大洲のむかし(3) |
白河藩政の頃
寛保元年(1741年)になると、高田藩主松平定賢(さだよし)は、陸奥(むつ)白川藩(今の福島県)に移されました。そして高田藩へは榊原政永が入りました。そのため、もとの高田藩の領地のうち、刈羽郡と三島郡は定賢の領地ということで、白川藩に所属することになったのです。刈羽郡の一部であった柏崎も白川藩の領地となりました。
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白河領柏崎御役所高札 武藤昭八氏蔵 (柏崎市立図書館) |
白川藩の領地は、陸奥の国の三つの郡、上総(かずさ)の国の二つの郡、安房国の三つの郡、それに越後国の魚沼・刈羽・三島・蒲原・岩船の五つの郡であったといわれます。このうち、越後領の石高が最高で、しかも越後領の大半を占める刈羽郡と三島郡は、高田藩の時からの領地であったため、白川藩は特にこの領地に力を注いだようです。そして、越後領を支配する陣屋が必要となったため、柏崎の町並みと刈羽の平野が一望できる大久保村に、これまでの「柏崎陣屋」と区別する「大久保陣屋」を造ったのです。以後、戊辰戦争で陣屋がなくなるまでの間、この大久保陣屋が刈羽郡の政治の中心となるのです。白川藩は、全体で約16万7千石の領地を持っていましたが、そのうち大久保陣屋で扱う石高は、約8万2千石余りでした。全体の半分くらいの石高を扱う大久保陣屋は、大切な場所だったに違いありません。