捨・て・ら・れ・て


 秋になった。
 賑わった海岸も静かになった。
 砂浜に、捨てられたボートがある。左側が破れて、砂がいっぱい詰まっている。ほかにも、船底が破れたものや、脇がへこんだものなど、痛めつけられて捨てられたボートがいくつもある。持ち帰っても粗大ゴミとしても捨てられないと、そのまま海岸に放置されたものであろう。
 人間は勝手なものである。
 物言わぬボートが、なにかを訴えているような、そんな気がする秋の海岸であった。



 かっての主人(持ち主?)は、どんな人?
子ども? 学生? OL?
 最初は大切にされて、颯爽と走っていたであろう自転車が、どんなことで捨てられる運命に立ち至ったのか、まだそんなに古いわけでもないのに、見るも無惨な形で倒れている。
 大勢で一人の人に暴行を加え、立ち上がれないまでに傷つけて立ち去ったような、そんな情景を連想させる。あるいは、ほんとに大勢で踏んだり蹴ったり、タイヤを引き剥がしたり、徹底的に破壊したのかも知れない。
 沖には、ヨットが二つ、静かに浮かんでいた。
 この自転車は、その後繰り返し吹いた強風で、だんだん砂をかぶり、やがて砂の中に埋もれてしまった。天然の埋葬であろうか。



 砂浜に無造作に転がった丸太。
 どこから来たのか、朽ち果てるまでここに転がっていなければならないのか、やはり何かを訴えているいるような気がしてならない。
 昔なら、薪になった。それでご飯が炊け、風呂が沸き、一つの家族に幸せをもたらすことが出来た。
 今は、拾う人もない。
 柿崎の相澤先生は、海岸に流れ着いた古板などに書を彫っておられる。
 木が生まれ、板として使われ、やがて廃材となって海を漂った終着駅で立派な書家の書が刻み込まれ、永遠の命を与えられる。
 木としての第一の人生、板としての第二の人生、そして廃材となっても、書が刻み込まれて復活し、第三の人生を生きつづける、幸せな木もある。


 ボートや自転車の問題とは違うが、日常生活から出る「ごみ」の問題。
 いつかのテレビで放送していた。
「飼い主のフンは犬の責任です!」
という立て札を立てたら、犬のフンをそのままにして立ち去る人が減ったという。
 ごみ捨てのマナー、ごみの総量を減らすことなど、国語や算数と同じくらい重要な問題として学校の総合学習などに取り入れても良いのではないか。

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