行通寺について

第25代住職 釋惠照

  • 1964年2月3日 新潟県佐渡郡金井町に生まれる
  • 県立佐渡高校、日本大学文理学部を卒業
  • 中学校教員として勤務
  • その間に内地留学として上越教育大学大学院修士課程修了
  • 2007年   三条真宗学院卒業
  • 2013年5月 住職就任
  • 2014年3月 中学校教員退職  現在に至る

歴史

佐々木権十良盛重(佐々木三良盛綱の子孫といわれている)は、能州鳳至郡下村という地に居住していたが、京都の天台山(比叡山とおもわれる)に登り、天台宗を学んだという。

その後 故郷に戻ったが、文明元年(1469年)に本願寺第八代住職 蓮如上人が、越前国 吉崎に御下向された折り、上人に帰依し弟子となられた。上人より、法名「法教」を授かり、また「浪分御名號」(南無阿弥陀佛の六字名號)等いくつかの品を賜ったといわれている。

文明三年(1471年)に様々な事情から、越前国から越後国蒲原郡能登郷野村に移転し小庵を構えたのが、行通寺の起源である。

その後 第五代 法林の時(1560年頃)、蒲原郡加茂下条村に移転、第六代 林慧の時(1570年頃)に、苅羽郡田塚村に移転暫住の後、同代の天正八年(1580年)に苅羽郡琵琶嶋村に移住し、現在に至った。

ー『行通寺過去帳』の記録よりー

『行通寺過去帳』は火災によって焼失した部分を当時の住職が記憶をたよりに書きおこしたと言われているので、記載内容の一部が歴史的事実と異なる部分がでてきている。実際に蓮如上人が吉崎に赴いたのは文明三年(1471年)である。

浪分御名號(なみわけのおみょうごう)
実物は紙が劣化していて、字の判読が難しいため
コンピューター処理をしたものをあげました。
 ある年、越前の吉崎から若狭国小浜に舟で渡ろうとしたときに海上で暴風に遭い、そのために舟が転覆しそうな程に揺られ、非常に困難な状況になった。その時に蓮如上人は「南無阿弥陀仏」の六文字を一片の紙に書いて船首に掲げられた。すると、不思議にも暴風はやまなかったけれども舟は少しも動揺せずに矢を射るように退行し無難に又吉崎に帰ることができた。それで、この名号を「波分御名號」といいます。
いいつたえより
  • 第6代 林慧の時(1570年ころ)に苅羽郡田塚村に移転。
  • 第6代 林慧の天正8年(1580)に苅羽郡枇杷嶋村に移転し小庵を結びました。
  • 第7代 圓察の時代に本堂と庫裡を建立し、寺号「行通寺(法教坊が蓮如上人よりいただいたといわれている)」を公にしました。
  • 第9代 淨和の時(1685年頃)火災によって本堂と庫裡を焼失しました。
  • 第12代の團察の時に本堂と庫裡を再建しました。
  • 第15代 秀察の時の天明2年(1782年)に本堂が再建(現在の本堂)されます。
  • 第21代 利剣の大正13年(1924年)に瓦葺き屋根に改修。
  • 第23代 正縁の昭和52年(1977年)雪害のため破損した本堂の屋根を改修。
  • 同じく第二23代 正縁の昭和60年(1985年)に本堂の内装を中心に大改修を行いました。

以上のことから、現在の本堂は実に230年以上の歴史を刻んでいることになります。

天明2年 堂宇再建時の棟板 大正13年 堂宇改修工事の時の棟板
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歴代住職

