越後のちりめん問屋?
「越後の縮緬(ちりめん)問屋の隠居」を名乗って世直し旅をするおなじみ「水戸黄門」だが、実際越後には「縮緬問屋」は存在しない。「縮緬」も生産されていない。設定としては誤りということになる。
諸国漫遊譚そのものがフィクションなのだからどうでもいいことなのだが「もしかして縮(ちぢみ)問屋と言おうとしたのでは…」と楽しい想像をしてみる。「縮問屋」であれば柏崎だった可能性は大いにある。※
2011年放送の「いい旅・夢気分-冬本番!新潟ローカル線の旅 あったか名湯と日本海の幸」(テレビ東京)で、テレビシリーズ『水戸黄門』31部から43部で御老公を演じた里見浩太朗が「越後の縮緬問屋」を訪ねるシーンがあった。
訪問したのは四谷1の老舗・三忠呉服店で、店主の三井田忠明さん(元市立博物館長)からさっそく「越後には縮緬はなく、縮と混同したのでは。縮緬は絹、縮は麻で織ったもので、全くの別物です。」といった説明を受けた。水戸藩を行商先とした同呉服店には「水戸御用」(水戸藩の御用達札)といったゆかりの品も残されており、里見黄門は偶然に驚いた様子。
テレビシリーズの『水戸黄門』は第43部まで続いた長寿番組で、柏崎が舞台になったのは1999年放送の第27部22話「恋を探した盆踊り」と2001年放送の第29部20話「岸壁に祈る母」の2回。
このうち「恋を探した盆踊り」は、柏崎市と柏崎民謡保存会が協力した。冒頭、悪田(あくだ)の渡しで柏崎が民謡の宝庫であることが八兵衛によって紹介されたり、悪代官を懲らしめた後、民謡保存会の音頭で御老公一行が三階節の輪に加わるシーンも。
さすがに「越後の縮緬問屋の隠居」とは名乗れず「物好きな旅の隠居」と控え目表現。ゲスト出演の湯原昌幸に「この柏崎は小千谷縮、十日町縮の仲買で知られたところ」と語らせ、縮で活況を呈した当時の柏崎の様子も紹介された。ちゃんとお分かりではないか。
1978年公開の東映映画『水戸黄門』にも柏崎が登場する。テレビシリーズ放送開始10年を記念して製作され、東野英治郎、里見浩太朗、大和田伸也らテレビシリーズの主要俳優が出演。やっぱり東野黄門は良い。
どうして柏崎の地が選ばれたか不明だが、これも絵に描いたような悪代官とニセ黄門一行(ハナ肇、植木等、谷啓)を懲らしめ、風雲急を告げる加賀藩へと。三船敏郎、栗原小巻、竹脇無我といった豪華配役、ニセ黄門一行のドンチャン騒ぎで三階節「米山さんから雲が出た…」を盛り上げるのはかしまし娘だ。
昨年の市立博物館の秋季企画展「江戸行きと松前行き-柏崎の縮布商と麻漁網」に見られたように、柏崎の縮商人の活躍は京阪行き(御所廻り)、江戸行き、地方廻り(越中富山・高岡、加州金沢、江戸を除く関東方面、尾張名古屋、中国・西国辺)など全国各地に及んだ。江戸城に入るための「御門通札」(ごもんとおりさつ、1859年)も残っているし、何と米国・ボストン美術館の古美術修復過程で「紀州様」(紀州徳川家)への行商を記録する古文書も見つかった。「水戸御用」だけでなく全国で活躍をし、柏崎に代金だけでなく文化も持ち帰ったのである。(2025/09/05)
※『新潟県史』通史編5によれば県内の縮問屋は、十日町(6軒)、柏崎(4軒)、堀之内・小千谷(各3軒)、高田(2軒)となっており、十日町につぐ盛業ぶりだったことが伺える。
『雪国』と三階節
川端康成の代表作『雪国』に三階節の一節「蝶々とんぼやきりぎりす/お山でさえずる/松虫鈴虫くつわ虫」が登場するのをご存じだろうか。
三階節の歌詞は多種多様で、今では歌われていない歌詞も多い。幾つかの歌詞集があるが、1973年に柏崎市中央公民館が刊行した小冊子『三階節』には193もの歌詞が採録される。この一方で『柏崎市史資料集』(民俗篇)に載っているのは19。これは現行の歌詞(といっても資料集が出たのは1986年だが)に絞ったためである。
いずれにも「蝶々とんぼやきりぎりす」は収録される。代表的な歌詞の一つだからだ。柏崎民謡保存会の横村英雄さん(元観光協会会長)によれば「この歌詞(蝶々とんぼやきりぎりす)が出たらそろそろ終わりにしましょう」というエンディングの合図なのだという。
さて『雪国』の話。「蝶々とんぼやきりぎりす」が登場するのは終盤で、行男を葬った後の葉子の「あの悲しいほど澄み通って木魂(こだま)しそうな声」によって歌われる。
『雪国』の成立はなかなか複雑で、まず1935年から1937年にかけ「夕景色の鏡」「白い朝の鏡」「物語」「徒労」「萱の花」「火の枕」「手毬歌」の順で「文藝春秋」や「改造」などに断片的に発表される。これに新稿を加え一冊にまとめたのが旧版『雪国』(1937年)。その後発表された「雪中火事」「天の河」が「雪国抄」「続雪国」として推敲され、1948年に決定版『雪国』が刊行されるまで実に13年も要している。戦時中という事情もあったろう。
オリジナルで言うと、「蝶々とんぼやきりぎりす」は「萱の花」の一番最後に出て来て、続く「火の枕」で「『蝶々とんぼやきりぎりす……。』といふ、あの歌を」ともう一度出る。川端康成の『雪国』創作メモにもその痕跡は残り、重要なキーワードであったことは間違いない。文中に「蝶」「蜻蛉」「轡(くつわ)虫」がちりばめられるように出てくることにも注目したい。
湯沢町歴史民俗資料館「雪国館」では最初は何の歌詞だかわからなかったそうだが、同館の河村勝さん※の調査で三階節の一節であることがようやくわかったという。河村さんは「駒子のモデルである松栄(まつえい)さんが川端先生の耳に入れたのではないか」と推測する。
河村さんらにとって「蝶々とんぼやきりぎりす」は謎の歌詞だった。というのも湯沢では三階節が歌われることがなかったからだ。最初は地元の芸者衆に聞いて回ったそうだがわからず、手まり歌を調べても見当たらなかった。新潟県内の民謡を全て調べてみようと片っ端から文献を探したところ、新潟県教育委員会の資料の中にようやく「蝶々とんぼやきりぎりす」を見つけたそうだ。
河村さんによれば「松栄さんは1928年から湯沢に芸者として勤め、いったんここを離れた。その後再び1932年に湯沢に戻ってきて『雪国』を執筆する川端先生と出会った。湯沢を離れた時期に柏崎で芸者をし、柏崎で覚えた三階節の一節を川端先生に聞かせた、と考えると説明がうまくつく。」と推理、さらに「松栄さんが柏崎にいた正確な時期は不明だが『蝶々とんぼやきりぎりす』がローカルな歌詞であることを考えると、数か月程度は柏崎にいたと考えるのが自然。」とする。
三階節発祥の専福寺(東本町1)境内に2001年に建立されたまちしるべ「三階節」には「ノーベル文学賞を受賞した川端康成の名作『雪国』にも、三階節が登場するシーンがあり、詩情の世界に彩りをそえています。」と刻まれるが、これは「松栄説」を根拠にしたものだ。
『雪国』をよく読んでいくと、駒子が自らの境遇を語るなかに「港町」「港」というキーワードが何度も出てくる。三階節と同様、これも松栄が教えた「柏崎」のことではなかったか。
余談だが、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」という有名な書き出しは旧版『雪国』から。オリジナルの「夕景色の鏡」冒頭が大胆にカットされた結果である。
『雪国』の話題で少しは涼しくと思ったが、暑さのトンネルをなかなか抜けそうにはない。(2025/08/25)
※2023年に死去。1957年版の映画「雪国」(島村を池部良、駒子を岸恵子、葉子を八千草薫が演じた)にエキストラ出演したという。
松平定信登場!
江戸のメディア王・蔦屋重三郎を主人公にしたNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦屋栄華乃夢噺~」は後半に入り、8月10日放送の第30回(人まね歌麿)では成人となった「松平定信」が登場した。柏崎高校校歌の4番に「右文尚武勤倹に/重き責任尽くされし/楽翁公が旧治蹟/汲め白河のその流れ」と歌われるその人である。
柏高の名物先生・橋本桂一の『熱血!ガリ版日本史』には「柏崎高校の校歌にも登場する人物。田安宗武(徳川吉宗三男)の子から奥州白河藩主の養子になり、1783年藩主となるが、同年は全国的な大飢饉であった。飢饉に直面した定信は、自ら一汁一菜を実行し、藩士の減俸を行う。また、領民には藩の米を分け与え、不足分は物資を外から集めて切り抜け、以後、農政を重視していく」「1787年、江戸で天明の打ちこわしが起こり、その暴動のさなか、定信ははじめて老中として登城するが、質素な木綿の着物を身に付け、ごま味噌つきの弁当を持参したという。また、途中の行列も駕籠をわざとゆっくり進めさせ、行列に民衆が訴えられるようにしたという」とある。
田沼時代とはまさに真逆の水と油。今回も田沼意次から「癇癪小僧」「黒ごまむすびの会」と揶揄されていたので、先が思いやられる。
ところで、「べらぼう」第30回冒頭、一橋治済から幕政参画を持ちかけられる場面があった。治済が定信を「見事な差配であった。奥羽の他国が次々と飢えて死ぬ者を出す中、白河は誰一人死ななかったと聞く。」と称賛した舞台裏には、実は柏崎が大きく関わっている。
当時、越後にある白河藩分領を統括する陣屋が柏崎にあり、ここが中心となって1万俵もの救援米を送ったことが「白河は誰一人死ななかった」(一人の餓死者も出さなかった)ことにつながったからである。
『白河市史』は「越後柏崎の米1万俵を白河に廻送」としたうえで「会津藩では越後米輸送のため会津領内を通ることを許可し協力を約した。これによって先ず年内に5000俵、来春中残りの5000俵あわせて1万俵を会津領内を通って白河に輪送した(略)定信は諸藩が穀留めをする直前に迅速な飢饉対策をすすめたのである。」と誇らしげに記述している。この他、会津藩の江戸廻米6000俵を入手するなどあの手この手で救米を集め、これを領民の困窮度に応じて支給した。
白河藩の分領があった越後(柏崎)では当時、どのくらいの米が穫れていたのだろうか。
1742年の石高が『鶯宿雑記』※に記録されている。高田藩から白河藩へ転封となったばかりの時期だが、これを見ると白河側(8万2033石)より越後5郡(8万2191石)の方が僅かだが上回っていることがわかる。越後5郡は蒲原郡、三島郡、刈羽郡、魚沼郡、岩船郡を指し、この中でも刈羽郡の石高(3万7560石)は群を抜いている。この背景には宮川四郎兵衛による新田開発があったはずだ。
三重県桑名市には定信を祭神とする鎭國守國神社がある。その嵯峨井和風宮司が柏崎で講演を行った際「天明飢饉の際に領内から一人の餓死者も出さなかったことが評判となり、8代将軍吉宗の孫でもあったことから老中待望論につながった。これは、越後領でとれた米の支援を受けたおかげであり、越後の米が老中・松平定信を誕生させたことにもなるのではないか」と強調、「定信公は白河の領民に大変慕われた人で、桑名に国替えの際、農民たちが米を自主的に集め、餞別として贈った」とのエピソードを紹介した。領民から餞別をもらった殿様というのは過去いないそうだ。
『白河市史』をさらに読むと「白河領内では、男子に比して女子が間引きされる場合が多かったため、とくに女性の人口が少なかった。結婚できない男性が多く、そのため農村の人口が減少し、手余地(耕作放棄地)が増加した。(略)白河藩の飛び地のある越後から結婚の希望者を募る政策を実施し、農村の人口・労働力の増加をはかった。」とある。越後の女性を正式な手続きを踏んで白河に嫁がせ、1両~3両の祝い金を与えたそうだ。昭和初期まで白河地方の一部に越後言葉が残っていたそうだから、白河との縁は私達の想像以上に深いのではないか。
