私の8月15日
《2000年8月記》

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http://www.city.kashiwazaki.niigata.jp/page7.html
 「生活文化」というところの「記録ー昭和20年8月15日」です。
 読みやすいように字を大きくしたり、ほかの方々のものもありますので、そちらでご覧ください。

≪終戦は10才、国民学校4年生の時です。「私の8月15日」、沢山の皆さんのものを読ませていただき、やっぱり書いてみようかと、いくつかの断片描写ながら、思い出を綴ってみました。語り継がなくてはならない、といったほどの内容はありません。大分記憶が怪しくなっているところもあり、記憶違いもあるかも知れません。よこ道を承知で戦争と直接関係ないこともぽつぽつ入っています。≫

 944(昭和19)年10月の終わり頃。
「おーい、誰かいるか」
と言いながら、村の役場に勤めている近所の「相助」さんのおとっつぁんが入ってきた。子どもだけ2人ということを知って、
「なんだ、おまえたちだけか」
「実はな、兄さの公報が入ったんだ」
 私は国民学校3年生。真っ暗に日が暮れてしまった晩秋の夕方、薄暗い電灯の下で、6年生の姉と父母の帰りを待っていたときのことだった。  役場に長兄の戦死の公報が届いたことを知らせに来てくれたのだった。
 戦死した長兄と私は14も年齢が違っていた。覚悟もしていたとはいえ、長男の戦死は父には応えた。がっくりと肩を落とした様子が今でも忘れられない。

 軍に応召し、潜水艦勤務になった長兄は、応召してから2回休暇で帰ってきた。その2回目の休暇のとき、父に
「これで、もう帰らないかも知れない」
と、いろり端で話しているのを私もそばで聞いていた。
 その言葉通りになってしまった。

 の多い冬のある日。O君が、家からの連絡で、授業中の教室からあわただしく家へ飛んで帰っていった。
 電話が殆どない時代、家族になにか重大事があると、誰かが学校に駆けつけて連絡し、子どもが教室から家に飛んで帰るという情景が時々見られた。
 O君のお父さんは、兵役でマラリアに感染し、家で療養していたのだった。
 戦争や病気で父親を失ってしまった同級生は、ほかにも何人もいたが、O君も、父親のいない子になってしまった。

 945(昭和20)年は大雪だった。私の家は、南側が田圃、東が畑から鯖石川の川原に続き、西は雪が無ければ車の通る道路で、比較的除雪しやすい方だったが、それでもどんなに頑張っても一階からの出入りは無理となって、しばらく二階から出入りしていた。
 学校の屋根の除雪も、何分にも男手が少ない時代、3年生の我々まで校舎の屋根に上がって除雪をした。一人一人、腰に荒縄で命綱をつけ、先生が鵜飼いの鵜匠のように何本もの縄の先を持ち、屋根の反対斜面に立って安全確保の役をしていた。

 の間は、車が通らないので、物資の輸送に「そり引き」という季節的職業があった。10数キロ離れた信越線の安田駅までそりを引いて行き、帰りに物資をうんと積んで引っ張って帰ってくる。滑走面は厚い鉄板が貼ってあり、ピカピカになっているので滑りはすごく良いのだが、帰りはやや登りなので、大変な重労働だった。
 子どもの私が引っ張っても、ピクリとも動き出さない。すごい力持ちのこの人たちを私は驚きと尊敬の眼で見ていた。

 の雪融けとともに、そり引きの距離が縮まって、村から4キロくらいの所まで車が来るようになると、沿線の部落の人たちがある日一斉にスコップで車を通すための除雪をした。私たち子どももそれなりに手伝った。
 狭くて高い雪の壁の間を、数ヶ月ぶりに慎重に走ってくるバスを目にするのは感激だった。そして、その雪の廊下は春の風に撫でられて、日に日に幅が広くなって行くのであった。

 月初めころ。長兄の慰霊祭があった。家の前の田圃の、屋根の除雪をして運ばれた、ものすごい残雪の山を平らにしての慰霊祭だった。潜水艦で戦死したのに、遺骨は何が入っているんだろうと、あとで中を見た。肩書きと氏名の書かれた、名刺くらいの写真が1枚入っていた。

 の年、残雪が多く、いつまでたっても田植えが出来ないような状態で、やっと田植えを済ませたと思ったら、7月には豪雨による水害に見舞われたりして、米が大変な不作だった。

 害の時、私の家では、ちょうど蚕が上簇したばかりだったが、1階にあったものは「まぶし」ごと全部二階に運び上げた。繭を作っているときに動かしたことで、蚕の吐き出す糸がそこで切れたりしているという理由で、その時の繭は安くなったという話だった。

 位が上がって来るばかりなので、一面泥水の大海原の中を、子どもだから、腰から胸までつかりながら、怖がって悲しげな鳴き声を出す山羊の首を小脇にしっかり抱えて、泳がせながら高台まで避難させた。

