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まちめぐり 名所めぐり

ソルトスパ潮風 
柏崎アクアパーク
陸上競技場
柏崎ふるさと人物館
ギャラリー十三代目長兵衛
生田万の墓碑
閻魔堂
シーユース雷音
カムフィー (TEPCOプラザ柏崎)
不求庵跡
立地蔵
ねまり地蔵
みなとまち海浜公園
釈迦堂跡
潮風園木喰仏
貞心尼の歌碑
柏崎勝長邸跡
浜千鳥の碑
駅前公園
中央海水浴場

 

ソルトスパ潮風

雄大な日本海と佐渡ヶ島を望む詩情あふれるビーチサイド。さわやかに潮風うけての露天風呂や夕日を眺めてゆったり入浴!多彩な温泉メニューで、オモシロ気分!宴会して、リラックスして、湯ったりして、ここは都市型湯遊ランドです。泉質〜ナトリウム塩化物泉

柏崎アクアパーク

水を使った遊びとスポーツが満載の総合レジャー施設。敷地内には2種類のウォータースライダーや120mの流水プールのほか本格的な50mプールもあります。冬期間は50mプールがアイススケートリンクに変身し、1年中楽しめます。

陸上競技場

公認マラソンコースを抱える柏崎陸上競技場。
全天候型のウレタン舗装と照明施設を完備しておりますので、天候・日夜を問わずご利用いただけます。

柏崎ふるさと人物館

柏崎刈羽の産業や文化の礎を築いた先人達の遺徳をたたえながら、それぞれの生き方を再発見しようという施設。「産業・経済の礎を築いた人々」「学術教育に生きた人々」「心にのこる江戸時代の人々」といったテーマごとに、著書や遺品などの資料を展示している。

ギャラリー十三代目長兵衛

ギャラリー十三代目長兵衛は、曽田家の屋号に因んで名づけられ、道路拡幅に伴い100年以上たった古い蔵を移転改築し、ギャラリーに生まれ変わりました。
十三代目長兵衛では様々な企画展が開催されており、蔵の持つ場の力が作品一つひとつの力を引き出し、心豊かな時間を刻むことができます。
2004年12月に十三代目長兵衛は登録有形文化財に登録申請されました。

生田万の墓碑

群馬県館林の人。享和元年〜天保8年6月(1801〜1837)、37歳で没。名は國秀、道満、字は救卿、号は東華・大中道人。師は平田篤胤。天保7年来柏し、桜園塾を開く。この頃柏崎は凶作続きで庶民の暮らし窮乏。柏崎代官所救護策講じず。天保8年6月1日、同志5人と謀り柏崎大久保陣屋を襲撃し失敗。海浜の砂上で自刃。妻鎬と2児も獄死。企ては失敗したが米価は急落し窮民は救われた。著書に「大中道人漫稿三巻」「日本伝評論」「古学二千文」等。現在、柏崎小学校脇の柏崎招魂所に墓がある。

閻魔堂

山号を、金砂山円光寺閻魔堂といい、今日では「えんま市のお堂」として親しまれている。戦国時代の頃までは半田村にあったと伝えられ、江戸中期の資料『柏崎町古絵図』には、町の東の木戸の門外に位置していたことがわかる。えんま市の起源となった馬市が下町から移ってお堂の境内で開かれるようになったのは明和年間(1764〜1771年)の頃からで、約70年間続いた。以後、馬市にかわって節季市の形で受け継がれ、今日のえんま市(6月14日〜16日)となった。お堂は数度の火災で類焼し、現在の土蔵造りの建物は明治29年に4代目篠田宗吉によって建てられた。

シーユース雷音

柏崎海洋センター シーユース雷音は、柏崎市が観光や海洋レクリエーション施設の拠点として平成9年7月に開設しました。
開設以来、青少年が気軽に利用できる憩いの場や地域間交流の場を提供しており、隣接するみなとまち海浜公園や柏崎港とともに柏崎の海の顔として地域内外の多くの方にご利用いただいております。
また、宿泊や会議室としての利用のほか、スポーツの合宿として毎年賑わっています。

カムフィー(TEPCOプラザ柏崎)