ネタバレとなるが、定信が主導する寛政の改革では蔦重を始め朋誠堂喜三二、恋川春町、山東京伝らが処罰された。「べらぼう」ではどれだけ敵役に描かれるのだろうか。「楽翁公が旧治蹟」としては気になって仕方がない。(2025/08/15)
※おうしゅくざっき、松平定信に仕えた駒井乗邨(鶯宿)が長年に亘って書き留めた膨大な記録集。約600巻、国立国会図書館蔵。1742年の石高記録が載っているのは巻59。生田萬の乱についての記述(柏崎御陣屋狼籍者乱入一件、巻503)もある。
「北海大風」の歌碑
ふるさと人物館の建物が解体されて広場となり、柏崎ゆかりの歌人、吉野秀雄の歌碑がよく見えるようになった。
歌碑は1971年の建立、「北の海の冬呼ぶ風ぞ砂に這ふ枯莎草(かれかうぶし)を根掘(ねこ)じむばかり」が刻まれている。「北海大風」六首の冒頭歌で、吉野秀雄の評価を高めた第三歌集『寒蝉集』に収められている。
本人が自註に書いている通り「莎草」は浜菅(はますげ)のことで、根茎が薬用とされる。その根ごと持っていく風の強さを「根掘じむばかり」とストレートに表現した。
1945年10月に吉野秀雄が西本町3の観音寺を訪ねた際に詠んだ歌とされる。自註には「八坂神社境内の通称銭山の尼寺の観音寺に疎開中の旧知の藤田美代を訪ねてゐる中、朝来の烈風はいよいよ猛威を加へ、海辺に近いその部屋の動揺さへ無気味であつた。試みにわたしがかかる日の日本海の怒濤をこそ見ておきたいといつたところ、藤田は女性ながらも勇しく自ら案内しようといつて裏の砂浜へ伴れ出してくれた。」と詳しい状況説明がなされる。銭山の地名は、観音寺の山号「法銭山」にかろうじて残る。
「北海大風」六首には「越後柏崎の浜にいでて狂瀾を観る」との詞書がある。では「狂瀾」とは何か。
鵜川河口にも接しているので風もより強かったことだろう。吉野秀雄の言う「狂瀾」とは、裏浜で体験した「荒れ狂う大波」そのものだっただろうし、敗戦直後の世情といったものも暗示されているように思えてならない。『寒蝉集』後記にある「(困難のなかでも)生きゆく意志」を「大風」に立ち向かうことで表現したかったのではないか。
自註は「宿出でて町歩く。本町の仏具屋に入りて、数珠、線香買ふ。(略)柏崎進駐のアメリカ兵は土地に多い仏具屋からしきりに漆の仏具類を買つて、例へば位牌をぶらさげて歩いてゐる珍妙な姿なども見受けられた。」とも記録していて、興味深い。
注目したいのは「北海大風」の初出が『人間』※という、川端康成らが関係していた文芸誌だったことである。「北海大風」が載ったのは創刊したての1946年5月号。上林暁の「聖ヨハネ病院にて」の初出掲載もこの号で、文学が渇望される時代とあって大いに売れたそうだ。
吉野秀雄の長男陽一は「その頃父は大作主義と申しますか、連作と申しますか、短歌や俳句が文芸誌のスミに五首七首と『刺身のツマ』のように載せられているのを嫌がって、小説や評論などに負けない内容と量のものを発表したがっており、『創元』や『苦楽』とかいう雑誌に百首或いはそれに近い量を一度に発表していました。『人間』にも確かはじめはかなりの量の原稿を渡したのですが、何しろ当時は用紙の割当て制限があって紙幅も限られていたために削られ、結局は僅か六首だけが掲載されることになったのです。」(「北海大風」のころ)と綴っているので、入稿時は「大作」だった可能性がある。
さらに陽一は「父はその頃は歌稿をとても大切にしていて先の鋭い細筆で良い紙の原稿用紙にていねいに浄書して渡していました。川端康成さんがご覧になって、その細かい点画を見るのに虫メガネを使われたというのもこの頃のことかと思われます。」と回想している。もしかすると「大作」を六首に削ったのは川端康成ではなかったか。
『人間』は5年で廃刊となったが、「三島由紀夫を発掘した」ことで文学史に名を残した。(学習院中等科時代の『花ざかりの森』はあったにしても)当時無名だった三島由紀夫の「煙草」が、川端康成の推挙により掲載されたのが1946年6月号。「北海大風」の載った翌月である。さらに同年12月号には「中世」も同誌上で発表された。
三島由紀夫ほど無名でなかったとしても、吉野秀雄の「北海大風」が『人間』で発表されたことの意味は、当時の時代状況を含め大きく受け止められるべきではないか。
「北海大風」が詠まれたのは終戦の年なので、戦後80年にも重なる。吉野秀雄のことを振り返る好機と思うが、どうだろうか。(2025/08/05)
※『日本近代文学大事典』(講談社)によれば「戦争末期、久米正雄、川端康成、高見順ら鎌倉在住の作家が創設した貸本屋鎌倉文庫が、終戦直後の昭和20年9月、出版社鎌倉文庫として新しく発足したが、その仕事の一つとして、大正期に里見弴、久米正雄、吉井勇、田中純、直木三十五らの編集で発刊した『人間』(大8~11)の誌名を踏襲して創刊したものである。」とある。
長崎への「模擬原爆」投下
終戦の年、1945年7月26日のことだ。
長崎に「模擬原爆」が投下され、2人が犠牲になった。長崎は柏崎市の長崎、当時は西中通村である。原爆の投下目標には当初、新潟市も含まれていたそうで、この前段階としての投下だったことを考えると、今さらながら恐怖が湧いてくる。
B-29による空襲だが、投下したものが「模擬原爆」とわかったのは最近になってのことだ。契機となったのは、愛知県春日井市の「春日井の戦争を記録する会」の活動だ。
「終戦前日の8月14日、春日井に投下された巨大爆弾」の謎を探っていた同会の三浦秀夫さんらが米国から取り寄せた資料を翻訳、分析するなどしているうち判明したのは、ヒロシマ、ナガサキへの原爆投下を成功させるためのSPECIAL
BOMBING MISSIONS (特別な爆撃任務)だった。
模擬原爆について三浦さんは「投下の目的は世界で最初の原子爆弾投下を成功させるために、原爆と同じ重量と形、弾道特性をもつ容器にTNT火薬をつめたものを使って、飛行方法、目標への高高度での接近、レーダーに頼らない目視による投弾、投下直後の急速退避(150度の急旋回)など可能なかぎりの訓練を実施していた」(『模擬原爆と春日井』、1995年)と説明、「私達はたいへんなことに気づくことになった」と述懐する。
模擬原爆が投下されたのは全国50か所(うち1発は海洋投棄)。作戦を担当した509th Composite Group(509混成群団)は原爆投下のために編成された部隊で、模擬原爆にはTNT火薬2・8トンが詰められたという。※
柏崎市長崎への模擬原爆投下が記載される米軍資料「SUPPLEMENTARY TABLE TWENTIETH AIR FORCE SPECIAL
BOMBING MISSIONS 509TH COMPOSITE GROUP」(国立国会図書館蔵、Statistical Table and
Map of Special Bombing Missions,509th Composite Group,1945)を改めて見てみる。
1945年7月20日から8月14日にかけてのMISSIONSが一覧になっている。上から順に見ていくと、模擬原爆は7月20日と24日、26日に各10か所、29日に8か所で投下され、そのすぐ下の8月6日にはヒロシマでの「1Atomic」(原爆投下)。
さらに8月8日に5か所で模擬原爆の投下を行い、9日にはナガサキにも「1Atomic」(原爆)を落とし、14日には春日井市に7発の模擬原爆を投下。大量殺戮が淡淡と、澱みなく記録されていることに驚かされる。
柏崎市長崎への模擬原爆投下が記載されるのは7月26日の一行目で「90.9-Urban」「KASHIWAZAKI」「7-26-45」「BOMBING
ALTITUDE(爆弾投下高度)27,000(フィート)」「1Spec(ial)」と記録される。「90.9」の「90」は日本の国別番号、「9」は「新潟県」とされる。柏崎市長崎が「Urban」と判断された理由は不明。
「SUPPLEMENTARY TABLE TWENTIETH AIR FORCE SPECIAL BOMBING MISSIONS 509TH
COMPOSITE GROUP」に記載される計52か所(発)で、ヒロシマ、ナガサキと模擬原爆の違いは「1Atomic」か「1Spec(ial)」の違いでしかない。
添付地図「JAPAN(SOUTH)」でも同様。一重線で囲まれるKASIWAZKIやATAGI MFG.CO.(長岡市左近町)などに対し、HIROSIMA、NAGASAKIは二重線で囲まれる。一重線か、二重線か、その「差」でしかない。その「差」はあまりにも大きいのだが、あくまで同じテーブル上にあったということを決して忘れてはならないと思う。
模擬原爆の投下日について『柏崎編年史』、『柏崎市史』(通史編、資料集とも)「7月24日」とするが、米軍資料に照らし合わせると誤りということが分かる。「西中通村長崎地内越後線の両側に爆弾二、三個投下」(市史下巻)、「長岡の空襲はこの直後の8月1日。この時も柏崎の上空通過であった。」(市史資料集近現代編第三上)とあり、編纂者は長岡空襲との関連も考えていたようだ。
さすがに『新潟県史』(通史編)は「7月26日」と記述するものの模擬原爆には触れていない。
2011年に柏崎市内で行われたふしなり座による演劇「西中通に爆弾が…戦争と西中通」によって、ようやく埋もれかけていた歴史に光が当たるようになった。ここでは明確に「7月26日」として脚本が書かれている。脚本を書いた牧岡孝さんは初演時「模擬原爆については資料不足で表現し切れなかった。さらに脚本をバージョンアップするため資料を収集したい。」とコメントしていたが、すでに泉下の人となってしまった。
柏崎市が公式に「7月26日」としたのは、2017年の核兵器廃絶平和推進事業「被爆体験者講演会」のプロローグ(実は原爆投下地だった?わたしたちの柏崎)においてだ。
現地には西中通コミュニティセンター運営協議会の建てた「模擬原子爆弾投下の地」の標柱があるが、なかなか説明しづらい場所にある。
久しぶりに現地を訪ねてみたが、やはり分かりづらい。県道沿いにも案内看板があればと思う。
標柱前の水田では稲穂が見え始めていた。長崎に模擬原爆が投下されてから80年目の夏である。(2025/07/26)
※長岡市左近町の「模擬原子爆弾投下地点跡地の碑」には「【形式】パンプキン(10,000ポンド軽筒爆弾)【大きさ】1.52m×3.25m【重量】4.9t(内TNT火薬2.8t)」との説明がある。
西郷隆盛の来柏(2)
妙行寺は、市街地で最も高い場所にある。これも本営が置かれた理由だろう。山号は海岸山で、「三階節」に歌われる番神堂は境外仏堂だ。
今や本町通りにはマンションが聳えるようになり、見通しも悪くなったが、当時は妙行寺前の御米(おこめ)小路から聞光寺の優美な甍は見えたはず。征討宮である仁和寺宮嘉彰親王に拝謁した際、「直ぐ傍に吉二郎さぁがいる」ことを知った西郷隆盛が、急きょ聞光寺に駆けつける、という「ドラマ」を想像したくなる。※
