夕日
2004.10.29記
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日が沈む 2004.10.29撮影

 健康のため、出来る限り歩いています。今日は鯨波方面まで行ってきました。珍しく沈む夕日に遇えました。先般の22号台風に続く23号台風による大被害、舞鶴でのバスの上に避難した人たちの映像が記憶に新しいところですが、間をおかずに今度は地震による大災害、国外ではますます混沌としてくるイラク情勢、日本人拘束のニュース、アメリカ大統領選挙の行方などなど、目を離せないことが次々と続いていますが、何事もなかったように、あるいはすべてを見つめて承知の上なのか、海は静かで夕日は明日の存在を約束しながら沈んで行きました。

 23日(土)は大きな地震がありました。17時56分、ぐらぐらっときて電気がぶつん!そのあと2回、合計3回いずれ劣らぬ大きな揺れが1時間の間に続きました。夕飯はご飯だけ、小さなペンスタイルの懐中電灯を部屋の真ん中の蛍光灯の紐にぶらさげ、とにかくなんとか食べました。
 携帯ラジオによると、震源は小千谷方面で震度は6強、夜になったので被害状況はなかなかつかめない様子です。
 不安に駆られて外へ出たり中へ入ったり、夜の10時ころ寒くなってきたので、「運は天にまかせる。生きる死ぬるは時の運!」とかカラ元気を出して布団に入りましたが、ときどきぐつん!と来る余震のたびにビクッとしてほとんど朝まで眠れませんでした。
 朝6時起床。外を見たら街灯が点いている!有り難うとブレーカーを入れました。
 我が家はこれと言った被害なし。家の周りを見て回ったが庭の灯篭なども無事で特に何も被害は見当たりませんでした。

 恐怖の一夜が明け、ヘリで上空から被害状況を見ることが出来るようになって中越地方で小千谷、川口町、山古志村などで大変なことになっている状況が見えてきました。

 道路はずたずた、新幹線脱線。復旧はいつになるやら見通しが立っていません。

 山古志村のほとんど全員が歩いて避難する様子がテレビで放映されました。何か時代劇の中で村を追われて逃げ惑う村人たちを見ているようで、おじいさんお婆さんが荷物を背負って歩き、列車が止まっている線路を横切るのに手をついてやっとのこと線路に上がるなど、何とかならないものかともどかしく感じました。
 
 避難所への食料配給、「一人一個にしてください!」と叫びながらおにぎりやパンが配られている様子が痛々しい。

 震災後3日目くらいになって小出の母子3人が行方不明になっていることが報道されました。その後、ヘリコプターが白い車体の一部を発見し、生存者がいることを確認、必死の救出作業によって2歳の優太君が奇跡的に救出されました。母親の孝子さん、3歳のまゆちゃんは残念ながら助かりませんでした。いつ崩れてくるか分からない巨大な岩石の中での救出作業は難航を極め、29日現在まだまゆちゃんの遺体は崩落した岩石で押しつぶされた自動車の中です。
 
 個人的には、最初の晩はほとんど眠らなかったため日曜日は一日中頭がもやもやして不調でしたが、コミセンまつりの芸能祭ほか諸行事がすべて中止となり、二日目の夜はかなりの大きさの余震も分からずに眠ったので、月曜日は元気回復しました。

 一週間もたって未だに避難生活を強いられている皆さんや、電気、水道などのライフラインの復旧が出来ていない皆さんには心からお見舞いを申し上げますとともに、一日も早い復旧を祈っております。(29日記)

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