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まちの顔 中央地区ゆかりの人

石黒武久
和田イセ

中村毎太(葉月)
山田八十八郎
田辺松厳
桜井正義
小林多助
原吉郎
布施宗一
三宮登喜子
真貝新一
萩野秀雄
中村昭三
小熊哲哉
岩下庄治
松村正吉
佐藤平一郎
吉田高章
西巻進四郎

西巻達一郎
吉田吉造
山田龍雄
吉岡熊蔵
関三三生
吉田正太郎
吉田小五郎
二宮傳右衛門
平田光楽
吉浦榮一
関憲治
関ツ子
三井田虎一郎
小林治助
渡辺三十郎
小竹久爾

小熊雪海
巻渕藤吉
笹川芳三

大場遍路
相沢啓之進
曽田訓之
吉田直代
関甲子次郎
坂田四郎吉
小林群鳳

 

石黒 武久(八坂町)

県議会議員

和田 イセ(住吉町)

柏崎婦人会会長

中村 毎太(葉月)(住吉町)

大正6年12月から、江原小弥太のあとをうけて「越後タイムス」の主幹となる。戦争のあおりをうけ昭和14年7月休刊。戦後の混迷の中、昭和21年1月「越後タイムス」を復刊した。昭和30年、吉田昭一にタイムス主幹を譲り横浜に移住。昭和43年、横浜で死去した。享年77歳。

山田八十八(住吉町)

明治9年5月の大区制区域で柏崎刈羽地方を含む第五大区の区長で、当時の著名な政治家であった。法華堂下町に住み、石井神社の社掌もつとめた。著書に『刈羽郡旧蹟志』がある。大正4年没、 享年80歳。

田辺 松厳(島町)

宗教界の長老

桜井 正義(鵜川町)

柏崎商工会議所専務

小林 多助(広小路)

柏崎商工会議所会頭

原 吉郎(新橋)

初代・柏崎市長

布施 宗一(旭町)

郷土史研究家

三宮登喜子(旭町)

三宮裁縫女学校校長

真貝 新一(旭町)

報道写真家

萩野 秀雄(旭町)

柏崎市議会副議長

中村 昭三(本町二)

柏崎市議会議長

小熊 哲哉(本町二)

柏崎演劇研究会会長

岩下 庄治(本町四)

郷土人形収集家

松村 正吉(本町四)

柏崎市議会議長

佐藤 平一郎(本町四)

柏崎市議会議長

吉田 高章(本町四)

吉田吉造の孫(娘婿・順二の長男)、大連高商を敗戦で中退、苦難の引き揚げを経験した。祖父・吉造の薫陶の下に、近代感覚と抜群な先見性を発揮し、企業一途の祖父の生きざまを受け継ぎ、さらにスケールの二回りも三回りも大きな日本屈指の総合製菓会社ブルボンに育てあげた。(没年・平成8年、満67才)

西巻 進四郎(本町四)

西巻時太郎(柏崎町長)の長男、慶応大学卒、柏崎町会議員、県会議長。柏崎町長当時、優れた先見性と見識をもって、幾多の反対を克服して上水道事業を完成させ、柏崎近代化の歴史的基礎を築いた。進四郎の人間としての偉さは、柏崎の将来を若年人材の育成にかけ、いわば柏崎の吉田松陰的役割に情熱を傾けたことである。また文化的見識も高く、その開いた喫茶タカラの雰囲気は、青春文化の憧れの的であった。(没年・昭和14年、満52才)

西巻 達一郎(本町四)

西巻進四郎の長男。慶応大学に学び、市議会副議長、柏崎商工会議所会頭はじめ数々の要職に推された。また、にしまきの店舗の近代化を進めた。親譲りの大器として、文化面でも衆望を集めたが、父子ともに若死だったのが惜しまれる。(没年・昭和29年、満59才)

吉田 吉造(本町四)

最上屋・吉田藤吉の三男。北日本製菓(株)社長。関東大震災で機械生産の菓子の流入が途絶したことから、地方にも製菓工場が必要であると、大正13年に柏崎駅前にビスケット工場を創業した。生涯を仕事一途に貫き、三度の工場火災に耐えて刻苦精励、柏崎の地元企業を代表する北日本製菓(株)(現ブルボン)を育成した。日本の敗戦を間近に、柏崎の総力をあげた柏崎飛行機工業の社長として尽力したが、時に利あらず、荒浜の砂丘に描いた夢は空しく消えてしまった。「終始一貫」事業に生き事業に倒れた生涯はまさに柏崎のスケールを越えた巨星だった。(没年・昭和29年、満67才)

山田 龍雄(本町四)