吉二郎は兄の流謫中に家を支え、兄隆盛に「己(おれ)は、兄に生れたけれど、とても汝(おまえ)には及ばない。これから己は汝を兄と思ふ。」(大西郷全集)と言わしめたほど。この関係を考えれば「ドラマ」は信憑性を帯びる。
吉二郎の甥、西郷従徳(西郷従道の次男)は『西郷吉二郎大人』(1939年)で「吉二郎大人は戊辰役の際八月二日北越長岡城外五十嵐川の戦で傷つき、柏崎病院で療治中、同月十四日遂に陣歿されたのである。」としたうえで「時恰も南洲翁は藩の兵具隊三小隊を率ゐて、十日柏崎着、翌十一日新潟に転ぜられてゐるので、是の時吉二郎大人負傷の事も聞き取られたであらうが、兵馬倥偬の際なればゆるゆる見舞はる事が出来たか、否やは知る由もない。然し此の奇遇には、吉二郎大人は重症をも打忘れて御喜びであつたらうと、拝察する許りである。これ畢竟天縁の然らしむる所であらう。」と書いている。
南洲(なんしゅう)は西郷隆盛の号だ。瀕死の吉二郎の見舞いを「知る由もない」としながらも「重症をも打忘れて御喜びであつたらう」と書いている。矛盾する記述に感じることは、つまり身内は見舞った事実を知っていたのだろう。「兵馬倥偬」(へいばこうそう、戦争や戦乱で慌ただしいさま)のなか公私混同と批判されることを避け、結局、このことは極秘とされたのではないか。
吉二郎が没するのは春日丸が新潟港に到着後のことだ。新潟市北区の坂井七左衛門家で訃報を聞いた西郷は「陣中にて17日も魚肉を口にせず精進された」(『西郷吉二郎大人』)というから悲しみは相当だったようだ。得藤長宛書簡にも「拙者第一先に戦死致すべき処、小弟を先立たせ、涕泣(ていきゅう)いたすのみに御座候。御悲察給うべく候。」と断腸の思いが表現される。
現在、西郷吉二郎は上越市金谷山の「戊辰薩藩戦死者墓」に埋葬され、墓の裏面には「柏崎 合葬」と大きく刻まれている。西郷隆盛は日枝神社(上越市寺町3)に永代供養料として「金5000疋」を奉納したとの記録も残る。
西郷隆盛の来柏について『柏崎市史』を確認したが、西郷吉二郎が聞光寺で亡くなったことを含め言及されていない。その後の「柏崎県」の動向に紙幅を割くためだったか。『柏崎編年史』も同様である。(2025/07/15)
※西郷隆盛を主人公にした2018年のNHK大河ドラマ「西郷どん」(第38回「傷だらけの維新」)では、西郷隆盛が聞光寺(と思われる寺)の吉二郎を見舞うシーンが描かれ、話題となった。
西郷隆盛の来柏(1)
西郷隆盛の次弟、西郷吉二郎が柏崎で没したことはあまり知られていない。
「彼(吉二郎)は遂ひに高田病院に於て不帰の客となった」と述べたのは徳富蘇峰(『近代日本国民史』74巻、1946年)だが、「孫引き」が相当数流布されてしまった。高田に墓があるから亡くなったのも高田だろう、と簡単に推測したのではないか。
西郷吉二郎は、薩摩軍監軍として北越戊辰戦争を指揮、慶應4(1868)年8月2日「五十嵐川田島・曲渕の戦い」で重傷を負った。
現在、三条市の五十嵐川左岸曲渕堤防上には「日本の黎明戊辰戦役の地」碑が立つ。戊辰戦争から130年後の1998年に建立された立派な記念碑だ。
趣意書には「鳥羽・伏見の戦いで始まった戊辰戦争は全国に拡大し、わが越後の地にあっては長岡城争奪を巡っての激戦が有名ですが、長岡城奪還を果たした河井継之助を総督とする奥羽越列藩同盟軍は、衆寡敵せず七月二十九日長岡城の放棄・退却を余儀なくされ、追いすがる政府軍は同盟軍集結地三条に殺到、先鋒隊と同盟軍主力桑名藩神風隊との間で、慶応四年八月二日、わが三条の地において激戦が展開されました。」「維新回天の大業を成就せしめた最大の功労者、西郷隆盛の弟吉二郎は、薩摩軍番兵二番隊監軍として、曲渕村五十嵐川河岸にて督戦中、北岸からの銃弾により被弾し、瀕死の重傷を負い、柏崎の野戦病院に後送されるも十四日死亡、上越市金谷山に葬られました。吉二郎被弾の地は、現在の田島橋嵐南側と言われております。」とかなり具体的に当時の状況が説明される。
吉二郎が後送された「柏崎の野戦病院」※は西本町1の聞光寺であることがわかっている。同寺が何故病院となったのか、同寺の井上温成住職は「(聞光寺が)官軍の病院で、西郷さんの弟がここで亡くなったという話は聞いています。当時は戦争で負傷した人がたくさんいたので、広い屋敷があれば、否応なしに協力させられたようです。」と証言する。
気になるのは吉二郎が生死の境をさ迷っている際、兄の西郷隆盛も柏崎に来ていることだ。『大西郷全集』第三巻の「西郷隆盛年譜」には「七月二十三日北越出征軍の総差引を命ぜらる。八月六日三隊を率ゐ、春日丸にて鹿児島発、十日柏崎着、十一日新潟着。」とある。
春日丸は薩摩藩が英国から購入した軍艦、速力16ノットで当時最速だ。箱館海戦の際、東郷平八郎が乗り組んでいたことでも知られる。翌日には新潟に入る西郷が、わざわざ柏崎で春日丸を停泊させた理由は何か。
同じ『大西郷全集』第三巻「西郷隆盛伝記」は「十日柏崎に着し、一旦上陸して、奥羽征討総督宮に謁した。」(隆盛北越に出軍す)と記すが、それだけだったろうか。
新政府軍の本営は妙行寺(西本町1)に置かれていた。征討総督宮である仁和寺宮嘉彰親王に拝謁したのも同寺だろう。妙行寺と吉二郎が手当を受ける聞光寺は指呼の間にある。さらに春日丸が停泊したのが納屋町海岸だったとすれば、ほぼ一直線につながる。(2025/07/05)
※『総督官北征日誌』第十八に「柏崎官軍病院」についての記述(1868年9月9日)がある。新政府軍務官の額田正三郎が記録した公式記録で、長州の赤川玄櫟を始め医師19人、薬剤師5人の名前が列挙されている。また『柏崎戊辰史探訪』(富永武臣著)によると草創期(同年5月)の医師は橋本左内の弟、橋本綱常だったという。
井泉水先生の講演(2)
『曾良随行日記』発見で恩恵を受けたのは、間違いなく越後路である。大幅に省略された旅の詳細がここで明らかになり研究が進展したが、「不快シテ出ヅ」(元禄2年7月5日、柏崎)が大きくクローズアップされ、その結果「(柏崎での天屋の対応など)不愉快なことがあったので越後路は短くなった」といった疑いまでかけられることになった。
芭蕉は「荒海や」の絶唱を効果的に登場させるために越後路を究極まで削ったばかりか、「荒海や」の序文として何バージョンも書いていた「銀河ノ序」の掲載も断念した。市振での「遊女」エピソードにも影響を及ぼしたくなかった。そこまで試行錯誤と推敲を重ねた『おくのほそ道』である。
本末転倒の風潮が広がっていることを井泉水は看過できず、実作者の立場から批判した。それを「たましゐけづるがごとく、膓(はらわた)ちぎれて、そゞろにかなしびきたれば」(銀河ノ序)の地で行った意味は大きかったはずだ。
なお「銀河ノ序」について井泉水は「芭蕉の芸術品」「芭蕉は『銀河ノ序』において初めて荒海の句を芸術品として完成させた」「『荒海や』の句を出雲崎作とすることが芸術的効果が高いと感じ『銀河ノ序』を書いた」と繰り返し述べている。耐雪ら地元関係者も溜飲を下げたことだろう。
井泉水はこの講演の後日談を1955年に新潮社から出した『奥の細道ノート』に書いている。耐雪翁への後悔の念もあったのだろうか、「出雲崎説」を強調する内容となっている点が興味深い。
「(『荒海や』の句は)かなりの難産だったかも知れないが、とにかく、珠の如き赤子として生れることは出来た。で、芭蕉は自分ながらこの子を喜んで、これに好い衣装を着せたくなった。詞書風の美辞の錦を添えてやりたくなった。その為には、何月何日、何処に於てということをはっきりさせなくてはならない。先ず、月日の方は、七月七日とした方がいい。それは七タであって、天の川と縁故がある。これを七夕以外の日とすると、甚だしらじらしいものになる。」といった具合で、さらに「次には所だ。これは佐渡を向うに見る所としなくてはウソになってしまう。佐渡の見える所としては出雲崎でも、鉢崎※でも、今町でも、ウソにはならないけれども、此の三カ所のうちで何処をとるかと云えば、出雲崎がだんぜん好い。出雲崎は名所としても天下に知られている。佐渡との関係もふかいからである。(略)その出生地として何処にするかと云えば、出雲崎より他に適当な所はない訳だったのである。」と完璧なフォロー。
また芭蕉の心情を「芭蕉は七月二日に新潟を出て、日本海に添うて宿を重ねている間、或る夜、或る所で、『荒海や』の句のモーチヴをつかんだ。-洋々とした裏日本の大きな海-その岸辺を三千里の旅の孤客として自分が旅をしている-海の中には渡航も容易ではない離れ島-朝敵流罪という悲愴な連想をもつ島-鵲のわたせる橋とは云え渡りの橋にもならない天の川-これらの観念がはじめはバラバラに芭蕉の詩魂にすいついたのだ。」と想像してみせた。
「詩魂にすいついたのだ」も実作者ならではの表現だ。
越後路の省筆の理由については「この道中は風景も単調であって、かくべつ取り上げて書くこともない、ということと、次に親不知子不知の難と、そこを越えてからの市振のくだりにハイライトをあてたい為に、このところはうすぼんやりと取扱っておく、という修辞的の技術から、こう書いたものだろうと思う。」「『暑湿の労』はたしかにあったろうが、『病おこりて』というほどの病気はしていないようである。(略)次の親不知のくだり、市振のくだりを引立たせる為に此の前に行間的空白を置く、という修辞上の技術から、このように書いたものと思われる。」「『銀河ノ序』に書いたところは、奥の細道の本文に取り上げても立派な一節になったろうとも思われる」等とコメント、実に明快である。
『奥の細道ノート』は労作であり名著だが、残念ながら絶版。これを読めば「柏崎のせいで越後路は短くなった」という疑いは晴れそうだが。(2025/06/25)
※現在の柏崎市米山町
井泉水先生の講演(1)
荻原井泉水は『おくのほそ道』の研究家でもあり、1951年に出雲崎町芭蕉園「銀河ノ序」除幕式で「事実と真実」と題した記念講演を行っている。
井泉水は1928年に岩波書店から『奥の細道評論』を出して評判となった。杖跡を何度も歩き、さらに芭蕉の旅の苦労を追体験するため旧満州にまで出かけ「チチハルの荒野に、芭蕉が天涯の孤客として日本海の荒海に天の河を仰いだ気持ちを味わう」といったような理解の仕方をした人だ。1965年には日本芸術院会員となっている。
井泉水を招いたのは良寛堂建立などで知られる郷土史家の佐藤耐雪で、講演のなかで「耐雪老人」と親しく呼んでいるので、以前から交流があったようだ。※「荒海や佐渡に横たふ天の河」について当時、出雲崎説、今町(直江津)説があり、高名な井泉水先生に「出雲崎で出来たものだ」と白黒をつけてもらうのが目的だった。
ところが講演は冒頭から脱線した。「荒海の句が出雲崎で出来たものか、直江津で出来たものかというのは大した問題ではない。」「暇つぶしには良いが、文学の本質論からは外れている。子どもの喧嘩のようなものだ。」と述べ、さらに「閑さや岩にしみ入る蝉の声」は何蝉かという騒々しい議論に飛び込んでしまった斉藤茂吉に準え「耐雪老人ともあろうものが、子どものような問題を取り上げるべきではない。」とやってしまったから、耐雪本人も慌てたに違いない。
そして全く別の話題、つまり「事実と真実」に移った。井泉水にとっては「数年前に曾良の日記というものが世の中に出て、『おくのほそ道』との相違点を研究する人が出て来た」ことの方が問題だったからだ。
