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青い目の人形(あおいめのにんぎょう)
排日移民法成立(1924年)で悪化する日米関係を改善するため1927年に米国から日本に贈られた「青い目の人形」1万2739体は、開戦に伴い「敵国の人形」とされ多くが廃棄処分された。このうち柏崎小学校の「ミルドレッド」、柏崎幼稚園の「シェラブラー」は焼却の寸前で角張信隆校長の機転と痴娯の家・岩下庄司の尽力により処分を免れた。岩下庄司の遺志を継いだ岩下鼎によって1973年に公開、現在柏崎コレクションビレッジ内の痴娯の家(柏崎市青海川)に2体の人形とともに角張の依頼状など関係資料が保管、展示されている。柏崎市立柏崎小学校では、ミルドレッドを守り抜いた勇気と温かな人間性の感動秘話を「青い目の人形」里帰りセレモニー(1988年、1998年など)、「わくわく柏崎小シアター」での児童劇「青い目の人形」上演(2014年、2019年)などを通して継承、太鼓曲「青い目のお人形」が竹田満により作調されている。『子どものための柏崎校物語』(1994年)は当時の事情について「平和の願いもむなしく、昭和16年12月8日、日本とアメリカは戦争に入ってしまいました。そして、これを境にして人形大使は『平和の人形大使』から『敵の国の人形』となり、焼かれる運命となったのです。」とし「岩下さんは、その時の柏崎小学校長であり柏崎幼稚園長でもあった角張信隆先生と人形を救う方法を話し合いました。その結果、二つの人形を岩下さんのおもちゃを入れておく蔵にこっそりしまうことにしたのです。昭和18年2月18日のことです。先に出てきた、文部省の役人の『青い目の人形はすぐ燃やすように。」という記事※が出されたのは、昭和18年2月19日。つまり記事が出されるより一日早く、この二つの人形は岩下さんの蔵に収められ、燃やされるのをまぬがれたのです。」「小学校の校長先生が、文部省の役人から『燃やすように。』と言われていた青い目の人形をかくすということは、その当時としては大変なことだったのです。その事実が分かれば(校長を)やめさせられ、ほかの人から『非国民』と呼ばれることはまちがいありませんでした。このことは、角張校長先生と岩下さんの二人だけで進められたので、長い間、人形の行方は分かりませんでした。」と伝えている。※1943年2月19日の毎日新聞「青い眼をした人形 憎い敵だ許さんぞ」では「速やかな処置を 文部省国民教育局久尾総務課長談」として「もし飾つてあるところがあるならば速に引つこめて、こはすなり、焼くなり、海へ棄てるなりすることには賛成である。常識から考へて米英打倒のこの戦争が始つたと同時にそんなものは引つこめてしまうのが当然だろう。」を掲載

葵紋の陣笠(あおいもんのじんがさ)
柏崎市大久保2・勝願寺に伝わる三つ葉葵紋の陣笠。京都所司代を務めた松平定敬が勝願寺に入った際に身に付け、加茂へ移動する際に拝領した、と伝承。40センチ×38センチ、高さは15・5センチ。三つ葉葵は徳川葵とも呼ばれ、徳川将軍家の家紋として江戸時代、使用が厳しく制限されたが、徳川家康の異父兄弟(久松定勝)が先祖という松平越中守家は特別に使用が許されていた。この陣笠は松平越中守家17代当主・松平定純の勝願寺参拝(2003年)時に公開、2008年に三重県桑名市博物館で開催された特別企画展「京都所司代松平定敬」でも展示された。勝願寺にはこの他、定敬書による扁額「大藤山」、「三つ葉葵と梅の陣幕」も伝わる。徳川宗家18代当主・徳川恒孝は2009年に同寺を参拝した際、陣幕について「(幕府軍の)本陣になったことで葵の紋の使用が許されたのではないか。」との見解を示した。

青葉は青いか(あおばはあおいか)
柏崎市出身の筑波大学学長・北原保雄が1997年に刊行したエッセイ集。大修館書店刊。「青葉は緑色なのに何故ミドリバと言わないのか?」といった日常の言葉の不思議や現代日本語の問題点、古典の魅力などをわかりやすく語り「問題な日本語」シリーズへつながる北原の原点となった。4章構成で「Ⅲ古典の言葉と雪国」ではふるさと新潟、柏崎にちなんだ「『雪国』の文章」「良寛の歌『月の兎』」「貞心尼『はちすの露』の仮名遣い」「綾子舞と狂言『烏帽子折り』」などを取り上げている。あとがきで「還暦も過ぎたので、研究書とは少し違った、楽な内容の本を作ってみたいと思い立ったのが、本書刊行の動機である。これまでにいろいろの所に書き散らしてきた、日本語をめぐっての随想や雑文を集めてみたのである。(略)現在にも通じるようなものだけを選んだつもりであるが、それでも、時間のずれを感じさせるものがあるかもしれない。やはり、普遍的な真理を追究した研究論文などとは違うところだ。」と心境を記している。

「赤い蝋燭と人魚」と柏崎(「あかいろうそくとにんぎょ」とかしわざき)
「赤い蝋燭と人魚」(1921年)は上越出身の童話作家小川未明の代表作で、舞台も上越と思われがちだが、未明自身が成立の背景を綴った「私の一転機」(週刊朝日2000号突破記念奉仕版「朝日新聞からみた明治・大正・昭和」、1958年)によれば柏崎の番神がイメージされていることがわかり興味を引かれる。「大正10年の1月のある日、東京朝日の記者、岡本一平氏の来訪をうけた」未明は、「この機会に新しい作品をうむことこそ、自らの希いであった。」「当時はなお、人身売買の行われていた時代であったし、児童の人権もとかく無視されがちな社会であった」といった新境地、問題意識で執筆を模索した時、「ふと目に浮んだのは郷里春日山から前方をのぞむと、頚城平原のあなた遠くそびえる米山の偉容であった。この米山に連なる旗持山には、上杉謙信にほろぼされて、ついに大をなさなかった戦国時代の武将、城資長の古城のあとがあり、さらにその背後の蕃人崎にはお寺があって、その灯が暗い海の上からものぞまれた。」「女が漁夫を慕って、海の上を泳いで来たという物語もあった。この暗い北の海に人魚を配し、また、子供のころ、隣人がろうそく造りをしていたことを知っていたので、これを人魚と結びつけて書きだしたのが『赤い蝋燭と人魚」であった。」とする。柏崎人ならすぐわかることだが、「蕃人崎」の「お寺」は「番神堂」のことである。未明の次女・岡上鈴江も『〔赤いろうそくと人魚〕をつくった小川未明-父小川未明』(1998年)で、この「私の一転機」を引用、さらに母の証言を加味して「おとうさんが『赤いろうそく』をかかれたとき、考えていられたのは、おそらく鯨波のあたりの景色じゃなかったのかねえ。あの辺りは海ぞいに漁師まちがあったり、小さなお宮があったり、いくらでもそんなところがあるんだよ-と母はいっていたが、父も、春日山から頸城平原を越えてはるかに向うにそびえる米山が長くすそをひいて海に迫っている、そのあたりに点在する漁村をおもってかいたのだろうと思う。」「番神岬のあたりは岩礁が点々とつづき、北国の青黒い海の向うには佐渡が見え、日没の頃の美しさは、たとえようもないという。」と書いている。いずれにせよ、未明童話の代表作のモティーフになったのは確かなようだ。なお、上笙一郎著『未明童話の本質-赤い蝋燭と人魚の研究』(1966年)にも「番神岬」「妙智寺」に関しての貴重な指摘があり、さらに箕輪真澄は『越佐文学散歩』(下巻、1975年)で「ところで、この童話の背景は、柏崎市番神岬の風景が未明の印象にあり、番神堂あたりの景色を心に描きながら執筆したものである。今も、番神堂と向かい合っている諏訪神社の境内などは、『赤いろうそくと人魚』の舞台をほうふつさせるものがある。」と柏崎人ならではの推理をしている。諏訪神社(柏崎市番神2)にはお光吾作の碑、与謝野晶子歌碑が建立されている。

赤れんが棟を愛する会活動記録集(あかれんがとうをあいするかいかつどうきろくしゅう)
旧日石加工赤レンガ棟の保存活動に取り組んだ「赤れんが棟を愛する会」の記録集。2014年刊。「活動の軌跡」「旧日本石油柏崎製油所保存に関する年表」「赤れんが棟ドラム缶塗装場図面」「『赤れんが棟』の保存と活用&駅周辺開発提案を振り返って」などで構成し、2005年の会立ち上げ、解体延期の嘆願署名活動開始から保存に向けた各種イベント(赤れんが夢だし会議、連続講座赤れんが棟を知る、赤れんが棟チャリティパーティ、赤レンガフォーラム)、各種資料(嘆願書、意見書、赤れんが棟構想)、視察(新潟市・旧第四銀行住吉支店、群馬県桐生市・有鄰館)などの足跡をまとめている。同会の石川眞理子は「まちの記憶をつむいで~あとがきにかえて」で「そのどれもが当時の石油精製技術の粋を集めて出来たものであり、しかも限られた敷地内で精製、分留、貯蔵、輸送に至るまでを見事に機能させていた一大石油産業プロジェクトであった。また建造物は、造形的にも時代を反映した魅力溢れる巨大オブジェにも見えた。(略)これらの数々を、柏崎はなぜ残すことができなかったのか。」と問いながら「所有者である新日石(当時)側としても、すでに結論が出ていたところへ突然地元から駄々をこねられたような印象ではなかったかと思う。この予想外の運動の高まりに対して、当初地元産業界も行政も冷ややかだったことは否めない。やはり4年間もの放置状態は、そのまま旧日石工場群への柏崎市民の関心の薄さと受け取られていたのではないだろうか。すべて残すことは困難でも、一部の保存に向けてはいろいろな選択肢が考えられたはずであり、閉鎖が決まった段階で、何故どこからも最初の一石が投じられなかったのか。」「このたびの日石赤れんが棟の保存活用運動を通して、私たちは反省点も含めて多くのことを学んだと思う。そのひとつは、できるだけ自分たちがいま住んでいるまちの歴史や将来像について、日頃から市民全体で関心を寄せておきたいということ。(略)そうした風土が育っていれば、かつての東本町再開発の時、現存した煉瓦タイル張りの旧第四銀行を、世論喚起する間もなく解体・消失させてしまうという最悪のシナリオを回避できたかも知れない。」「ほんとうの豊かさとは何か。約10年に及ぶ日石赤れんが棟にまつわるあれこれを通して、私たちは柏崎がたどった数奇な運命に随分と思いを馳せた。これから先に続く柏崎の未来は、わがまちの大切な記憶をみんなの手でつむいだものになってほしいと願う。」と教訓を書き残している。同年には記録写真集『柏崎 赤れんが棟物語』も刊行された。

赤レンガフォーラム(あかれんがふぉーらむ)
2006年11月11日柏崎市で開催されたフォーラム。同実行委員会主催。東京大学生産技術研究所教授で建築史家の藤森照信による基調講演「なぜ古い建物は必要か」、記録ビデオ「赤れんが棟の現在」上映、パネルディスカッションが行われた。基調講演で藤森は「古い建物は何とも言えない懐かしさやほっとした印象を町に与える。実は私たちが考えている以上に重要な働きを持っており、古いものをどんどん壊すということは、無意識の世界に傷を与える行為と言える。ヨーロッパの人たちは目に見える建物の景色をとても大事にしているが、それは社会の安定や人の心の安定につながると知っているからだ。日本はここのところが大きく欠落している。」と指摘。パネルディスカッションで柏崎市長の会田洋は新日本石油との交渉秘話を披露するとともに「まちなか活性化計画の検討に入っており、赤れんがの活用をどうしていくか、考えているところだ」と述べた。「糸魚川駅レンガ車庫」の保存運動が進む糸魚川市でも同日、赤レンガフォーラムが開催された。

アキト-詫びても詫び足りず-(あきと-わびてもわびたりず-)
『遺愛集』をもとにしたそのまんま東のひとり芝居。海原卓の脚本、演出で2001年東京芸術劇場、札幌かでるホールで公演が行われ、そのまんま東の迫真の演技が話題となった。「詫びても詫び足りず」は島秋人が処刑日に吉田絢子に託した被害者家族への手紙の一節(私は詫びても詫び足りずひたすらに悔を深めるのみでございます。死によっていくらかでもお心の癒されます事をお願い申し上げます。)に由来。新潟地裁長岡支部での判決場面から始まり、島秋人役のそのまんま東は手錠をかけられた姿で登場、「病気のデパートだった」という回想シーンでは柏崎での極貧生活も紹介される。島秋人を支えた吉田好道先生夫妻は「吉岡先生」に置き換えられ「先生に恐る恐る手紙を差し上げたところ、ご返事を頂いたのです。お子さんたちの図画も送っていただきました。うれしくてうれしくて、監房のなかで飛び跳ねて看守に叱られてしまいました。」「先生の奥様の導きによって短歌を始め、島秋人というペンネームを頂きました。」などと描かれた。そのまんま東は2007年「東国原英夫」として宮崎県知事となり、翌2008年に芝居がDVD化。DVDに収められた特別対談で東国原は「海原先生から手紙を頂戴したのは2000年に早大に入り直した、その年の秋だと思う。思わず、なぜ私なのか、と思ったが、海原先生の手紙には『あなたしかこの人(島秋人)を演じる人はいない』とあった。当時、1998年の不祥事により自主謹慎中で、まず一人芝居であること、時代も、場所も、状況も違うが、過ちから自分を取り戻していく、自分の真の価値観を模索して行く過程に興味をもった。島秋人に感情移入し、稽古では感極まって2~3回泣いた。(先生に)自分が泣いてどうするんだと怒られた。」と振り返っている。

悪田の渡し跡記念碑(あくだのわたしあときねんひ)
安政橋の左岸側に1975年に建立。田中角栄の揮毫で「悪田の渡し跡記念碑」「内閣総理大臣田中角栄」とあり、裏面は稲葉修(法務大臣)による「柏崎から椎谷まで/あいに荒浜荒砂/悪田の渡しがなきゃよかろ」が刻まれる。『桜木町のあゆみ』(2002年)には「記念碑建立のきっかけを作ったのは悪田出身の実業家飯田喜策氏で東京、札幌などに住む郷土出身者に呼びかけ募金を始めたが、同氏が志半ばにして急死したため桜木町内会の人達がこの遺志を受け継ぎ1973年に建設委員会を発足、募金が順調に進んだが、建設地点が公共下水道終末処理場地内のため交渉が長引き、計画より1年遅れた。」とあり、除幕式(1975年11月23日)には祝賀の花火も打ち上げられたという。2010年の鯖石川改修、安政橋改築にあわせ移設再建。

旭達文(あさひたつぶん、1909-1984)
長崎県島原市の出身。1932年、23歳の時に出雲崎町羽黒町の光照寺住職となった。「棟方志功の高弟」として知られ、良寛や出雲崎の風物、綾子舞を題材にした「板画」(ばんが=棟方独特の表現)を制作。1974年銀座澁谷画廊で個展を開催した際には棟方が推薦文を寄せた。生誕100年を記念し2010年には出雲崎町で大規模な回顧展(200点展示)が開催され、再評価の契機となった。会場では師との深い交流を表す多数の手紙類も展示、話題となった。2016年には、綾子舞を題材にした作品が柏崎市綾子舞後援会によってポストカード化された。関係者の話によれば「昭和40年代に下野座元の稽古の様子を愛機ライカで取材した」という。

暖かな気持ちに包まれ(あたたかなきもちにつつまれ)
佐藤伸夫半世紀展(2001年、柏崎市市民プラザ)の風景、ボランティアの奮闘を取材した柏新時報の囲み記事、2001年10月26日号に掲載された。「筋ジストロフィーと闘病しながら絵を描き続けている佐藤伸夫さん(柏崎市鯨波3)の『半世紀展』が、市民プラザで開催された。『描くことは生きること』と題して、水彩、油彩、素描、スケッチなど約200点が展示され、多くの来場者が生命力あふれる作品の数々に感動したのである。」としたうえで「作者が進行性の難病であることを忘れる明るさ、力強さがあり、思わず見入ってしまう。これは会場に訪れた人たちに共通した感想だったようだ。」「今回の半世紀展では、ボランティアスタッフ『応援隊』が大活躍した。公募も含めて55人。若い人たちの姿もあり、会場の飾りつけから会場の管理、画集の販売、後片付けまで、それぞれの担当に分かれて半世紀展成功への原動力となった。」などと会場の様子、舞台裏を伝えた。さらに開幕前日に飾り付けが終わったボランティアスタッフに佐藤本人が伝えた「わがままを言い続け、それを一つ一つ実現してもらいました。車椅子ですので、外にスケッチに出るところから私一人ではできない。常に誰かに支えてもらった。。支えていただいたみなさんの思い、共有した時間を一緒に見ていただけるような半世紀展だったのではないかと思います。」との言葉を紹介、「会場全体が何か暖かい気持に包まれていたのは、そのためである。」と結んでいる。

あとには虫の声しげく(あとにはむしのこえしげく)
高柳町上石黒出身の看護師・柳橋孝(やなぎばし・よし〉による自叙伝。2003年刊。1947年に赤十字女子専門学校を卒業、横浜赤十字病院、東京労災病院などに勤務する傍ら、小説を葉山修平(作家、駒沢短大教授)に師事して月刊「雲」などに作品の発表を続けてきた。80歳を目前に「自分の生きざまを子や孫たちに知ってもらいたい」と執筆、戦時下の厳しい時代を逞しく歩んだ半生を描く。「赤十字病院なのに、焼夷弾が落とされるようになり、将校病棟、伝染病棟、薬品倉庫などを焼失した。空から落ちてくる焼夷弾の延焼を防ぐため、竹ぼうきで消火に行くとき、使命感に燃えていたせいか、死など少しも恐れなかった。」といった戦争風景も描かれる。柳橋は「昭和のはじめの石黒村の生活、風習を少しでも伝えることができたら幸甚です」とコメント。

姉崎惣十郎(あねざきそうじゅうろう、1886-1944)
刈羽村出身。7歳の時に失明したが向学心に燃え上京し、16歳から20歳までの4年間東京盲唖学校で学び、宮川文平医師による柏崎鍼按講習所(1906年開設、後の中越盲唖学校)の教員として招聘され1923年の閉校まで鍼按科教員として勤務した。1920年の新潟県盲人協会結成の中心的役割を果たすとともに、柏崎市西本町1の自宅で現存する点字図書館としては日本最古の「姉崎文庫」を創始、郵送による点字本の貸し出しを全国に先駆けて始めた。同年、ウクライナ出身のエスペラント詩人・エロシェンコ(中村彝「エロシェンコ氏の像」のモデルとして知られる)の訪問を受けている。柏崎ふるさと人物館の調査から漏れ不明な点が多かったが、新潟県視覚障害者福祉協会副理事長の栗川治の調査でその全体像が明らかになった。この成果は『協会・点字図書館創基100周年記念誌-姉崎文庫(存続する点字図書館の中で日本最古)創設から100年の歩み』(2020年)としてまとまり、さらに栗川は2021年10月17日に柏崎市で開催された「アイフェスタ2021」で「姉崎惣十郎の功績について~柏崎発祥の現存日本最古の点字図書館『姉崎文庫』と中越盲唖学校をめぐって」と題して講演を行っている。栗川は『協会・点字図書館創基100周年記念誌』で、姉崎の上京進学について「進学するにあたっては、自らも東京の医学校で学んだ宮川文平の勧めと支援があったことが想像されます。中越盲唖学校の構想が宮川らのなかでいつごろ芽生えたかはわかりませんが、姉崎を東京に送り出す段階ですでに、将来教師として呼び戻す計画があったのかもしれません。姉崎の才能や学問への意欲を、宮川らが高く評価していただろうことは推測できます」とし、柏崎の地に盲唖学校や点字図書館が創設された背景には「私財を投じて盲人教育の先鞭をつけた盲目の郷土の偉人・米山検校の存在」をあげている。

天河句碑(あまのがわくひ)
出雲崎町住吉町・芭蕉園にある芭蕉句碑。出雲崎町文化財(史跡)としては「天河句碑(銀河序)」と表記される。『出雲崎町の文化財』(出雲崎町教育委員会、1992年)は「元禄2年(1698)7月、俳聖芭蕉は奥の細道の旅の杖をこの町の大崎屋(住吉町)にとどめ、名吟『荒海や佐渡に横たふ天河』の句意が定まったといわれる。碑面の文字は、三重県の菊本直次郎所蔵の芭蕉の真筆『銀河序』の全文を拡大彫刻して、昭和29年に建立された。付近は小公園となっていて、芭蕉園と呼ぼれている。」と解説している。建碑の中心となった佐藤耐雪(良寛堂、良寛記念館建設で知られる)は「さる一小学校教員が、児童を引卒して俳諧伝灯塚に到り、天の川の句は出雲崎に於てではなく、直江津での作であると教えた由を耳にした筆者は、万一かゝる浮説が天下に流布せられるならば、悔を百年に残すのみ」(銀河序建碑由来、1954年)と書き残している。苗場山麓秋成村(現津南町)産の見事な見玉石(高さ2・4メートル)を用い、当初は荻原井泉水の揮毫を予定していたが、井泉水から芭蕉真蹟の存在を聞き、その所有者菊本直次郎の許可を受け写真拡大により刻字した。除幕式は1954年7月4日に行われ、荻原井泉水の記念講演「事実と真実」や記念句会も行われた。なお、芭蕉園の設計者は柏崎市出身の田中泰阿弥で、除幕式にも出席している。

アメリカの俘虜二名差上候間 御収容被下度 御依頼申上候(あめりかのふりょにめいさしあげそうろうあいだ ごしゅうようくだされたく ごいらいもうしあげそうろう)
「敵国の人形」として処分の危機にあった「青い目の人形」(ミルドレッドとシェラブラー)を柏崎小学校長の角張信隆が痴娯の家の岩下庄司に託した依頼状、達筆の候文で書かれており(1943年)2月18日の日付がある。「拝啓 先程御申越相成候」に続いて「アメリカの俘虜二名差上候間 御収容被下度 御依頼申上候」とだけあり緊迫感が漂う。※ポイントは「俘(捕)虜」「収容」の表現で、露見した際には「捕虜を収容した」と弁明するためだったとされる。多くの青い目の人形は焼かれたり、竹槍でつかれたりしたというが、この2体は現在も柏崎コレクションビレッジの痴娯の家(柏崎市青海川)に保管展示され「当時軍部の命令により大多数が焼却処分などされたなか、助かった歴史的エピソードがあります。」との説明がある。各地に現存する「青い目の人形」の全数調査を行った武田英子(児童文学者)は『写真資料集青い目の人形』(1985年)で「機智に富んだ依頼状」として紹介、「角張校長は人形を託すとき、一枚の依頼状を岩下さんに送っている。みごとな筆跡のその文面には、2体のアメリカ人形を『捕虜』として『収容』してもらうのである、と書いてあった。アメリカ人形敵視の中で、この人形たちを保護した罪を問われたときのために、『捕虜収容』との機智と配慮をこめて依頼状をしたためたのであろう。」と評している。※翌日の1943年2月19日の毎日新聞「青い眼をした人形 憎い敵だ許さんぞ」には、文部省国民教育局久尾総務課長の談話「もし飾つてあるところがあるならば速に引つこめて、こはすなり、焼くなり、海へ棄てるなりすることには賛成である。」が掲載されており、全国で処分が進んでいたと見られる

綾子舞アルフォーレ公演(あやこまいあるふぉーれこうえん)
例年11月に柏崎市文化会館アルフォーレで開催される重要無形民俗文化財綾子舞の恒例公演。同館の開館1周年を記念し2013年から始まり「新たな文化の殿堂でゆったり綾子舞を鑑賞してほしい」とのコンセプトで文化の秋の恒例行事となっている。2016年以降は風流踊の重要無形民俗文化財をゲストに迎えており、2016年鹿島踊(東京都奥多摩町)、2017年綾子踊(香川県まんのう町)、2018年徳山の盆踊(静岡県川根本町)、2022年大の阪(新潟県魚沼市)=いずれも2022年ユネスコ無形文化遺産登録=と交流し成果を深めている。主催は柏崎市と古典を活かした柏崎地域活性化事業実行委員会。柏崎駅前という利便性から新たな綾子舞ファン開拓の場ともなっており、柏崎市綾子舞後援会による綾子舞グッズの販売も行われる。

綾子舞会館(あやこまいかいかん)
国指定重要無形民俗文化財綾子舞の伝承と発信、地域活性化、交流拠点として柏崎市女谷の旧鵜川小学校跡地に1999年に完成、開館した伝統文化活用型交流促進施設。庄屋屋敷をイメージした木造平屋建(372・64平方メートル)で、66畳の伝承稽古場、展示室、保管庫、事務室などからなり、伝承稽古場は綾子舞伝承者養成講座や綾子舞伝承学習の夏特訓、綾子舞街道風土市の会場としても使用される。展示室には恋の踊(下野)と小切子踊(高原田)の等身大人形をはじめ衣装、小道具、楽器、舞台幕、重要無形民俗文化財指定書、2003年の行幸啓関係資料が展示され、文政13年(1830)の江戸興行資料、嘉永5年(1852)の下野小歌台本、狂言・三条の小鍛冶で使う三振りの太刀、同・閻魔王で使用する赤熊(しゃぐま)といった貴重資料も。旭達文、猪俣龍彩子など綾子舞を描いた画家の作品展示、綾子舞グッズ、各種書籍類の販売も行っている。入館は無料。水曜日と年末年始は休館。開館式(1999年3月21日)には新潟県知事で綾子舞ファンの平山郁夫が駆けつけ「何としても綾子舞を守らなければならない。それは今生きている私たちの務めだ。」と激励し、関係者を感激させた。

綾子舞街道を行く(あやこまいかいどうをいく)
2011年に開催された「風土食と歴史あじわいバスツアー」第一弾。越後柏崎七街道のモデルケースとして旅行代理店への発信も兼ねた。綾子舞街道観光まちづくり会議が企画、柏崎タクシー旅行センターが主催し市内外から参加があった。枇杷島十王堂で「おびんずるさん」などの木喰仏を見学後、鵜川神社の大ケヤキ、鷲尾山不動院、上条城址、松尾神社を参拝、見学。昼食は旧別俣小校舎内のいなかの食堂・喜楽来で別俣の特産品やそばを堪能し、午後は花栄寺を経て中山峠を越えて綾子舞会館を訪問し、下野座元による小原木踊、海老すくい、常陸踊の特別鑑賞会が行われた。目の前で演じられる綾子舞に一同が感動した様子で、座元からも「お客さんとの距離が極めて近く緊張したが、真剣に見ていただきやりがいがあった」の声。随行した柏崎市観光交流課の田村光一課長は「市民の皆さんにとっても初めて見る場所が多く、大いに楽しんでもらったようだ。今後、どのようにエージェントが採算を判断し、取り上げてもらえるかだ。来年は飯塚邸が(中越沖地震からの)復旧オープンとなるので綾子舞街道の発信強化につなげたい。」と述べた。

綾子舞画集(あやこまいがしゅう)
綾子舞画家として知られた猪俣龍彩子(いのまたりゅうさいし、本名八四郎)が画業30年を回顧して1998年に出版した画集。猪俣は教員で、鵜川中学校校長時代(1980-1984)に綾子舞の魅力にふれて感動し、鵜川小学校伝承学習との連携体制を構築するため奔走、今日につながる基礎を作った。また画家として「動く造形美」である綾子舞の絵画化に取り組み、公募展を通じて綾子舞の存在と芸術性を発信した。綾子舞絵画展を1986年、1998年の2回開催している。画集は「綾子舞」(第8回日洋展)、「落城天水越」(80周年記念日本水彩展)などの代表作を解説、演目歌詞などと共に掲載している。1998年の綾子舞絵画展で猪俣は「綾子舞の美を伝えたいと中央展に出品しては、何度もこっぴどい目に遭った。満身創痍となったが、その美しさを知ってほしいという信念があったから描き続けることができた。綾子舞ばかと言われても、好きでたまらないのです。」と述懐した。

綾子舞関連美術作品展(あやこまいかんれんびじゅつさくひんてん)
2017年の綾子舞街道風土市に合わせ綾子舞会館で開催された作品展。絵画や美術作品の題材となることの多い綾子舞、その多彩な作品世界を知ってほしいと柏崎市綾子舞保存振興会事務局長の小池一弘が同会館所蔵品を中心に展示した。棟方志功の影響を強く受けた旭達文の色鮮やかな板画(ばんが)作品をはじめ、綾子舞画家として多くの作品を残した猪俣龍彩子(八四郎、元鵜川中校長)の水彩画、丹念な制作でファンも多かった滝沢ヒデ子の綾子舞人形、さらに森山恵子のちぎり絵、荒川實の油彩画、同年の県展で奨励賞を受賞した梅沢廣仁の彫塑(綾子舞伝承学習に奮闘する愛娘をモデルにした)などが展示され、来場者は様々な角度から描かれ、表現された綾子舞に目を見張っていた。小池は「特に綾子舞への思いの強い人の作品を集め、展示させてもらった。多様な綾子舞を見て頂き、関心が高まったのではないか。」とコメント。小池は2018年に開催されたドナルド・キーン・センター柏崎ロビー展「綾子舞に魅せられて~市井の作家作品展」、2023年のユネスコ無形文化遺産登録記念事業「綾子舞ミニギャラリー」のプロデュースも行っている。

綾子舞国指定40周年記念事業(あやこまいくにしてい40しゅうねんきねんじぎょう)
綾子舞の重要無形民俗文化財指定40周年にあわせ2016年9月11日に柏崎市女谷の綾子舞会館特設舞台で行われた。実行委員長は綾子舞保存振興会の茂田井信彦会長。現地公開を兼ねた記念公演では11演目(午前6、午後5)を披露、復活狂言「唐猫」の5年ぶり再演が話題となった。記念式典では功績表彰が行われ、猪俣英信(高原田保存会長)に功労賞、須田弘宗(前保存振興会長)ら10人に感謝状が贈られた。茂田井実行委員長は「過疎少子化、そして担い手の問題など様々な課題があるが、今後も皆さんから応援を頂きながら、『綾子舞は心の舞』という長老の言葉を心として綾子舞の保存振興に努めたい」と決意を述べた。記念公演後、鵜川総合研修センターで記念祝賀会が開催され、40周年記念誌『古の雅を伝える』も刊行された。綾子踊を伝承する香川県まんのう町の栗田隆義町長も招待され「(綾子舞と同じ1976年に国指定となった)綾子踊がユネスコ無形文化遺産の登録候補となってから7年が経過した。大変遅れていることに危機感を持っている。綾子舞の皆さんと一緒になって広域的な盛り上げを図っていく必要があるのではないか」と発言、翌2017年の文化庁要望につながる端緒となる。

綾子舞見聞記(あやこまいけんぶんき)
桑山太市が1941年に自費出版した小冊子(縦13センチ、横9・5センチ、戯魚堂発行)。桑山が依頼した藤田徳太郎、町田嘉章らによる綾子舞調査や当時の演目、小原木踊、海老すくい、亀の舞の歌詞などをまとめた22頁。桑山は母校である早稲田大学の演劇博物館に寄贈、これが同大学に勤務したばかりの本田安次の目にとまり、1950年の本格調査、第2回全国郷土芸能大会(1951年、日比谷公会堂)をはじめとした再評価と県文化財指定、国文化財指定への原動力になっていく。なお、演劇博物館に収められている綾子舞見聞記は厚紙で表装され、サイズは11・7センチ×16センチ。いずれにしても書架に紛れ込みそうな冊子ではあるが、本田の目にとまり、当時危機的な状況にあった綾子舞を救うことになった。本田は「本に呼ばれたような気がした」「ここだよ、ここだよと(本が居場所を)教えてくれた」と1992年の鵜川現地公開の際に当時を述懐している。

綾子舞公演と鳥越文蔵名誉教授の講演(あやこまいこうえんととりごえぶんぞうめいよきょうじゅのこうえん)
「早稲田大学地域交流フォーラムin新潟」として2015年9月5日にメトロポリタン松島(柏崎市)で開催された。鎌田薫総長の基調講演「早稲田大学のめざすもの」に続いて下野保存会による綾子舞公演(小原木踊、海老すくい)があり、鳥越文蔵名誉教授が「柏崎の芸能-綾子舞を中心に」と題して講演を行った。鳥越は綾子舞の恩人と言われる本田安次について「民俗芸能の第一人者であり、全国を調査された先生。現地に行って伝承の事を尋ねると本田先生の本を持ち出して『ここに、こんな風に書いてあります』という場面が多かった。それほど本田先生は全国の民俗芸能を丹念に調べ、まとめられた先生で、綾子舞についても演劇博物館にあった『綾子舞見聞記』でその存在を知った先生が1950年に初めて鵜川で調査を行い、学界に発信したおかげで研究が進展した。」と功績を称え、早稲田大学と綾子舞の関わりについてふれながら「500年にわたってずっと伝えてきたことに頭が下がる思いだ。綾子舞は日本の財産であり、天皇皇后両陛下にこの地で見ていただき、お褒めのことばを頂いたと聞く。日本全体でこの貴重な芸能を守っていかなくてはならない。」と強調した。

綾子舞御覧(あやこまいごらん)
2003年6月13日、柏崎市立南中学校で行われた天皇皇后両陛下による御高覧。両陛下は地方事情視察として6月11日から13日まで新潟県をご訪問、その最終日に来柏され南中学校区綾子舞伝承学習の活動成果発表として高原田の狂言・海老すくい、下野の小歌踊・小原木踊を御覧になった。演者は海老すくいが高校1年の戸田達也、中学3年の金子貴文、小原木踊が高校3年の須田玲美と嶋岡可奈、大学3年の須田好美で、説明役は柏崎市綾子舞保存振興会長の高橋長究と柏崎市文化振興課長の小林清禧が務めた。両陛下は綾子舞伝承学習の現役を含む若手メンバーによる熱演にご満足の様子で、両座元の一人ひとりにお言葉をかけられた。海老すくいの殿様を演じた戸田達也は「天皇陛下から何年やっているのですか、とのご下問をいただいたので、小学2年生から殿役一筋でやってきましたとお答えした。これからも励んでいく勇気をいただいた。」、小原木踊の須田好美は「皇后陛下は扇に興味を持たれた様子だったので広げてご覧に入れた。綾子舞の見所である扇の使い方に注目していただきうれしい。」、高原田保存会会長の猪俣英信は「NHKホール出演(同年3月の第3回地域伝統芸能まつり)のビデオで事前勉強をされたようで、鼓の人ですねとお声がけを頂き、言葉にならないほど嬉しかった。両陛下は綾子舞の現状や課題について丁寧に話を聞いて下さった。」と感激を語った。

綾子舞シアトル公演(あやこまいしあとるこうえん)
2003年4月17日から22日まで米国シアトルで開催された綾子舞初の海外公演。柏崎市在住の舞踊家・藤間勘恒美と同門の藤間藤峰(日系2世、佐々木タヅヱ、シアトル桜祭・日本文化祭実行委員長)との交流を端緒に第28回シアトル桜祭に招待され、メイン会場であるシアトルセンターでの公演(開会式含め4公演)で小切子踊(高原田)、因幡踊(同)、常陸踊(同)、小原木踊(下野)、常陸踊(同)、亀の舞(同)などの代表演目を披露。さらに学童向け公演、日系老人ホーム訪問、地元のネイティブアメリカン・ハイダ族との交流会を行い、着付けやゆらいの実演、扇の型の指導も人気を集めた。シアトルに到着した17日夕には日本総領事公邸で歓迎レセプションが行われた。参加人員は西川正純市長(団長)、高原田保存会、下野保存会、柏崎市綾子舞後援会関係者あわせ30人。記録報告集として「綾子舞シアトルで舞う」が同年7月に刊行された。2001年の「ザ祭りインシドニー」(オーストラリア)が最初の海外公演となる予定だったが、同年の米国における同時多発テロ事件の影響で取りやめとなった。

綾子舞常設舞台(あやこまいじょうせつぶたい)
柏崎市女谷・綾子舞会館敷地内に2023年に完成した。木造平屋建て72・87平方メートル。これまで毎年、綾子舞現地公開に合わせて仮設舞台を設置していたが、材料などが老朽化したため、ユネスコ無形文化遺産登録を機に舞台を一新したいと、柏崎市綾子舞保存振興会が柏崎市、柏崎市綾子舞後援会の助成を受け建設した。完成披露式典(同年11月3日)で髙橋一也会長は「綾子舞は昨年11月30日に多くのご尽力で待望のユネスコ無形文化遺産登録を果たし、今年7月10日には文部科学省で認定証を頂戴した。当初は仮設舞台の材料を一新する計画だったが、関係者の皆さんから様々な意見を頂くことで常設舞台への話が進み、10月末に無事立派な舞台が完成した。綾子舞伝承の地に常設舞台を建てることの意味は大きく、この舞台で踊り続けていくことが使命と考える。この舞台が、多くの皆さんに愛され、親しまれ、綾子舞に思いを馳せる大切な場所になることを願っている。」と述べた。式典に続いて記念公演が行われ、三番叟(下野)で舞台を清めた後、小原木踊(下野)、堺踊(下野)、狂言・海老すくい(高原田)、小切子踊(高原田)が演じられた。

AYAKOMAI 世界へ(あやこまい せかいへ)
2022年11月30日にユネスコ無形文化遺産登録を果たした綾子舞の登録記念誌。綾子舞ユネスコ無形文化遺産登録記念事業実行委員会が2024年に刊行した。「登録記念事業」「恩人への感謝」「綾子舞へのエール」「新たな綾子舞学のために」の4章で構成、「登録記念事業」では文化庁側の登録担当者である𠮷田純子主任文化財調査官の記念講演(2023年7月15日、登録記念事業)、高原田・猪俣義行、下野・関一重の両保存会長による座頭トーク(2022年12月25日、登録報告会)を採録、「恩人への感謝」では綾子舞を世に出した恩人として知られる早稲田大学の本田安次、『綾子舞見聞記』によってその契機を作った郷土史家の桑山太市らの功績に改めて光をあてた。また、「綾子舞へのエール」では三隅治雄、西角井正大、山路興造、星野紘、城井智子ら著名な研究者がそれぞれの関わりをふまえながら激励や期待を寄せ、「新たな綾子舞学のために」ではこれまでの視点に加え詞章研究や音楽視点からの研究活性化のために参考論文を掲載している。表紙は徳川美術館の「歌舞伎図巻」から下野、高原田との関連が指摘される場面を借り2バージョンを作成、巻頭では綾子舞の現行演目と綾子舞衣装の世界をカラーで紹介した。現行演目のうち20周年記念誌に掲載されていない10演目(高原田…鐘引、烏帽子折り、唐猫、明神狂れ、下野…田舎下り踊、打ったり舞、さいとり指し舞、佐渡亡魂、龍沙川、明神狂れ)の歌詞、台詞を掲載、コラム「演博の綾子舞見聞記」「棟方志功の弟子と綾子舞「キーン先生と綾子舞」など7本も興味深い。登録記念事業実行委員会の岡島利親は「綾子舞の『つながる力』-編集後記にかえて」で「今回の記念誌で改めて資料を収集したり、関係者にインタビューしてみて思ったのは、綾子舞そのものに『つながる力』『つなげる力』があるのではないか、ということだ。本田先生は、早稲田大学の演劇博物館で『綾子舞見聞記』を手に取った際、「ここだよ、ここだよ」と本に呼ばれた、という。先生が本に呼ばれなければ綾子舞はどうなっていたかわからない。伝承500年の綾子舞である。存在そのものが、これからも私たちをつなげたり、結びつけたりするのだろう。」と書いている。

綾子舞と合唱演奏会(あやこまいとがっしょうえんそうかい)
鵜川小学校の閉校を記念して1995年2月18日に柏崎エネルギーホールで開催された演奏会。第1部合唱、第2部綾子舞、第3部合唱の3部構成で、全校児童4人に卒業生3人が加わった7人での清楚な合唱(七つの子、さくらさくら、浜千鳥他)が超満員のホールに響いた。綾子舞披露では三番叟(下野)、因幡踊(高原田)、小原木踊(下野)、小切子踊(高原田)を両座元の協力で披露、「綾子舞幻想」(須田友男元校長作曲)も感動を呼んだ。新潟県知事の平山征夫(柏崎出身)も激励に駆けつけ、フィナーレの鵜川小学校校歌(相馬御風作詞、中山晋平作曲)合唱ではグリークラブ出身の知事もコーラスの輪に加わり、「鵜川小が閉校するのは寂しいことだが、これも時代の流れ。今日の思い出を心にとどめ、新しい学校でがんばってほしい。」と述べた。閉校記念CDも制作された。

綾子舞と狂言「烏帽子折り」(あやこまいときょうげん「えぼしおり」)
柏崎市出身の筑波大学学長・北原保雄によるエッセイ集『青葉は青いか』所収の綾子舞論。能楽タイムズに発表した「綾子舞研究のもう一つの視点」を改題した。「綾子舞についての研究は、地元の研究者によるものがほとんどであるが、(略)それらの研究をあらあら通覧して感じる率直な感想は、綾子舞そのものについての研究つまり、一曲一番の内容に立ち入った研究がきわめて乏しいということである。綾子舞のアヤコはどういう意味であるとか、『甲子夜話』に綾子舞が江戸で興行されたことの記載があるとか、そういう面からの研究も、もちろん重要である。しかし、それと並んで、舞や狂言の一番一番の内容がどうなっているかを調べ、そこから綾子舞がどういう系統に属する芸能であるのか、現在演じられている詞章や演出にはどんな問題点があるか、などを究明する研究も大切である。」と指摘、その具体的な一つの試みとして狂言「烏帽子折り」を取り上げ、「大蔵流・和泉流の『麻生』や『狂言記正編』の烏帽子折りと、大名が下男を烏帽子折りにやらせるという大筋では一致しているものの、要所要所がかなり異なり、まさに換骨奪胎の感が強い。」「柏崎に伝えられて久しいので、柏崎地方の言語的特徴がいろいろ認められるのは当然であろう。(略)イとエの混同というよりも、イへの統合というべきである。」「しかし、古い伝承を思わせるような言葉もいくつかある。」などと考察している。また、あとがきで「綾子舞は柏崎市に伝承されている古典芸能であり、最近では全国的に知られるようになり、文化庁も保護に乗り出しているものであるが、章句の研究はいまだほとんどなされていない。古い台本が発見されていないのが残念であるが、ライフワークの一つとして『はちすの露』とともに研究の対象にしていきたい、と思っているものである。」としている。

綾子舞に魅せられて~市井の作家作品展(あやこまいにみせられて~しせいのさっかさくひんてん)
ドナルド・キーン・センター柏崎ロビー展として2018年に開催された作品展。絵画や美術作品の題材となることの多い綾子舞、その多彩な作品を市内所蔵者から借り、展示したもので、綾子舞現地公開へのムード盛り上げも兼ねた。棟方志功の弟子・旭達文の板画(ばんが)作品をはじめ、綾子舞画家として多くの作品を残した猪俣龍彩子(八四郎、元鵜川中校長)の水彩画、滝沢ヒデ子の綾子舞人形、さらに「黒姫神社に帰っていく綾子舞の姿」を描いて話題となった荒川實の油彩画、牧野広円と梅沢廣仁の彫刻、巻口泰男と今井哲蔵の版画、白倉南寉と今井暁歩の書(現地公開ポスター題字)が展示され、来場者は様々な角度から描かれ、表現された綾子舞に見入っていた。盛況理に終えた国立能楽堂の綾子舞公演写真も(株)柏新時報社の協力で特別展示した。企画にあたった市綾子舞後援会理事の小池一弘は「昨年の綾子舞街道風土市で綾子舞関連美術作品展を開催したところ、皆さんから大変喜ばれた。今回はさらに内容を充実し、バージョンアップした。市井の作家たちの綾子舞への思いを感じて頂ければ…」と話していた。

綾子舞の江戸興行(あやこまいのえどこうぎょう)
綾子舞の江戸興行については『遊歴雑記』(十方庵敬順著)と『甲子夜話』(松浦静山著)に記録が残る。年代は『遊歴雑記』の記述が文化12年(1815)9月で古く、『甲子夜話』の記述は天保5年(1834)とみられる。『遊歴雑記』には①「越後頸城郡(刈羽郡の誤り)何村の百姓」が鎮守(現在の黒姫神社のことか)再興のため浅草寺境内に宿泊し、先々の招きに応じて興行をしていた。②「綾子踊」と称し「老若八人」が出府、男性のみで女役は男が務めた。「四百数十年伝わりて」と説明している③女役の服装は「振り袖を着して、細帯を前にて結び、下頭をば茜の長き木綿にて包み」とあり、ユライを思わせる表現から「下野組」と推定される④演目は宝の槌、大黒舞、日高詣、小原女(小原木踊?)、三人座頭、鞍馬の竹切など6、7番の狂言⑤楽器は笛、しめ太鼓、チャンギリ(小型の鉦)で、現在のような出囃子でなく舞台に出ない陰囃子だった-などがわかる。この興行について「飢饉の年に江戸に出かけて興行したが、江戸も不景気で成績は悪く、その日の食いつなぎが精一杯であった」との地元伝承が伝わっている。一方、『甲子夜話』には①折居の人々が困窮を理由に江戸両国橋の広場で興行したり、家に招かれて舞ったりした②アヤコの舞と称していた③演目は囃子舞2曲(恵比寿舞、さい鳥舞)、狂言8番(烏帽子折、明神狂、海老すくい、竜沙川、三条小鍛治、手違い、石山詣、祐善)で、昔は82番、天保の頃は62~63番を伝えていた(『古典芸能綾子舞』は「伝承されている系統としては、この内容の説明によると高原田の組の振りのものが多いように思われる」と分析)④楽器は大太鼓、太鼓、笛、小鼓、銅拍子で、舞台の幕の前に座った⑤1組14人編成で江戸興行の頭取は折居村の庄屋である横田与左衛門。折居村には3組、女谷村には2組があった-などを伝えている。なお、折居の文子(あやこ)組中が当時の庄屋横田松次郎に江戸興行を願い出た文政13年(1830)の古文書が拝庭のよぜん(屋号)家にある。『甲子夜話』の江戸興行と関連性があるものと見られ、綾子舞会館でその複元品を展示している。郷土史家・高橋義宗は「江戸興行に至るまでの舞台裏については何も伝えられていませんが、地元の庄屋が直接江戸に出かけて行って興行の取り決めができたものでしょうか。その舞台まわしとして(天領の)代官の支援があったのでは」(鵜川の話)と推測している。

綾子舞の恩人桑山太市朗(あやこまいのおんじんくわやまたいちろう)
元柏崎ふるさと人物館館長の桑山省吾が、綾子舞の発信に尽力した柏崎の郷土史家・桑山太市朗の業績を紹介した文章。柏新時報2011年1月1日号に掲載された。1936年の綾子舞調査について当時の状況をふまえ「現在では、綾子舞を伝承しているのは、鵜川女谷の中の下野、高原田であることが知られているが、当時は、どの地域に、どういった形で…ということすらはっきりわからなかった。従って、太市の仕事は、綾子舞なるものの『輪郭』をはっきりさせることにあった。足を使っての苦労の連続だった。」「最初の訪問では、下野、高原田というポイントがわからなかったことから、とにかく鵜川の全地域をくまなく歩いた。そして、村の重立(おもだち)や長老に聞いて回ったのだが、驚いたことに『綾子舞』という言葉すら知らない人が多く、結局は、目的を果たせず、帰宅した。」等と紹介し、さらに藤田徳太郎、町田佳聲を招請した1941年の調査にもふれ「これによって『綾子舞見聞記』が書かれ、綾子舞を研究する下地が出来た。太市は『表に出る』ことを終生嫌ったが、この土台がなければ、国の文化財指定やその後の隆盛がなかったことを考えると、まさに『恩人』と言える。」とまとめている。桑山省吾は太市の甥にあたり、柏新時報新年号に「人物発見シリーズ」等を長年にわたり執筆した。

綾子舞の国立劇場出演(あやこまいのこくりつげきじょうしゅつえん)
1971年9月4日、5日の2日間、国立劇場で開催された第12回民俗芸能公演「綾子舞と小河内の鹿島踊」(郡司正勝構成)で高原田、下野の両座元(一行40人)が出演、4日2公演(Aプログラム、Bプログラム)、5日1公演(Cプログラム)を行った。プログラムは後述。このうち狂言の「佐渡亡魂」は60数年ぶりの復活となった。また、9月3日夜には200人の駐日各国大公使を招待し外務省特別鑑賞会が開催された。同公演のプログラムには本田安次(早稲田大学教授)、郡司正勝(早稲田大学教授)、小笠原恭子(成蹊大学講師)が解説文を執筆した。リハーサルを含め3日間の公演をサポートした東京鵜川会事務局長の大野弘雄は「民俗芸能関係の専門家は言うに及ばず、狂言、はやし言葉などの面から言語的に見る国文学者。その美しい衣裳に驚嘆する服装史家。名だたる歌舞伎役者、舞踊家、邦楽家と舞台を見つめる姿は真剣そのものであった。それだけに恐いですよと言った総監督の西角井正大氏の言葉が印象的だった。」「三番叟の布施誠君はすべてのプログラムのトップを飾ったが何と気品があったことか。あとに続く、高原田と下野の少女たちの、小切子踊、小原木踊、常陸踊、堺踊、因幡踊、恋の踊などは綾子舞の中心をなすものとして最も美しいものであるが、まさに中世の屏風絵からそっくりそのまま抜け出て来たようで、目をすっかりたのしませてくれた。」「少女たちの踊りにも増して心を惹かれたのは下野の押田七五郎さんや布施孫作さん、高原田の猪俣時治さんら綾子舞の守り神ともいうべき古老たちの老いてますます調子の出て来た囃子方の音楽だった。」と感想を書き残している。▽Aプログラム=三番叟(下野)、小切子踊(高原田)、さいとり指し舞(下野)、常陸踊(下野)、烏帽子折(高原田)、恋の踊(下野)▽Bプログラム=三番叟(下野)、小原木踊(下野)、猩々舞(高原田)、常陸踊(高原田)、三条小鍛冶(下野)、恋の踊(下野)▽Cプログラム=三番叟(下野)、堺踊(下野)、肴さし舞(高原田)、因幡踊(高原田)、佐渡亡魂(下野)、恋の踊(下野)

綾子舞の心をこころとして(あやこまいのこころをこころとして)
柏崎市綾子舞保存振興会会長の茂田井信彦が2020年10月12日柏崎市立南中学校で行った講演。副題は「綾子舞のこれまでと、これから、そして」。茂田井は元南中校長で、柏崎市綾子舞保存振興会事務局長を経て会長。「綾子舞は伝承500年と言われるが簡単に500年が経ったわけではない。多くの戦乱があり、現在私たちが直面している新型コロナウイルスのような疫病もあったかもしれない。明日の食料にも困るような日々もあるなかで、代々綾子舞を伝え、舞い続けてきた。平穏な時代だけでなく、苦難の生活の中においても舞扇を捨てることなく高々と扇をかざして舞ってきた執念にただただ驚くばかり。」と述べたうえで、「2022年に綾子舞がユネスコ文化遺産登録の予定で、これが実現すると世界的な知名度もあがる。地域の発展にも間違いなくつながる。この一方で、市民でもまだ綾子舞を知らない人がいる。まずは、伝承学習を行っている南中学校の皆さんから綾子舞のことをしっかりと勉強して、どこへ行っても綾子舞の自慢をしてほしい。」と呼びかけた。また、下野座元の長老・布施富治を回想し、「雪深い鵜川での寒稽古の際、2時間も正座したままだった、ストーブもつけなかった。指導も厳しかったが、それ以上に自分に厳しかった。かつて綾子舞は長男への一子相伝の時代があったが、次男であった布施さんは隙間から練習を見て綾子舞を覚えたという。執念の人であり、綾子舞に命がけだった。」と述べた。

綾子舞の里(あやこまいのさと)
絵本作家でギャラリー十三代目長兵衛代表の曽田文子による随想。柏新時報2011年1月1日号に掲載された。綾子舞との出会いを「鵜川、女谷と呼ばれるこの集落は夫の父の生まれ故郷であった。縁あって柏崎に嫁いだ私は『うかわ』『おなだに』ということばのひびきに、まだ知らないその里に、なんとなくやさしく包み込んでくれる穏やかなイメージを抱いていた。」「この地に古くから伝わる民俗芸能綾子舞との出会いは、嫁いで間もない秋、黒姫神社の祭礼奉納と記憶している。(略)杉木立に囲まれた黒姫神社をとりまく背景の中で、笛、太鼓の調べにのってくり広げられる優雅な舞が、一幅の絵のようにとび込んで来た。控え目な華やかさの中、品格が漂い敬虔の念すら覚えた。それと同時に『この山深い里に、何故このような舞が…』という素朴な疑問がわいて来たのである。」と記し、亡夫の曽田恒(内科医)への思慕も重ねながら「ともあれ四百年とも五百年ともいわれる歴史の中でこの芸能が時代の波に翻弄されながらも人々の力によって現在ここに受け継がれていることに感動を覚えた。赤い衣裳の動き、笛太鼓の単調なメロディが頭からはなれない一日だった。」「先日伝承風景を見せていただく機会があった。下野と高原田、二つの座元に分かれ長老を含む先輩方の熱心な指導の元で小学生から高校生迄、舞や狂言が伝授されていた。順番を待つ少年の手が先輩の打つ離子の太鼓に合わせ空を打つ光景は、まさに伝承と後継の姿だった。(略)インターネットや携帯の中にどっぷりと浸っているジャージ姿の子供達の手にある扇、畳をすべる長い足が五百年前のリズムで動いているのである。繋がっていく時代の今を感じた。」と結んでいる。曽田は柏崎市綾子舞後援会が取り扱う「綾子舞グッズ」の包装紙デザインを担当するなど貢献、夫の曽田恒は柏崎市綾子舞後援会長(第5代)を務めた。

