輪島大祭と奥能登

2002(平成14)年8月23日〜24日  (8月30日記)

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 能登の若者たちは、盆や正月に帰らなくてもキリコ祭りには帰って来るという。そこまで若者を捉えて離さない若者のふるさと能登とそこの祭り、何回か能登を訪れる機会はあったが、輪島の大祭は見たことがない。博物館友の会の企画を見て、是が非でも参加したいと申込みをした。

 8月23日、朝7時スタート。37人。

 最初の見学は中谷(なかたに)家で、能登で唯一海に面していない柳田村にある。江戸時代の天領庄屋屋敷で県の指定文化財になっいる。 天井、柱、階段にいたるまで、朱と黒で塗り分けられた総漆塗りの土蔵が見物で、 見学のあと、お茶をいただきながらのご当主・中谷さんのお話は面白かった。

 「佐渡は49里波の上」と言うが、49里とは何が49里なんでしょう? 佐渡の周りをぐるりと廻ると49里と言う話もあるが、本当は能登の小木から佐渡の小木までが49里なんですね。「西は大佐渡、東は小佐渡」って言うけど、なんで大佐渡、小佐渡なんですか?これはね、能登から見ると佐渡は二つの島に見えるんですよ。西の方が大きな島、東の方が小さな島にね。そこから来ているんですよ。

 大きな木の丸太(越後では「ごろ」と言う。薪にするために切り倒した木の根っこの部分で、どうしても薪に割れないのでそのまま囲炉裏で燃やしたものである)を、囲炉裏で燃やすコツは、男女の仲と同じ、付かず離れず、急がずあわてず、そうでないと燻って煙ばかり出てしょうがない。

 皆さんようこそお出でくださいました。ここは「観光地」でなくて、「閑古地」です。

 昔の為政者は責任感が強かった、今の政治家はすぐに≪秘書が≫とおっしゃる。……」

 佐渡のこととか田中真紀子さんのこととか、言葉の端はしに、新潟の人たちへの心遣いが感じられた。ゆっくりお話を伺っていると夕方になってしまうかも知れない。

中谷家は、田んぼに畑、民家が散在する一見なんでもない平凡な農村の風景の中に存在していた。 

 中谷家から再び海岸に出て、能都町にある真脇(まわき)遺跡縄文館に向かった。水面すれすれ、水際ぎりぎりの道路を走ると、なぜか佐渡の海岸風景を彷彿とさせるものがある。

 眞脇遺跡は、何メートルも深く掘り進むにつれて、なんと約2千年前から6千年前までのおよそ4千年にわたる長期定住型集落遺跡と判明したという。285頭ものイルカの骨が出たり、巨大な木を縦に割って環状に並べた環状木列柱が出たり、まだまだ多くの謎を秘めているらしい。

 縄文館の展示物のラベルは、英語、日本語それに韓国語で書かれていた。 ちょっと訊ねてみたら、韓国のある都市と何か歴史上の関係で姉妹都市となっているからという話だった。日本海は広いものではなく、朝鮮半島と日本、特に能登とは昔から考えられないほどの遠い距離にあったわけではないのだと、現在の日朝間の懸案問題など思い浮かべながら、妙に納得した気持ちになった。

 車窓から見附島(軍艦島)を眺めたりしながら、のと鉄道の終点蛸島にある珠洲市の珠洲焼き資料館に到着。本日午後の最後の見学である。見附島は、一度見たら絶対に忘れない。何度行っても、能登へ行ったらまた眺めてみたい、軍艦島という名前がぴったりの島である。

 珠洲焼きは、平安末期から室町時代に掛けて製造されたやきものであるが、その後忽然と姿を消してしまったとの事。甕や壷、鉢が多くを占めるが、ほかに経筒や仏・神像などもあったとのことである。珍しいものでは、資料館の学芸員の説明だったが、多分これがすり鉢の元祖ではないかと考えられるという内面全部ではないが筋目の入った鉢があった。

 6時10分過ぎホテルに到着。夜の予定があるだけに、かなりきつい日程である。懇親会を兼ねた夕食はゆっくりだったが、入浴は祭りの後にした人が多かったようだ。

夕食後、輪島市文化会館で御陣乗太鼓実演を見てから、祭の街へ歩いて出掛ける。

 各町内から出たキリコが重蔵神社に集結し、市内のメインストリートを通って松明神事の場所へ移動して行く様子をしばらく見学、近道して桟敷席まで5分ほど歩いた。

 重蔵神社のひときわ大きなキリコのほかに、15本あまりのキリコがじっと並んで松明神事を待つ情景は神秘的で幻想的であった。

夜11時過ぎ、わらで作られた大松明が大きな火の玉となって倒れ、周りの群衆にどよめきが起こる。事故?桟敷席でも、はっとした一瞬だった……。 薄暗闇の中を、一人の若者が御幣の付いていた棒を頭の上に両手で握り締め、弾丸のように海の方へ駆けて行くのが見えた。ちょっとあっけない幕切れだった。

ホテルに帰り、風呂に入ったりした後でちょっと反省会をしていたら、寝たのは1時ころになった。

 24日。 明け方にかなり降った雨も、朝市に出かけるころにはすっかり上がった。

輪島の朝市では、気さくに話し掛けられる素朴な人情に触れることができる。 私事だが、縁あって輪島を訪れる機会は4回目、昨年の朝市でお会いしたNさんというお婆さんに再会し、写真を差し上げることが出来た。お土産まで頂いてしまった。

「ばーばは、いつもいるよ」とお元気で、私の旅は何倍も楽しくなった。

朝市を後にして、輪島市町野町にある時国家へ向かう。上・下時国家は、町野川沿いに海から少し入ったところ、田んぼのある昔懐かしい静かな風景の中にある。

壇ノ浦の戦いで破れた平大納言時忠は能登配流となり、配所で没した。時国家は、時忠の五男時国が祖で、近世初期に上時国家・下時国家に分かれたという。

風呂桶に白い布がかぶせてあった。殿様の体が直接風呂桶に当っては恐れ多いというので、風呂桶におおきな布をすっぽりかぶせて、その中に入ってもらった。ここから「風呂敷」という言葉が生まれた、という説明もあったが?

 そろそろ旅も終わりに近づいてきた。

 旅行社のご尽力で、親しく質問まで受けながらの輪島塗りの実演を見せてもらった。記念のお土産を買う。850万円の座卓など、持っていったお小遣いではちょっぴり不足という人がたくさんいたようだ?

 帰り道、やや風が強かったが千里浜渚ドライブウエイを走った。

 猛烈な暑さが一息ついて、残暑に苦しめられることもなく、心配した雨にも遭わず、天気には恵まれた。また、かなり強行軍の旅行ながら、具合の悪くなった人はいなかった。

 能登の若い人たちと話をする機会はもちろんなかったが、これからも、ふるさと能登の祭りには、必ず帰って来てくださいと言いたかった。

 何度か訪れて、遠く望める七つ島、禄剛崎にある句碑「ひぐらしが鳴く奥能登のゆきどまり」、ぼら待ちやぐら、柳田村や時国家のある町野町の田んぼのある静かな風景などが私の心の中にしっかり定着してしまった。何よりもそこに生きる人たちが、ますます好きになった能登の旅だった。

素晴らしい旅を有り難うございました。

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