「曾良の日記」というのは『曾良随行日記』のことで、江戸時代から存在が知られながら、誰も全貌を見たことがなかった。それを1943年に医師で俳人の山本安三郎(六丁子)が発見、苦労して翻刻出版し、戦争中にも関わらず4版まで重ねた。世の研究者は『曾良随行日記』の発見に驚き、日記との比較研究が流行していた時期にあたる。
井泉水は「『おくのほそ道』は日記に非ず。『おくのほそ道』は日記でないがために芸術作品としての値打ちがある。」としたうえで「曾良の日記を軽く見るつもりはないが、それをもって『おくのほそ道』を批評したり、あるいは日記の方が本当で『おくのほそ道』の方が間違っているというような研究はおかしい。事実と違っているところが『おくのほそ道』の芸術性であり、曾良の日記の通りに書いてあったらつまらないものになってしまう。」と指摘、「曾良の日記というものは一つの事実だが、『おくのほそ道』は日記ではなく芸術。芭蕉は実際に荒れていなくても『荒海や』とし、佐渡に横たわっていなくても『横たふ』とした。詩的想像の故に『おくのほそ道』は尊い。」と結論付けた。
井泉水は「事実と真実は必ずしも同じではない。いや事実と真実は違うものだ。事実の探査ではなく、芭蕉の心にあった真実を探し出さなくてはならない。」とも念押し。実作者として『おくのほそ道』を理解した人らしい。
『越中俳諧史』の和田徳一も同時代の人だが「『奥の細道』の虚構を言う事が、曾良の随行日記刊行後の一つの流行となっているが、それには随分行き過ぎたものもあるようである。」(越後路における芭蕉をめぐって、1952年)との論文を残しているから、『曾良随行日記』発見後の状況が想像出来る。(2025/06/15)
※佐藤耐雪は当初荻原井泉水に「銀河ノ序」揮毫を依頼したが、井泉水から「耐雪の頼みなら直ぐにも書くが、それより芭蕉真筆の銀河序が現存している筈」(佐藤耐雪、「銀河序建碑由来」)との情報を得、三重県の菊本直次郎所蔵の真筆を拡大彫刻したという経緯が知られている。
泉あり青空は手にしていただく
自由律俳句を提唱し、その旗手となった荻原井泉水が柏崎市上輪の「夏井の清水」を詠んだ句だ。
ずいぶん以前の話だが、この「泉」を探して国道8号の斜面をよじ登ったことがある。スピードを出している車が多いので転げ落ちでもしたら大変なことになっていた。まさに若気の至り。
井泉水は、上輪の関係者から依頼を受けた際の記憶について「その上輪というところは山の麓であるが、その山はさして高い山ではなくて、山の斜面が畑地になっている、土地の人は毎日、その山の畑へ耕作をしに行く、その往復にその泉の前を通る、往くときには必ずその泉を口にふくんでから上る、一日の仕事を終えて山を下ってくると、又、その泉を口にして疲れをいやす、それは今日もそうであるが如く、何十年以前の祖先の生活もそうであり、また何十年の後までも、そうであるに違いあるまい、そこに私の句碑を…という依頼だった。」(「九十二番日記」)と書いている。亡くなる1年前の1975年に当時を回想したものだ。
8号路傍にちょろちょろと流れ出ている「泉」の痕跡を目印に、擁壁をよじ登ったのだった。「何十年の後までも…」という井泉水の願いむなしく、国道改修によって「泉」は見る影もなかった。「さして高い山ではなくて、山の斜面が畑地になっている」状態はまだ残っていたが、現在はどうなったか。
さらに句碑を探すのも一苦労であった。まさか「泉」からこんなに離れているとは思わなかったが、国道8号から上輪海水浴場に下る旧北国街道の高台にそれはあった。実に絶景だった。
実際に現地を訪問していない机上句だが、井泉水は「泉の水は手にすくうて飲むだろう。泉には青空が映っているだろう。」と想像し、依頼者が送ってきたという「碑石の型紙」に「はまるように書いてあげた」という。「自分の号も泉に因みがあるし、私の俳句にも泉の句は沢山ある。だが、その上輪の泉にはピッタリと副わないやうだ、新しく、作ってあげることにした。」というから、井泉水先生もかなり力を入れて下さったようだ。
ところで「泉あり青空は手にしていただく」は、句なのか、詩なのか。
揮毫当時の自註(『随』1956年9月号)によれば「この自分の句は大衆的な十七字の形に作つたものではない。これが『俳句』だということの理解が困難な方は、そうした各自のことにこだわらずして、これを『詩』だと考えてくれたとても差支えはない。」と認めながらも「泉あり(5)青空は(5)手にして(4)
いただく(4)こういう風に息を入れて読まれる。」「伝統的の十七字の句というものも、委しく云うと、字数ではなく、ことばの音群の集合であつて、それは54、35と切れるか、或は5345と切れるのが普通である。そのように分析して考えると、自分の、即ち、『自由律の俳句』と称するものも、伝統的の俳句と称するものも、俳句的な音数組織の構造においては根本の相違のある訳ではない。だから、自分たちは、これを『俳句』と称してはばからない、むしろ今後の俳句はこうなければならない。」と持論を展開している。
井泉水は自由律俳句について「分からない人には何と説明しても分らないが、分る人には不立文学的に分る」とも書いているが、大方は後者ではないか。だが自由律、というのが決して思いつきで始まったのではない、ということだけは理解できる。この強烈な旗手がいて、尾崎放哉や種田山頭火が登場してくるわけだから。
別の年に句碑を訪ねたところ、草ぼうぼうで碑が見えない状態になっていた。地元の皆さんが定期的に草刈りをしていると聞いたが、なかなか説明しにくい場所にあるため、劣化も気がかりだ。
句碑手前の上輪橋で「橋梁部材の損傷が確認された」ため、5月9日から通行止めが続いている。一帯の大改修が行われる以前の「陸の孤島」を思い起こすような状況となっていて、このことも心配だ。(2025/06/05)
島秋人は「低能」だったのか
『遺愛集』のなかで、島秋人は自らを「国民学校の時より低能あつかいをされて来た人間」「低能児と云われた程に能力におとる私」と振り返っている。
本当に島は「低能」だったのか。松本市の窪田空穂記念館での「ある死刑囚の短歌と空穂-『遺愛集』(島秋人著)が語りかけるもの」(2005年)取材を終えたある日、群馬県に住む読者、Yさんから大きな包みが送られてきた。
Yさんは柏崎市枇杷島の出身、群馬県渋川市に嫁したご婦人で、「40年も前に島秋人(中村覚)氏と文通しておりましたが、その頃の手紙がずっと手元に保存されており、これを年を経るにつれてどの様にすべきかと思いつつ時がすぎて参りました。」とあった。
包みの中身は島からの書簡で、封書、葉書あわせ約50通。いずれにも拘置所の閲印があり、差出人は「東京都豊島区西巣鴨一の三二二七の一 中村覚」とあった。Yさんが大切にしてきたことが伝わる保存状態で「彼の柏崎への思い」を酌み取ってほしい、と添えられていた。
島の書簡を、ガラス越しでなく実際に手に取ってみるのは初めてだった。Yさんの言う通り「柏崎への思い」が随所にあふれる内容だった。
例えば1963年1月4日付の封書。「僕は島町で育ちました。文化劇場のそばに香積寺と云うお寺が有ります。その前の家でした。角の家なのです。今は他人のものになってしまいましたが僕の故郷はやはりあの家です。」「枇杷島と云へば柳橋の大きな柳を思い出します。踏み切りより、こちらですか?柏崎でずっと育ったのなら三中ですね。僕は一中です。」と書いている。
また、実父については「今度の罪のために特にめいわくをかけない様に父との文通を止めて、分籍もして独り身です(略)出したい年賀状も拘置所の閲印があるので出さないのです」と気遣い、刑執行を予期し「いつまで出詠出来るかわからない」「へたくそだけど僕は『真実』を詠み生命のあるかぎり続けるのです」「少ない日日なんだからがんばらなくちゃあならない」といった心境も記されている。
1月4日付書簡は便箋4枚にぎっしりと文字が書かれている。訂正は1か所のみで誤字はない。「めいわく」が平仮名になっている程度で、用語の使い方も適切。書簡の内容、筆致を見る限り、「低能」は微塵も感じられなかった。
では、いったい誰が、どの段階で「低能(児)」のレッテルを貼ったのか。
『遺愛集』の命名者である前坂和子さんは、都立高校の教師になる際、島から「教師は、すべての生徒を愛さなくてはなりません。一人だけを暖かくしても、一人だけ冷たくしてもいけないのです。目立たない少年少女の中にも平等の愛される権利があるのです。むしろ目立った成績の秀れた生徒よりも、目立たなくて覚えていなかったという生徒の中に、いつまでも教えられた事の優しさを忘れないでいる者が多いと思います。」とのメッセージを受け取ったという。
「一人だけ冷たく」された島の痛切な願いであっただろうか。「すべての生徒を愛」した吉田好道先生を思い出しながら書いたのだろうか。
手紙の包みは柏新時報終刊後、HAKUSHINJIHO ARCHIVESに移管した。内容の吟味もこれからの仕事である。(2025/05/25)
島秋人の痕跡(2)
『遺愛集』初版(1967年)の帯には「“獄窓の歌人”島秋人の短い青春は終った‼ 人々は彼の立直った姿と彼の美しい歌に胸をうたれた しかし神は彼をゆるしても“法”は彼をゆるさなかった」とある。
「人から一度も褒められたり、愛されたことのない人生」(金八先生)への同情とともに、死刑制度についての議論の高まりもあったのだろう。当時の空気が伝わってくるキャッチコピーだ。金八先生での取り上げられ方がヒロイックであったのは、こういった影響もあるかも知れない。
死刑制度について言及するつもりは毛頭ないが「彼の立直った姿と彼の美しい歌」によって、極刑は免じられたのか。
『遺愛集』で島は「僕は犯した罪に対しては『死刑だから仕方ない受ける』と言うのでなく『死刑を賜った』と思って刑に服したいと思っています。罪は罪。生きたい思いとは又別な事だと思わなければならない。」と刑を受け入れ「死をもってする詫び」といった表現も刑死後の美化につながったようだ。
前回「(島町周辺には)何の痕跡も残っていなかった」と書いたが、地元にとってみれば島は「小千谷の農家に押し入り主婦を殺害した強盗殺人犯」であり、その記憶や痕跡は消されるしかなかった。封印、といっても差し支えない。もちろん長い時間の経過もあった。
この一方で、地元にも痕跡にこだわった人は少なからずいた。元教育長の渡辺恒弘さんもその一人である。
渡辺さんは、島の母校である柏崎小校長で定年を迎えた後、柏崎市教育長を1991年から4年務めた。島と直接の関係はないが、内郷小勤務の際の教頭が吉田好道先生で、越後線で一緒に通勤するうちに吉田先生から「最高裁上告に向けた助命嘆願」に関する話を直接聞いたとのことで、教育長時代を含め卓話や講演の材料にされた。
1997年1月1日号には「死刑囚にかけた無償の愛-吉田好道・絢子夫妻の足跡」と題する特別寄稿を頂いた。吉田先生夫妻をめぐる記憶をきちんと書き残しておきたい、という趣旨だったが、特に絢子夫人が小千谷市郊外にある被害者宅を大雪のなか訪問し遭難しかけるシーンには胸を打たれる。「特高までした父親が、息子の犯した罪で柏崎におられず、三条へ引越し、窓もない倉庫の二階で、ひっそり暮らしている…」といった家族の事情も、痕跡の消滅につながったのではないかと感じた。