柏崎の中心商店街にある憩いのスペースです。入館は無料なので、休憩や待ち合わせにも気軽に利用できます。大型TV、足つぼを刺激する健康遊歩道、無料インターネットコーナー、エネルギーや地球環境関連のライブラリーもあります。
カムフィーの名前の由来は、“comfortable(居心地良い)”です。

不求庵跡

嘉永4年(1851年・貞心尼54歳)4月、10年間住んだ釈迦堂が類焼したので、外護者の山田静里らが中心となって、広小路真光寺の側に八畳・四畳・三畳の庵室を建ててくれました。貞心尼はこの庵を「不求庵」と名付けて、弟子の孝順尼(19歳)とともに、9月中旬頃に移り住みました。貞心尼の不求庵の生活は、時時、山田静里らの風流人が集まって歌会を催していたので、平和な日日を送ることができました。
貞心尼はここで没すまで22年間住み、明治5年2月11日の午前2時過ぎ、静かにこの世を去られ、75歳の生涯でした。病の床につかれてから、死期の近づいたのを知ったのか、「玉きはる今はとなれば みだ仏といふより 外に言の葉もなしあとは人 先は仏に任せおくのが心のうちは極楽」などと詠んでいます。
◆辞世の歌
「くるに似てかへるににたりおきつ波 立居は風のふくにまかせて」

立地蔵

立地蔵は、向かって左に日光菩薩、右に月光(がっこう)菩薩を脇侍(わきじ)とする薬師三尊石像です。堅くて、細工のしにくい安山岩質角礫岩(かくれきがん)に彫られた薬師如来像は、厚さ44センチメートルの浮き彫りとされ、像高は162センチメートルあります。
また、力感のある腕で胸元高く抱えているのは薬壺(やっこ)と思われ、肩は厚く、衣文(えもん)は長く流れて、裳(も)は足先を包んでおり、半丈六仏の作りとなっています。脇侍の日光・月光菩薩もそれぞれ9センチメートル、12センチメートルの厚みを持つ高肉彫りで直立し、味わい深い表情となっています。三尊が一石に彫られた薬師は類が少なく、作風も古様となっています。
以前は、街道の中央に立っていましたが、明治11年(1878)9月、明治天皇北陸御巡幸の際、現在地に遷座されました。

ねまり地蔵

ねまり地蔵とは、延命地蔵菩薩のことで、古くから街道の中央に立ち、人々の信仰を集めてきました。また、火除け地蔵との別名もあります。石質は、立地蔵と同じ安山岩質角礫岩(かくれきがん)で、市内東の輪海岸の岩礁に見られるものです。この巨岩に、肉厚84センチメートル、像高184センチメートルの豪快な半跏倚像(はんかいぞう)が彫り出されています。
長さ210センチメートルの太い錫杖(しゃくじょう)を斜めに肩にし、宝珠をのせた大きな手を左膝に、左足は趺座を組んだ右足の上から前に垂下しています。太い足指もくっきりと彫り出され、自然石を生かしており、舟型光背の曲線も古様で、江戸期以前のものと考えられています。
光背正面に「■光寺」という刻名が読み取れますが、寺号であると考えられています。明治11年(1878)9月、明治天皇の北陸御巡幸の際に近くの桜屋(元柏崎週報社)の庭に移され、明治33年(1900)現在地に遷座されました。

みなとまち海浜公園

みなとまち海浜公園は、柏崎の海岸線の真中に位置し、シーユース雷音や夕日のドームをはじめ、たくさんの施設があり、いつも人が集い、風の陣など多くのイベントが開催されています。夏は海水浴やマリンスポーツと海の柏崎を思う存分楽しめる海浜公園です。
◆施設概要
エントトランスホール、シンボル広場、夕日の広場、海浜植物ゾーン、砂浜・護岸、休憩所、研修広場、多目的駐車場、更衣・シャワー室、人工海岸、ドーム

