大洲のむかし(7)

柏崎県庁
 柏崎陣屋跡の石碑に「柏崎県庁跡」と書かれています。
明治になる前は、柏崎は刈羽郡の一部であり、大洲地区は大窪村と呼ばれていました。ところが、鯨波戦争の後の、慶応4年(1868年)7月28日に、初めて柏崎の町を柏崎県と言うようになりました。場所は、今まで柏崎を支配していた桑名藩の陣屋が残っていて、他に適当な場所がなかったので大久保の高台に県庁を置いたようです。そこで、大洲地区は柏崎県大洲村と呼ばれるようになります。この時の県知事は、四条隆平でした。この年の8月、頸城・魚沼・刈羽の郡を柏崎県に入れました。

柏崎陣屋跡

柏崎県庁跡





(2002.02.07)


 明治2年(1869年)2月27日、新潟県ができて柏崎県は廃止。しかし、同年8月25日、また柏崎県ができました。
 明治4年(1871年)7月、廃藩置県が行われ、いままで藩として存在していた地域も県になりました。このため、高田・与板・椎谷・清崎・新発田・村上・黒川・峰岡・三日市の十の藩は県となり、それまでに県となっていた柏崎・新潟・佐渡とあわせて、越後には13の県ができたのです。
 しかし、同年11月には、再び全県を廃止して、新潟・柏崎・相川の三つの県に統合しました。
 このように変動をくり返していた県も、明治6年(1873年)6月10日に新潟県の一つに統合されてしまいました。

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