大洲のむかし(5)

戊辰戦争-1
 慶応三年(1867年)十月十四日。江戸幕府の将軍徳川慶喜は,朝廷に政権を返す「大政奉還」をしました。これにより、256年間続いた江戸幕府は終わりを告げました。
 しかし,幕府を支援していた旧幕臣や会津・桑名の二つの藩は、新政府を作ろうとする動きや慶喜に対する扱いに反発し、幕府を倒そうとする運動の中心となっていた、薩摩・長州の藩に対して兵を挙げました。
 慶応四年(1868年)一月三日、京都に入る鳥羽・伏見の二つの道を守っていた、薩摩・長州両藩との間に戦争(鳥羽・伏見の戦い)が起こりました。しかし、旧幕府軍はこの戦いで敗れ、慶喜は松平容保(かたもり)・松平定敬(さだあき)らを従えて大坂城を退却し、船で江戸に帰りました。慶喜は江戸で謹慎の意味で上野の寛永寺に入りました。そして三月に、慶喜が水戸に帰ると、桑名藩主松平定敬も柏崎で謹慎しようと思いました。桑名の城は、朝廷側に開城した後だったので柏崎に来ようと思ったものだと思います。定敬は江戸からロシア船コリヤ号に乗って、津軽海峡を回り新潟に上陸しました。そして、陸路で柏崎までやって来ました。三月三十一日に、藩士220名ほどと一緒に到着した定敬は、剣野山に用意された殿様用の宿「星野御殿」に行かず、謹慎の意味で勝願時に入りました。その時の勝願時の十三代目住職智舟とその家族は、寺内徳照寺に宿し、その後は久米(くんめ)に身を寄せることになりました。また、藩の主だった者も、近くの極楽寺や西光寺に分宿しました。
 このように謹慎の意を表した慶喜・会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬等の努力も空しく、新政府軍はあくまでも旧幕府軍を攻めようとし、兵を会津の方と柏崎の方に向けたのです。そこで、新政府軍側に反感を持っていた仙台・米沢・盛岡・久保田などの藩は、会津藩に味方して奥羽列藩同盟を結び、やがて新発田や長岡の藩もこれに加わっていきました。これにより、会津側はますます悪者にされました。

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