釈迦堂跡

釈迦堂は、天保3年(1832)に創建された浄土寺の末庵ですが、良寛と親交の深かった貞心尼が住んでいたことで知られています。
貞心尼は、天保9年(1838)眠龍尼が示寂された後、長岡の閻魔堂からこの庵に移り、専ら心龍尼(眠龍尼の姉)を師事しました。天保11年(1840)には心龍尼が示寂されたことを受けて住庵し、翌年(1841)洞雲寺二十五世泰禅和尚から得度を受け、正式に釈迦堂の庵主となりました。しかし、嘉永4年(1851)10年間住んだ釈迦堂が類焼したことにより、同年「不求庵」に移り住んだと云われています。
その後、再建された釈迦堂は、貞心尼に入門(安政6年(1859))した智譲尼が庵主となりました。
昭和14年に浄土寺を離れた釈迦堂は、禅宗の庵寺となりましたが、昭和54年11月には道路拡張のため壊され、現在はその跡を残すのみとなっています。

潮風園木喰仏

山梨県西八代郡の名主に生まれた木喰は、迴国納経と千体の仏像を彫刻することを願って、生涯を旅に過ごした遊行僧です。
87歳の時に2度目の越後入りをし、柏崎では文化元年(1804)9月8日西之入の安住寺にて第一作を初め、最後作には、文化2年6月21日の銘があります。この9か月間に72体もの仏像をこの地域に残しています。
中でも潮風園の三体は、光背を含めていずれも銀杏の一本造りで、台座は中央の大日如来が蓮台に、他は木喰仏独特の幾何学的デザインを配した台座にのせられています。小堂ながら風格のあるこのお堂は、多くの方のご寄付によって昭和5年に建てられたもので、我が国の「木喰堂」としては草分け的な存在となっています。

貞心尼の歌碑

柏崎駅から海岸線を結ぶ通称潮風ロードの商店街のアーケード下には、加賀の千代女、京都の連月尼とともに幕末女流三大歌人と言われている「貞心尼」の歌碑、12基が建立されています。
日本海へ向かうこの通りは、風雅で文学的な雰囲気を味わうことができます。
歌碑は、平成4年度に国(当時国土庁)が3年かけて地域個性形成事業として歩道やアーケードを整備一新したことを機に、その補完事業として県により平成5年に8基、翌年に4基が建立されたものです。

柏崎勝長邸跡

謡曲「柏崎」にある柏崎勝長の館跡です。伝説によると、柏崎勝長公の家は鵜川の柏の大樹の東北にあったと言われています。勝長は、柏崎の最初の長と伝えられ、室町時代に成立した謡曲「柏崎」(榎並左衛門五郎作のちに世阿弥が改作して完成した狂女物の謡曲)に登場する「柏崎殿」であると云われていますが、その詳細は不明です。
勝長邸は、彼が没後その遺言により、菩提寺である香積寺に寄進され、剣野村から移転したと伝えられています。
勝長公の碑は江戸時代の建立であり、内室の位牌は香積寺にあります。享保3年(1718)5月22日付、善光寺庚申堂別当堂照坊より、柏崎勝長公と善光寺にまつわる由緒書を受け、寛保3年(1743)には五百回忌が営まれるなど、柏崎文化発祥の源として古くから郷愁の的となっています。

浜千鳥の碑

青い月夜の浜辺には…で始まる童謡「浜千鳥」の歌は、大正八年鹿島鳴秋によって作られ、今も日本の抒情歌の名曲として歌い継がれています。
この詞は、鳴秋が柏崎に住む旧友を訪ねた折、裏浜から番神の海岸を散歩しながら、初夏の海の印象を歌にしたものと云われています。
大正九年、弘田竜太郎によって作曲され、全国的に愛唱されるようになりました。
浜千鳥の碑は、最初は昭和36年に海岸公園(現在アクアパーク駐車場)に建碑されましたが、現在は「みなとまち海浜公園」内に移設されています。

駅前公園

柏崎駅の近くに位置し、緑が多く春には桜見物もできます。また、公園には噴水や遊具の他、陸上自衛隊で使っていたヘリコプターや、昔懐かしいSL機関車も屋外展示されており、市民が多く訪れます。隣接して、テニスコートや市営駐車場もあります。
◆施設概要
芝生広場、噴水広場、ジャンボ滑り台、テニスコート5面

中央海水浴場

柏崎市街地に最も近い海水浴場で、隣接するみなとまち海浜公園はマリンスポーツのメッカでもあります。
また、近くには柏崎アクアパーク(レジャープール)があり、海の荒れた日でもプールで遊ぶことができます。駐車場もたっぷりあります。

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