金八先生と『遺愛集』
 「3年B組金八先生」は武田鉄矢さんが熱血教師を演じる名物ドラマで、第8シリーズまで制作された。
 島秋人の『遺愛集』が取り上げられたのは1999年の第5シリーズ「3B短歌発表会」で、脚本は小山内美江子さん。小山内さんは昨年亡くなったが、メインライターとして「十五歳の母」(第1シリーズ)や「腐ったミカンの方程式」(第2シリーズ)を世に問い、金八先生ブームを作った。
 「3B短歌発表会」はクラス全員の短歌を黒板に貼り出した金八先生が、一人ひとりの作品をおもしろおかしく合評しながら授業が進行する。教室の空気が一変したのは最後に残った「友を恋い人を恋いてなお死にたき吾れをいかに説き伏せむ」。教室にはいない、不登校の生徒からEメールで届いた作品だ。
 金八先生は安易に「死」を用いた作者に我慢がならなかったようで「どんなに辛くとも『死』という言葉を使ってはならない」というメッセージを伝えようと、いつになく熱く語る。そこで取り上げたのが死刑囚歌人・島秋人と『遺愛集』だった。
 金八先生は、まず強盗殺人で死刑となった島秋人の生涯について「少年時代みんなからバカにされて育った人」「人から一度も褒められたり、愛されたことのない人生」と紹介、「島秋人さんは死刑判決のあと、懸命に自分の人生を振り返る。何度も考えるうち少年時代にたった一度だけ褒めてくれた人を思い出した。それは中学校の美術の先生だった。死刑になる前に、あの先生にお礼の手紙を書こう。」「そして刑務所から先生に手紙を出した。受け取った先生は驚きながら返事を書いた。先生の奥さんはその手紙に3首の短歌を添えた。返事を受け取った島秋人さんはうれしくてたまらない。独房の中で懸命に短歌を作った。」と説明する。それまで盛り上がっていた教室は静まり返り、金八先生の話に涙を流す生徒も。
 よく知られているように、この美術の先生が一中時代の吉田好道さん(後の東中学校校長)、そして短歌の手ほどきをしたのが絢子夫人だ。
 この後『遺愛集』から「少年期さかのぼりゆき憶ふ日をはてしなく澄み冬の空あり」、「白き花つけねばならぬ被害者の児に詫び足りず悔いを深めし」「死刑囚となりて思へばいくらでも生きる職業あると悟(し)りにき」「土ちかき部屋に移され処刑待つひととき温きいのち愛(いと)しむ」の4首を紹介した。
 金八先生は「昭和42年11月2日、死刑執行の日が来たが、島秋人さんはなお歌を作り続けた。それが、土ちかき…の歌。処刑を待ちながら自分の体を触ってみる。自分の体が熱い。ああ命っていとおしいな、生の実感の歌だ。私達には(刑死で生涯を終えた島と違い)明日も、明後日もある。どんなにつらくとも『死』という言葉を使ってはならない。島秋人さんに失礼だ。」と語り、「島秋人さんから『いのち愛しむ』の七文字を借り『死にたい』などという歌を作ってしまった友達に励ましの返歌を作ってほしい。」と呼びかけた。
 小山内さんによれば、第5シリーズの軸に「学級崩壊とそれを煽る家庭ではいい子を演じるワル」があり、そのワル・兼末健次郎役を風間俊介さんが演じた。健次郎自身も複雑な家庭環境に悩んでおり、「3B短歌発表会」でも難しい心情を表現するアップショットが幾度もあった。
 細かくて申し訳ないが1点だけ。金八先生が「温(ぬく)き」を「あつき」と読んだため、歌の雰囲気が変わってしまった。血気盛んな中学生には「あつき」の方がストレートに通じるとの配慮であったか。(2025/04/25)

藤井城址の桜
 藤井城址をご存じだろうか。
 柏崎市藤井にある古城址で、周囲より一段高くなっているだけの江戸初期の平城。知名度は低いが、春には城址を囲むように桜が咲いて、それは美しい。背後には米山も見える。
 大坂の陣で手柄をおさめた稲垣平右衛門重綱が、徳川家康から褒美としてもらった城だそうで、群馬県の伊勢崎城(1万石)から1616年に移封。『刈羽郡旧蹟史』には「将軍家の先陣して首十九切て奉る」とあり、勇猛で知られた人のようだ。
 藤井藩の石高は2万石で、所領は刈羽郡と魚沼郡小千谷方面に分布していたとされる。家康六男の松平忠輝の改易が1616年だから、大坂の陣の論功行賞を兼ねた遺領分配であったと見られる。重綱はその後、2万2000石に加増されて三条城に移ったので、藤井城は廃城となった。
 重綱はさらに要職である大坂城代に出世する。重綱については調べてもあまり出てこないが、浜松居城以降の譜代大名、いわゆる「駿河譜代」の一人で、牧野氏(長岡藩)との関係も深く、弟と叔父の家系は代々、長岡藩の家老を務めた。あの世で柏崎閻魔堂のえんま様と格闘し、鎗で突き刺したという「稲垣の血槍」、その稲垣権右衛門も親戚のようだ。※
 地元の人の話によれば、周囲には「城下町としての名残が今でも残っている」そうで、車での出入りがなかなかしづらいのもそのせいか、とも思う。
 場所が分かりにくかったが、JAの「虹のホールかしわざき」ができ「看板を目印に右折して上藤井の集落に入り…」と案内しやすくなった。戦死者を祀る忠霊塔が正面奥にあり、地元の人がゲートボールに興じていることも多い。
 青年会議所のまちしるべが建立されたのは1998年のこと。初年度分の8基のひとつで「ミキサー車が入れない」という事情から、基礎に使うコンクリートはメンバー自身で運搬した。
