上杉鷹山紹介ページ 本文へジャンプ
私の尊敬する江戸時代中期の大名・米沢藩9代藩主・上杉鷹山を紹介するページです
 上杉鷹山(1751−1822)米沢藩9代藩主(1767−1785)16歳で藩主となった鷹山その生涯は多く人にとっても驚きであり、学ぶべきもの多々有りだと思います。

その代表的なものは伝国の辞です
一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして  我私すべき物にはこれ無く候
一、人民は国家に属したる人民にして我私す  べき物にはこれ無く候
一、国家人民の為に立たる君にて君の為に  立たる国家人民にはこれ無く候
伝国の辞は、上杉家の明治の版籍奉還に至るまで代々の家督相続時に相続者に家訓として伝承された。
 実にフランス革命の人権宣言より前にその様な精神で書かれ、その様に生きた人生に尊敬以外の言葉が見当たりません。
上杉鷹山は、寛延4年7月20日(1751年9月9日)、日向高鍋藩主・秋月種美の次男として高鍋藩江戸藩邸で生まれる。幼名は松三郎。

宝暦10年(1760年)、米沢藩藩主上杉重定の養嗣子となって桜田の米沢藩邸に移り直松に改名。宝暦13年(1763年)より尾張出身の折衷学者・細井平洲を学問の師と仰ぎ17歳で元服し、直丸勝興と称す。また、世子附役は香坂帯刀と蓼沼平太が勤める。江戸幕府第10代将軍・徳川家治の一字を賜り、治憲と改名する。明和4年(1767年)に米沢藩を継ぐ。

上杉家は18世紀中頃には借財が20万両に累積する一方、石高が15万石(実高は約30万石)でありながら初代藩主・景勝の意向に縛られ[要出典]、会津120万石時代の家臣団6,000人を召し放つことをほぼせず、家臣も上杉家へ仕えることを誇りとして離れず、このため他藩とは比較にならない程人口に占める家臣の割合が高かった[1]ため人件費だけでも藩財政に深刻な負担を与えていた。

加えて農村の疲弊や宝暦3年の寛永寺普請による出費や宝暦5年(1755年)の洪水による被害が藩財政を直撃し、名家への誇りを重んずるゆえ豪奢な生活を改められなかった前藩主・重定は藩土返上のうえ領民救済は公儀に委ねようと本気で考えたほどであった。

新藩主に就任した治憲は民政家で産業に明るい竹俣当綱(まさつな)や財政に明るい莅戸善政を重用し、先代任命の家老らと対立しながらも自らこれまでの藩主では1500両であった江戸仕切料(江戸での生活費)を209両余りに減額し奥女中を50人から9人に減らすなどの倹約を行って土を耕し帰農を奨励し、作物を育てるなどの民政事業を行った。天明年間には凶作や浅間山噴火などから発展した天明の大飢饉の最中で東北地方を中心に餓死者が多発していたが、治憲は非常食の普及や藩士・農民へ倹約の奨励など対策に努め自らも粥を食して倹約を行った。また曾祖父・綱憲(4代藩主)が創設し後に閉鎖された学問所を藩校・興譲館(現山形県立米沢興譲館高等学校)として細井平洲・神保綱忠によって再興させ、藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせた。安永2年6月27日(1773年8月15日)に改革に反対する藩の重役による改革中止と改革推進の竹俣当綱派の派の罷免を強訴した七家騒動が勃発したが退けた。これらの施策と裁決で破綻寸前の藩財政は立ち直り、次々代の斉定時代に借債を完済した。

天明5年(1785年)に家督を前藩主・重定の実子で鷹山の養子であった上杉治広(鷹山が養子となった後に生まれた)に譲り隠居するが逝去まで後継藩主を後見し、藩政を実質指導した。隠居すると初めは重定隠居所の偕楽館に、後に米沢城三の丸に建設された餐霞館が完成するとそちらに移る。

享和2年(1802年)、剃髪し鷹山と号する[2]。この号は米沢藩領北部にあった白鷹山(しらたかやま:現在の白鷹町にある)からとったと言われる。

文政5年3月11日(1822年4月2日)の早朝に、疲労と老衰のために睡眠中に死去。享年72(満70歳没)。法名:元徳院殿聖翁文心大居士、墓所:米沢市御廟の上杉家廟所。始め上杉神社に藩祖・謙信と共に祭神として祀られたが、明治35年(1902年)に設けられた摂社松岬神社に遷され、現在に至る。