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市内上田尻、伊部武彦さん(70)がこのほど、冊子「親たちの長鳥駅―住民運動10年の泣き笑い―」を出版した。戦時中の信号場に始まり、10年間に及ぶ悲願の住民運動の末に駅舎が完成した長鳥駅。亡くなった父の残した手記や集落の人がつづった記録をもとに、全国のJR本線では唯一、上り下り併用のホームが1本だけという“島式ホーム”が今に伝える苦闘の歴史をまとめた。
長鳥駅は1943年、戦時国策の信号場として、越後広田駅と塚山駅間に設置された。当時は単線の鉄道で、信号場は軍需列車を優先通過させるため、全国的に設けられたもので、住民の乗降はできなかった。
これを契機に、44年には地元有志が「長鳥区有志会」を結成し、信号場での仮乗降を旧国鉄に請願する住民運動を起こし、2年後に認可を得た。地元民は上り下り1日2本の列車を利用できるようになった。仮乗降に伴うホーム建設、待合室の整備などすべて地元負担だった。
有志会は、信号場仮乗降が実現すると、ただちに解散。46年、長鳥地区全集落の同意のもとで「長鳥駅昇格請願委員会」を組織した。県内のほとんどの信号場が3年後には駅に昇格する中で、長鳥駅は地形上、駅の設計規模の問題などで運動開始から5年半後に駅昇格、8年後にようやく駅が開業した。
駅舎の建設費は全額請願者負担となり、当時9集落・425戸が半額以上をまかなった。米価1俵(60キロ)が3000円の時代。各戸平均で8万円余りを負担した。
伊部さんは長鳥出身。父・故國廣さんは34歳で請願委員会の委員長を務めた。父の残した手記「長鳥駅昇格請願運動の回顧」と、集落の故長原義美さんが記録した「停車場設置請願運動日誌」の2つの資料をもとに、信号場の仮乗降以来10年にわたる住民パワーの歴史を語り継ぎたいとの思いを冊子に託した。
冊子はA5判108ページ。「北条村駅事情」「長鳥信号場」「駅昇格請願運動」など6章からなり、当時の記録をつぶさに伝える。
(2008/12/28)
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