綾子舞の雪上公演(あやこまいのせつじょうこうえん)
2006年3月5日に綾子舞会館前で行われた特別公演、雪上での綾子舞は初。国重要無形民俗文化財指定30周年記念イベントの一環として、当日は3メートルを超す雪を重機で押し固めて特設舞台を作り、下野座元が出演して小原木踊など3演目を披露、見事に晴れ上がり、綾子舞を鮮やかに引き立てた。綾子舞は「長い冬と雪により冷凍保存のように伝承された」と言われることが多いが、綾子舞保存振興会長の須田弘宗も「綾子舞が原型のまま鵜川に残ったのは長い冬と雪があったからで、綾子舞と雪の関わりは深い。雪上公演は長い間の夢だった。実現してくれた地元の皆さんに感謝したい」と語った。当日は第34回鵜川雪上運動会、餅つき、塞の神も行われた。

綾子舞の特色と魅力、ユネスコ無形文化遺産登録の意義(あやこまいのとくしょくとみりょく、ゆねすこむけいぶんかいさんとうろくのいぎ)
2023年7月15日柏崎市文化会館アルフォーレで開催された綾子舞ユネスコ無形文化遺産登録記念事業で文化庁の𠮷田純子主任文化財調査官が行った記念講演。今回登録となった全国の風流踊41件を俯瞰しながら「他地域の風流踊が中央から地方へ伝播したものを受け止め、土地柄にあった芸能として形を変えながら伝承されてきたのに対し、ここの綾子舞の芸能はプロの芸能者が一枚かんでいる、という点で他とは全く違う。もともとの成立からして『舞台で見せる』ための芸能であり、そのため綾子舞は芸術的な洗練度が極めて高い。踊りが形骸化せずに今日(こんにち)に伝わってきている奇跡の芸能である。室町末期から江戸時代初期に日本人を魅了した風流の美意識が、まさにこの綾子舞のなかに連綿と受け継がれている点で奇跡、綾子舞は本当に奇跡の芸能だ。」と絶賛したうえで、「ユネスコ登録はゴールではなく、今後の継承のためのスタート。綾子舞に関わる皆様が綾子舞をどれだけかけがえのないものと捉え、それを継承していくためにさらに様々な試行錯誤、チャレンジを進めていくかが重要だ。文化庁も可能な限り皆さんを応援したい。」と述べた。

綾子舞のユネスコ無形文化遺産登録(あやこまいのゆねすこむけいぶんかいさんとうろく)
2022年11月30日、ユネスコ無形文化遺産保護条約第17回政府間委員会(モロッコ・ラバト)において登録が決定した。2009年に登録されたチャッキラコ(神奈川県三浦市)への拡張提案として、綾子舞を含む24都道府県41件の国指定重要無形民俗文化財を「風流踊(ふりゅうおどり)」としてグループ化し一括提案し「衣装の華やかさと音楽の独自性は祖先からの伝統の中で現れてきた人類の創造性の実証である。」「本件の担い手は41の踊りの地元地域のコミュニテイであり、年配の伝承者は若い世代に風流踊を伝え、地域の学校はそれぞれの地元の保護団体と協力し、授業でも取り上げている。全ての年代とジェンダーの人々を結びつけるネットワークを促進しており、新型コロナウイルス感染拡大のような非常時には困難を乗り越える助けとなる。」などとして全会一致で記載決議を受けた。柏崎市と柏崎市綾子舞保存振興会、柏崎市綾子舞後援会では柏崎市役所1階で政府間委員会のライブ中継を視聴、登録決定(現地時間11月30日午前11時1分、日本時間午後7時1分)を受け、万歳やくす玉開披で「柏崎が誇る綾子舞が世界に認められた」(桜井雅浩市長)ことを喜び合った。続いて記者会見が行われ、柏崎市綾子舞保存振興会の高橋一也会長は「大勢の人から支えてもらった。ユネスコの名に恥じないよう先を見据えた後継者養成に取り組みたい。座元(囃子方)の高齢化も進んでおり、この世代交代も重要。」、高原田保存会の猪俣義行会長(保存振興会副会長)は「登録を機に多くの人に綾子舞に関心と興味をもってもらい、特に若い人たちに綾子舞を学んでもらい、次につなげてほしい。また、せっかく綾子舞を覚えながら地元を離れる例も少なくない。ぜひ柏崎にもどって綾子舞を続けてほしい。」、下野保存会(同)の関一重会長は「本当にうれしい。言葉がない。綾子舞伝承学習をやっても、一時は(参加者が少なく)踊り1組、2組という時もあり、苦しい時もあった。伝承体制をさらに確立するために関係者のご支援を頂きながら、一人でも多く綾子舞を学ぶ若い世代を増やしたい。」と述べた。この日、若手伝承者5人も衣装を着けセレモニーに参加、このうち柏崎高校2年の九里多映さんは「私にとって綾子舞は道のようなもの。綾子舞のおかげで(東京2020 オリンピック聖火ランナーなど)あまり出来ない経験を沢山した。今後は大学で伝統芸能の勉強をして、学んだことを柏崎に持ち帰り、柏崎と綾子舞を盛り上げたい。」と話していた。綾子舞と同じ古歌舞伎の面影を残す小河内の鹿島踊(東京都奥多摩町)、徳山の盆踊(静岡県川根本町)、綾子踊(香川県まんのう町)も登録された。また新潟県内からは大の阪(魚沼市)が登録された。

綾子舞の歴史と文化(あやこまいのれきしとぶんか)
2019年に新潟産業大学で行われた「日本の伝統芸能」で非常勤講師の三井田忠明が行った講義。新潟県大学魅力向上支援事業補助金を受け聴講生に無料開講された。三井田は元柏崎市立博物館長で、綾子舞の構成、独特のユライ、座元や座頭の役割、伝承のため座元関係者が門戸を広げてきた歴史などについて説明、「徳川美術館所蔵の『歌舞伎図巻』には出雲のお国が1603年に創始した歌舞伎踊の姿が描かれており、綾子舞との類似点が多い。綾子舞には様々な起源が伝えられ、いずれも興味深いが、共通するのは京都から伝わったという点だ。綾子舞研究者の中でも特に小笠原恭子説が異彩を放っており『お国自身が運営する一座から鵜川の人たちが直接習ったのではないか』と指摘し、注目されている。」と述べ、「阿国歌舞伎はやんちゃでとんがっていた者たちの同時代芸能。元気が良く派手、『傾(かぶ)く』の本来的な意味だ。少し前であれば原宿の竹の子族、現在のよさこいといったところか。綾子舞も当時はサブカルチャーだった。サブカルチャーも400年も続ければメインカルチャー、伝統芸能となる。」などと説明、「柏崎を語る時にどうしても綾子舞を入れなくてはならない。それだけ重要な文化財。特に産大はベトナム、モンゴル、中国、タイなどからの留学生が多いので、現地公開などでぜひ実際に見てほしい。」と呼びかけた。

綾子舞は安泰か(あやこまいはあんたいか)
綾子舞国指定40周年記念事業で刊行された記念誌『古の雅を伝える』に掲載された一文。柏崎市綾子舞後援会副会長の岡島利親が執筆した。綾子舞を支える伝承学習(南中学校)、伝承者養成講座(綾子舞会館、ワークプラザ)の2007年度から10年間の参加者数を一覧に示しながら「特に目立つのは綾子舞伝承学習に参加する児童・生徒の多さである。少子化の中で、南中学校全体の生徒数は110人台まで減少したが、伝承学習参加者はむしろ増加傾向にある。」「綾子舞伝承者養成講座は概ね55人前後を維持。演目のブラッシュアップを図ると共に、囃子方の育成に尽力した結果、中学生や女性の囃子方を誕生させるに至った。」などの現状をふまえ、「若者の市外流出という問題が、ここにも横たわる。指導者は『せっかく綾子舞の技と伝統を身につけた若者が、いったん市外、県外に出てしまうと、なかなか戻ってきてくれない』と悩みを語る。(略)国指定50年に向けてのこれからの10年は、彼ら、彼女らの若い世代をどのように育て、引き留め、引き継ぎ、このことを綾子舞の飛躍につなげていくかにかかっている。」とし「座元関係者からも『安泰ではない』『このまま行くと、再び危ない状況になるのではないか、不安になる』という言葉が出て来る。課題をひとつひとつ解決しながら、発展に結び付けなくてはならない。」とまとめている。

綾子舞はどう生きるか(あやこまいはどういきるか)
1994年11月26日に柏崎市産業文化会館で開催されたシンポジウム。柏崎市と広域関東圏産業活性化センターの主催、歌舞伎学会(共催)の平成6年度秋季大会と併せて開催された。服部幸雄(千葉大学教授)は基調講演で「綾子舞が中央学会で本格的に取り上げられるようになったのは、昭和20年代から30年代にかけてで、早稲田大学の本田安次先生、郡司正勝先生の功績が大きく、にわかに綾子舞が学会の注目を浴びた。芸そのものの美しさへの驚きと共に、初期歌舞伎研究との関連で注目されたもので、例えば郡司先生は『文献上にのみその名をとどめて、この世から消失してしまったと思っていた阿国歌舞伎の姿が立ち現れた。』『采女歌舞伎草紙(重美・歌舞伎図巻)に描かれた絵姿がそのまま抜け出したのではなかろうか。歌舞伎の誕生をいま目前にする思いに、夢かとばかりに狂喜した』などと書いている。」としたうえで「これまでの研究成果により、初期歌舞伎と関連しているのは疑いない。綾子舞は黒姫神社の祭礼で演じられてきたが、実際は宗教性は薄い鑑賞用の芸能で、それだけに保存伝承は非常に難しい。綾子舞の価値というものは絶大で、采女歌舞伎草紙が重美であれば綾子舞は重文だ。阿国歌舞伎の姿の面影を現代に伝えるものとしていつまでも守っていってほしい。国も県も市も文化遺産の高い価値を認めてしっかりと援助してほしい。」と力説。続いて民俗舞踊研究家の須藤武子、基調講演を行った服部、鵜川公民館長の髙橋裕義がパネリストとなって討議を行った。司会は歌舞伎学会代表委員の今尾哲也が担当した。綾子舞応援団長として知られる須藤は「30年にわたり綾子舞と関わり、新鮮な教えを頂いた。綾子舞は素直で、誇張がなく、爽やかだ。何より歌心があり、振りと歌が渾然一体となった時、体が浄化されるような心地となる。綾子舞はアトラクションではない。間に合わせの場ではなく、真剣に鑑賞する場をもっと作るべきだ。」、地元の髙橋は「危機の時代もあったが、最近は明るいムードも出始めた。昔踊っていた子どもたちが指導者となって帰って来てくれているが、それでも困難な状況に変わりはない。伝承にはある程度の人数がいて、勢いというものがなくてはならない。一緒に取り組んでいただく方を増やし、肉付けをしながら何とか次の世代に生かしていく。」と発言した。シンポジウムに続いて綾子舞の実演(三番叟、小原木踊、因幡踊、海老すくい、常陸踊、堺踊、猩々舞、小切子踊)が行われた。

アヤコマイ・ビューティフル(あやこまい・びゅーてぃふる)
2003年に行われた綾子舞シアトル公演(綾子舞初の海外公演)に柏崎市綾子舞後援会理事として参加した岡島利親による同行記で、同年5月2日号から3回にわたって柏新時報に掲載された。綾子舞がアーティストの多い町として知られる米国シアトルでどのように受け止められたかについて「シアトルの人たちはビューティフル、ファイン、グレイトといった形容詞でストレートに感動や興奮を表現し、時にスタンディング・オベーションもあった。柔軟に受け止める風土は、海外初公演として実にふさわしい地だった。」と結論づけている。また、綾子舞の舞台を斬新な意訳も含めた通訳で支えた佐々木豊(藤間藤峰の夫でコミュニケーション・アーティスト)が、かぶく(傾く)をラディカル(radical)と訳したことについて「佐々木氏にその真意をインタビューしたところ、『400年前に出雲のお国が試みた冒険を理解してもらうため自分なりに様々な単語を探した。今までの理屈をまるごとひっくり返して質的な変化を遂げたのだから、アンユージュアル(unusual)でもなくアブノーマル(abnormal)でも、ましてクレイジー(crazy)でもない。質的な変化ということを考えるとラディカルしかなかった』という答えが返ってきた。」とし、「問題は質だ。質的に残るべきものしか後世に残らない。佐々木氏からは綾子舞を伝える人たちには、ぜひ原初のラディカルな精神を持ち続けてほしい、との激励を受けた。」と記している。

Ayako-mai Folk Performance(あやこまい・ふぉーく・ぱふぉーまんす)
第33回民俗芸能と農村生活を考える会「新潟県柏崎市の郷土芸能綾子舞」パンフレットの中で綾子舞を紹介した英文。「we would like to introduce“Ayako-mai Folk Performance", a classical performing art that has been handed down in Kashiwazaki City,Niigata Prefecture since the Muromachi Period of about 500 years ago and is designated as a nationally-designated important intangible cultural property.」(新潟県柏崎市に伝わる古典芸能、約500年前の室町時代から続く国指定重要無形文化財「綾子舞」をご紹介します。)としたうえで、綾子舞を伝承する2つの座元を「two proprietor」、高原田座元を「Takanda district」、下野座元を「Simono district」と訳。また披露演目をOharagi Dance(Simono Kouta Dance)、Hitachi Dance(Takanda Kouta Dance)、Kokiriko Dance(Takanda Kouta Dance)、Shrimp Scooing(Simono Noh Farce Kyogen)、Hitachi Dance(Simono Kouta Dance)と表記した。さらに「Kashiwazaki City」の特徴、文化背景を「nestled in the bosom Kariwa's Three Mountains」「has a long coastline of 42km」「The city flourished culturally in the old days through the trades of Kitamae-bune cargo vessels dealing with chijimi textiles」「many proud traditional events such as the "Enma Ichi Market"」「"Gion Kashiwazaki Festival Sea Fireworks",known as one of the three major fireworks festival of Echigo」などと紹介、ユネスコ無形文化遺産登録後の発信につながった。

綾子舞物語(あやこまいものがたり)
柏崎出身の堀井真吾(朗読劇「物語シアター」代表)脚本、演出による舞踊劇。柏崎市と古典を活かした柏崎地域活性化事業実行委員会主催で、柏崎古典フェスティバル2021の一環として2021年10月21日にアルフォーレ大ホールで上演された。国立能楽堂での綾子舞公演(2018年)を見て感動した鵜川生まれの堀井が「これまでの自分の総決算として、鵜川と綾子舞を守り続けてきた鵜川の皆さんに、今改めてエールを送りたい」と一念発起、綾子舞や鵜川の歴史について学び直しながら脚本を執筆し、柏崎市や関係者に働きかけ実現にこぎつけた。元宝塚月組娘役トップスターのこだま愛、柏崎出身で文学座所属の永宝千晶、綾子舞両座元が出演した。およそ500年前、京都から越後に伝わったと言われる綾子舞の由来の謎に迫った意欲作で、堀井は「出雲阿国本人が一座と共に鵜川に綾子舞を伝えた」説を採用、「今でこそ過疎化の進んだ地域だが、もともと鵜川の地域は芸能の盛んな、活気に満ちた地域だったのだろう。そうでなければ、当時の小歌踊、囃子舞、狂言など数多くの演目が、かくも厳格に格調高く、世紀を越えて生き続けているわけがない。」とのメッセージを込めた。前評判からチケットは即日完売、こだま愛の舞踊は「阿国が舞い降りてきたようだ」と評判になった。

綾子舞ユネスコ無形文化遺産登録記念事業(あやこまいゆねすこむけいぶんかいさんとうろくきねんじぎょう)
綾子舞のユネスコ無形文化遺産登録を祝い2023年7月15日柏崎市文化会館アルフォーレで開催された記念事業。タイトルは「綾子舞-AYAKOMAI 鵜川から世界へ」。登録記念事業実行委員会の主催で、開会あいさつで実行委員長の岡島利親(柏崎市綾子舞後援会副会長)は「綾子舞は昨年11月30日に全国の風流踊の仲間とともに待望のユネスコ無形文化遺産に登録された。これも偏に、国とりわけ文化庁、新潟県、地元の皆さんのおかげ。関係者一同、綾子舞の発展と発信力の強化に向け決意を新たにしているところ。」と述べたうえで「登録決定後『これで綾子舞は安泰ですね』とお声がけをいただくことが多くなったが、綾子舞は人口減少、少子化、高齢化などなど様々な波の中で苦労を続けており、一瞬でも油断をすると以前のような衰退する場面を作ってしまうかもしれないと心配している。そうならないように安定的、持続的な保存伝承体制を構築し、先手、先手を打っていかなくてはならない。また、ユネスコ無形文化遺産綾子舞の名に相応しい市民ぐるみの応援体制も強化したい。」とあいさつ。文化庁の𠮷田純子主任文化財調査官による記念講演「綾子舞の特色と魅力、ユネスコ無形文化遺産登録の意義」に続いて柏崎市立博物館学芸員の渡邉三四一によるミニ講座「綾子舞の見方・扇の手」が行われ、代表的な「きまり扇」「投げ扇」「落とし扇」「左右扇」「あおり扇」「ヤーハンの連続扇」の実演を含め説明した。綾子舞公演では狂言・佐渡亡魂(下野)、小歌踊・常陸踊(高原田)、囃子舞・肴さし舞(高原田)、小歌踊・小切子踊(高原田)、小歌踊・小原木踊(下野)、小歌踊・田舎下り踊(下野)が披露された。記念講演については別項。

綾子舞ユネスコ無形文化遺産登録報告会(あやこまいゆねすこむけいぶんかいさんとうろくほうこくかい)
綾子舞のユネスコ無形文化遺産登録を祝い、来賓、関係者を招待して2022年12月25日柏崎市産業文化会館で開催された報告会。登録記念事業実行委員会の主催で、開催あいさつで実行委員長の岡島利親(柏崎市綾子舞後援会副会長)は「綾子舞は人口減少など様々な波にさらされ、決して順風満帆でも安泰でもない。少しでも油断をするとかつてのような危うい状態となるかもしれない。関係者の協力で安定的、持続的な保存伝承体制を作り、先手、先手を。また、ユネスコ無形文化遺産綾子舞の名に相応しい市民ぐるみの応援体制を皆さんの協力で構築したい。」とあいさつ。当日は高原田4演目(囃子舞・肴さし舞、小歌踊・常陸踊、同・因幡踊、同・小切子踊)、下野4演目(小歌踊・恋の踊、同・小原木踊、狂言・海老すくい、小歌踊・常陸踊)を披露、演目の中程で座頭(ざがしら)トークが行われ、高原田・猪俣義行、下野・関一重の両保存会長が登壇し、このなかで猪俣は「(南中学校区の伝承学習に加え)座元主体で行っている伝承者養成講座に伝承学習と掛け持ちで通ってほしいが、夜の時間帯なので保護者の理解、協力が不可欠。また囃子方の育成について洋楽器経験者の力も借りたい。昨年はフルート経験のある女性から養成講座に通ってもらった。綾子舞は柔軟であり、囃子方は男性だけでないことを強調しておきたい。」、関は「(若手伝承者が市内、県外に流出している現状に対し)綾子舞を習い覚えた若い世代が柏崎に戻ってくるにはやはり就職先だと思う。官民で綾子舞伝承者枠を作るなどの配慮をしてもらえないか。また、復活演目のうち、狂言がなかなか上演できない状態にあり、綾子舞狂言を観る会を企画してはどうか。今回の大雪、大停電で、雪深い地で綾子舞が冷凍保存され残った、という意味を実感した。」等と述べた。

綾子舞ルネッサンス'91(あやこまいるねっさんす'91)
柏崎青年会議所がふるさと再発見事業の一環として1991年10月12日に柏崎市産業文化会館を会場に開催した公開例会。副題は「今、新たなる感動を」。この年はちょうど国指定15周年にあたり、ふるさとの宝綾子舞を再認識し、市民と一緒になって綾子舞を応援し、盛り上げていく機運を作りたいと市民公開で開催した。柏崎市教育委員会と柏崎市綾子舞保存振興会が全面協力した。綾子舞応援団長で日本民俗舞踊研究会代表の須藤武子が「綾子舞と私-出会いから30年」と題して基調講演、高原田、下野両座元が出演し、常陸踊(高原田)、「海老すくい」(同)、小切子踊(同)、狂言・三条の小鍛冶(下野)を演じた。基調講演の須藤は、「1963年、早稲田大学の本田安次先生の紹介で柏崎駅前の桑山太市さんを訪ね、そこから鵜川に入った。真っ白な雪が積もる女谷の地で初めて綾子舞を見せてもらい心の底から衝撃を受けた。」と振り返ると共に、綾子舞の美しさやエネルギー、日本や世界における価値を語り「綾子舞はいま息絶え絶えの中で一生懸命に生き残りをかけがんばっている。日本文化の源流とも言える綾子舞を、市民ぐるみで共有して理解し、柏崎の誇りとして盛り上げてほしい。」と強調した。

綾子舞ルネッサンス'99(あやこまいるねっさんす'99)
柏崎青年会議所が1999年10月16日に綾子舞会館で開催した公開例会。副題は「偉大なる宝、そして未来へ」。綾子舞ルネッサンス'91(1991年)の成果を受け継ぐ続編として綾子舞の保存伝承や柏崎全体での応援体制づくりを考えたもので、綾子舞の実演(恵比寿舞、常陸踊、小原木踊、海老すくい、堺踊)に続いて伊東勉(綾子舞事務局)、髙橋裕義(鵜川公民館長)、渡邉三四一(柏崎市立博物館学芸員)、吉田孝継(柏崎青年会議所理事長)によるシンポジウムが行われた。このなかで高橋は「鵜川地域の過疎はものすごいスピードで進んでおり、本田(安次)先生に見つけてもらわなければ綾子舞そのものが無くなっていたかもしれない。鵜川にはかけがえのない自然が残っており、この素晴らしい環境を柏崎全体の視野の中で活用してほしい。そうすることで綾子舞を支えてきた鵜川が、新たな元気を出せると思う。」、渡辺は「歌舞伎の源流として鵜川に伝わった綾子舞は、400年もの間、姿を変えずに来た。この事がまず不思議だ。綾子舞が伝わったのが、鵜川でなく他の場所だったらどうなっていただろうか。ただ単に鵜川に伝わったというだけでなく、鵜川に住んだ人たちが綾子舞の良さ、素晴らしさをきちんと理解していて、その芸能的な視野によって綾子舞を積極的に残したということではないか。鵜川の土地が文化の坩堝(るつぼ)、文化のたまり場的存在だった点が大きい。」と指摘。綾子舞ルネッサンス'91で基調講演の講師を務めた須藤武子も駆けつけ「綾子舞の持っている本質の一つに癒やしの力があり、綾子舞を演ずることで体が喜んだから、楽しかったから、これだけ長く、生き生きと伝わってきたのだと思う。綾子舞を体験する機会を広げ、多くの人に癒やしと楽しみを伝えてほしい。」と激励した。

「綾子舞」を守ろう-再び訴えるその危機感(「あやこまい」をまもろう-ふたたびうったえるそのききかん)
綾子舞画家として知られた猪俣龍彩子による特別寄稿で、柏新時報1992年1月1日号に掲載された。猪俣は元柏崎市立鵜川中学校長で、「…常に歴史の興亡と風雪の中に耐え、危機感の中に生き残ってきた。綾子舞が日本文化(古典歌舞伎)の源流をとどめ他多くの未知の謎の文化が秘められ、汚染することなく伝えられてきていることは正に驚異である。」「その芸能の逞しさとバイタリティーのパワーの出どころは、一体どこからなのであろう。この事はいつも庶民の生活の中に直結し生死を共にし、その文化を伝達し継承し愛してきたことに他ならない。」などと綾子舞を讃えたうえで、1991年に開催された「綾子舞ルネッサンス'91」の開催意義を振り返りながら「(記念講演講師の須藤武子の)胸中を察するに、現実の綾子舞が30年前の綾子舞に較べて意外に成長の姿がおそいことを感じ、一抹の不安と危機感を持ちながら、それを胸に秘めたように思える。」とし「綾子舞の特別研究の組織造り」「古態の伝承と継承の際の文化財の変形を防ぐ努力」「学校教育、公民館活動等での綾子舞振興の位置づけと学習活動の継承」などを提言、「何れにしても綾子舞振興の直接的、糧となる財源は行政サイドからの力の入れようが此の問題を左右し、これを上廻る市民サイドでの情熱を期待してやまない。」と結んでいる。

荒浜砂丘地(あらはまさきゅうち)
柏崎演劇研究会会長の小熊哲哉が脚本、柏崎に題材をとった演劇の一つ。1971年に初演。同年の全国青年大会で最優秀賞を受賞した。柏崎刈羽原発建設にあたり先祖代々の土地を売るか決めかねている品田一家を軸に、巨額の用地買収費に揺れる荒浜の人たちの葛藤や不安を描く。ジャーナリストでもあった小熊が現地で取材した「ありがたいことだ。この村に金が落ちるし、綺麗になるしな。」「(放射能は)そんなの、出てみなくちゃわからねえ。出ねえお化けにおそれては何もできねえ」「かりに五分五分だとしたら、賭けのようなものだ。俺たちは(放射能は)出ねえと思ってるんだ」といった生々しい台詞がちりばめられる。福島第一原発事故を受け2012年には同会代表の長井満が潤色、第18回柏崎演劇フェスティバルで再演した。

ありがとう鵜川スキー場(ありがとううかわすきーじょう)
1999年に閉鎖した柏崎市営鵜川スキー場の記念文集。柏崎市教育委員会体育課と鵜川観光協会が刊行。写真でつづる鵜川スキー場の今昔物語をはじめ、鵜川スキー場の歩み(年表)、鵜川スキー場の思い出(鵜川スキー場の思い出、市民スキー教室の思い出、市民スノーボード教室の思い出、市民スキー大会の思い出)、オープン以来の入場者数集計などを載せている。鵜川スキー場の思い出では鵜川観光協会や地元関係者、米峰スキー連盟関係者が思い出を綴っており、米峰スキー連盟の猪俣孝副会長は「滑るよりむずかしい鵜川スキー場のボーラーリフト」と題し「(スキー教室で)少し上達して頂上からの滑降ですが、ボーラーリフトで上に行くことが滑るより非常に大変でした。スキーの先が開いたり、腰がひけたり、腕が疲れて、誰が何回転げてリフトを止めたことやら…」と苦労談。

ある死刑囚の短歌と空穂-『遺愛集』が語りかけるもの(あるしけいしゅうのたんかとうつぼ-『いあいしゅう』がたりかけるもの)
窪田空穂記念館(長野県松本市)で2005年10月1日から11月27日まで開催された企画展。島秋人が晩年「師父」と仰いだ歌人・窪田空穂との自筆書簡を中心に、「秋人の生涯」、「空穂と秋人」、「秋人を支えた人々」、「人間の可能性」の4部構成で、遺品の万年筆や辞書、ノートなども展示された。柏崎関係では「たった一度ほめられたこと」で島の救いとなった吉田好道、短歌の道へ進むきっかけを作ったその妻絢子が「支えた人々」のなかに登場、交流を歌った「悔いに冴え眠りそびれしわれの眼にいたはる如く児童図画あり」「師の妻より賜ひし浴衣獄の夜に時をり覚めて触れては見入る」や獄中で描いたという「自画像」(独房の洗面所に張った水を鏡にして描いた)、「米山」の絵が紹介された。開催に協力した吉田夫妻の長女・岡村ひさ子(埼玉県在住)は「今回は窪田空穂と島秋人の書簡を中心に交流の様子を紹介するそうです。昨年、『遺愛集』が40年ぶりにカラー版になって再出版され、今なお読み継がれていることに驚きを感じています。」と感想を寄せた。関連行事として記念講演会「窪田空穂と島秋人」(講師・橋本喜典)、朗読劇「鬼灯-獄窓の歌人島秋人と女学生前坂和子の紙つぶて」が行われた。同展は大きな反響を呼び、会期の延長を望む声が多かったことから展示の一部を「空穂と秋人」コーナーとして2か月の延長展示、さらに初公開書簡が多く「じっくりと手紙の内容を読みたい」との要望があり翌2006年に企画展記録集を刊行した。同館ではこの後も「いのちのうた-晩年の空穂と獄窓の歌人・島秋人」(2012年)、「いのち愛しむ-獄窓の歌人 島秋人」(2018年)が開催されている。

アルフォーレ(あるふぉーれ)
中越沖地震(2007年)の復興の象徴として2012年柏崎市日石町に完成開館した文化会館。愛称「アルフォーレ」はフランス語のart(アール:芸術)とforet(フォレ:森)を組み合わせた「芸術の森」を意味する造語。大ホールは客席数1102席(1階721、2階381)で、スタインウェイD274、ヤマハCFXの2台のフルコンサートグランドピアノを購入し、開館に向け市内のピアノ教室の教師らによる弾き込みボランティアが活躍した。スタインウェイ選定にあたってはパートナーシップ・アーティスト池辺晋一朗(作曲家)の依頼でピアニストの木村かをりが協力した。同年7月8日に開館、こけら落としで国指定重要無形民俗文化財綾子舞、太鼓芸能集団鼓童の公演が行われ、7月12日の「池辺晋一郎音楽の不思議」でピアノ開き。開館記念事業として9月30日NHK交響楽団演奏会、11月11日松竹大歌舞伎などが開催された。「音の良いホール」として知られ、名器ストラディバリウスを携え来演したヴァイオリニストの天満敦子は「とても素晴らしいホールで、東京に持って帰りたいほど」(2012年)とコメント。ピアニストのクリスチャン・ツィメルマンも「世界で3本の指に入るホール」(2015年)と激賞し、CD「シューベルト:ピアノ・ソナタ第20番・第21番」の録音(2016、第55回レコード・アカデミー賞器楽曲部門受賞)も行われ、話題となった。

二龍山(あるろんしゃん)
深田信四郎・信夫妻共著。1970年刊。旧満州で体験した筆舌に尽くしがたい敗戦、流浪体験を、第1部終戦日記(信四郎)、第2部流氓の歌(信)、第3部祖国なき民(信四郎)で構成、付記として「団員誘致のチラシ」を再録している。刊行から5年後の1975年、『暮しの手帖』2世紀第37号に30頁にわたって転載され、編集者S(大橋鎭子)は「じつをいうと、私たちは、この本の全部を、暮しの手帖に、そのままのせたいとおもいました。それくらい、この一冊の本は、私たちをたたきのめしたのです。こんどの戦争の末期、東京にいて、焼夷弾の火の海をおよいだ者も、私たちの仲間に何人かいます。この本をまわし読みしたその者たちが、深いため息をついて、これにくらべたら、自分たちのあの苦労はものの数でなかった、とさえ言うのでした…」と印象的な後記を残している。さらに『デルタの記』(1995年)にも再録、大橋鎭子は「あとがき」で花森安治編集長の言葉「これを編集部のみんなに読ませなさい。戦争の恐しさは、戦場に居た者でないとわかるものではない。しかし、これを読めば、君たちにも、その恐しさと不幸がわかる…」を紹介している。柏崎演劇研究会が「いくさあらすな」として朗読劇化し、1998年の初演以来市内外で上演された。

二龍山開拓団慰霊碑(あるろんしゃんかいたくだんいれいひ)
二龍山開拓団関係者と縁深い三条市の法華宗総本山・本成寺本堂北側墓地内に1974年建立。揮毫は柏崎市出身で元二龍山在満国民学校校長の深田信四郎で、裏面には「荒野を拓き楽土を築こうと昭和十六年から五ヶ年間元満州国二龍山地区に入植し一意鍬をふるった九十四世帯三百十五人は祖国敗戦の為その半数の人命を失いその素志は崩れてしまった。茲に左記団員の協力で建碑し開拓の大業に殉ぜられた親子兄妹同僚の霊安かれと祈るものである。昭和四十九年除幕 深田信四郎按文並書」とあり、団員の名前が刻まれる。副碑として建立された深田信の歌碑は別項。

淡島大門(あわしまだいもん)
柏崎市中浜1の旧北国街道(県道柏崎港線)から淡島神社(柏崎市緑町)へ下る坂。同神社は安産、技芸向上の信仰で知られ、坂の中間付近(二ツ井戸前)に大洲地区振興会が2023年に設置した案内板によれば「当時、淡島神社では毎月3日にお祭りが催され、淡島大門には約50本の赤いのぼりがあがっていました。」というが、現在は信越本線で分断されたため往時の面影はない。「以前、剣野踏切の他に淡島神社前にも踏切と鍵の手の細道がありました。この踏切は1969年(昭和44年)の信越本線複線工事の際に廃止され行き来ができなくなり現在に至ります。」とも。1868年閏4月3日夜に起きた「淡島大門の暗殺事件」の現場でもあり、桑名藩主・松平定敬を追って柏崎に入った家老・吉村権左衛門が定敬小姓の山脇正勝と高木貞作に斬られ、この場で落命した。地元には「二ツ井戸で刀を洗った」とも伝わる。

淡島大門の暗殺事件(あわしまだいもんのあんさつじけん)
1868年閏(うるう)4月3日夜に淡島大門の二ツ井戸付近(柏崎市大久保2、大洲小学校近く)で起きた暗殺事件。桑名藩主・松平定敬を追って柏崎に入った家老・吉村権左衛門が定敬小姓の山脇正勝と高木貞作に斬られ、この場で落命した。『官軍北国日誌』によれば、「抜き打ちに吉村の右の肩から胸板まで切り込み、吉村も一尺ほど刀を抜いたがさらに左肩から胸板まで斬られ倒れた」(意訳)とあり、地元には「二ツ井戸で刀を洗った」とも伝わる。立見尚文らの強行佐幕派が柏崎入りしたこともあり、藩論は一気に抗戦に変わり、鯨波戦争へと向かうことになった。吉村暗殺の背景について『柏崎市史』(下巻)は「柏崎に滞在する桑名藩主松平定敬が抗戦の決意を固めたのは閏4月初旬であるが、それは会津藩の硬化と密接な関係があった。しかし、在柏の藩士は恭順派が圧倒的多数を占め、なお藩主の謹慎を要求していた。そこで定敬は在柏恭順派を強行突破するため、その首魁吉村権左衛門を葬るという非常手段に訴えた。」と断定している。実行犯の2人は直後に会津に向け逃亡、旧幕府軍の衝鋒隊にまぎれ会津に入国し、会津戦争後は箱館新選組として戦い、降伏後、「(桑名)藩庁は他聞を憚り渡米させ、滞米10年の後京浜実業界で活躍した」(柏崎市史)とある。山脇は三菱に入り長崎造船所初代所長を務めた。高木は、商法講習所(現在の一橋大学)設立に携わり、商業簿記の助教授に就任、銀行家としても活躍したことなどが知られている。

あわ雪の中に顕ちたる三千大千世界またその中に沫雪ぞ降る(あわゆきのなかにたちたるみちおほちまたそのなかにあわゆきぞふる)
良寛の代表作。「広大無辺な宇宙をみ仏の慈悲の深さと見、それに恵まれている自分達の存在の不思議さを詠ったもの」(出雲崎の良寛史跡めぐり、出雲崎町良寛景慕会刊)で、良寛の仏教的な世界観を表しているとされる。三千大千世界(みちおほち)は良寛の造語。日本芸術院会員の村上三島の揮毫による歌碑が良寛と夕日の丘公園(出雲崎町米田)に建立されている。歌碑除幕式(1992年3月16日)には村上三島本人が出席し「誠心誠意書かせてもらった。若いころから良寛さんを慕ってきただけにこんなにうれしいことはない。良寛さんのような生き方が出来たら、書が書けたらと思い念じながらこれからも精進したい。」と述べた。良寛真蹟が不明のため「小学生にも読める書体で…」との依頼を受けた村上は「あわゆきのなかにたちたるみちおほちまたそのなかにあわゆきぞふる」と全文ひらがなで揮毫。その後の村上は「読める書」を提唱し読売書法展で調和体部門を新設(1995)する推進役となるなど、村上にとってもターニングポイントとなった。村上は後に「新潟県出雲崎にある『良寛歌碑』は、読売書法展調和体部門創設のきっかけになった碑です。『小学生にも読めるように書いてください』と依頼され、すべてひらがなで書きましたが、これによって私は『読める書』の楽しさや芸術性を再認識したのです。」(村上三島の書碑、巻頭の言葉)で振り返っている。村上原本は良寛記念館が所蔵し、特別展などで展示。2022年には、「あわ雪の…」をキーセンテンスとした『外は、良寛。』(松岡正剛)を田中泯が良寛役となって舞台化、話題を集めた。

あん(あん)
ドリアン助川原作の同名小説を河瀬直美監督が2015年に映画化。どら焼きの店「どら春」で粒あん作りを任された元ハンセン病患者の女性が、周囲の偏見にさらされながらも精一杯生きようとする姿を四季の風景と共に綴った感動作で、樹木希林、永瀬正敏、内田伽羅、市原悦子らが出演。差別と強制隔離の歴史も織り込み、河瀬監督の映像美と元患者・徳江役の樹木希林の演技が高く評価された。柏崎市の姉妹都市である東京都東村山市でロケ(国立療養所多磨全生園、久米川駅南口の桜並木、空堀川周辺他)が行われたことでも話題となり、西中通コミュニティセンターなどで上映会が行われている。

【い】
遺愛集(いあいしゅう)
「死刑囚歌人」「獄窓歌人」と呼ばれた島秋人の歌集で、刑死から1か月後の1967年12月に関係者の協力で刊行された。島秋人自選の640首に加え、短歌の師である窪田空穂、旧師の吉田好道・絢子夫妻、『いあいしゅう』を名付けた前坂和子等に宛てた書簡、被害者へのお詫び(刑死を受け吉田絢子に託された)などを掲載、「香積寺の地蔵」(中学生の頃、絵をかいてほめられたという地蔵さま)、「かれが通った中学校」、「番神堂」(この境内でよく遊んだ)など柏崎関係の写真も紹介される。初版の帯には映画監督の大島渚が「私は長い間、死刑への疑問を抱きつづけて来たが、死刑囚歌人島秋人氏の歌に触れたことは、私に死刑制度反対の確信をいよいよ強くさせてくれた。その島秋人氏は、私が死刑廃止を訴える映画『絞死刑』の脚本を書き上げた日に人知れず処刑されてしまった。今私は尽きることのない怒りと悲しみの中で、この歌集が一人でも多くの人に読まれることを祈るのみである。」とメッセージを寄せた。その本質、魅力について窪田空穂は「秋人の短歌は、表現技法としては巧みだとは云えず、時には未熟に過ぎるものがある。しかしその現わそうとしているのはことごとく実感で、胸打つものが多い。(略)彼のごとく生命の深所に触れ得た作は他には見られないと云える。」(大法輪1962年8月号)とし、一人芝居「アキト」の脚本、演出を担当した海原卓は「なぜ、魅力的なのか。彼の歌や手紙に心がひかれるのは、心の動きを正直に自在に表現しているからではないか。それは人間の本質にかかわり、普通一般者であれば、表現に躊躇することであっても、彼には、それは何の障害にもならなかった特異さにある。それに、彼の天性の文学性にあることは間違いない。」(死刑囚島秋人-獄窓の歌人の生と死)と指摘している。2004年には愛蔵版として改訂、島秋人が獄中で描いた米山の絵(「ふるさとの番神岬の浜にゐて日昏れひもじく聴きし鐘恋ふ」の裏書きあり)や自画像も掲載された。

飯塚邸・昭和天皇の御散歩道めぐり(いいづかてい・しょうわてんのうのおさんぽみちめぐり)
2012年10月に柏崎市新道の飯塚邸周辺で開催された高田コミュニティ振興協議会主催の歴史散策。飯塚邸は中越沖地震(2007年)で大きな被害を受けたが復旧工事が完成、再オープンに当り1947年10月の行幸(戦災復興状況御視察)で昭和天皇が歩かれた御散歩道の発信を強化していくことになり、このPRイベント第一弾。ボランティアガイドの本格始動ともなり、御散歩道めぐりでは「(お忍びのため)飯塚邸の正門でなく、裏門から出発し、モーニング姿の飯塚家の当主・知信氏がご案内し、緊張のあまり(現在の)柿組合前で道を間違えた。昭和天皇は植物に造詣が深く、たびたび専門的なことをお尋ねになり、お付きの人達をヒヤヒヤさせた。」「礼宝山の中程で、キノコとりの村娘と偶然出会い、籠の中身を尋ねられた。それまで、天皇というのは神格であり、直接に言葉を交わすなどというのはあり得ないことだった。この場面の写真が同行した記者団によって配信され、1946年の『人間宣言』を世間に知らしめる有名な場面となった。村娘たちが(ご一行をやり過ごすために道から逸れたため)昭和天皇より高い位置にあり、この姿も賛否両論あった。」などのエピソードを聞きながら経路を歩き、飯塚邸到着後は、行幸メニューを再現した「みゆき弁当」や「郷土雑煮」を堪能した。

言成地蔵(いいなりじぞう)
柏崎市橋場に伝わる民話を題材にふしなり座が2013年に行った演劇公演で、詩人の牧岡孝が1953年に書いた脚本を槇原小学校教諭の山之内朋子が加筆、酔った庄屋の鯖石川転落事件を通し人間の内面をコミカルに描いた。小林知明演出。ふしなり座団員に加え、村の子ども役で槇原小6年生全員(39人)が卒業記念で出演し、話題となった。ふしなり座は西中通コミセン創立30周年記念演劇「夢舞台西中通ものがたり」(2008年)のメンバーが地域劇団として独立、記念演劇を機に栽培が復活した節成きゅうりの名を冠し、地域の題材に取材した演劇活動を続けている。

家近の道祖神(いえちかのどうそじん)
柏崎市伝説集(柏崎市教育委員会、1972年)では「北条の家近と泉の境に、昔からあらたかな道祖神がある。(略)なかなか粋な神さんで、縁結びもなさるので一層信心する者が多くなった。」として、小島のある家の話を紹介する。「せがれが30を過ぎたが嫁がない。そこで女親が人知れず願をかけて通った。ところがある夜、その母さんに夢知らせがあった。品の良い老人が夢枕に立って、『お前の家の嫁は、東の方の山の、山合の村にいる』とのお告げがあった。いろいろ考えて見ると八石山の山陰の小村に菅沼という村がある。どうもそこらしいと思って行って見た。嫁さんになる年ころの娘のいる家を聞いて訪ねたところ、そこの家の母さんも同じ夢を見たもので、小島あたりに娘が嫁に行く家があるらしいと心待ちしていたところだったとのことで、縁談はすぐ決まったとのことである。」とめでたし、めでたし。この道祖神は耳の病、眼の病の人からも信心があったという。家近集落センターから約150メートルほど東に進んだ路傍に現存、肩組祝言の双体道祖神で『柏崎の道祖神』(1993年、柏崎市立博物館)は「男女神の間に隠刻あり」と指摘。

いくさあらすな(いくさあらすな)
柏崎演劇研究会の朗読劇。深田信四郎・信夫妻の「二龍山」を原作に、演劇研究会代表の長井満が脚色、演出。1998年の第4回柏崎演劇フェスティバルで初演。深田信四郎の「いくさあらすな」(戦争をこの世に存在させてはならない)との思いを小学生3人を含め10人で演じ、大きな反響を呼んだ。新国立劇場(1999年、第37回全国アマチュア演劇大会)、新潟県民会館(2003年、新潟県民文化祭)など市内外で15公演が行われ、1998年の満州柏崎村の塔碑前祭でも公演が行われた。

石井神社ものがたり(いしいじんじゃものがたり)
創建1300年を迎えた柏崎市西本町2の式内社・石井神社の特集記事。1300年祭奉賛会が協力し、柏新時報2005年1月1日号に掲載された。「705年初代越後城司・威奈真人大村(いなのまひとおおむら)が赴任にあたって、摂津国(今の大阪府)住吉大明神の神様をお迎えして創建した。」「創建当時には鵜川、鯖石両川の水門口にあったとされる石井神社は、789年に『強震』があって社地が陥没し、翌790年『石井の岡』に遷宮した。」「夏と年越しの大祓は伝統神事の『輪くぐり』と称して人々に親しまれている。この『輪くぐり』は実は起源が古く、778年に勅命によって『大祓』を行って以来のものと言われている。」といった歴史を紹介すると共に、坂上田村麻呂、藤原前久、足利義輝、上杉謙信、上杉景勝、松平容保、松平定敬など崇敬の歴史についてもふれている。また新潟県内初のテレビ放送公開受信(1954年)について「昭和に入り、市民の思い出に残っているのは県内初のテレビ放送公開受信が、石井神社の境内で行われたということだ。まだ弥彦山のテレビ塔が無かった当時の話で、力道山の空手チョップを一目見ようと、境内が観客で埋まり、力道山の奮戦ぶりに沸いた。」との様子を黒山の人だかりの写真とともに紹介。なお、奉賛会記念事業として社殿の改修と増築、社務所の増改築、参道・玉垣の改修、境内地の整備などを行っている。

出雲の阿国 (いずものおくに)
豊田市能楽堂(愛知県豊田市)で2007年に開催された「能楽堂で見る日本の伝統芸能シリーズ」の第16回公演企画で、綾子舞下野座元が出演した。「阿国残影-絵画資料に見る、阿国とその時代」「狂言と古歌舞伎踊-現存の芸能から、阿国の芸態を探る」「阿国再見-歌舞伎草子による・再現の試み」の3部構成で、綾子舞のルーツで歌舞伎の始祖といわれる出雲の阿国の踊りとその背景を探った。また阿国の愛人と言われた名古屋山三にもスポットをあてた。下野座元は「狂言と古歌舞伎踊」で小原木踊、「阿国再見」で常陸踊を披露した。競演は徳山古典芸能保存会(ヒーヤイ踊)、狂言共同社ほか。下野座元は座頭の関一重、長老の布施富治をはじめ15人で、中越沖地震後初の県外公演として注目された。同行した柏崎市綾子舞保存振興会の茂田井信彦事務局長は「バスで片道6時間という出張公演となった。観客が前屈みになるほど舞台を集中して見ていただいた。素晴らしい舞台だった。中越沖地震に対する激励も頂き、晴れ晴れとした気持で帰途に着きました。」とコメント。

板本次雄作品集(いたもとつぎおさくひんしゅう)
「高柳を愛した画家」板本次雄の作品178点を収録した画集。2014年刊。福岡県出身の板本は光風会洋画研究所で小磯良平に師事。スペイン留学から帰国後の1992年、制作環境を求め高柳町坪野に夫婦で移住し、地域の人たちとの交流を深めながら精力的に制作を続けたが2007年死去。ギャラリー十三代目長兵衛での遺作展を機に、直子夫人が遺作を体系的に整理し、作品集を編集、刊行した。「東京・家族と絵と」「スペイン・絵が描きたい」「高柳・自然と暮らして描く」の3部構成で、高柳時代の作品として「納屋の片隅」「新潟の米袋」「西照寺門」「岡野町商店街」「栃ヶ原からの黒姫山」「ぶな林(磯之辺)」「荻ノ島周辺」「山中の田植頃」など36点を載せている。直子夫人は「板本と私がマドリードの研究所で知り合って以来、東京・新潟(高柳)で人と自然に触れながら共に絵を描いて暮らしてきました。その出会いはそれまでの各々の人生とは全く異なった仕方で『絵を考え描く暮らし』がそこにはあり、20年間でしたが絵描きとして望んで挑んで築いた生き方でした。その舞台が高柳だったのではと思っています。」と述べている。

稲の花(いねのはな)
寿々木米若が1969年に刊行した句文集で「佐渡情話」レコーディング(1931年発売)の舞台裏について、柏崎の伝説(お弁藤吉ものがたり)を参考にしたことを自身の文章で振り返っていて興味深い。きっかけは所属していたビクターレコード演芸部長から「米若さん、おけさ節の入った浪曲をやってくれませんか」と持ちかけられたことだったという。当時は小唄勝太郎によるおけさ節が流行しており「いいですよ、おけさは私の国の民謡ですからそんなものは朝飯前ですよ」と安請け合いしたものの悩みに悩み、結局「子供の頃、伝説に柏崎の漁師が佐渡の小木沖合いに難船して助けられ、島の娘と恋に落ち、娘は夜な夜な盥舟で柏崎に通って来る。あまりに頻繁に来るので男がこわくなり荒神様の常夜燈を消した。娘は方向を見失ない遂に海の藻屑となった。娘は男の身体に蛇体となってからみ付き男を絞め殺した。と、いう伝説を思い出してそれをモットーにして筋書を綴ってみた。」という。レコーディング当日、米若が完成させていたのは前編のみで、後編については「『では皆さん、一時間ばかり休息して居て下さい。その間に考えましょう』と、曲師も事務員も次の部屋で休んで貰って、私は吹込み室に一人で後編の構想を練った。そしてお光を発狂させたり、ついには日蓮上人をも出してみた。さまざまのことを綴って二枚分を作ったので、早速レコードに吹込みをしたのである。」というから米若の異才ぶりが光る。米若が言う「娘は男の身体に蛇体となってからみ付き…」については、「お弁藤吉ものがたり」の様々なバージョンを探しても見つからない。静岡県熱海市初島の「海を通う女」(別項)は海辺に打ち上げられた女を「身体中鱗が生えていて恐ろしい蛇体であった。」としているが、どうやらこちらのイメージに近い。米若が経営した伊東市の温泉旅館「よねわか荘」は熱海、初島にほど近く、両伝説がミックスされたものか。

伊能忠敬と鉢崎事件(いのうただたかとはっさきじけん)
幕府御用で日本全国を測量し「大日本沿海輿地全図」を作り上げた伊能忠敬が高田藩預かり鉢崎関所(現在の柏崎市米山町)を通過した際に起きた関所役人とのトラブル。伊能忠敬の第3次測量は1802年、57歳の時。江戸を出発し132日間で奥州街道、陸羽街道、日本海海岸を測量した。事件が起こったのは10月2日、測量日記(第五巻)には「通行之節、長持改之事あり。測量察当 (さっとう、人の行為を咎め、非難すること)の事あり。」と簡潔に両トラブルを記しているが、同日記巻末には「越後国鉢崎御関所之事」と題し憤懣を記録した長文を付している。伊能忠敬一行は、方位盤や象限儀、子午線儀、観星鏡、渾天儀などの多くの観測機器を格納した御用長持とともに移動したが、この長持を関所側が荷改めしようとしたため第1のトラブルが起きた。忠敬は関所側に「蓋を開けて改める決まりというが、それは家中、百姓町人のこと。測量御用長持については道中奉行、勘定奉行から先立ってお触れが出ているはずで、勘定所から各領主に通達も出ている。(最も厳しいとされる)箱根などの関所でもそういった指示はなかった。この関所だけ荷改めがあるとのは心得違いではないか」と抗議し、関所側も「(形式上)長持の錠にカギは通すが蓋は開けない」で譲歩。第2のトラブルは忠敬らが関所上の山(聖が鼻のことか)で測量を行っている際、関所下役人に平服無刀で呼び止められ「関所前を連絡もなく測量するとは不埒である」と咎められた。忠敬は先ほどと同様に「道中奉行、勘定奉行から測量御用のお触れが出ており、勘定所から各領主に通達も出ている。御料、私領、関所などこれまで何の支障もなく通行してきた。関所ということで器具を使わず歩測で測量していたのだ。」さらに「測量は御料、私領、寺社領の区別なくやっており、国県郡村にいちいち断っていては測量御用は成り立たない。当地の領主から連絡を受けるのが筋ではないか。」と主張、関所下役人は「不呑込」のようだったが「了解できなければ宿(十兵衛宅)に来るように」と言い残した忠敬一行に連絡はなかった。モヤモヤが解消されなかったのは忠敬も同様で、10月4日鉢崎関所を預かる高田城下に着いた際、町役人に鉢崎での一件を伝え「鉢崎関所の法式というのは、両奉行がすでにお触れを出している長持の蓋をわざわざ開いて改めるのか、また他の関所と違い(すでに通達がでているはずなのに)事前通告しなければ測量できないのか。また測量御用の者を(本来は羽織袴、刀を付けなくてはならないはずだが)平服無刀で咎めるという無礼があってもいいのか」と非難、さらにこれから通過する関川関所について「関川関所で支障が起きなければ内々にしてもよい。(鉢崎関所と同様に)トラブルが発生したならば公儀へ連絡する」と主張。厳しい口調に忠敬なりの矜持を感じさせる。通達ミス、測量への理解不足が主因だが、第4次測量の糸魚川ではさらに領主(松平日向守)を巻き込んだ「糸魚川事件」を起こすことになる。柏崎編年史は「忠敬一行は『幕府御用』を鼻にかけ、加えて各藩はその意図を事前に理解しなかったため衝突事件をおこした。それが鉢崎事件と糸魚川事件である。鉢崎事件は享和2年10月2日、伊能等が無断で関所の前を歩測した事を役人が咎め、伊能等は関所だから歩測で遠慮したのだと口論している。口論の根底には前日関所を通行した際、測量機器の検分を拒否したことがあった。伊能等の心底には神武創業以来の壮挙をなしとげるという自負心があり、慣例軽視の態度があったのである。」と指摘している。