 以来、春先に訪れることにしているが、三脚を立て桜の撮影に没頭している先客がいることもあり、隠れた名所になっているようだ。
 満開の夕刻時などは妖しい雰囲気すら漂わせる。樹形も味わいがある。
 梶井基次郎は『桜の樹の下には』で、満開時の神秘的な雰囲気について「この爛漫と咲き乱れてゐる桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まつてゐると想像して見るがいい。」「何があんな花弁を作り、何があんな蕋(ずい、しべのこと)を作つてゐるのか、俺は毛根の吸ひあげる水晶のやうな液が、静かな行列を作つて、維管束のなかを夢のやうにあがつてゆくのが見えるやうだ。」と「美しい透視術」を使って説明している。藤井城址の桜は梶井説にぴったりだ。
 地元の方には怒られるかもしれないが。(2025/04/15)
※『柏崎市伝説集』(柏崎市教育委員会)所収の「稲垣の血槍」参照

正気と狂気のはざまで
 ずいぶん昔のことになるが、痴娯の家・岩下鼎さんから一片の新聞コピーを頂いた。痴娯の家に展示される2体の「青い目の人形」にまつわる秘話を取材した際、参考にと渡された1943年2月19日付の毎日新聞だ。
 「青い目の人形」がなぜ処分されずにここ(痴娯の家)にあるのか、その時代背景を説明する資料として何度か複写を重ねたらしく、一部不鮮明な部分もあるが「青い眼をした人形 憎い敵だ許さんぞ」「仮面の親善使」との見出しにギョッとする。文部省国民教育局総務課長の談話として「(青い目の人形が)もし飾つてあるところがあるならば速に引つこめて、こはすなり、焼くなり、海へ棄てるなりすることには賛成である。」も掲載され、文部省のお偉いさんの言葉だけに教育現場への影響はかなり大きかったのではないか。
 1943年2月といえば、太平洋戦争の戦局は悪化の一途を辿っていた時期である。「たかが人形」「たかが玩具」(泉下の岩下さんには怒られるかもしれない)に、ここまで敵愾心を煽る必要はないだろうと思うのだが、これが戦争、軍国教育の実像だ。
 「青い目の人形」を守るため、柏崎小学校の角張信隆校長が岩下さんの父・岩下庄司さんへの依頼状※を認めたのは前日の2月18日。全国で人形の処分が始まっていたのだろう。依頼状に緊張感がにじみ出るのはこのためだ。
 よく知られるように、この依頼状には「俘(捕)虜」「収容」とある。もし痴娯の家への避難が露見した場合の申し開きのためと考えられている。
 「青い目の人形」研究の第一人者である武田英子さんは「機智に富んだ依頼状」として紹介、「アメリカ人形敵視の中で、この人形たちを保護した罪を問われたときのために、『捕虜収容』との機智と配慮をこめて依頼状をしたためたのであろう。」(『写真資料集青い目の人形』、1985年)と評価している。
 極めて「正気」の二人によって、痴娯の家にある「青い目の人形」は守られた。では「狂気」の側は、人形をどのように処分したのか。
 前述の武田さんは生き残った「青い目の人形」の全数調査を行った児童文学者だ。『青い目をしたお人形は』(1981年)で「校庭には仮小屋ができていて、ワラがつんでありました。校長先生が人形を小屋に投げこむと、高等科のお兄さんたちが、エイッとかけ声をかけて竹ヤリで人形をつきさす。そして、みんなで石を投げつけたあとで、火をつけた」という静岡での事例を紹介し、「まさに徹底的な『処分』であった。石を投げ、竹槍で突きさした子どもたちは、どのようなきもちであったのか。」「だれが命じたジェノサイドだったのか。軍部からとも伝えられ、文部省指令だったともいわれるが、その黒い命令によって、多くの『青い目の人形』たちは、校庭にひきすえられ、見せしめの死をあたえられた。臨終のとき、パッチリ見ひらいた青い目で、人形たちはなにを見ただろう。」と「狂気」の行為に怒りを顕わにする。
 戦争は異様な精神状態を作り出す。そういう状況下で、極めて「正気」な人がわが柏崎に存在したということは、もっと語られて良いのではないか。
 ギューリック博士と渋沢栄一の尽力による人形交流が始まったのは1927年。もうすぐ100年である。(2025/04/05)
※人形とともに痴娯の家に保管展示

「芭蕉隠密説」を論破する
 『おくのほそ道』の旅は、実は東北諸藩の動静を探るための隠密旅であった。
 時折、珍妙な芭蕉忍者説、もしくは隠密説に出会う。それが証拠に、芭蕉主従は出雲崎から柏崎を経由し、難所として知られた米山三里を軽々と越え鉢崎(現在の米山町)まで歩いたではないか、と。
 忍者説、隠密説はいったい誰が言い始めたのだろう。有名なのでは松本清張が『東京の旅』(1985年)で書いた「俳聖が表看板の忍者か-芭蕉(深川)」がある。
 松本清張は「江戸時代の旅費は、歩いて行く関係もあって、現代にくらべて格段に高い。その莫大な旅費と生活費がどうして作られたか、これも理解できない。(略)つぎに、芭蕉は、いくら中年の健脚でも、『奥の細道』※をはじめ、その歩速がすこし早すぎるということである。多い日には一日十数里を歩いている。」として、伊賀の生まれであることをあわせ「彼の父は、すでに上野城下に召されて仕官していたが、彼にこの伝統(忍者)の技術がなかったとは、かならずしも断言できない。もし、こんな乱暴な仮定がゆるされるなら、彼の健脚も、早技も、いちおうそれとむすんで理解することができよう。」と推理する。
