戻る

御殿山と星野藤兵衛

剣野御殿山(剣野小学校敷地及び裏山)に星野藤兵衛の別荘があった。
星野家は、柏崎で代々酒屋、質屋を営み文政年間(1818-1830)に家勢が急に良くなり、六代目の時、苗字、帯刀を許され、桑名藩柏崎陣屋御用達の豪商として知られていた。文政10年(1827)の金持番付は小結、7年後の天保5年(1834)には関脇に昇進。現在の柏崎信用金庫のところにに屋敷があり、その東側には古老逢が「星野小路」と呼ぶ小道があった。七代目が藤兵衛輝正。その子八代目輝直は早くこの世を去る。輝直の弟が九代目の輝文。文政11年(1828)5月10日父藤兵衛の次男として生まれのち万延元年(1860)家督を継ぎ襲名した。小字政平、黄葉園または左琴右書屋と号した。
万延元年(1860)父の職を継いで桑名藩御用掛となる。
文久2年(1862)星野藤兵衛、小熊、市川、相沢、西巻等が、桑名藩主来柏時に備え御殿を剣野山に造営した。(柏崎町の有力者達が作った物が、星野藤兵衛の別荘といわれる経緯は不明。)
文久3年(1863)藤兵衛は郷士格となり、同年7月外国船渡来のために兵糧掛を命ぜられる。
文久年間に長州藩士近藤芳樹と出会っている。近藤芳樹は歌人として剣野の御殿山を訪ね、藤兵衛に国の内外の情勢を説く一方、古事記や万葉集から王政復古への待望を論じ、藤兵衛に影響を与えた人物。
藤兵衛は糧食兵器は海防令によって蓄積し、鵜川から剣野山まで開鑿し港を築く工事従事者のため米穀副食物その他を倉庫に準備した。剣野山の御殿は一朝有事の時のために桑名藩陣屋の立退場としての役割も持つ。藩主・老臣に佐幕の不可を力説、同志には本居・平田の著書をわかち、東西の勤王公卿有志と剣野山の別荘を連絡場所として交流して機会の来るのを待っていた。
元治元年(1864)7月11日吉田米三郎、丸田伴二等有志とはかり、大砲数門を献ずる。大砲は佐渡へかって移住させていた金工琢斉親子を招き、佐久間象山の指導を受けて鋳造させたものである。慶応2年(1866)3月これを賞され禄50石を与えられ、翌月3人扶持を給せられる。
39歳の慶応3年7月から1ヶ月をかけて、魚沼の栃尾又温泉へ湯治に出かけている。温泉で数名の長岡藩士と知り合い、中には帰宅後も和歌と土産を交換している。帰路は長岡城を見て帰った。(湯あみ日記が残されている。)この湯治旅行は健康が優れず、妹から勧められての事ということになっているが、近藤芳樹と約束していた越後の情報提供に役立てる狙いがあったのではないか、という憶測もある。
慶応4年(1868)3月13日北陸道鎮撫総督高倉永祐、副総督四条隆平等が糸魚川に入り藤兵衛を呼んで、越後諸藩の動向を尋ねる。総督軍に大総督府から、江戸へ即時転進するよう命令が来た。藤兵衛らは「東北諸藩の向背がまだ定まらないときに総督軍が越後を去ると、諸藩が賊に走ることになるから、2隊に分け1隊を越後に残して欲しい。」と進言したが入れられなかった。
藤兵衛は柏崎へ帰り命ぜられた東北諸藩の情勢探索を行い、総督府に報告した。総督軍が去ると会津藩士や旧幕府歩兵連隊の集団脱走兵(古屋隊)が越後に入り、高田藩は勤王・佐幕が決せず曖昧な態度をとるなど、藤兵衛の心配していた状態になった。
将軍徳川慶喜が謹慎していた上野寛永寺から水戸に引退すると、桑名藩主松平定敬は謹慎していた深川霊岸寺から、ロシア船コリヤ号で品川沖から津軽海峡を通って新潟に上陸、藩士220と共に柏崎に3月末に到着、用意されていた剣野の御殿を憚って、大久保の勝願寺に謹慎した。閏4月初旬23歳の藩主定敬は、会津藩の硬化に影響され藩内が恭順派と主戦強行派に対立する中、抗戦の決意を固める。
北陸道(鎮撫)先鋒総督参謀黒田清隆・山県有朋・軍監岩村精一郎が率いる官軍が柏崎に迫って来たので、藤兵衛は陣屋側を説得する一方、官軍に陳情して柏崎町を兵火から救うよう苦慮した。閏4月25日藤兵衛が青海川に官軍を迎え、26日柏崎に入ろうとすると東軍に接触し、官軍は柏崎を焼こうとするが、藤兵衛はこれを止めた。(柏崎進入の日付が他の資料と異なる。また官軍先鋒隊長と接触した人に藤兵衛が入っていない。藤兵衛は別行動だったのか。)