今ぞ仰ぐわれらの陛下(いまぞあおぐわれらのへいか)
昭和天皇の御巡幸(戦災復興状況御視察)を伝える柏新時報1947年10月11日号のトップ記事。写真「御召列車上の天皇陛下(柏崎駅頭にて岡島利夫記者撮影)」と共に「駅頭に沸く歓呼の嵐」を伝え、関連記事として「暮色迫る大グラウンドに轟く万歳の唱和」「国立療養所の陛下 お慈しみの眼で患者をベットに御慰問」「気軽に『雨はやみましたね』注意深くタンクを御覧」「ゴム長、コーモリ傘の陛下 秋の山野をお歩き御興深く『美しいね』」「巡幸いろいろ」「七時に御起床 邸内を御散歩」「『質実な県民性を生かして…』陛下記者団にお答へ」「陛下の御食事 郷土風味ゆたかな献立」「天覧に輝く時計旋盤」などを掲載。「御巡幸奉迎記念」広告も。社説「御巡幸の御労苦におむくいするものは」は「しかして、越路の原野に国民のシンボルとしての親愛なる人間天皇を中心とした平和日本再建の縮図がうるはしく、気高かき雰囲気の中に如実に描き出されたのである。」と大時代的だが当時の空気をよく表している。礼宝山散策(10月11日)についても「植物学に深い研究を続けられている人間天皇の休養の日の一と時は楽しそうだ。」「宮内省記者がすべってころべば音を立てられて笑うたび正に人間天皇振りをことごとく発揮され1里余の山道をお疲の色もなくただただ愉快そうに11時50分御宿舎に入られた。」と紹介している。同日付紙面には「野田で配給品横領ばれる」「頻々(ひんぴん)タバコ密栽培 当局取締に大童」などの記事もあり当時の世相を反映。なお巡幸目前の9月27日号で「天皇陛下御巡幸 秋色濃き柏崎地方の御視察順路内定」、10月4日号で「天皇陛下越路御巡幸をお待ち申上げて」と各特集を組んでいる。「天皇陛下越路御巡幸をお待ち申上げて」「天覧郷土の特産品」は別項。

いまなぜ綾子舞か(いまなぜあやこまいか)
2003年9月14日に「綾子舞伝承500年祭-阿国歌舞伎から400年」関連行事として民俗芸能学会主催で開催されたシンポジウム、会場は柏崎市市民会館。民俗芸能学会の山路興造代表理事の基調報告「綾子舞の文化財的価値とやゝこ踊り」に続いて、シンポジウムに移り早稲田大学名誉教授の鳥越文蔵がコーディネーターとなり、綾子舞保存振興会前事務局長の伊東勉、本田安次の弟子で日本民俗舞踊研究会代表の須藤武子、名古屋大学教授の林和則、早稲田大学助教授の和田修が意見交換を行った。引き続いて綾子舞、綾子舞との類似点が指摘される徳山の盆踊(ヒーヤイ踊り、静岡県中川根町)、根知山寺の延年(新潟県糸魚川市)の公演が行われた。基調講演で山路は「専門の芸能集団が鵜川、女谷の地で雪に一冬閉じこめられ、村人達に体系的に教えたのではないか。さらに想像を逞しくするならば、かぶき踊りを始めたお国一座は天正13年(1585)8月に駿府城の徳川家康の前で興行した後、翌年の6月までぷっつり足どりが消えている。お国一座そのものが上杉氏など当地の有力者に招かれ越後に来て、雪の鵜川に閉じ込められ芸能を伝えたと考えるのはどうか」などとしたうえで「綾子舞が芸能史的に見て貴重なのは、長い間、芸態を崩さず、きちっとした形で伝えてきた点だ。無形文化財は、ちょっと油断すると形が変わり、伝わらなくなる。地元の皆さんからもこのことを理解していただき、ぜひとも市民あげて応援してほしい」と強調した。翌15日は柏崎市女谷の綾子舞会館前芝生広場で奉納神楽舞、アジア民族舞踊交流会、綾子舞椿植樹式、綾子舞着付け実演、綾子舞現地公開が行われた。500年祭が開催された2003年は綾子舞の海外初公演としての米国シアトル公演、天皇皇后両陛下綾子舞御覧があり、綾子舞ブームが到来した。

芋と人生(いもとじんせい)
川口農場(柏崎市松波1)の創業者・川口久米吉による甘藷栽培の実践記録。1944年刊。川口は「程近き荒浜村に、約10町歩の開墾地あるに着目し、此の地を借り受け、該地に移住して、稲作を主体とし、甘藷栽培を取入れた農業経営を始めました。時は、昭和11年、私は37歳でありました。」(はしがきに代へて)としており、戦時下「荒漠たる海岸の砂丘地」において数々の苦難や不幸を乗り越えながら「食糧不足は甘藷以外に解決するものがない」として甘藷の研究に没頭した成果を一冊にまとめた。画家で友人の室星董道が装幀を担当、その師である浜田広介がお祝いの揮毫を寄せている。浜田の室星宛書簡「わが家井戸ばたに、どしんとばかり物凄い音がしました。(略)それが即ち荒浜お出しのものであります。即ちお芋は安着のわけであります。」(1944年12月3日)の背景か。室星は「芋を語る川口君」(序文)のなかで「いも先生の尊称」を紹介、「甘藷苗50万を育苗し、水田1町2反歩を耕作し、甘藷畠6反歩を小家族で作りあげてゐる。その上公私の増産講習会の講師として、県下県外に行脚してをるのである。私は長い間彼を敬愛する友人の一人として見つめて来た誇りを、今は沁々と感ぜずにはをられないのである。」と敬意を表している。

【う】
上杉謙信時代の道祖神(うえすぎけんしんじだいのどうそじん)
柏崎市安田(明神)慶福寺前の坂にある自然石の道祖神で、上杉謙信時代の伝説がある。「以前は坂の上にあったが、峠道改修に伴い現在地に移した」という。『柏崎市伝説集』(柏崎市教育委員会、1972年)には「昔、上杉謙信がこの辺を支配していたころ、突然戦争が起り上杉軍は昼夜をついで戦場に急行した。余りの強行軍に疲れ果てて倒れた者も多く出たが、急を要するために倒れた者はそのまま置き去りにされた。甚右衛門もその一人であり、疲労もしていたが彼の足の裏は一つの大きな水ぶくれとなり、とうてい歩くことが出来なかった。(略)どうしても皆とともに行きたくて、腰をかけていた石に泣きくずれて頼んだ。『もしお前が私の足を本日中になおしてくれるなら、お前を道祖神として厚く祭ろう』というや否やその石は武士の願いを知ってか、知らずか、うなり、すぐ様にぐらぐらと揺れたのである。すると不思議や足はみるみる全快して体中にもりもりと元気がわいてきたではないか。そこでこの石を小さな社を建てて祭った」(明神の道祖神)とあり、足腰の病に効験がある他、耳の病の神としても信仰されてきた。左側には端正な顔立ちの双体道祖神(1937年造立)がある。

上杉謙信に背いた北条の殿さま(うえすぎけんしんにそむいたきたじょうのとのさま)
関久著『越後毛利の殿さま』の中の「北条の殿さま」(2)の一章。越後毛利研究家として知られる関だが、ここでは地元人の視点も生かしながら分かりやすく謀反の理由を説明する。「北条の城主毛利丹後守高広の名をして、世間に有名ならしめているのは、どうも上杉謙信に背いた一点にあるようだ。困ったものだ。」としたうえで、武田信玄が甘利昌忠を遣わすとした密書(1554年12月5日、高広宛)を紹介、「到底、勝算のない、無謀な行動」の理由を分析してみせる。「鹿島・十日市の神社に納めた棟札にみられるように、高広には大江広元の流れをくむ越後屈指の名門だという自負があった。それに比べて上杉謙信は、所詮は成上り者の長尾為景の子でしかない。という見下げた気持があったのかも知れない。また、上洛の費用を捻出するために段銭をかけ、国人衆を苦しめた。しかも川中島の合戦を早々に切り上げての京への旅立、これも理解に苦しむ。」とし「そんな状況の中で、安田景元と北条高広の不和があったのかも知れない。景元は謙信の父為景の台頭とともに、この地に地盤を築き、府中長尾の信望を得ている。これに高広が遅れをとり、先刻の川中島の合戦で不満が表面化したのか。」「高広の謀反は、突如として起ったのでなく、北条毛利に精通した人物がいて、甘利昌忠の手先となって北条に手引きしたのではないか。筆者が関心をもっている人物は、武田の軍師山本勘助だ。」などと推理している。「高広が筆者の地元の殿さまだということで、高広を弁護する気持がまったくないとは言わないが、このことで彼を軽卒とか、ひきょう者とするのは、酷であろう。」との筆致は地元人ならでは。

ウェルカム柏崎ライフ応援ゲーム(うぇるかむかしわざきらいふおうえんげーむ)
柏崎へのU・Iターンを促進するボードゲームで、柏崎市役所の若手職員によるプロジェクトチームが「ゲームを通じて若者のU・Iターンのきっかけを…」と知恵を絞りながら制作した。プロジェクトチーム全員がU・Iターン経験者というのも特徴。試作段階では新潟工科大学や新潟産業大学、新潟病院附属看護学校の学生も参加し「就職活動の際、どのような内容であれば柏崎に来たいと思うか」という視点も盛り込んだという。ゲームを進めながら柏崎での「住まい」「仕事」「家族」「食」「娯楽」をシミュレーションし、「住まい」では「海に沈む夕日が見える我が家」「駅チカ物件もいいけど、職場の近くで趣味や子育ての時間を作りやすい希望物件もたくさん」「夏でも冷たい水道水」など、「仕事」では「通勤ラッシュとは無縁のマイカー楽々通勤」、「家族」では「柏崎市では(保育園、幼稚園の)待機児童ゼロ人」を強くPRし、「創業資金支援でお店をオープンすることも」「思い切って農業をやろう」などの提案も。イベントカードは「えんま市」「綾子舞現地公開」「海の大花火大会」「空き家バンク」「水球」「ガルルスキー場」「大盛りラーメン」「鯛茶漬け」などで柏崎の魅力を発信する多彩な内容となっている。柏崎市HPでダウンロード可。「スーパー柏崎クイズ」「難読地名クイズ」については別項。

鵜川スキー場(うかわすきーじょう)
柏崎市女谷の通称「天狗松」と呼ばれる山地南面約6万平方メートルを整備、1969年には市営スキー場としてオープンした。運営管理の受け皿として鵜川地区全戸が加入して鵜川観光協会が発足、地区あげて盛り上げにあたった。ファミリーゲレンデ2コース、15メートル級小型ジャンプ台、ボーラーリフト(ロープリフト)1基、スキーハウスを備え、ゲレンデスロープが緩やかで、中心市街地から15キロほどという位置にあったことから子どもたちを中心とした家族向け、初・中級者向けファミリースキー場として親しまれたが、施設の老朽化や利用者の減少により1999年に閉鎖した。最盛期の利用は年間約8000人。市民スキー大会や市民スキー・スノーボード教室、バッジテストの会場としても使われ、30年間の利用者は18万人に達した。またラーメンやカレーなどの食堂メニューも人気で、スキー場開きでは「狸汁」を振る舞った。1999年3月7日に開催された感謝祭「スノーフェスティバルin鵜川」ではスラローム大会やミニジャンプ競技に加え多彩な雪上イベントも行われ、名物のラーメンやカレーを特別料金で提供し、別れを惜しんだ。大規模総合型スキー場として兜巾山法玄地区での建設計画があったが、地権者の同意が得られなかったことなどから見送りとなった。

鵜川の話(うかわのはなし)
柏崎市折居餅粮出身の郷土史研究家・高橋義宗著、鵜川郷土歴史研究会編集。1986年刊。鵜川に在住時代の髙橋は森林組合に勤務しながら郷土史研究に取り組み、1966年に群馬県桐生市に移住後も研究を継続し、資料収集のためたびたび帰郷していた。創立30周年を迎えた首都圏鵜川会(鵜川出身者の集まり)がその記念事業として高橋に原稿執筆を依頼、同会内に設置された鵜川郷土歴史研究会が刊行をバックアップした。柏新時報は「生れ故郷を思う人々の総力が結集されての見事な出版」と伝えている。続編にあたる『鵜川の話Ⅱ』も高橋義宗著、鵜川郷土歴史研究会編集で1995年に刊行されている。総頁数は『鵜川の話』が407頁、『鵜川の話Ⅱ』が463頁。構成は次の通り。▽『鵜川の話』=集落名と屋号、四方の山の神仏、住まいの建造物、里の黎明期、天然自然の造形物、鵜川、天領、社寺址、峠道、遺跡、開拓、鵜川神社と黒姫神社、黒姫山、葬礼場、橇と木出し、石造りの神仏、炭焼き、竹細工▽『鵜川の話Ⅱ』=鵜川村の地勢と風土、開拓、村作りと移民の受入れ、越後騒動、村の歴史と屋号の由来、氏姓と名字、茅葺の家、三本の大杉、出稼ぎ、昔話、地名を訪ねて、太夫舞(神楽)、地芝居、鵜川の言葉、花火の話、冬の歳時記、年中行事、天保の飢饉と生田萬、獣の話、綾子舞考、雑魚の網

鵜川ほたるまつり(うかわほたるまつり)
例年6月下旬に開催される鵜川地域の活性化イベント。綾子舞会館前の特設舞台でかがり火のもと幻想的な綾子舞が演じられる。主催は鵜川ほたるの会と鵜川振興協議会(コミュニティ合併に伴い2021年以降は野田コミュニティ振興協議会)。綾子舞の高原田・下野両座元ではほたるまつりを「新人デビューの場」「若手世代の登竜門的舞台」と位置づけており、綾子舞伝承学習、綾子舞伝承者養成講座で育った小中学生ら若手伝承者を積極起用する。ほたるまつりで舞台デビューした小中学生も多く、ひときわフレッシュな綾子舞が披露されるのが特徴。綾子舞終演後は、地元スタッフの案内で鵜川ほたるロードを見学、鵜川ならではの光の乱舞に歓声が上がる。

動いた土蔵(うごいたどぞう)
ギャラリー十三代目長兵衛代表の曽田文子(柏崎市学校町)が開廊10周年にあたり、解体予定だった江戸末期の蔵をギャラリーとして活用することになった経緯を振り返った随筆。柏新時報2014年1月1日号に掲載された。「『文字の入ったものは粗末にするな』の教えを受けて育ったという姑の言葉通り、蔵の中は7割が医学書などの古文書籍や書簡が占めていた。衣類、食器、日用品からは、生活様式の歴史を見る思いで、この家に拘わった人々の息づかい迄、伝わって来るようだった。やがて汗とほこりにまみれた作業は終盤を迎え、ぬけがらのような蔵は解体を待つばかりになっていた。」「『動かせますよ』それは偶然とも思える出会いの一言だった。すべて歴史の区切りと諦め、覚悟を決めていた家族の思いがその瞬間にほぐれ、明るい光がさし込んだ。思っていなかった『曳屋』(ひきや)という昔からの工法によって土蔵を動かし残すことが出来るというのである。」と解体目前の風景を描くと共に、実際の工事の様子を「7月の太陽の元、ジャッキで持ち上げられた土蔵は、木組されたコロの上を少しずつ動き、方向を変え始めた。その様子は、まるで私の大好きな絵本バージニア・リー・バートンの『ちいさいおうち』の場面と重なって、終日感動の光景をカメラで追い続けた。」「90度回転し、3メートル引き込む。ほとんど職人さん達による人力作業は5日間をかけ、無事終了した。拡幅された道路に正面を向けた土蔵は、やがて見違えるように化粧直しをされ、思いがけない次のステージが与えられることになる。それは十三代目にあたる長兵衛※の夢の実現だった。」と綴る。曽田は「長い間、ほとんど闇の中で息をひそめていた土蔵が、ギャラリーとして創る人と見る人の出会いの場になって地域の賑わいの仲間入りをするとは誰も考えられないことであった。」と述べ「あれから10年。土蔵は二度の地震にも耐え、人の移ろい、環境の変化も見守った。ささやかな文化の拠点となって、アートを介し多くの交流も生まれている。登録有形文化財の認定を受けたこの土蔵は、これからも、おそらく私のずっと先も残るであろう。」と感慨深く結んでいる。※曽田文子の夫で医師の曽田恒

宇佐美定行は完全な架空の人物(うさみさだゆきはかんぜんなかくうのじんぶつ)
NHK大河ドラマ「天と地と」(1969年)の時代考証を担当した國學院大学教授の桑田忠親による「つくられた甲越両軍の名軍師」(週刊読売1969年3月14日号)の一節。桑田は琵琶島城主・宇佐美定行について「小幡景憲の『甲陽軍鑑』をテキストとする甲州流軍学が、徳川幕府に用いられ、ついでそれが、広く地方諸藩で行なわれると、米沢藩上杉家の軍学者宇佐美定祐は、上杉謙信の軍師宇佐美定行なる者を、宇佐美流の先祖と称して作りあげ、その定行の軍法を本とする越後流軍学なるものを提唱し『越後軍記』を著わした。」「本当の父祖を無視してまで、ウソの軍学者の祖父宇佐美定行なる人物を創作しなければならなかったのは、定祐が、甲州流軍学の始祖小幡景憲と対抗して、越後流軍学の開祖になりたかったからだ。『甲陽軍鑑』と張りあって『越後軍記』を著わしたかったからである。」とその存在を完全否定、柏崎人としては看過できない事態となった。これに対して郷土史研究家の新沢佳大は『柏崎編年史』(1970年)で桑田説を批判。新沢は「長尾景虎(後の上杉謙信)柏崎に来り布陣す」(1548年5月21日)の項で小国町武石の庄屋・難波六右衛門に宛てた定行(貞之)書状を示したうえで①桑田氏の説によると『越後軍記』『北越軍記』の著者はともに宇佐美定祐で、定祐は琵琶島城主宇佐美定満の子であり、父祖の功績を誇張するために前記二著を記したというが、宇佐美定満が野尻池で水死したのは1564年である。このとき定祐が1歳としても、1702年出版の越後軍記の著者は138歳となる。定祐の父が定満である-は明らかな誤りで、正しくは曾祖父②北越軍記は『北越武鏡』『越後軍記』『越州記』『謙信年譜』等を織りまぜた軍記物である以上、誇張や虚構もあるのだろうが、「栃尾籠城」や「米山合戦」の描写をもって偽作と断定し、否定するのは専断の謗りを免れない③定祐は紀州に育ち、江戸に住んだ人で、来越の経験もなく、越後の地理に暗い人である。「柿崎の下浜」を「柏崎の下浜」と、「米山寺」を「胞姫さん」と誤っているが、これを訂正すれば、米山三里の旧道が眼前に浮かぶが如く彷佛される。上り下りの多い急峻を考慮して暫時休息し、晴景の軍が亀割坂にかかったところを一気に追撃するのは兵法にかなっている。米山(合戦)での敗戦が晴景の隠退を早め、政景の野心を挫いたとすれば、この合戦の存否は重大な意義をもつばかりでなく、宇佐美定行の実在を立証することにもなる-等とし、柏崎市新橋の福泉寺文書にも「宇佐美駿河守貞之」とある、と結ぶ。当の福泉寺住職・山田存璋住職は「(祈願文にある貞之について)よく定行の間違いではないのかと尋ねられるが、定行という字は海音寺潮五郎が『天と地と』の中で使い、定説のようになった。本当は貞之が正しい」と述べている。『柏崎編年史』の第3章「戦国の争乱と柏崎」の概説でも「琵琶島城の興亡と宇佐美氏」について具体的な言及を行っているが、『柏崎市史』(1990年)では意外なほど少ない。「琵琶島城の興亡と宇佐美氏」については別項。

宇佐美駿河守寄進の妙見菩薩(うさみするがのかみきしんのみょうけんぼさつ)
柏崎市新橋・日蓮宗福泉寺の妙見菩薩は上杉謙信の軍師であった宇佐美駿河守貞之が川中島の戦いに行く際、祈願文とともに同寺に納めたものとされる。高さ約60センチ。もともとは琵琶島城の鬼門に当たる北側を守っていたと言われ、「亀」(北斗七星の象徴)に乗っているのが特徴。祈願文には「武運長久に備え永納し、願を受くる所也」「宇佐美駿河守貞之」「永禄四歳正月十一日」などの文字が見える。永禄4年(1561)は、川中島の戦いのなかで最大の激戦となった第4次合戦があった年で、山田存璋住職は「これまでで最大の戦いになることを予感し、祈願文を奉納したのではないか」と見ている。事実、この戦いで武田信玄の軍師・山本勘助は戦死した。妙見菩薩は中越沖地震(2007年)で損傷したが、翌2008年に修復を終え、祈願文とともに公開された。祈願文の「宇佐美駿河守貞之」について山田住職は「よく定行の間違いではないのかと尋ねられるが、定行という字は海音寺潮五郎が『天と地と』の中で使い、定説のようになった。本当は貞之が正しい」と指摘。前年放送でのNHK大河ドラマ「風林火山」で緒形拳が宇佐美定満(貞之)を好演したこともあり、公開に同席した檀徒関係者からは「大河ドラマにあわせ、琵琶島城や宇佐美駿河守ゆかりの柏崎の発信が出来なかったものか。中越沖地震の影響とは言え、歴史の宝庫・柏崎を売り出す好機を逸したのでは…」「直江兼続の生まれた六日町では来年の大河ドラマに向け、大いに盛り上がっていると聞く。柏崎はあるものを上手に生かす姿勢が不足しており、歴史観光をもっと強化してほしい。」などの声があがった。

宇佐美駿河守定満の墓(うさみするがのかみさだみつのはか)
南魚沼市の雲洞庵にあり、1823年に鈴木牧之が建立した。『北越雪譜』の「北高和尚」(第2編巻3)でも紹介される。裏面に刻まれている漢詩を筑波大学名誉教授の内山知也(柏崎出身)が解読し、柏新時報紙面(2009年1月30日号)で発表した。内山は「琵琶島城主宇佐美駿河守については謎の多い人。資料があまりないらしい」としたうえで「曽是霜台入幕賓 膠舟決策殞其身 琵琶州上千秋月 影在波心不湿輪」(かって是れ霜台の幕賓に入り、膠舟策を決して其の身を殞す。琵琶州上千秋の月、影は波心に在りて輪を湿さず。)を「かてて霜台公(上杉謙信)が幕府の賓客として重く用いたのですが、膠(にかわ)でくっつけた舟に乗り重要な計略を決めようとした時、舟が(ばらばらになって)沈み溺れて死んでしまいました。琵琶島(琵琶島城)のほとりに千年このかた変わらぬ月が照らしています。その光は(鏡が沖の)水の中心を照らし月輪を少しもぬらしていません。」と柏崎人らしい解釈を加えた。さらに鈴木牧之研究者の高橋実(小国町)から「鈴木牧之全集下巻に収められる日記(永世記録集)に『宇佐美石碑』の記述があります」との情報が寄せられ、文政6年の「雲洞へ宇佐美石碑」(1月23日)、「雲洞へ宇佐美石塔石」(4月20日)、「宇佐美石碑成就」(7月6日)各記述を確認するも、なぜ鈴木牧之が碑を建立したかは不明。なお上杉政景の墓(道宗塚)は南魚沼市坂戸の竜言寺跡にあり、『南魚沼郡誌続編』(下巻)は「政景野尻ヶ池に溺死。上杉氏の軍師宇佐美定満殉ずる。上杉氏の謀略ともいわれている。野尻ヶ池は寺が鼻の先にある弁天池である。当時魚野川が入り組んで池を作っていた。この池から内堀を引いたもの。定満の墓は雲洞庵の境内に政景の墓は上坂戸にある。信州野尻湖という説はこの二つの墓の位置から否定される。」と記述する。

宇佐美駿河守の謎(うさみするがのかみのなぞ)
柏新時報2009年1月30日号に掲載された囲み記事。NHK大河ドラマ「天地人」(2009年)放送開始に伴う、柏崎市内の宇佐美駿河守(定満)ファンの動向などをまとめた。岬館女将・矢口委子は「宇佐美駿河守祈願の寺」として知られる福泉寺(柏崎市新橋)が菩提寺であることから一念発起、雲洞庵にある駿河守墓碑裏面の漢詩解読を柏崎出身の筑波大学名誉教授・内山知也に依頼したり、関係資料をまとめて岬館内に「天地人」コーナーを作り情報発信する力の入れよう。また、女将から依頼を受けた内山名誉教授の漢詩解読は「枇杷島城のほとりに」「鏡が沖の水の中心を照らし」など柏崎人ならではの視点をいかした説明となった。不明だったのが漢詩の終わりにある「鈴木氏修」。これについては小国文化フォーラム事務局で鈴木牧之研究者の高橋実から情報が寄せられ、「牧之の日記(永世記録集)に記録があり墓碑を建立したのは鈴木牧之」と、謎解読のリレーが続いた。最も謎なのは宇佐美駿河守がどこで亡くなったかだ。大河ドラマ「天地人」の初回放送「五歳の家臣」冒頭に登場した宇佐美駿河守は上杉景勝の実父で坂戸城主の長尾政景と溺死。「上田庄で溺死」としか描かなかったのは、史料不足もあり断定を避けたようだ。「宇佐美駿河守が大河ドラマ初回に登場したと思ったら、いきなり池にドボン。あっという間だった。」と柏崎のファンをがっかりさせたのは確か。「上田野尻(ヶ)池説」(現在の南魚沼市)と「信濃野尻湖説」(現在の信濃町)の両説があるが、「上田野尻(ヶ)池説」に関しては地元六日町には「現在の銭淵公園付近に野尻池があったが、大規模な土砂崩れで埋まってしまった。」との伝承があり、「駿河守ファンは『老いた軍師として謙信への最後の奉公を考えた。それが身内で敵対する長尾政景の暗殺だった』ということになる。大河ドラマ初回も、この推理をとっていたようだ。」「いくつかの謎を考えながら大河ドラマを楽しみたいと思うのである。」と結んでいる。なお、原作本(火坂雅志)は「じつは、この前年、景勝の父長尾政景が、野尻ノ池(銭淵)で舟遊びの途中、家臣の下平修理吉長によって殺害されるという事件があり」と別のストーリー展開となっている。

『謡抄』と「柏崎」(『うたいしょう』と「かしわざき」)
『謡抄』は豊臣秀次が編纂を命じた最古の謡曲注釈書。このなかに当地ゆかりの「柏崎」が掲載されている意味は大きい。古活字版として最も古い守清本では第7冊に掲載。「各冊とも表紙に曲名を墨書した題簽を貼付。全部で102番を収録し、曲中の語句をあげて解釈を記すが、和歌や有職故実等に由来する語は平仮名を用い、仏教、漢詩文の語は片仮名交じりで表記する。」(国立国会図書館開館60周年記念貴重書展「学ぶ・集う・楽しむ」での説明)内容となっており、「柏崎」に関しては特に仏教用語が多い。なかでも「九品上生ノ台ナルニ女人ノ参マジキトハ 弥陀仏ハ女人悪人ヲ深憐ミ給ヒテ誓ヲ立、一心不乱ニ弥陀ヲ頼ミ、称名念仏セン男女ヲバ、自ラ来迎引摂シテ、極楽世界ノ上品上生ニ引導シ給ハントノ誓ノ義也。」「制戒 弥陀ノ誓願深キニ拠テ、男女ノ差別モナク、殊ニ女人往生ノ願マデ成就シ給フニ、此御堂ノ内ヲ出ヨトノ制戒ハ心エガタキ義也」※などの表現に当時の知的水準を垣間見る。『新潮日本古典集成 謡曲集』を校註した能楽研究者の伊藤正義はその上巻解説で「文禄4年(1595)に到って、関白豊臣秀次は、彼の周辺の知識人を総動員し、『謡抄』の編纂を命じた。その注釈上の特徴の一つは、仮名書きで伝えられた謡曲本文に、然るべき漢字を宛てることによって解釈を示すことにあったと言い得よう。」としたうえで「慶長初年に編集を終えた『謡抄』は、その直後から古活字版や整版等の各種が出版されたが、それとほとんど期を同じくして、謡本もまた各種の出版が行われるに到る。(略)いかなる漢字を宛てるかという根拠として、『謡抄』の成果が大きな影響を与えているのである。このように『謡抄』の宛字が謡曲本来の文意を確認・決定した意義は重大なものがある」と意義を強調。この成果は1772年の『謡曲拾葉抄』に継承されたが、ここにも「柏崎」は掲載されており、引き続き人気曲であったことがわかる。※『日本庶民文化史料集成』第3巻の翻刻(伊藤正義校注)に拠った

歌と舞の系譜-狂言と近世初期舞踊(うたとまいのけいふ-きょうげんときんせいしょきぶよう)
綾子舞は国立能楽堂に2回出演しており、その1回目が2010年10月23日の企画公演「歌と舞の系譜-狂言と近世初期舞踊」。下野座元が三番叟と小原木踊を披露、綾子舞と同じく古歌舞伎の面影を残す小河内の鹿島踊と共演し、綾子舞応援団長で日本民俗舞踊研究会代表の須藤武子が解説を担当した。続いて小原木踊の歌詞と共通点のある和泉流の狂言「若菜」(シテ・野村万蔵、アド・野村萬)が上演された。国立能楽堂は江戸城の能舞台を模して作られたとされ、能舞台特有の橋掛かりは13・5メートルあり綾子舞の出羽、入羽(舞台への登場、退場)をどのように合わせるか入念なチェックをしながら臨み、無事に出演を終えた。柏崎出身で野村萬と親しい北原保雄筑波大学名誉教授も鑑賞に訪れ「練習を積んできたのだと思うが、揺れがなく、扇もピタッと揃っていた。国立能楽堂の舞台に耐えるだけのしっかりとした基礎を持っているということなのだろう。洗練されていた。」、解説を担当した須藤は「国立能楽堂での初めての公演ということで気合いの入った綾子舞になった。(綾子舞が)ただ事でない芸能であることを改めて多くの人に知ってもらえたのではないか。」と感想を述べた。

内山英保と与謝野晶子(うちやまえいほとよさのあきこ)
内山英保(1868-1945)は柏崎出身の実業家、文人。『越佐と名士』(坂井新三郎編、1936年)には「柏崎町前川吉右衛門氏の二男、明治元年10月10日に生れ、先代市郎左衛門氏の養嗣子となつた。前名は幸作氏、のち現名に改めた。同17年2月新潟県師範学校卒業。同34年原合名会社に入社」などと記載。原合名会社では原富太郎(「三渓園」で知られる)の薫陶を受け、共益不動産専務取締役や横浜興信銀行(現在の横浜銀行)常任監査役を歴任。復刊した「明星」、創刊したばかりの「冬柏」を与謝野鉄幹・晶子夫妻の要請を受け資金面で支えた。神奈川県鎌倉市御成町の私邸書斎「冬柏山房」は与謝野夫妻をはじめ有島生馬、石井柏亭、尾崎咢堂(行雄)、戸川秋骨、吉井勇、吉野秀雄ら多くの文化人が集うサロンとして活況を呈し、その模様は『冬柏山房抄』(私家版、1935年)にまとめられている。鎌倉文学館では、同山房で詠まれた与謝野晶子の全集未収録短歌を含めた収蔵品展「冬柏山房に集った文人たち」を2014年12月から2015年4月にかけて開催している。内山はまた与謝野晶子歌碑「たらひ舟荒海もこゆうたがはず番神堂の灯かげ頼めば」(柏崎市番神2・諏訪神社境内)建立の際、柏崎観光協会と晶子との仲介をしたと伝わる。『与謝野寛晶子書簡集成』には26点の内山宛書簡(鉄幹との連名含む)が収録され、特に鉄幹の死去後、晶子と「冬柏」を物心両面から支えた様子が「御同情によりて私の生くるのぞみも捨てずあり候ことは子のためにもおもへばかたじけなき方々よりとしられ候。」(1935年4月12日)、「百ケ日のことにつきいろいろと初めより御めいわくを御かけいたしつゞきてあらゆることにあなた様を煩し候ことまことに心苦しく存じ申候。御ゆるし下されたく候。」(1935年7月4日)などに伺える。1938年3月31日付の書簡には依頼された「横浜の講演のこと」について「承知仕り候」として内山に日程調整を依頼しているのを見ると、内山の人脈を通じ様々な事柄が持ち込まれていたのではないか。柏崎の与謝野晶子歌碑に関する書簡は見つかっていないが、前掲1935年7月4日付書簡には「御郷里の柏崎に近きあたりまでまゐり候ひしこの度の見聞につき近く御目にかゝり候日に御報告申上ぐべく候。」と柏崎への親近感が表現されており、揮毫依頼についても「即断」で応じたのではないかと推測される。

美しい日本の私-その序説(うつくしいにほんのわたし-そのじょせつ)
川端康成のノーベル文学賞受賞記念講演のタイトル。授賞式2日後の1968年12月12日にスウェーデン・アカデミーで行われ、エドワード・サイデンステッカーが同時通訳を行った。英題は「Japan, the Beautiful, and Myself」。川端はこのなかで良寛の「形見とて何か残さん春は花山ほととぎす秋はもみぢ葉」「霞立つ永き春日を子供らと手毬つきつつこの日暮らしつ」「風は清し月はさやけしいざ共に踊り明かさむ老いの名残りに」「世の中にまじらぬとにはあらねどもひとり遊びぞ我はまされる」「いついつと待ちにし人は来りけり今は相見てなにか思はん」の5首を取り上げた。このうち、「形見とて」は「春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえて冷しかりけり」(道元)と対比しながら「日本の真髄を伝へた」「日本古来の心情がこもってゐるとともに、良寛の宗教の心も聞える歌」と絶賛、「霞立つ」「風は清し」「世の中に」の3首は良寛ならではの「和顔愛語の無垢な言行」の象徴として紹介した。また、「いついつと」は貞心尼との出会いで引用、「このやうな愛の歌も良寛にはあって、私の好きな歌ですが、老衰の加わった六十八歳の良寛は、二十九歳の若い尼、貞心とめぐりあって、うるはしい愛にめぐまれます。永遠の女性にめぐりあへたよろこびの歌とも、待ちわびた愛人が来てくれたよろこびの歌とも取れます。『今は相見てなにか思はん』が素直に満ちてゐます。」と69歳の自らを重ねた。「形見とて」の歌碑は1967年に赤坂山自然公園(出雲崎町乙茂)に、「世の中に」の歌碑は1993年に良寛と夕日の丘公園(出雲崎町米田)にそれぞれ建立されている。

『美しい星のための』~柏崎市によせて~(『うつくしいほしのための』~かしわざきしによせて~)
柏崎市制施行50周年、柏崎芸術協会30周年を記念して1990年に初演(柏崎芸術協会主催)されたカンタータ。全国公募で選ばれた大阪在住・中埜みかの詩に池辺晋一郎が作曲した。「地球に」「時代」「たましい」「興り」「美しい星のための」の5章で構成、柏崎ならではの三階節、綾子舞の旋律、「空を飛ぶ米俵」、「かたがり松の京参り」などの伝説も織り込んでいる。初演は池辺晋一郎指揮で美しい星のための合唱団、柏崎フィルハーモニー管弦楽団が出演、鵜川小学校児童の清楚な歌声も交え「海辺の美しい街よ/雪深い 精霊の棲む町よ/昔ながらの舞の歌/御伽話に村祭/力強い 生のリズムに/命うるおす 人達がいる」「尊い命を絶やさぬように/力いっぱい歌うのだ/空に海に山の端に/届けよう 愛の歌を/捧げよう 希望の歌を」と見事なハーモニーで歌いあげ、観客を魅了した。市制施行75周年、芸協55周年を記念し2015年に池辺指揮で再演。2023年の「未来へつなぐコンサート」でも再演。初演実況録音はCD化されている。

海なり(うみなり)
藤原緋沙子がソフィアセンター開館20周年記念講演会(2016年)で来柏した際に柏崎陣屋跡を訪れ着想、歴史時代作家クラブ賞(シリーズ賞)を受けた代表作・隅田川御用帳シリーズ第17作『寒梅』(2017年)に収められた。藤原は『番神の梅』執筆過程で柏崎陣屋に強い関心を持ち、講演前日に陣屋跡を訪れており「視察した際には『どんな建物が建っていたのか』『この先にはどんな風景があったのか』『陣屋から柏崎町へのルートは』など、矢継ぎ早に質問された。」(案内した観光ボランティアガイドの小網靖子)といい、実際に文中では「今の陣屋は、八十年近く前に建てられまして、楽翁様が御老中だった頃に大修理を行いました。それから三十年ほど経っておりまして、老朽化しているところもあります。ですがまあ、東西百間、南北九十間、総坪数九千坪ございますから…」「鵜川橋から黒門までは少し坂道になっているのだが、黒門から陣屋がある高台への坂道は、急な坂となっている。地理上は海側が北、坂の上の方角が南、つまり陣屋は高台から海を眺め下ろすように建っているのだった。」と取材成果が生かされた。『番神の梅』で登場した番神堂の老夫婦も登場、松平定信ファンとして「…その時わが藩主であられた定信様は、いち早く近隣から米を買い付けるなどして百姓町人を救ったのです。餓死者を一人も出さなかった。われらはですな、白河や江戸とは離れたこの地で頑張っておるのですが、この陣屋にいる役人全員、楽翁様の心を胸に刻んで励んでおります。」との筆致も。

海の笠島-高崎臨海学校とともに(うみのかさしま-たかさきりんかいがっこうとともに)
2016年に惜しまれながら閉校した高崎臨海学校と笠島との交流の歴史を高崎臨海学校の思い出を残す会(黒﨑英雄会長)がまとめた記念誌。2017年刊。写真や年表でこれまでの歩みをまとめるとともに「坂屋が臨海学校だった頃」(黒﨑裕人)、「売店のこと」(江の尻館・黒﨑三奈子)などの証言、「おしょろい(精霊)さん」、「かさしま小唄」(「芭蕉が丘」を命名した笠島小森田芳広初代校長が作詞)、笠島あれこれ(寺屋敷の水、笠島駅と電車通学ほか)も掲載している。思い出を残す会の黒﨑会長は「50年にわたり、延べ24万人弱の群馬の子ども達の、元気な声が町じゅうに響き、夏の風物詩となりました。」と振り返り、事務局の黒﨑朝子(海辺のキッチン倶楽部もく)は「夏になると、毎年高崎の子ども達が4000人も来て、海水浴を楽しみ、笠島がとてもにぎやかになりました。高崎市は、たくさんの海水浴場から、わざわざ笠島を選んでくれました。なぜでしょう?この冊子を作っていくうちに、この疑問が解けてきたような気がしました。一つは列車。臨海学校が始まったころ、高崎からの海水浴臨時列車が走っていて、終点=始発が笠島でした。(略)それよりも、笠島がとても魅力的なのだと思います。一方は海、一方は山の豊かな自然に囲まれた町。道は細くて起伏が多いけど、海が見えてわくわくする。海はきれいで安全。海産物が豊富。日なたには、えごや天草が干されていて、のどか。住民が、海辺の生活を楽しんでいる。これらの魅力を最初の知ったのは高崎市なのかもしれません。」と書いている。

海のまち-出雲崎・柏崎 芭蕉の句碑巡り(うみのまち-いずもざき・かしわざき ばしょうのくひめぐり)
2016年に詩の朗読と音楽を楽しむ会の主催で開催された文学散歩。松尾芭蕉が『奥の細道』の旅で「荒海や佐渡に横たふ天の河」を残した出雲崎町の関係句碑などを訪ね当地の文学的風土を探訪したもので、会員や公募の市民20人が参加した。一行はまず、1954年に完成した芭蕉園(出雲崎町住吉町)を訪問、芭蕉が訪れた日と同様に雨交じりのなか、芭蕉が生前何度も書き直したという「銀河の序」(出雲崎訪問の感動と「荒海や」の句を残す)碑を、書家の白倉南寉の案内で見学した。白倉は「菊本直次郎所蔵の芭蕉の真筆の全文を拡大彫刻して、建立された。真筆を碑にしたものは全国で14基しかなく、そのひとつ。芭蕉の字の巧さがよくわかる貴重な碑で、特にひらがなの美しい線は特筆すべきだと思う。銀河の序が『奥の細道』に入らなかったことは越後人として残念で仕方がない。」と説明。続いて妙福寺(出雲崎町尼瀬)境内にある俳諧伝灯塚で出雲崎の文化風土を垣間見た後、柏崎市内に残る最も古い時代(文政年間)の芭蕉句碑である「草臥て宿かるころや藤の花」を椎谷観音堂の歴史と共に見学した。さらに同会が中心となって建立した萩原朔太郎詩碑(白倉南寉揮毫)、米山SAにある芭蕉句碑「草臥て…」「荒海や…」(いずれも白倉南寉揮毫)を見学し、芭蕉気分に浸る一日となった。

海を通う女(うみをかようおんな)
寿々木米若の浪曲「佐渡情話」の原話となった伝説「おべん・藤吉ものがたり」に類似した伝説。舞台は静岡県熱海市の沖合に浮かぶ初島。日本伝説大系(第7巻中部編)には伊豆山の若い番匠を好きになった初島の美しい娘が「伊豆山まで百晩通い続けたら妻にしてやる」と言われ、毎日湯野権現の燈明を目当てに通ってくる。女の執念に恐しくなった男が「あと一晩で百晩となるという日に権現の燈明を消した」ため女は遭難。海辺に打ち上げられた女は「身体中鱗が生えていて恐ろしい蛇体であった。」という。いくつかの類話があるが「たらい舟に乗って通い詰める」パターンが多い。日本伝説大系(第8巻北近畿編)の「比良の八荒」(滋賀県伊香郡西浅井町大浦)も「海を通う女」に近い伝説で、「女の人がお坊さんに恋をしはったんやねん。」で始まり、女がたらい舟に乗って通うが燈台の灯を消したため「たらいがひっくり返って死なはったんやな。(略)死なはって蛇になって…」という結末。類話には「九十九日目の夜に灯を消され遭難」「打ち上げられたたらいには、女の櫛をくわえた大蛇が横たわっていた」などのバリエーションも。また、山梨県の河口湖の「るすが岩」伝説は「大工の幸右衛門から百晩欠かさず通ってきたら夫婦になってやると言われたおるすが毎晩河口湖をたらい舟で渡ったが、うとましくなった幸右衛門が勝山明神の灯を消したため岩にぶつかり沈んでしまった。」というストーリー。(男女逆だが)百夜通い伝説、道成寺縁起の影響も指摘される。なお寿々木米若は「佐渡情話」を「おべん・藤吉ものがたり」を参考に創作したとしているが、米若自身が記している「娘は男の身体に蛇体となってからみ付き男を絞め殺した。」(『稲の花』)がどうしても柏崎の伝説と合致しない。米若が経営した静岡県伊東市の温泉旅館「よねわか荘」から初島は程近い距離にあり、柏崎の伝説に初島の伝説がミックスされたものか。

うるはしき尼眠る寺~貞心尼と吉野秀雄(うるわしきあまねむるてら~ていしんにとよしのひでお)
柏崎青年会議所が2001年に柏崎市常盤台・洞雲寺の参道入り口に建立したまちしるべで歌碑を兼ねた。取り上げられた「うるはしき尼なりきとふ山藤の短き房を墓にたむけぬ」は第2歌集『苔径集』(1936年)所収の越信羇旅吟の一首。題詞は「越後柏崎にて貞心尼の墓に詣づ」。1930年5月に同寺で開催された貞心尼忌の際の印象を詠んだもので、「うるは(麗)しき」貞心尼のイメージを爽やかな香気と共に表現した。まちしるべには「この歌を、ここ洞雲寺で詠んだ昭和期の代表歌人・吉野秀雄は1902年群馬県高崎市で生まれました。祖父が比角村、母が野田村の出身だったことから、柏崎の文化人と交流を深めました。歌人として 良寛、貞心尼を敬慕していた秀雄は、何度も洞雲寺を訪れています。山上の墓前に歌をたむけ、美しく聡明であった聖愛の人を偲んだ光景がうかんできます」とある。吉野秀雄は貞心尼の功績を「彼女は贈答歌ばかりでなく、良寛の歌を集録し、伝記を残しましたほとんど最初の人であり、また上州前橋の龍海院の蔵雲和尚が『良寛道人遺稿』という詩集を出版しました時に、大いにこれを扶けた」(良寛和尚の人と歌、中村昭三編『貞心尼考』に再録)と称えている。

【え】
映画佐渡情話(えいがさどじょうわ)
寿々木米若の口演によるトーキー映画で、お光を山田五十鈴、吾作を尾上菊太郎が演じ話題となった。1934年公開。ソフト化されておらず上映時間等不明。米若は映画化について「遂には日活でこれ(佐渡情話)が映画化された。山田五十鈴の主演でこれまた大ヒットであった。その頃の金で35万とか40万とかの利益が上がったとのことを出演した映画人から聞いた話である。ビクターも百万枚以上のレコードが売れて笑いが止まらない程であった。私もこのヒットによって全国的に名前が広くひろまって行った。」(『稲の花』)と回想、また哲学者の村田豊秋も「日活でも、米若師の浪曲を中心に、佐渡情話のトーキーを展観したが、素晴らしく大当りで、予想以上の成功を収めたといふから、今や世を挙げて佐渡情話の黄金時代である。」と書いており、ブームの程がわかる。

描かれた≪ふるさと≫-古絵図にみる近世の柏崎(えがかれたふるさと-こえずにみるきんせいのかしわざき)
柏崎ふるさと人物館で2012年に開催された第32回企画展。資料点数が多いため第1部「近世の町と村を歩く」(描かれた町、描かれた村々、街道と名所)、第2部「絵図にみる自然利用と災害の歴史」(山と海の利用、境界をめぐって、土地をひらく、土地をなおす)の2部に分けて開催、柏崎市立博物館の新規収蔵品「山海見立相撲 越後亀割坂」(歌川広重)の初公開が話題となった。関連行事として講演会(絵図を歩く・江戸を歩く-近世柏崎名所案内、古絵図に見る堰と用水 藤井堰とその周辺、漁場絵図を読む-山を見て海を知る)、見学会(古絵図を持ってマチ歩き 西本町界隈、古絵図を持ってムラ歩き 大久保地区、古絵図を持ってミチ歩き北国街道、古絵図を持って用水巡り 藤井堰周辺)も行われた。

絵描きの伸夫(えかきののぶお)
柏崎市鯨波在住で筋ジストロフィーと闘いながら創作を続けた画家・佐藤伸夫(1950-2021)のボランティアを務めていた星野俊彦が、柏新時報2022年1月1日号に寄稿した回想。「『絵描きの伸夫』が逝った。昨年8月20日のことでした。私達ボランティアが『ノブは不死鳥だ』と言い合うほど、佐藤伸夫さんはここ数年何度も体調を崩して生死の淵を踏みながらいつも必ず蘇ったのです。しかし、今度ばかりは帰らぬ人となりました。」と書き出し、「伸夫さんのボランティアは大勢いました。その誰もが『生きざま』から、逆に『生きる力』を貰っていたのだと思います。」「伸夫さんの絵描き作業は困難を極めました。腕が伸びないのでキャンバスの隅に筆先が届かない時はキャンバスを逆さにしたり左右に動かします。キャンバスを動かすのも人まかせです。」と振り返り、「絵は自分の分身のような物だけど、完成して人に観られる時は完全に独立した存在だと思う。だから絵そのものを観てほしいし、それで評価してほしい。障がいを抱えた人の作品という『色眼鏡』では観てほしくない。」との本人の言葉を紹介、2014年にオープンした「佐藤伸夫美術館」(国立病院機構新潟病院内)についてもふれ「伸夫さんの絵は同じように難病と闘っている多くの仲間の生きる勇気と希望の『道しるべ』になっています。『絵描きの伸夫』は逝きました。しかし、伸夫さんの分身である膨大な数の『絵』は今日も色鮮やかに息をしています。ぜひ、会いに行ってください。」と結んでいる。

越後小国氏の系譜(えちごおぐにしのけいふ)
1995年8月15日に旧小国町就業改善センターで開催されたシンポジウム。パネラーは小国氏末裔の大国勝丸、岩室村石瀬の青龍寺住職・和田海陽、上越市観光案内協会会長・永見完治、小国芸術村友の会会長・山崎正治。この中で大国は「先祖は樋口与七(小国与七、後大国実頼)で、実頼が上杉景勝公の命により秀吉の聚楽第完成の賀使として上洛する際、景勝公より『小は邦、大は国という。小を大に改めよ』とのことで以後大国姓になったと聞いている」、和田は同寺に伝わる小国実頼の書付を示しながら「天正15(1587)年11月23日付で青龍寺の土地に守護不入権を与えたもので、大変手柄のあった方、力のあった方であると共に、寺に祈願し、尽くして下さった方だった」と述べた。講演講師の元新潟県政記念館館長・伊藤正一は「小国氏の血筋や名称が変わったのは上杉氏による入婿政策によるもので、国人領主の戦死や病死に際して上杉氏の旗本の子弟を後継者として入婿させるというやり方をとった。名門の血筋を絶やしてはならないという名目だが、間接的な乗っ取り。謙信も景勝もこれをさかんにやって領国越後の強固な支配と軍備を再構築・完成させた。直江山城守の弟与七を小国に入嗣させたのもその布石の一環で、名門小国氏の家督と要衝天神山城を掌握することによって旗本の強化と下越国人層の統制をねらったものと見られる」と解説した。

越後柏崎郷花の相撲取り(えちごかしわざきごうはなのすもうとり)
新潟県相撲連盟副会長で日本ペンクラブ会員の広井忠男が大相撲柏崎場所(2002年4月11日、柏崎市総合体育館)を記念し同年刊行した本地方相撲史。「太刀山の再来、大関候補と目された番神山政三郎」「善根出身藤ノ川忠之助後改め七代柏戸」「小兵、奇手の強豪関脇六代両国梶之助」「柏崎刈羽唯一人の現役力士希帆の海」、「小国町上岩田出身柏戸宗五郎改め七代目伊勢ノ海」「花籠部屋歴代師匠中、五人の越後力士親方」「風雪柏崎郷の力士達(尾上唯右衛門、井筒元右衛門、越ノ山改め柏崎代士夫、金子和助、若津浪、米山七蔵、黒姫山照雄、鬼津川政吉、銀ヶ峰、和田ヶ崎、佐渡光、十両格行司式守熊太郎)」「昭和二十九年七月柏崎での珍しい小相撲巡業」「戦後小国町に来た女相撲の実態」「在野の相撲研究家小国の若井一正氏」など18章で構成、特に番神山については「この頃の番神山の相撲っぷりを分析してみよう。九年一月の六勝のうち、突き出しが三勝で五十パーセント、九年五月は九勝のうち突き出し二勝、突き落とし二勝 押し出し一勝 はたき込み二勝 突き手一勝となっている。すなわち長身と怪力を利しての激しい上突っ張りで相手を押し込む気っぷの良い攻撃相撲であることが良くわかる。はたき込みや相手の突き手負けも、番神山の攻め、すなわち相撲の極意である前に出る相撲ゆえに効を為し相手が落ちていることが明白である。」など詳細な分析を加えている。また相撲甚句創始の米山七蔵について「刈羽村荒浜出身。天保、弘化頃すなわち十九世紀前半の幕末の力士であった。詳細は記録されていないが、何よりも郷土の誇りは故郷の米山甚句を元唄にしてヒントを得、相撲甚句の基礎を作った力士として特筆される。日蓮上人流着、佐渡情話の舞台となった番神岬を四股名とした太刀山の再来番神山と米山甚句の米山を四股名とした七蔵青年こそ柏崎刈羽の大功労者と呼ぶべきだろう。」と強調するなど貴重な一冊となっている。日本相撲協会理事・巡業部長の武蔵川が「今回柏崎市での大相撲巡業を機会に、柏崎地方一円の江戸時代からの全力士を調査研究されて、出版されました。極めて貴重な、国技大相撲と新潟県相撲史研究の力作であると思います。柏崎一円からは小兵名人の関脇六代両国梶之助、三代に亘る伊勢ノ海親方、三代花籠親方、戦前の番神山関、現役の希帆ノ海などが出ており、相撲処であることに感心致しました。」とお祝いのメッセージを寄せている。

越後柏崎七街道ガイドブック(えちごかしわざきななかいどうがいどぶっく)
越後柏崎七街道事業によって洗い出された地域資源を一冊にまとめたハンディサイズのガイドブックで、2008年度に柏崎市から発行された。2010年一部改訂。編集は柏崎七街道観光まちづくり会議。表紙は番神堂彫刻を重厚に表現、キャッチフレーズは「遙か時代を越えて いま輝く」。「『米山さんから雲が出た』と唄われる霊峰米山を西に仰ぎ、日本海の風光をも享け、その自然、歴史、文化が愛でられる佳地(麗しい土地)です。『越の国』と呼ばれた古より展けた、北国往還の要衝でもあります。」としたうえで、「広い市域から成る柏崎においては、主な街道沿いに多彩な地域文化が生まれ、歴史・民俗・気風に、景観と海・山の幸が相まって地域ごとの特色が醸成されました。(略)そこに、他所とは違う柏崎の特質があります。」と旅人を誘い、北国(ほっこく)・綾子舞・からむし・じょんのび・鯖石・北条毛利・石油の各街道が長くはぐくんだ歴史、文化、景観にスポットを当て、従来の観光パンフレットとは大きく趣を変えた。各街道では「ちょっと寄り道」と題し「柏崎の歴史と文化、駅からハイキング」「上条の歴史・文化・自然を再発見の散歩」「岡野町神社仏閣めぐり」などのウォーキングコースも紹介。