 清張先生、こう書いた後で、心配になったのか、「しかし、そうかといって、彼を特定の秘密任務を帯びた忍者だと仮定して、その伊賀出奔の事情も、諸国遍歴の目的も、その生活費や旅費の出所も、さらには大坂における最期も、これにむすびつけて解決してしまうことは、今日のところ証拠不十分である。しかし、こんなことをかりに憶測しても、芭蕉が日本の文学史上にもつ評価はすこしも変わらないと私らは信じている。」と結ぶ。実に歯切れが悪い。
 本題である。かなり力んだタイトルを付けてしまったが、実はもうすでに論破されている。柏崎市ガス水道事業管理者を退任後、様々な調査探究を行った月橋夽さんである。
 『芭蕉が泊った鉢崎宿俵屋』(1995年)で月橋さんは「昔は出雲崎-柏崎を7里(28キロ)といった。柏崎-鉢崎は4里(16キロ)といっていたから、単純計算をすれば44キロということになる。一日にこれだけ歩いたのだから健脚だという人がいる。中には話が発展して伊賀の国出身の芭蕉はもともと忍者であったとか、忍者なればこそこれだけの道が歩けるように言う者さえ出ているが思わざるも甚しい。」としたうえで「この時代、佐渡に出た金を江戸に送るのには船で越佐海峡を渡って出雲崎に上陸し、ここで一泊する。翌日は陸路江戸へ向うのであるが、その日の泊りは鉢崎なのである。出雲崎-鉢崎は一日行程が常識なのである。」と一笑に付している。こちらは明快だ。
 月橋さんの論破は、清河八郎が『西遊草』に記録した旅程でも裏付けられる。
 前回「清河八郎の親孝行旅」で取り上げた通りだが、母親を連れ米山三里を含む柏崎-直江津間約40キロを1日で歩いている。米山三里を「アップダウンが多いだけで、それほど恐れることはない」と言い退け余裕シャクシャク。しかも母はあまり健康ではなかったらしい。
芭蕉主従や金銀輸送とは区間は違うので単純比較はできないが、歩行が主体の当時の旅人にとって一日40キロ前後の距離はごく当たり前だったようだ。「歩速が早い」とか「一日に十数里を歩いた」ことを忍者説、隠密説に結び付けるのはかなり難しい、ということになる。
 『西遊草』には母親の健康状態について「(庄内を出発し)日々歩いているうちに健康になり、一行の先頭を歩くほどになった」ともある。歩かない現代人が、歩かない視点で物事を考えてしまうから誤解も生じてしまうのではないか。(2025/03/25)
※現在では芭蕉直筆とされる西村本題簽『おくのほそ道』を用いるのが主流になっている。

清河八郎の親孝行旅
 清河八郎は毀誉褒貶の人である。
 同郷の藤沢周平は、司馬遼太郎がマイナスイメージで描いたことを念頭に「清河八郎は、かなり誤解されているひとだと思う。」とし「ひとり清河八郎は、いまなお山師と呼ばれ、策士と蔑称される。その呼び方の中に、昭和も半世紀をすぎた今日もなお、草莽を使い捨てにした、当時の体制側の人間の口吻が匂うかのようだといえば言い過ぎだろうか。」「八郎は草莽の志士だった。草莽なるがゆえに、その行跡は屈折し、多くの誤解を残しながら、維新前期を流星のように走り抜けて去ったように思われる。」(『回天の門』あとがき)と結論付ける。
 前置きが長くなった。その清河八郎が、旅の途中で柏崎を通過している。1855年4月10日から11日のことだ。もちろん浪士を引き連れての旅※ではない。長年世話になった母親をひたすら喜ばせようという孝行旅である。
 生家のあった山形庄内から母・亀代と共に出発、伊勢参りを済ませたのち、さらに奈良、京都、大坂、四国の金比羅、安芸の宮島などを回るという169日間の大旅行で、旅の模様は旅日記『西遊草』に詳細に記録される。
 4月10日、出雲崎から石地、椎谷、宮川、荒浜、悪田の渡しを経て柏崎に入った清河八郎は閻魔堂を参拝、大町(西本町3)にあった丁子屋に泊った。
 途中、石地では当時の内藤家(現在の旧内藤久寛邸)の様子を「天下に知られた豪家が落ちぶれながらも残っている。門が閉じられたままの物寂しい様子を、どの旅人も指を指して通る」と辛辣、おそらくは見たままだろう。椎谷は「(堀家)1万石の領地だが、陣屋があるだけで石地より劣る」、続く荒浜も「良いとはいえない宿場である」と手加減がない。
 では柏崎の町並はどうだったかというと「新潟、三条と比べられるような町家のきれいなところである。(特筆されるのは)町並の長さで、越後でも一番だろう」。当時の繁栄ぶりをストレートに表現しているのではないか。
 なお閻魔堂では「しばらくは花のうへなる月夜哉」という芭蕉句碑があったことを記録しているが、現在は所在不明。
 翌11日は番神堂を参拝、鯨波、米山三里を歩いた。多くの旅人を苦しめた(はずの)米山三里だが、清河は「越後一の『険阻の坂』とは言われているが、アップダウンが多いだけで、それほど恐れることはない。」と以前の経験をもとに余裕を見せ、母とともに今町(現在の直江津)までの約40キロを踏破している。昔の人はよく歩いた。
 この年、清河八郎は26歳、母は40歳。健康体とは言えない母親を気遣って綿密な旅程を組み、ツアーコンダクターの如く案内をし、孝養を尽くした親孝行旅だった。
