刈羽村の桃の歴史

刈羽村の桃の歴史は古く、その歴史は江戸時代までさかのぼる・・・・・。
嘉永5年、現在の刈羽村大字下高町、塚田源太夫がこの砂丘開発に志し、明治19年没するまで
桃の基礎を築いた。

明治の中頃から刈羽村・西中通村の一帯の砂丘は、桃園の拡大につれ、毎年4月半ばころには、
松の緑色と桃の紅い花が混じり合う美しい景観を魅せた。

大正2年、電車の車窓からの眺めが美しかったことから、刈羽村大字刈羽地内で、臨時列車場”桃林駅”
が開設され、歌舞伎や茶屋が設けられ、連日の花見客で賑わった。

最盛期は対象時代で、刈羽村大字下高町大字、大字正明寺、大字刈羽で
50ヘクタール、栽培農家190戸、生産額8000円(大正7年とすると現在価格約1450万円)
など県内はもちろん、富山、長野、福島まで発送された。

昭和に入り、出荷組合もできたが、第二次世界大戦がもたらした食料政策の犠牲となり、強制伐採され苦しい
歩みをたどってきた。

当時の様子.png

地域特産品
砂丘桃ジュース.png


添付ファイル: file砂丘桃ジュース.png 16件 [詳細] file当時の様子.png 16件 [詳細]

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Last-modified: 2022-06-03 (金) 19:20:46 by pukiwiki 1.5.4