越後柏崎七街道事業(えちごかしわざきななかいどうじぎょう)
合併(2005年)によって広くなった柏崎市の魅力発信を行った事業で、正式には柏崎七街道観光資源価値向上事業。2007年5月から活動をスタート。北国(ほっこく)・綾子舞・からむし・じょんのび・鯖石・北条毛利・石油各街道(エリア)でコミュニティ関係者が中心になって資源の洗い出しを行いながら、中越沖地震からの「観光復興」とリンクしたガイドブックや風土食カード、ポストカードの作成、風土市やモニターツアーの開催、サイン看板の設置等を行った。推進役となった柏崎市長の会田洋は「柏崎の魅力を外に発信するためには、まず地元の私たちが魅力を知らなくてはならない。魅力発見の地域学だ。発見、交流へ観光ニーズが変わりつつある中で、眠っている資源を掘り起こし、自然環境とともに売り込んでいく。」との位置づけを強調、これまで未紹介だった地域資源を発掘し、地域人材と共にネットワーク化した点も評価される。

越後柏崎七街道風土食カード(えちごかしわざきななかいどうふうどしょくかーど)
柏崎七街道事業の一環として「山海の食の宝庫」としての発信を図るため、柏崎市が2007年度に発行した。編集は柏崎七街道まちづくり会議。山(25)、里(25)、海(20)の計70の風土食をカラー写真、レシピと共に紹介し、柏崎の食文化と地産地消を発信した。掲載料理は次の通り。▽山=ふきのとうのみぞれ和え、ふきのとうの佃煮、ふきのとう味噌、きゃらぶき、ふきと鰊の煮物、ぜんまい煮、ぜんまいとこんにゃくの白和え、山菜おこわ、山うどのくるみ和え、うどのきんぴら、うどとしめ鯖のぬた、わらびのおひたし、わらびの三倍、干しわらびの油炒め、こごみのからしマヨネーズ和え、山竹の子の卵とじ、竹の子の五目煮、とろろ汁、きのこの辛し和え、あまんだれの酢の物、水菜の炒め物、くるみ味噌餅、けんちん汁、ゆり根の吸い物、ふき菓子▽里=ずいきの酢漬け、干しずいきの油炒め、煮しめ、煮菜、レンコン小豆煮、糸瓜のごま和え、大根のハリハリ漬け、さつまいもの手の油炒め、煮なます、鉄火みそ、大根のしょっから煮、いりごこ、柏崎雑煮、おいな汁、八つ頭の煮物、人参の白和え、きんぴら、夕顔の鯨汁、タカオロシなます、笹団子、ちまき、いがだんご、焼もち、けんさん焼き、笹寿司▽海=えご、もずくの酢の物、もずくの味噌汁、大根じばさ炒め、青サの天ぷら、ワカメの酢みそ和え、鯛めし、手毬寿司、かすべの煮付け、鱈の粕汁、いかずまき、イカの塩辛、昆布巻き、鰯のぬた、鰯の梅干煮、鰯のつみれ汁、大根と鰊のざっぱ、小あじの空揚げマリネ、棒鱈の煮付け、いさざの卵とじ

越後柏崎七街道・風土食まつり(えちごかしわざきななかいどう・ふうどしょくまつり)
2011年に柏崎市産業文化会館で開催された地産地消イベント。主催は柏崎七街道観光まちづくり実行委員会。柏崎七街道の様々な郷土料理「風土食」を一堂に集め、バイキング形式で味わった。鯛めし(北国街道)、たけのこの五目煮(綾子舞街道)、きのこ辛し和え(からむし街道)、ぜんまいとこんにゃく白和え(じょんのび街道)、おいな汁(鯖石街道)、ふきと鰊の煮物(北条毛利街道)、いかず巻き(石油街道)、もずく味噌汁(北国街道)、煮菜(綾子舞街道)、煮しめ(からむし・石油・綾子舞街道)、きゃらぶき(じょんのび街道)、大根のしょっから煮(鯖石街道)、笹団子(北条毛利・石油・綾子舞街道)、レンコン小豆煮(石油・鯖石街道)の14品目を柏崎鮮魚商協同組合の協力で提供、鮮魚商組合の鴨下義裕副組合長から「ぜんまいとこんにゃく白和え、レンコン小豆煮は慶弔時に食べた料理」「国道252沿線にはふきと鰊を使った料理が多い。この傾向は福島まで続く」などの解説も。反響が大きく当初定員(170人)がすぐに満員となったため200人に拡大する対応を取った。

越後柏崎の民謡(えちごかしわざきのみんよう)
柏崎民謡保存会が1995年に企画・制作したCD。「この度、遠い祖先が残してくれた、この尊い文化遺産である郷土民謡を、しっかりした型で残されるようにCDに収録」(横村英雄会長)したもので、収録曲は米山甚句(赤川イシ子)、野調三階節(赤川イシ子)、柏崎甚句(片桐勝夫)、柏崎おけさ(赤川イシ子)、柏崎松坂(片桐勝夫)、柏崎音頭(赤川イシ子)、柏崎音頭(カラオケ)の計7曲。野調三階節は中浜調により「明けたよ夜が明けた」「米山さんから雲がでた」「柏崎から椎谷まで」「番神堂がよくできた」「可愛がられた竹の子が」の5番を収録、「野調三階節は、このほかにも数十種類の歌詞があります。」と付記している。なお同会では1970年にコロムビアレコードで野良三階節(泉マキ)、柏崎おけさ(岡嶋信雄)、1980年クラウンレコードで米山甚句(村山百合子)、柏崎おけさ(赤川イシ子)、三階節(中浜調、赤川イシ子)、柏崎甚句(片桐勝夫)など数度のレコーディングを行っている。

越後・柏崎・風土記(えちご・かしわざき・ふどき)
柏崎出身の北川省一が「私自身のルーツを調べて確かめてみようと考えて書いた」私史で、長男北川フラムが代表を務める現代企画室から1981年刊。「生田万の墓のあった砂丘のかげの隠亡屋(おんぼや)長屋で」「山賀のおっ母(か)ん家(ち)の事」「関沢タマが事」「江ノ島早苗事件」の4話から成り、著者が育った柏崎の大正年間の庶民生活や裏(浦)浜風景を描写、地元写真家の神林栄二の協力で写真を多数挿入したことから「絵入りの柏崎風土記が出来上がった」(著者あとがき)としている。「今日は他人(ひと)さんが来(こ)らっしゃるスケ、着物を着換えておかんばならんコテ」「すぐ帰ると、おら欠席になるネッカ」など、現在は消えつつあるネイティブ柏崎弁がちりばめられているのも特徴。「そこはじじんぐり(蟻地獄)の砂底であってそこから這い上がることはできなかった」との底辺認識から「いまどき生田万でも生きていてくれたらなァ」「生田は天保の飢饉のとき柏崎と浜つづきの大久保の山の上にあった悪代官の陣屋に斬り込んでチャンバラをやった」といった共感、「同志のなかで最年長の剣客鷲尾甚助義隆は(略)先生の首級を役人共の手に渡してはずかしめてはならないと、彼はその首を携えていず方へか逃げ去った」「生田万らの三回忌に当たって、彼らの屍を埋めた葬礼場の土手に忽然として一基の地蔵尊が建立された。(略)小さな堂宇『釈迦堂』を建立し、その初代庵主として良寛の愛弟子であった貞心尼を長岡福島から迎えた」といった『史譚貞心尼と柏崎騒動の夜』執筆につながる背景や動機も披露され、興味深い。

越後の綾子舞(えちごのあやこまい)
民俗芸能の会の『芸能復興』第13号(1957年2月)に本田安次が発表した綾子舞についての研究論文。同号は「かぶき特集号」と銘打ち、表紙は綾子舞の「小原木踊」(1956年8月の民俗芸能の会現地調査の際撮影)で飾られる。本田は1950年に初めて鵜川女谷(現柏崎市)に入り綾子舞についての調査を開始し、その後1951年、1953年、1956年にも現地調査のため来村、その成果を初の本格論文として発表した。同号は綾子舞の写真を表紙に用い「かぶき特集号」と銘打っている。『温古の栞』を引用した格調高い書き出しで始まり、綾子舞の由来、鵜川の地勢、伝承、演目と踊り歌の解説、採訪次第で構成される。踊り歌(小歌踊)では「小原木踊」「堺踊」「常陸踊」「日蔭踊」「田舎下り踊」「松蟲踊」「因幡踊」「恋の踊」「塩汲踊」「錦木踊」「小切子踊」が取り上げられているが、このうち「日蔭踊」「松蟲踊」「塩汲踊」「錦木踊」は現行演目にはない。発表時点でも研究は継続していたとみられ(1962年の『日本古謡集』中「越後の綾子舞歌」に「一応中間報告」との記述がある)、その後1970年に刊行された『日本の民俗芸能Ⅳ 語り物・風流二』の「越後の綾子舞」では「囃子舞歌」(22演目)、「狂言詞章」(16演目)が追加されるなど大幅加筆により完成形を見、本田安次著作集『日本の伝統芸能』第12巻「風流Ⅲ」にも掲載された。なお本田は『日本の民俗芸能Ⅳ 語り物・風流二』の序で「風流踊の振の、小歌に合せて美しく展開したのが、古歌舞伎踊であつた。その面影を最もよく伝へるものとして、越後に綾子舞が残つたのは、まことに幸ひであつた。」と感慨深く述べている。「採訪次第」については次項。

「越後の綾子舞」採訪次第(「えちごのあやこまい」さいほうしだい)
綾子舞を世に出した恩人・本田安次が、綾子舞との最初の出会いについて自ら書き残した貴重な文章。初出は1957年の『芸能復興』第13号(民俗芸能の会)。1970年の『日本の民俗芸能Ⅳ 語り物・風流二』ではその後の経緯をふまえ「後記」「再後記」が加筆されている。早稲田大学の演劇博物館で桑山太市の『綾子舞見聞記』によって綾子舞に注目した本田は、柏崎の桑山と連携し1950年8月18日から4日間、鵜川村女谷(現柏崎市)を訪問。初めて綾子舞に触れた感動を「この夜(8月19日)は、折角だから、やれるだけやってみませうといふことに欣喜して待つに、八時を過ぎ、九時を過ぎても一向人の寄る気配はなかつた。これは駄目なのかも知れないと、そろそろあきらめかけてゐると、やうやく十時近くになって、先づ笛方と踊子とが顔を見せ、それから人々がどつと集つてきた。それまでよその家で稽古をしてゐたものらしい。かうして十二時半まで、約二時間半、小原木踊、堺踊、亀の舞、海老すくひ、三條小鍛冶等を演じて下さった。」「小原木、堺は、今は母親になつてゐる若い二人の女性が踊ったのであるが、踊の緩急にも達し、身のこなしもよく、まことに美しいものであつた。どうしてこの様な舞が今まで埋れて知られなかったのだらうと、むしろ不審に思つたことである。同時に、危い瀬戸際で見出したものだと思つた。」などと記している。綾子舞両座元も、本田の熱心かつ誠実な調査に大いに触発されたようで、本田の「村の人達と別れるとき、出来るだけのものは復興して下さるやうくれぐれもお頼みしておいた」との依頼を受け「常陸踊」「布晒し」が復活するなど、現在につながる大きな基礎が形作られた。なお、本田は『出羽・本歌・入羽-綾子舞、21世紀への伝承』(国指定20周年記念誌)で当時を振り返り「よくまあ、危ない瀬戸際に見出だしたもんだなぁと思いましてね。私もホッとしました。綾子舞がなくっちゃ寂しかったですね。」としみじみ語っている。

越後の北条高広と前橋を語る(えちごのきたじょうたかひろとまえばしをかたる)
柏崎市女谷出身で群馬県前橋市助役、群馬県文化財保護審議会長を務めた大図軍之丞による随筆。「厩橋城主となった越後北条の北条高広と前橋の変遷」の副題をつけ1982年刊行の『前橋新潟県人会創立70周年記念誌』に掲載された。「なんといっても前橋の製糸業が盛んであった明治の末から、大正、昭和の初年にかけて多数の糸くり姫を迎えた頃が(新潟県人が)最も多かったことであろう。それにつけても思い出されるのは、越後刈羽郡北条(現在柏崎市内、柏崎駅の東8キロ余の北条駅の地)の城主、北条高広が今から410余年前の戦国の当時、上杉謙信に招かれて厩橋城主となり、死亡するまでの20余年間厩橋の護りを固め、神仏をあがめて善政を施いたことである。しかし、これは一般にあまり知られていない。後で記すように北条(ほうじょう)と読みすごされることが多いためでもあろう。」としたうえで「ここに謙信は永禄6年(1563)、その属将北条高広を越後から招いて厩橋城代(城主)に据え、爾来厩橋城は沼田の倉内城とともに、謙信が上野を支配する重要な拠点となったのである。こうして厩橋城の名は急に有名になった。」「北条高広は、北条毛利氏の第11代に当る。(略)本来毛利姓であるが、北条の城主の故をもって北条毛利をとなえ、また単に北条ともいった。一般には小田原の北条(ほうじょう)氏が通っているので、ふり仮名がないと北条(ほうじょう)と誤られるが、このように実は越後北条の毛利、北条高広なのである。」と丁寧に説明し、「北条高広は、かように上杉謙信の上野侵攻とともに越後から移って厩橋城主となり、周辺領主の圧力に抗しながら上野の中央部を確保しつづけ、上部権力の交替とともに、武田、滝川、そして後北条とめまぐるしく帰属を代えて、ねばり強く生きながらえたことで、その苦闘の歴史は賞賛に値いするものである。」と柏崎出身者ならではの共感とともにその人生を描いている。なお、高広の晩年については不明な部分が多いが、大図は「戦国のことでもあり、高広のその後の消息は明かでないが、天正16年(1588)9月18日に歿したものとみられている。永正10年(1513)12月11日生れと推定され、75歳の生涯であったろうか。」と指摘。柏新時報連載「新・柏崎ものがたり」の「北条氏は上野で(後)」(2015年11月20日号)では「群馬県警本部前の土塁には前橋城の説明板があり、北条高広と小田原北条氏にそれぞれ『きたじょう』『ほうじょう』のふり仮名が振ってある。これは柏崎にルーツを持つ大図氏の功績だったのではないか。」と紹介している。

越後國柏崎 弘知法印御伝記(えちごのくにかしわざき こうちほういんごでんき)
寺泊(長岡市)の西生寺に即身仏として安置される弘智法印をモデルにした古浄瑠璃本で、博物学者でもあったドイツ人医師ケンペルが1692年に鎖国下の長崎出島から密かに持ち出した。早稲田大学の鳥越文蔵がケンブリッジ大学で日本の中世演劇を教えるため渡英した1962年に大英博物館で発見、日本では原本が確認されていない。弘智法印にまつわる伝説をもとに虚構を加えた高僧の一代記で6段からなり、初段は海陸往還の地として繁栄した往時の柏崎を偲ばせる。鳥越は発見の際の事情について「ヨーロッパには近世文学関係の書物が随分流出しているということを聞いていて、その調査もケンブリッジ行きの密かな目的だったが、着いた途端に大英博物館で何か新しい浄瑠璃本が出たと聞き、ロンドン大学の友人に案内されて博物館に行った。それが『弘知法印御伝記』だった。渡英する前年に早稲田大学の安藤更生先生が書いた『日本のミイラ』で、弘智法印が日本で一番古いミイラだということを知っていたが、浄瑠璃にそういう作品があることを知らなかったのでびっくりした。博物館側に天下に一つしかない本だから是非紹介させてほしいと懇請し、紹介が認められた。オープンな公開姿勢にカルチャーショックを受けた。」(2010年の講演「柏崎の芸能」)と述懐した。復活上演については次項。

越後國柏崎 弘知法印御伝記の復活上演(えちごのくにかしわざき こうちほういんごでんきのふっかつじょうえん)
早稲田大学の鳥越文蔵が大英博物館で発見、『古浄瑠璃集 大英博物館本』(古典文庫)として翻刻出版した台本をもとに、越後角太夫と西橋八郎兵衛が越後猿八座を立ち上げ舞台の再現と復曲を目指し、柏崎ゆかりの古浄瑠璃を復活初演する会が支えた。越後角太夫に『弘知法印御伝記』復活を提案したのは、鳥越文蔵をケンブリッジ大学に推薦したドナルド・キーン。復活再演壹の巻(プレイベント第1弾、2008年9月20日)、同貳の巻(プレイベント第2弾、2009年3月7日)を経て、2009年6月7日越後猿八座の旗揚げを兼ねた本公演(全段公演)を行った。会場は柏崎市産業文化会館文化ホールで、「柏崎ゆかりの幻の古浄瑠璃が300年ぶりに復活」と大きな話題となり、中越沖地震(2007年)で大きな被害を受けた柏崎の文化復興に貢献した。2010年10月30日、31日には東京公演(浜離宮朝日ホール)、2017年に6月2日はロンドン公演(大英図書館ノレッジセンター)を行っている。復活上演について越後角太夫は復活再演壹の巻で「台本はあるが節回しはわからず、全くの手探りだった。古浄瑠璃の流れを汲む佐渡の文弥人形を参考に復曲した。」と話している。この復活上演で結ばれた絆が、柏崎市にドナルド・キーン・センター柏崎が設置される契機となり、越後角太夫(上原誠己)は2012年にドナルド・キーンの養子(キーン誠己)となり、キーン死後の2020年、その遺志を継ぐため一般財団法人ドナルド・キーン記念財団を設立した。

越後国頸城郡絵図(えちごのくにくびきぐんえず)
越後国を治めていた上杉家が慶長2(1597)年に作成した絵図で、いわゆる太閤検地の結果を反映したものと考えられる。米沢藩主上杉家に伝来。頸城郡東部が描かれる。縦340×横580。同時期に作成したと見られる越後国瀬波郡絵図とともに重要文化財、米沢市上杉博物館蔵。国指定文化財等DB(文化庁)は「城郭・村落・町場・寺社・道路・橋梁・耕地・水系・山岳などを彩色で描き、郡郷界を朱線で示す。図中に郷名・村名・知行人の名前・本納・縄高・家数等を墨書し、頸城郡絵図には住人数を併せて掲げる。記号化の進んだ江戸時代の国絵図と異なって、縮尺は一定せず、景観の描写には絵画風で中世的な特徴を残している。」「2鋪の絵図は、宝永4(1707)年に大破した状態で米沢の藩庫から発見され、藩当局によって修理を施された。他の諸郡の図についても米沢や江戸藩邸を探したが、見つからなかったという。近世最初期における国郡規模の絵図の形姿を示す類例のない資料として、歴史的価値は極めて高い。」と説明する。現在の柏崎市域では、米山、小鮒(村)峠、大清水観音、八(鉢)崎町、はたもち(旗持山)、揚(上)輪村、吉尾村、こすげ(小杉)村、笠嶋(島)村、谷根村、あふミ(青海)川村、頸城苅羽郡境さかしま川などの文字、聖が鼻と見られる岬が見える。「八崎ヨリ笠嶋江十五里」「笠嶋ヨリ柏崎迄二十五里」の古道経路を示していたり、八崎町に「関所木戸」が描かれたりして注目される。

越後のちりめん問屋(えちごのちりめんどんや)
テレビシリーズの『水戸黄門』などでは「越後のちりめん問屋の隠居」という仮の身分になっているが、越後においては「ちりめん」は生産されておらず、設定としては誤り。正しくは「越後のちぢみ問屋」だったのだろう。『新潟県史通史編5』によれば実際のちぢみ問屋は、十日町(6軒)、柏崎(4軒)、堀之内・小千谷(各3軒)、高田(2軒)が記録に残っている。2011年放送の「いい旅・夢気分-冬本番!新潟ローカル線の旅 あったか名湯と日本海の幸」(テレビ東京)で、『水戸黄門』31部から43部に出演した光圀役の里見浩太朗が「越後のちりめん問屋」を訪ねるシーンがあった。ロケで訪れたのは柏崎市四谷1の三忠呉服店で、店主の三井田忠明さんから「越後にはちりめんはなく、ちぢみと混同したのでは。ちりめんは絹、ちぢみは麻で織ったもので、全くの別物」などの説明を受けた。水戸藩を得意先とした同呉服店にはゆかりの品が残されており、「水戸御用」(水戸藩の御用達札)にも里見黄門は驚いた様子だった。

越後民謡管見(えちごみんようかんけん)
1940年に万里閣から刊行された藤田徳太郎著『日本民謡論』に収められた論文。「潮来節について」「おけさ節について」「さんがい節について」で構成、初出は新潟県民俗学会『高志路』23号、24号(1936年)。このうち「さんがい節について」では、三階節の代表的歌詞「蝶々とんぼやきりぎりす」「可愛がられた竹の子が」が江戸後期の『守貞漫稿』や『小唄のちまた』所収のヤッショメ節のなかに見られるとし、『柏崎文庫』の関甲子次郎が1899年に大阪の幾代亭で聞いたヤラシャレ節(「蝶々とんぼやきりぎりす」「可愛がられた竹の子が」)にもふれながら「此の流行唄が、文政当時、江戸、名古屋、大阪で行われてゐたことがわかり流行の範囲も甚だ広かったのである。」「問題は、此のヤッショメ節が、さんがい節から出たのか、さんがい節がヤッショメ節から出てゐるかといふ事である。さうして、私は後者の方に考が傾いてゐる。即ち、さんがい節は、幕末の『越後土産』にも既に出してゐるから、その頃、柏崎に存在した事は明かであるが、それに前の事については曖昧模糊としてゐる。然るに、ヤッショメ節は、文政年代に広く全国的に流行した事は確実であるから、この流行唄が柏崎にも流入して土着したものと考へるべきであらう。」と結論付けている。また呼称について『柏崎文庫』の関甲子次郎説を支持し「三層に重なってゐるといふ意味で、やはり普通書かれてゐる通りに三階節の字がよいと思ふ。過現未の三界であるなどといふのは附会説に過ぎない。」としている。藤田徳太郎は綾子舞の本格調査のため桑山太市が招請した専門家の一人(1941年来柏)で、本論考で「今後の私の調査の課題として、あらためて北陸地方に出かけたいとおもってゐるのである。」と記したが、1945年の下関空襲の犠牲となり果たせなかった。

越後毛利の殿さま(えちごもうりのとのさま)
越後毛利研究家の関久(柏崎市)が入門用としてまとめた冊子。1997年刊。この年はNHK大河ドラマ「毛利元就」で越後毛利氏に関する関心も高まっており、これまで関が発表した「北条の殿さま」(1)、「北条の殿さま」(2)、「安田の殿さま」、「善根の殿さま」の雪のふるさと茶飲み話シリーズを1冊に編集した。関は一次資料にこだわり説明も専門的だが、ここでは入門用のため終始ソフトムード。冒頭で関は「平成9年正月からNHK大河ドラマ『毛利元就』が始まった。毛利氏は相模国毛利荘(神奈川県厚木市)で誕生し、越後国佐橋荘(新潟県柏崎市)で成長し、安芸国吉田荘(広島県吉田町)で発展した名族である。厚木市、特に吉田町では毛利氏関係の史蹟、文化遺産の保存、啓蒙活動を熱心に推進し、目を見はるものがある。西国毛利の祖先毛利時親、曽孫の毛利元春の出身地である柏崎市は、両市にくらべると何歩か遅れをとっている感じがする。」とし、さらに「北条の開発は源頼朝の重臣大江広元の時代にさかのぼり、広元の孫毛利経光の来住によって進んだ。経光の子孫が北条城(柏崎市大字北条)を築き、12代にわたって『毛利丹後守』を名のった。上杉謙信時代、11代丹後守高広が前橋城代をつとめ、関越の要職にある。越後の戦国史は、北条毛利丹後守を抜きにして語ることができない。(略)北条城主の庇護もあって、城下には由緒の深い神社仏閣が多く、古文書など寺宝・社宝となっているものも、沢山ある。」「北条の歴史的な由緒は、県下に追随を許さないものがある。住民の地味の伝統もあって、他郷にみられる派手な宣伝はない。まさに、『ひかえ目』という名の雪に閉されたふるさと、それが北条である。ふるさとの歴史的な誇りが、北条の人たちの心の支えになっている。」との矜持を見せる。関は『越後毛利氏の研究』(1965年)、『北条町史』(1971年、第1編古代の郷土と第2編佐橋荘の興亡)の執筆を担当、研究をリードしてきた存在であり、「近年、郷史研究家と称する人たちが越後毛利氏について言及しているのを見かける。それらをみると、大抵は筆者が書いた『越後毛利氏の研究』(昭和40年)・『北条町史』(昭和46年)等を転用しているようである。そこで、あえて指摘しておきたいことは、第一に筆者の書いた著書の中の問題点について、十分に理解したうえで利用してほしいことである。とくに越後毛利氏の系譜は後年さらに検討をするつもりで図示したものであり、善根毛利はその最たるものである。第二に越後毛利氏に言及した一部の人にみられることであるが、他書・他説を引用する場合のマナーの問題である。他書・他説をみて、一見、自説のように読者にうけとられる形で利用するのは、この道の研究家を自称する者としての良識を疑わざるを得ない。猛省を促し、実例をあげることは避けることにする。」との苦言も。

越佐路散歩(えっさじさんぽ)
新潟大学教授の箕輪真澄(柏崎出身)による文学・歴史散歩ガイドブック。1977年刊。箕輪は『越佐の名作』(1973年)、『越佐文学散歩』(1974年、共著)などの著者として知られており、これらの内容をコンパクトにまとめた。北陸線に沿って、信越線に沿って、上越線に沿って、越後線に沿って、羽越線に沿って、磐越西線に沿って、佐渡をめぐる-の各章で構成し、柏崎関係では生田萬墓所、貞心尼旧跡めぐり、謡曲柏崎の寺、与謝野晶子歌碑、日蓮着岸の地、童話と童謡の幻想風景を紹介。関連して「浜千鳥異聞-二つの童謡碑」「良寛と貞心尼-聖なる愛」の両コラムを執筆している。序「旅の楽しみ-古人とのめぐり逢い」で箕輪は「日本人なら誰しも一度は(芭蕉のような旅をしてみたい)そんな願いを持ったことがあるのではなかろうか。」としたうえで「『奥の細道』の旅は一言で言えば歌枕の旅だ。歌枕というのは、その昔、誰かが歌に詠んだ自然であり土地である。そこに自然と人間の融合が生じ、それが歌枕となる。従って歌枕を訪ねるということは、自然の景を通して古人の心に語りかけるということになる。(略)既に各種の観光案内書の多く出回っている昨今、この小冊子ではそれに屋上屋を重ねることを避けて、『古人との出逢い』をテーマに文学と歴史の旅路を記述してみよう。皆さんも一度、現代の芭蕉になったつもりで越佐路を歩いてみて頂きたい。そこに思いがけない人との出合いがあるはずだ。」と呼びかけ。

越佐の名作-ふるさと親子散歩(えっさのめいさく-ふるさとおやこさんぽ)
新潟大学名誉教授・箕輪真澄(柏崎出身)編。1973年刊。「はしがき」で箕輪は「テレビという『魔法の箱』のとりことなった現代少年少女諸君に、『読書もまた楽しからずや』ということを再認識して貰おうという配慮から、新しいアイデアの下に『郷土古典読本』を編んでみることになった。」とし「現代に<こんな親子があったらなあ‼>という夢を托して、ある『一家』を想定した。そして、そこでの親子団欒の夜語りと日曜親子散歩を組合わせて、十編の物語・紀行を構成した。(略)『親子読書』運動に、『親子散歩』も加味して、家庭における読書熱とふるさとへの関心が高まってくれることをひそかに期待している。」と述べる。柏崎関係では謡曲「柏崎」を題材に「悲しみの母 わが子尋ねて」が書かれ、「柏崎市をたずねて」では柏崎公の寺、洞雲寺、浜千鳥の碑が取り上げられる。8人の執筆者で分担、箕輪自身は「赤いろうそくと人魚の秘密」を執筆しており、「『赤いろうそくと人魚』の背景になったところ」として番神岬を紹介、上笙一郎の研究成果(『未明童話の本質-赤い蝋燭と人魚の研究』、1966年)を念頭に置いたようだ。

越信羇旅吟(えっしんきりょぎん)
柏崎ゆかりの歌人・吉野秀雄の第2歌集『苔径集』(1936年)所収。結核療養で体調が回復した1930年、出雲崎で開催された良寛100年忌、柏崎の洞雲寺で開催された貞心尼忌に列席すると共に、周辺の良寛関係史跡をめぐり詠んだ計23首。構成は途上2首、越後柏崎にて貞心尼の墓に詣づ1首、出雲崎5首、島崎村木村家にて良寛禅師の遺墨を観る2首、同家邸内良寛禅師終焉の地・島崎村なる良寛禅師の墓に詣づ・国上山乙子神社・国上山・五合庵・寺泊各1首、信州柏原一茶終焉の地2首、野尻湖畔5首で、このうち「越後柏崎にて貞心尼の墓に詣づ」として詠まれた「うるはしき尼なりきとふ山藤の短き房を墓にたむけぬ」は代表歌として洞雲寺の歌碑(まちしるべ)になった。増補改訂版吉野秀雄全歌集(2002年、宮崎甲子衛編)によれば「短歌作品拾遺」として柏崎関係で柏崎の町3首、洞雲寺にて7首、貞心尼忌の折に2首、貞心尼展墓2首が掲載されており、とりわけ貞心尼のイメージを鮮明にした旅だったようだ。この旅で母親の実家である柏崎市野田(のた)の罇家に2泊して旅の疲れを癒やしており「旅行きに倦みたるわれは刈羽郡(かりわごおり)野田村の雨に二夜眠れり」「代田打忙しき野田の村道を瞽女連れ立ちてゆるゆる過ぎぬ」他1首(「拾遺追録」)も残した。

江戸末期の柏崎 戊辰の道筋探索ツアー(えどまっきのかしわざき ぼしんのみちすじたんさくつあー )
2014年、北国街道観光まちづくり会議主催で行われた歴史ウォーキング。京都所司代を務めた桑名藩主・松平定敬の来柏と鯨波戦争の開戦(1868年)により柏崎市には戊辰関係の史跡が多く、この発信のため開催した。旧幕府軍、新政府軍それぞれ本陣となった勝願寺(柏崎市大久保2)と妙行寺(柏崎市西本町1)を訪ね、両住職から歴史秘話を聞くという特別企画も話題を集めた。勝願寺では、幕末の桑名藩藩主・松平定敬の活躍や同寺との関わりを大藤赳麿住職が「京都では将軍、会津公に続いて、ナンバー3の位置にあった。徹底抗戦した会津に対して、桑名本国は、徳川家康と異父兄弟というルーツにもかかわらず早々と新政府軍に降参した。帰るお城のなくなった定敬公は青森経由で分領の柏崎に入った。本陣を勝願寺としたのは、当時の住職と京都で面識を持っていたため。定敬は、さらに分領である加茂を経て、会津、函館に転戦したと聞いている。柏崎の戦争で亡くなった藩士を弔うため、7回忌、13回忌、17回忌に柏崎を訪れ、法要を行っている。いつまでも藩士のことを思う殿様だった。」と語り、定敬拝領の「葵紋の陣笠」も披露された。妙行寺の秋山文孝住職は、「なぜ、官軍に味方したかというと、筆頭総代の星野藤兵衛の存在が大きかった。柏崎は旧幕府方と見られていた。このままだと柏崎の町が戦場になり、灰燼に帰してしまうかもしれないと藤兵衛は心配し、できる限りのことをするから、火事にしないでくれと官軍側に頼み、現在のお金に換算して10億円を寄付した。それで戦火を避けることが出来た。柏崎の恩人だった。」と説明、駐屯した新政府軍兵士が残した本堂落書、藤兵衛の御殿楼を移築した奥座敷、暗殺された桑名藩家老・吉村権左衛門の墓を見学した。一方、柏崎陣屋桑名藩士長屋跡では生田万の乱の「刀傷」の残る長屋が取り壊され、その後に「売土地」の大きな看板が立っている変貌振りに驚き「行政の力で何とかできなかったものか」との声も上がっていた。この他、鯨波戦争のあった御野立公園、柏崎陣屋跡などに立ち寄り、昼食は「陣屋弁当」が提供された。

エロシェンコ氏の像(えろしぇんこしのぞう)
中村彝が盲目のエスペラント詩人・エロシェンコを描いた大正期の洋画を代表する傑作。1920年制作。重要文化財で国立近代美術館蔵。第2回帝展(1920年10月13日から11月20日)で絶賛され、柏崎の洲崎義郎のところへ届く予定になっていたが、今村繁三(今村銀行頭取)の手に渡った。彝は「帝展へは非売品として出品致します。但し会期中、政府の方から売渡しの交渉を受けた場合は、権利はその方へ御譲り下される様に願ひます」(洲崎義郎宛て書簡、1920年9月27日)として「500円」が洲崎から支払われていたが「昨日、実に困った厄介な事が起りました。あの雨の中を突然、中村春二さん(成蹊学園創立者で今村との仲介者)がやって来て、『君あのエロシェンコの絵は、どこかへやる事に話がきまって居るのか』ときくから、『エ、もうきまって居ります』と答へたのです。すると大変当惑した様な顔になって、切りと考へ込んで居ましたが、やがて『それは困った、実は昨日今村さんに会った処が、今村さんが『是非あの絵を欲しいものだ』と言はれたので私は私の推断から『それは無論、あなたに差し上げる積りでわざと非売品にしてあるのでせうから早速彝君にそう申しませう』と言って分かれたのだそうです。(略)何しろ、既に君との契約の際、個人からの要求には一切応じないと言ふことを明言してあるので、僕も何んとも御答へが出来ないので、僕も大いに困って、だまり込んで終ったのです。(略)『それでは一応友人(洲崎のこと)に話をして、そして若し当人が承知ならば、そう言ふことに致しませう。その人も多少私と今村様との関係は知って居らるゝ筈ですから或は私の無理な願ひをきゝ入れて呉れるかも知れませんから』と答えて置きました。」(同、1920年10月28日)、「それからエ氏の肖像については、僕も随分考へて見ましたが、あれはやはり今村様へ差上げるより外はあるまいと考へます。あなたの『正しいお心』にそむくのは心苦しいが、恩人の心にそむくことは猶更僕としては堪へられないのです。それも相手が度々色々な要求をするのならともかく、あの人が僕に要求したのは今度が初めてなのです。(略)僕はあなたがとにかく『我』をはらずに、僕のこの心をくんで下すった事を限りなく感謝します」(同、1920年11月11日)などの事情から洲崎の了承を得て今村の許へ。その後、この絵を取得した埼玉の大里一太郎から1956年に東京国立近代美術館に寄贈。1997年に新潟県立近代美術館で開催された「大正の美と心 中村彝」展で展観された。

【お】
おいな汁(おいなじる)
柏崎市南鯖石地域で栽培される里いも在来種「土垂(どだれ)」を使った具だくさんの郷土料理で、同地区に伝承される「おいな」(柏崎市文化財)にちなんだ。土垂は小粒なサイズで濃厚な味わいが楽しめる里いもで、煮くずれしにくい。南鯖石の土壌が里芋栽培に適していたことから「昔はどの世帯でも作っていた」という。醤油ベースでニンジン、ゴボウ、長ネギ、油揚げ、豚バラ肉、こんにゃく等と煮込む。地産地消の一環で2005年の南鯖石地区コミュニティまつりで登場して人気を集め、その後名物となった。えんま通り商店街の中越沖地震復興イベント(2007年)、表参道・新潟館ネスパスでのにいがた・柏崎野菜祭り(2008年)、鍋合戦柏崎の陣(2010年)などに出展し、話題を集めた。

おいな保存伝承活動(おいなほぞんでんしょうかつどう)
「おいな」は南鯖石地区に古くから伝わる盆踊りで、三階節のルーツとも呼ばれ1973年に柏崎市文化財指定。「おいな」の語源については「アイヌ語で昔語りの意味」「お釈迦様の弟子の目連尊者の母親の名前」などの説がある。笛、太鼓などの鳴り物を一切用いず、出し音頭(男性ひとり)、付け音頭(何人かの女性)、上げ音頭(男女合わせて5・6人)がやぐらのまわりを廻り音頭を取り、その外側を踊り手が輪で囲み踊る。出し音頭の男性は番傘をさして歌う。民謡研究家の町田佳聲は「素朴で土の香りを漂わすしみじみとしたものであり、郷土性と古典的で優美な踊りぶりである。」と高く評価、三階節と同様の歌詞(明けたよ夜が明けた…等)も指摘される。消滅の危機にあったが新潟県の過疎地域等自立促進支援事業を受けて2002年から柏崎市教育委員会、南鯖石おいな保存会による本格的な保存活動がスタート、音頭取りと踊り手の育成、集落での講習会、衣装づくりなどを行い、この成果を同年の柏崎市生涯学習フェスティバル(マナビィステージ)で披露して話題を集めた。2019年には第34回国民文化祭関連イベントとして松雲山荘のライトアップに合わせた「秋の芸能公演会」に出演。

皇子・逃亡伝説(おうじ・とうぼうでんせつ)
柿花仄著、1993年刊。サブタイトルは「以仁王生存説の真相を探る」。「巻物に出会う」「囮作戦」「小国をめざして-会津紀行」「越後を去る」「以仁王の家族」「鎌倉の生活」「野に下る」「まとめ」の8章で「以仁王は光明山で戦死した※とされるが、実は会津から八十里を越えて小国氏を頼った」という壮大な物語を構築した。以仁王は後白河天皇の第三皇子で、平家追討の令旨を発したが事破れた。東国生存説も根強く、旧小国町には逃亡伝説が残る。柿花は第1章「巻物に出会う」で「昭和63年春、思わぬ偶然から『巻物さま』とよばれる古い文書と出会った。その存在は、隔絶されたどこか遠くの地方の、浮世離れした噂のような形で、私の耳に入っていた。(略)思わず内容に目を走らせた。宝王サマ・天王サマ・御キサキ・王子・若宮・源平タタカイノ砌などの文字が煌星のごとく鏤められていて目を瞬たいた。(略)一生に一度だけ、代替わりの折に披見が許される儀式があると聞き及んでいたこともあって、さっと斜めに読み過ごしたあとに、心の中に怯が走った。内容への興味はあるが、どうしても禁忌(タブー)の影がつきまとう。」と執筆動機、経緯を説明している。巻頭写真では小国関係の「北原氏巻物の一部分」「高橋氏巻物の一部分」「小国苔野島の中村氏巻物の一部分」「北原氏所蔵の茶釜」、文中でも高倉宮以仁王御陵説もある「苔野島御陵」が紹介されている。※平家物語に「光明山ノ鳥居ノ前ニテ、流矢ノ御ソバ(傍)腹ニ立ヌ。馬ヨリ逆ニゾオ(落)チサセタマフ。(略)御目モ御覧ジアケ(開)ズ、物モ不被仰、消入ラセ給ニケリ。」(『延慶本平家物語本文篇上』、北原保雄・小川栄一編)とある。

大江広元(おおえのひろもと、1148-1225)
平安時代有数の碩学として知られ小倉百人一首にも登場する公卿・大江匡房の曾孫。源頼朝の挙兵とともに「京都に見切りをつけ」(関久『越後毛利の殿さま』)鎌倉に下向し、朝廷との交渉実務や鎌倉幕府の体制整備に活躍、公文所、政所の別当(長官)となり、守護地頭の設置を頼朝に献策した。源義経の弁明書「腰越状」は大江広元に宛てて書かれた。頼朝の死後も2代将軍頼家、3代将軍実朝の側近として活躍、承久の乱では北条政子とともに京都への進軍を強く主張し、幕府方の勝利に貢献した。長男親広は寒河江氏(山形県寒河江市)、次男時広は長井氏(山形県長井市)、3男政広は那波氏(群馬県伊勢崎市)、4男季光は毛利氏(神奈川県厚木市)となって各領地に定着、4男はその後の越後毛利(柏崎市)や西国毛利の祖となった。家紋はいずれも「一文字に三つ星」。司馬遼太郎は『ビジネスエリートの新論語』で、大江広元を「サラリーマンの元祖」「古今無双ともいうべき保身の達人」「カマクラ・システムの安定のためにずいぶん人を殺したが、フシギと人のウラミは買っていない。ばかりか、一殺ごと、世論の尊敬を増すという、まことにズルい君子人だった。」などと評している。NHK大河ドラマ「草燃える」(1979年)では岸田森、「鎌倉殿の13人」(2022年)では栗原英雄が演じた。

大江広元関連史跡(おおえのひろもとかんれんしせき)
神奈川県鎌倉市には大江広元邸宅跡の碑(鎌倉市十二所、金沢街道沿いの明石橋近く、下屋敷)、大江広元を祭神とする大江稲荷神社(鎌倉市十二所)がある。邸宅跡の碑は大正4年に鎌倉町青年団が建立したもので「頼朝公ニ招カレテ鎌倉ニ来リ」「幕制制定ノ功多キ」などと説明。大江稲荷神社の初午祭では、本尊の大江広元木像を祀る十二所の五大明王院の住職が読経供養するという。大蔵御所に近い筋替橋そばには上屋敷があったとされる。墓(鎌倉市西御門2)は、清泉小学校(大蔵御所跡)裏手にあり、源頼朝や2代執権・北条義時の墓にも近い。やぐら(横穴)式の墓で、左隣には4男毛利季光、右隣には頼朝の落胤説がある島津忠久(薩摩島津氏の祖)の墓がある。墓前の亀趺碑には「鎌倉創業第一之者」「相州毛利荘」「享年七十八」などの文字が見える。金沢街道岐れ路交差点付近の「源頼朝公・大江広元公御墓」標柱が目印。また明王院(鎌倉市十二所)裏山の石塔も墓と伝えられる。

大久保窯業とれんが倉庫(おおくぼようぎょうとれんがそうこ)
赤れんが棟を愛する会主催の連続講座(2005年)で柏崎市立博物館長の三井田忠明が行った講演。柏崎市教育委員会が実施した「新日本石油加工株式会社柏崎工場ドラム缶塗装場 分留室 第一試験室建造物記録保存調査」の責任者を務めた三井田は「明治32年に日本石油会社本社が尼瀬から柏崎に移転し、日本最大規模の柏崎製油所を新設した。必要な機械の製作修理を担当する新潟鉄工所柏崎分工場設立や宝田石油の第二製油所設置など、製油所の町柏崎は活況を呈した。大小23の製油所が操業するという乱立期でもあった。」と当時の状況について説明したうえで「建設資材として地元産れんがの供給が必要になったが、当時の交通状況から遠隔地からの運搬は困難だった。そこで大久保の家内工業であった窯業が大きな発展を見せた。大久保窯業で生産されたれんがは明治30年開通の私設北越鉄道のトンネルや橋脚にも使用された。」と説明し、旧日石加工の赤れんが棟について「明治時代から今日まで、柏崎の産業経済を支えた二つの地場産業を象徴する歴史的建造物。柏崎の歴史、文化を語る上で欠かせない。」と力説した。

大熊川(おおくまがわ)
1956年8月の「民俗芸能の会」による綾子舞現地調査(綾子舞を見出した本田安次をはじめ郡司正勝、西角井正慶、町田嘉章、三隅治雄、鳥越文蔵らが参加)で台詞が確認された綾子舞の狂言演目。下野座元の演目だがこの時すでに演じられていなかった。この6年後の1962年に奄美諸島の調査を行った本田は与論島の十五夜踊りに「大熊川」を発見した。調査成果をまとめた『奄美の旅』(1964年)で「次に狂言『大熊川』の千人斬、極く短いものであつたが、こんなものがここにあらうとは思ひもかけなかつた。越後の綾子舞の狂言にのみ残つたかと思つてゐたものである。」と驚きを表し、『日本の民俗藝能Ⅳ 語り物・風流二』(1970年)でも「一時は相当知られた曲であつたやうに思はれる。その内容が面白かつた故であらう。」(与論島の十五夜祭)と附記。綾子舞現地調査に同行した鳥越は、演劇博物館本『綾子舞歌詞』にある「大熊川」を翻字している。なお歌舞伎では「大熊川源左衛門」として知られ、『絵入狂言本集 上』(近世文藝叢刊第5巻、1969年)では「新潟県の綾子舞の詞章に『大隈川』があり、大隈川源左衛門のことが語られるが、この狂言との関係は不明である。当時大隈川源左衛門といふ実在の人物があつて、それを劇化したものであらう。」と言及している。「民俗芸能の会」による綾子舞現地調査については別項。

大洲てくてくマップ(おおすてくてくまっぷ)
柏崎市指定のウオーキングコースの一つ。日蓮も見た絶景の道(夕日の森公園発着で番神諏訪神社、番神堂、波切り不動尊、閻王寺跡などをめぐる、1~1.5時間)、渡部勝之助が歩いた道(赤坂山公園第4駐車場発着で勝願寺、柏の大樹跡、柏崎陣屋跡・柏崎県庁跡、極楽寺などをめぐる、1~1.5時間)、産業夜明けの道(赤坂山公園第4駐車場発着で大久保窯業跡、原琢斉・得斉藤生地跡、五十嵐記念館、原惣右エ門工房などをめぐる、1~1.5時間)の3コースで「文化を育む歴史のまち」である大洲、番神を紹介する。

大宅壮一が見た宮崎清隆(おおやそういちがみたみやざききよたか)
ベストセラー『憲兵』で柏崎出身の作家・宮崎清隆に注目した大宅壮一による宮崎の自宅訪問記が「ヒットラーに敬礼する男」で、『「無思想人」宣言』(1956年刊)に収められる。「上野の不忍池に沿うて公園の反対側を本郷の方に曲ると、最近映画化された鷗外の『雁』に出てくる旧岩崎邸の高い塀がある。その裏側の狭い路地を入ると、小さな犬小屋が目につく。これには『竜号』と書かれている。」という書き出しで始まり「彼は当年三十五歳、背はあまり高くないが、柔道四段、剣道三段というだけあって、体はガッチリしている。会った感じは予想外に明るいが、さすがに眼は鋭い。」と人物を評し、さらに「とにかくこの六畳の室は、〝軍国日本〟が残して行った最後の頑丈なトリデといった感じだ。いや、近き将来にまたも日本がその方向にむかって〝再建〟され、〝再興〟することがあるとすれば、この室こそ、そのための、もっとも堅固な橋頭堡の一つとなるであろう」との警戒感を表明する。「現在宮崎は二十歳前後の青年の間に圧倒的人気をもち、特に保安隊では、彼の著書は副読本のような形で読まれているという。これは日本の一部にはすでにそういった流れのあることを示すもので、その点からいって宮崎の存在は、今後日本列島を襲う公算の強い新台風の〝眼〟として注目さるべきものである。」と警戒感の理由も明かしている。「私は無帽で外出するのと同じように、無宗教で生きていくつもりである。これと同じような意味で〝無思想〟でありたいと思っている。」と宣言し注目された『「無思想人」宣言』では「平和教教祖の清水幾太郎、カメラ教教祖の土門拳、オブジェ教教祖の勅使河原蒼風、洋裁教教祖の杉野芳子等々、戦後文化の諸分野には、どこにでも教祖的もしくは准教祖的人物がいる。かれらが教祖的性格をつくりだしたり、それを高めたりする方法は、新興宗教の場合と原則的にはほとんど変りはない。」(教祖になるヒケツ)などと旺盛、活発な批評を展開するが、同様に宮崎も看過できないほどの存在になっていたことが伺える。当時宮崎の自宅は本郷竜岡町にあり、その後大宮市(現さいたま市)に移住、私邸庭に「三島由紀夫之碑」を建立することになる。

小川水明歌碑(おがわすいめいかひ)
小川水明(1892-1940)は旧小国町相野原出身の歌人。若山牧水に師事し『生霊』『水明歌集』『有明雲』などの歌集に秀歌を残したが同時代に高田出身の小川未明がいたため、たびたび混同された。東京外国語大学名誉教授の和久利誓一編による『小川水明歌集』(短歌新聞社)刊行を機に再評価の機運が高まり1997年に小国町中央公民館(現小国会館)前庭に歌碑「故郷の渋海の川のはりの木の朝いかならむ夜いかならむ」を小国芸術村友の会が中心となって建立。台座を含め約2メートルで水明自筆を拡大した。

小川水明と柏崎(おがわすいめいとかしわざき)
旧小国町で1996年に開催された「小川水明講演会」(「小国芸術村」友の会主催)での松田秀明の講演。松田は財団法人同一庵藍民芸館館長で歌人、『柏崎の大正歌人・歌論とその周流』(1995年)を著すなど郷土史家としても知られる。松田は「大正時代は反発反骨精神の時代ともいえる。水明という人はまず反骨のかたまりだったんじゃないか。天の邪鬼的というか反骨精神というか、時代そのものを背負ってたような人だと思う。水明周辺ではいつでも喧嘩が絶えない。水明の行く所、行く所みんな喧嘩がある、論争がある。問題がそこに惹起して来る。」としたうえで、「鉄牛事件」「赤頭巾論争」など水明が関わった論争を取り上げ「論争好きな水明だったが、歌の考え方はしっかりしていた。歌というものはまずしみじみと自分の心に歌いかけるもの、自分に話しかけるものだ。そして自分の心の悲しみが歌なんだ。さらによくなろう、よくなろうとする欣求(ごんぐ)の心と自分の煩悩とのぶつかりあったもの、そのもつれあいが歌でなければならないという持論を持っていた。江原小弥太の越後タイムスで、水明は柏崎の歌人を総なめに批評した。お前の歌は悲しみがない、欣求の心がないなどと徹底的にやっつけたが、これがなぜか柏崎の歌人によく受け入れられた。それは水明が背負った時代の反発精神が、進取の柏崎の気風に合致したということではなかったか。水明は柏崎の歌壇に新しい息吹を吹き込んだ恩人であるとも言える。」と述べた。

小川水明の生涯とその歌(おがわすいめいのしょうがいとそのうた)
旧小国町で1996年に開催された「小川水明講演会」(「小国芸術村」友の会主催)での和久利誓一の講演。和久利は東京外国語大学名誉教授で専門はロシア文学。小川水明の娘婿で30年にわたり岳父の資料蒐集を続けてきた。「(水明の妻の)サミは水明のことをあまり話したがらなかったが、それでもいろいろなことを聞き知り、水明の遺した歌集や短冊、折本などを読み、この小川水明という人の一生-何の定職にも就かず、先祖伝来の財産を費い果たし、家族や親族にも悲しみと苦しみを与えながら、二千首近い歌を遺して死んで行った四十八年の生涯、一体それは何であったかを考えた。そして私は、水明の一生が、人間この世に生まれてどのように生きるべきかを真剣に探求し模索した、悲しく、また苦しい、血みどろの闘いの一生であり、彼の歌にはその涙と血がにじんでいることに思い至った。」と述べたうえで、「師の若山牧水は『小川君の歌の長所はその生一本な所にある。一途にして寸毫も他を顧みないというような、至純にして濁りのない所にある。余等も常にそれに動かされて、知らず知らず耽誦しているのである。』と高く評価、齋藤茂吉も非常に細かな、好意的な批評を寄せるなどし、新進歌人として注目された。」として牧水が取り上げた「まだ啼きてありぬとばかり起き出づる有明ごろの田の蛙かな」「さやさやと若葉流るる夜の風に盈ちぬる月のやや傾きぬ」、茂吉が取り上げた「澄む月のいろより寂し虫の喘くすすきの原の風になびくは」「雨はれて水の嵩ます音ひびく東山よりいづる月かげ」などの歌を紹介した。

小川孝幸さんの話を聞く会(おがわたかゆきさんのはなしをきくかい)
柏崎市ボランティア連絡協議会主催で2010年11月13日に開催された講演会。柏崎市三和町で小川はり・きゅう治療院を経営、市内初の盲導犬ユーザーとなった小川に経験や課題を聞いたもので、「盲導犬によって歩くことを取り戻した。盲学校に通学した日から、小中学校時代の思い出を封印し、同級会の誘いがあっても決して出かけることはなかった。盲導犬との生活が始まり、勇気を振り絞って同級会に出かけてみた。みんなが(盲導犬を連れている自分に)一斉に振り返り、30年間のブランクが一瞬にして消えた。30年たっても自分の居場所はあった。みんなもそれぞれの苦しみを抱え、懸命に生きていた。逃げ回っていた自分が弱虫だと思った。盲導犬が来ることで生き方が変わった。」と述べるとともに、「法律で拒否できないことが決まっているにもかかわらず、タクシーや駅前のホテルで乗車や入店を拒否され、くやしい思いをした。犬をけしかけてくる心ない飼い主もいる。特に車のクラクションは犬がとても驚くのでやめてほしい。一方で、多くの方から(盲導犬の珍しさもあって)声をかけてもらっている。盲導犬がこれまで一頭もいなかった地域であり、未開の地。登山道を切り開くように、道なき道を歩んでいるという感覚だ。糖尿病による中途失明も増えていると聞く。柏崎の次のユーザーのためにがんばらなくてはならないと思う。盲導犬、障害者にとって開かれた社会になってほしい」と強調した。