 発見の多い『西遊草』、ぜひ一読をお奨めする。東洋文庫と岩波文庫で読めるが、東洋文庫は抄訳のため肝心の米山三里のところがすっかり省略されているのでご注意を。
 清河八郎は、その後山岡鉄舟らと虎尾(こび)の会を結成、歴史に名を残すことになる。
(2025/03/15)
※1863年浪士組を率いて上洛、「将軍警護」から一転して「尊王攘夷」を主張したことから幕府の刺客に暗殺された。実行犯は坂本龍馬暗殺で名前の挙がることの多い佐々木只三郎だったとされる。親孝行旅から9年後のことだ。京に残留した浪士組は新選組となった。

『雪残る村』のころ
 雪から解放されるこの時季、無性に『雪残る村』が読みたくなる。旧小国町の高橋実さんが1964年に書いた小説で、芥川賞候補作となった。
 鈴木牧之の『北越雪譜』を卒業論文のテーマにした主人公・北原が「迷路に入りこんだ日本の国文学を新しくたくましい力でたてなおしてやるのだ」と大学院進学の希望を抱きながらも、結局は中学教師の道を選び「T市」の「さびしい農村部の中学校」に赴任していくストーリーで、家族の前で新任あいさつの練習をする主人公が「湧き上がるように起こる笑い声」に包まれ終わる。雪深い「へき地」に育った北原のモデルは、大学の卒論で牧之に取り組んだ高橋さん自身だ。「T市」は十日町市を想像させる。
 『雪残る村』は清水トンネルを越えて、雪の全くない関東へ抜ける場面から始まる。「突然全くちがった世界に突入してしまった少年の夢のような気がした」という私小説らしい冒頭は、越後人でしか分からない感覚だ。過疎が進行する当時の状況についての「村は人の住むところとして、快適な居住地に適さなくなっているのだろうか」といった問いかけも印象に残る。
 幸運にも『雪残る村』は久保田正文(文芸評論家)の目にとまり、文学界1965年1月号の「同人雑誌推薦作」として「地味な作品であるが、文学の魂とでもいうべきものがここに、確実に息づいているという感がする。」と紹介され、第52回芥川賞候補作となった。
 川端康成はじめ豪華な顔ぶれが選考にあたったが、結局「該当作品なし」に。「創作意識より問題意識の方が強く感じられる」と好意的に取り上げたのは北陸にルーツを持つ高見順で、これに対して石川淳は「今回もっともうすっぺらな『雪残る村』の作者に、わたしはマジメに忠告する。牧之牧之というこの主人公は牧之についてちっともベンキョーしていない」と酷評した。
 石川センセイは『諸国畸人伝』で鈴木牧之を取り上げ書いているので、何かカンに障ったところがあったのだろうが、「長岡市の積雪科学館」※を訪問したぐらいで、雪国のことを「ベンキョー」した気になってもらっちゃ困る。
 高橋さんは、大雪の状況を「どこの家でも雪の中から家を掘り出すのに懸命である。ありが土の中に住むための穴を掘るように、まわりにつみあげられた雪のかたまりが、それを掘っている人たちの何倍もの高さになっていた。」と書いている。「百年前の『北越雪譜』の文章と少しも変わったところがない」との嘆息を都会人に理解せよといっても土台無理なのだが。
 長岡市で開催された高橋実文学展(2005年)の際、石川淳の「酷評」について聞いてみた。「憤慨」のような表現を期待したが、高橋さんは少し恥ずかしそうな顔をするばかりだった。
 高橋さんは牧之の人生を「暖かい国に憧れながら、雪国から動かなかったのは、雪に埋もれた人と土地とを愛していたからではあるまいか。」と結論づけた。高橋さんも、雪国から動かず「海辺にうちよせられる木片」を拾い上げるような文化活動に勤しみ、地域の多彩な文化活動の中心となった。
 今冬は山雪型で、豪雪地の苦闘を幾度となく聞き、除雪事故の報道には胸が締め付けられた。
 高橋さんは2023年死去。『雪残る村』から60年が経過したが、過疎の進行は無数の限界集落を生み、雪下ろしさえ困難な時代となった。「地方創生」という言葉が空々しい。(2025/03/05)
※1968年に閉館し収集品は長岡市立博物館に移管展示

三五さんと二・二六事件
 柏崎市駅前にお住まいの三五恒治さんからお手紙を頂いたのは2006年のことだ。
 「もう70年も昔のことです。(歩兵第一連隊所属で)一ツ木通りに住んでいた頃の懐かしい思い出が脳裏をかすめます。(略)近頃は六本木ヒルズなどの高層建築が目立ちますが、昔の六本木の街は兵隊の街で…」とあったので、「赤坂から六本木の坂と歴史を」(「小さな旅をたのしむ」の第41回)で昔を懐かしく思い出されたのかな、と思い読んだところ後半の記述に驚いた。
 「私は二・二六事件のとき首相官邸を占拠して(2月)29日迄立籠もっていました。」とあったからだ。
 三五さんは、歩兵第一連隊の栗原安秀中尉指揮下で首相官邸を襲撃した300人のうちの一人。当時の階級は伍長(分隊長)。占拠中の秘話も添えられていた。
 その後、ご本人から「私は二・二六事件に兵隊の一人として関与しました。市内出身の人間がこの大事件に関与したことを知って頂きたくてお知らせしました。ですが、生前の公表はしないでください。」と改めて連絡があり、掲載を見送った。
 秘話も驚くものだった。女中部屋を捜索したのが三五さんだったというのだ。
 よく知られるように官邸襲撃では岡田啓介首相の妹婿で容姿の似た松尾伝蔵大佐が間違って殺害され、首相本人は女中部屋の押し入れに隠れて難を逃れた。
