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   新潟県柏崎市

剣野山縄文遺跡群

 (1) 剣野地区の縄文時代

鵜川下流の左岸にある河岸段丘や丘陵地帯に、縄文時代の人が住んでいた痕跡がある。
鵜川の氾濫を避け、魚を捕るのに河から遠くない台地を選んで集落を作った。これが剣野山縄文遺跡群である。
縄文時代の人々は家族単位の少数で、小さい動物を狩猟をしたり、木の実を採集したり、魚を捕ったりして生活していたが、大勢の共同作業が必要な、大きい動物を狩猟するときや、冬に備えて食糧を蓄えたり、厳しい冬を越すための準備に大規模なムラに集まって集落を作ったと見られている。集落の中央に広場を持つ集落は、食料の貯蔵庫を 持つ規模の大きい中心的なムラである。他の家族との出会いがあり、情報交換をしたり恋も芽生えたことであろう。広場のない集落は夏場の小さなムラと考えら れる。規模の大きいムラが一時的に衰退しても、同じ場所に再びムラを構築したらしいことも出土した土器から推定されている。
土器を使っているので、旧石器時代までは食べ物は「生」「蒸す」「焼く」だけだったが、「煮る」ことが出来るようになった。スープや菜類も調理して食べることができ、現代の食生活の基礎が出来たと思われる。
長期間定住していたことを示す、ゴミ捨て場があったことが確認されている。また墓坑らしい遺構もみられる。弥生時代になると人を殺傷できる大きい鏃などが出てくるが、縄文時代には戦争はなかったようだ。みんなが生きるために力を合わせていたのだろう。
弥生時代になると農耕に便利なように、田畑に近い沖積低地にムラを作るが、縄文時代も遅くなって沢内に集落を作ったところもある。
部分的にしか調査をしてないので、実態は不明なところが多いが、縄文人が生活するためにこの剣野山を選んだ事は確かである。

(2) 遺跡の調査・研究

剣野山縄文遺跡群の遺跡発見のきっかけは、戦後の昭和22〜23年頃の食料事情悪 化による山野の開墾にあった。当時結成されて間もない「柏崎先史考古学研究会」は、剣野山一帯の遺物採集などの活動を行っていた。その結果同会メンバーの 一人であった水地正吉氏(剣野町在住)が「剣野遺跡地図」を作図した。この地図には、A〜Eまでの5地点が記載されており、それらに「剣野」をつけて呼称 された。その後、剣野F地点が柏崎市立第三中学校敷地(現剣野小学校敷地)造成中に発見され、計6か所で構成される遺跡群となった。
しかし、剣野A遺跡は、昭和30年頃に自衛隊が演習と称して数mを削って平にし、その後新潟県立柏崎農業高等学校の実習農場となるなど大半が破壊されている。また剣野E遺跡も昭和50年頃までに順次宅地化等がなされ、そのほとんどが消滅している。さらに、剣野D遺跡にも墓地公園造成の開発計画が持ち上がった。しかし、すでにA・E・Fの各遺跡の大半が失われていたこともあって、保存の機運が高まって開発は中止となり、これを契機に昭和50年「剣野山縄文遺跡群」としての史跡に指定された。
B遺跡
B遺跡 標識が倒れていた
B遺跡
B遺跡 平成13年の調査2001/11/9
剣野E遺跡は、 昭和58年の県教委による調査で一部現存していることが確認された。その直前に剣野A遺跡の僅かに残されていた縁辺の斜面部分が、宅地造成に伴う工事によ り削られるので、事前に実施した確認調査及び発掘調査で、すでに史跡としての意義が失われていたことが確認されている。剣野山縄文遺跡群は、この外にも道 路改良工事等いくつかの開発が計画される度に、小規模な事前調査が実施されているが、そのほとんどが略報告であり、正式な報告や具体的な遺跡研究等は少な い。
剣野山一帯を踏査した柏崎先史考古学研究会の活動による分布図の作成は、開発により現在明らかにできない遺跡の貴重な記録であった。剣野山縄文遺跡群がある台地上は、その大半が市指定史跡であったこともあって、B・C・Dの各遺跡はほぼ原状のまま保存されてきている。B遺跡が平成元年夏に確認調査が行なわれ、更に平成13年国道8号線バイパス工事に関連して発掘調査がはじめられた。それ以外は本格的な調査がなされていないので、全体像は明らかになっていない。