小川由廣(おがわよしひろ、1880-1955)
柏崎市出身の彫刻師、日本遺産「北前船寄港地・船主集落」構成文化財のライオン像のある館(上越市中央3、旧直江津銀行)のライオン像制作で知られる。同館によれば「銀行解散後の建物を取得した高橋回漕店・高橋達太の要請で鬼門除けとして東京三越前のライオン像をまねて制作した」「小川はライオン像を10体以上手がけ、遠くは樺太、茨城県まで納めた」とのことで、柏崎市内では松波諏訪神社(2体)、柏崎神社(1体)、悪田稲荷神社(1体)、個人宅(1体)が確認されている。

隠岐しげさ節(おきしげさぶし)
三階節がルーツとされる島根県隠岐の島の代表的民謡。「しげさ しげさと声がする しげさの御開帳 山里越えても参りとや」が曲名の元になった。「御開帳」(隠岐しげさ節)、「御勧化」(三階節)の違いはあるが、ほぼ同一。西郷港近くの隠岐ふるさと直売所あんき市場前には隠岐しげさ節の由来碑があり「数ある隠岐民謡の中の代表的民謡である。『隠岐しげさ節』は、越後地方に伝承されている盆唄『しゅげさ』が元唄であると言われ、『しゅげさ』の語源は『出家さん』のことで、越後専福寺の法話が巧みで美男子の僧侶を賞讃して唄ったのがはじまりと言われている。江戸中期から江戸後期に隠岐に伝来し、北陸なまりで隠岐で唄い継がれ、島の人情風土に培われ現在の詞・曲に開花したものである」とある。松山雍二は「三階節覚書」(1942年、『高志路』93号)で三階節と共通の歌詞として「しげさ、しげさ…」に加え「蝶やとんぼやきりぎりす、お山で鳴くのは鈴虫松虫くつわむし」「猫ぢや猫ぢやと云はすけれど猫が猫がジョロジョロ履いて絞りのゆかたで来りやすまい」など5番を挙げている。柏崎民謡保存会は1999年、この縁で隠岐の島で開催された「第2回しまね地域伝統芸能まつり」に招待出演した。

「小国澤城址」石碑(「おぐにさわじょうし」せきひ)
NHK大河ドラマ「天地人」の放送にあわせ小国沢城本丸跡に建立された。設置者は小国よっていがん会で、2009年5月24日に除幕式が行われた。石碑までは長岡市おぐに森林公園つり橋から1・3キロの遊歩道だが、険しい部分もあり補助用のロープも設置される。本丸標高は252メートルですばらしい眺望が開ける。遊歩道には「堀切」「三の丸」「二の丸」「鳥瞰図」などの標柱、看板がある。地元研究者の山崎正治は『柏崎刈羽の古城址』(1989年再版)で「この山城は、5万分の1の地形図に『小城山』と明記されている標高252メートルの突出した一峰で、規模はさほど大きくないがなかなかよくできている城である。」「この城は規模こそ大きくはないが、図の如く南北朝時代の城郭によく見られる『馬蹄型城郭』の特色をもち、みごとな山城の構えである。しかも東方尾根伝えに『時水城』へ行ける位置にある。」「この本丸に立って四方をのぞめば、小国盆地を一望のもとに見渡すことができる。東方は楢沢の谷を挟んで時水城を指呼の間にのぞみ、他の山城とも容易に連絡できる要衝の位置にあることがわかる。」と解説している。

小国氏伝説(おぐにしでんせつ)
小国町歴史ロマンを語る会が2006年に刊行した歴史マンガ。小国氏は清和源氏から出た名族で、平安時代末期から戦国時代にかけて小国を治め、聚楽第(豊臣秀吉が完成させた邸宅)完成の際上杉家の祝いの使者に選ばれたのを機に「大国」に改めた。NHK大河ドラマ「天地人」では小泉孝太郎が直江兼続の実弟にあたる大国実頼を好演した。「若い世代を含め多くの皆さんから小国氏に興味、関心を持ってもらいたい」(小国町歴史ロマンを語る会)と新潟市出身の漫画家・石川堅士に依頼して完成したマンガで、脚本は同会が担当した。第1章小国への道(源頼政、源頼行)、第2章誉れの弓勢(小国頼継)、第3章南風競わず(小国政光)、第4章小国から大国へ(大国実頼)の4章で構成、弓の名手として承久の乱で活躍した小国頼継を「筋肉モリモリのマッチョ」として描くなど話題を呼んだ。副読本としても活用できるように下段に丁寧な歴史解説を入れたのも特徴。石川堅士による完成記念講演は別項。

『小国氏伝説』を描き終えて(『おぐにしでんせつ』をかきおえて)
歴史マンガ『小国氏伝説』の作者・石川堅士による完成記念講演。2006年10月21日に小国公民館で開催された。主催は小国文化フォーラム、小国歴史ロマンを語る会、もちひとまつり歴史部会。石川は「資料調べが大変だったが、不足している部分は空想で広げた。若い人たちに興味を持ってもらいたいとおもしろ、おかしく、よりかっこよく描いた。小国の人たちから、かつてこの地を治めた祖先を誇りに思ってもらえれば。」としたうえで、弓矢の名人として知られた小国頼継について「筋肉モリモリのマッチョとして描いた。昔からブルース・リーが大好きで筋肉の描き方を研究してきた。戦国の武将の筋肉の鍛え方と、バーベルで鍛えた筋肉は違うかもしれないが、妄想をさせてもらい、がっつり筋肉を描かせてもらった。」、越後南朝軍として戦った小国政光については「最も資料が少なかったが、どうせなら女性受けするキャラクター、美し目というのはどうだろうということになった。政光は戦国の世にあって筋を通した人。人が美しく生きるというのはこういうことだろうという美意識を投影したかった。自分で最も気に入っているキャラクターで、資料がない分大いに楽しませてもらった」と語った。

小国の生んだ大正叙情歌人 小川水明(おぐにのうんだたいしょうじょじょうかじん おがわすいめい)
「小国芸術村」友の会事務局長・高橋実が1997年1月1日の柏新時報に発表した新年寄稿。「小川水明?小川未明の間違いではないか。この類似名のために小川水明は、どれほど損をしているか。」「水明は不幸な生涯だった。その名においても、その短歌においても。」と書き出し、旧小国町相野原出身で若山牧水に師事し歌集『生霊』『水明歌集』『有明雲』を発表した小川水明の生涯をコンパクトに紹介、「水明が『越後タイムス』に多く寄稿しているのを紹介したのは、柏崎の歌人松田秀明氏であった。水明の娘婿で、ロシア文学者和久利誓一氏は水明の資料を精力的に集め、水明歌集発刊を目論んでいる。こうして歌人水明像がようやく地元の人達にも知られてきた。昨年夏、小国町就業改善センターで開いた和久利・松田両氏を迎えての小川水明講演会には、六十名近い人達が集まった。わが会では、この夏に小国町就業改善センター脇に水明歌碑を建立しようとしている。それは小国町にとって初めての歌碑となり、加えて『小国芸術村』友の会十周年の記念碑ともなるはずである。」と結んでいる。

小国の巻物伝説(おぐにのまきものでんせつ)
旧小国町原の北原家に伝承される「巻物様」の公開(1988年)に同席した郷土史家・山崎正治が解読成果をまとめた論考で、柏崎刈羽郷土史研究会の『柏崎刈羽』22号(1995年)に掲載された。『小国郷土史』(1938年)中の巻物伝説を引用した山崎は「私は少年の頃からこの一文が妙に気になっていた。三人の家長の人達が密かに恭々しく家宝の巻物を押し戴き、呪文を唱えながら執り行なう祭りの光景を思い浮べ、一種のおぞましさも感じたりしたものである。どんな巻物なのであろうか、その中にはどんな事が書かれているのであろうか?何故家族にまで秘密にしなければならないのか?」と記したうえで、1988年の巻物様公開時の印象、片桐与三九と共に行った解読作業、北原弘司『北原家の歴史』、柿花仄『皇子・逃亡伝説』など先行研究の紹介を行うと共に、巻物の原文全文、解読文を原寸大の写真(一部)とともに掲載。さらに同町新町の高橋家仏壇裏から桐箱に収まって出てきたという「高橋家の巻物」についても解読を行っており「その内容はというと、これが北原家の巻物様と全くよく似ているのである。最初の部分などは全く同一と言ってもよい。」「二つの巻物について述べて来たが、柿花氏説を要約すれば、北原家の先祖は高倉宮以仁王であり、高橋家の先祖は源三位頼政であるということになる。しかしこれらはすべて以仁王が無事に逃避行を遂げたものとしてこそ成り立つ事柄であることは論をまたない。」との見解を示している。

『おくのほそ道』は日記に非ず(『おくのほそみち』はにっきにあらず)
荻原井泉水が1954年に出雲崎町で行った講演「事実と真実」での発言。同町住吉町・芭蕉園「天河句碑(銀河序)」除幕の記念講演として行われた。1943年に『曾良随行日記』が山本安三郎(俳号六丁子)によって翻刻出版されたことを念頭にしたものと見られ「『おくのほそ道』は日記に非ず。『おくのほそ道』が日記でないがために芸術作品としての値打ちがある。」としたうえで「文学というものは創作だから尊い。『おくのほそ道』がただ芭蕉が歩いた日記であるならば、芸術としての値打はない。数年前に曾良の日記というものが世の中に出て、『おくのほそ道』と較べてみると色々違うところがあるというようなことから、色々の問題を研究する人がでてきた。私は曾良の日記を決して軽く見るものではないが、ある意味、曾良の日記が出たために、却って『おくのほそ道』について間違えた考えを持つ人が多くなったのではないかと思う。曾良の日記は、日記として尊重すべきものだが、それをもって『おくのほそ道』をかれこれ批評したり、あるいはそれに引き当ててこっちの方が本当で、『おくのほそ道』の方が間違っているというような考えをすることこそ間違っている。」と指摘、「曾良の日記というものは一つの事実。しかし『おくのほそ道』というものは日記ではなく芸術なのだから、それ故に『おくのほそ道』というものが尊い。」と結論付ける。井泉水と同時期の和田徳一(『越中俳諧史』著者)も「奧の細道の虚構を言う事が、曾良の隨行日記刊行後の一つの流行となっているが、それには隨分行き過ぎたものもあるようである。」「芭蕉と曾良とでは、人生の見方についても、文学的感興の持ち方についても、大分距離がありそうに思われる。芭蕉がひどく感動する対象に対しても、曾良の方では一向平気である場合が、いくらもある筈である。(略)元来、曾良の日記は、事実の骨子を事務的に書き連ねただけの、至極無愛想な記録である。」(越後路における芭蕉をめぐって、1952年)との論文を残している。

小熊哲哉さんの思い出を語る会(おぐまてつやさんのおもいでをかたるかい)
柏崎演劇研究会の創設者として本地方演劇界に大きな足跡をのこした小熊哲哉の13回忌にあたり、1998年に柏崎市市民会館で開催された。市内外から関係者が参加、柏崎演劇研究会代表の長井満は「温かく人の様を見て、決してウラをかく生きかたをしなかった人だ」と述べたのをはじめ、小熊と共に草創期をささえた近藤禄郎、新潟県議会議員の西川勉、市民会館館長の丸田昭三らがユーモアたっぷりに小熊の思い出を語り、今後の演劇振興への決意を新たにした。当日は小熊独特のユーモアが光る「喪服の女」、長井代表による「山脈」の上演も行われた。

おけさとハイヤの競演(おけさとはいやのきょうえん)
2005年6月12日に柏崎市市民会館大ホールで開催された第8回全国ハイヤサミットin柏崎のタイトル。柏崎民謡保存会、全国ハイヤサミット実行委員会の主催で、九州の牛深で発祥したハイヤ節と、さらにそこから派生して出来たといわれるおけさのルーツを探り交流を深めた。出演は島根県浜田市・浜田民謡保存会、宮城県山元町・坂元おけさ保存会、秋田県雄和町・大正寺おけさ保存会、佐渡市・立浪会、同・山田やまびこ会、同・さざ波会、出雲崎おけさ保存会、柏崎民謡保存会。横村英雄実行委員長(柏崎民謡保存会長)は「11時間をかけて柏崎に乗り込んだ島根の皆さんをはじめ、各団体の思いが結集するサミットとなった。たっぷりと楽しんでください」とあいさつ、3部構成で第3部の「おけさとハイヤの競演」では、九州・牛深からのメッセージが紹介されるとともに、各団体が唄の名手とともに躍動感あふれるステージを披露し、柏崎民謡保存会の柏崎おけさ、日本海太鼓も加わっての柏崎甚句でフィナーレを飾った。前日の11日には全国サミット代表者会議、また12日は終了後に交流会が行われた。

お宝探訪たかだ(おたからたんぼうたかだ)
高田コミュニティ-センター作成のガイドマップ。1947年の昭和天皇御巡幸の際に行在所となった飯塚邸をはじめ鵜川神社の大欅、高田村道路元標、三諦寺、夏井の十王堂、笠かぶり地蔵、龍松庵、龍雲寺、黒滝城跡、長泉寺、摩尼珠院、堀の大原遺跡、南下の大杉、南下のお子地蔵さん、新道かき栽培組合を紹介し、なかでも飯塚邸については「飯塚家由緒書によると、天正18年(1590)小田原城の合戦で北条方の武士であった飯塚延政が討ち死、その子延忠は諸国流浪の末、当地上条城主・上条上杉政繁の家臣、星野六右衛門の庇護をうけていた。慶長3年(1598)秀吉の命により、春日山城主上杉景勝が会津若松に移封となり、星野六右衛門も迫従することになり、その領地200石、館とも若武者延忠に譲って行ったといわれている。延忠は武士の望みを捨て、孫八郎と名を改め飯塚家初代としてここに定住した。」「重厚な長屋門造りの表門より邸内に入ると、江戸末期建造といわれる座敷棟が、さらに渡り廊下で新座敷棟・奥土蔵へとつづく。主屋西側は苔むした四季折々に趣のある広大な池泉回遊式庭園となっている。新座敷棟は大正初期の建造で、建材は長尺・巾広材や欅材などの最上級の部材が随所に見られ、当時の飯塚家の財力が窺われる建物であり、昭和天皇甲信越巡幸の際には行在所として2泊滞在された。」と詳しく説明。飯塚邸から礼宝山にかけての「昭和天皇の御散歩道」も現存18基の御巡幸碑とともに紹介している。

男谷検校器量のこと(おだにけんぎょうきりょうのこと)
江戸後期の巷説奇聞を集めた随筆集『耳袋』(巻之十)に掲載された男谷(米山)検校にまつわるエピソード。著者は佐渡奉行、勘定奉行、南町奉行を歴任した根岸鎮衛。「男谷検校という座頭は、秋元但馬守在所城下もよりの出生にて…」との書き出しに見られるような事実誤認もあるが、当時から検校が「伝説の人」になっていたことが伺える。「(秋元但馬守が勧めた高価な時計を買う)30両もあれば多くの人の命を救うことができる」と申し出を断った検校を「吝嗇者、非礼なり」と憤った但馬守が、4、5年後に「実際にふるさとの民を救い、石塔も建立されている」ことを知り、検校に詫びたという話。米山検校研究者の福原滋は『目明きを救った盲人、米山検校』で「当時の越後国刈羽群長鳥村は松平越中守(白河藩)の飛地の領地であったから、秋元公が確かめたとするのは無理がある。おそらく松平越中守が柏崎陣屋に、中村の郷米を米山検校の挙金によって開く事を許したことを秋元但馬守に語ったのではないか。」と指摘、想像を膨らませながら同書前半の小説中で「山形城主秋元但馬守謝る」とのストーリーを展開。尚、米山検校が男谷を名乗った時期について、福原は「米山検校が水戸家から、十人扶持をもらうことになった明和6年己丑11月11日である」と推理、その理由を「盲人が武士階級に属するようになったのであるから、姓を改めるのにはもっとも適当な時期とみられる。」としている。

おとし文(おとしぶみ)
柏崎演劇研究会による柏崎に題材をとった演劇の一つ。小熊哲哉脚本。1981年初演。幕末の生田萬の乱(1837年)を題材に、背景となった天保の飢饉にあえぐ庶民の姿、乱に参加した農民の心境を描く。演題は生田が書いたとされる檄文(おとし文)にちなんだ。乱に参加する農民・伊助に「これまでの行動の失敗は、だれかがやる、だれかがやってくれるだろうと思ってだれも、なんにもしなかったからだ。そして、いつまでも、この苦しみから逃れられなかった。今度、一揆起したからって、うまくゆくかどうか分からねえ。しかし、だれかがやらなけりゃあ、どうにもならねえ」と語らせるものの、実際は蜂起に加わるものは少なく、乱は失敗に終わった。劇中には生田萬本人は登場せず、暴動そのものも描かれない。2006年の桑名市と柏崎市の交流を進める演劇公演(第12回柏崎演劇フェスティバル)でも上演、桑名演劇塾は、乱の2年後に柏崎陣屋に着任する渡部勝之助が桑名の家族と交わした『桑名日記』『柏崎日記』を題材にした「幕末親子絆」(栗本英章脚本)を上演した。

踊る道祖神(おどるどうそじん)
柏崎市谷根(中和田)の市道沿いコンクリート擁壁のなかに祀られる双体道祖神で、命名者の阿部茂雄は「ようやく念願がかない二人が結ばれる喜びを、全身で表現しているような姿態の道祖神。田舎では戦後もしばらくの間は、男女が手を取り合ったり仲睦まじく歩くことなど考えられなかった。ましてそれ以前にはこのようなことは庶民にとって夢のまた夢であった筈。せめてもの願望の表現でもあろうか。」(「野の仏巡りある記」、1991年)と解説。風化によって躍動的な姿が失われつつあるのは残念だ。2014年の「にっぽん縦断 こころ旅」で火野正平が訪問したことから再び脚光を浴びた。「探したが見当たらなかった」という声を聞くが、市道でなく県道で探している場合が多いようだ。谷根川の西側市道(GOOD GRIND FARMスケートパーク横)で探してほしい。

「御野立公園」内石碑旧跡案内(「おのだちこうえん」ないせきひきゅうせきあんない)
明治天皇北陸東海巡幸の際、御野立所となったことが公園名となった御野立公園(柏崎市東ノ輪町、鯨波2丁目)は戊辰戦争の激戦地としても知られ、多くの石碑が建立される。これを発信、紹介するため鯨波地区コミュニティ振興協議会が2010年公園入り口に建てた案内板で①御野立法華塔②宮川氏顕彰碑③忠魂碑④谷干城詩碑⑤田中角栄蔵相碑⑥明治天皇御巡幸記念碑⑦大場遍路句碑⑧鯨波小学校旧グラウンド跡が案内図、説明文とともに紹介されている。なお、全国の芭蕉句碑を網羅する『芭蕉塚蒐』(田中昭三、1991~1993)には同公園に芭蕉句碑があったと記述するも現在は不明。

おはぎと観桜会-福島から届いた宅急便(おはぎとかんおうかい-ふくしまからとどいたたっきゅうびん)
2011年の東日本大震災、福島第一原発事故では柏崎市も最大で2100人を超える福島からの避難者を受け入れ、各所で様々な交流が見られた。元城東町内会長の佐藤騏四郎も対応にあたった一人で、その体験談として柏新時報2012年新年号に掲載された。佐藤らは避難者に彼岸のおはぎを届けたり、避難者を招待して観桜会を開いたりし、特に観桜会は「福島の皆さんを励ます会」として盛り上がり「カラオケになると、福島の皆さんがほとんどマイクを離さない熱演ぶりでした。」とし、大人のカラオケに合わせ4、5歳位の男の子が楽しそうに踊る姿に「以前は家族でカラオケを楽しみ、時には踊ることもあったのだろう。子どもにとっては、まわりの人たちが以前のような明るさを取り戻してくれたことが、うれしくたまらないのだ」と思ったと記す。数か月後、観桜会に参加したAさんから宅急便が送られてきて「柏崎では大変お世話になりありがとうございました。何もない、誰も知らない土地で、不安な毎日でしたが、佐藤さんをはじめ城東町内の大勢の方々に助けていただき、大変ありがたく嬉しく思いました。また、おいしいおはぎをいただいたり、花見にまで誘って頂き、楽しい思い出を作ることができました。」との手紙が同封されていた。福島県内には戻ったものの家族一緒に生活できない状態が続いていて、差出人住所は「福島県二本松市」とあったという。

おべん・藤吉ものがたり(おべん・とうきちものがたり)
寿々木米若の浪曲「佐渡情話」の原話となった伝説。『柏崎市伝説集』(柏崎市教育委員会、1972年)は「むかし、柏崎に藤吉という船頭がおり、柏崎と佐渡の間を行き来しているうちに、小木のおべんという女と深い仲となった。ところが藤吉は柏崎に女房、子どもがいた。藤吉が柏崎に帰ったきり音沙汰がないのでおべんがたらい舟で通うようになったが、佐渡から逢いに来る女心の激しさが恐ろしくなった藤吉は、ある日おべんが目あてにしていた番神岬の灯りを消してしまった。目標を失ったおべんは難破して、亡骸は青海川に打ち上げられた。」とのストーリーを紹介するとともに「おべんと番神堂の所化さ(僧)との異説もあり(略)はじめ佐渡のおベんが難船して、番神岬にたどりつき、番神堂の所化さに一命を助けられ、その所化さの美貌に一目ぼれして、夜ごとたらい舟で通いつめるすじになっている。」「おべんの在所も小木、相川の2説がある。」と説明している。『柏崎市伝説集』採話者の深田信四郎は『柏崎のむかしばなし』(1982年)にお弁の松、お弁の滝の命名由来も含め「お弁かわいや」を書いている。一方、小川未明が『赤い蝋燭と人魚』のモチーフとした潟町(上越市大潟区の)「人魚塚」伝説とは結末(女の死体には人魚のような鱗が生えていた)が異なる。熱海・初島、琵琶湖、河口湖に「たらい舟」「目印とした灯を消されたため遭難」が共通する伝説がある。(別項「海を通う女」参照)なお、『子どもとつづるふるさと大洲』(柏崎市立大洲小学校、1989年)は「お光、吾作の悲しい恋の物語は史実でなく、伝説であることを私達は知っています。同じような伝説が、琵琶湖にも、潟町にもあるそうです。また、柏崎の伝説では、二人の名前は『おべん』と『藤吉』だったのですが、浪花節として発表するときに、語呂が悪いということで『お光』『吾作』になったのです。」としたうえで「(下宿諏訪神社)境内の一番奥に『お光、吾作』の墓がありますが、もちろん本当のものではありません。」と淡泊すぎる解説。

【か】
海水浴場開場130周年(かいすいよくじょうかいじょう130しゅうねん)
柏崎の海水浴場開場は日本海側では最も早い1888年で、2018年が130年目にあたることから柏崎市、柏崎地域観光推進協議会が中心となって記念海開き、番神自然水族館の開設、サップやシーカヤックを体験するビーチピクニック2018、みなとまち海浜公園でのBBQ解放などで発信力の強化を図った。また、十日町市、津南町で開催された第7回大地の芸術祭とも連携、「今年の夏は、海と大地 アートに触れ、ビーチに遊ぶ。」をキャッチフレーズに相乗効果をあげた。日本初の岬カードの配布も行われた。

海水浴場の開場(かいすいよくじょうのかいじょう)
柏崎の海水浴場開場は日本海側では最も早い1888年で、陸軍軍医総監を務めた松本良順が大きな役割を果たした。幕府長崎海軍伝習所の医学教授・ポンペから海水浴の効用(病気治療と健康増進)を聞いていた松本は、軍医総監退任後、10項目の立地条件をもとに海水浴の好適地を求めて全国を行脚した。この結果、太平洋側では神奈川県大磯を1885年に海水浴場として開場。日本海側初の柏崎は3年後の1888年、蘭疇舎の教え子だった布施禎二の開業祝い(柏崎市島町)で来柏した際のことで、禎二は東大医学部卒業の1887年6月から「神奈川県大磯町に於いて軍医総監松本順先生創設の海水浴病院に就職、本邦において初めて海水浴の効果を宣伝奨励」(布施家累代、布施輝夫著)した経験があり、柏崎においても実動部隊になったと考えられる。柏崎市史は「当時の一般住民は夏になると水およぎはしたが、それは鵜川であり、池であって、海は竜神やフカなどがいるものとして敬遠した。(略)しかし、軍医総監ともいう偉い人が、身体のためによいことだと言うので、半信半疑の態で、夏の暑い日に海に入って泳いでみた。すると、毎年寒さの厳しい頃には、たいてい、感冒が流行して住民を苦しめたのに、夏海水浴をやった者は、感冒にもかからず、またかかっても比較的軽い症状だった。こうした話が、口コミで町中に広がり、塩湯治と称して、海水浴をする町民が急増したという。」と当時の状況を説明している。太平洋側の大磯では漁師が猛反対したそうだが、好奇心の強い柏崎では早速受け入れられたようだ。1916年に詩人の萩原朔太郎が家族で柏崎の鯨波海岸を訪ね、第一詩集『月に吠える』中に「海水旅館」という小品を残しており、詩碑建立の中心となった文学研究家の巻口省三は「朔太郎と柏崎の縁は特に考えられず、柏崎の海水浴場としての知名度の高さだったのではないか」と分析している。

海水旅館(かいすいりょかん)
萩原朔太郎の第一詩集『月に吠える』(1917年)所収。1916年7月25日から8月9日まで一家で避暑のため鯨波海岸を訪れ、蒼海ホテル(2004年廃業)に宿泊した際の作品、詩の最後に「くぢら浪(鯨波)海岸にて」と付記されている点で貴重。詩歌を楽しむ柏崎刈羽の会が中心となって、萩原朔太郎生誕130年にあたる2015年11月1日、県立柏崎アクアパーク記念碑コーナーに詩碑を建立した。会長で実行委員長の巻口省三は「この詩は、萩原朔太郎という巨人が柏崎の地に打ち込んだ黄金の釘だ」と喜びを表現した。同会は調査のすえ「特に萩原家と鯨波の縁は確認できなかった。松本良順によって開かれた日本海側初の海水浴場としての知名度だったのではないか」「鯨波という地名におもしろみがありクレジットされることにつながったようだ」などと結論づけた。

鏡里小学校記念碑(かがみさとしょうがっこうきねんひ)
柏崎市軽井川の鏡里小学校校門跡地に同窓生が建立した記念碑で、跡地を取得した北星製作所から用地提供を受け2001年に完成。同校を卒業した北原保雄筑波大学学長の揮毫で楕円形の千草石に「我ら ここに 学びし」と刻まれ、裏面には「明治7年9月枇杷島小学校附属軽井川校として創立」「明治25年鏡里小学校と改称」「昭和27年3月田尻小学校創立(田尻地区4小学校統合)のため閉校」「千数百名が学ぶ」と沿革がまとめられる。北原はこの経過、顛末について柏新時報2001年10月12日号に「母校跡地に記念碑が」を寄稿、「私はただ遠くにいて願いを述べていたに過ぎない。今回記念碑建立が実現の運びとなったのは、校区に属した三つの町内会の会長、長老各位と事務局を担当した私の兄との並々ならぬ尽力があったからである。そして、株式会社北星製作所のご厚意を忘れてはならない。心から感謝申し上げたい。さらに、記念碑の建立を熱望しながら、その実現を待てずに逝去された三宮勉氏と拝野邦夫氏のお二人にも感謝したい。」と記し、さらに『岐点の軌跡-わが歩み来し道』(2011年)でも「母校鏡里小学校の跡地に記念碑を建立」の項を設け、「わたしは自分の書斎兼書庫を『鏡郷文庫』と呼んでいるが、これは母校『鏡里小学校』にちなんで付けたものである。周囲を山に囲まれた水田が大雨で水に覆われると、あたかも緑の枠に縁取られた鏡のようになることから、「鏡里」と呼ばれたのだそうだが、美しい名前である。」と振り返っている。

描くことは生きること(かくことはいきること)
難病の筋ジストロフィーと闘いながら創作活動を続けた柏崎市鯨波の画家・佐藤伸夫(1950-2021)が2002年11月に柏崎エネルギーホールで行った講演。柏崎地区高等学校PTA連合会主催。子どもの頃に筋ジストロフィーと診断された佐藤は、病気の進行に伴う様々な制約と闘いながら創作活動を続け、2001年10月には「半世紀展」が開催され話題を呼んだ。講演で佐藤は「病気になり、歩けなくなったことで、多くの仲間ができ、大好きな絵と出会った。ハンディキャップがあるから甘えているのでは、妥協した方が良いのでは…などと言われないように歩んできた。」「筋ジスの仲間たちの死に出会い、自分の生と向き合った。自分の世界を描きたい、と絵をがむしゃらに描いていた時、室星董道先生がひょっこり訪ねてきた。先生からは人マネでなく、いかに自分の思うように描くかということを学んだ。」と振り返りながら、代表作「落日」「炎核」などをスライドで紹介、「半世紀展で様々な励ましをいただいた。これを区切りに絵をやめようか、などと考えていた自分だが、迷いはすべて払拭された。佐藤伸夫は絵を描き続けなければならない。自分らしく生きているか、自分らしい絵を描いているか、ということを自問しながら一日一日を歩んでいきたい」と決意を語った。

樫出勇(かしいでいさむ、1915-2003)
柏崎市南条出身、元陸軍大尉。太平洋戦争末期、北九州の空を守り抜いた陸軍戦闘機パイロットで、二式複座戦闘機「屠龍」でB29爆撃機を26機撃墜し、米軍からは「B29キラー」として恐れられた。陸軍武功徽章(武功章)最初の受章者。著書『B29撃墜記』(雑誌『丸』連載後、文庫本化。光人社ノンフィクション文庫)で、当時の心境を「決死、必死の思いで、B29の弾襖の前に立ちはだかった。若者がそんな思いをする時代は疎ましく思う。だが、俺たちはそうしなければならなかった。」と記す。樫出に撃墜されパラシュートで脱出、捕虜となったB29搭乗員のレイモンド・ハロラン元航法中尉が「自分の愛機を一撃で打ち落とした凄腕パイロットに一目会いたい」として1985年に来日、話題となった。

歌集『かしわざき』(かしゅう『かしわざき』)
北原保雄夫人で日本歌人クラブ会員の北原美津子による歌集。夫の新潟産業大学学長就任(2013-2018年)に伴い茨城から柏崎に移住し、滞在中に詠んだ短歌をまとめた4冊目の歌集。柏崎滞在中は大学の再生に向け東奔西走する夫を支えると共に、知人と交流を深め、様々な風物を探求しており、赴任の日に車窓から見た「高崎観音」に始まり、「越後の四季」(春夏秋冬)、「米山」、「良寛と貞心尼」、「綾子舞」、「狐の夜祭」、招請の牽引役となった廣川元学長の死去を悼んだ「彼岸花」などの章で構成、様々な柏崎の風景、歴史、文化、味覚を詠んでいる。後書きに「今でも柏崎を想うとき、先ずバランスのとれた形のよい米山の姿が浮かんできます。三階建てアパートの最上階の部屋からは、季節ごとに趣を変える米山をま近に眺めることができました。特に雪に包まれ純白に輝く冬の米山の美しさは忘れることができません。」と記し、中扉には著者撮影による冬の米山の写真に「幾重もの前山したがへその奥に王者米山ま白く聳ゆ」を添えている。

柏崎 赤れんが棟物語(かしわざき あかれんがとうものがたり)
赤れんが棟を愛する会が2014年に刊行した記録写真集で、柏崎の産業の礎を築いた日本石油柏崎製油所(のち日本石油加工柏崎工場)の姿や歩み、中越沖地震後の惨状、復興の様子などをまとめた。赤れんが棟の建設(浅野石油所時代の1899~1900年頃、専用線に「双頭レール」が使われている)、ズラリと並んだ油槽車(1921年頃、日本石油私有貨車の記号である「甲」、線路には「双頭レール」を再使用したものが敷設されている)、社章「コウモリ」マークの入った自衛消防車(1955年)といった貴重写真も掲載。柏崎石油産業のシンボルとして親しまれた赤れんが棟(ドラム缶塗装場)は1899年の建築で、工場閉鎖後は赤れんが棟を愛する会が中心となって貴重な近代化遺産として保存を求める活動を続けたが中越沖地震で倒壊した。同会では「この記録写真集発刊をもちまして、愛する会9年に及ぶ活動に区切りを付けることになりました。中越沖地震で赤れんが棟は倒壊してしまいましたが、写真集のなかにかつての工場群の勇姿を残すことが出来ました。これまでの支援に感謝します」とコメント。

柏崎いろは事典(かしわざきいろはじてん)
「観光も遊びもよりどりみどり!リゾート&カルチャーシティ」をキャッチフレーズにした柏崎市、柏崎観光協会発行(1996年)のロードマップ。柏崎をシーサイドエリア(聖が鼻、牛が首層内摺曲、松が崎、鴎が鼻、猩々洞、だるま岩、御野立公園、番神岬、鯨波海水浴場、柏崎マリーナ、柏崎アクアパーク)、シティエリア(番神堂、お光・吾作の碑、大久保鋳物、赤坂山公園、松雲山荘、市立博物館、木村茶道美術館、貞心尼の墓、潮風園木喰仏、浜千鳥の碑、生田萬の墓碑、えんま堂)、バラエティエリア(大清水観音堂、米山、胞姫神社、国民休養地、米山大黒亭、とんちン館、同一庵藍民芸館、黒船館、痴娯の家、日本海フィッシャーマンズケープ、綾子舞の里、米山きのこ園、柏崎刈羽原子力発電所サービスホール、椎谷観音堂、多多神社)の3エリアに分け観光施設等を紹介。鮮やかな色使いで「柏崎の旅を10倍楽しくする事典」と称しているものの従来の観光情報の転記に終わっている。

柏崎演劇研究会(かしわざきえんげきけんきゅうかい)
1945年12月に「戦後の荒廃のなかで文化の灯を」と小熊哲哉、桑山太市朗、近藤禄郎、岸本太吉が中心となって設立、翌1946年5月の旗揚げ公演を皮切りに市内外で活躍。全国青年大会(1960年「ダムサイト」、1962年「A・B・O」、1971年「荒浜砂丘地」で最優秀賞3回)や国際アマチュア演劇フェスティバル(1977年モナコ)、国際演劇オリンピアード(1983年、カナダ・アメリカ)に出演した。定番となった「にしん場」「荒浜砂丘地」、大がかりな野外劇「荒海の日蓮」(1954年)などの舞台が高く評価されるとともに、朗読劇「いくさあらすな」、擬人化された柏崎刈羽原発の1~5号機が福島第一原発事故後の胸の内を語り合う「3・11に思う」といった新境地も開拓、さらに柏崎演劇研究会ジュニア部を通して後進の指導にもあたった。2002年新潟県知事表彰、2008年文部科学大臣表彰を受けた。会員の高齢化や新規加入者の減少などから2015年解散。第21回演劇フェスティバルでの「人を喰った話」が最終公演となった。

柏崎開闢勝長公由緒書(かしわざきかいびゃくかつながこうゆいしょがき)
謡曲『柏崎』の「柏崎殿」について長野善光寺に問い合わせ、届いた回答書。1718年5月22日付。「中村文庫」に収蔵されていたため、桐油屋大火(1911年)での焼損を免れ現在に伝わる。善光寺に照会を行った背景について『柏崎編年史』(上)は「柏崎勝長は、謡曲『柏崎』が室町時代に成立して以来有名となり、その実在をめぐって論議の的となった。ことに江戸時代にはいって柏崎町が発展し、町人文化が隆昌するとその立証のために幾多の努力がなされた」「そして勝長の子花若丸が入寂したと伝えられる善光寺庚申堂に勝長父子の遺品を求めたのである。」と説明する。由緒書では謡曲の「柏崎殿」を「源氏柏崎権之守勝長」「峯松院殿月青文秀居士」と特定し、「花若丸」についても「華若丸勝久十八歳にて出家三十四歳時死ス」「法名金蓮坊」と表記。なお柏崎側が求めた遺品については「康元二年巳ノ三月十八日」に「老母并小太郎」が「当山仏詣奉納」した「立烏帽子黒風折」「単衣門ハ丸之内タチ華」「太刀一脇純ツバ」があったものの「何モ焼失」とある。当時の柏崎町民は善光寺から届いた由緒書に歓喜したようで、これをもとに500回忌(1743年、柏崎勝長公石碑建立)、600回忌(1855年、柏崎勝長親子墓建立)などが営まれ、その後の英雄譚のベースとなった。由緒書について『柏崎編年史』編著者の新沢佳大は「遺品は一点もなく、文体・書風ともに稚拙で、下僧が町民の讃仰に迎合した節がある。」とするが、東京学芸大学の中村格は「『柏崎』成立の背景」(日本文学38、1989年)で「しかし、この由緒書を全くのデッチ上げと決めつけてよいかどうか…。というのは、『編年史』は見落したらしいが、花若とその老母に関しては、ほぼ同様の記事が江戸初期の儒者である書家でもあった林道栄の『道栄雑記』にみられ…」「『(道栄)雑記』に記すごとく善光寺は元和元年三月晦日の大火により一宇残らず焼亡、あまたの寺宝・什器も悉く灰燼に帰した。(略)求めた遺品が一点も戻らなかったとする『編年史』の疑問も、けだし当然の成り行きというべきであろう。」と反論。なお、柏崎刈羽郷土史研究会の平原順二は「いわゆる『柏崎勝長』とは何か」(柏崎刈羽33、2006年)で「思うに、善光寺堂照坊は、依頼主である柏崎町の町役や好事家らの強い要望を容れ、それに迎合した『由緒書』を発給したものか、とすら考えられるのだ。」と新沢論を補強している。

柏崎勝長さま(かしわざきかつながさま)
『柏崎のむかしばなし』(深田信四郎、1982年)所収の「柏崎の最初の長(おさ)」と伝えられる柏崎勝長についての伝説。柏崎の命名伝説(鵜川の川口に大きな柏の森がありました。漁師たちは「そら、柏の崎が見えたぞッ。」と言って、航海の目じるしにしていたので、この岬をいつか「柏崎」と呼ぶようになりました。)を紹介した後、柏の森のそばにあった柏崎勝長の屋敷のこと、(鎌倉)将軍からの書状で鎌倉に旅立ったことを記す。柏崎勝長の死因と花若の出家理由については「昔の旅は、とても難儀な旅でした。年とった勝長様は鎌倉へ着いた時は、重い病気になっていました。そして、花若丸と小太郎の看病の効もなく、とうとうなくなられました。」「花若丸は小太郎を呼んで、『思えば世の中は、はかないものだ。私はこれから長野の善光寺に行って、お坊さんになり、父上のめい福を祈ります。お前は柏崎に帰って、母上にこのことをよくお知らせしなさい。』と言いました。」とするのみ。後半は内室の狂乱と長野善光寺での花若丸(金蓮坊)との再会が、謡曲『柏崎』を参考に描かれる。同じ深田信四郎による「柏崎さま」(昔の話でありました第二集)では、謡曲『柏崎』に「文使い地蔵」(柏崎勝長の娘が亡き父親への手紙を西光寺文使い地蔵に託す)や「こおろぎ橋」(狂乱した内室が、門前の小さい橋につまづき「ころび出橋」「くるい出橋」がいつしか「こおろぎ橋」となった)伝承をミックス、物語性を高めている。さらに物語として飛躍させたのは郷土史家の宮川嫰葉で「悲劇の柏崎勝長公」(『柏崎郷土史話』)によって某親王を守り鎌倉幕府と厳然対抗したヒーローの姿を描出した。「悲劇の柏崎勝長公」は別項参照。

柏崎勝長邸跡(かしわざきかつながていあと)
謡曲『柏崎』の「柏崎殿」に比定される柏崎勝長の館跡。柏崎市西本町3の香積寺内の秋葉神社前に「柏崎勝長公石碑」「柏崎勝長親子墓」が建立され、柏崎最初の領主を偲んでいる。1973年に柏崎市文化財指定。現地の解説板は「伝説によると、柏崎勝長公の家は鵜川の柏の大樹の東北にあったと言われている。勝長は柏崎の最初の長(おさ)と伝えられ、室町時代に成立した謡曲「柏崎」(榎並左衛門五郎作のちに世阿弥が改作して完成した狂女物の謡曲)に登場する「柏崎殿」であると言われているが、その詳細は不明である。勝長邸は、彼が没後その遺言により、菩提寺であるここ香積寺に寄進され、剣野村から現地へ移転したと伝えられる。」「勝長公の碑は、江戸時代の建立であり、内室の位牌は香積寺にある。享保3年(1718)5月22日付、善光寺庚申堂別当堂照坊より柏崎勝長公と善光寺にまつわる由緒書を受け、寛保3年(1743)には五百回忌が営まれるなど、柏崎文化発祥の淵源として、古くから郷愁の的となっている。」と説明する。『柏崎の伝説集』(柏崎市教育委員会)は、関連して「柏崎の大樹」「柏崎勝長公」「こおろぎ橋」「文使い地蔵」「柏崎の古城あと」「秋葉さん」の6話を採話、このうち「柏崎勝長公」では「鵜川の柏の大樹の東北に柏崎勝長公という人の家があったという。ある年、一子花若丸と家来の吉井小太郎をつれて鎌倉に行ったが病気で死んでしまった。花若丸は世をはかなんで信濃の善光寺に行って僧になった。家来の小太郎は柏崎に帰り勝長公の奥方にこの事を報告した。夫はなくなり花若が出家したと聞いて、奥方は気が狂われて善光寺へ行き、ようやくにして花若丸に会った。奥方は夫勝長公の形見のえぼし、刀、ひたたれなどを仏前にささげ夫の冥福を祈った。やがて奥方は柏崎に帰り自分の家を香積寺に寄付し、自分は髪を切り落し尼僧となりて夫のぼだいをとむらわれたという。(注)謡曲、柏崎にもある。」と簡潔に口碑、伝説をまとめている。

柏崎から加州まであいに山下駒返り親子知らずがなかよかろ(かしわざきからかしゅうまであいにやましたこまがえりおやこしらずがなかよかろ)
「柏崎から椎谷まで…」の類歌。加州は加賀国の別称。「駒返り親子知らず」は親不知(糸魚川市)の難所で、松尾芭蕉の『奥の細道』にも登場(「今日は親しらず子しらず犬もどり駒返しなど云北国一の難所を越て…」)する。また「柏崎から高田まであいに米山峠や鉢崎番所がなかよかろ」も同パターン。「米山峠」は親不知子不知と並ぶ難所で、「鉢崎番所」(関所)は全国53関の一つで厳しい取り調べで知られた。十返舎一九の『金草鞋』(春日新田の項)には「柏崎からせきやまで、あいに荒砂、荒濱、悪田の渡りがなかよかろ」が登場する。「せきや」は椎谷の聞き違いか。

柏崎から椎谷まであいに荒浜あら砂悪田の渡しがなきゃよかろ(かしわざきからしいやまであいにあらはまあらすなあくだのわたしがなきゃよかろ)
「米山さんから雲が出た」と並ぶ三階節の有名な歌詞。「あいに」は「間に」が縮まったものか「会(逢)いに」か両説があるが、柏崎民謡保存会の赤川イシ子(三階節の代表歌い手、1995年のCD「越後柏崎の民謡」で三階節を唄う)は「前後の歌詞からすると『間に』だと思いますが、どちらとも取れる。家庭のある人がお忍びで遊郭などに遊びに行くような歌とも聞いたことがある」と語る。「あら砂」は「荒砂」と表記されることも。「悪田の渡し」は室町時代の終わりごろからあり、天正14(1586)年には渡し賃5文と定められた。安政元(1854)年には安政橋が完成し、渡しは廃止された。『桜木町のあゆみ』(2002年、桜木町町内会)によれば、悪田の渡しを管理した渡し守の先祖は上杉謙信に敗れた能登七尾城・畠山氏の家臣佐藤氏という。佐藤氏は家来の坂井を伴って渡し守の任務に付いた。「関所の任務もあったのではないか」と見られている。初代安政橋の架橋事業に取り組んだのは佐藤氏の子孫らと言われ、渡し場より下流の地点で橋を架けた。安政元年に完成したので「安政橋」となった。最初は有料だったが、建設費の償還後は無料になった。『桜木町のあゆみ』編集委員の久我勇は「佐藤家と坂井家が中心となってお金を出し合い安政橋を架けた。(三階節に登場するほど)難儀をする人たちの姿を見て黙っていられなかったのだろう。足りない分は寄付も相当あったと口伝で聞いている。」と話している。稲荷神社(悪田稲荷)の境内には大口寄付をした幕末の女傑・加藤のババさんの碑があり「一金七両」「柏崎町加藤與一母」と刻まれる。

かしわざき かりわ ふるさと ひと ものがたり
柏崎ふるさと人物館オープン記念で開催された人物伝演劇フェスティバル(2002年3月24日)で上演された構成劇。新田開発に尽力した宮川四郎兵衛、聖愛の人・貞心尼、日本石油を創設した内藤久寛、シンガポール越後屋で活躍した高橋忠平の4人を柏崎刈羽の小中学生47人がオムニバス形式で演じ大きな感動を呼んだ。柏崎の演劇関係者が全面的に裏方をつとめ、脚本、演出、舞台装置、大道具まで全て手作りしたのが特徴で、脚本は猪俣哲夫(宮川四郎兵衛)、今井栄子(貞心尼)、長井満(内藤久寛)、牧岡孝(高橋忠平)が担当し、柏崎演劇研究会代表の長井らが総合演出を行った。「ただ会社を興し、石油を掘った。国会議員になったということが偉いんではなくて、いつも高い志を忘れずに持っていたということだのう。(中略)何にでも興味を持って、しっかり学問をする。そして自分でやりたいこと、進みたい道を見つけ出す。そしてその見つけたものに一生懸命とりくんでいけば、自然に志は身につくものだ。」(内藤久寛の章)などの表現で次世代の子どもたちにエールを送った。演出を担当した長井は「ふるさと人物館には110人の高い志を持った先人たちが展示されており、この中から代表的な4人を取り上げた。まだ106人の実に魅力的で個性的な人たちがおり、それぞれの人物にゆかりのあるコミュニティセンター単位で人物伝が次々と演じられていけば、子どもたちと地域とのかかわりはどんどん深くなっていくと思うし、総合学習の題材としても最適。」と期待を語った。

柏崎・刈羽における産業発達史と実業家たちの群像(かしわざき・かりわにおけるさんぎょうはったつしとじつぎょうかたちのぐんぞう)
西山学オープン講座として2015年、西山町産業会館で行われた長岡大学教授・松本和明による講演。松本は東山油田保存会会長を務めており、西山出身の内藤久寛と小国出身の山口権三郎らによる石油採掘について「戊辰戦争で逆賊となり、このままでは自分達は沈んでしまう。国も助けてくれないという危機感が背景にあった。」としたうえで「それまで石油は投機的と敬遠されていたが、堅実な組織による石油採掘をビジネスとして展開した。しっかりとした計画を立て資金を集め、最新鋭の機械によって効率的に採掘すれば自分たちだけでなく、地域、日本のためにもなる、というものだった。しかも精製、販売まで自分達でやった。内藤の先見性だ。明治33年にアメリカNo.1のスタンダードオイルが新潟に進出してきたが、これにも臆することなく、経営規模の拡大と体質強化で対抗した。」などと説明。また同地出身の田中角栄については「理化学研究所を設立した大河内正敏から評価、重用され、若き角栄もそれに応えた。リーダーとしての素養は大河内との関わりで開花したと言っていいのではないか。ビジネスマンとしての若き日の角栄にもっと注目すべき。」と指摘、「多くの先人が私利私欲だけでなく、地域のために働いた時代だ。こういった先人の歩みを、地元の大学が掘り起こし、スポットを当てるべきではないか。」と結んだ。

柏崎近在の米山講(かしわざききんざいのよねやまこう)
柏崎刈羽郷土史研究会員の桑山省吾が『柏崎刈羽』2号(1975年)に発表した論文。桑山の研究テーマである農民史視点で米山講、米山信仰について言及しており、先行研究として引用されることも多い。「苛酷な幕藩体制の中で、自然の恵に頼らざるを得ない百姓衆にとって、何回となく襲ってくる自然の災害による凶作はどれほど農民を痛めつけたことだろう。それだけに鍬を振り上げ大地に全身をぶちつけながら絶対者にすがろうとする信仰心がどれほど強烈であっただろうか。その強烈で素朴な信仰心を山岳信仰から生れた米山薬師様の薬師講、米山講に求めてみようとするものである。」と前置きしたうえで、「米山講の実例」「米山講 石塔の分布」「講の習俗」「米山信仰」で構成。米山講の実例では「柏崎市港町の信仰」「北条町鹿嶋の信仰」を輪番で運営される「宿」の状況をふまえ紹介、米山塔については「柏崎・刈羽地方の石塔分布は蒲原地方に較べ少い。これは米山を朝な夕な直接体験として拝むことができたことによるものであろう。これに反し遠い中越から米山を拝むとすれば青空の中の点にしか過ぎない。したがって米山薬師様の分神を祭ることはごく自然なのであろう。」と指摘。また「江戸末期から明治にかけて、中越各地に爆発的広がりを支えてきたものは米山薬師如来を安置する米山寺の縁起にもとずく不思議な力である。科学では解決することのできなかった稲作に対し、農民は絶対者に結びつけて解決してもらうより仕方がなかった。米山は確かに霊あるもの生きものとして結びついた。(略)薬師本来の信仰とはやや異り、伝道者は田の神という現世的利益をたずさえ、比較的安易に入り込む余地を与えた。農民は集落にある在来信仰としての氏神様・産土神の中へ、講仲間の同意を得て、外来信仰としての米山薬師様を勧請した。」と分析し「米山講はその昔から今日に至るまで、主として田の神として農民の信仰面を支えるとともに、集落内の寄合、娯楽の場ともなり、個人生活や共同生活の維持に果してきた役割は大きかったと考える。」と結んでいる。

柏崎三階節サミット(かしわざきさんがいぶしさみっと)
1993年11月14日に柏崎市市民会館で開催された。柏崎市中央公民館等が主催し、副題は「柏崎の代表的民謡三階節のルーツを探る」。柏崎民謡保存会会長の横村英雄は講演「三階節のルーツについて」で、「柏崎は江戸時代の宿場町であり、文化の中心地だった。柏崎の縮商人が江戸や浪花、京などで商いをし、当時流行していたヤッショメ節などを持ち帰り、柏崎近辺で歌われていたおいなと結びついた結果、混合おいなとなったと見るのが良いようだ。今から約200年前、徳川十代将軍の頃で、その後しげさ節、三階節と変化していったのだと思う。三階(さんがい)の由来には三界、三回、散会の諸説がある」としたうえで「新潟芸者の小唄勝太郎がビクターで吹きこんだ勝太郎三階節が全国で大ヒットし、大いに広まった。地元では中浜、剣野、四谷の野良調を好んで唄うが、市外ではお座敷三階節がよく唄われるようだ。三階節という尊い文化遺産に思いをめぐらせながら、孫子の代までしっかり育み伝承していきたい。」と強調していた。シンポジウム「三階節の今と昔」では、横村、柏崎若浪民謡研究会会長の田村孝太郎、剣野調伝承者の関矢直、中浜調伝承者の泉マキがパネラーとなって意見交換し「(音頭取りの)音頭と(参加者の)返し歌が掛け合うのが三階節の醍醐味、返し歌を大切にしてもらいたい。音頭取りの育成にも力を注いでいきたい。」「子どもからも積極的に習ってもらい、このすばらしい宝を継いでいってもらいたい」などの意見が寄せられた。さらに「民謡解説と踊り」としてお座敷調、野良調(剣野調、中浜調、四谷調)の実演が関矢、泉、民謡保存会によって行われた。

柏崎市綾子舞後援会(かしわざきしあやこまいこうえんかい)
1968年の柏崎市、黒姫村合併にあわせ発足。初代会長は当時の小林治助市長。以降、今井哲夫、飯塚正、西川正純(いずれも市長)、曽田恒(医師)、植木康之(会社社長)が会長を務めた。現会長は市長の桜井雅浩。「広く綾子舞の芸術的価値に対する認識を高めると共に、これに賛同する者の総意を結集して、綾子舞の保存振興を支援する」(会則第3条)が目的で、会費収入をもとにした綾子舞保存振興会への補助、両座元への補助や綾子舞伝承学習(南中学校区)の支援といった応援活動、綾子舞人形や綾子舞絵ハガキなどのグッズ販売、『出羽・本歌・入羽-綾子舞、21世紀への伝承』(国指定20周年記念誌)の刊行、後援会報の発行などを行っている。また、例年9月に鵜川で開催される綾子舞の現地公開ではスタッフの一員として会場作りや運営をサポート、JR柏崎駅からの直行バスを運行している。2009年には後援会主催による「特別公演」も開催した。