 三五さんが部下を連れて女中部屋に入った際には、女中2人が押し入れの前に立っていたそうだ。2月26日の午前5時半頃の話だ。実際はここに岡田首相が匿われ、女中がそれを必死に守っていたことになる。後に「襖の両かまちをしっかり押さえていた感じ」と印象を語っている。
 微かな疑問を抱きながらも、三五さんらは捜索を打ち切った。松尾大佐が銃殺され「万歳」の声があがったからだ。勝ち鬨がなければ捜索は継続され、押し入れの中から岡田首相は発見されていたことだろう。最悪、伍長であった三五さんが首相を殺害することになったかもしれない。
 三五さんは、首相居室に横たわる松尾大佐の亡骸とも対面(26日午前6時)している。顔の白布を除き、首相の写真と見比べ「痩せ型だが?」との印象を持ったという。喉元3か所に拳銃弾痕があったとも記録している。
 誤認された松尾大佐は「おれは岡田大将に似ているだろう。このごろはひげの刈り方まで似せているんだ」との言葉を残しているそうだ。とすれば、間違えられることを予期していたのか。『岡田啓介回顧録』には「松尾をわたしとまちがえたのは、松尾というもうひとりのじじいが官邸にいるとは、さすがの反乱軍も思いおよばなかったためかもしれない。」とズバリ書かれている。
 三五さんは軍法会議で禁固5年の求刑を受けたが、結局は無罪判決となり離隊。当時の満州に渡って警察官となり国境警備に従事した。そして終戦(1945年)。ソ連の参戦と満州侵攻、逃避行のなかで幼子を銃殺され、遺骨を持ち帰ることすら出来なかったという。
 三五さんは晩年、「私の二、二六事件記録」を含む自分史をまとめられた。「官邸侵入」「警視庁機動隊との攻防」「捜索」「総理脱出」「武装解除」などの各場面が生々しいイラストで描かれ、その記憶力、観察眼には脱帽した。 
 大変なご苦労をされただけに平和への思いがひときわ強かった三五さんは2016年に死去。生前の約束通り「二・二六事件関与の柏崎人-首相隠れた女中部屋を捜索」(2018年2月23日号)を掲載した。(2025/02/26)

平松先生とおでん
 柏崎市の早春の恒例行事となったソフィアセンターでの「柏崎の花-Spring Collection」は今年で4回目。新たに購入した日本画の大家、平松礼二氏の「ジヴェルニー光る池」(20号)の前に人だかりができていた。かの「モネの庭」を描いた、平松ジャポニスムの結晶のようなあでやかな作品だ。
 平松氏の作品を軸にした「県立美術館」が柏崎に建設される計画があったことを覚えている人はどの位おられるだろうか。「モネの庭」も計画のなかに入っていた。結局、市議会の反対※によって県が計画を白紙撤回した。2003年のことだった。
 今であれば柏崎に県立の建物ができることを反対する人はいないだろうが、当時は内容、立地場所をふくめ、様々な声があがった。「平松氏の個人美術館となるのではないか」に加え「評価が定まっていない画家」「(ジヴェルニーの)モネの庭から株分けされた睡蓮がそれほど貴重か。チューリップの球根をもらって家を建てるようなものだ」といったトンデモ議論も。
 計画推進のため、柏崎市の主催による「平松礼二展」がソフィアセンターで開催された。平松氏本人も来柏して作品解説にあたり、市民にとっても至福の時間だった。
 会期中、教育委員のI氏から「先生と一杯やるがどうか」とお誘いを受けた。いきさつはよく覚えていないが、柏崎駅前の居酒屋でおでんを食べながら懇談した。裕子夫人も同席された。
 ご本人からはジャポニスムについてのさらに突っ込んだ話を、夫人からは「売れなかった時代」の苦労話を聞いた。先生の画業はまさに夫唱婦随。百歩譲って「平松先生の個人美術館の色彩が強かったとしても、それはそれでいいではないか」と思い始め、以降の紙面に反映した。
 なぜ居酒屋でおでんだったのか。それは平松先生が極めて庶民的な方であったということだろうし、単に夫妻が宿泊していた駅前のGホテルの近くだったからかもしれない。記憶は曖昧である。
 「ジヴェルニー光る池」の購入金額は、なんと705万円。柏崎市がふるさと応縁基金寄附金で購入した。高額だが、選定委員会がきちんと精査したとのこと。
 平松先生を魚扱いして恐縮だが「逃がした魚は大きい」と感じるし、先生の現在の評価を見る時「先見性がなかった」と改めて思う。残念ながら市議会の判断は間違っていた。
 一言加えておくと、桜井市長もその際の議員の一人であったが、計画推進側の論客として果敢に論陣を張っていたと記憶している。
 せっかく購入した「ジヴェルニー光る池」である。市長室に飾り、今後への教訓とするつもりかもしれない。(2025/02/15)
※正確には美術館計画に反対する市民団体「わたしたちの美術館を考える会」の請願を採択する形で計画反対を表明した(ややこしい)

『ガラスのうさぎ』と柏崎
 『ガラスのうさぎ』(1977年、金の星社刊)は高木敏子さんの戦争体験を描いたロングセラーだ。
 高木さんの父親は東京の本所と深川でガラス工場を経営していたが、東京大空襲で工場が焼失したため柏崎で工場を再建する計画をたてた。大空襲から生き残った12歳の高木さんも柏崎で一緒に暮らすことになっていた。