吉田好道・絢子夫妻の長女にあたる岡村ひさ子さんから以前聞いた話によれば、吉田家の菩提寺は香積寺で、好道先生が「中村覚(島秋人の本名)君みたいに行くところがなくて困った人でも誰でも入れるように」と『涅槃』と書いたお墓を作った」という。※
痕跡は何もなく、記憶も遠のいたが、「獄窓歌人」の魂は時折ここに帰ってきているかもしれない。(2025/05/15)
※島秋人の遺骨は、角膜・遺体献納のため養子縁組をした千葉家の墓に埋葬されている。
島秋人の痕跡(1)
以前、「島秋人の育った家はどのあたりにあったのか」ということが気になって、現地を歩いてみたことがある。
島秋人というペンネームは、旧町名の「島町」や香積寺前の「秋葉神社」にちなんだと聞いていたので周辺を探したが、何の痕跡も残っていなかった。
島が一中の図画の時間に書いたという香積寺山門前の六地蔵は昔日のままだった。この絵を吉田好道先生が「構図がよい」と褒めたことを獄中で島が思い出し、『遺愛集』への物語が始まったという点では痕跡かもしれないが。
地元の人間にとってみれば島は「小千谷の農家で主婦を殺害し現金を奪った強盗殺人犯」だ。父親もここにいられなくなり三条に転出した。痕跡が残っていないのも考えてみれば当然である。
「島町」という表記も1966年の第2次住居表示実施(西本町3丁目)に伴って消え、「島薬師」に微かな名残を残すのみだ。
その後しばらくたって、隣接の旧鵜川町にお住まいの小栗貴三子さんが島の柏崎小時代の同級生だったことが分かり、その証言によって島の育った家の位置が判明した。そこは駐車場になっていた。おそらく現所有者も経緯を知らないはずだ。
小栗さんはもともとは東京の生まれで、小学校4年生の時、父親(漆芸作家の森三樹)の実家に縁故疎開し、島と同級生になった。無理を言って「島秋人の記憶」を書いてもらい、柏新時報2019年1月1日号に掲載した。貴三子さんは2022年に亡くなったので貴重な証言※となった。
柏崎ふるさと人物館(2018年閉館)では島秋人に一切触れることはなかった。それはそうだ。展示対象が「柏崎・刈羽地域の産業や文化の礎を築いた先人」だったからだ。米国のニュース誌『TIME』で島は「オスカー・ワイルドの叙事詩を追想させる」とも紹介されたそうだが、やはり貞心尼や吉野秀雄と並べるわけにはいかなかったのだろう。
柏崎市立図書館(ソフィアセンター)でも同様だ。『遺愛集』は旧版、新装版両方を揃えてはいるものの、島を知るために重要な前坂和子編著『書簡集 空と祈り』や『大法輪』1962年8月号(窪田空穂が「彼のごとく生命の深所に触れ得た作は他には見られない」と激賞した歌論「死刑囚島秋人の作歌とその人」が収められる)といった基本的なところが欠けていてお寒い現状。
柏崎ではこんな具合なのだが、長野県松本市にある窪田空穂記念館では島秋人を何回か取り上げている。最も大規模だったのが2005年の「ある死刑囚の短歌と空穂-『遺愛集』(島秋人著)が語りかけるもの」で、「秋人の生涯」、「空穂と秋人」、「秋人を支えた人々」、「人間の可能性」の4部構成で展示、遺品の万年筆や創作ノート、愛用の国語辞典、獄中で柏崎を懐かしんで描いたという「米山」の絵も紹介された。
図録も重厚な内容で、反響が大きかったため会期を延長したという。会場には『遺愛集』の命名者である前坂和子さん本人も顔を見せた。島の刑死後、遺品を受け取り、大切に保管していると聞いた。
窪田空穂記念館では2012年と2018年に島秋人についての企画展示を行うなど、その後も発信を続けている。(2025/05/05)
※「島の自宅は現在の高木医院のはす向かいにあった長屋の一軒だったと記憶している。」との証言を残している。
金八先生と『遺愛集』
「3年B組金八先生」は武田鉄矢さんが熱血教師を演じる名物ドラマで、第8シリーズまで制作された。
島秋人の『遺愛集』が取り上げられたのは1999年の第5シリーズ「3B短歌発表会」で、脚本は小山内美江子さん。小山内さんは昨年亡くなったが、メインライターとして「十五歳の母」(第1シリーズ)や「腐ったミカンの方程式」(第2シリーズ)を世に問い、金八先生ブームを作った。
「3B短歌発表会」はクラス全員の短歌を黒板に貼り出した金八先生が、一人ひとりの作品をおもしろおかしく合評しながら授業が進行する。教室の空気が一変したのは最後に残った「友を恋い人を恋いてなお死にたき吾れをいかに説き伏せむ」。教室にはいない、不登校の生徒からEメールで届いた作品だ。
金八先生は安易に「死」を用いた作者に我慢がならなかったようで「どんなに辛くとも『死』という言葉を使ってはならない」というメッセージを伝えようと、いつになく熱く語る。そこで取り上げたのが死刑囚歌人・島秋人と『遺愛集』だった。
金八先生は、まず強盗殺人で死刑となった島秋人の生涯について「少年時代みんなからバカにされて育った人」「人から一度も褒められたり、愛されたことのない人生」と紹介、「島秋人さんは死刑判決のあと、懸命に自分の人生を振り返る。何度も考えるうち少年時代にたった一度だけ褒めてくれた人を思い出した。それは中学校の美術の先生だった。死刑になる前に、あの先生にお礼の手紙を書こう。」「そして刑務所から先生に手紙を出した。受け取った先生は驚きながら返事を書いた。先生の奥さんはその手紙に3首の短歌を添えた。返事を受け取った島秋人さんはうれしくてたまらない。独房の中で懸命に短歌を作った。」と説明する。それまで盛り上がっていた教室は静まり返り、金八先生の話に涙を流す生徒も。
よく知られているように、この美術の先生が一中時代の吉田好道さん(後の東中学校校長)、そして短歌の手ほどきをしたのが絢子夫人だ。
この後『遺愛集』から「少年期さかのぼりゆき憶ふ日をはてしなく澄み冬の空あり」、「白き花つけねばならぬ被害者の児に詫び足りず悔いを深めし」「死刑囚となりて思へばいくらでも生きる職業あると悟(し)りにき」「土ちかき部屋に移され処刑待つひととき温きいのち愛(いと)しむ」の4首を紹介した。
金八先生は「昭和42年11月2日、死刑執行の日が来たが、島秋人さんはなお歌を作り続けた。それが、土ちかき…の歌。処刑を待ちながら自分の体を触ってみる。自分の体が熱い。ああ命っていとおしいな、生の実感の歌だ。私達には(刑死で生涯を終えた島と違い)明日も、明後日もある。どんなにつらくとも『死』という言葉を使ってはならない。島秋人さんに失礼だ。」と語り、「島秋人さんから『いのち愛しむ』の七文字を借り『死にたい』などという歌を作ってしまった友達に励ましの返歌を作ってほしい。」と呼びかけた。
小山内さんによれば、第5シリーズの軸に「学級崩壊とそれを煽る家庭ではいい子を演じるワル」があり、そのワル・兼末健次郎役を風間俊介さんが演じた。健次郎自身も複雑な家庭環境に悩んでおり、「3B短歌発表会」でも難しい心情を表現するアップショットが幾度もあった。
細かくて申し訳ないが1点だけ。金八先生が「温(ぬく)き」を「あつき」と読んだため、歌の雰囲気が変わってしまった。血気盛んな中学生には「あつき」の方がストレートに通じるとの配慮であったか。(2025/04/25)
藤井城址の桜
藤井城址をご存じだろうか。
柏崎市藤井にある古城址で、周囲より一段高くなっているだけの江戸初期の平城。知名度は低いが、春には城址を囲むように桜が咲いて、それは美しい。背後には米山も見える。
大坂の陣で手柄をおさめた稲垣平右衛門重綱が、徳川家康から褒美としてもらった城だそうで、群馬県の伊勢崎城(1万石)から1616年に移封。『刈羽郡旧蹟史』には「将軍家の先陣して首十九切て奉る」とあり、勇猛で知られた人のようだ。
藤井藩の石高は2万石で、所領は刈羽郡と魚沼郡小千谷方面に分布していたとされる。家康六男の松平忠輝の改易が1616年だから、大坂の陣の論功行賞を兼ねた遺領分配であったと見られる。重綱はその後、2万2000石に加増されて三条城に移ったので、藤井城は廃城となった。
重綱はさらに要職である大坂城代に出世する。重綱については調べてもあまり出てこないが、浜松居城以降の譜代大名、いわゆる「駿河譜代」の一人で、牧野氏(長岡藩)との関係も深く、弟と叔父の家系は代々、長岡藩の家老を務めた。あの世で柏崎閻魔堂のえんま様と格闘し、鎗で突き刺したという「稲垣の血槍」、その稲垣権右衛門も親戚のようだ。※
地元の人の話によれば、周囲には「城下町としての名残が今でも残っている」そうで、車での出入りがなかなかしづらいのもそのせいか、とも思う。
場所が分かりにくかったが、JAの「虹のホールかしわざき」ができ「看板を目印に右折して上藤井の集落に入り…」と案内しやすくなった。戦死者を祀る忠霊塔が正面奥にあり、地元の人がゲートボールに興じていることも多い。
青年会議所のまちしるべが建立されたのは1998年のこと。初年度分の8基のひとつで「ミキサー車が入れない」という事情から、基礎に使うコンクリートはメンバー自身で運搬した。
以来、春先に訪れることにしているが、三脚を立て桜の撮影に没頭している先客がいることもあり、隠れた名所になっているようだ。
満開の夕刻時などは妖しい雰囲気すら漂わせる。樹形も味わいがある。
梶井基次郎は『桜の樹の下には』で、満開時の神秘的な雰囲気について「この爛漫と咲き乱れてゐる桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まつてゐると想像して見るがいい。」「何があんな花弁を作り、何があんな蕋(ずい、しべのこと)を作つてゐるのか、俺は毛根の吸ひあげる水晶のやうな液が、静かな行列を作つて、維管束のなかを夢のやうにあがつてゆくのが見えるやうだ。」と「美しい透視術」を使って説明している。藤井城址の桜は梶井説にぴったりだ。
地元の方には怒られるかもしれないが。(2025/04/15)
※『柏崎市伝説集』(柏崎市教育委員会)所収の「稲垣の血槍」参照
正気と狂気のはざまで
ずいぶん昔のことになるが、痴娯の家・岩下鼎さんから一片の新聞コピーを頂いた。痴娯の家に展示される2体の「青い目の人形」にまつわる秘話を取材した際、参考にと渡された1943年2月19日付の毎日新聞だ。
「青い目の人形」がなぜ処分されずにここ(痴娯の家)にあるのか、その時代背景を説明する資料として何度か複写を重ねたらしく、一部不鮮明な部分もあるが「青い眼をした人形
憎い敵だ許さんぞ」「仮面の親善使」との見出しにギョッとする。文部省国民教育局総務課長の談話として「(青い目の人形が)もし飾つてあるところがあるならば速に引つこめて、こはすなり、焼くなり、海へ棄てるなりすることには賛成である。」も掲載され、文部省のお偉いさんの言葉だけに教育現場への影響はかなり大きかったのではないか。
1943年2月といえば、太平洋戦争の戦局は悪化の一途を辿っていた時期である。「たかが人形」「たかが玩具」(泉下の岩下さんには怒られるかもしれない)に、ここまで敵愾心を煽る必要はないだろうと思うのだが、これが戦争、軍国教育の実像だ。
「青い目の人形」を守るため、柏崎小学校の角張信隆校長が岩下さんの父・岩下庄司さんへの依頼状※を認めたのは前日の2月18日。全国で人形の処分が始まっていたのだろう。依頼状に緊張感がにじみ出るのはこのためだ。
よく知られるように、この依頼状には「俘(捕)虜」「収容」とある。もし痴娯の家への避難が露見した場合の申し開きのためと考えられている。