開 基  法 教 文明元(1469)年 蓮如上人の弟子となる。
文明3(1471)年 越後国 蒲原郡 能登郷村に小庵を結ぶ。
文明17(1485)年5月3日命終
第二代  法 意 明応7(1498)年8月2日命終(委細 不詳)
第三代  法 信 大永5(1525)年11月28日命終( 〃 )
第四代  法 慧 永禄2(1559)年5月2日命終( 〃 )
第五代  法 林 1560年頃、蒲原郡 加茂下条村に居住す。
天正元(1573)年7月13日命終
第六代  林 慧 1570年頃、苅羽郡 田塚村に居住す。
天正8(1580)年 琵琶嶋村へ移住し、小庵を結ぶ。
春日山 謙信より、境内地並びに御除地を配領される。
慶長17(1612)年4月9日命終
第七代  圓 察 本堂(5間・5間半)・庫裡(3間半・6間)を建立。
御本尊(御木像)を当代より安置す。
蓮如上人より開基 法教坊がいただいたといわれる寺號「行通寺」を公にする。
萬治3(1660)年1月14日命終
第八代  明 空 寛文11(1671)年命終
第九代  淨 和 1685年頃(貞享年間)火災にて本堂・庫裡を焼失。
広川家を分家。下村家を分家。
寺跡を下村佐々木光立山行通寺と定む。(法教の出身地が石川 県能登の下村)
貞享2(1685)年5月3日命終
この淨和のころ、浄興寺を中本山とする。
また、浄興寺是心院(宣性)より親鸞聖人の御影(浄興寺安置のもの)をいただく。
第十代  團 察 焼失後、本堂(5間・6間)-板屋根造- 庫裡(4間・8間)を再建。
團察は 妙法寺村 超願寺より入寺す。坊守は第九代の娘。
妻有千手村 栄行寺、新潟寺町 正念寺、保内 長泉寺との縁戚を結ぶ。
元禄4(1691)年8月19日命終
第十一代 了 残 坊守は妻有 千手村 栄行寺より嫁す。
病弱にして元禄16(1703)年5月7日命終
第十二代 團 察 坊守は蒲原郡 小吉村 圓明寺より嫁す。
本堂(7間・7間)、庫裡(4間・9間)を建立す。
地中(前寺)を造立す。萬了坊と号す。
(境内に別家を作り、茨目村の多右衛門の子を弟子とする。)
-以降3代に亘り萬了坊は存続- 妻有上野村 永徳寺と縁戚を結ぶ。
寛延元(1748)年11月29日命終
第十三代 觀 察 若年(26歳)にして逝去す。(父・團察命終の3年前)
北野村 小野家と縁戚を結ぶ。(第十三代 觀察の妻が小野家の娘)
延享2(1745)年9月27日命終
第十四代 秀 嶺 第十三代觀察逝去の後、残された坊守と再婚入寺す。
(頚城郡 米山寺村 横超寺の二男)
宗祖親鸞聖人の五百回御遠忌を厳修(10昼夜11日間)
天明2(1782)年1月31日命終
第十五代 秀 察 第十三代 觀察の息子。坊守は北野村小野半左衛門の娘である。
明和7(1770)年梵鐘並びに鐘楼を造立す。
安永7(1778)年本堂再建企立す。
天明2(1782)年本堂上棟。本堂は東西7間・南北7間半の大きさとした
         (檀頭広川善治郎、世話方渡辺勘左衛門)
寛政8(1796)年3月19日ご本尊御遷座。萬了坊を廃寺とす。
寛政11(1799)年4月14日命終
第十六代 秀 説 第十四代 秀嶺の息子(第十五代 秀察の猶子とす)。
坊守は北野村 小野半左衛門の娘である。(第十五代の坊守の妹)
天保2(1831)年2月10日命終
第十七代 秀 索 第十六代 秀説の長女を坊守とし、第十七代住職として入寺。
北条・西方寺の二男 である(大行院南道の弟)。
坊守死去の後、第十六代の二女を後妻とする。
庫裡再建す。東西5間・南北9間に加え、西側に3間半・3間の他 奥の間
(2間半・5間)中の間(3間・2間)全て完成す。(現在の門徒会館部分)
弘化4(1847)年9月17日命終 中本山 浄興寺より願乗坊の名を賜る。
第十八代  秀 方 坊守は北条・西方寺の娘。(嫁して三年目に難産の末死去)
次の坊守(後妻)は、北条・西方寺 大行院南道の姉の娘、幸。
秀方と後妻 幸の長女は、北野村 小野半左衛門へ嫁す。
明治3(1870)年6月23日命終
第十九代  秀 岸 若くして病死す。(25歳)。坊守は柿崎・内藤家より嫁す。
慶応4(1868)年3月20日命終
第二十代 雲 嶺 第十九代 秀岸の弟。
若くして病死す。(26歳)。坊守は西蒲・吉田村 永蓮寺の二女。
明治6(1873)年10月30日命終
第二十一代  利 剣 第二十代 雲嶺の弟。坊守は柏崎町専福寺より嫁し、ノブという。
難産のため死去。(壱女あり、「吉井」は柏崎町浄願寺に嫁す。)
後妻は、同じく専福寺より「ノブ」の妹「イシ」。
(三男三女あり。長男は第二十二代 済正)
大正6(1917)年9月13日 満堂にて宗祖の六百五十回 御遠忌法要を勤修す。