 『ガラスのうさぎ』には「新潟県柏崎という所に、共同で工場を作ることになりましたので、それがいちおう軌道にのるまで、もうしばらく、敏子を預かって下さい。敏子といっしょに住むための準備でもありますので……。」という父の言葉とともに、高木さん自身の期待感が「わたしも、ああいよいよ明日の晩には新潟かと思うと、不安よりも、何か楽しいことが待っていてくれるという感じがしてきた。こんどこそ父といっしょに毎日生活できると思うと、まだ見ぬ新潟に、子ども心にも期待で胸がいっぱいになった。知らない土地で大変だろうけど、父といっしょなんだから大丈夫と、自分にいい聞かせた。」と表現されている。
 1945年8月5日、柏崎に向かう列車を疎開先の二宮駅(神奈川県二宮町)で待っていた時のことだ。P-51 の編隊が突如来襲し、駅にいた人たち目がけ機銃掃射を浴びせた。高木さんは無事だったが、父親は3発の銃弾を受け即死。父の火葬の手続きを一人でする場面は何度読んでも涙が出る。柏崎は「幻の疎開先」となった。
 『ガラスのうさぎ』は現在も多くの人に読みつがれている。1980年には高部知子さん主演でNHKの銀河テレビ小説となり、2005年には戦後60年記念作品としてアニメ映画化もされた。
 ところで著者の高木敏子さんは1983年に柏崎市で講演を行っている。
 高木さんにとっても「なぜ柏崎での工場再建だったのか」は大きな謎だったそうだが、講演前日の打ち合わせで主催者の渡辺十一郎さん(寿大学講座自治会長)から「高木さんの父親の共同経営者は石渡という人ではないか。柏崎に戦前からあったのは吉川ガラスだが、戦争中に東京からやってきてガラス工場を作ったのは石渡という人しかいない。」などの情報を聞き、橋渡し役となったのは「薬のアンプルを製造してした石渡さんと知人関係にあった石川薬局の石川五郎さん※」ということもわかった。高木さんは「軍の要請で満州の奉天に父とガラス工場を作った石渡という人」を思い出したという。
 寿大学の講演では、高木さんから『ガラスのうさぎ』に込めた思いを時代背景を含め聞くことができ、有意義だった。戦争中の柏崎の産業界の様子も垣間見えた。
 来柏の感想は『めぐりあい-ガラスのうさぎと私-』(1984年)のなかで「幻でなかった柏崎」としてまとめられた。高木さんは「わたしにとって新潟県・柏崎というところは、もし父が二宮で機銃掃射で殺されていなかったら、あの昭和20年8月6日にはたどりついていたところなのです。」と綴り、「いまさらながら、あの戦争中、父がわたしを連れて再疎開しようと決意したのがわかりました。厳しい自然環境の中に生きる方々なのに、寒い寒い新潟なのに、心はとっても暖かい人々の住む土地だったからです。」と柏崎への思いを結んでいる。
 『ガラスのうさぎ』は、元々は自費出版の小冊子『私の戦争体験』を子ども向けに大幅加筆したもので、世に出したのは金の星社の創設者である斎藤佐次郎さんだ。佐次郎さんは戦時中、柏崎市宮場に親戚を頼り疎開していたそうなので、『ガラスのうさぎ』と柏崎の縁は濃いと言える。(2025/02/05)
※石川耕大現社長の曾祖父

うんと味わえ。もっと味わえ。(2)
 太宰治の「うんと味わえ。もっと味わえ。」に刺激され、「銀河ノ序」を久しぶりに読んでみた。
 まず「銀河ノ序」について。「荒海や佐渡に横たふ天の河」の序文だが、なぜか芭蕉は『おくのほそ道』に載せなかった。越後路本文には「此間九日、暑湿の労に神をなやまし、病おこりて事をしるさず」とあるだけで、「文月や六日も常の夜には似ず」に続いて、「荒海や」が唐突に登場する。
 しかし芭蕉はこの序文にずいぶんこだわったらしく、幾通りものバージョンが伝わっている。
 「銀河ノ序」と題名がついているのは亀井勝一郎が引用した『本朝文選』だけだが、他のバージョンも「銀河ノ序」と呼ぶのが通例。「ノ」を省略し「銀河序」と書いているものも少なくない。出雲崎町の芭蕉園にある句碑も「銀河序」だ。
 最も有名な『本朝文選』バージョンは「北陸道に行脚して、越後ノ国出雲崎といふ所に泊る。」と書き出し、佐渡の地形、眺望、金山の歴史をふまえながら「大罪朝敵のたぐひ、遠流せらるゝによりて、たゞおそろしき名の聞えあるも、本意なき事におもひて、窓押開きて、暫時の旅愁をいたはらむとするほど、日既に海に沈で、月ほのくらく、銀河半天にかゝりて、星きらきらと冴たるに、沖のかたより、波の音しばしばはこびて、たましゐけづるがごとく、膓(はらわた)ちぎれて、そゞろにかなしびきたれば、草の枕も定らず、墨の袂なにゆへとはなくて、しぼるばかりになむ侍る。」と絶唱誕生の瞬間を表現する。
 太宰が「あのじいさん案外ずるい人だから、宿で寝ころんで気楽に歌っていたのかも知れない。うっかり信じられません。」(みみずく通信)と茶化したのはここではないか。
 「銀河ノ序」バージョン解説で最も詳しいのは堀切実早稲田大学名誉教授著の『芭蕉俳文集』(岩波書店)で、①本朝文選②真蹟懐紙-「俳人の書画美術・芭蕉③しばはし④真蹟懐紙-「おくのほそ道・芭蕉展図録」⑤真蹟懐紙-「定本芭蕉大成」の5種類を取り上げ、さらに異文2種類の計7バージョンを示している。