(3) 遺跡の概要

船底状細石刃核
船底状細石刃核
柏崎市史にはA遺跡から採集したといわれる旧石器時代の石器(船底状細石刃核)が紹介されている。旧石器時代末にはヒトが住んでいたのか、縄文前期か中期に住んでいた縄文人が使っていたのか、出土したときの状況が判らないので明らかでない。
A遺跡は破壊されて現存していなく、出土している遺物は主として中期前葉のものが多いが、前期初頭から後期初頭までほぼ連続している。地形的にも規模の大きい遺跡だった。弥生後半の遺物を少し残している。
B遺跡出土の新崎式土器(柏崎市立博物館)

B遺跡も 中期前葉の中心的なムラだった。前期末・中期後半・後期後半・晩期の遺物もある。E遺跡との緊密な関連が想定されている。部分的な調査が行われている。住 居跡と見られる柱穴、地下への堀込みの少ない炉址などがあり、墓坑と思われる遺構もある。比較的大型の石錘が多く出土している。鵜川で漁撈が可成り盛んに 行われていた事を物語る。中期前葉に連続しない前後2つの時期に中心的な集落があったと見られている。平安時代の塚や鍛冶址も確認されている。
C遺跡は晩期中葉の一時期に短期間だけつくられた集落の址と見られている。土器はたくさん出ているが、不明な点が多い。この遺跡に関連のある遺跡は柏崎地方では見つかっていない。
D遺跡は柏崎市指定史跡の要といえる遺跡で、時期は後期初頭から中葉を主として、後期後葉の土器も採集されている。勾玉などの玉類や呪術に使ったと見られる石棒などか出ている。拠点的な集落があったと思われる。
E遺跡大半が消滅しているので不明な点が多いが、B遺跡と関連する中期初頭の小規模の集落だった可能性が高い。
F遺跡からは後期と考えられる土器や石器が少量出土している。主体は古代・中世で、中世の珠洲焼きの壺・擂鉢が完全な形で出土している。墳墓の骨蔵器かもしれない。
剣 野沢遺跡は沢内の低地にあり、晩期後葉の土器がまとまって出土している。このころ北九州では農耕を主とする弥生時代が始まっている。東日本は自然の恵みが 多かったので、農耕文化が入ってくるのが遅れた。またここでは平安・中世の遺物があった。年代が不明だが製鉄の址があり、隣接するB遺跡、剣野水上遺跡と の関係が興味深い。

(4) 剣野地域内その他の遺跡

三嶋神社遺跡は古墳時代の勾玉や管玉が出土したと言われている。古墳があったかもしれない。古墳が見つかればその被葬者(埋葬された人、この地域の首長、豪族の長)がいたことが証明されるが、柏崎市では今のところ吉井行塚古墳群のみである。ここは平安時代の遺跡でもある。
香積寺沢遺跡は中世の寺の址である。養魚池の下に何が残されているか。
剣野水上遺跡は平安時代の製鉄遺跡で、B遺跡や剣野沢遺跡と工人の交流があったのか、同じ工人が移動したのか。
渋柿遺跡は縄文時代、平安時代の遺跡であるとされているが詳細は不明である。
農業高校校庭遺跡から古墳時代前期と11世紀の遺物が採集されている。
新道地内になるが、下沖遺跡は平安時代の遺跡。

参考文献 剣野山縄文遺跡群:柏崎市教育委員会埋蔵文化財調査報告書No12(1990)


1999/4/28 UP
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