柏崎市指定文化財番神堂とその防災保全について(かしわざきししていぶんかざいばんじんどうとそのぼうさいほぜんについて)
新潟県建築士会柏崎支部が1985年に作成したパンフレット。当時の番神堂は欅の彫刻等が故意に破損され、塩害や火災による焼損についても懸念の声が上がっており、番神堂の価値や現状を周知するため同支部の飯塚知作が中心となって作成した。「番神堂について」「梓人、篠田君碑について」「番神堂の彫刻師について」「番神堂の保存についての要望」「柏崎市長宛の書簡」「縁起並に柏崎支部の見解」「調査の結果報告並に対策等について」で構成。この中で「現存の番神堂の建物は明治6年に着工され、以後6ヶ年に亘る歳月と、巨額の財を投入し一代の名匠、篠田宗吉大棟梁のもと、直江津の高橋富吉、出雲崎の原篤三郎、脇野町池山甚太郎等、当代の名工が協力して完成されたものといわれていますが、特に奥の院外部に施工されている数多の彫刻は、全国的にも比をみない程優れていると称賛されています。又これらの用材が総て工作の最も困難とされている堅木、欅が使用され、豪壮華麗にして細粗自在・変幻絶妙な彫刻は、将に神業に近く、しかも今日迄の長い間、北国特有の荒い風雪に耐え、いささかのゆがみ、くるいなく、寸分の隙もなく、精巧無比、当時の原形をその儘、特に彩色せず、素地そのもので現存していることは、誠に驚異的且貴重な存在であります。」と改めて評価する一方で「他に類をみる事の出来ない程の立派なこの番神堂が、万一不幸にして火災にでも遭い焼失したとか、風雪の為倒壊したかといふ事にでもなるならば、それこそ永久にとりかえしのつかない一大事と思います。」として防災保全対策を訴えた。これが契機となって市民運動が起こり1990年に防災保全工事が完成した。防災保全工事については別項。

柏崎地蔵尊(かしわざきじぞうそん)
長野県長野市新町293にある高さ約1メートルほどの石仏、謡曲「柏崎」に関連する。別名「花若地蔵尊」、地元では「新町地蔵庵の赤地蔵」とも呼ばれる。北国街道に面して「柏崎地蔵尊」の看板があり、「この赤地蔵尊石仏は、謡曲『柏崎』の物語りに登場する越後の国柏崎の領主柏崎氏の子ども『花若』の供養のために作られたものと伝えられています。」(第二地区市制100周年記念事業実行委員会)と説明する。赤く塗られているのは「赤ん坊のような無心の心を表すため」で「毎年の地蔵盆(8月23日)に合わせ赤く塗る風習がある」という。「新・柏崎ものがたり」の取材で同所を訪問した岡島尚子は当時の北條準芳庵主にインタビューし「本来は(柏崎)塚と地蔵が一緒にあったようですが、江戸時代の善光寺大地震で土砂崩れが起き一帯が埋まった。掘り起こして地蔵だけが復旧された。掘り起こされた柏崎地蔵は割れて、胴体しかなかった。それで、当時の人が頭と足をこしらえくっつけたと聞いています。不細工な感じがするのはそのためです。」「(地蔵前の通りに出て北側を指さし)この通りが北国街道で、柏崎氏の奥方は向こうから歩いて善光寺に辿り着いた、ということになります。柏崎勝長のことももちろん存じています。善光寺は昔から多くの人を受け入れ、その心を救済してきました。地蔵の成立年など詳しいことは分かりません。実話があり、それが伝説になったというのが筋だと考えています。」などの聞き取りを行い「長野側の関係者が(柏崎を)強く意識していることを感じた。柏崎殿は実在の人物か。実話なのか、フィクションなのか様々な問いかけがあるが、善光寺から考える視点も必要。背景にあるのは誰でも分け隔てなく救済するという菩光寺の宗教的特色であり、悲しみにくれ越後の国柏崎からたどりついた女は存在した-と見るのは自然で、実際に善光寺によって救済されたモデルがいたのではないか。」とまとめている(「善光寺と柏崎の関係は?」、2006年9月29日号)。なお、善光寺七塚の一つとされる「柏崎塚」について善光寺事務局文教課に照会した所、「1930年の『善光寺小誌』にも『今跡確かならず』と記してあることからすると、その時点で既に塚が失われて久しかったものと思われます。」との回答を得た。『善光寺小誌』の「柏崎塚」の項には「謡曲柏崎に伝ふる者なり」「塚は母女又は花若の供養に建立せしものなる可し。」とあり、謡曲「柏崎」関連であることは間違いないようだ。世阿弥研究者の松田存は「謡曲『柏崎』考-史実と虚構のあいだ-」(1965年)で「恐らく花若の出家は善光寺そのものではなく、いや、初めはそうであったかも知れないが、老母との再会によって善光寺を辞し、少なくともその近在に僧庵をむすんで、母子ともに弥陀に仕える生涯をすごしたものと思われる。その僧庵こそ今に残る柏崎地蔵の由縁ではなかろうか。」と指摘している。

柏崎市伝説集(かしわざきしでんせつしゅう)
柏崎市教育委員会が「市内に残る伝説の集大成」をめざし、柏崎市制30周年記念事業として各中学校別に伝説を収集、1972年に刊行した。総収録数は636話。伝説収集委員長を務めた深田信四郎は「この本の読み方一、二」で「『原型を集めるようにしよう』と申しあわせてそう努力してみたがそれは徒労に終った。『鉢がとんで米を山上にはこぶ』という米山の伝説があるが、類似の話は、宇治拾遺物語、元亨釈書、東国高僧伝、扶桑皇統記、和漢三才図絵等々に記載されており、播州書写山、山城山崎寺等々に伝承されており、そのどれが原型であるかは学者の研究領域になると思われたからである。『原型に忠実でありたい』という願望は、故意に扮飾されたと思われる個所を取去った程度となった。」と苦労を語っている。各中学校別の収録数は次の通りで、北条中学校区が北条毛利の関係などで最も多い。▽米山中学校区=16話▽上米山中学校区=13話▽第三中学校区=52話▽第四中学校区=50話▽城北中学校区=55話▽鵜川中学校区=55話▽第一中学校区=42話▽第二中学校区=23話▽田尻中学校区=55話▽第五中学校区=94話▽北条中学校区=97話▽荒浜中学校区=17話▽高浜中学校区=26話▽西中通中学校区=14話▽北鯖石中学校区=9話▽中通中学校区=18話
※『柏崎市伝説集』は柏崎市立図書館のサイト「郷土資料の電子書籍を読む」でダウンロード可。

柏崎市の分村満州柏崎村開拓団(かしわざきしのぶんそんまんしゅうかしわざきむらかいたくだん)
元満州柏崎村開拓団家族の巻口弘(柏崎市向陽町在住)が2012年11月3日に柏崎市立博物館で行った講演。同館で開催した秋季特別展「資料が語る戦争の記憶」の記念講演として開催された。小学校2年生の時に先遣隊家族として両親とともに渡満した巻口は「何にもない状態での入植で、4家族が同じ小屋で生活し、山を切り開き開拓した。農業に従事するだけでなく銃を持つ訓練をした。女性も銃を持ち実弾射撃をした。匪賊対策だった。成人男性は徹夜で村を警備した。(転業開拓団のため)ほとんどが農業未経験で、農業をやっていたという人は1人か2人だったのではないか。おおかたは商人や職人で、零下30度まで下がるような過酷な環境ではまともな農業など出来ようもなかった」と実態を明らかにするとともに、敗戦に伴う逃避行について「戦局悪化のため、開拓団の男子はすべて召集され、残ったのは女性と子どもだけだった。父とはもうこれが最後と思い水さかずきで別れ、取るものも取りあえず逃げた。敗戦を知ったのはソ連機がまいた降伏ビラによってだった。」「食べるものに困って猫を食べたこともあったが、筋肉が固くて、とてもかみ切れなかった。カビの生えたコーリャン、あらゆる動物を食べた。生をつなぐためだった。栄養不足から乳飲み子はことごとく死んだ。嬰児がなくなり、埋葬して戻ってみると、その母親も息絶えていて一緒に埋葬した。その時ばかりは皆でワアワアと泣いた」と苦しさを語り、「柏崎村開拓団は柏崎市と商工会議所が送り出したのであり、過去の歴史を忘れずに語り継いでほしい」と結んだ。

柏崎-蒐集狂の町(かしわざき-しゅうしゅうきょうのまち)
朝日新聞の名物記者・門田勲による柏崎探訪記。初出は週刊朝日1955年11月6日号の「日本拝見」で、総集編の『日本拝見 東日本編』(1957年)にも再録された。近藤日出造の「蒐集マニアの町、柏崎」(「オール読物」1953年8月号)によって柏崎がマスメディアの注目を受けていた当時の記事。門田は「柏崎というのは奇妙な蒐集狂の多い町だという話を開いた。(略)出掛けてみようということになったのだが、遇刊朝日がくれた本を夜汽車の中でめくっていたら、文春の出した『日出造膝粟毛』というその本に、柏崎の蒐集マニア歴訪のおもしろいはなしが、写真や筆者の漫画といっしょに載っていた。これでもうまるで書くことが無いみたいなものなのだが、それにしてもどうしてこの小さな町に、こんなにおもしろい人たちがいるのだろう。汽車はもう走ってもいることだし、ともかくも行ってみるよりほかはなかった。」としながらも痴娯の家・岩下庄司をはじめ吉田正太郎、平田誠二郎、曽田市蔵、内山松次郎の各コレクターを紹介。単なる後追い記事にしていないのは「この人々のおそるべき蒐集精神は、『越後ちぢみ』と密接につながっているようである。」と指摘している点で「ところで、この縮布の行商だが(略)どうしても奥の間まで入り込んで、お茶のお道具を拝見させていただいたり、床の間の掛け物を賞め上げたり、役者のウワサ話をしたりしながら売り込まねばならない商売だ。おとくい先をいろいろとバツを合わせて歩いているうちに、門前の小僧ならぬ奥の間のちぢみ屋で、自分でもなんやら物が分るような気分になって、越後へ帰るときは古着と一緒にチマチマした物を買ってくるようになる。」「これが柏崎の、柏崎的蒐集マニア発生のもとと見て差し支えなさそうだ。(略)柏崎文化などといっては強すぎるし、柏崎情緒といってもまだ過ぎるかもしれないが、とにかく一種の気分を持った町のようだ。」と結んでいる。門田は流行語「戦後強くなったのは靴下と女」(伊予のミカン山で「協同出荷組合のオッサン」の言葉だという)で知られる。写真は船山克で、蒐集家に加え日本海(終日黙々と小砂利を運んでは山をつくり、僅かな稼ぎをあげるおばさんたち)、佐渡情話(諏訪神社境内のお光吾作の墓)などを紹介。

柏崎市湧水調査(かしわざきしゆうすいちょうさ)
一般財団法人新潟県環境衛生研究所が環境貢献事業(公益事業)の一環として柏崎市と合同で2009年と2010年に行った柏崎市内の湧水調査。70近い湧泉から20か所を選定し、水質、湧出量に加え、周辺地質、生物、湧泉に係る故事来歴など総合的に調査している点で貴重な基礎資料。調査報告書は環境衛生研究所のHPで公開。調査対象となった湧水は次の通り。▽2009年=安田姥ケ谷の大清水(地蔵清水)、明神のよだれ清水、大清水観音(大泉寺)の清水、宮川の清水不動尊、清水谷出壺の水、女谷金山不動尊涌水、石黒花坂用水(水穴口)、治三郎の清水、きつね塚湧水、西之入湧水(ボーリング水)、畔屋湧水(同)▽2010年=椎谷の御膳水、石山清水、坂又おんめ清水、川内の清水、小清水湧水(ボーリング水)、杉平の清水、いぼ石の水、与右衛門の水、立村水源

柏崎小校歌消えた二番(かしわざきしょうこうかきえた2ばん)
柏崎市立柏崎小学校の校歌(中村葉月作詞、幾尾純作曲)は1922年の創立50周年にあわせ制定された。もともとは三番からなり、二番は明治天皇北陸東海巡幸の際に行在所となった歴史をふまえ「明治大帝そのかみの/かしこき御宿たまわれる/えにしも深き学び舎に/遺徳をしたい朝夕を/まなぶ吾等が行く手には/光ぞとわにてらすらん」(体育館にある校歌額)と歌っていたが、戦後削除され一番「北海の波うちよする」に続いて三番「揺らんの夢あたゝかく」を歌うようになった。『子どものための柏崎校物語』(1994年)では「東運動場のステージの右に、『北海の波打ち寄する…』と、校歌の歌詞が書かれた額がかけられているのを、みなさんも見たことがありますね。この額を見てあれっ?と思う人がたくさんいるのではないでしょうか。よく見ると、校歌は一番、二番、三番と書かれています。でも、全校朝会や卒業式などでは一番と三番を歌い二番をとばしていますが、これはいったいどうしてなのでしょう。いつごろから二番を歌わなくなったのでしょう。そのなぞは、歌詞の内容にあるのです。」「第二次世界大戦が終わって間もないころ、日本中が戦争と関係あることはふれないようにしていました。ですから、二番をとばしてすぐに三番を歌うようになったということです。」と説明する。中越地域の校歌の歴史を俯瞰した『校歌の風景』(折原明彦、2006年)は、柏崎小校歌と同様に塩沢町立塩沢小学校校歌(土井晩翠作詞、小出浩平作曲)も「明治大帝」の歌詞がある四番を削除した、と指摘している。

柏崎市陸上競技場100周年記念式典・イベント(かしわざきしりくじょうきょうぎじょう100しゅうねんきねんしきてん・いべんと)
柏崎市陸上競技場は「柏崎体育の父」と呼ばれた坂田四郎吉が中心となって1923年に建設され、現存する日本最古の公認グラウンドとして知られる。2023年に創立100周年を迎えたことを記念し、竣工日である8月26日に式典・イベントを市民参加で開催した。記念事業実行委員長の本間敏博(柏崎市スポーツ協会会長)は「坂田先生を始め柏崎体育人の熱い思いを受けながら、世界に羽ばたく多くの陸上競技選手が育った。先人の思いを受け継ぎ、新たな100年のスタートの日にしたい。」とあいさつ、陸上選手だった柏崎市長の櫻井雅浩も「当時はまだ石炭殻、土のグラウンドで、大会の前に雨が降ると文字通り雑巾がけをして水を吸い取り大会に臨んだのが懐かしい思い出。この陸上競技場は私にとってもベースであり、大切なスペース。いろんな方々のお力を合わせ歩んできた100年であり、オリンピアンである今井哲夫第6代市長(ベルリンオリンピック3000mSC出場)も柏崎の誇りである。新たな歴史を刻み、坂田先生が抱かれた願い、夢をさらに大きなものにしていきたい。」と述べた。参加者全員によるラジオ体操、100周年記念人文字撮影などがあり、新潟アルビレックスランニングクラブヘッドコーチの久保倉里美(400mHでオリンピック3大会連続出場)によるランニング教室が行われた。

柏崎陣屋時代の家庭料理を作って食べる会(かしわざきじんやじだいのかていりょうりをつくってたべるかい)
渡部勝之助の『柏崎日記』をもとに柏崎陣屋時代の食卓を再現した試食会。2010年11月22日に大洲コミュニティセンターで開催され、大洲地区振興会生涯学習推進部、「柏崎日記」を読む会が協力し、料理再現に取り組んだ。当日のメニューは、「桑名麦めし」を始め絹ごし豆腐に吉野葛をかける「八はい豆腐」「茄子の卵とじ」「小豆めし」など12品目。なかでも「きらず煎り」は「どんな料理か分からなかったが、いろいろ調べた結果、おかららしいことが分かり、油は使わず、さっぱりと仕上げた。」(大洲地区振興会)という。陣屋時代に思いを馳せながら試食、出席者からは「桑名流のレシピであることを感じた。砂糖をあまり使わず、味も薄味。この食事なら生活習慣病にもならないのではないか。」「柏崎日記に食事のことを詳しく書いていた勝之助さんのお陰。再現によって日記が身近になった。」などの声があがった。その後「きらず」は「雪花菜」であることも判明、これらを契機に2014年に「陣屋弁当」が誕生した。

柏崎陣屋門は刈羽・善照寺に(かしわざきじんやもんはかりわ・ぜんしょうじに)
柏崎陣屋の通用門(裏門)が刈羽村寺尾・善照寺に移築され、山門として現存することがわかったのは2008年のことだ。発足した柏崎陣屋保存顕彰会に情報が寄せられ、翌2009年3月11日に同会による現地視察が行われ、吉田興澄住職から聞き取りを行った。吉田住職は「刈羽出身の大工・安沢倉之助が若い時、柏崎から大八車何台かで運んできたもの。明治20年代頃の話と聞いている。」「昭和36年の第二室戸台風で、境内の大ケヤキの枝が山門を直撃して、屋根に被害が出た。修理のため折れた垂木などは新しいものに変えた。また風化防止のため、一部塗装を行っている。」などと説明、さらに「(柏崎市宮川にある末寺の)西光寺に桑名藩士・長橋素堂の墓がある。ぜひ素堂のことも調べてほしい。」と要望した。参加者からは「陣屋門が現存している姿を見て感慨深いものがあった。大切にしてもらったのだと思う。」「暗殺された吉村権左衛門がこの門を潜って本陣の置かれた勝願寺に向かい二ツ井戸で暗殺されたのではと想像すると、この門も重要な歴史の証人なのではないか。」などの声が上がっていた。

「柏崎」成立の背景(「かしわざき」せいりつのはいけい)
東京学芸大学教授の中村格による謡曲「柏崎」についての論文。「日本文学」38号(1989年)に掲載され、「“柏崎”という固有名詞が筋の上ではとくに必然性をもたないのに、わざわざ曲名になっている点など考え併せると、全くの“作り能”というより、やはり、柏崎という在地の信仰に結びついた唱導的説話-善光寺利生譚があって、それを素材に作能したと考える方が自然かも知れない。」「そうした話柄がなぜ柏崎という北越僻遠の一宿駅に結びついていったのか、また、その地の巷説がどうして遠く摂津榎並座猿楽者の取材するところとなったのか」と意欲的な問題提起を行っている。また由緒書について「文体・書風ともに稚拙で…」とする『柏崎編年史』の記述を「この由緒書を全くのデッチ上げと決めつけてよいかどうか…。」と反駁、中世の善光寺信仰と時衆、柏崎地域の産物として大きなウエイトを占めた青苧と柏崎商人の活躍などを結び付け「柏崎に発した巷説の種が青苧と共に運ばれて、この榎並の河津で拾われ、根を下ろし…、これは全くの憶測に過ぎないが、しかし、北越柏崎の伝承が畿内の能に取材されるまでには、その前提として、時衆による善光寺信仰の広まりといった信仰的側面のほかに、こうした商品の流通、それに伴う商人の往来といった経済活動面もまた考慮に入れてみる必要がありはしないだろうか。」と結んだ。併せて英文要約「A Study of “Kashiwazaki”」も掲載され、「Those days Kashiwazaki area was also one of the footholds oj Jishu religion activities in Echigo.」(当時の柏崎一帯は越後における時宗信仰の拠点の一つでもあった)などと紹介されている。

柏崎で最初の洋画展(かしわざきでさいしょのようがてん)
1920年の中村彝個展(11月7日、8日、柏崎町役場楼上)と思われているが、正しくは宮芳平の個展(1919年9月24日、25日、比角小学校)。中村彝の個展との共通点は、洲崎義郎が開催に向け奔走した点。洲崎義郎は1918年に比角村村長に就任し大正デモクラシーを背景にした比角小学校での自由画教育を主導、「ひからびた、ただ手本を模写させるだけのようなやり方は間違っている。」(私の村長時代)として文部省の国定教科書を無視した自由と活力あふれる図画教育)を推し進め、中村彝を通して曽宮一念や鈴木金平、鶴田吾郎(同校百周年記念誌)が比角小学校に招かれ「自由画展覧会」も開催された。

「柏崎」特集(「かしわざき」とくしゅう)
柏崎ゆかりの謡曲「柏崎」について観世流の月刊誌「観世」1976年11月号、同12月号の連続特集。11月号では能楽研究の第一人者・表章による論文「作品研究『柏崎』」、25世宗家・観世元正による講座、ゆかりの地を紹介する「柏崎雑記」、12月号では座談会「柏崎」をめぐって、謡と舞台が掲載される。表は「作品研究『柏崎』」で原作者榎並左衛門五郎について「観世父子が天下(京都)の芸能界を制覇する直前の頃には、榎並座が京都で最も優勢だったらしい。しかし室町中期以後は衰微し、同座の春童大夫の流れが室町末期に脇方として金春座に合流し、ワキ方春藤流の名を留めただけである。(略)榎並座の役者だったに相違ない左衛門五郎は、後述する如く、金春権守(禅竹の祖父)がすでに<柏崎>を演じているから、観阿弥と同代、またはそれ以前の人と見られる。」「(申楽談儀にある)<鵜飼>と<柏崎>の二番がともに甲信越地方を場とし、上地勘があって作られているらしい点(<鵜飼>の石和・岩落、<柏崎>の常磐の里・木島の里・浅野・井上などの地名)は、左衛門五郎が関東甲信越方面を興行して廻った経験を持っていた事を思わせる。(略)左衛門五郎が実地踏査の経験を背景に<鵜飼>や<柏崎>を作った可能性はかなり大であろう。」と指摘、また世阿弥の改作については「欠点を除き、いい所を入れたのだから、世子作といえようという資料A(申楽談儀)の文言は、<鵜飼><柏崎>の改作がかなり大幅だった事を思わせる。」「原<柏崎>を翻案して新作した能が<土車>であった――かのようである。従って、原<柏崎>の形を推定する際に、<土車>の形がかなり参考になるのではなかろうか。」などと述べ、『柏崎』研究を大きく進展させ、日本文学研究資料叢書『謡曲・狂言』にも再録された。表は2010年に能楽史研究の業績により恩賜賞・学士院賞を受賞、同年の『能楽研究講義録』で「もう一つ、作品研究の面で私が割りに自信を持っている論文がありますので、最後にそれについて話しましょう。『観世』の昭和51年11月号に書いた「作品研究<柏崎>」がそれです。」「念のために<土車>を読み直し、シテの名が小次郎だったことに気づいたことから、意外な方向に論が発展しました。」「(略)金春大夫家には、現存する世阿弥自筆能本<柏崎>の他に、もう一本『マタカシワサキ』と『能本三十五番目録』に記載されている世阿弥本がかつて伝わっていました。両方の世阿弥本の前後関係、それらと榎並原作や金春権守の演じた形との関係、<土車>の影響の程度、世阿弥本の修正記事と後代の謡本詞章の関係など、論点が想像以上に拡大し、初めは書くことがなくて困っていたはずなのに、最後には縮めるのに苦労した覚えがあります。」と振り返っている。

柏崎と桑名藩を考える(かしわざきとくわなはんをかんがえる)
2003年に柏崎市で開催された歴史座談会で、柏崎刈羽郷土史研究会会長の新沢佳大による基調講演に続いて、桑名藩を治めた松平越中守家17代当主の松平定純(神奈川県在住)、筑波大学名誉教授の内山知也(柏崎出身)、新沢による座談会が行われた。松平は「曾祖父の定敬公が明治27年に柏崎を訪れて以来なので、松平としてはおよそ109年ぶりの柏崎になる」としたうえで、柏崎高校校歌に歌われる楽翁公(松平定信)に関して「楽翁公は8代将軍吉宗公の孫にあたり、大変な名君だったと言われているが、幼少のころ実は癇癪持ちで、お付きの侍に諌められたと聞く。今まではあまり気にしなかったが、年を取ってきたら(先祖の)楽翁公に顔が似てきたのではないかと思う。勝願寺の山号額は曾祖父・松平定敬の揮毫で、額の右側に中将とある。松平越中守家は少将の家格だが、京都所司代として、特に蛤御門の変の際に孝明天皇を命がけでお守りしたことから、中将の位を頂戴した。曾祖父は尊敬する楽翁公を上回ってしまうと、しばらく固辞したようだ」などと語った。松平は座談会に先立って勝願寺を参拝、「大名家といえども、戦後の混乱のなかで生きることが精いっぱいだった。言い訳するわけではないが、祖父や父の代では遠慮があったのではないかと思う。これまで重荷を背負ってきたような気持ちだったが、関係の皆さんのお力添えで参拝することができ、ようやく重しがとれた気持だ。」と心境を語った。出迎えた大藤赳麿住職は「戊辰戦争の際、定敬公が1か月半わが寺にお住まいになった。それ以来のご縁で、とにかく一度お会いしたいという思いを、関係の方々のお力で果たすことができ、最良の一日となった」とコメント。松平は2009年にも来柏、徳川宗家18代当主で徳川記念財団理事長の徳川恒孝と勝願寺を参拝している。

柏崎における義経・弁慶伝説(かしわざきにおけるよしつね・べんけいでんせつ)
米山コミュニティセンターの「コミセン寺子屋」(2016年5月)で行われた柏崎市立博物館学芸員・渡邉三四一の講演。渡邉は「『義経記』では直江津から小舟で寺泊へ着いたとあるが、地元では上輪に漂着した、となっている。山形県最上町の瀬見温泉にも上輪と類似した伝説がある。」としたうえで、「『柏崎伝説集』を調べると、上輪(亀割坂・産湯の井戸・胞姫神社)、谷根(谷根美人)、東の輪(弁慶の硯石)、鯨波(いささ橋)、大久保(勝願寺の勝負観音)、黒滝(八幡の八幡宮)、久米(弁慶投石)、四谷(白竜さま)、田尻(柴刀橋)、善根(弁慶の投げ石)、加納(清滝寺の宝物)、宮川(宮川神社と義経公)、吉井(吉井の御中山)、同(おかめが井戸)、飯塚(飯塚の由来)の計15か所で義経弁慶伝承が残っている。兄頼朝の追っ手を逃れる道中にもかかわらず、寄り道のように内陸部まで入っているのが特徴。もともとあった伝承と、スーパースターである義経、弁慶が結びついた。決して嘘ではないし、ゼロではないだろう。」などと解説、なかでも亀割坂(柏崎市上輪~上輪新田)については「歌川広重の『山海見立相撲』のなかに『越後亀割坂』がある。『東海道五十三次』で知られる広重が、全国の海山の名所を紹介した多色刷り版画シリーズ20枚のなかの一枚で、広重最晩年の作。おそらく広重は当地に来ていない。来ていないが、先行のイメージを参考にして江戸で描くことが出来た。それは、当地の義経・弁慶伝説と共に亀割坂が広く知られていたということに他ならない。始めて文献に登場するのは1704年の『越路紀行』、さらに1713年には当時の百科事典とも言える『和漢三才図会』にも紹介されている。早くから弁慶茶屋と胞姫神社縁起はたくさんの文献に紹介され、茶屋の夫婦が縁起の説明をしながら弁慶の力餅を販売、宣伝していたことも大きかったと思う。」と述べた。当日は地元手作りの復刻版「弁慶の力餅」も販売され、好評だった。

『柏崎日記』・下級武士の食風景-江戸時代に見る越後の料理(『かしわざきにっき』・かきゅうぶしのしょくふうけい-えどじだいにみるえちごのりょうり)
1998年に柏崎で行われた食文化研究家の田中一郎による講演。田中は「『柏崎日記』の渡部勝之助は、桑名に残した養父と長男に柏崎での様子を細かく伝えるため毎日の出来事を几帳面に記録した。料理や食材など、公的な記録には載らない部分も詳細に記されており、第一級の民俗資料。」としたうえで、「着任から1年たった天保11年の3月、長女の初節句では祝いをしないつもりだったが、同僚から鱈5枚、重箱入りの田作り、鱒2本、酒などの祝いをもらったので、借りものの雛を座敷へかざり、おこわをふかして配った、とある。同年5月の米山登山では、半分も行かないうちに水筒の水を飲みほしてしまい、頂上近くの『雪売り』で喉を潤したと記し、えんま市についても『天気打続、えんま祭り大当り。軽業、からくり等も参り居り』と記録している。」とし「柏崎の魚や山菜とともに、桑名から届いた蛤や桑名麦などが時おり登場してくる点に注目した。蛤は『その手は桑名の焼蛤』といわれるほどの名物だが、保存性から佃煮として持ってきたようだ。また麦も、かて飯としてではなく、桑名を懐かしむ一つのごちそうとして食べていたのではないか。」と解説した。さらに「桑名へ戻る同僚と酒盛りをし、青海川の茶屋でもドンチャンさわぎ。陣屋の勘務を替わってもらい、泥鰌とりに出かけ、帰ってきて泥鰌汁でまた一杯と、3日にあげずよく酒を飲んでいる。桑名から遠く離れた寂しさを紛らすためのものであったのかもしれないが、実に悠長で、のんびりしている空気が伝わってくる。」とし「同じ武士支配にしても、城があるなしでは大きな違いがあった。長岡、高田とも大きな城があって、武家屋敷を形成し、何百人もの武士が住み、町民を支配した。対して柏崎は60人前後の武士がいたのみ。その陣屋役人も『柏崎日記』に見られるように、きわめてのんびりとしていた。この悠長さが、抑圧されない、自由闊達な気風、柔軟性を生んだのではないか。白河時代から数えると128年もの間、柏崎は陣屋支配が続いた。様々な文化交流もあった。じつにうらやましい風土、気風。」と結んだ。田中は2002年にも同様の内容で柏崎で講演。その後も『柏崎日記』へのアプローチを続け、2010年に『「柏崎日記」に見る食風景』を刊行した。

柏崎の味と宿とくつろぎと…(かしわざきのあじとやどとくつろぎと…)
柏崎商工会議所サービス部会が1985年に出したガイドブック。柏崎刈羽原子力発電所1号機の営業運転開始の年であり、「発刊にあたって」には「近年の大型店や工場の進出、原子力発電所建設や関連の地域整備事業の進捗、さらに上越新幹線や北陸・関越自動車道の開業等により、当市の社会的、経済的環境はかってない変化の中にあり、域外との交流にもめざましいものがあります。」と心躍るような期待感が表現される。掲載されているのは「ホテル・旅館・割烹旅館」「料理」「食堂・レストラン」「寿司・寿司割烹」「喫茶・酒場・スナック」「理容・美容」など67社で、「柏崎商工会議所会員事業所のうち、当部会の呼びかけに応じて協力いただいたサービス業関係の事業所および組合を掲載いたしたものです。(略)とくに当市に来られる企業関係の皆さまには便利な資料となるようまとめました。ぜひ、当冊子のご利用をいただきますようお願い申し上げます。」と呼びかける。各事業所2枚の写真と説明文(代表者名、営業内容、セールスポイント、料金等)で構成され、萩原朔太郎「海水旅館」の舞台となった蒼海ホテル(鯨波2)や「日本海の天守閣」と呼称する以前の岬館旧館(番神2)、天京荘(中浜1)など往時の姿が掲載されており、今となっては貴重。

かしわざきのおいしいレシピ(かしわざきのおいしいれしぴ)
2011年発足の柏崎市地域農業再生協議会(事務局・柏崎市産業振興部農政課内)が同年刊行したレシピ集。『柏刈地域の食の歳時記』(2005年、新潟県柏崎地域振興局)、『越後柏崎七街道風土食カード』(2007年、柏崎市)、『かしかりちゃんの食育レシピ集』(2011年、新潟県柏崎地域振興局)の成果を継承、集約し「春のレシピ」「夏のレシピ」「秋のレシピ」「冬のレシピ」計130をポイント、栄養価、料理のいわれ、文化や生産との関わりとともに紹介する。柏崎野菜を活用した「いちご大福」「マコモタケの中華風炒め」「カリフラワーのマヨカレー焼き」「マコモタケきんぴら」「オータムポエムのオイスターソース炒め」等もあり、改めて海の幸、山の幸に恵まれた地域であることを実感する内容だ。掲載料理は次の通り。▽春のレシピ=笹だんご、鯛料理(鯛めし)、いわしのぬた、青菜のいりごこ(粕入り)、うどのごま和え、干しかぶの煮物、鯛の潮汁、いわしのつみれ汁、わらびのおひたし、ふきのとうのみぞれ和え、ふきのとうの佃煮、ふきのとう味噌、きゃらぶき、ふきとにしんの煮物、山菜おこわ、山うどのくるみ和え、山うどのきんぴら、うどとしめ鯖のぬた、こごみのからしマヨネーズ和え、山たけのこの卵とじ、たけのこの五目煮、ふき菓子、あおさの天ぷら。手毬寿司、いわしの梅干し煮、小あじのから揚げマリネ、いさざの卵とじ、たけのこご飯、とう菜の白和え、鯛のホイル焼き、いちご大福▽夏のレシピ=笹ずし、いがだんご、えご、もぞくの酢の物、夕顔のくじら汁、ちまき、水菜の炒め物、もぞくの味噌汁、ワカメの酢みそ和え、いかず巻き、イカの塩辛、枝豆ご飯、夕顔のあんかけ、もぞくのサラダ風▽秋のレシピ=あんぼ(焼きもち)、けんさん焼き、おこわ(赤飯)、さつまいもご飯、おはぎ(ぼたもち)、糸うりのごま酢和え、煮なます、ズイキの酢の物、れんこんのいとこ煮(あん煮)、鉄火みそ、ごま豆腐、さつまいもの手の油炒め、八つ頭の煮物、人参の白和え、きんぴらごぼう、とろろ汁、きのこの辛し和え、あまんだれの酢の物、くるみみそ、ゆり根の吸い物、マコモタケの中華風炒め、カリフラワーのマヨカレー焼き、鯖のおろし煮、スイートポテト、鯛の和風力ルパッチョ、鶏肉越後みそ焼き、マコモタケきんぴら、なすぶかし、かきのもと味付、鯖の南蛮漬け▽冬のレシピ=柏崎雑煮、棒鱈・かすべの煮付け、煮しめ(のっぺ)、ぜんまい煮、ハリハリ漬け(大根)、煮菜、大根のしょっから煮、鱈の粕汁、干しズイキの油炒め、おいな汁、タカオロシなます、ぜんまいとこんにゃくの白和え、干しわらびの油炒め、けんちん汁、大根じばさ(ぎばさ)炒め、鮭の昆布巻き、大根とにしんのざっぱ、オータムポエムのオイスターソース炒め、こんぺのこってり煮

柏崎のかっぱ伝説(かしわざきのかっぱでんせつ)
柏崎市内の伝説を網羅している『柏崎市伝説集』(柏崎市教育委員会、1972年)にはかっぱに関する4つの伝説が紹介される。かっぱを助けた後「二度と悪戯をしないことを約し返す」「御礼にあいすを授かる」に大別される。「約し返す」のは善根佐之久の「かっぱと約束」と上田尻加賀村の「水神(河童)」。特に「かっぱと約束」は典型的な河童駒引譚で、柳田國男の『遠野物語』58段によく似ており、柳田が「此話などは類型全国に充満せり。苟くも川童のをるといふ国には必ず此話あり。何の故にか。」と指摘している通りである。上田尻加賀村の「水神(河童)」は「河童のしりに加賀村の焼印」との制裁を加え解放する。一方、鉢崎の「家伝薬あいす」と鼻田の「河童あいす」は、いずれも助けた御礼にかっぱから「あいす」を授かる。その効能は金創薬で共通するが「筋違い、捻挫のこうやく」(家伝薬あいす)、「打身や切りきずに良くきくので有名になった」(河童あいす)と若干の差。

柏崎の芸能(かしわざきのげいのう)
早稲田大学名誉教授の鳥越文蔵が2010年9月11日に開催された柏崎市制70周年記念講演会「日本文化を語る・二つの国から」で行った講演。鳥越は1956年8月に綾子舞の調査のため恩師・郡司正勝とともに初めて来柏した。講演で「当時郡司先生は結核を患っていて、君(鳥越)はつっかい棒みたいについて来いと言われお供した。早稲田大学の本田安次先生、西角井正慶、町田嘉章、三隅治雄各先生も顔を揃えた」と振り返りながら、「本田先生が1950年に初めて綾子舞の調査を行い、学界に『こういうものがあるんだぞ』ということを知らせて下さったおかげで研究が進展した。綾子舞には出羽、本歌、入羽がはっきりと見られ、袖を使う所作もない。出雲の阿国たちがやった歌舞伎の面影を残しており、ややこ(稚児)舞が綾子舞に訛ったこともあわせ考えると、まさに歌舞伎が生まれる頃からの芸能であり非常に貴重。」と強調した。また、世阿弥改作の『柏崎』については「柏崎という土地を意識するようになったのは大学時代に能『柏崎』を読んだ時から。能の現行曲は250ぐらいで、その中で地名を題にしたものは30曲ぐらいだが、その中に『柏崎』という地名が能の曲名に入っているのは、都の能を作る人たちにとって柏崎が港として重要な役割を果たすなど特別なまちであったのではないか。」と指摘した。講演に続いて綾子舞公演(下野座元)も行われた。

柏崎の「しゃっこい水」サービス(かしわざきの「しゃっこいみず」さーびす)
全国的にも稀な3つの水道専用ダムがある柏崎ならではの夏場サービス。帰省客や観光客で最も人口が増えるぎおん柏崎まつり前後に取水位置を通常より低い位置にし、水道の蛇口からしゃ(冷)っこい水を提供する。最も上流部にある赤岩ダムでは通常、第1取水口(20・5度、水面温度26・6度)から取水しているが、これを第2取水口(5・4度)、さらに第3取水口(4・5度)=かっこ内はいずれも2022年7月27日の水温=に下げ取水する。夏場は表層付近の水温が上昇し、プランクトンの発生などで水質が変化することから、これらは水質安定対策でもあり、「柏崎の夏場の水道水の温度は約20度で、他市に比べて6度以上低い」を実現している。「蛇口をひねるとしゃっこい水道水」は柏崎市民の自慢でもある。なお、赤岩ダム、谷根(たんね)ダムの集水区域は、開発を認めないために全て市有地として確保しており、水質汚染の心配が全くないことでも知られている。

柏崎の石仏(かしわざきのせきぶつ)
柏崎市立博物館開館5周年記念として1991年に開催された特別展。ベースとなったのは「柏崎の石仏調査会」の38人が調査員となって1990年から1年がかりで行った悉皆調査。明治時代の町村合併以前の110町村別に担当地区を振り分け実際に歩きながら調べた結果1681基が確認され、このうち代表的石仏52点、関連資料を合わせて展示、「造立年が判明した851基の約7割が1801年から1870年の70年間に造立されており、『石仏の時代』と形容できる時代があった。庶民生活の向上、充実が背景ではないか。」「米山信仰を象徴する米山塔は38基が確認できた。米山から東に行くほど濃密な分布状況となっており、逆に米山山麓にはほとんど見られない。」「双体道祖神は46基で、上輪や谷根、大平、小杉といった西部地区をはじめ、女谷を中心とした鵜川地区、さらに長鳥川流域に集中している。所在不明となったものもある。」などと特徴を説明した。特別展図録は「論文編」「報告編」からなり、報告編には「柏崎の石仏調査会」が行った1681基の全データを表形式で掲載し圧巻。論文編も充実しており、1993年、2005年の2回増刷を行い博物館図録としては異例のロングセラーに。

柏崎の双体道祖神(かしわざきのそうたいどうそじん)
仲睦まじい男女二神を刻んだ「双体道祖神」というと安曇野周辺がよく知られるが、柏崎市内でも52基※の双体像が確認されている。本県道祖神研究の嚆矢といえる横山旭三郎『新潟県の道祖神をたずねて』(1980年)は、柏崎の特徴として「衣冠束帯姿の双体像が多くあることであろう。」「(その理由として)平田篤胤の復古神道唱道以後のものであろうが、国学者樋口英哲、生田万が柏崎に住居を構えて神道的な考えを進めたのかも知れない。」とし、「特に谷根神社境内の雲形の地石に神祇像を彫刻したものは全国的にも珍しい。又笠島に僧衣無髪の双体像がある。これは古い型のものである。」「この地方には随分立派な彫刻のものが多い。それは石工に恵まれたためである。(略)上輪新田のものは『石工 源之丞』とある。銘を刻む事は余程腕のある者と考えられる。」などと解説。さらに「柏崎市谷根の道祖神」「柏崎市善根の道祖神」を取り上げ、なかでも「特に(谷根)中和田のものは面白い姿態である。男神が盃、女神が徳利を持っている。この二神は離れているが手はしっかり握って踊っている様にさえ見える。二人睦まじくはねているが、とにかく静的な神像の多い中に動的な神像である。」と注目し、その後「踊る道祖神」として脚光を浴びることになった。新潟県石仏の会初代会長の阿部茂雄(柏崎市安田)は「双体道祖神の分布は、全国的なものではなく、信州を中心とした近隣諸県に限定されており、諏訪民族の移動との関係もいわれている。新潟県はその分布圏に含まれているが、県内における分布も均一ではなく信濃川右岸一帯に多く見られる。(魚沼・栃尾・下田村など特に多い)、左岸では柏崎周辺を中心に割合多く見られる。」(『野の仏に視る』、1983年)と解説。※「柏崎の道祖神」(柏崎市石造文化財調査報告書第1集、1993年)によればうち3基は所在不明

柏崎の宝「綾子舞」を楽しく学ぼう(かしわざきのたから「あやこまい」をたのしくまなぼう)
2016年に開催された夏休み子ども向け体験教室。重要無形民俗文化財指定から40年という節目にあたり「綾子舞の奥深さを知り、実際にふれてみる」を目的に柏崎市、古典を活かした柏崎地域活性化事業実行委員会が主催、柏崎古典フェスティバル2016の プレイベントとして開催された。文化庁文化芸術による地域活性化・国際発信推進事業の補助を受けた。柏崎市文化会館アルフォーレマルチホールを会場に50人が参加、第1部の綾子舞講座では「いつから綾子舞はあるの?」「綾子舞ってどんな踊り?」「めざせ綾子舞博士!-綾子舞検定で力試し」、第2部の綾子舞体験では「扇を持って踊ってみよう!」「太鼓をたたいてみよう♪」「ユライを身に付けてみよう!」が行われた。前半の講座で「演じ手によって大きく2つのグループに分けられる。女性による小歌踊、男性による狂言と囃子舞。女性によって演じられる小歌踊は、2人で踊る高原田(座元)、3人で踊る下野(座元)で違いがわかる」などのレクチャーを受け、綾子舞検定では「綾子舞が鵜川に伝承されたのは何年前」「綾子舞を伝承している二つの集落は」「高原田のみの演目『小切子踊』で手に持って踊る道具は」「狂言と囃子舞の違う点を答えなさい」など11問にチャレンジした。後半は綾子舞保存振興会の指導者を講師にユライの結び方体験、扇などの所作、笛、太鼓演奏などを学んだ。柏崎市綾子舞保存振興会の茂田井信彦会長は「ユライの結び方は、座元にとってかつては秘伝とされてきた。それを実際に子どもたちの前で結んでみせるのだから、開かれた綾子舞ということになる。国指定40周年にふさわしい機会となった」と感想を述べた。

柏崎の道祖神(かしわざきのどうそじん)
柏崎市立博物館が1993年に刊行した柏崎市石造文化財調査報告書第1集。1991年の特別展「柏崎の石仏」の際の道祖神リストを元に追加調査を行った結果をまとめている。今回も市民参加を呼びかけ、これに応じた14人で「石仏に親しむ会」が結成され調査に協力した。結果を①新たに発見した3基をふくめ88基※が確認され、新潟県内では栃尾市に次いで多い地域であることが分かった②形態別では双体像52基、文字塔18基、自然石5基、陰陽石5基、石祠・木祠8基だった。市内全域に分布しているが、二十三夜塔が多い荒浜・椎谷地区には道祖神が全く見られないことも分かった③このうち双体像は西部の米山・上米山地区、鵜川中・上流域の野田や女谷地区、鯖石川流域の中・南鯖石地区、その支流長鳥川流域の北条・長鳥地区の四地域に集中、姿形としては肩組祝言像(19基)、肩組握手像(12基)が多い-などとまとめている。※88基のうち4基は所在不明

柏崎の花-Spring Collection(かしわざきのはな-すぷりんぐこれくしょん)
2022年2月にソフィアセンターで開催された企画展。「花」に関連した美術作品、創作物、地域資料などを展示し、コロナ禍の暗い空気を払拭しようという異色展で、「暮らしの中の花々」「柏崎・花の名品」「花を楽しむ」の3テーマで多彩な作品を展示。柏崎市が所有する中村彝「苺」の公開も話題を集めた。「苺」は1917年頃描かれ、1920年の柏崎での初個展で展示された作品で新道・飯塚家の旧蔵。中村彝に師事した宮芳平「庭の花々」も展示された。会場では黒船館館長で花田屋社長の吉田直一郎が「柏崎の文化」について講演、「かつては魯山人、棟方志功、中村彝など多くの文化人が柏崎を行き交った。いろんな文化人が来て、いろんな文化人とつながっていた。そういった文化風土を知らない人が増えた。展示を通しかつての柏崎に思いを馳せることができればと思う。柏崎のコレクションは、人間と人間のつながりで集めた(集まった)ものばかり、全国的に見てもこういうところはないと思う。柏崎は何もないという人があるが、それは間違い。文化人が喜んでくれたまち。自信をもっていい。」と強調、祖父の正太郎が収集した高野米峰の作品に固執した魯山人が吉田家に贈った8枚のステンドグラスにまつわるエピソードも披露した。2023年には「柏崎の花-Spring Collection 2023」が開催され、柏崎ふるさと応縁基金(ふるさと納税)」への寄付金で新たに購入した水野竜生「蘭バンダ」、柳重栄「紅白梅」、林武「薔薇」、三岸節子「花 大磯にて(1986年)」が初公開された。

柏崎の奉納物-人は神仏になにを捧げてきたか(かしわざきのほうのうぶつ-ひとはしんぶつになにをささげてきたか)
柏崎市立博物館で1995年に開催された第29回特別展。柏崎周辺の社寺や仏堂に奉納された絵馬や額をはじめとする数多くの奉納物を通して、柏崎の祖先が何を祈り願ったかを探った。「奉納物を大別すると①絵馬②奉納額③呪物④その他(旗、提灯、千羽鶴、千社札、石塔類など)の4種類に分けられる。椎谷観音堂や緑町の淡島神社(大聖院)、上輪の胞姫神社や中浜の金毘羅社(虚空蔵寺)などでこうした奉納物が数多く見られ、いずれも拝殿は奉納物の資料館の趣。なかでも女性の信仰を集めた淡島神社には、形乳型奉納額、子授けを祈る柄杓、わが子の成長を祈る人形やよだれ掛け、夫婦円満を誓う写真や額、さらには婦人特有の『下の病』を治すため腰巻や下着類などが所狭しと奉納されている。」と概説したうえで「こころを探る」「かたちを楽しむ」「史料として読む」の3部構成で展示、市内最古とされる北条・石井神社の「鶴と翁童図絵馬」(1681年)の展示や北条十五夜祭で奉納される灯籠(人形屋台)の準備風景を含めた紹介が人目を引いた。会期中に日本民俗学会理事・井之口章次による記念講演「奉納物からみた日本人の祈り」が行われた。

柏崎の魅力を活かす-映像制作誘致の可能性(かしわざきのみりょくをいかす-えいぞうせいさくゆうちのかのうせい)
2021年のかしわざき市民大学講座「小説・映画で知る柏崎の魅力」の第3回講座で行われた新潟県フィルムコミッション協議会の土田悠による講演で、「ロケツーリズム」の視点から、映画やドラマのロケ地としての柏崎の魅力と地域振興の可能性を考えた。土田は映画、ドラマ、CMのロケーション撮影を協力、支援するフィルムコミッション(FC)の役割について説明した後、柏崎の特徴的なロケ地として①青海川駅(海に近くホームのすぐ前に日本海が広がっている。全国的に見ても珍しく絵になる。「高校教師」(1993年)や「10年レター」(2005)が撮影された)②荻ノ島かやぶきの里(かやぶき屋根の民家が連なり周辺は水田が広がっている。古き良き日本の原風景を撮影できる。「キャタピラー」(2010年)、「ひぐらしのなく頃に」(2016年)が撮影された)③海岸・海水浴場(日本海に面し、海岸線が長い。笠島漁港、牛ヶ首岬など印象的な場所も多い。「ノーボーイズ、ノークライ」(2009年)、「ラストソング」(1994年)が撮影された)をあげ、「公開後のロケツーリズムによる経済効果、地域活性化も期待できる。地域素材の掘り起こしと発信、思い出に残るおもてなしを官民一体となって行い、映像制作誘致推進を」と述べた。

柏崎のむかしばなし(かしわざきのむかしばなし)
柏崎青年会議所創立25周年記念事業として、広報かしわざき1976年4月15日号から1980年3月15日号まで掲載された「ふるさとの民話」を単行本としたもの。1982年刊。文は深田信四郎、絵は吉田好道と吉田耕也。収録された民話は次の通り。空を飛ぶ米俵、お万が渕、玉屋の椿、お弁かわいや、柏崎勝長さま、剣野村、石いもの話、ししが沢の赤鬼、おろち退治、そばぐるま、織り姫さま、甚平ンちはどこだ、弥三郎ばば、八石山、岩之入の塩水井戸、むじな堂、お歌が火、いえの山のいなりさん、吉井の三枚岩、がにが渕、踊り出した魚、ぬけ出した黒馬、あやこ舞、かたがり松の京参り、白い龍、鬼の坊太郎、稲刈り仁王、鬼になった小僧さん、しげさのごかんげ、北条の十五夜祭り、土合村、円蔵柿、お城のぼんさん、買った初夢、むかで丸、椎谷の観音坂、鐘が渕、アカシアの夢、牛を持ち上げた坊さん、飴を買う幽霊、木喰上人の話、金の馬、ばば清水、中田の十王堂、狐のお礼、機織り姫、旗引山の乙姫様、良寛さんとちぢみ屋、馬の鈴音、堀の弁天池

柏崎美術秘話(かしわざきびじゅつひわ)
「大正の美と心 中村彝」展(1997年、新潟県立近代美術館)を担当した新潟県立美術館の小見秀男が1993年に東京電力柏崎エネルギーホール開館10周年記念行事として行った文化講演。副題は「中村彝の名作・エロシェンコの像と柏崎」で、柏崎の文化風土を再認識する契機ともなった。小見は「中村彝の最初の個展(1920年)は東京でも、出身地の水戸でもなく、当地柏崎で開催された。この個展のために作られたモダンな出品目録を手に入れたことをきっかけに彝と柏崎のことを調べ始めたところ、比角村長、柏崎市長を務めた洲崎義郎との濃密な関係があることがわかった」としたうえで「洲崎と彝を引き合わせたのは柏崎出身の一高生・小熊虎之助だった。洲崎は小熊に案内され、新宿中村屋裏のアトリエに寄寓していた彝を訪ね、初対面で百年の知己のように共鳴し合ったという。彝の遺稿集として刊行された『芸術の無限感』に収められる100通のうち42通が洲崎宛で、単なるパトロンを越えた精神的な血縁関係だったのではないか」と述べ「エロシェンコ氏の像」(大正期の洋画を代表する傑作として重要文化財)の制作秘話、そのモデルとなったワシリー・エロシェンコの来柏や宮芳平など数々のエピソードを披露、「曽宮一念や鈴木金平を招いて比角小学校で日本で最初の自由画教育が行われたことも特筆すべき」と強調した。

柏崎戊辰史探訪(かしわざきぼしんしたんぼう)
柏崎出身の郷土史家・富永武臣が柏崎の戊辰戦争についての研究成果を1975年の柏新時報新年号から20回(20年)にわたって寄稿、「柏崎戊辰史探訪」(1976年のみ「柏崎物談」)のタイトルで掲載された。『太政官日誌』、『越の山風』(山県有朋)、『柏崎編年史』などを参考資料とするとともに、西巻進四郎、桑山太市朗、田村愛之助、岩下庄十郎、吉田正太郎、中村葉月、関栄太郎の郷土史家、古老から聞き取りを行うなどしたことから貴重な内容となっており、連載終了後の1995年にはこれを「柏崎の名の由来」「鯨波戦史」「海軍の活動」「ヤッパンマルス」「日柳燕石先生終焉の柏崎病院」「妙行寺本営会議」「ウイリアム・ウイルスについて」「長岡城について」「官軍会津攻撃準備」「仁和寺宮東京へ」の各項目で再構成し、私家版『柏崎戊辰史探訪』として刊行している。

かしわざき街なか小路ガイドマップ(かしわざきまちなかこうじがいどまっぷ)
街なか史跡ガイド推進実行委員会と中央地区コミュニティ振興協議会が2012年に作成したまち歩きガイドマップ。西本町3~1丁目の天王小路、ごぼう小路、牢小路、遊行小路、たや小路、なまね小路、長井小路、広小路、住吉小路、御家流小路、納屋町小路(郵便局小路)、火防線小路、御米小路、土粉小路、金蔵小路、諏訪小路(けんどん屋小路)、東本町1~3丁目の宮川小路、山田小路、御蔵小路、星野小路、荒木小路、権現小路、藤沢小路、宮小路(座頭小路)、荼毘小路、伝助小路の計26小路をそれぞれの由来と共に紹介、「柏崎は鵜川、鯖石川の二つの流れの狭間、砂丘の上に生まれました。(略)鵜川河口付近から始まったまちづくりは、徐々に東へと進み、江戸時代には、北国街道の宿場町、港町として栄え、縮布商が活躍する商人のまちとして発展してきました。商人でにぎわう街道の外側には住宅が、さらに多くの社寺が取り囲む形態をなし、街道を縦横に結ぶ『小路』が、今もなお、その歴史を物語っています。」と町並形成の経緯を説明、「古(いにしえ)から今につながる『街なか小路』には、歩いてこそ発見できる、そこだけの魅力や感動がつまっています。皆さんも『街なか小路ガイドマップ』を手に、柏崎町の温故知新の旅に、どうぞおでかけください。」と誘う。マップ表紙には黒船館蔵の柏崎町古絵図(寛保年間)を使用、「柏崎市の発祥」としてかしわの大樹、柏崎勝長邸跡(香積寺)、「小路周辺の史跡と昔の風景」として生田萬の墓碑、三階節(専福寺)、閻魔堂、星野藤兵衛の墓(妙行寺)などの紹介も。