「青い目の人形」研究の第一人者である武田英子さんは「機智に富んだ依頼状」として紹介、「アメリカ人形敵視の中で、この人形たちを保護した罪を問われたときのために、『捕虜収容』との機智と配慮をこめて依頼状をしたためたのであろう。」(『写真資料集青い目の人形』、1985年)と評価している。
極めて「正気」の二人によって、痴娯の家にある「青い目の人形」は守られた。では「狂気」の側は、人形をどのように処分したのか。
前述の武田さんは生き残った「青い目の人形」の全数調査を行った児童文学者だ。『青い目をしたお人形は』(1981年)で「校庭には仮小屋ができていて、ワラがつんでありました。校長先生が人形を小屋に投げこむと、高等科のお兄さんたちが、エイッとかけ声をかけて竹ヤリで人形をつきさす。そして、みんなで石を投げつけたあとで、火をつけた」という静岡での事例を紹介し、「まさに徹底的な『処分』であった。石を投げ、竹槍で突きさした子どもたちは、どのようなきもちであったのか。」「だれが命じたジェノサイドだったのか。軍部からとも伝えられ、文部省指令だったともいわれるが、その黒い命令によって、多くの『青い目の人形』たちは、校庭にひきすえられ、見せしめの死をあたえられた。臨終のとき、パッチリ見ひらいた青い目で、人形たちはなにを見ただろう。」と「狂気」の行為に怒りを顕わにする。
戦争は異様な精神状態を作り出す。そういう状況下で、極めて「正気」な人がわが柏崎に存在したということは、もっと語られて良いのではないか。
ギューリック博士と渋沢栄一の尽力による人形交流が始まったのは1927年。もうすぐ100年である。(2025/04/05)
※人形とともに痴娯の家に保管展示
「芭蕉隠密説」を論破する
『おくのほそ道』の旅は、実は東北諸藩の動静を探るための隠密旅であった。
時折、珍妙な芭蕉忍者説、もしくは隠密説に出会う。それが証拠に、芭蕉主従は出雲崎から柏崎を経由し、難所として知られた米山三里を軽々と越え鉢崎(現在の米山町)まで歩いたではないか、と。
忍者説、隠密説はいったい誰が言い始めたのだろう。有名なのでは松本清張が『東京の旅』(1985年)で書いた「俳聖が表看板の忍者か-芭蕉(深川)」がある。
松本清張は「江戸時代の旅費は、歩いて行く関係もあって、現代にくらべて格段に高い。その莫大な旅費と生活費がどうして作られたか、これも理解できない。(略)つぎに、芭蕉は、いくら中年の健脚でも、『奥の細道』※をはじめ、その歩速がすこし早すぎるということである。多い日には一日十数里を歩いている。」として、伊賀の生まれであることをあわせ「彼の父は、すでに上野城下に召されて仕官していたが、彼にこの伝統(忍者)の技術がなかったとは、かならずしも断言できない。もし、こんな乱暴な仮定がゆるされるなら、彼の健脚も、早技も、いちおうそれとむすんで理解することができよう。」と推理する。
清張先生、こう書いた後で、心配になったのか、「しかし、そうかといって、彼を特定の秘密任務を帯びた忍者だと仮定して、その伊賀出奔の事情も、諸国遍歴の目的も、その生活費や旅費の出所も、さらには大坂における最期も、これにむすびつけて解決してしまうことは、今日のところ証拠不十分である。しかし、こんなことをかりに憶測しても、芭蕉が日本の文学史上にもつ評価はすこしも変わらないと私らは信じている。」と結ぶ。実に歯切れが悪い。
本題である。かなり力んだタイトルを付けてしまったが、実はもうすでに論破されている。柏崎市ガス水道事業管理者を退任後、様々な調査探究を行った月橋夽さんである。
『芭蕉が泊った鉢崎宿俵屋』(1995年)で月橋さんは「昔は出雲崎-柏崎を7里(28キロ)といった。柏崎-鉢崎は4里(16キロ)といっていたから、単純計算をすれば44キロということになる。一日にこれだけ歩いたのだから健脚だという人がいる。中には話が発展して伊賀の国出身の芭蕉はもともと忍者であったとか、忍者なればこそこれだけの道が歩けるように言う者さえ出ているが思わざるも甚しい。」としたうえで「この時代、佐渡に出た金を江戸に送るのには船で越佐海峡を渡って出雲崎に上陸し、ここで一泊する。翌日は陸路江戸へ向うのであるが、その日の泊りは鉢崎なのである。出雲崎-鉢崎は一日行程が常識なのである。」と一笑に付している。こちらは明快だ。
月橋さんの論破は、清河八郎が『西遊草』に記録した旅程でも裏付けられる。
前回「清河八郎の親孝行旅」で取り上げた通りだが、母親を連れ米山三里を含む柏崎-直江津間約40キロを1日で歩いている。米山三里を「アップダウンが多いだけで、それほど恐れることはない」と言い退け余裕シャクシャク。しかも母はあまり健康ではなかったらしい。
芭蕉主従や金銀輸送とは区間は違うので単純比較はできないが、歩行が主体の当時の旅人にとって一日40キロ前後の距離はごく当たり前だったようだ。「歩速が早い」とか「一日に十数里を歩いた」ことを忍者説、隠密説に結び付けるのはかなり難しい、ということになる。
『西遊草』には母親の健康状態について「(庄内を出発し)日々歩いているうちに健康になり、一行の先頭を歩くほどになった」ともある。歩かない現代人が、歩かない視点で物事を考えてしまうから誤解も生じてしまうのではないか。(2025/03/25)
※現在では芭蕉直筆とされる西村本題簽『おくのほそ道』を用いるのが主流になっている。
清河八郎の親孝行旅
清河八郎は毀誉褒貶の人である。
同郷の藤沢周平は、司馬遼太郎がマイナスイメージで描いたことを念頭に「清河八郎は、かなり誤解されているひとだと思う。」とし「ひとり清河八郎は、いまなお山師と呼ばれ、策士と蔑称される。その呼び方の中に、昭和も半世紀をすぎた今日もなお、草莽を使い捨てにした、当時の体制側の人間の口吻が匂うかのようだといえば言い過ぎだろうか。」「八郎は草莽の志士だった。草莽なるがゆえに、その行跡は屈折し、多くの誤解を残しながら、維新前期を流星のように走り抜けて去ったように思われる。」(『回天の門』あとがき)と結論付ける。
前置きが長くなった。その清河八郎が、旅の途中で柏崎を通過している。1855年4月10日から11日のことだ。もちろん浪士を引き連れての旅※ではない。長年世話になった母親をひたすら喜ばせようという孝行旅である。
生家のあった山形庄内から母・亀代と共に出発、伊勢参りを済ませたのち、さらに奈良、京都、大坂、四国の金比羅、安芸の宮島などを回るという169日間の大旅行で、旅の模様は旅日記『西遊草』に詳細に記録される。
4月10日、出雲崎から石地、椎谷、宮川、荒浜、悪田の渡しを経て柏崎に入った清河八郎は閻魔堂を参拝、大町(西本町3)にあった丁子屋に泊った。
途中、石地では当時の内藤家(現在の旧内藤久寛邸)の様子を「天下に知られた豪家が落ちぶれながらも残っている。門が閉じられたままの物寂しい様子を、どの旅人も指を指して通る」と辛辣、おそらくは見たままだろう。椎谷は「(堀家)1万石の領地だが、陣屋があるだけで石地より劣る」、続く荒浜も「良いとはいえない宿場である」と手加減がない。
では柏崎の町並はどうだったかというと「新潟、三条と比べられるような町家のきれいなところである。(特筆されるのは)町並の長さで、越後でも一番だろう」。当時の繁栄ぶりをストレートに表現しているのではないか。
なお閻魔堂では「しばらくは花のうへなる月夜哉」という芭蕉句碑があったことを記録しているが、現在は所在不明。
翌11日は番神堂を参拝、鯨波、米山三里を歩いた。多くの旅人を苦しめた(はずの)米山三里だが、清河は「越後一の『険阻の坂』とは言われているが、アップダウンが多いだけで、それほど恐れることはない。」と以前の経験をもとに余裕を見せ、母とともに今町(現在の直江津)までの約40キロを踏破している。昔の人はよく歩いた。
この年、清河八郎は26歳、母は40歳。健康体とは言えない母親を気遣って綿密な旅程を組み、ツアーコンダクターの如く案内をし、孝養を尽くした親孝行旅だった。
発見の多い『西遊草』、ぜひ一読をお奨めする。東洋文庫と岩波文庫で読めるが、東洋文庫は抄訳のため肝心の米山三里のところがすっかり省略されているのでご注意を。
清河八郎は、その後山岡鉄舟らと虎尾(こび)の会を結成、歴史に名を残すことになる。
(2025/03/15)
※1863年浪士組を率いて上洛、「将軍警護」から一転して「尊王攘夷」を主張したことから幕府の刺客に暗殺された。実行犯は坂本龍馬暗殺で名前の挙がることの多い佐々木只三郎だったとされる。親孝行旅から9年後のことだ。京に残留した浪士組は新選組となった。
『雪残る村』のころ
雪から解放されるこの時季、無性に『雪残る村』が読みたくなる。旧小国町の高橋実さんが1964年に書いた小説で、芥川賞候補作となった。
鈴木牧之の『北越雪譜』を卒業論文のテーマにした主人公・北原が「迷路に入りこんだ日本の国文学を新しくたくましい力でたてなおしてやるのだ」と大学院進学の希望を抱きながらも、結局は中学教師の道を選び「T市」の「さびしい農村部の中学校」に赴任していくストーリーで、家族の前で新任あいさつの練習をする主人公が「湧き上がるように起こる笑い声」に包まれ終わる。雪深い「へき地」に育った北原のモデルは、大学の卒論で牧之に取り組んだ高橋さん自身だ。「T市」は十日町市を想像させる。
『雪残る村』は清水トンネルを越えて、雪の全くない関東へ抜ける場面から始まる。「突然全くちがった世界に突入してしまった少年の夢のような気がした」という私小説らしい冒頭は、越後人でしか分からない感覚だ。過疎が進行する当時の状況についての「村は人の住むところとして、快適な居住地に適さなくなっているのだろうか」といった問いかけも印象に残る。
幸運にも『雪残る村』は久保田正文(文芸評論家)の目にとまり、文学界1965年1月号の「同人雑誌推薦作」として「地味な作品であるが、文学の魂とでもいうべきものがここに、確実に息づいているという感がする。」と紹介され、第52回芥川賞候補作となった。
川端康成はじめ豪華な顔ぶれが選考にあたったが、結局「該当作品なし」に。「創作意識より問題意識の方が強く感じられる」と好意的に取り上げたのは北陸にルーツを持つ高見順で、これに対して石川淳は「今回もっともうすっぺらな『雪残る村』の作者に、わたしはマジメに忠告する。牧之牧之というこの主人公は牧之についてちっともベンキョーしていない」と酷評した。
石川センセイは『諸国畸人伝』で鈴木牧之を取り上げ書いているので、何かカンに障ったところがあったのだろうが、「長岡市の積雪科学館」※を訪問したぐらいで、雪国のことを「ベンキョー」した気になってもらっちゃ困る。
高橋さんは、大雪の状況を「どこの家でも雪の中から家を掘り出すのに懸命である。ありが土の中に住むための穴を掘るように、まわりにつみあげられた雪のかたまりが、それを掘っている人たちの何倍もの高さになっていた。」と書いている。「百年前の『北越雪譜』の文章と少しも変わったところがない」との嘆息を都会人に理解せよといっても土台無理なのだが。
長岡市で開催された高橋実文学展(2005年)の際、石川淳の「酷評」について聞いてみた。「憤慨」のような表現を期待したが、高橋さんは少し恥ずかしそうな顔をするばかりだった。