 芭蕉園にある「銀河序」は荻原井泉水の紹介で菊本直次郎所有の芭蕉真筆を写真拡大により刻字したものだ。「ゑちごの駅出雲崎といふ処より」という書き出しだが、7バージョンのなかで「ゑちごの駅…」で始まるのは④だけ。しかしよく見比べると細部で異なっている。
 話が専門的になってしまった。強調したいのは芭蕉はこれだけ執着したにも関わらず、どうして「銀河ノ序」を『おくのほそ道』に載せなかったのか、ということだ。芭蕉は最後まで『おくのほそ道』に入れるか、入れないかで迷ったのだろう。それは容易に想像出来る。
 「幕末頃に、越後路の事も多く記しそれを朱や墨で十字に消してあった『細道』の芭蕉自筆本が、曾良の『腰帳』と共に信州から売りに出て、松平志摩守が買い上げた」(杉浦正一郎『芭蕉研究』)という話も伝わっているほどで、「荒海や」の登場を演出するため、推敲を重ね、究極まで削ったのではないか。
 仮定の話でしかないが、もし「銀河ノ序」が『おくのほそ道』に載っていたら、越後路の文章は相当長くなっていただろう。逆に市振での「遊女」エピソードに影響を与えていたかもしれないし、柏崎人を暗い気持ちにさせる「(柏崎での天屋の対応など)不愉快なことがあったので越後路は短くなった」といった評論を招くこともなかっただろう。
 「銀河ノ序」をうんと味わいながら、そんなことも考えてみた。(2025/01/25)

うんと味わえ。もっと味わえ。(1)
 佐渡の話題を続ける。
 太宰治は1940年に新潟高校での講演のため来県した際の感想を「みみずく通信」と「佐渡」に書いている。共通するのは佐渡への並々ならぬ関心だ。
 「佐渡」冒頭、「佐渡は、淋しいところだと聞いている。死ぬほど淋しいところだと聞いている。前から、気がかりになっていたのである。私には天国よりも、地獄の方が気にかかる。」「新潟まで行くのならば、佐渡へも立ち寄ろう。立ち寄らなければならぬ。(略)死ぬほど淋しいところ。それが、よかった。」とおけさ丸の船上で船酔いを案じながら自問する。
 そして夷(えびす、両津)の旅館に宿泊、夜半に目が覚め「波の音が、どぶんどぶんと聞える。遠い孤島の宿屋に、いま寝ているのだという感じがはっきり来た。眼が冴えてしまって、なかなか眠られなかった。謂わば、『死ぬほど淋しいところ』の酷烈な孤独感をやっと捕えた。おいしいものではなかった。やりきれないものであった。けれども、これが欲しくて佐渡までやって来たのではないか。うんと味わえ。もっと味わえ」という印象を書き記す。強烈だ。
 太宰の佐渡行きは「死ぬほど淋しいところ」を確かめ、味わうのが目的だったのではないか。
 では、この大げさな先入観の正体は何か。ずっと分からないでいたが、ある時亀井勝一郎の「佐渡が島」を読み、腑に落ちた。「銀河ノ序」だったのだ。
 太宰の「佐渡」から9年後の1950年に「佐渡が島」は書かれている。もしかしたら友人の亀井に佐渡行きを奨めたのも太宰だったかもしれない。
 亀井は「銀河ノ序」を引用しながら「絶海の孤島、流人の島、死ぬほど淋しいところ、そういう観念をもって眺めていたようである。現実の佐渡よりも、芭蕉の『銀河序』を通してみた幻の佐渡の影響を私はつよく受けていたらしい。」とし「凄絶な寂寥感をもったこの文章が、佐渡の遠望を決定してしまったと言ってよい。荒涼たる夜の日本海の描写が、佐渡そのものの生命にまで枠をはめてしまったとも言える。芸術の力は恐ろしい。描かれた風景に、現実の風景が従うのである。芭蕉は行きずりの旅人だ。ある季節のある時間に限定されているが、『荒海や』の一句は人口に膾炙し、我々の裡なる『まだ見ぬ佐渡』は、芭蕉を模倣するに至ったのである。」と書く。やはり「死ぬほど淋しいところ」が印象に残る。
 引用された「銀河ノ序」は、多少の差異はあるものの『本朝文選』(1706年)に載ったバージョンのようだ。太宰も「銀河ノ序」を読み、亀井のいう「『銀河序』を通してみた幻の佐渡の影響」を強く受けながら佐渡に向かったのだろう。だから「死ぬほど淋しいところ」を味わうことが、第一の目的になったのだ。
 同年の「みみずく通信」では「荒海や佐渡に、と口ずさんだ芭蕉の傷心もわかるような気が致しましたが、あのじいさん案外ずるい人だから、宿で寝ころんで気楽に歌っていたのかも知れない。うっかり信じられません。」とコミカルなオチをちゃんと用意している所が太宰らしい。(2025/01/15)

「佐渡情話」はハッピーエンド(2)
 寿々木米若のことをいろいろ調べていて、今では考えられないくらいの佐渡情話ブームであったことがわかった。数々の便乗商法も展開されたようだ。お光吾作とは全く関係のない『新佐渡情話』は映画化され、かの太宰治が「ひどく泣いた」というのもよく知られる話。
 1935年に刊行された小説『佐渡情話』もブームの中で書かれたものだろう。著者は「文芸哲学者」、村田豊秋の筆名だ。『思想中毒』『人間論』など多くの著書を残した哲学者が、どうして大げさな変名にしたかは不明。
 巻末には「寿々木米若師と浪曲佐渡情話」との説明文を載せている。「物凄いばかりの売れ行きで、他のレコードが出なくなり、ひとり佐渡情話のみが羽が生えて飛ぶやうな景気であった」「米若師が佐渡情話を演じれば、どこの劇場も、みな超満員の盛況」「日活でも、米若師の浪曲を中心に、佐渡情話のトーキーを展観したが、素晴らしく大当りで、予想以上の成功を収めたといふから、今や世を挙げて佐渡情話の黄金時代」等々、ブームの凄さが伝わってくる。
