大洲のむかし(6) |
戊辰戦争-2
そのような中で、柏崎にいた桑名藩は、戦うか降伏するかの決心がつかなかったのです。薩摩・長州軍は山形有朋を大将にして、高田から青海川まで迫ってきました。
桑名藩主松平定敬は、最初は降伏しようと考えていたものの、兄の松平容保が会津で戦うことを決めて以来、次第に戦った方が良いとする考えになってゆきました。
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戊辰戦争で使われたのと 同型の大砲の復元 (柏崎市立図書館) |
そのような時に、降伏側の中心となっていた家老吉村権左衛門が暗殺されたのです。定敬の秘密の命令を受けたといわれる山脇隼太郎(当時20才)と高木剛二郎(当時22才)は、吉村を狙って閏四月三日の夜、陣屋から粟島小路(現在は通学路になっている所で、二つ井戸から学校の前に出る道)を通って、定敬のいる勝願寺に変える途中で吉村を切ったということです。そして、二つ井戸で刀を洗ったともいわれていますが、はっきりしたことは分かりません。吉村を暗殺した山脇と高木はすぐに逃げてしまいました。
そこで、定敬は新政府軍と戦うことを決め、戦いの準備をすすめました。閏十六日には、定敬は加茂へ退却し、残った兵で戦ったのです。
陣屋は戦い良い場所とはいえず、今の鯨波の御野立公園・嫁入り坂の辺りを戦いの場所に決めました。細く急な坂道なので、簡単に攻めてこれないと考えたからのようです。道の両脇に畳を立てて置き、その後に桑名兵が隠れていて、一人がやっと通れる畳の間を敵が通った時に襲うという戦法もあったらしいのですが、失敗に終ったようです。
閏四月二十七日の朝四時頃、ついに鯨波戦争が起こりました。この戦いは、たった一日で終わってしまったのです。というのも、桑名軍は圧倒的に勝っていたのですが、小千谷の方で戦っていた旧幕府軍が負けてしまい、柏崎を守ろうとする意味がなくなったのと、小千谷からやってくる新政府軍とで挟み撃ちになる心配が出てきたので、桑名軍が退却したのです。退却した桑名軍は、刈羽郡西山町妙法寺を通って、長岡・加茂へ向かいました。
戊辰戦争で 使われた砲弾 (柏崎市立図書館) |
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この戦いで、新政府軍側の死者11名、戦傷者19名。桑名軍の死者1名、戦傷者8名であったということです。
この戦いで一番被害を受けたのは、鯨波の住人でした。民家はほとんど焼かれ、住民は戦後の後遺症に数年も苦しまなくてはならなかったのです。
長岡に移った桑名軍も悠久山の戦いで負けて会津へ。加茂に移った定敬等も会津へと退却して行きました。そして、会津藩主松平容保等と一緒に戦おうとしましたが、容保は定敬を振り切って城にこもりました。そこで定敬は榎本武揚(たけあき)の軍艦で函館に向かったのです。函館戦争が起こる前に、定敬は桑名の重臣の説得で降伏し、尾張藩に身をあずけました。
そして、後に罪を赦された定敬は、柏崎に来て当時の戦死者、戦傷者の法要を勝願寺で行いました。そのお墓と記念碑を勝願寺裏の墓地に建てて、手厚く葬ったのでした。