日本海へと注ぐ。流域面積112.4k平方メートル、全長24.6qの2級河川である。
 剣野地区と枇杷島地区の境界線ともなっているこの鵜川であるが、かつては大きく蛇行していて、大雨の度に氾濫し、水害の歴史を繰り返してきた。(古いものでは、安政 6年〔1859年〕に氾濫して多くの田畑が被害を受けたという記録もある。)
 終戦前後からの水害の記録を簡単に記してみよう。
昭和19年 7月21日 柳橋、駅前通り、枇杷島地区浸水。
昭和20年 7月16日 柳橋、駅前通り、広小路、枇杷島地区浸水。
昭和34年 7月21日 柏崎農業高等学校周辺、柳橋、枇杷島地区浸水。
昭和44年 8月 9日 関町で床上浸水100戸、柳橋地区浸水。
昭和53年 6月26日 柏崎駅と駅前通り、南光町、関町、城東、宮場町、穂波町、幸町、常盤台、柳橋地区など広い範囲に被害がおよび、氾濫面積は758ha、浸水家屋は2,163戸におよんだ。枇杷島小学校では床上浸水80pだった。大久保の帝石中央鉄工場構内でも、80pの高さまで水が溢れたという。この時の被害総額は64億円に達した。

10 鵜川改修工事

 鵜川の本格的な河川改修は、昭和25年より取り組まれて、本川や支川で策堤、護岸および河積拡大(流水量の拡大)が進められてきた。大きく蛇行していた柏崎農業高等学校付近の改修も昭和34年に行われ、新金曲輪橋が架けられた。しかし、その後も水害は収まらず、区間伸長を行って改修工事を進めていたが、更に昭和51年、53年と水害が続いた。
 特に、昭和53年 6月26日〜28日の豪雨は、国道8号線や信越線を不通にし、柏崎市街地にも多大な被害を与えた。そこで、本川下流部の特に被害の大きかった柏崎市中心部の蛇行部を捷水路(まっすぐで流れの速い水路)にする計画が、昭和53年 8月、激甚災害対策特別緊急整備事業(激特)により実施されることになった。
 捷水路の工事区域は、市街地の住宅密集地にあたり、移転戸数も162棟と多く、用地交渉は難航を極めた。が、市による代替地造成、あっせん等により、昭和56年度より本格的な移転が開始された。工事は、上流部の国鉄橋や国道橋の狭さく構造物を先行させるとともに、住宅密集地に対しては、騒音や振動、残土搬出等に細心の注意を払いながら、県道鵜川橋、市道大洲橋を完成させた。第一段階として、昭和58年 3月に半川通水を行い、残りの掘削土を当時の現川に埋めて処理し、ようやく昭和59年 3月、地域住民の念願であった鵜川捷水路が完成した。現在、旧川は、街路・緑地帯等として活用されている。
 鵜川改修工事は、現在も軽井川付近で行われているし、上流では、鵜川ダム建設も計画されているとのことだ。

11 剣野公民館(コミュニティセンタ−)      〈所在地 柏崎市常盤台25-5〉

 平成 8年 4月、剣野地区民にとって待望の剣野公民館(コミュニティ)が、地域の拠点施設として開館した。剣野地区では、平成 4年度に剣野小学校が、大洲小学校と枇杷島小学校から分離・新設され、これに伴って、文部省の設置基準によって公民館の設置が決定した。平成 7年に入って用地造成(国道8号線脇、北陸農政局新潟統計情報事務所柏崎出張所跡地)が進められ、同年 7月には公民館建設に着手、平成 8年 3月に完成、 4月に開館したのである。一方、地区では以前から長期計画に基づいてコミュニティセンタ−の準備が進められていたが、ここに公民館とコミュニティセンタ−が共に完成した。建物は、鉄筋コンクリ−ト 2階建てで、広さは831平方メートル。内部は、一階に大会議室、研修室、図書室、調理実習室など、二階にはバレ−ボ−ル、バドミントンなどができる講堂のほか、屋上には人工芝を張り、ゲ−トボ−ルの練習にも使えるように配慮されている。総工費は約 3億2,800万円。柏崎市では24番目の公民館になる。
 公民館では、“地球にやさしいおらが剣野”をモット−に活動を開始し、生涯学習講座“ふるさと学級”では、地域の歴史や風俗、人物などについて学習してきた。また、子供達を対象としたファミリ−ネットワ−クの活動、異業種間交流の中でこれからの剣野地区を考えてゆく未来塾、福祉講座、中国語会話ル−ムなどなど、その活動には、これからも大きな広がりが期待される。

【参考文献】
『剣野小ものがたり』 柏崎市立剣野小学校編
『柏崎三中ものがたり』 柏崎市立第三中学校編
『移転・分離 記念誌』 柏崎市立第三中学校編
『子供とつづるふるさと大洲』 柏崎市立大洲小学校編
『柏崎市の文化財』 柏崎市教育委員会編
『柏崎の水道』 柏崎市ガス水道局編
『柏崎の水道』のあゆみ 柏崎市ガス水道局編
『柏崎の水道水源』 柏崎市ガス水道局編
『鵜川の治水事業』 新潟県・柏崎市編
『柏崎のいしぶみ』  
『根立政信氏 覚書』


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