柏崎野菜(かしわざきやさい)
2011年に発足した柏崎市地域農業再生協議会(事務局・柏崎市産業振興部農政課内)が同年刊行した小冊子。「海と山と里が大切に育んだ豊かな自然の恵み。」「昔ながらの美しい地形・気候・風土が相まって、柏崎地域の野菜産地を構成しています。」としたうえで、柏崎伝統野菜(柏崎地域の風土をもとに限られた地域でのみ栽培・生産されている希少価値の高い6品目)の刈羽節成きゅうり、緑なす、与板菜、仙人菊、黒姫人参、新道いも、柏崎地場特産品(全地区を挙げて栽培に力を注いでいる15品目)のつららなす、マコモタケ、新道柿、磯之辺トマト、ズイキ、土垂、そら豆、ゆうごう(夕顔)、糸うり、カリフラワー、えだまめ、オータムポエム、ぜんまい、越後姫、宝交早生の特徴、歴史を紹介、「私達は、『柏崎野菜』ブランドの魅力、味わいを全国の皆さまに知っていただくために、今後もさまざまな取り組みを行っていきます。」とのメッセージを伝えている。

柏崎ゆかりの画家宮芳平(かしわざきゆかりのがかみやよしへい)
2008年に柏崎ふるさと人物館で開催された企画展。副題は「落日の美しさに魅せられて画家(えかき)になりたいと希求(ねが)った」。「庭の花々」(比角小学校蔵)、「秋晩く」(柏崎高校蔵)など柏崎時代の作品に加え、三男・宮晴夫や安曇野市豊科近代美術館の協力で多くの作品、遺品が出展された。展示目録では「父の末八は、酒や味噌の醸造業を営む飯塚家(屋号麹屋)から宮家に入婿しており、その姉と妹の嫁ぎ先はそれぞれ関家(屋号カネマン)と呉服屋を営む山崎家です。芳平の姉は関家に嫁ぎ、兄の子は関家からの養子です。柏崎と縁戚関係のある家庭であり、明治39年(1906)、生まれた旧堀之内町から柏崎に進学します。父の妹が嫁いだ山崎家から柏崎中学校へ通い、学校では出会いがありました。教師の松本徳聚は人生の師の一人となり、上級生の宮川哲郎(眼科医宮川文平の子)と友人になって宮川家から通学するほど親しい関係でした」と背景などについて説明している。

柏崎・米山ハイキングMAP(かしわざき・よねやまはいきんぐまっぷ)
たんねのあかり実行委員会が2013年に作成したGPS踏査による地図。米山は、年間数万人という登山者がありながら、これまで正確な地図がなく、米山登山者向けに等高線の入った本格的なマップを目指し、米山を熟知する実行委員会メンバーが谷根、吉尾、大平、米山林道、野田の5コースで複数回の踏査を実施した結果に基づくマップで、各コースの特徴を「始めの急登を過ぎれば、尾根に沿って、日本海、谷根・赤岩ダム、魚沼の山々、野田コースを左右に眺めながら楽しく登ることが出来る。名水不動の水を水筒に入れ、登り始めよう。道端には花々が咲き乱れ、600m付近はブナの原生林を歩く。春に、秋に、美しいコース」(谷根コース)、「静かな山行を楽しめるコース。柏崎市街地、日本海も振り返り見ながら高度をかせいでいく。上部にはクサリ場もある。初夏、ブナの新緑と残雪がまぶしい。」(吉尾コース)、「最もポピュラー、トラディショナルなコース。柏崎の多くの中学生、高校生が登る。途中、711mの尾根では妙高方面の山々が展望できる。」(大平コース)、「大平コースから別れるが、近年落石などで通行止めも多い。エスケープルートとしても利用される。」(米山林道コース)、「最も長く、米山をじっくり味わうことが出来るコース。雪解けも一番遅い。途中、ブナの原生林も楽しめる。晩秋、早春はコースが雪に埋もれるので、地図,コンパスを持ち、早め早めの行動を心がけたい。」(野田コース)等とコンパクトにまとめている。ガンバレ岩(大平コース)、山伏岩(吉尾コース)などの正確な位置も表示した。

柏崎らしい景観51選(かしわざきらしいけいかん51せん)
「景観法」施行(2004年)に伴い景観への意識、関心が高まるなか、柏崎市では2006年に「柏崎市らしい景観」の市民公募を行い「51選」を選定した。「景観」は会田洋市政の重要なキーワードの一つであり、2007年には『都市景観ガイドマップ-「柏崎らしい景観51選」と応募景観の紹介』が柏崎市都市整備部建築住宅課から刊行され、さらに追加公募により「100選」とする計画だったが、同年7月16日の中越沖地震により頓挫。「51選」の内容は次の通りで、このうち旧日本石油赤煉瓦倉庫や旧宮川医院は中越沖地震により倒壊、門出寄角力大会は2013年、ふるさとまつりは2017年に後継者不足や財源難などからそれぞれ終了している。▽自然景観13選=カタクリの群生、牛が首、鷗ヶ鼻、黒姫山の眺望、米山の眺望、善根の不動滝、棚田、池の白鳥、ブナの群生林、鯨波海水浴場、久之木の大杉、荒浜海岸、雪割草の里▽まちなみや集落8選=荻ノ島かやぶきの里、椎谷集落、風除け・板や竹、北国街道とヨロンゴ並木、貞観園周辺、米山町集落、宮川集落、東本町地区▽建物や施設17選=旧日本石油赤煉瓦倉庫、海に最も近い駅「青海川駅」、大清水観音堂、椎谷観音堂、松雲山荘、水源地の桜、赤坂山公園、久寛荘、飯塚邸、番神堂、米山大橋、旧宮川医院・絵本館、喬柏園、二田物部神社、曽田医院・ギャラリー、柏崎マリーナ、風の丘周辺▽祭りやイベント13選=狐の夜祭り、えんま市、草生水まつり、鯨波海岸いさざ捕り、ぎおん柏崎まつり、門出寄角力大会、綾子舞、ふるさとまつり、稲虫おくり、五日市大池蓮の花取り、柏崎マリンスポーツフェスタ、賽の神(どんど焼き)、日本海太鼓

柏崎良寛貞心会(かしわざきりょうかんていしんかい)
良寛と貞心尼を語る会(1983年発足)の活動を母体に1992年に発足、「貞心」を会名につけた全国初の良寛会ということで話題になった。全国良寛会の誘致(1995年、2013年)や貞心尼像の建立(ソフィアセンター内、1997年)、貞心尼遺墨展の開催、洞雲寺での貞心尼法要(1996年から、洞雲寺)などを通して「柏崎の貞心さん」の顕彰、発信活動を進めてきた。一時は会員数100人を超えたが、2018年に会員の減少と高齢化などから解散した。

かしわざきを知る-郷愁の北国街道を往く(かしわざきをしる-きょうしゅうのほっこくかいどうをいく)
2010年に開催されたかしわざき市民大学講座(柏崎市教育委員会主催)で計6講座(米山峠三十里と旗持山城の攻防、鉢崎の関所の役割、北国街道の宿駅制度、佐渡金銀の輸送法など)が行われた。講師は柏崎・刈羽郷土史研究会の新沢佳大。このうちフィールドワーク「北国街道の史跡」では聖が鼻の松田伝十郎顕彰碑、鉢崎関所跡、甕割坂、境川(金の受け渡し場)、御野立公園(戊辰戦争跡)などを新沢の案内で見て回った。新沢が撰文を担当した松田伝十郎顕彰碑前では「地元の皆さんから後世に勇気を与える様な碑を…との要望を受け、北夷談をもとに(北夷談は候文なので)誰もが読んで分かるように、松田伝十郎が国境を見極め快哉を叫んだ気分を文章の中に表現した。揮毫の山岸暁翠先生には、伝十郎の筆法に近い御家流で書いてほしいとお願いした。」、また北国街道米山三里旧道道標前では「コレクションビレッジ開設で道路を作った際、入り口から変わってしまった。(道路に合わせ)道標の向きを変える話もあったが、文化財委員として断固拒否した。柏崎市の発展に…と許容する場合もあるが、この道標は米山三里、米山三十里の峠の出発点であり、向きを変えたらおかしくなるので、お断りした」などとエピソードを語った。

「柏崎」をめぐって(「かしわざき」をめぐって)
観世流の月刊誌「観世」では1976年11月号、12月号連続で柏崎ゆかりの謡曲「柏崎」についての特集を組んでおり、このうち12月号では「『柏崎』をめぐって」と題する座談会の様子を掲載している。出席者は古川久(武蔵野女子大学教授)、武田太加志(観世流職分)、檜常太郎(「観世」を発行する檜書店社長)で、能楽評論家・坂元雪鳥による観劇評をまとめた能評全集で1908年から1936年の間に「柏崎」が9回しか登場しないことについて古川が「雪鳥さんが、それだけしか見られなかったということでしょうけれど、それにしても随分少ないですね。」と皮切り、武田は「私は一ぺんしかやってないんですよ。」「そんなにつまらない能だとは思いません。つまり、やることがないというつまらなさじゃないですけど、狂女物としてはずい分長いですね。それが難といえば難です。」「(喜多)六平太さんのに、直接関連するかどうかはわかりませんが、非常に稽古を積んでないとダメだというようなことが書かれています。」と難曲と言われる背景を説明、古川はさらに「サシクセ以下は文学的にはもう大変…。しかしここから仏語がずい分出てきますね。(豊臣秀次が学僧を集めて作らせた)『謡抄』には仏教語がたくさん注釈してあります。やっぱり仏語というのは、相当聞き取りにくかったんでしょうね。また『柏崎』はずい分多過ぎます。」と述べ、檜が「能としては、平物ですけど大物でございますね。」と結論付けている。香積寺(柏崎市西本町2)の写真も紹介されるが編集部からは「『香積寺』とか『柏崎殿の邸跡』とかたずねても、すぐには土地の人にもわからないんですよ。謡曲にこういう物語があると知っている人も少ないのではないでしょうか。」との耳の痛い話題も。

柏の大樹(かしわのたいじゅ)
柏崎の地名の由来となった大樹。現在の柏崎市中浜一丁目の海岸段丘(石なんご場、ゼニ山)上にあったとされる。中学校区別に伝説を収集した『柏崎伝説集』には第一中学校区、第三中学校区の2か所に記述があり、それぞれ「柏崎という地名の起りは柏の崎というところから、きたものと言われている。昔、鵜川の下流俗に『石なんご場』というあたりに、大きな柏の木が一本あったという。これが遠く沖を漕ぎ行く船頭さんの目印となり、いつとはなしに『柏の崎』と呼ぶようになり『柏崎』と名づけられたという。」「柏崎という地名のおこりは柏の崎というところから来たものだといわれている。大昔、鵜川の下流、今の天京荘あたり(石なんご場或はゼニ山)に大きな柏の木が一本あった。この柏の木はどこからもよく見えて、一つの目印になっていた。ことに遠い海の上からよく見えたので、船頭達は、この柏の木のある岬を見当にした。こんな具合で、いつとはなしに、柏の木のある岬、即ち、『柏崎』と呼ぶようになった。」とする。また「鵜川の柏の大樹の東北に柏崎勝長公という人の家があったという。」(柏崎勝長公)とも伝わる。関甲子次郎編『柏崎文庫』には8巻に「柏の大樹ありし(略)柏の化石、今尚ほ鵜川の南岸、大洲村字石投子場(いしなんごば)に在り」とあり、「柏石ノ在所」を略図で示したうえで「明治三十年ノ頃迄アラハレ居タリ」と説明する。「柏石」は柏の大樹の化石の略のようだ。根が化石のようになった状態では、と推測される。また13巻「石投子場」の項に「鵜川の南岸」「巨木の倒れた所」との説明がある。小千谷の魚沼神社神官・五十嵐麗景は1903年に来柏した際、「小山の如 柏の大根の…」(柏の大樹の根が小山の如く残っている)との漢詩(柏崎にて)を残しており、『柏崎文庫』の「明治三十年ノ頃迄」と合致する。

かしわの大樹(かしわのたいじゅ)
柏崎青年会議所が1998年から10年がかりで50基を建立した「まちしるべ」の第1号として水道橋公園(柏崎市新橋)に設置。「今から700年ほど昔、鵜川の河口から少し上流のあたりに漁師の船着場がありました。そこから見える向こう岸になんご沢(レンガ坂)、その頂上付近には『大きなかしわの木』がそびえ、遠く海上より手こぎの船でかしわのさきをゆく漁師の大切な目印となっていました。この「かしわの大樹」が柏崎の名前の由来ともいわれています。」と説明する。当初は、実際に大樹があった附近(柏崎市中浜一丁目)で適地を探したが見つからず、結果として大樹のあった海岸段丘を遠望する水道橋公園に設置した。

仮設住宅1年3か月の暮らし(かせつじゅうたくいちねんさんかげつのくらし)
中越沖地震(2007年)で柏崎市西本町3の自宅が全壊し、1年3か月にわたって応急仮設住宅に暮らした小栗俊郎(元小千谷市立東小千谷小学校長、学校法人柏専学院副理事長)の体験記。柏新時報2009年1月1日号に掲載された。中越沖地震後の柏崎市では39か所に応急仮設住宅が建設され、小栗はこのうち駅前ふれあい広場(柏崎市駅前1、65戸)に入居した。小栗は「あの悪夢から1年3か月。昨年11月1日、お世話になった応急仮設住宅から引越し、再び鵜川町(西本町3)に戻ることが出来た。65軒でスタートした駅前ふれあい広場の仮設住宅の人々。苦しさ、厳しさ、やさしさなどたくさんの思い出の詰った生活だった。」「人はその時、その場ですばらしい個性を発揮する事が多い。会ったこともなければ顔も名前も知らない人達と、地震という災害を通じて共同集団生活をすることになった。」と前置き、「知らない人々の集団だから純真で新鮮な行為に満ちあふれていた。1日に2回は住宅周辺を見回り、草を取り、ゴミを拾い環境美化に気を配ってくれたおばあさん。感謝の気持ちで一杯。本当に仮設周辺は清潔だった。(略)ファミリーで花を育てる家族は、孫も参加して住宅棟や集会場前に、心なごむ季節の花々を植え、咲かせてくれた。」「仮設の共同社会は一期一会である。細かい組織や規則は不要のようだ。65軒を5ブロックに分け、1か月交代の当番制班長で活動した。集会室利用のカギ保管、市広報の配布、緊急時の回覧配りなどである。ゴミ収集当番は決めず、仮設内のボランティアが次々と点検するようにした。町内会とは違った活動を展開した。」などと日常を振り返り、「苦しい状況にあっても人々の営みは人間味あふれ、暖かかった。それはコミュニティーの理想の姿ではなかったか。」と結んでいる。

かたがり松(かたがりまつ)
かつて松之山街道(現在の国道252号)沿い、柏崎市茨目1にあった名松。柏崎の玄関口で、米山を背景に大きな傘を広げ傾ける優美な姿で旅人の目印となった。樹齢500年以上(田尻のほりおこし、1981年)とされたが、枯死寸前となったため1976年に伐採された。現在は柏崎青年会議所のまちしるべ「かたがり松の京参り」が跡地(ピアレマート柏崎店北側)に立ち「松が若い女の姿を借りて京都見物に出かけ、遊びすぎて路銀を使い果たし、たまたま通りがかった同郷の五郎作に路銀を借りた」という伝説や経緯を伝えている。「借りた路銀は約束の日に枝につるされ、枝という枝を揺らしてお礼を言った」「松が京都見物に行っていた1月間は、葉がことごとく赤くなり、枯れたようになっていた」とも伝わる。老松神社として祀られていたが、1907年に茨目白山神社に合祀、本殿右脇に石祠と由来碑(茨目老松之記)がある。

勝海舟像(かつかいしゅうぞう)
東京都墨田区役所うるおい広場に「勝海舟の銅像を建てる会」が2003年に建立した。江戸開府400年記念事業民間第1号として「勝海舟は江戸城無血開城により江戸市民を戦火からすくった恩人。本所亀沢町(現在の両国公園あたり)の男谷邸で生まれ、24歳まで当地ですごし、人間としての基礎を作った墨田の地に全身立像建立を」と機運が盛り上がったという。それまでは能勢妙見堂の胸像しかなかった。像高は2・5メートル、台座を含めると5・5メートルで、江戸城無血開城を成し遂げた46歳半ばの頃をモデルにした。刀とさやを「こより」で結んでいるのが特徴で、「何度も暗殺されかけながら一度も刀を抜かなかった」との伝承にならった。除幕式(2003年7月21日)には曾祖父・米山検校の出身地ということから柏崎市も招待を受け、小林進東京事務所長が代表して出席、「木遣りがあって、それは粋だった」との感想を残している。

勝海舟の祖米山検校(かつかいしゅうのそよねやまけんぎょう)
別冊・歴史手帖第1号「特集勝海舟」(1974年)に掲載された上越市文化財委員・渡辺慶一による論文。渡辺が1970年に執筆した「米山検校と大石松八郎」(『信濃』22巻1号掲載)をもとに、鍼道指南之学校開設の嘆願書などの資料を紹介、「この米山検校のような越後人の辛抱強さと、経済的能力手腕が、後年の勝海舟の血の中に流れ、明治維新という隔世の大業を成しとげさせた一因ではあるまいか」と結論づけ、その後の米山検校研究を進展させる契機となった。編集を担当した勝部真長は「海舟ブームにのって随分キワモノ的な"海舟もの"の出版が書店の棚を賑わしている。本誌では、男谷検校(米山検校)の出生地、柏崎市に現地踏査し、二つの墓を写真撮影し、郷土史家渡辺慶一氏に米山検校について考証していただくなど、新資料の提供ができた。」とし、さらに自身の著作『勝海舟』上巻でこの論文を「米山検校についてのおそらく最初の詳しい研究」として紹介している。

柏崎音頭(かっしゃざきおんど)
柏崎民謡保存会が1992年の創立40周年記念特別公演で発表した新作民謡。神林淡雪作詞作曲で、笠島、胞姫さん、鯨波、番神堂、米山さん、椎谷岬、鵜川などの名所、風物を調子の良いテンポで織り込み、ふるさと柏崎のPRに一役買った。柏崎ネイティブ発音で「かっしゃざき」と呼称するのがポイント。1995年には普及を図るため「新作柏崎音頭発表記念特別公演会」を開催、同年発売のCD「越後柏崎の民謡」にもカラオケ付で収録された。

かっぱとアイス(かっぱとあいす)
『柏崎市伝説集』(柏崎市教育委員会、1972年)で収集された4つのかっぱ伝説のうち鉢崎(現在の柏崎市米山町)の「家伝薬あいす」を深田信四郎が物語化した。『昔の話でありました』第三集(1976年)所収。「金創薬」を伝える河童譚だが、川でなく「海で地引網にかかる」という点が珍しい。鉢崎の浜で、引き上げた地引網にかかったのは「烏てんぐのようにとがった口をして背中に亀のこうらのようなものをくっつけてわきの下には魚のひれのようなものを生やして頭のてっぺんはつるりとはげた」かっぱだった。鉢崎の浜の人たちは「子どもが水におぼれて死ぬのはかっぱが子どものけつの肉を食いとるからだ」と信じていて、かっぱは若者たちになぐるけるの乱暴を受け泣く力さえなくなっていたところを網元に助けられ「鉢崎の町の子どものけつの肉をとって食べないとちかうなら今度はかんべんしてやろう。」と逃がしてもらった。その夕方、浜を散歩する網元の前に親子のかっぱが波の底から現れ「お礼にあなた様にアイスの作り方をお教え申しましょう。」といって網元に教えたという。「アイスはうちみ、肉ばなれ、すじちがいなどの所につける『こうやく』でございます。この子もアイスをつけたので、あんなに打たれたのにケロリとなおりました」と親がっぱ、秘伝を教わった網元はさっそく家で教わった通りにアイスを作り、なかなか効き目がよかったことから「アイスを買う人たちが毎日続きわたりましたとさ。」とハッピーエンド。

加藤みどりの「サザエさん」論(かとうみどりの「さざえさん」ろん)
国民的テレビアニメ「サザエさん」のサザエさん役で知られる加藤みどりが1998年に高柳町で行った講演。演題は「家族」。加藤は放送開始の1969年からサザエ役を務めており、「『ギャラ安くてもいいですか』『イメージに専念してもらうために他の役は断って下さい』と言われ、疑ったりしないで『ハーイ』とやってきた。素直なところに運は来るのかも知れない。」と笑わせた後、人気の秘けつについて「家族がいつも一緒にいてペチャクチャ話している。よく食べる。子どもたちは小さいがそれに相応しい感性をもっていて、うれしいこと、悲しいことを体で表現できる。大人は、子どもの話にしっかりと耳を傾ける。美しい敬語や季節感がうまく織り込まれている。」「車もクーラーもないかわりに、ローンも失楽園もない。カツオは学校でしょっちゅう立たされているが、登校拒否やいじめはない。サザエさん一家はみんなが普通。エリートはいない。生活もぜいたくしているわけじゃないが、しょっちゅう赤字。それでも何とかやりくりをしながら子どもを育て、堅実に生きている。『サザエさん』は、生きることの原点が健康でにぎやかな家庭であることを教えてくれる。」等と分析した。加藤は1945年3月の東京大空襲の生存者で「防空壕で母が、兄と私をぎゅっと抱きしめ守ってくれた。その当時は戦災孤児も多く、家族で暮らせること自体がとても幸せなことだった」と体験談を語った。

金子寅吉(かねことらきち、1842-?)
柏崎市新道出身。通称平松屋寅吉。若くして横浜に出て、幕末から明治にかけ貿易商として財をなし、桑名藩主で箱館まで転戦した松平定敬を上海に逃がすのに大きな役割を果たした。三重県桑名市の郷土史研究家・西羽晃は柏崎市での講演(2010年)で「定敬は箱館での生活費に困っていて、金を持ってくるように密かに桑名に連絡をとり、そのことを知った平松屋は、箱館まで金を持っていった。その後、定敬は船に乗って箱館から脱出したが、このときも平松屋が箱館在住の外国人と交渉して、アメリカ船に乗ることができるように手配した。この船に平松屋も同乗し、定敬とともに上海まで行っているようだ」と言及。資料が少なく謎の人物だったが、柏崎刈羽郷土史研究会会員・横村真司の調査でようやく輪郭が明らかになった。その成果である「柏崎ゆかりの横浜貿易商」(『柏崎刈羽』第35号)によれば「新道村で飯塚家と並んで代々庄屋を務めた金子家の出身で、1842年生まれ。同家は桑名藩とも関係が深く、柏崎陣屋にも人材を輩出した」「1854年横浜に移住し商業に従事。米屋の丁稚奉公を経て、戊辰時には唐物商、明治7年には茶売込商人、明治12年には南仲通3丁目で両替商をやっていた」「明治20年代の後半には現在の港区芝付近に拠点を移し、屋号を金子商店と改め唐物商を継続、長男の市太郎が家業を引き継いだ。市太郎には松平容保の娘きたが嫁いだが、金子商店は関東大震災で廃業に追い込まれた」としている。金子寅吉の肖像については、料理研究家のバーバラ寺岡が秘蔵していた1870年に東京で撮影された写真で明らかになった。桑名藩家老・服部半蔵、後の陸軍大将・立見尚文、山脇正勝、高木貞作の4人と共に写っている。いずれも金子が経済支援を続けた人達と見られ、桑名藩との強いつながりが伺える。このうち、山脇、高木は柏崎・淡島大門での家老・吉村権左衛門暗殺の実行犯である。この写真はバーバラ寺岡著『幕末の桑名-近代ニッポンの基礎を築いた桑名のサムライたち』(2006年、桑名市教育委員会刊)の表紙に使用され、「平松は、彼が横浜で営んでいた両替商の屋号である。寅吉は、桑名藩の飛び地・柏崎の出身で、一時は下役ながら江戸の桑名藩邸に勤めていたらしい。幕府瓦解前後には、物心両面で桑名藩主・松平定敬を助けた。松平を逆さにすれば、平松だ」との説明を加えている。

『金草鞋』に紹介された柏崎(『かねのわらじ』にしょうかいされたかしわざき)
『金草鞋』は江戸時代のベストセラー作家・十返舎一九による道中記。「奥州衣川の狂士鼻毛の延高(のびたか)、千久良坊(ちくらぼう)」「東武の騒士下手の横好」による珍道中が記録される。全25編のうち第8編(1816年刊行)が「越後路之記」で、長岡市宮本から妙法寺峠を越えて柏崎に入り、鯨波、米山峠、鉢崎を経て、柿崎へ向かう。延高は「さはること」があり不参加。妙法寺では「日蓮の御難よりなお耐え難き南無妙法寺の峠なりけり」との狂歌を読み「この辺すべて、平地はみな砂道にて、歩みがたし。それよりすこしの渡しをうち越して、柏崎に着く」と記し、柏崎では金子九兵衛方に泊まり「瓢宅」でドンチャン騒ぎ、遊里で流行していた三階節も採録される。また鯨波では「柏崎より鯨波の駅まで一里ばかりの間、波うちぎわにさまざまのおもしろき形の大岩あまたありて、寄せくる波の岩に当たり砕けるさま、まことに言うばかりなく…」「真黒になって寄せくる大波は鯨波とも言うべかりける」(狂歌)とその景勝を紹介、千久良坊は「これはいい岩だ。この岩を箔置(はくおき)にして、祭の山車へつけて、女の手古舞にひかせてみてへ」等と洒落を連発する。米山峠では名物「弁慶の力餅」を食べながら「弁慶の力餅売る親父こそ垢だらけにて武蔵坊なれ」と茶化し、鉢崎では難所(米山三里)の紹介とともに「十七、八」の「馬方姫」に横好きが「(坂東)三ツ五郎」「(澤村)田之助」などをネタにちょっかいを出す。2人はこの後、柿崎、上越方面へと向かう。第8編あとがきに「予、去秋七月、東都をたちて信州善光寺に詣でたりし序(ついで)に、越後高田に出、それより柏崎、長岡、出雲崎、新潟、新発田を経て会津に出、帰国せしにより、見聞せし珍しきこと記行に著わし…」と実際の行程が紹介されるが、掲載は逆順である。なお、第18編でも越後を通過するが柏崎は登場しない。

『金草鞋』に登場する三階節(『かねのわらじ』にとうじょうするさんがいぶし)
ベストセラー作家・十返舎一九による『金草鞋』第8編「越後路之記」に三階節が登場する。春日新田(現上越市)での「柏崎からせきやまで、あいに荒砂、荒濱、悪田の渡りがなかよかろ」は別項(柏崎から加州まであいに山下駒返り親子知らずがなかよかろ)で紹介した通りだが、柏崎での、一見三階節とは見えない「ちょっと、御意見申そうなら、髪をヲ、髪を島田に結おより、心を島田にしゃんともて」も古歌詞を集録した『三階節』(1973年、松田政秀)に類歌があり、それと確認できる。また柏崎下側にある「色すりゃ孕むと覚悟せよ。蕎麦屋あ、蕎麦屋の親父が辛味にするとて堕ろさせる。」は遊里の戯歌と思いきや、その事情に詳しい『柏崎文庫』第8巻に上の句が異なる類歌(孕んだがおらなじょしようそばやそばやの亭主がからみにするとておろさせた)が載っており、ようやく三階節と判明。旅人の人気を集めた「瓢宅」での一夜、十返舎一九はしっかりと取材をしたということだろう。

上谷内観音堂(かみやちかんのんどう)
長岡市小国町上谷内新田にある観音堂。勝海舟の曾祖父にあたる米山検校開基で、その孫の恵山尼が守った。恵山尼については勝海舟の父・勝小吉の自叙伝『夢酔独言』に「おれがいなゐ(文化13年、14歳の時に上方に向け出奔した)内は、加持祈祷いろいろとして従弟女の恵山といふ比丘は上方まで尋て登たとてはなした」という記述があることから検校の孫であることが判明したが、未解明の部分が多い。地元研究者の池島嘉和は小国文化第4号(2001年8月)で「男谷検校の長男某(又三郎か)は、何かの事情により、父の故郷に帰り、長鳥村杉之入の小林三郎兵衛の娘と結婚し、その分家となった。そのひとりが恵山尼で、尼僧となった経緯は分からないが、江戸で修行をしたものと思われる。」「恵山尼が上谷内に来たのは、桐盛院16世噌山東林大和尚が長鳥村小林家の出身である縁からと思われ、当時無住になっていた廃寺を、上谷内や近隣集落の寄進を集め、恵山尼が造作再建したものと考えられる。」と考察している。2001年10月27日に開催された小国文化フォーラムの文化講演会の際、講師の福原滋(『目明きを救った盲人、米山検校』著者)の案内で上谷内観音堂を見学し「当庵開基廉操院殿男谷前検校柏巌玄松大居士」と書かれた米山検校の位牌や大奥御年寄の地位にあった従姉妹・瀬山(米山検校の2男で水戸家臣・信連の娘)が寄進した観音像、徳川御三卿田安家の家臣・横田家の養子になった叔父・禎蔵が寄進した鐘などを見学、勝海舟が幕臣となっていった背景についても理解を深めた。

亀割坂(かめわりざか)
柏崎市上輪から上輪新田に降りる急坂で、米山三里(米山峠)を象徴する難所。亀破坂、瓶破坂、甕割坂とも表記される。奥州へ落ちる源義経の北の方が当地で若君を出産し「御名を亀若丸と附奉る。其時より此山を亀割山と号すなり」(義経公北方御産所傳記)が名前の由来。『北越軍記』(1643年)には上杉謙信の初陣(米山合戦)を軍記物ならではの誇張をしながら「此ノ山中ニ亀破坂ト云大切所アリ。数千丈ノ碊(崖)ニテ、下ハ漫々タル大海ナリ。北国ニ隠ナキ大切所ナルニ府内勢追立ラレ、彼碊(崖)ヨリ海ニ落ル人馬数ヲ知ラズ。晴景モ漸ニ落遁テ…」(米山の山中に亀破坂という要害の地があった。数千丈の崖の下には日本海が拡がり、北国随一の難所でもあった。ここを府内勢が一列になって下っているところを謙信の奇策で一気に上から追撃、崖から多数の人馬が落ち、晴景軍は大打撃を受けた)と描かれている。デフォルメという点では、歌川広重の『山海見立相撲 越後亀割峠』(1858年作)も負けていない。急峻な坂と共に、弁慶茶屋が描かれ、空と眼下の海には美しい「ヒロシゲ・ブルー」が広がる。「亀割太郎」という山賊が米山峠を根城にし義経一行の行く手を阻んだ、との伝説(白い龍)もある。歴史の舞台となった亀割坂だが、現在は「草ぼうぼうで通れないが、歴史ウォーキングの際に地元の人たちが草を刈り、ようやく通れるようになる」状態で、忘れ去られようとしている。

鴨下三郎氏「ふるさとに感謝の夕べ」 (かもしたさぶろうし「ふるさとにかんしゃのゆうべ」)
2009年11月7日に岬館で開催された鴨下三郎のリサイタル。柏崎市新道出身の鴨下は中山晋平、大村能章に師事して音楽業界で活躍、「海の柏崎」「柏崎慕情」の作者、歌手としても知られ、柏崎市制50周年記念行事の一環として開催された第9回日米学生親善ボウリング競技全国大会の柏崎誘致に日本ボウリング場協会専務理事として尽力した。鴨下の喜寿(77歳)にあたり音楽人生の集大成として開催したディナーショーで、日本ボウリング場協会の池田朝彦会長ら来賓、関係者、ファン100人が出席。鴨下はNHK全国のど自慢大会で3位となった「イヨマンテの夜」を当時と変わらない見事な声量で歌い上げたのをはじめ「柏崎慕情」を新アレンジで披露、新柏崎市の誕生を記念して作った「わたしの街」を野薔薇会など計50人と合唱し、柏崎のPRソング「海の柏崎」では柏崎出身の歌手・舞さくらが駆けつけた。アンコールに応え「三階節」を歌い、「中山先生に師事するため、昭和22年に上京する際には柏崎駅前にひな壇を作り、まるで出征兵士のように大勢の人たちから見送ってもらい、人生の第一歩を踏み出した。須田(七郎)先生、岡島さん(利夫、柏新時報社前社長)の顔が浮かぶようだ。皆さんのおかげで素晴らしい会になった。一生懸命歌い、燃焼することができた。今後は、歌と音楽のボランティアとして様々な場所に出かけたい。」と感謝を表現した。ピアノ伴奏を担当した野薔薇会の山田桂子代表は「改めて鴨下メロディーの美しさを堪能した。思わず歌いたくなるメロディー、『柏崎慕情』はその代表例ではないか。歌の活動を通して鴨下メロディーを広めたい。」、日本ボウリング場協会の池田会長は「鴨下さんはボウリング界の恩人。音楽が本職だったということを初めて知った。」とそれぞれ話していた。柏新時報2009年11月13日号「私の日記」には「『柏崎慕情』『海の柏崎』で柏崎の観光宣伝に一役買った鴨下さん、その音楽人生の集大成の一夜である。鴨下さんを慕う様々なゲストがあり、表題の通り感謝と暖かさに満ちた会となった。」と参加記。

「ガラスのうさぎ」と柏崎(「がらすのうさぎ」とかしわざき)
高木敏子の戦争体験を描いたベストセラー『ガラスのうさぎ』で、柏崎は「幻の疎開先」として描かれる。高木の父親は東京の本所と深川でガラス工場を経営、東京大空襲で工場が焼失したため、柏崎市で工場を再建する計画を進め、大空襲から生き残った12歳の高木を疎開先の神奈川県二宮町に迎えに行った1945年8月5日、二宮駅で十機編成の米軍艦載機P51による機銃掃射に遭い即死、高木は父親の火葬や埋葬の手続きを一人で済ませたという。『ガラスのうさぎ』には「新潟県柏崎という所に、共同で工場を作ることになりましたので、それがいちおう軌道にのるまで、もうしばらく、敏子を預かって下さい。敏子といっしょに住むための準備でもありますので……。」という父の言葉とともに「わたしも、ああいよいよ明日の晩には新潟かと思うと、不安よりも、何か楽しいことが待っていてくれるという感じがしてきた。こんどこそ父といっしょに毎日生活できると思うと、まだ見ぬ新潟に、子ども心にも期待で胸がいっぱいになった。知らない土地で大変だろうけど、父といっしょなんだから大丈夫と、自分にいい聞かせた。」との高木自身の柏崎への期待感が記されている。高木にとっては「幻」の柏崎だったが、柏崎出身の松浦孝義や小熊哲哉ら関係者の尽力で1983年に柏崎訪問が実現。高木は感慨深く「幻でなかった柏崎」(『めぐりあい-ガラスのうさぎと私-』、1984年)を書いている。なおJR二宮駅前には永遠の平和を願う人々の浄財によって1981年に「ガラスのうさぎ」像(防空頭巾ともんぺ姿の少女が父の形見のガラスのうさぎを抱いて立つ)が建立された。「幻でなかった柏崎」は別項。

軽井川のながれ(かるいがわのながれ)
柏崎市軽井川の北原信範がまとめた郷土史。1998年刊。北原は1984年から1995年までの12年間、下軽井川の総代を務め地域の発展のために尽力。退任後、当時の記録や明治以来の古文書などをもとに郷土の歴史をまとめた。ふるさとの歴史のあらまし、信仰と教育、むらの集会所、ふるさとの自然、地籍と地(字)名の五章構成で、ふるさと20世紀、農作業の変遷、水稲品種の改良を付録・表に、巻末には年表をまとめ「軽井川の辞引き」をめざしたという。地域の礎をつくった松崎伊之助、五十嵐周平、松井松治郎の三氏の業績に改めて光をあてるとともに、路傍の石仏、石塔についても写真入りでこまかく紹介している。北原は発刊のことばで「拙い内容ですが、ふるさと軽井川を誇りながら書きました。この地で生まれた人、嫁いでこられた方、軽井川に縁(ゆかり)のあるすべての人から、懐しい昔を思い起こしてもらえれば幸いです。」と書いている。筑波大学名誉教授の北原保雄は実弟。

川上澄生展-柏崎黒船館との交流で生まれた南蛮と文明開化の世界。(かわかみすみおてん-かしわざきくろふねかんとのこうりゅうでうまれたなんばんとぶんめいかいかのせかい。)
2014年、ギャラリー十三代目長兵衛(柏崎市学校町)の10周年記念展「かつて、柏崎の文化を彩った作家たち」後期展として開催された。川上澄生(1895-1972)は神奈川県横浜市出身の版画家、詩人で、柏崎の花田屋3代目・吉田正太郎(黒船館)と37年間にわたる交流があった。棟方志功に大きな影響を与えた※ことでも知られる。黒船館所蔵の川上作品約40点を展示、南蛮船や南蛮人をモチーフにした版画を中心に、アルファベットを描いた木の屏風、交流のきっかけとなった花田屋のうちわなどが注目を集めた。曽田文子代表は「川上澄生の年譜には吉田正太郎のことはあまり出てこないが、経済的な応援が大きかった。現在、黒船館にあるものは、ほとんどが川上から(そのお礼として)寄贈を受けたもの。購入したのは屏風くらいではないか。その位、深いつきあいだった。川上は次のテーマを探すため、何度も柏崎に立ち寄っている。かつての花田屋さんの店の奥では、絵を前にしていつも文化談義がなされていた。あの雰囲気が忘れられない。柏崎特有の文化の空気を感じ取ってほしい。」とコメント。※棟方志功は第5回国画創作協会展(1926年)に出品された川上の「初夏の風」に感動し、版画家になることを決めたと言われている

鑑湖詩(かんこのし)
室町時代の禅僧・万里集九が詩文集『梅花無尽蔵』に残した鑑湖(鏡が沖)を題材にした漢詩。第6巻に載る。宇佐美孝忠(宇佐美定満の父)との交流の中で書かれた。唐の玄宗皇帝に仕えた賀知章の故事「鑑湖剡溪」を引用しながら「越之後州宇佐美之孝忠公所治之中有鑑湖。雖余未見之。略聞人説口。」(越後の宇佐美孝忠公の領地の中に鑑湖があると聞いた。私はまだ見たことはないが、聞くところによると)と前置きしたうえで「春則鳧雁拍々。夏則碧蘆青蘋。有納涼之舟。藕花開而風露香者。蓋呈秋之面目也。雪之時景致、則不可勝道也。」と四季折々の風情を紹介。孝忠私邸「雞肋斎」(越後府中)での接待に続き「又隔一日携朋樽来」(また翌々日には2樽の酒を抱えて訪ねて来ていただいた)こともあって「孝忠公は実に今の賀知章のようだ」「10年も前からの友人のようだ」と大いに持ち上げ「需鑑湖詩。余即席引筆応厥命。」(鑑湖の詩を求められたので、即座に筆をとってそれに応えた)とし「一曲鑑湖聴近居。此中景在雪晴初。我今留滞雖無定。若借小舟行釣魚。」との七言絶句を披露する。「唐代の故事『鑑湖剡溪』と同名の湖が居城(琵琶島城)の近くにあると聞いた。特に冬の雪の季節は素晴らしい眺めと聞く。私は今(越後府中に)滞在し、しかも放浪の身だが、もし(琵琶島城を訪ねる機会があれば)小舟を借り鑑湖で釣りでもしたいものだ。」といった意味か。『柏崎編年史』は「琵琶島城に宿し、鑑湖詩を呈す」とするが、実際は風評を聞きながらの想像の産物。市木武雄は『梅花無尽蔵注釈』で「この文の成立は、三上48(雞肋斎詩)を根拠に、長享2年(1488)11月初旬と思われる。」としている。なお、万里集九は10月11日から11月16日まで越後府中(現在の上越市)に滞在、16日能生に向け出発する。

カンタータ『良寛と貞心』(かんたーた『りょうかんとていしん』)
作詩・構成中村千栄子(柏崎出身)、作曲石井歓。土の章(遥か昔のことでした、故里の土のうた、農夫の掌のうた、盆踊りのうた)、月の章(若き日の貞心、縁の糸-月夜のめぐり会い、故里の秋のうた)、雪の章(遥か昔のことでした、雪国の子どものうた、雪国のうた、仏の道とは-母の面影、雪女)、海の章(草摘みのうた と 手鞠うた、もし あの海になれたら、遥かなる海辺の町よ)の4章、15曲で構成する約1時間半のカンタータ。良寛にまつわる逸話や『はちすの露』の師弟唱和に越後の四季、風土、民情を織り込み、貞心尼が愛した柏崎を「遥かなる海辺の町よ/美しき海辺の町よ/幼き日の思い出の町よ」「潮風に歌え 永遠(とこしえ)に歌え/海と砂と空の世界を」と歌い上げる。1980年11月9日に柏崎市制施行40周年、柏崎労音20周年を記念した「市民芸術祭」で初演。ソリストは柏崎市北条出身の持田篤(良寛)、中沢桂(貞心)、三林輝夫(青年)。良寛と貞心合唱団(143人)を中心に上越交響楽団、枇杷島小学校合唱団、石井美奈子バレエ研究所生、日本海太鼓などが出演した。指揮は作曲者の石井歓。小熊哲哉演出で柏崎の総力を結集した作品となった。初演プログラムで中村千栄子は「仲人の故桑山太市朗氏に相談し、資料を集め、土地や人を訪ね、祖父が、柏崎の図書館に寄贈した『蓮の露』の原本とにらめっこ、試行錯誤を重ねつつ、未熟ながらも全力を尽くして、構成と作詩にあたりました。」と述べ、筑波大学教授の内山知也は「越後女の強さと知性を兼備えた若い尼僧が、海のように涵(ひた)し山のように聳える良寛に向って、激しく情念の火を燃やし、その心の内奥に迫ろうとする。邂逅の戦慄にも似た喜びと悲しみの美しい叙情の世界を描く。それがこのカンタータの意図であろう。」と評。1992年の貞心尼没120年には1989年結成の柏崎フィルハーモニ-管弦楽団、良寛と貞心合唱団(160人)などにより再演。2011年(柏崎市制施行70周年)、2013年(第36回全国良寛会柏崎大会)でも上演されている。1992年再演時の実況録音はCD化。

「関東の華・前橋城」と北条高広(「かんとうのはな・まえばしじょう」ときたじょうたかひろ)
北条城の城主で、上杉謙信麾下で「鬼丹後」と恐れられた北条高広だが、城代を務めた厩橋(まやばし、現在の前橋)での存在感は、柏崎では想像できないほど大きく、前橋市史では「厩橋北条氏」として北条高広の動向を詳細に解説している。前橋市観光協会が作成したパンフレット「関東の華・前橋城」には「前橋には、かつて徳川家康より『関東の華』と言われたという名城前橋(古くは厩橋)城があった。その築城は古く、15世紀末、長野氏によるとされている。群雄割拠の戦国期を迎えると、越後の長尾景虎(上杉謙信)の関東進出の拠点となり、城代北条高広により守られた。しかし、謙信の死後、天正7年(1579)北条氏は武田勝頼に従った。」(前橋城の変遷)とあり、2か所の「北条」に「きたじょう」とルビが振られている。割拠の一因となった小田原北条(ほうじょう)と区別するためだ。また、群馬県庁(警察本部)の北側の土塁上には前橋城碑があり、その解説板には「永禄3年(1560)には、長尾景虎(上杉謙信)が厩橋城に進出して翌年小田原を攻撃し、関東奪回をはかった。このあと上杉氏の家臣北条高広が厩橋城を守っていたが、その戦略的な要害が群雄争覇の目標とされ…」とあり、こちらにも「きたじょうたかひろ」とルビが振られている。「水と詩のまち・前橋を歩く(後)」(柏新時報2007年2月2日号)で、実際に現地を取材した岡島利親は「群馬県庁の周囲を囲むようにしてそびえ立つ土塁の規模に驚く。『土塁には登らないでください』との注意書きがあるが、県警本部そばの前橋城碑の土塁は実際に登ることができる。」「説明板には『きたじょう』ときちんとルビが振ってあり、小田原北条(ほうじょう)氏と区別している。この混同が、柏崎の北条氏をマイナーな存在にしてしまったことを考えると、うれしい配慮だ。北条高広が柏崎から家臣団を引き連れ、この地で活躍したことを考えると、実に感慨深い。」と感想を記している。「厩橋北条氏」については別項参照。

管領塚(かんりょうづか)
十日町市松之山天水越の旧松里小学校校庭にある越後守護上杉房能を祀る塚。「正四位上杉房能自刃之跡」の石柱も近くに建立される。1507年、上杉房能は守護代・長尾為景に越後国府(上越市)を追われ、わずかの兵を率い関東管領の兄・上杉顕定を頼り鉢形城(現在の埼玉県寄居町)へ落ち延びようとしたが当地で追い詰められ自刃、地元には「天水越の矢筈の山頂から眼下に見た信濃川に敵の大群がひしめいているのを見て、もはやこれまで…と観念した」との伝承が伝わる。「房能公は守護職であって管領職ではなかったが、当時の人は公を尊び管領様と称した」とも。その奥方・綾子が鵜川女谷の地に逃げ延び綾子舞を伝えた(発祥伝説の一つ)縁で、綾子舞公演が2007年(上杉房能公500年祭、山の上の能楽堂、下野保存会)と2015年(上杉房能公祭、旧松里小学校体育館、下野保存会)で行われている。2003年の第2回大地の芸術祭では管領塚の物語を題材にした作品「連想のフィールド」(マリア・マクダレーナ・カンポス=ポンス)が天水越集落の棚田で公開された。

【き】
キーン・センターからめぐる文化のまち柏崎ガイドマップ(きーん・せんたーからめぐるぶんかのまちかしわざきがいどまっぷ)
ドナルド・キーン・センター柏崎の開館により観光客が増加傾向にあることから「せっかく柏崎に来て下さったお客さんから柏崎の文化施設・ギャラリー・文学碑・史跡・歴史的建造物を訪ね文化のまち柏崎を堪能してほしい」と柏崎文化協会が作成したマップ。2016年刊行。文化協会副会長でキーン・センターのボランティアでもあった宮川久子が中心となり、柏崎観光協会が協力した。文化施設(柏崎市立図書館、松雲山荘/木村茶道美術館、柏崎市立博物館、柏崎ふるさと人物館※、柏崎コレクションビレッジ、ギャラリー三余堂※、游文舎、小さな絵本館サバト※)、史跡・歴史的建造物(番神堂、閻魔堂、十王堂、貞観園、飯塚邸、大泉寺観音堂、椎谷観音堂、満州柏崎村の塔、たわら屋跡、鉢崎関所跡、松田伝十郎の碑、多多神社、二田物部神社)、文学碑(萩原朔太郎「海水旅館」の碑、与謝野晶子歌碑、吉野秀雄歌碑、鹿島鳴秋「浜千鳥」の碑)、貞心尼ゆかりの史跡(釈迦堂跡、極楽寺、貞心尼の墓、貞心尼12基の歌碑)、綾子舞会館を紹介、キーンセンターからの所要時間が詳細に記載されているのが特徴。※柏崎ふるさと人物館は2018年閉館、ギャラリー三余堂は2019年閉館、小さな絵本館サバトは2021年閉館。

消える歴史の証人 柏崎陣屋(きえるれきしのしょうにん かしわざきじんや)
2011年の「コミュニティ活動展」(ソフィアセンター)で大洲地区振興会が行ったパネル展示。解体目前となっていた桑名藩藩士長屋の現状、歴史的意義について市民に紹介したもので、2006年の柏崎市教育委員会調査をふまえ「現存する長屋は2世帯の人達が住んでいました。(略)この長屋は、梁間6間、桁行き10間が残り、木造二階建て切妻造平入、セメント瓦葺きの建物です。屋根に付いては『柏崎日記』などにも木羽葺き石置き屋根となっています。また、この長屋の間仕切りはモジュール化されているようで、住む人の役職等にあわせて2間・3間・5間となっていたようです。現存の長屋は東より3間・2間・2間・3間の4軒に分割できるようです。」と説明。実際の生活の様子について「風呂は付いていたようですが、共同井戸(4ヶ所)から汲まなくてはならないため、簡単には風呂を沸かす事はなかったようです。そのかわりに一旦風呂を沸かすと前の家をはじめにあっちこっちに声をかけ一家で入りに来ていた。普段は鵜川橋付近の風呂屋に行っていました。」などとし「柏崎陣屋は明治になり柏崎県庁へと姿を変えながら、1742年から1873年までの130年間刈羽郡のそして中越のそして日本の変化を見て来ました。なお現存しているこの長屋は、天保8年1837年新築されそれ以降今日まで174年間一部手直しされていますが基本的には174年前と同じです。(略)天保の飢僅での多数の餓死者を見、特に生田萬の乱では、3人の乱入者に驚いたことでしょう。」「そして幕末、いまだ、歴代の藩主は柏崎にも来た事がないのに、松平定敬が200余人を引き連れ来たのですから更に驚いたことでしょう。吉村権左衛門の暗殺。強硬佐幕派の来柏。一挙に謹慎から抗戦になり、鯨波戦争、官軍の駐屯、そして柏崎県庁に代わって行く、その中で初めての微兵検査が県庁で行われ、殿様の軍隊から天皇の軍隊へと時代が大きく変貌していく姿を見続けた建物でした。歴史の証人として今年陣屋創立270年になります。」と意義を強調。

『義経記』に登場する米山(『ぎけいき』にとうじょうするよねやま)
源義経の一代記として親しまれる『義経記』に「米山」が二度登場する。巻第七「三の口の関通り給ふ事」の井上左衛門下僕平三郎が義経一行を欺く場面で「直江の津より船に召して、米山を冲懸に三十三里のかりやはまかつき、しらさきを漕ぎ過ぎて、寺お泊に船を著け…」とある。岩波版では「かりやはま」について「越後国刈羽郡刈羽村荒浜(今は柏崎市の中)より石地町辺までの海岸か」、「かつき」について「勝見の誤りか」、「しらさき」について「勝見の南の刈羽郡椎谷・大崎か」、「寺お泊」について「寺泊の誤り」と解説。また同じ巻第七「直江の津にて笈探されし事」は実際に本県を通過する場面だが「妙観音の嶽より下したる嵐に帆引き掛けて、米山を過ぎて、角田山を見付けて…」とあるのみ。難破しかけながらも寺泊に着岸し柏崎については特段の記載はない。『義経記』作者について島津久基は「関東武人を卑め、都人の優美風流を喜ぶ人で、公家者流ならずとも、少くとも都の人」(『義経伝説と文学』、1935年)、成立時期について「鎌倉期と見るよりは室町期とすべきが妥当」(同)としており室町時代の「少くとも都の人」にとっても米山はよく知られた山だった、ということは事実のようだ。なお、地元伝承である「義経公北之方伝記」は「舟で寺泊まで行こうとしたところ、波風が吹いてようやく当所(柏崎市上輪)の海岸に到着した。」としており、『柏崎編年史』著者の新沢佳大は「越後入りをした義経一行の足跡には種々の説がある。『義経記』によると、直江津で小舟に乗り寺泊に上陸し、出羽国のかめわり山を越えて奥州へ着いたと記されている。しかし、直江津から寺泊に小舟で一路到着することは距離的にも至難で、口碑のように上輸海岸に漂着したとみるのが妥当である。ことに、かめわり山の『北の方』出産の伝承は、古くから越後の上輪にある甕割坂と紹介(『越後名寄』『金の草鞋』)されているので義経記の錯簡と考えることもできる。」と指摘する。

北川省一(きたがわせいいち、1911-1993)
柏崎出身の良寛研究家で「北川良寛」「今良寛」とも呼ばれた。『史譚貞心尼と柏崎騒動の夜』巻末の著者略歴によれば「1911年、新潟県刈羽郡大洲村中浜(現柏崎市)に生まれる。一高から東大に進み、フランス文学を専攻するが学業半ばにして中退。職を転々として一兵卒として応召。千島で二度越冬し、復員。敗戦後は高田で共産党員として、農民運動と労働組合作りのかたわら文化活動をすること10年。離党後は良寛研究に専念する。1981年、朝日カルチャーセンター講師となるほか、各地の良寛講座で良寛を語る。」、また「柏崎の海を愛した貞心尼」(柏崎市立博物館、貞心尼とその周辺展図録)には「春鰯の網曳きの手伝いに浜に出ていた母が急に産気づいて、家に駆け込んで生んでくれたのが、のち老いた母に心配ばかりかけた、この業曝(ごうさらし)の私奴であった。産湯は三ツ石の井戸から汲んだ。」「三ツ石には悲しい記憶もまつわる。私のすぐ上の兄は幼時、この岩の狭間に落ちて溺死したと聞いた」とも書いている。長男は大地の芸術祭総合ディレクターとして名が知られるようになった北川フラム。