 の晩は、大分水はひいたが一階は泥だらけ、二階は蚕に占領されたので、浸水をまぬがれた父の実家(私の家の本家で《おや》と言っていた)に家中で泊めてもらった。急に難民?を受け入れた家でもてんやわんや、夕飯の支度で、味噌や醤油が何度も入った鍋や、一回も入らなかったものなどで大騒ぎ、それにしても、賑やかで親切な人たちばかりだった。

 月。「起きろ。長岡が空襲で燃えている!」
 蚊帳の中で寝ているところを起こされて、外に出た。東の空が、黒いシルエットの山の向こうに真っ赤に燃えている。時々、ぴかーっと光る。そして、通路があまり遠くなかったのであろうか、B29の鈍い不気味な音が暗闇の中で遠く聞こえていた。
 近所の人たちも、みんな外に出て、言葉少なに真っ赤な東の空を見つめていた。
 蚊帳に戻っても、焼ける空の赤が瞼に焼き付いて、友達のW君の家で見たことのある地獄極楽の絵図の『火焔地獄』の情景が想像され、興奮してがたがたふるえていた。

 戦の日の午後。
 私の家は、あまり子どもたちを遊ばせておかない家庭だったが、さすがにお盆で、田圃の畦草取りもなく、さつまいも畑の草取りもないので、家の脇の鯖石川でW君と魚取りをして遊んでいた。放送は、聴いた記憶がない。
 そこへ文ちゃんが来て、言った。
「ニッポン、負ケタンヨ。」
 文ちゃんは朝鮮人の子である。日本名、文太郎。姓は忘れてしまった。私より一つ上で、私の仲良しだった。一家で近所の素封家「朝日屋」さんの持ち家の一つを借りて住んでいた。
 文ちゃんは「朝鮮人、朝鮮人!」と、いつもいじめられていた。強い者にいじめられる惨めな思いは身に染みていた。それだけに大人で、やさしいところがあった。よく、もう一つ年上の腕白たち数人にいじめられても、敢然として、
「朝鮮人、朝鮮人ト、パカニスルナ!」
と、言い返していたものである。
 この一家は、戦争が終わって間もなく姿を消した。

「ニッポン、負ケタンヨ」
という、朝鮮人の子供の言葉を聞いて、突然W君が狂ったように
「世はサカサマだ! 世はサカサマだ! ……」
と、横転倒立のようなしぐさを繰り返して走り回っていた………。

 争に行っていた人たちがぽつぽつ帰ってきた。
 童謡「鐘の鳴る丘」や「りんごの唄」がラジオから流れるようになった。

 がて、映画「青い山脈」を見るころ、私は、義務教育を終えて、《働学》青年になっていた。親からみれば、長男戦死、二男はすでに教員で、農業を嫌いでもなさそうなこの子に農業をやらせるのがいいかな、くらいの思惑があった、というところであろうか。
 「働きながら学ぶ」というと聞こえがいいが、進路のことでいささか不満をかこちながらも、農業は確かに嫌いではなかったので、週に3日学校へ行く以外は結構よく働いていた、というくらいのところが実情である。
 週に3日の学校は、春秋の農繁期には長期の休みがあり、冬季は4日通学だった。学校では、主として農業を学んだ。テレビなど、まだ普及していない時代だったから、冬の夜などは、よく友だちの家に集まっては遊んでいた。
 信じ難いと思う人がいるかも知れないが、そのころは全て手作業で、軍手などしていなかったから、農作業で右手にできた”たこ”は、農業から離れた後、数年経って教員になってもまだ残っていた。
 「昔の農業のことなら何でも知っている」
と、私が自慢?するのは、この4年間の経験からである。

 の時代、この農村から全日制の高校に進学するのは5パーセントくらい、定時制の分校でも進学できるのは、まだずっと恵まれている方だった。
 戦争で父親を失った友だちは進学どころでない人が多かった。家族が、働いて貰うために義務教育の終わるのを待ち望んでいた。

 がて、戦争が終わって10年近く経ち、
「もはや、戦後ではない。」
という言葉が聞かれるようになった。
 社会的にも意識の変化が見られるようになり、家庭的にも情勢の変化があって、私は田圃から上がって、大学生に変身した。自信はなかったが、まぐれで引っかかったらしい。受けるだけならと、受験料を呉れた父が4年間の学資を出してくれた。初めて家庭を離れて………(これは別の話になる)。

 界のあちこちで、今も戦争が続いている。
   私は、戦争で長兄を失ったが、両親がいたし、残されたきょうだいも4人いた。女二人に男二人、私はその末子で大事にされてきた。
 戦争によって、親兄弟や家などを失ってしまった人たちの心の傷は、生涯消えることが無い。
 日本では、戦争を知らない人たちが多くなったが、悲惨な戦争がこの国で繰り返されることなく、いつまでも平和が続くことを願ってやみません。
 なにか、ご感想などありましたら、お願いいたします。(終)


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