鯨波戦争は風雨激しい中、27日未明から始まり、夕刻には東軍は番神に退き、官軍は東の輪を占拠したが、鯨波に退いた。鯨波はほとんどの家が両軍の砲火で炎上した。
三国街道を進んで三国峠の磐若塚で戦った官軍の東山道軍が、十日町から入った山道軍と合流して小千谷を目指し、真人村雪峠で交戦し小千谷に27日に入った。磐若塚、雪峠の戦況は柏崎で交戦中の桑名軍に知らされ、柏崎の戦略的意義がなくなったので、翌28日早朝までに刈羽郡妙法寺村まで撤兵し小千谷を放棄した会津軍と合流した。(柏崎戦争が避けられたのは、住民が頼んだからではなく、戦略的に無意味になったからだ、とする見方がある。)
閏4月28日官軍の焼き討ちから柏崎を守るため、鯨波村の東の輪原で、官軍先鋒薩州外城四番隊長中村源助と接触したのは、小熊六郎、田代為吉、赤沢禄助。小熊と赤沢は隊長に伴われて官軍本営に行き柏崎の情勢を報じ、田代は安否の報を下宿・中浜・大久保・柏崎の町村民に伝えた。この結果同日午後薩・長・高田の弊800人が中浜村に入り、中村隊長らは陣屋と柏崎町を巡検した。
当時官軍は補給が乏しく、志気が衰えていたので藤兵衛は、各藩の兵糧方を命ぜられ、数ヶ月に渡り兵食軍資を供した。前後を通じ兵糧92万食、清酒23石5斗。
4月29日北陸道先鋒総督参謀山県有朋は柏崎に進駐し、柏崎に長岡藩攻略の本営を置くことにし、剣野山の星野藤兵衛別荘を「会議所」(参謀会議の意)と定めた。(司令部は妙行寺、野戦病院は門光寺)北陸道先鋒総督軍の実権を掌握している山県有朋参謀が柏崎を本営にした理由は、「柏崎が長岡の西・南路すなわち妙法寺街道及び小千谷街道に分岐する北陸道の要衝を占めていた」からだと「越の山風」に書いている。
同年5月18日藤兵衛は総督副将より感状を与えられ、民政局御用掛を命ぜられる。7月兵部卿宮に謁を賜り西園寺壬生卿の懇命を受ける。
同年8月落ち着いたので職を辞したが許されず、強いて請うて許される。米100俵、金50両を賞される。
奥州の地がこの度の戦乱により蚕糸が売れず、生産者が窮乏しているというので、明治元年(1868)10月内命により太政官紙幣100万両の融資を受けて、人を奥州に送り蚕糸を買収して、横浜の市場へ送ったが糸質が悪く所期に反した。一方他の柏崎の富豪達は桑名藩に軍用金を貸与し、多くの債権があったが旧藩主からの償却を受けられず、星野藤兵衛の威名をうらやみ、大蔵省の大隈重信が水原の越後府に滞在しているときに、藤兵衛を斥けるよう密かに請託した。大隈重信は藤兵衛に対しさきの融資100万両の即時返還を厳命した。このため家宝什器の類を売り払いようやく債務を返済し、星野家は破産没落した。
明治2年(1869)藤兵衛に終身三人口を給する命があった。
晩年の藤兵衛は剣野御殿山の御殿楼で余生を送り、中央からの誘いもあったが固辞して、明治9年(1876)6月7日享年49歳で没した。西本町の妙行寺に「星野藤兵衛」の墓がある。

明治11年(1878)明治天皇御巡幸の際(9月14日)に、星野藤兵衛相続人星野芳造に「天顔奉拝の儀式」が行われ、1000両の祭祀料並びに御下賜金があった。
明治12年5月下町南側の星野藤兵衛旧宅で郡役所が開設される。
星野藤兵衛には、戊辰戦争の際戦火から柏崎を救った郷土の偉人という評価がある一方、時代の移り変わりに上手に立ち回ったとする見方がある。星野藤兵衛の別荘剣野の御殿山の御殿は、後に鉱泉を引き料理屋後天楼として柏崎の上流人や文人の雅会、観月の宴などが催され、水源地で花見が出来るようになるまで、町民に花見の名所として親しまれた。第三中学が建設される時に山が削り取られ、いま数本の桜が残されている。
昭和48年12月1日に「剣野御殿山旧跡」として柏崎市指定文化財に定められた。

陽だまりホームページ「星野藤兵衛」へ
参考資料: 柏崎編年史  柏崎市史  柏崎のいしぶみ(山田良平)
       柏崎市の文化財(柏崎市教育委員会) 柏崎刈羽台25号(柏崎・刈羽郷土史研究会)


1998/11/5 UP
戻る

連絡はE-mailで