PHOTOニュース

見頃を迎えたカキツバタ。鮮やかな紫色の花が水辺を染め、甘い香りを漂 わせた=17日午前、市内軽井川の柏崎・夢の森公園 (2024/05/17)


本紙連載のコラム「続・呑んべぃ親父の独り言」(上巻)を出版した春口 敏栄さん (2024/05/16)


旧高柳小で行われてきた卒業証書作りに向け、和紙の原料となるコウゾの苗を植える鯖石小児童=同校 (2024/05/15)

>>過去記事一覧
殉職の栗原医師の碑を移設

 1944年に市内椎谷地内の観音(椎谷)岬で発生した土砂災害により40歳で亡くなった栗原健二医師の「殉職の碑」が、岬の中腹にある夕陽が丘公園内に移設され、23日には遺族で長男の惇一さん(78)=市内穂波町=らが参列して移設披露と供養の法要が営まれた。中越沖地震の復旧工事として進められている「椎谷岬トンネル」が開通すると、碑のあった坂の下地内の国道352号が廃道になることから、椎谷町内会(佐藤正幸町内会長)が県に移設を要望していた。

 栗原医師は32年に椎谷地内で開業。当時の高浜町や石地、西山方面にも往診に出かけ、多くの人に信頼されていた。浜忠にあった太田小の学校医も務め、44年7月20日午前、予防接種のために自転車で学校に向かったが、豪雨による土砂崩れに巻き込まれ、土砂とともに波打ち際まで押し流され、遺体で発見された。戦時中で記録が残っておらず、20年後の64年になって椎谷区長らの手で「栗原医師殉職の碑」が現地に建立された。

 中越沖地震では44年の災害と同じ場所が大きく崩壊した。地震直後、市内東本町2の会田恵医師が医師会報に当時の様子を記し、これを読んだ佐藤町内会長らが県柏崎地域振興局に移設を要望。今回、県とトンネル工事を担当する福田・水倉共同企業体の協力で、市街地側に500メートル寄った公園内に移設された。

 供養の法要には椎谷や浜忠の住民、医師会、県、施工関係者ら約40人が参列。華蔵院・高橋教正住職による読経の中、参列者が焼香し、故人をしのんだ。

(2009/ 7/23)

※柏崎日報社掲載の記事・写真は一切の無断転載を禁じます。


すべての著作権は柏崎日報社および情報提供者に帰属します。新聞記事・写真など、柏崎日報社の著作物を転載、利用するには、原則として当社の許諾を事前に得ていただくことが必要です。掲載についてのお問い合わせは、お電話 0257-22-3121 までご連絡ください。