高橋さんは牧之の人生を「暖かい国に憧れながら、雪国から動かなかったのは、雪に埋もれた人と土地とを愛していたからではあるまいか。」と結論づけた。高橋さんも、雪国から動かず「海辺にうちよせられる木片」を拾い上げるような文化活動に勤しみ、地域の多彩な文化活動の中心となった。
今冬は山雪型で、豪雪地の苦闘を幾度となく聞き、除雪事故の報道には胸が締め付けられた。
高橋さんは2023年死去。『雪残る村』から60年が経過したが、過疎の進行は無数の限界集落を生み、雪下ろしさえ困難な時代となった。「地方創生」という言葉が空々しい。(2025/03/05)
※1968年に閉館し収集品は長岡市立博物館に移管展示
柏崎市駅前にお住まいの三五恒治さんからお手紙を頂いたのは2006年のことだ。
「もう70年も昔のことです。(歩兵第一連隊所属で)一ツ木通りに住んでいた頃の懐かしい思い出が脳裏をかすめます。(略)近頃は六本木ヒルズなどの高層建築が目立ちますが、昔の六本木の街は兵隊の街で…」とあったので、「赤坂から六本木の坂と歴史を」(「小さな旅をたのしむ」の第41回)で昔を懐かしく思い出されたのかな、と思い読んだところ後半の記述に驚いた。
「私は二・二六事件のとき首相官邸を占拠して(2月)29日迄立籠もっていました。」とあったからだ。
三五さんは、歩兵第一連隊の栗原安秀中尉指揮下で首相官邸を襲撃した300人のうちの一人。当時の階級は伍長(分隊長)。占拠中の秘話も添えられていた。
その後、ご本人から「私は二・二六事件に兵隊の一人として関与しました。市内出身の人間がこの大事件に関与したことを知って頂きたくてお知らせしました。ですが、生前の公表はしないでください。」と改めて連絡があり、掲載を見送った。
秘話も驚くものだった。女中部屋を捜索したのが三五さんだったというのだ。
よく知られるように官邸襲撃では岡田啓介首相の妹婿で容姿の似た松尾伝蔵大佐が間違って殺害され、首相本人は女中部屋の押し入れに隠れて難を逃れた。
三五さんが部下を連れて女中部屋に入った際には、女中2人が押し入れの前に立っていたそうだ。2月26日の午前5時半頃の話だ。実際はここに岡田首相が匿われ、女中がそれを必死に守っていたことになる。後に「襖の両かまちをしっかり押さえていた感じ」と印象を語っている。
微かな疑問を抱きながらも、三五さんらは捜索を打ち切った。松尾大佐が銃殺され「万歳」の声があがったからだ。勝ち鬨がなければ捜索は継続され、押し入れの中から岡田首相は発見されていたことだろう。最悪、伍長であった三五さんが首相を殺害することになったかもしれない。
三五さんは、首相居室に横たわる松尾大佐の亡骸とも対面(26日午前6時)している。顔の白布を除き、首相の写真と見比べ「痩せ型だが?」との印象を持ったという。喉元3か所に拳銃弾痕があったとも記録している。
誤認された松尾大佐は「おれは岡田大将に似ているだろう。このごろはひげの刈り方まで似せているんだ」との言葉を残しているそうだ。とすれば、間違えられることを予期していたのか。『岡田啓介回顧録』には「松尾をわたしとまちがえたのは、松尾というもうひとりのじじいが官邸にいるとは、さすがの反乱軍も思いおよばなかったためかもしれない。」とズバリ書かれている。
三五さんは軍法会議で禁固5年の求刑を受けたが、結局は無罪判決となり離隊。当時の満州に渡って警察官となり国境警備に従事した。そして終戦(1945年)。ソ連の参戦と満州侵攻、逃避行のなかで幼子を銃殺され、遺骨を持ち帰ることすら出来なかったという。
三五さんは晩年、「私の二、二六事件記録」を含む自分史をまとめられた。「官邸侵入」「警視庁機動隊との攻防」「捜索」「総理脱出」「武装解除」などの各場面が生々しいイラストで描かれ、その記憶力、観察眼には脱帽した。
大変なご苦労をされただけに平和への思いがひときわ強かった三五さんは2016年に死去。生前の約束通り「二・二六事件関与の柏崎人-首相隠れた女中部屋を捜索」(2018年2月23日号)を掲載した。(2025/02/26)
平松先生とおでん
柏崎市の早春の恒例行事となったソフィアセンターでの「柏崎の花-Spring Collection」は今年で4回目。新たに購入した日本画の大家、平松礼二氏の「ジヴェルニー光る池」(20号)の前に人だかりができていた。かの「モネの庭」を描いた、平松ジャポニスムの結晶のようなあでやかな作品だ。
平松氏の作品を軸にした「県立美術館」が柏崎に建設される計画があったことを覚えている人はどの位おられるだろうか。「モネの庭」も計画のなかに入っていた。結局、市議会の反対※によって県が計画を白紙撤回した。2003年のことだった。
今であれば柏崎に県立の建物ができることを反対する人はいないだろうが、当時は内容、立地場所をふくめ、様々な声があがった。「平松氏の個人美術館となるのではないか」に加え「評価が定まっていない画家」「(ジヴェルニーの)モネの庭から株分けされた睡蓮がそれほど貴重か。チューリップの球根をもらって家を建てるようなものだ」といったトンデモ議論も。
計画推進のため、柏崎市の主催による「平松礼二展」がソフィアセンターで開催された。平松氏本人も来柏して作品解説にあたり、市民にとっても至福の時間だった。
会期中、教育委員のI氏から「先生と一杯やるがどうか」とお誘いを受けた。いきさつはよく覚えていないが、柏崎駅前の居酒屋でおでんを食べながら懇談した。裕子夫人も同席された。
ご本人からはジャポニスムについてのさらに突っ込んだ話を、夫人からは「売れなかった時代」の苦労話を聞いた。先生の画業はまさに夫唱婦随。百歩譲って「平松先生の個人美術館の色彩が強かったとしても、それはそれでいいではないか」と思い始め、以降の紙面に反映した。
なぜ居酒屋でおでんだったのか。それは平松先生が極めて庶民的な方であったということだろうし、単に夫妻が宿泊していた駅前のGホテルの近くだったからかもしれない。記憶は曖昧である。
「ジヴェルニー光る池」の購入金額は、なんと705万円。柏崎市がふるさと応縁基金寄附金で購入した。高額だが、選定委員会がきちんと精査したとのこと。
平松先生を魚扱いして恐縮だが「逃がした魚は大きい」と感じるし、先生の現在の評価を見る時「先見性がなかった」と改めて思う。残念ながら市議会の判断は間違っていた。
一言加えておくと、桜井市長もその際の議員の一人であったが、計画推進側の論客として果敢に論陣を張っていたと記憶している。
せっかく購入した「ジヴェルニー光る池」である。市長室に飾り、今後への教訓とするつもりかもしれない。(2025/02/15)
※正確には美術館計画に反対する市民団体「わたしたちの美術館を考える会」の請願を採択する形で計画反対を表明した(ややこしい)
『ガラスのうさぎ』と柏崎
『ガラスのうさぎ』(1977年、金の星社刊)は高木敏子さんの戦争体験を描いたロングセラーだ。
高木さんの父親は東京の本所と深川でガラス工場を経営していたが、東京大空襲で工場が焼失したため柏崎で工場を再建する計画をたてた。大空襲から生き残った12歳の高木さんも柏崎で一緒に暮らすことになっていた。
『ガラスのうさぎ』には「新潟県柏崎という所に、共同で工場を作ることになりましたので、それがいちおう軌道にのるまで、もうしばらく、敏子を預かって下さい。敏子といっしょに住むための準備でもありますので……。」という父の言葉とともに、高木さん自身の期待感が「わたしも、ああいよいよ明日の晩には新潟かと思うと、不安よりも、何か楽しいことが待っていてくれるという感じがしてきた。こんどこそ父といっしょに毎日生活できると思うと、まだ見ぬ新潟に、子ども心にも期待で胸がいっぱいになった。知らない土地で大変だろうけど、父といっしょなんだから大丈夫と、自分にいい聞かせた。」と表現されている。
1945年8月5日、柏崎に向かう列車を疎開先の二宮駅(神奈川県二宮町)で待っていた時のことだ。P-51 の編隊が突如来襲し、駅にいた人たち目がけ機銃掃射を浴びせた。高木さんは無事だったが、父親は3発の銃弾を受け即死。父の火葬の手続きを一人でする場面は何度読んでも涙が出る。柏崎は「幻の疎開先」となった。
『ガラスのうさぎ』は現在も多くの人に読みつがれている。1980年には高部知子さん主演でNHKの銀河テレビ小説となり、2005年には戦後60年記念作品としてアニメ映画化もされた。
ところで著者の高木敏子さんは1983年に柏崎市で講演を行っている。
高木さんにとっても「なぜ柏崎での工場再建だったのか」は大きな謎だったそうだが、講演前日の打ち合わせで主催者の渡辺十一郎さん(寿大学講座自治会長)から「高木さんの父親の共同経営者は石渡という人ではないか。柏崎に戦前からあったのは吉川ガラスだが、戦争中に東京からやってきてガラス工場を作ったのは石渡という人しかいない。」などの情報を聞き、橋渡し役となったのは「薬のアンプルを製造してした石渡さんと知人関係にあった石川薬局の石川五郎さん※」ということもわかった。高木さんは「軍の要請で満州の奉天に父とガラス工場を作った石渡という人」を思い出したという。
寿大学の講演では、高木さんから『ガラスのうさぎ』に込めた思いを時代背景を含め聞くことができ、有意義だった。戦争中の柏崎の産業界の様子も垣間見えた。
来柏の感想は『めぐりあい-ガラスのうさぎと私-』(1984年)のなかで「幻でなかった柏崎」としてまとめられた。高木さんは「わたしにとって新潟県・柏崎というところは、もし父が二宮で機銃掃射で殺されていなかったら、あの昭和20年8月6日にはたどりついていたところなのです。」と綴り、「いまさらながら、あの戦争中、父がわたしを連れて再疎開しようと決意したのがわかりました。厳しい自然環境の中に生きる方々なのに、寒い寒い新潟なのに、心はとっても暖かい人々の住む土地だったからです。」と柏崎への思いを結んでいる。
『ガラスのうさぎ』は、元々は自費出版の小冊子『私の戦争体験』を子ども向けに大幅加筆したもので、世に出したのは金の星社の創設者である斎藤佐次郎さんだ。佐次郎さんは戦時中、柏崎市宮場に親戚を頼り疎開していたそうなので、『ガラスのうさぎ』と柏崎の縁は濃いと言える。(2025/02/05)
※石川耕大現社長の曾祖父
うんと味わえ。もっと味わえ。(2)
太宰治の「うんと味わえ。もっと味わえ。」に刺激され、「銀河ノ序」を久しぶりに読んでみた。
まず「銀河ノ序」について。「荒海や佐渡に横たふ天の河」の序文だが、なぜか芭蕉は『おくのほそ道』に載せなかった。越後路本文には「此間九日、暑湿の労に神をなやまし、病おこりて事をしるさず」とあるだけで、「文月や六日も常の夜には似ず」に続いて、「荒海や」が唐突に登場する。
しかし芭蕉はこの序文にずいぶんこだわったらしく、幾通りものバージョンが伝わっている。
「銀河ノ序」と題名がついているのは亀井勝一郎が引用した『本朝文選』だけだが、他のバージョンも「銀河ノ序」と呼ぶのが通例。「ノ」を省略し「銀河序」と書いているものも少なくない。出雲崎町の芭蕉園にある句碑も「銀河序」だ。
最も有名な『本朝文選』バージョンは「北陸道に行脚して、越後ノ国出雲崎といふ所に泊る。」と書き出し、佐渡の地形、眺望、金山の歴史をふまえながら「大罪朝敵のたぐひ、遠流せらるゝによりて、たゞおそろしき名の聞えあるも、本意なき事におもひて、窓押開きて、暫時の旅愁をいたはらむとするほど、日既に海に沈で、月ほのくらく、銀河半天にかゝりて、星きらきらと冴たるに、沖のかたより、波の音しばしばはこびて、たましゐけづるがごとく、膓(はらわた)ちぎれて、そゞろにかなしびきたれば、草の枕も定らず、墨の袂なにゆへとはなくて、しぼるばかりになむ侍る。」と絶唱誕生の瞬間を表現する。