本堂の高欄は、この時に新築す。
大正13(1924)年 本堂屋根を瓦葺に改築す。
昭和10(1935)年1月4日命終82歳

宗祖 六百五十回 御遠忌法要(9月13日)
第二十二代 済 正 坊守は高田市 荒谷の相澤家の二女(「キフ」という)。
(壱男四女 あり、長男は第二十三代 正縁)
頚城村 願専寺、刈羽村 厳照寺と縁戚を結ぶ。
昭和25(1950)年 庫裡の傷みがはげしく、基礎土台を中心に大改修をす。
この時境内の欅・杉等、二十数本の大木を切り倒した。
昭和30(1955)年 梵鐘を新たに鋳造す。
昭和36(1961)年10月18日命終81歳
第二十三代 正 縁 坊守は北蒲・紫雲寺村観音寺より嫁す。4男1女あり。
昭和48(1973)年 庫裡のうち奥座敷等(3間・7間)を再建す。
昭和52(1977)年 雪害のため本堂の屋根を改修す。
昭和60(1985)年 本堂の内装を中心に大改修す。
昭和61(1986)年 庫裡・玄関・台所を改修す。
平成3(1991)年12月23日命終81歳
第二十四代 亜 人 第二十三代 正縁の次男。
坊守は柏崎市中浜 泉家の三女。
平成2(1990)年3月 住職就任。
平成5(1993)年 庫裡改修工事(門徒会館と命名)
平成18(2006)年 庫裡改修・増築工事
平成24(2012)年 駐車場整備
           有縁無縁の墓(合葬墓)建立
平成25(2013)年3月2日命終 行年73歳
第二十五代 惠 照 (俗名 惠一郎)現住職
第二十四代 亜人の長女の婿(佐渡 深山家より入寺)
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本堂改修工事

2004年
(平成16年)10月23日
中越地震‥‥本堂壁面損傷(主に東側)他
壁面は取り急ぎ補修工事を行う
2007年
(平成19年)7月16日
中越沖地震‥‥本堂壁面損傷(ほぼ全面)、本堂が北方向に傾斜、
       屋根の損傷他(本山より半壊の判定)
壁面のみ補修工事
2011年
(平成23年)2月ころ
本堂南側の屋根で雨漏り(以前から大雨の時には雨漏りをしていた)
雨漏りの応急処置を行う
2013年3月2日 第24世住職 聞行院釋亜人 還浄
2013年12月1日(日) 行通寺臨時総代世話人会
実行委員会立ち上げ原案承認
2014年6月19日(木) 第1回 本堂改修委員会
実行委員会発足
2014年7月17日 第2回 行通寺本堂改修実行委員会(総代・世話人会議)
施工業者による改修工事の概要説明(沖野工務店)
2014年8月3日(日) 門徒さんへの本堂改修工事の趣旨説明と工事の概要説明会
2014年9月19日(金) 第3回実行委員会(行通寺本堂改修についての臨時総代会議)
2015年
(平成27年)2月7日(土)
第4回実行委員会(行通寺本堂改修についての総代世話人会議)
2015年3月4日(水) 御本尊遷座式及び本堂改修工事起工式
2015年3月9日(月) 本堂改修工事着工
2016年5月14日 参道工事着工
2016年5月25日(木) 第5回実行委員会(総代世話人会の開催)
山門・参道工事について
慶讃法要について
2016年7月1日 本堂引き渡し
2016年7月7日 本尊還座式
2016年11月9日 山門工事着工
2017年4月16日 行通寺本堂改修慶讃法要
宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要
第二十五代住職釋惠照就任披露本堂改修工事慶讃法要

アクセス

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