この原稿は平成12年に急逝した山田龍雄が執筆したものである。山田龍雄は旧制柏中卒業後、小竹天瑞堂を経て、戦時中は東京で印刷関係の仕事に従事。戦後は昭和21年、越後タイムス復刊とともに同社に入り新聞人としての一歩を踏み出した。23年、柏崎日報復刊により同社に移籍、健筆をふるい、柏崎の言論界の先頭に立って活躍した。37年、小竹社長の後を継いで柏崎日報の社長に就任、経営に手腕をふるい、同社の基盤を築いた。また、柏崎ロータリー初代会長、市史編纂審議委員、市学区等審議委員、柏崎商工会議所常議員など数多くの役職を歴任した。さらに、美術を愛する心深く、死の直前まで洋画を描き続け、市展運営委員長、柏崎美術会会長、木村茶道美術館副理事長などとして活躍、柏崎の芸術、文化に大きな足跡を残した。(平成12年11月14日死去、84歳)

吉岡 熊蔵(本町五)

柏崎市助役

関 三三生(本町五)

柏崎民謡保存会会長

吉田 正太郎(本町六)

黒船館主人

吉田 小五郎(本町六)

キリシタン文学研究家

二宮 傳右衛門(本町六)

第9代柏崎町長。(在職・大正11年〜昭和2年)町長職の他に二宮呉服店主であり柏崎銀行をはじめ十指に余る会社経営に関わった柏崎財界の大御所である。町長時代には大洲・下宿・比角村との合併や、当時二百三高地と呼ばれていた裁判所付近(今の中央町)の砂山を崩して高校の校地等に整備し、崩した砂はトロッコで運び仁王丸(駅通り東側一帯)の田を埋め立てるという大事業、裏浜のグミ林をグラウンドに、柏崎築港の防波堤・砂防堤工事等々の大事業にも尽力された。店は上町側にあったが向かい側にも屋敷があり石塀で囲まれ「石蔵」と呼ばれていた。

平田 光楽(本町七)

漆芸家

吉浦 榮一(本町七)

柏崎市長

関 憲治(本町八)

柏崎市助役

関 ツ子(本町八)

花ぞの幼稚園建設

三井田 虎一郎(本町八)

第二代柏崎市長。(在職・昭和20〜26年)太平洋戦争後の、大混乱と大変革の市政を担当されました。この時期は、物資の欠乏・農地解放・新制中学の誕生・公安委員会の発足・警察組織の整備・道路復旧・柏崎港期成同盟結成・近隣地区との合併等と緊急案件や新事態が軒並みで困難な時代でした。

小林 治助(本町八)

第5代柏崎市長。(在職・昭和38〜54年)柏崎刈羽原子力発電所の誘致に大きな役割を果たされました。その他在任中に、越後線と市道64号線の立体交差を実現し、市民球場・産業会館・清掃センターごみ焼却場などを建設されました。新市庁舎・市民会館を現在地に定礎し、市民の水がめ谷根ダムも完成されました。

渡辺 三十郎(駅前)

渡辺ポンプ経営者

小竹 久爾(駅仲)

柏崎日報を復刊

小熊 雪海(諏訪町)

満洲柏崎村村長

巻渕 藤吉(諏訪町)

柏崎市議会議長

笹川 芳三(田町)

郷土史研究家

大場 遍路(田町)

柏崎刈羽俳壇の長老

相沢 啓之進(学校町)

柏崎病院開設者

曽田 訓之(学校町)

文化功労者

吉田 直代(学校町)

柏崎婦人会会長

関甲 子次郎(甲子楼主人)(東学校町)

元治元年(1864)七月、柏崎ヒシマン関虎八の次男として生れ、後に分家してカクマンと名のり、甲子楼と号した。明治4年、八歳で中野力税の門に入り、その後、小学校を卒業して商売の道に入った。祖父四郎太(国学者)の血筋もあって、漢学、和学、和歌俳諧、歌舞音曲、民俗学など広い分野に精通し、商業の余暇を郷土史の研究に傾注して「生田の旗風」「刈羽郡案内」など数々の著作を残している。中でも明治17年、20歳のとき起稿して57歳までの37年の歳月を費やした「柏崎文庫」は、全20巻、5000頁に及ぶ毛筆書き大著である。大正10年に柏崎文庫の完成を記念した筆塚が妙行寺境内にある。これらの貴重な郷土資料は「甲子楼文庫」として柏崎図書館に収蔵され、この資料なくして柏崎刈羽の歴史も民族も語れないというのが定説である。(大正15年逝去。享年63歳)

坂田 四郎吉(北園町)

明治23年、柏崎市与板に生まれる。大正時代から社会体育の振興に力を注ぎ、晩年まで指導の第一線でその姿が見られた。柏崎市伝統の元朝体操も、昭和7年に同氏によって始められたものである。また、公認グラウンド(市営陸上競技場)の仕掛人であり、柏崎小学校で教鞭をとる傍ら、連日、建設工事の指揮をとった。戦争当時、食糧難で「グラウンドをイモ畑にせよ」という軍の命令に、頑として応じなかったことは、あまりにも有名な話として、今に語り継がれている。昭和42年没、享年79歳。

小林 群鳳(桜木町)

小林群鳳はまれにみる名石工であり、各地の石碑を刻んで、その業績は名高い。記念碑には初代群鳳について述べるられている。子孫は代々群鳳を襲名し、現在も家業を承け継いで栄えている。

   
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