太宰が「あのじいさん案外ずるい人だから、宿で寝ころんで気楽に歌っていたのかも知れない。うっかり信じられません。」(みみずく通信)と茶化したのはここではないか。
「銀河ノ序」バージョン解説で最も詳しいのは堀切実早稲田大学名誉教授著の『芭蕉俳文集』(岩波書店)で、①本朝文選②真蹟懐紙-「俳人の書画美術・芭蕉③しばはし④真蹟懐紙-「おくのほそ道・芭蕉展図録」⑤真蹟懐紙-「定本芭蕉大成」の5種類を取り上げ、さらに異文2種類の計7バージョンを示している。
芭蕉園にある「銀河序」は荻原井泉水の紹介で菊本直次郎所有の芭蕉真筆を写真拡大により刻字したものだ。「ゑちごの駅出雲崎といふ処より」という書き出しだが、7バージョンのなかで「ゑちごの駅…」で始まるのは④だけ。しかしよく見比べると細部で異なっている。
話が専門的になってしまった。強調したいのは芭蕉はこれだけ執着したにも関わらず、どうして「銀河ノ序」を『おくのほそ道』に載せなかったのか、ということだ。芭蕉は最後まで『おくのほそ道』に入れるか、入れないかで迷ったのだろう。それは容易に想像出来る。
「幕末頃に、越後路の事も多く記しそれを朱や墨で十字に消してあった『細道』の芭蕉自筆本が、曾良の『腰帳』と共に信州から売りに出て、松平志摩守が買い上げた」(杉浦正一郎『芭蕉研究』)という話も伝わっているほどで、「荒海や」の登場を演出するため、推敲を重ね、究極まで削ったのではないか。
仮定の話でしかないが、もし「銀河ノ序」が『おくのほそ道』に載っていたら、越後路の文章は相当長くなっていただろう。逆に市振での「遊女」エピソードに影響を与えていたかもしれないし、柏崎人を暗い気持ちにさせる「(柏崎での天屋の対応など)不愉快なことがあったので越後路は短くなった」といった評論を招くこともなかっただろう。
「銀河ノ序」をうんと味わいながら、そんなことも考えてみた。(2025/01/25)
うんと味わえ。もっと味わえ。(1)
佐渡の話題を続ける。
太宰治は1940年に新潟高校での講演のため来県した際の感想を「みみずく通信」と「佐渡」に書いている。共通するのは佐渡への並々ならぬ関心だ。
「佐渡」冒頭、「佐渡は、淋しいところだと聞いている。死ぬほど淋しいところだと聞いている。前から、気がかりになっていたのである。私には天国よりも、地獄の方が気にかかる。」「新潟まで行くのならば、佐渡へも立ち寄ろう。立ち寄らなければならぬ。(略)死ぬほど淋しいところ。それが、よかった。」とおけさ丸の船上で船酔いを案じながら自問する。
そして夷(えびす、両津)の旅館に宿泊、夜半に目が覚め「波の音が、どぶんどぶんと聞える。遠い孤島の宿屋に、いま寝ているのだという感じがはっきり来た。眼が冴えてしまって、なかなか眠られなかった。謂わば、『死ぬほど淋しいところ』の酷烈な孤独感をやっと捕えた。おいしいものではなかった。やりきれないものであった。けれども、これが欲しくて佐渡までやって来たのではないか。うんと味わえ。もっと味わえ」という印象を書き記す。強烈だ。
太宰の佐渡行きは「死ぬほど淋しいところ」を確かめ、味わうのが目的だったのではないか。
では、この大げさな先入観の正体は何か。ずっと分からないでいたが、ある時亀井勝一郎の「佐渡が島」を読み、腑に落ちた。「銀河ノ序」だったのだ。
太宰の「佐渡」から9年後の1950年に「佐渡が島」は書かれている。もしかしたら友人の亀井に佐渡行きを奨めたのも太宰だったかもしれない。
亀井は「銀河ノ序」を引用しながら「絶海の孤島、流人の島、死ぬほど淋しいところ、そういう観念をもって眺めていたようである。現実の佐渡よりも、芭蕉の『銀河序』を通してみた幻の佐渡の影響を私はつよく受けていたらしい。」とし「凄絶な寂寥感をもったこの文章が、佐渡の遠望を決定してしまったと言ってよい。荒涼たる夜の日本海の描写が、佐渡そのものの生命にまで枠をはめてしまったとも言える。芸術の力は恐ろしい。描かれた風景に、現実の風景が従うのである。芭蕉は行きずりの旅人だ。ある季節のある時間に限定されているが、『荒海や』の一句は人口に膾炙し、我々の裡なる『まだ見ぬ佐渡』は、芭蕉を模倣するに至ったのである。」と書く。やはり「死ぬほど淋しいところ」が印象に残る。
引用された「銀河ノ序」は、多少の差異はあるものの『本朝文選』(1706年)に載ったバージョンのようだ。太宰も「銀河ノ序」を読み、亀井のいう「『銀河序』を通してみた幻の佐渡の影響」を強く受けながら佐渡に向かったのだろう。だから「死ぬほど淋しいところ」を味わうことが、第一の目的になったのだ。
同年の「みみずく通信」では「荒海や佐渡に、と口ずさんだ芭蕉の傷心もわかるような気が致しましたが、あのじいさん案外ずるい人だから、宿で寝ころんで気楽に歌っていたのかも知れない。うっかり信じられません。」とコミカルなオチをちゃんと用意している所が太宰らしい。(2025/01/15)
「佐渡情話」はハッピーエンド(2)
寿々木米若のことをいろいろ調べていて、今では考えられないくらいの佐渡情話ブームであったことがわかった。数々の便乗商法も展開されたようだ。お光吾作とは全く関係のない『新佐渡情話』は映画化され、かの太宰治が「ひどく泣いた」というのもよく知られる話。
1935年に刊行された小説『佐渡情話』もブームの中で書かれたものだろう。著者は「文芸哲学者」、村田豊秋の筆名だ。『思想中毒』『人間論』など多くの著書を残した哲学者が、どうして大げさな変名にしたかは不明。
巻末には「寿々木米若師と浪曲佐渡情話」との説明文を載せている。「物凄いばかりの売れ行きで、他のレコードが出なくなり、ひとり佐渡情話のみが羽が生えて飛ぶやうな景気であった」「米若師が佐渡情話を演じれば、どこの劇場も、みな超満員の盛況」「日活でも、米若師の浪曲を中心に、佐渡情話のトーキーを展観したが、素晴らしく大当りで、予想以上の成功を収めたといふから、今や世を挙げて佐渡情話の黄金時代」等々、ブームの凄さが伝わってくる。
小説は、米若の「佐渡情話」を膨らますだけ膨らませ、さらに柏崎を舞台にした続編「七年後の佐渡情話」もミックスする内容で、250頁のボリューム。登場人物と伏線が多いのがタマにキズで、61章で構成される作品なのに吾作が登場するのはようやく24章「難破船」になってからだ。
難破した柏崎の吾作と恋仲になった佐渡のお光が、横恋慕をしていた七之助にたらい舟を壊され狂女となるが、佐渡流罪中の日蓮の功力で救済されるというあらすじは米若浪曲と同様。
60章「予言者の奇蹟」では「日蓮上人は、念珠をもって、お光坊の頭髪から顔を撫でさすると、海の上へ、その念珠を筆の代はりに、七字の題目を書く真似をした。」「不思議なことに、海の浪の上へ、南無妙法蓮華経の文字が浮んだが、その文字から、サラサラと電(いなづま)のやうな光りを放つた。」とお光が正気に甦るクライマックスを描く。また「塚原三昧堂で飢えと寒さに苦しむ日蓮のところへ、お光が毎日握飯を運んだ」という美談を挿入することで、日蓮とお光の縁を具体化している。さすが文芸哲学者。
最終章の61章「真如の月」は「七年後の佐渡情話」をギュッと凝縮。柏崎で仲良く暮らすお光吾作の所へ七之助が訪れる。大雪の日だ。変わり果てた哀れな七之助をお光吾作夫婦は、過去の因縁を忘れ介抱する。
米若の「七年後の佐渡情話」ではお光の佐渡おけさを「線香代わり」に聞きながら七之助は昇天した。一方、小説では七之助が「佐渡へ戻り坊主になって罪滅ぼしの一生を送る」と宣言して大団円。ハッピーエンドなのである。
柏崎の吾作が語る「だんべえ」言葉はナゾだが。(2024/12/25)
「佐渡情話」はハッピーエンド(1)
綾子舞には珍しい狂言「佐渡亡魂」がある。
節目節目で演じられる下野座元の演目で、「佐渡島(さど)の金山」ユネスコ世界文化遺産登録をお祝いし今年の現地公開で演じられた。
商いに来た佐渡で現地妻を設けてしまった義太夫が地方(じかた)に戻ることになり、邪魔になった妻を「三杯参れ」と酒に酔わせ、舟の上から突き落とし、その亡霊に祟られるというストーリー。こう書くと凄惨な印象を受けるが妻(ばばあ)のコミカルな所作で、実際は笑いが起こる。
上演後、綾子舞関係者と話していて、「佐渡情話の吾作さんもそう(不倫)ですしね…」という話になった。これは柏崎人に多い勘違いである。混同なのだ。
寿々木米若による「佐渡情話」は、1931年にビクターからレコードが発売され一世を風靡した。原話は柏崎に伝承される「お弁藤吉ものがたり」。柏崎の船頭・藤吉が佐渡と行き来しているうちに小木のお弁と深い仲になった。ところが藤吉には妻子がいる。佐渡からたらい舟で逢いに来る女心の激しさが恐ろしくなった藤吉は、ある日お弁が目印にしていた番神岬の灯りを消し、このためお弁は難破し亡骸が青海川に打ち上げられるというストーリー。その青海川にはお弁の滝が実在する。
一方「佐渡情話」は、お光のたらい舟は横恋慕する七之助に壊されてしまうが、柏崎の吾作は約束通りお光を迎えに来る好青年として描かれる。与謝野晶子が詠んだ「番神堂の灯(ほ)かげ」も消されないし、たらい舟も難破しない。
吾作との子・吾一も誕生するが、お光は吾作を待ちわび「狂女」となる。だが、そこに佐渡流罪中の日蓮が登場し、経文を唱えるとあーら不思議、海上に「南無妙法蓮華経」の七字が出現し、お光は「正気の人」に蘇る。
エンディングが全く違う。「佐渡情話」はハッピーエンドなのだ。
なぜこういう奇跡譚になったか、というと、作者の寿々木米若が熱心な日蓮信者だったから、とも聞く。とにかく「佐渡情話」と「お弁藤吉ものがたり」は全く別のエンディングだが、いつのまにか混同されてしまうことになった。
さらに後日談として、柏崎を舞台にした「七年後の佐渡情話」(1935年、テイチク)も作られている。つましくも幸福に暮らすお光、吾作、その子吾一一家に、落ちぶれた七之助が訪れる。雪がしんしんと降り、お光、吾作の真心が伝わる作品だが、忘れ去られているのは残念。
寿々木米若は「佐渡情話」について、1969年の句文集『稲の花』で「子供の頃、伝説に柏崎の漁師が佐渡の小木沖合いに難船して助けられ、島の娘と恋に落ち、娘は夜な夜な盥舟で柏崎に通って来る。あまりに頻繁に来るので男がこわくなり荒神様の常夜燈を消した。娘は方向を見失ない遂に海の藻屑となった。娘は男の身体に蛇体となってからみ付き男を絞め殺した。と、いう伝説を思い出してそれをモットーにして筋書を綴ってみた。」と回想している。
「モットー」は「モチーフ」の誤りだろうが、上越市の類話を含め「蛇体となってからみ付き男を絞め殺した。」はどこにも見当たらない。こちらは米若の勘違いでは、と思い調べてみると、経営した静岡県伊東市の温泉旅館「よねわか荘」近辺に「海を通う女」という伝説があるのがわかった。
「たらい舟に乗って通い詰める」「(権現の)燈明を消され遭難する」といったあたりは柏崎の伝説によく似ているが、「(遭難し打ち上げられた女に)身体中鱗が生えていて恐ろしい蛇体であった。」という驚愕の結末。どうやら柏崎と静岡の伝説が混同されたようである。(2024/12/15)