終刊にあたって-悠久の柏崎を願いながら(抄)
諸般の事情から、柏新時報を終刊することにした。読者の皆さんとはこれでお別れである。
柏新時報は昭和20年12月に産声をあげた。「新聞用紙不足」で度々切ない思いをしながら新聞発行を続けるとともに、戦後復興のなかで、様々な文化、スポーツ事業を主催、協賛するのを大きな任務とした。
かつて『日本のローカル新聞』(昭和43年、光文社)に柏新時報が取り上げられたことがあった。それら文化、スポーツ事業の多さからである。著者は「経済的には『持ち出し』にもなりかねないのでは…」としながら、先代で創業者・岡島利夫の「私の日記」の一部分を象徴的に引用している。
「本社は戦後数多くの各種行事を催しているが、スポーツ関係だけでも町内対抗野球、少年野球、知名人野球、庭球、スキー大会などがある。休日を返上して運営する苦労は大変なものだが、社員もよく協力し、それぞれに成果をあげていることを知り、毎年続けてきて良かったとつくづく感じる」
数多くの文化、スポーツ事業は、柏新時報にとって文字通り「地域密着」「地域貢献」の象徴でもあった。なかでも「お盆の野球」として親しまれてきた町内対抗野球はその最大のもので、社員に加え、アルバイトなど10数人を前々日から確保して、野球連盟とともに運営に奔走した。当然社員の「お盆休み」はない。「働き方改革」の現在からすると考えられない時代だったが、皆がよく働いた。
最も参加が多かったのは、昭和56年と昭和58年の104チームである。柏崎市の市勢のピークの時期と重なるのではないか。当時の今井市長が掲げた長期発展計画には「15万都市」とある。
文化、スポーツ事業はその後、移管などを含めて手を離れた。町内対抗野球は平成4年の47回大会を最後に「役割を終えた」として終了した。
時代は大きく変わった。先代が予見していた「活字離れ」に拍車がかかり、この一方で、一個人が直接発信するSNSが隆盛となった。情報のなかには「間違ったもの」も散見されるが、電子媒体を通じた発信量の多さに、新聞は、紙媒体は無力ではないかと思うこともしばしばであった。
終刊にあたって、託さなければならないこと、気がかりなこと、やり残したことは沢山ある。それらを列記しても切りが無いのだが、2点だけ書き残したい。
一つは綾子舞である。紙面を積極的に使い、綾子舞の動きを、伝承者の姿と共に報じるとともに、10年越しとなったユネスコ無形文化遺産登録推進については、特に力を入れてきた。
文化庁長官への要望(平成29年)にも同行する機会を得た。当時の長官は佐渡出身で金工作家の宮田亮平さんで、綾子舞への強い関心もお聞きし、非常に意義ある訪問となった。その甲斐もあって、本年末までには登録の見通しとなった。
だがここになって心配事もでてきた。綾子舞伝承学習の拠点となっていた南中学校が、学区再編の対象となったことだ。学区審議会での審議はこれからだが、計画通りいけば、令和12年度に鏡が沖中学校と統合となる。新道小と南中が連携し「綾子舞の裾野を拡げること」に大きな役割を果たしてきた伝承学習は、統合後にどう継承されるのか。
思えば、南中の発足時(平成3年、四中・城北中・鵜川中が統合)にも、伝承学習は大きな転機を迎えたが、初代校長の星野崟生さんを中心に関係者が胸襟を開いて話し合い、知恵を出し、協力し合い、現在につながる土台を作り上げた。念願のユネスコ登録となっても、伝承の土台が「ぐらぐら」しては困る。しっかりとした土台で、綾子舞がさらに発展していくように、関係者が力を合わせてほしい。
そして、最後の最後に東京電力(柏崎刈羽原発)の問題。
5年ほど前の話になるが、通信社の記者から柏崎刈羽原発を巡るあれこれを問われ、「厳しく、鋭い反対運動のおかげで緊張感が生まれ、事故を防いできたのではないか」というような意味のことを、多少の皮肉もこめて答えた。
その反対運動も、現在は平均年齢が高くなり、なかなか元気が出ない状況となった。高齢化が悪いというのではないが、若い世代が、反対の輪のなかに入ってこない。興味を示さない。「政党色を払拭しきれていない」などの理由があるかもしれないが、原発をめぐって素朴な疑問を抱いたり、不信感を持ったりしている「嫌原発」「嫌東電」層を効果的に巻き込めずにいる。
一方、推進側だが、かつては「(東電の)応援はするが、仕事は要らん」という反骨の経営者もいたが、現在は皆無に近い。推進運動の中核をなしてきた青年経済人のエネルギーに関する理論レベルも低下の一方だ。
地域の会(柏崎刈羽原子力発電所の透明性を確保する地域の会)も同様に課題が多い。昨年11月の情報共有会議で、委員から「透明性は確保されているのか」との自問もあったが、「ID不正使用」から始まった一連の問題に関しては、結局、全くの無力であった。様々な立場の人たちが同じテーブルにつく意義は継続しながらも、どうやって東電との緊張関係を再構築していくかだが、発足時の議論のなかにありながら、立ち消えとなった「立ち入り調査権」を付与することを再考してみてはどうか。
柏崎刈羽原発の誘致(昭和44年)から半世紀余が経過した。誘致、建設当時の東電社員は、真摯な姿勢で地域によく出向いた。もっとも印象に残っているのは「Z課長」だ。
伝説のZ課長は、地域に出てきては会社(東電)に弓を引くようなことも平気で言った。理解できないことを分かるまで説明する身ぶり手ぶりの真剣さは語り草だったし、様々なネットワークを築いていた。
Z課長のような人達がいる間は、いつでも気兼ねなく意見交換できたから、地元の不平不満も伝わり、風通しも非常に良かった。彼らは、地域に積極的に顔を出し、「誘致をいただいた柏崎刈羽の世論はどうなっているのだろう」と常に情報収集に努めていた。残念ながら、今はそういった姿勢が見られない。全く別の会社のようである。だから、不祥事があると、思い出したように「地域訪問」をするのだが、逆に反感を買ったりするのである。
最近の東電幹部の発言を聞いていて、言葉そのものに「軽さ」を感じることも多くなった。この「軽さ」は一体何なのだろう。言葉が軽いから、行動にも責任や誠意が伴わないのではないか。
不祥事関連で、「柏崎」「刈羽」が連呼される時、移住やシティセールス面ではやはり大きなマイナスイメージが生じている。毎月の市長定例会見でも同様だ。どうしても原発問題がメインとなり、それ以外の部分が少なくなってしまっている。
ソフィアセンターで2月に開催され、好評だった「柏崎の花~スプリングコレクション」に見られるように柏崎は文化のまちである。そして、ものづくり、スポーツ、観光、教育、福祉のまちでもある。原発以外の発信量を積極的に増やし、何としても柏崎のイメージを良い方向へ変えていかなくてはならない。
「悠久」は、今井元市長が好んで使った言葉だ。退任(昭和62年)のあいさつの中でも、この言葉を使っている。
柏新時報は今、その役割を終え、終刊する。人口減少のスピードは速く7万人台目前だが、「悠久」の如く柏崎が永遠に続き、発展していくことを願うばかりである。
(2022年3月25日付、3827号)