 小説は、米若の「佐渡情話」を膨らますだけ膨らませ、さらに柏崎を舞台にした続編「七年後の佐渡情話」もミックスする内容で、250頁のボリューム。登場人物と伏線が多いのがタマにキズで、61章で構成される作品なのに吾作が登場するのはようやく24章「難破船」になってからだ。
 難破した柏崎の吾作と恋仲になった佐渡のお光が、横恋慕をしていた七之助にたらい舟を壊され狂女となるが、佐渡流罪中の日蓮の功力で救済されるというあらすじは米若浪曲と同様。
 60章「予言者の奇蹟」では「日蓮上人は、念珠をもって、お光坊の頭髪から顔を撫でさすると、海の上へ、その念珠を筆の代はりに、七字の題目を書く真似をした。」「不思議なことに、海の浪の上へ、南無妙法蓮華経の文字が浮んだが、その文字から、サラサラと電(いなづま)のやうな光りを放つた。」とお光が正気に甦るクライマックスを描く。また「塚原三昧堂で飢えと寒さに苦しむ日蓮のところへ、お光が毎日握飯を運んだ」という美談を挿入することで、日蓮とお光の縁を具体化している。さすが文芸哲学者。
 最終章の61章「真如の月」は「七年後の佐渡情話」をギュッと凝縮。柏崎で仲良く暮らすお光吾作の所へ七之助が訪れる。大雪の日だ。変わり果てた哀れな七之助をお光吾作夫婦は、過去の因縁を忘れ介抱する。
 米若の「七年後の佐渡情話」ではお光の佐渡おけさを「線香代わり」に聞きながら七之助は昇天した。一方、小説では七之助が「佐渡へ戻り坊主になって罪滅ぼしの一生を送る」と宣言して大団円。ハッピーエンドなのである。
 柏崎の吾作が語る「だんべえ」言葉はナゾだが。(2024/12/25)

「佐渡情話」はハッピーエンド(1)
 綾子舞には珍しい狂言「佐渡亡魂」がある。
 節目節目で演じられる下野座元の演目で、「佐渡島(さど)の金山」ユネスコ世界文化遺産登録をお祝いし今年の現地公開で演じられた。
 商いに来た佐渡で現地妻を設けてしまった義太夫が地方(じかた)に戻ることになり、邪魔になった妻を「三杯参れ」と酒に酔わせ、舟の上から突き落とし、その亡霊に祟られるというストーリー。こう書くと凄惨な印象を受けるが妻(ばばあ)のコミカルな所作で、実際は笑いが起こる。
 上演後、綾子舞関係者と話していて、「佐渡情話の吾作さんもそう(不倫)ですしね…」という話になった。これは柏崎人に多い勘違いである。混同なのだ。
 寿々木米若による「佐渡情話」は、1931年にビクターからレコードが発売され一世を風靡した。原話は柏崎に伝承される「お弁藤吉ものがたり」。柏崎の船頭・藤吉が佐渡と行き来しているうちに小木のお弁と深い仲になった。ところが藤吉には妻子がいる。佐渡からたらい舟で逢いに来る女心の激しさが恐ろしくなった藤吉は、ある日お弁が目印にしていた番神岬の灯りを消し、このためお弁は難破し亡骸が青海川に打ち上げられるというストーリー。その青海川にはお弁の滝が実在する。
 一方「佐渡情話」は、お光のたらい舟は横恋慕する七之助に壊されてしまうが、柏崎の吾作は約束通りお光を迎えに来る好青年として描かれる。与謝野晶子が詠んだ「番神堂の灯(ほ)かげ」も消されないし、たらい舟も難破しない。
  吾作との子・吾一も誕生するが、お光は吾作を待ちわび「狂女」となる。だが、そこに佐渡流罪中の日蓮が登場し、経文を唱えるとあーら不思議、海上に「南無妙法蓮華経」の七字が出現し、お光は「正気の人」に蘇る。
 エンディングが全く違う。「佐渡情話」はハッピーエンドなのだ。
 なぜこういう奇跡譚になったか、というと、作者の寿々木米若が熱心な日蓮信者だったから、とも聞く。とにかく「佐渡情話」と「お弁藤吉ものがたり」は全く別のエンディングだが、いつのまにか混同されてしまうことになった。
 さらに後日談として、柏崎を舞台にした「七年後の佐渡情話」(1935年、テイチク)も作られている。つましくも幸福に暮らすお光、吾作、その子吾一一家に、落ちぶれた七之助が訪れる。雪がしんしんと降り、お光、吾作の真心が伝わる作品だが、忘れ去られているのは残念。
 寿々木米若は「佐渡情話」について、1969年の句文集『稲の花』で「子供の頃、伝説に柏崎の漁師が佐渡の小木沖合いに難船して助けられ、島の娘と恋に落ち、娘は夜な夜な盥舟で柏崎に通って来る。あまりに頻繁に来るので男がこわくなり荒神様の常夜燈を消した。娘は方向を見失ない遂に海の藻屑となった。娘は男の身体に蛇体となってからみ付き男を絞め殺した。と、いう伝説を思い出してそれをモットーにして筋書を綴ってみた。」と回想している。
 「モットー」は「モチーフ」の誤りだろうが、上越市の類話を含め「蛇体となってからみ付き男を絞め殺した。」はどこにも見当たらない。こちらは米若の勘違いでは、と思い調べてみると、経営した静岡県伊東市の温泉旅館「よねわか荘」近辺に「海を通う女」という伝説があるのがわかった。
 「たらい舟に乗って通い詰める」「(権現の)燈明を消され遭難する」といったあたりは柏崎の伝説によく似ているが、「(遭難し打ち上げられた女に)身体中鱗が生えていて恐ろしい蛇体であった。」という驚愕の結末。どうやら柏崎と静岡の伝説が混同されたようである。(2024/12/15)