北条元一(きたじょうげんいち、1910-2010)
北条高広の実弟高政の末裔、16代。山形県米沢市で「北條醫院」を開業。本業の傍ら、先祖北条毛利についての研究調査を進め、この成果を『北條氏史』(1998年)にまとめた。調査の一環で、1971年、1977年の2回柏崎市を訪問、北条毛利代々の菩提寺・専称寺や北条古城趾、鹿島神社、佐橋神社、安田城址、浄光寺、周広院、琵琶嶋城址などを訪ねた。『北條氏史』では、「北条の条は鎌倉北条氏、小田原北条氏とまぎらわしいので北條とした」との混同対策をし、「高広の晩年はすでにして十二代の嫡男景広に先立たれ、先祖以来の北條城と本領たる北条の地を失い、厩橋城での自立もはなはだ困難であって、越後の上杉方にまた小田原北条にそれぞれ子弟を帰属させ北條の名跡を保たせようとしたが、自らは悄然たる孤影を顧みるほかなかったであろう。」などと書いている。

北条氏は上野で(きたじょうしはこうずけで)
柏新時報の連載「新・柏崎ものがたり」の第49回(2015年5月22日号)と第50回(同11月20号)で、群馬県前橋市、伊勢崎市などを訪ね、厩橋(前橋)城の城将として活躍した北条高広の群馬県側の足跡を探した。北条城主の北条高広は分からない部分の多い武将で「いつどこで歿したのか」「墓はどこにあるのか」といった素朴な疑問が未だ解消されない。関係する自治体史には「越後の前線基地である厩橋の北条高広は長年月の経過の中で土着化し、上野の在地領主になってしまい、かなり小田原の北条氏に接近する始末で、第一期に築いた謙信の勢力圏は、西上野の喪失もあって、全くの点と線になってしまった。」(前橋市史)、「ともかくも越後出身の北条氏がここまで命脈を保ち得たのは、高広が上杉氏の支城の城将の立場を越えて、この地で在地領主化したことがその主因の一つであろう。」(群馬県史)などの指摘があり、「土着」「在地領主」といった表現に新潟・柏崎側との温度差を感じる。厩橋北条(まやばしきたじょう)氏(前橋市史)との呼称も見えるなど、想像以上に北条高広がこの地で勢力を伸ばし「群馬人」として影響力を持ち定着していたことを実感する。柏崎から引き連れた家臣もあったことだろう。北条高広の晩年について『群馬県の歴史』(山田武麿)は「後北条氏に抵抗したが、天正12年(1584)の春、降伏し、厩橋を明け渡して、片貝(前橋市)の根小屋に移った。」としているが、柏崎出身で前橋市助役、群馬県文化財保護審議会長などを務めた大図軍之丞は「片貝には根小屋の地なく、大胡町の根古屋のことであろう。そこは大胡城下の集落で、前掲応昌寺のすぐ近くである。なお片貝は大胡領であった。」(越後の北条高広と前橋を語る)と指摘。前橋城址土塁に群馬県が設置した解説板(群馬県警察本部前)に「北条高広」の文字を確認した後、晩年を過ごしたとされるその大胡(おおご、現在は前橋市)へ移動。大胡城址、大胡神社などを見学し、郷土史研究会の松本浩一代表から話を聞くこともできた。松本代表は、北条高広について「武田についたり、北条(ほうじょう)についたりしたおかげで、大胡周辺では大きな戦はなかった。」とし「大胡は戦国時代を通じ、北関東のなかでも特に重要な拠点とされた。だから、民衆が戦に巻き込まれる可能性は高かったと言えるが、(情勢を見て帰属を変えた)北条高広のお陰で戦はなく、民衆は助かった。」と評価した。「(大胡を治めた)大胡高繁は毛利姓を称していることから北条一族であることは間違いない」とのことで、北条とはゆかりの深い地のようだ。御館の乱で戦死した景広以外にも「勝広」(子持神社寄進状)、「千連」(石川忠総留書)といった子があり、その子らも「土着」していったのだろうか。高広の最期については「もしかすると子や親戚である大胡氏に守られ、安穏な老後だったのではないか」とも想像した。「墓はどこにあるのか」については未だ不明のままだ。

北条高広の生誕500年(きたじょうたかひろのせいたん500ねん)
歴代北条城主の中で最も知名度が高く、ファンも多い北条高広は1517年(永正14年)の生まれとされ、生誕500年にあたる2017年の「北条十五夜祭」には北条高広の人形灯篭が登場し、話題を集めた。手作り人形には、上杉謙信の猛将として「鬼丹後」と恐れられながら京都の公家がルーツという雅な雰囲気も反映、「北条氏は安芸国の毛利氏と同族であり、血筋の上では安芸毛利氏より正嫡である。高広は武将としての器量に優れ、『器量・骨幹、人に倍して無双の勇士』と謳われた…」(説明板)と強調すると共に、人形の羽織には毛利の家紋である「一文字に三つ星」をあしらうなど地元ならではのこだわりを見せた。また、同年、柏崎市立図書館で講演「越後の城々及び北条城と御館の乱」を行った城郭研究家の斎藤秀夫(東京都八王子市在住)は北条高広、景広親子の存在に注目しているとし「北条氏のルーツは、源頼朝の招きに応じて京都から鎌倉に出向し公文所の初代別当(長官)を務めた大江広元。1554年、北条高広は武田信玄にそそのかされ謙信に造反したことから、北条城が攻められたことがある。謙信は善根城に布陣、北条城攻略の陣としては絶好の場所だった。結局、高広は降伏したが、謙信に許されている。殺すには惜しい人物だ-と考えたに違いない。その後、謙信の信頼を受け、関東の要と呼べる厩橋(現在の前橋)城を任されることになった。高広には景広という嫡男がおり、父に似て勇敢な武将だった。高広の厩橋赴任後は、春日山で謙信の側近となり、七番組の隊長として活躍した。謙信がいかにこの父子を高く評価していたかがわかる。」と述べた。

北原家の巻物様(きたはらけのまきものさま)
旧小国町原の北原家に伝承される巻物。長さは約3メートルで、同家の発祥などが記される。『小国郷土史』(1938年)の旧家の項には「北原氏 現戸主は北原精作、同定一、同清正の三氏。他の旧家とは異つて祖先が三兄弟であり今に至るまで前記三家をなし、家宝(先祖の残された物)巻物・槍・茶釜を共同で保管し、原神社の前身である熊野神社は北原家の奉戴して来たものと云はれてゐる。(略)巻物は北原三家の由緒熊野神社の由緒を明にする貴重な文献なるも、何故か代々の戸長の外被見することが出来ないばかりか、家人にさへ記載の事項を語ることが出来ない事になつてゐる。毎年2月11日早暁、女人・他族禁制で余り類のない祭祀が行はれるが、之は巻物を祭るのであると云はれてゐる。」と神格化の様子を伝える。小国町史編纂時も非公開で同町史史料編(1976年)にも収録されなかったが、1988年になって公開された。同年には旧小国町新町の高橋家から同様の巻物が発見された。『皇子・逃亡伝説』を執筆した柿花仄は「この両家の先祖は、命がけで守り守られた主従であり、運命共同体であった。そこには同一行動をとった記録が綴られ、ほとんど同時に白日のもとに姿を現わした神秘性に、私はただ唖然としていた。しかも二つの巻物が揃ってこそ、謎が解ける割符の役目を果たす貴重なものであった。」と推理し「二つの巻物に共通する大きなポイント」として「天皇家が関係する」「治承(原文は自正)」「源平合戦(原文は源平タゝカイノ砌)」「源頼朝(原文は鎌倉殿)」の4点を上げた。1988年の公開に同席した郷土史家・山崎正治は片桐与三九とともに両巻物を解読、「小国の巻物伝説」(柏崎刈羽22号、1995年)に成果をまとめている。

北原保雄記念文庫(きたはらやすおきねんぶんこ)
公益社団法人日本教育会会長で新潟産業大学名誉学長の北原保雄(柏崎出身)が2019年、柏崎市立図書館に約170冊の著書、関係資料を寄贈したことを受け開設。同館1階開架書架東側で公開、貸し出しを行っている。ブームとなった『問題な日本語』シリーズ全巻、北原が携わった辞書類、軽妙洒脱なエッセーなどに加え、なかなか手に入らない狂言関係著作18冊も含まれており貴重。寄贈に際し北原から「一般の図書館資料と同様に自由に手に取って読んだり、自宅へ借りて帰ってゆっくり読んでもらえるような体制にしてほしい」との要望を受け、いずれも館外貸し出し可能。北原は「膨大な蔵書があり、そのなかで自著や自編の書だけでもまとめて配架するような施設がほしいと願っていた。ブルボン吉田奨学財団の吉田眞理理事をはじめ柏崎の関係のみなさんのおかげで文庫が実現でき、有り難い。」と話している。

狐の夜祭り(きつねのよまつり)
毎年10月第2日曜に柏崎市高柳町で開催される名物イベント。県内外から見物客が訪れる。過疎が進む高柳の活性化を模索していた地元の若手有志「ゆめおいびと」が富山県利賀村で独特の狐の絵を描く古川通泰と出会い、1988年から始まった手作りイベントで、栃ヶ原に伝わる民話「藤五郎狐」がモチーフとなった。主催は狐の夜祭り実行委員会で「歩いた人から、きつねの気分」がキャッチフレーズ。メイン行事の狐の提灯行列では山梨県在住の笛奏者・小俣達郎を先頭に白装束に狐の面をつけた参加者100人が栃ケ原から漆島まで約3キロの山道を歩き、幻想的な光景が広がる。栃ケ原会場では黒姫神社神楽保存会による獅子神楽の奉納、黒姫山太鼓演奏、畳一枚の大油揚げづくり、狐の夜祭り神事、漆島会場では黒姫山太鼓演奏、大油揚げの披露・振る舞い、きつねの踊りが行われるなど多彩。一般財団法人地域活性化センターによる第24回ふるさとイベント大賞で選考委員会表彰(ふるさとキラリ賞)を受賞した。なお、2022年から漆島会場がこども自然王国会場に変更され、狐の提灯行列のルートも3・9キロの舗装路を歩くことになった。

「狐の夜祭り」の始まりと実施経過(「きつねのよまつり」のはじまりとじっしけいか)
狐の夜祭りが第24 回ふるさとイベント大賞(2020年、一般財団法人地域活性化センター)で「ふるさとキラリ賞」を受賞したことを記念して同実行委員会が制作したリーフレット。高柳町ふるさと開発協議会に触発され立ち上がった若手有志による始動(1988年)以来の歩みをまとめており、富山県利賀村で出会った画家・古川通泰の大作を借り稲架(はさ)に展示したものの大雨にたたられたという第1回イベントの貴重な写真も。第24 回ふるさとイベント大賞は全国120イベントがエントリーされ、狐の夜祭りは「歩いた人から、きつねの気分」という独自のスタイルとともに「自分たちが楽しみ、地域を元気に」とのイベントにかける思いが高い評価を受けた。表彰式は東京国際フォーラムで行われる予定だったが、新型コロナウイルスの関係で中止。受賞報告の表敬訪問(柏崎市役所、2020年3月12日)で実行委員会の中村圭希会長は「私たちが取り組んできた小さなイベントにスポットを当てて頂いたのが大変嬉しい。最初は『なにか面白いことをやろう』という遊び半分のスタートだったところを、地域の方の熱心な応援で現在も続いている。受賞を契機にさらに皆さんの応援をいただきながら、イベントを発展させたい。」と述べた。

岐点の軌跡-わが歩み来し道(きてんのきせき-わがあゆみきしみち)
国語学者・日本語学者の北原保雄(筑波大学名誉教授・元学長)が半生を振り返った回想録。2011年刊。北原は柏崎出身で、文法研究の第一人者にして日本語ブームの火付け役、『明鏡国語辞典』『日本語逆引き辞典』など多くの辞典を手がけたことで知られる。日本語研究・国語教育に生涯を捧げる一方で、大学における教育、管理運営に全力を注いできた「二足の草鞋の人生」を振り返った。「人生は別れ道の連続である。そこで、いかに賢明な選択を行うか。」とし、これまでの歩みを「幼少」「中学生」「高校生」「受験」「大学生」「高校教諭」「大学院生」「和光大学助教授」「筑波大学助教授」「筑波大学教授」「附属図書館長」「筑波大学長」「学長第二期」「日本学生支援機構理事長」「公職退任後」の15の分岐点で紹介。江崎玲於奈学長の任期満了を受け学長選に出た背景、事情について「学長になりたい人となりたくない人に分けると、わたしは断然後者に属する。学長になれる器だとは思っていないし、なりたいという欲望もない。ただ、筑波大学を愛し、大切に思う気持ちは誰にも劣らないし、筑波大学の現況には不満なところが多々ある。(中略)このままで行けば、わが愛する母校は平凡な一地方大学になり下がってしまう。それでは困る。筑波大学が二十一世紀にも主導的地位を堅持して生きつづけるためには、ここで思い切った改革をすることが必要だ。もう許された時間はほとんどない。」と記すなど、多数の秘話、逸話を紹介している。なお、北原は2013年から故郷の新潟産業大学学長を務め、この奮戦記を中心に『続 岐点の軌跡―老いてなお岐点あり』を2020年に刊行している。

君が庵人のたくみを施さず山古くして椿はなさく(きみがいおひとのたくみをほどこさずやまふるくしてつばきはなさく)
与謝野鉄幹「椿の路」10首の冒頭1首。鎌倉の内山英保(柏崎出身)邸で1928年前後に詠んだと見られる。内山による私家版『冬柏山房抄』所収。「君」は内山、「庵」は山上にあった冬柏山房のことで、古都鎌倉ならではの雰囲気を感じさせながら冬柏山房の佇まいと自生する椿を詠んだ。鉄幹は妻の晶子としばしば同山房を訪れ「椿の花の季節のみにとどまらず、桜、牡丹、若葉、菁莪、萩、紅葉の季節に亘りて、あるじと山房に題を分ち、筆を執り、夜更けては越山荘に宿ることさへありぬ。されば、あるじの雅懐と、この山の清興は、我等にもまた永く忘れ難きものなり。」(冬柏山房の記)と書いている。8首目の「山の空ときに曇れどしづかなる心の月は君が廬に満つ」には内山との交流の深さも感じられる。なお、与謝野晶子には客間の越山荘を詠み込んだ「芙蓉閉ぢ白露の降るかまくらの越山荘の夕ぐれの庭」がある。冬柏山房には多くの文人が集い「主人」や「椿」、「山房」に関する歌を残しており、吉井勇「山荘の主人の文の封切れば高し椿の花の香ぞする」、吉野秀雄「この園の紅葉はすぎてあはあはしきひかりは専ら椎に椿に」、尾崎咢堂「山房のあるじの穿ける雪袴年の初めに清しつつまし」などが代表例。雪袴(ゆきばかま、もんぺ)は越後人ならではの内山のトレードマークだったようで、与謝野晶子も「主人の内山氏はいつもの雪袴を穿かれた上に今日は珍らしくスエェタァ(セーター)のやうなものを上に着て山上の茶室へ案内せられるのであつた。」(鎌倉の一日)と記している。

ギャラリー十三代目長兵衛(ぎゃらりーじゅうさんだいめちょうべい)
柏崎市学校町の道路拡幅に伴い江戸時代末期の土蔵を昔ながらの曳家により移転改修し、2004年にギャラリーとしてオープン。オーナーの曽田家の屋号にちなんで「十三代目長兵衛」と命名した。開廊記念展は、画家の靉光(あいみつ)の死を看取ったことで知られる柏崎高校の美術教師・串田良方展。伊藤剰、松原匠秀、水野竜生、島るり子、関根哲男、高橋美由紀、阿部正彦、桑山弥宏、原惣右エ門、吉田隆介、宮川美智子、西須奈津子、井上義昭、吉田信夫、越後門出和紙、板本次男、横関健一(開催順)らの地元作家、ゆかりの作家の発掘、発信を始め、ギャラリー代表の曽田文子の人柄と相まって多彩な展示が行われた。中越沖地震からの復興を願う柏崎復興祈念アート展や柏崎音市場、天神さま街道の会場としても活用され、アール・ブリュットの発信にも力を入れ、市内第1号の国登録有形文化財(2005年)になったことでも話題となった。2014年に開館10周年記念展「かつて、柏崎の文化を彩った作家たち」(千原三郎展-抽象では無くて具象である。客観主義では無くて主観主義である、川上澄生展-柏崎黒船館との交流で生まれた南蛮と文明開化の世界)を開催したが、スタッフの高齢化などにより翌2015年に惜しまれながら閉廊。

旧柏崎陣屋跡桑名藩士長屋建造物記録調査(きゅうかしわざきじんやあとくわなはんしながやけんぞうぶつきろくちょうさ)
2006年に柏崎市教育委員会が柏崎市大久保2の藩士長屋(桑原家、石口家住宅)で行った記録調査。「柏崎大久保にある柏崎陣屋跡の桑名藩士の住居であった長屋について、実測図面を作成し、後世の資料とするべく文化財として評価を行う」のが目的で、建造物の実測調査、復原調査、写真撮影等を行った。報告書で現状について「現在、敷地内に存在した建物はその殆どが失われたが、藩士の住居であった長屋の一部が残された状態にある。」「当建物は建築当初から長屋という多数の人間の出入りがあった住居で、居住する人間の出入りがある度に、住要求によって内部が大きく改造されたと考えられる。煩雑な痕跡の状況からは、数回に渡る改造が行われたことが想像できる。江戸時代の藩政から、明治維新を経た後、民間の所有となった際にも大きく改造を受けたであろうと考えられ、実際、建物には明治時代初期までに行われた和釘による改造も見受けられた。」と指摘、分析したうえで、その史料価値について「新潟県内の類似事例としては、重要文化財新発田藩足軽長屋が挙げられる。柏崎陣屋に現存する長屋は、陣屋内で役職を与えられた上級藩士の住居である一方、新発田藩足軽長屋は、足軽の中でも姓を持たない身分の軽い者たちの住居である。支配権力も異なるため、直接的に比較することは難しい。(略)それでもなお、過飾の無い建物の造りからは、江戸時代に長屋で住居した藩士の質素な生活が窺え、このような建物が現存する点においては高い史料価値を有するといえるだろう。」と述べ「新潟県内に同種の陣屋に関する建造物が残存しているという報告は確認できず、県内では唯一残されたものである可能性が考えられる。現在は切断によって、その一部が残るのみで、改造も著しく、当初の形式を探るのは困難な状況ではあるが、当時、柏崎陣屋に勤めた役人の居住形態を窺い知ることは可能である。」「柏崎は、白河・桑名藩の飛地支配という異質な支配下にあって、町民は藩主の直接支配を受ける事なく、柏崎陣屋の交替役人による間接支配が続いたため自由闊達な商業活動の中で、独特の文化を形成してきた。柏崎陣屋は高田や長岡と異なる歴史と文化を柏崎に形付けた役所であり、その役人達の住居として、柏崎陣屋跡に唯一残る建造物として、今後の保存に期待したい建物である。」とまとめている。この調査によって保存への機運は高まったが、結局、老朽化などを理由に2011年に解体され、「生田萬の乱で襲撃を受けた際に付いた」(戊辰戦争説もあり)とされる「刀傷」のある桑原家住宅柱は柏崎市立博物館で保存。

旧満州柏崎村の跡発見記(きゅうまんしゅうかしわざきむらのあとはっけんき)
満州柏崎村の塔世話人代表の巻口弘は2005年5月に中国東北部(旧満州)を訪問し、ようやく柏崎村の跡地を発見した。跡地探索の旅はこれが3度目で、この経緯等をまとめ柏新時報2005年7月8日号に寄稿した。発見記によれば捜索は2日間かけて行われ「本部の場所や煉瓦建築の元国民学校跡」を確認したという。黒竜江省人民政府外事弁公室の責任者からは「記念塔を建てることは許可できませんが、何らかの方法を考えましょう」との回答があったことを紹介し「大切なことは、避けられない過去の事実を念頭に置き、謙虚な姿勢でのぞむことと思います。歴史ある民族として、弱腰になる必要はなく、本音で接していくのがよいと思います。」とし「中国東北部は多くの日本人が渡満、歴史の犠牲となりました。今日の繁栄と幸せは、多くの犠牲の上にあることを思い返し、改めて平和を念じております。」と結んでいる。

京都所司代松平定敬(きょうとしょしだいまつだいらさだあき)
2008年に三重県桑名市博物館で開催された特別企画展。副題は「幕末の桑名藩」。幕末の桑名藩主で、実兄で京都守護職の松平容保、新選組とともに京都の治安を守った松平定敬(1846-1908)の没後100年を記念した。飛び地領だった柏崎からは定敬の書や滞在した勝願寺の山号額「大藤山」、同寺に伝承される定敬拝領の葵紋の陣笠、薙刀、柏崎市立図書館蔵の「中将様御着人数姓名附」(松平定敬はじめ柏崎に集結した家臣219人の名前が記されている1868年4月の記録)、「中村篤之助慶応四年戊辰二月ヨリ聞書」(桑名藩士の転戦記録)、さらに定敬揮毫による「柏崎学校」(柏崎小学校)、「比角校」(比角小学校)の校名額、淡島大門で暗殺された吉村権左衛門の書(柏崎市立図書館蔵)など15点が展示され、幕末、維新における柏崎での動向を詳細に紹介した。また、柏崎出身の貿易商で松平定敬を支援した金子寅吉が立見尚文らと写った写真が初公開され話題となった。

郷土の誇り梅ケ枝改め両国梶之助(きょうどのほこりうめがえあらためりょうごくかじのすけ)
相撲研究家の若井一正が柏崎刈羽郷土史研究会の『柏崎刈羽』18号(1991年)で発表した論文。両国は幕末に活躍した相撲力士で、小兵ながら「褄取り」を得意として大敵を倒し有名になり長岡藩、維新後は山内容堂のお抱え力士となった。若井は「小国町大字小栗山、岩野半四郎の三男で本名玉吉。天保元年十月十日生れ。家は貧しい農家だから小さい時から奉公に出された。体こそ小さかったが、骨格逞しく腕力が強く相撲を取ったら大抵の者は相手にならなかった。(略)いろいろな本に生家は農業のかたわら油搾りをしていたと書いているがそれは誤り。家は代々農家(現在は大工さん)で、奉公に出て油搾りに従事したと言うのが正しい。」「二十歳の時(嘉永二年三月)従兄を頼って江戸に出て男谷下総守の下男となり、翌年勝海舟の紹介で佐久間象山塾に住み替えた。象山は玉吉の学問好きなのを愛し、暇を見ては学問の手ほどきをして下男とも塾生ともつかぬ扱いをした。両国は当時としてはインテリ力士なのだ。(略)佐久間塾で或る日塾生達と棒押しを始めた処、彼に歯の立つ相手がいない。最後に剛力自慢の象山をも打負かした。象山にその非凡なる玉吉の腕力を認められ.力の社会で天下の第一人者になってはどうかと薦められ、遂に漸く力士になる事を決心したのだ。越後人は元来堅実な道を歩く。決して一か八かと云った危ない橋は渡りたがらない。頼まれれば越後から米搗きのたとえ通り粘り強く根気よく働く方で、彼両国も余程考えた上での力士志願であったろう。」など同郷ならではの情報量の多さで、これまで未解明だったり、誤って伝えられていた伝説を修正、またそれまで浪人だった両国が牧野家のお抱えとなった事情についても「両国は慶応二年の冬場所も終ったある日、呉服橋内の牧野家へ伺候した。幸い名家老河井継之助に面会する事が出来、番付に長岡の二字を記す事を陳情した。話の判った河井に『藩名だけでなくいっそ召抱えたと云う事にして仕わす。又その印に当藩の者と相知れる様、化粧廻を贈る事にする』と言われた時の嬉しさ…。それは後年彼が帰郷のたびに話していた事でも伺われる。」と詳細に説明する。若井にとってこれが『柏崎刈羽』初論文となり、このあと旺盛な執筆意欲で「七代伊勢海五太夫」(19号)、「八代伊勢ノ海五太夫 九代伊勢海五太夫」(20号)、「番神山政三郎」(21号)、「女相撲が小国町に来たゾ」(22号)、「相撲世話人免許」(25号)、「相撲興業」(26号)、「千国山さん」(30号)、「朝日嶽之助」(35号)などの相撲関係寄稿を次々と行った。

清河八郎と柏崎(きよかわはちろうとかしわざき)
清河八郎は幕末の思想家で、生家のあった山形庄内から母親を連れ伊勢参りに出かけた旅日記『西遊草』(全11巻)を残している。伊勢からさらに奈良、京都、大坂、四国の金比羅、安芸の宮島などを回るという169日間の大旅行で、柏崎が登場するのは第2巻。1855年4月10日から11日のことだ。出雲崎から石地、椎谷、宮川、荒浜、悪田の渡しを経て柏崎に入った清河は閻魔堂を参拝、大町(西本町3)にあった丁子屋に泊った。柏崎の繁栄の様子を「是松平越中守の采地にて、新潟、三条に比すべき町家のきれひなる所なり。その長き事また越後中の町の比倫すべきなし。」と評し、北国街道の真ん中にあった立地蔵、ねまり地蔵についての感想も残している。また当時の道路状況について「今日歴きたる道路、皆砂礫にして、殆ど路行の難義なる所なるを、天幸にして近頃雨天つづきなれば、砂子沈んであゆむに至極よろしく、中々炎天などの一歩もすすむべからぬ地なり。」(今日の道路は砂と小石で大変歩きにくいが、雨天続きだったため幸いにして砂が沈んでいて歩きやすかった。炎天などでは一歩も進むことができない土地である)と過酷さを記す。翌11日は早めに出立、番神堂を参拝し「戌亥のかたに佐渡の島をのぞみ、蒼海茫々として見かぎりなく(略)景色無双也。柏崎の町家は眼下に見落し、漁船の往来其あひだに群がり、さも面白き風光なり。」と感嘆、「浜中一面に幾千尾なくつらね、或は舟も沈むばかりに多く釣来り」と鯛漁活況の様子を記録して興味深い。鯨波、米山三里を通過し、名物「弁慶の力餅」の茶店では「餅は山を登りきたりし故にや至て旨く、我も壱盆傾け、あまり満腹して苦しみにたへず。可笑の甚き也。」と餅の食べ過ぎをユーモラスに綴っている。多くの旅人を苦しめた米山三里だが、清河は「米山は越後中にて第一険阻の坂といへども、はなはだけわしからず。ただ高(のぼ)り下りの多くある迄にて、さのみ恐るべき坂にあらず。されども石岩のある道ゆへ、馬には乗べからず。所により急なる坂もままあれども、一体高からぬ坂ゆへ、何の心配に及べからず。」と余裕綽綽に書き、実際にこの日は柏崎から今町(現在の直江津)までの約40キロを母親とともに踏破している。「出女入鉄砲」を警戒した鉢崎関所では「下りの婦人をあらため、判なきものは決して通さぬとぞ。」と書いているが、清河の母は「上り」だったためスムーズに通行できたようだ。

清見原親王(きよみはらしんのう)
『稿本柏崎史誌』に記載される謎の親王。柏崎市立図書館創設50周年を記念して1956年に編纂された『稿本柏崎史誌』年譜上巻に「承久頃(1219-1221)」「此頃柏崎へ某親王が流謫されたと伝ふ」の項があり「後鳥羽帝第四皇子にして、罪ありて当国に左遷し此地に居住ありしが、後岩船郡猪沢村大字宮下村に移住し遂に同地に於て薨し給へり。」等としたうえで「柏崎勝長邸に潜居されたと伝へられる後鳥羽帝第四皇子清見原親王と称する方は皇室系譜の中に見えず、第四皇子は頼仁親王である事からして清見原とは柏崎潜居中の仮名であり同一人であると推定される。」と記述、また「建長6年(1254)」には「柏崎勝長父子鎌倉へ上る」「鎌倉へ出向に先立ち自邸に潜居中の清見原親王を従士十二人と岩船郡へ逃難させた。」「清見原親王一行十三名を勝長自ら郡境まで送ったと伝へられている。北條幕府の探索に拠り頼仁親王の所在及び親王をかくまった柏崎勝長一家の隠謀を探知するに至ったので親王及び勝長父子逮捕の手が廻ったのであろう。そこで親王を先ず岩船郡へ逃避させ自ら父子は全責任を負うて急ぎ出府したと推定される」と書いている。口碑、伝説の類いも参考にしたと考えられるが、全中学校区で伝説の悉皆調査を行った『柏崎伝説集』(1972年)には未掲載。柏崎市制30周年記念の『柏崎編年史』(1970年)、同50周年記念の『柏崎市史』(1990年)いずれも清見原親王についての記述は見当たらない。なお『刈羽郡旧蹟志』(1909年)で山田八十八郎は「柏崎は後鳥羽帝第四皇子清見原親王謫居の地なり」「清見原親王は即ち勝長なり」など数説があったことに触れるも「後鳥羽帝の14皇子、4皇女のなかに清見原親王の名前を見出せない」「親王即ち勝長なりというのは最妄説である」と完全否定している。

銀河ノ序(ぎんがのじょ)
「荒海や佐渡に横たふ天の河」の序文だが、『おくのほそ道』には載らなかった。越後路は極端に省筆され「(柏崎での天屋の対応など)不愉快なことがあったので短くなった」「見るべきところがなかったため書かなかった」など様々な評論を招くことになった。芭蕉は殊の外「銀河ノ序」に執着し、幾通りものバージョンが知られている。最も有名なのは『本朝文選』(1706年、翌年『風俗文選』と改題)に載ったバージョンで、「北陸道に行脚して、越後ノ国出雲崎といふ所に泊る。」と書き出し、佐渡の地形、眺望、金山の歴史をふまえながら「大罪朝敵のたぐひ、遠流せらるゝによりて、たゞおそろしき名の聞えあるも、本意なき事におもひて、窓押開きて、暫時の旅愁をいたはらむとするほど、日既に海に沈で、月ほのくらく、銀河半天にかゝりて、星きらきらと冴たるに、沖のかたより、波の音しばしばはこびて、たましゐけづるがごとく、膓(はらわた)ちぎれて、そゞろにかなしびきたれば、草の枕も定らず、墨の袂なにゆへとはなくて、しぼるばかりになむ侍る。」とまるで『おくのほそ道』の一部でもあるかのように、絶唱が成立した瞬間を表現する。出雲崎町の俳人・佐藤恒一は『雲浦の俳史』(1964年)で「銀河ノ序」は①風俗文選②柴橋③雪丸げ④菊本直次郎秘蔵真蹟の4種類あるとした。同町住吉町の芭蕉園(芭蕉が泊まった大崎屋向かいの公園)の「天河句碑(銀河序)」は「芭蕉の真蹟文であり、風俗文選所載のものに比べ非常に簡潔である。」(佐藤耐雪、「『天の川』の句の生まれたところ」、1954年)として④の菊本直次郎秘蔵真蹟が拡大刻字された。佐藤耐雪は「或いはこれ(菊本家所有真蹟)が原文でその加筆せられたものが文選のそれであるか又文選所載の文の改削せられたものがこの真蹟文であるか」と分析している。芭蕉研究で知られる堀切実(早稲田大学名誉教授)は『芭蕉俳文集』(岩波文庫、2006年)で「銀河ノ序」について㋐本朝文選㋑真蹟懐紙-『俳人の書画美術・芭蕉』㋒しばはし㋓真蹟懐紙-『おくのほそ道・芭蕉展図録』㋔真蹟懐紙-『定本芭蕉大成』の5バージョンを取り上げ、さらに異文2通りを示している。堀切実の指摘する㋓と佐藤恒一の④は極めて近いが、堀切は「(④は)この本文㋓の前稿に当ると見られる」と側注をつけたうえで「㋐『本朝文選』収録の文が、おそらく最終稿であろう」と解説。これらバージョンの多さは芭蕉自身が「舌頭千転」(『去来抄』)を繰り返した痕跡とも言え、これほどまで「銀河ノ序」に執着した理由はどこにあるのか。『奥細道菅菰抄』の悪影響が続くなか「この文を『おくのほそ道』に入れなかった理由は、越後路以降、表現をできるだけ簡略化しようとしたためと思われるが、更に、これを紀行の本文に入れようとすると、『荒海』の句を、出雲崎泊りの句とし、それを七夕の夜としてよんだ矛盾が露呈し、旅程の調整に無理を生じたためではなかろうか。」(芭蕉俳文句文集、赤羽学)といった冷静、合理的な論調も多く見られるようになった。少なくとも越後路の省筆が「不快」や「収穫がなかった」ためではないことは理解できよう。なお『本朝文選』以外の俳文には題名がないが、いずれも「銀河ノ序」と呼ぶのが通例。

「近代石油産業発祥の地」記念碑(「きんだいせきゆさんぎょうはっしょうのち」きねんひ)
近代石油産業発祥の歴史を語り継ぐためJX日鉱日石エネルギー株式会社が駅前公園管理棟脇(柏崎市日石町)に設置、柏崎駅前土地区画整理事業の竣工式(2012年4月17日)にあわせ除幕された。碑面には日本石油柏崎製油所時代(1954年)のスケッチ画と社章「コウモリ」マーク、裏面には「明治32年浅野総一郎氏が約1万坪の敷地に20石蒸留釜5基と20石洗浄槽2基などを設置し創設」「明治35年宝田(ほうでん)石油株式会社がこれを買収、第二製油所と称し、次いで隣接の合資会社愛志組柏崎製油所を買収」「明治40年第二製油所の名称を廃し、柏崎製油所と改称」「明治44年西山油田の深層掘りにより、揮発分の含有量が多くなり、需要も増加し揮発油の製造開始」「大正10年日本石油株式会社と宝田石油株式会社の合併に伴い、日本石油株式会社柏崎製油所と改称」「昭和4年圧搾ろ過式精蝋装置建設」「昭和22年昭和天皇ご巡幸 全従業員が奉迎」「昭和26年南極観測隊用燃料油54リットルドラム缶出荷」「昭和42年日本石油加工株式会社となり、原油処理を中止(NNO蒸留装置)特殊製品の工場として再スタート」「昭和45年さび止め油、工作油など特殊調合製品増産のため東京工場から製品の一部を製造移管」「昭和50年無鉛ガソリン(日石ダッシュガソリン)製造開始」「昭和54年POワックス(含酸素ワックス)製造開始」「平成元年大型タンクローリー出荷設備完成」「平成3年AFソルベント(無芳香族インク溶剤)製造開始」「平成13年3月31日業務完遂により柏崎工場閉鎖」等の歩みをコンパクトにまとめている。なお台座には中越沖地震で倒壊した赤れんが棟(ドラム缶塗装場)のれんがを使用、隣接の管理棟は赤れんが棟をモチーフにした。

【く】
鯨波地区ガイドマップ(くじらなみちくがいどまっぷ)
鯨波地区コミュニティ振興協議会が2009年に発行したマップ。塔の輪心礎石(市文化財)、御野立公園、明治天皇御巡幸記念碑、地替ヶ淵、嫁入坂、鬼穴、ナウマン象発掘の地、妙智寺などの社寺、猩々堂(県文化財)、北国街道米山三里旧道道標(市文化財)、川内遺跡、川内ダムなどに加え、東の輪公会堂前のよろんご、鯨波集落発祥の地(滝ノ沢、よろんごも)、鯨の地下道(鯨波横断地下道)など鯨波地区ならではの景観も紹介する。

窪田空穂と島秋人(くぼたうつぼとしまあきと)
窪田空穂記念館(長野県松本市)で開催された企画展「ある死刑囚の短歌と空穂-『遺愛集』(島秋人著)が語りかけるもの」の記念講演として2005年10月8日に開催された。講師は歌人で、生前の島秋人と交流があった橋本喜典。企画展で展示された1962年7月17日付空穂宛書簡に「故里(柏崎)の町が島町」「香積寺内に秋葉神社」「人は『ひと』、(正しい人)にかえる様にと云う意味です」などと書かれていることにふれ「島秋人の『島』は島流しの島なんじゃないか、『秋人』(しゅうじん)は囚人じゃないか。刑務所の独房にいることを島に流されたとネーミングしたのではと勝手に解釈していたが、空穂宛の手紙を初めて読み、軽率な想像だと気づいた。特に『正しい人にかえる様にという意味です」という言葉にぶつかった時、こういう深い気持でペンネームを付けていたんだと知って、恥ずかしい思いがした。」としたうえで「皆さんご存じのように、島秋人は中学時代の絵の先生である吉田好道先生に一度だけ褒められた。大罪を犯した後にそのことを思い出し、先生に宛てて手紙を書き、絢子夫人を機縁に歌というものを知った。さらに窪田空穂という生涯の師父を得て、短歌というものと切り離せない生涯が始まった。もしその頃同じような先生が、大人が、他にも一人、二人いて、彼の良いところを褒めてやるようなことがあれば罪人島秋人は生れなかったのではないか。」と述べた。また、島秋人の歌の本質について「自分の大きな罪を不幸な生いたちと共に振り返っているが、決してそれを恨んだり、責任転嫁したり、そういうことは全く無い。刑死の日を迎える心を養うために歌というものがあり、歌を作るためにまた心の養いをしていった。彼は不幸を経験化することで歌の養分としていたのではないか。」と指摘した。講演会には『遺愛集(いあいしゅう)』の命名者である前坂和子も出席、関係資料を配付した。1962年7月17日付書簡は別項(僕は「しま・あきひと」のつもりなのです)参照。

熊谷直実と熊谷(くまがいなおざねとくまだに)
「日本一の剛の者」と源頼朝に称えられ、源平の合戦(一ノ谷の合戦)で平敦盛を討ち取った熊谷直実と野田にまつわる伝承で、称名寺(柏崎市野田)の縁起にも関連する。称名寺沿革には「1200年頃、法然上人の門弟、熊谷次郎直実が出家して蓮生坊(れんせいぼう)と号し、東北行脚のおり豪雪に閉じこめられ一冬期間この地にとどまって説法教化したことがこの寺のおこりとされている。」とあり、別れを惜しむ住僧西欣に蓮生坊が「法然上人自筆の名号」「自作像」「鉄鉢」を与えたと伝えられ、現在も同寺の寺宝となっている。当時は「現在の中山峠の入り口の漆畑のあたり」(柏崎市伝説集)にあったが、その260年後の文正元(1466)年に称誉満海上人が現在地に堂宇を建立、京都の知恩院より「熊谷山(ゆうこくざん)称名寺の寺号を拝領し、この地を熊谷(くまだに)村と名付け称名寺第一世となられたと伝えられる。」としている。なお、埼玉県熊谷(くまがや)市にある熊谷寺(ゆうこくじ)は蓮生坊が晩年を過ごした草庵が始まりと言われてる。

くやし涙うれし涙、神戸―大震災から立ち上がる人々の記録(くやしなみだうれしなみだ、こうべ-だいしんさいからたちあがるひとびとのきろく)
NHKアナウンサー・古屋和雄著。1996年刊。古屋は阪神大震災発生時、大阪放送局アナウンス室に勤務。大震災発生から6日目の特別番組「被災地からの声」でキャスターを担当し、胸にせまる被災者の声に泣き、声をふるわせた。これを見た視聴者からは「あの涙を見て、被災地は本当に大変なことになっているのだと感じました。」と大きな反響があり、古屋はその後「復興の道のりを見続けよう」という使命感にもえ、取材班とともに50本近い番組を担当した。この過程で見た数々の涙を通し、被災者が何を思い、何を願っているかを「心の記録」として綴った。「あの日、大地が裂けた」「一瞬、町が優しくなった」「仮設住宅の夢遠く」「泣くことで人は弱くならない」「都市計画に揺れる町」「初盆に手向けた涙」「震災は終わっていない」など16章で構成、福祉や教育問題を得意とする古屋ならではの視点が光り「人間関係がライフラインだった」と結論付けた。「被災地にあふれる涙を受け止めたのは、手をつなぎ、目線を揃え、同じ速度で歩こうとした、人と人とのつながりでした。電気、ガス、水道だけでなく、人間関係こそ大切なライフラインだったのです。(略)しかし、今『温度差』は広がっています。被災した人達の願いは全国に届かず、国レベルの支援は滞っています。今も、心安らぐ涙を流せず、生活再建の壁にくやし涙があふれています。それは、私達が作り上げた社会が、本当の意味で豊かではないからです。」と締めくくっている。古屋は柏崎市西本町1・大富の古屋佐郷長男。

栗原医師殉職之碑(くりはらいしじゅんしょくのひ)
柏崎市椎谷の夕日が丘公園にある栗原健二医師の悲劇を伝える石碑。栗原医師は椎谷の出身で1932年に開業。近郷の往診や学校医として活躍したが、1944年7月20日に発生した天拝山の崖崩れに巻き込まれた。この日、栗原医師は学校医として大田小学校での予防接種へ、自家用車が不調のため豪雨の中自転車で出かけたという。昼になっても姿を見せないため大騒ぎとなり、捜索の人々が必死になって道を埋め尽くしていた大量の土砂を掘り起こすも見つからず、結局波打ち際で遺体となって発見されたという。殉職之碑は1964年に前区長・中町三郎が中心となって遭難現場付近に建立、揮毫は良寛研究家の原田勘平。椎谷岬トンネル工事に伴い夕日が丘公園に移設した際、柏崎市刈羽郡医師会が殉難の悲劇を伝える慰霊碑を殉難之碑の右隣に建立(2009年)し、遭難の悲劇や建碑の経緯を伝えるとともに栗原医師生前の一句「子燕の飛ぶやそばなる親燕 けんじ」を添えた。栗原医師の殉難を調査した会田恵医師は柏崎市刈羽郡医師会報(465号)に「殉職された栗原健二学校医のこと」と題して寄稿、「ご子息惇一氏からご教示戴いた所によると事故当時健二医師は40歳の若さであった。新潟医大4年卒で在学中は陸上競技、音楽部、俳句と趣味が多く、後年高野素十が椎谷を訪れているほどである。(略)卒業後は、澤田内科に入局し、盛岡での勤務を経て昭和7年椎谷にて開業、盛業で刈羽、西山、石地に往診も多く帰宅は夜10時頃が多かったとのことである。」と振り返っている。

桑名藩と柏崎町(くわなはんとかしわざきまち)
2002年に柏崎ふるさと人物館で開催された企画展。副題は「なぜ桑名の殿様が柏崎に」で、「桑名、白河と柏崎のゆかり、文化風土を考える機会にしてほしい」として開催された。柏崎を治めた松平越中守家でとりわけ知名度の高い松平定信(8代将軍吉宗の孫で老中首座として寛政の改革を断行)や松平定敬(京都所司代として、15代将軍慶喜、実兄で京都守護職の松平容保とともに幕末の京都で活躍)の両藩主に焦点をあて、桑名市博物館、鎮国守国神社(鎮国=藩祖・松平定綱、守国=松平定信を祀る)、松平越中守家の菩提寺である照源寺などの協力を得て、白河・桑名の分領時代を回顧する展示となった。生田万の乱以降の人事異動の跡が残された柏崎陣屋関係資料、鯨波戦争で戦い後に陸軍大将となった立見鑑三郎の書、松平定信が『集古十種』で「小野道風直筆」と評した永徳寺扁額(柏崎市文化財)なども展示され、話題を集めた。関連行事として鎮国守国神社の嵯峨井和風宮司が「松平越中守家と柏崎」と題して記念講演を行った。この企画展を契機に三重県桑名市との交流機運が高まり、同年11月に市民参加による交流訪問事業が行われた。

桑山太市(くわやまたいち、1891-1978)
本名は太市朗、柏崎市西港町生まれ。経営した文具店にちなみ戯魚堂(ぎぎょどう)さんと呼ばれることが多い。早稲田大学英文本科中退。関東大震災被災まで東京の石油商社・山岸商会(社長の山岸喜太郞は石地出身)に勤務。帰柏後は文具店経営や特定郵便局長の傍ら、東京で吸収した学芸知識をもとに民俗芸能の研究活動に没頭、その成果を大著『新潟県民俗芸能誌』(錦正社、956頁)に残した。著書、論考多数。相馬御風、吉野秀雄、会津八一、棟方志功、濱谷浩ら文化人との交流でも知られる。特に綾子舞研究の先鞭を付けた点で功績は大きい。1936年、『柏崎文庫』や『温古之栞』で綾子舞の存在を知った桑山が最初の調査で鵜川に入った際は「綾子舞という言葉すら知らない人が多く、最初の調査は目的を果たせず、帰宅した」という。翌1937年、再度調査の結果、綾子舞の存在を確認、その価値を直感するとともに「今のうちに残しておかないと消えてしまう」と危惧し1941年に民謡の権威である藤田徳太郎、町田嘉章らに調査を依頼、その成果を『綾子舞見聞記』として発行した。それが本田安次の目にとまり、その後の再評価の機運を作り出した。新潟県文化財調査審議委員を長く務めた。

【け】
景観シンポジウム(けいかんしんぽじうむ)
2006年に柏崎市主催で開催されたシンポジウムで、公募した「柏崎らしい景観51選」の選考結果が発表された。選考委員長を務めた西村伸也新潟大学工学部教授は「最も多くの支持を集めたのは日石加工の赤れんが棟※で、今後のまちづくりの顔として大いに活用してほしい。カタクリの群生には『こんなに生命力の強い、美しい花があるものか』と感動した。高柳の荻ノ島環状集落や狐の夜祭りも柏崎らしさを象徴するものだと思った。合併地域をふくめバランスよく選考がなされており、高柳、西山の魅力的な景観を合わせて、まちづくりを進めてほしい」とコメント、絵本作家の曽田文子、痴娯の家館長の岩下正雄らによるパネルディスカッションが行われた。景観シンポジウムは2013年にも開催されている。「柏崎らしい景観51選」は別項。※中越沖地震で倒壊し解体

景観を活かしたまちづくり(けいかんをいかしたまちづくり)
2013年に柏崎市の主催で開催されたシンポジウム。ISHIKAWA地域文化企画室社長で「エコール・ド・まつしろ」プロデューサーの石川利江は基調講演「歴史と文化を活かしたまちづくり~善光寺界隈・松代」で「20代の頃からの友人である北川フラムさんの父親・北川省一さんに長野で講演をしてもらった際に良寛、貞心尼に興味をもち、実際に柏崎を歩かせてもらった。『はちすの露』に収められる師弟唱和の歌は、立派な地域資源だと感じる。ウチは何もないという地域ほど、地域固有の良いものを発見、発信していない場合が多い。地域に眠っているおもしろいものを丹念に掘り起こし、魅力ある地域作りを…」と述べた。後半のパネルディスカッションでは、かしわざき観光ガイドの中村由紀子が「貞心尼史跡や街なか史跡のボランティアガイドをしている。ドブン小路など個性的な名前のついた小路が残っているのが特徴だが、小路名を表す表示板がなく寂しく思う。」と述べたのに対し、柏崎市長の会田洋は「全国的に有名な観光地でない普通の場所が健闘しており、ブラタモリ的歩き方が脚光を浴びる時代だ。柏崎も自然歴史、文化など素晴らしいものがあり、それを掘り起こして、外にむかって発信していくべきだ。小路名については統一感をもったデザイン表示をしたいと考えている。」と答えた。

『芸能復興』と綾子舞(『げいのうふっこう』とあやこまい)
『芸能復興』は1952年10月に創刊した民俗芸能の会の機関誌(月刊)で、「綾子舞を世に出した恩人」として知られる本田安次の初期重要論文が掲載されている。なかでも創刊号に掲載された「風流歌舞妓」には綾子舞が第2回全国郷土芸能大会(1951年、日比谷公会堂)で衝撃的な中央デビューを飾った様子が記されており貴重。同大会に綾子舞を出演させるために奔走した本田は、舞台の様子を「これは、風流踊といふ一つの型の中に歌舞妓風流の印象をとゞめたといふのではなく、歌舞妓踊と云つた独自の踊になつた頃のものがそっくり伝へられたものらしく、小原木踊といひ、堺踊といひ、常陸踊といひ、恋の踊といひ、これらは文献に見る女歌舞妓踊歌と同様のものであつた。」と一観客の視点でストレートに表現するとともに「ユライと称する冠りものをした三人の少女が、扇をとり、扇のつかひ方が色々あつて踊る。その踊は、能の地謡に合せての舞とは異なり、詞章(ことば)の内容を振を以てあらはすのではなく、言はゞ扇のとり方や、前後左右の進み方や、拍子にのせて足拍子を踏む等の組合せの強調によつて、歌を効果的に聞かせるのを本来主にしてゐるものゝやうである。」「綾子舞の踊姿には、歌舞妓草紙にある特徴ある姿とやはりそつくりの形をつくることがある。かなり洗練されたものらしいことは、記録写真を一振毎に写してもらつたが、その何れの振も、まことに美しいポーズを作つてゐたのを以ても知れる。」と絶賛。綾子舞が中央の研究者にいかに歓迎されたかが想像できる。『芸能復興』の命名者は折口信夫で、創刊号で「『芸能復興』を出す心になつた我々は、急に新しい幸福の中に、生活をはじめている。(略)文芸復興の精神が、われわれの上に最急速にはたらかねばならぬのは、殊に芸術方面にある。」「我々の方法は、民俗学を出るものでないが、ただ対象と、其に対する感受が、芸術的であり、帰結する所が、芸能である点において極めて僅かに分野を異にする所があるばかりである。」と高らかに宣言している。当の折口は、第2回全国郷土芸能大会で綾子舞を初めて観覧、あまりに古歌舞伎踊にそっくりだったことから「本田のヤツがこういう風にアレンジして舞台に上げたのではないか、と疑ったほど」(『出羽・本歌・入羽-綾子舞、21世紀への伝承』、本田本人の証言)との逸話も残る。創刊号での綾子舞言及は短かいが、第13号(かぶき特集号、1957年2月)で綾子舞についての本格論文「越後の綾子舞」を発表、研究を大きく進展させることになる。

華厳の愛-貞心尼と良寛の真実(けごんのあい-ていしんにとりょうかんのしんじつ)
良寛研究家の本間明が2021年に良寛堂刊行会から発行、考古堂書店が発売。長岡藩の下級武士・奥村家の娘マスとして生まれた貞心尼は、24歳で出家し、良寛の最期を看取った後、柏崎に移住、地元の人たちと交流しながら1872年に広小路の不求庵で亡くなったが、出家前の前半生について不明な点が多く、この解明に努めた。(第2章「貞心尼の波瀾の前半生」)。宮榮二が「貞心尼と良寛-関長温との離別説」で根拠とした「浜の庵主さま」伝承について、地元古文書や口伝をもとに反証し「伝承は貞心尼とは別人の伝承だった」「関長温は栃尾に駆け落ちしたのではなく小出に居続けた」などを明らかにするとともに『はちすの露』の背景も反映しながら踏みこんだ意訳を紹介した。出版記者会見(2021年7月30日、魚沼市)には調査に協力した松原弘明も出席、地元の口伝を聞き取った結果として「関長温と奥村マス(のちの貞心尼)は駆け落ち脱藩だった。長岡小町と呼ばれるほど美人だったマスが長岡城に御殿奉公していた際に長温に見初められ、駆け落ちしたと考えられる。マスには上級武士からの結婚の申し出があり、断り切れなかったという事情もあったようだ。駆け落ち脱藩の罪で、関長温は手討ち(上意討ち)にあい、残忍なやり口で惨殺された。殿様の許しを得ての上意討ちであり、生家は藩との関わりを恐れ遺体を引き取らず、長温と交流のあった画家・松原雪堂が埋葬した。このことは一族の間では秘密とされた。」と説明した。

県下一の相撲研究家若井一正さんを悼む(けんかいちのすもうけんきゅうかわかいかずまささんをいたむ)
相撲研究家・若井一正(1926-2010)の追悼文で、親交のあった新潟県相撲連盟顧問、日本ペンクラブ会員の広井忠男が執筆、柏崎刈羽38号(2011年)に掲載された。広井の『越後柏崎郷花の相撲取り』で、本地方相撲史研究の先学として知られた若井は共同調査研究にあたった。「早速日を改めて、若井家を訪問した。一部屋中まるで相撲関係の本棚で埋まり、あまつさえ壁から、欄間まで相撲の写真、錦絵があり、力士の手形で埋め尽くされている。これはもう若井相撲博物館である。八十年近くの人生をかけて収集した一大コレクションである。昭和二十年代に出稼ぎで関東に赴き、そこでどうしても欲しい相撲の本に出会う。当時の日当の二日半分(今なら二万五千円程か)もして、お金が足りない。御里の妹さんにこっそりと手紙を出して資金を借り、これで求めた本もあるというから半端ではない。」「小国町では六代柏戸(後の七代伊勢ノ海親方、相撲会所頭取)の生家、墓碑及び六代両国梶之助の生家、墓碑をご案内頂いた。(略)若井さんは、小国が世に誇る六代柏戸と六代両国梶之助(関脇)の両力士を何とか顕彰したいとの願いを新たにされていた。とにかく大変な相撲愛好家であり、研究家である。」などと振り返るとともに、故人の相撲研究の成果、郷土出身力士の顕彰などの功績を紹介し「相撲を本格的に取らなかった人で、これ程の相撲好きかつ相撲研究家を私は知らない。もう一度記すが、新潟県相撲連盟史を飾った若井一正研究、『越後佐渡出身、全大相撲力士一覧』は永遠不滅の一大事業である。(略)相撲甚句の一節〽色々お世話になりました。おなごり惜うは候えど今日はお別れせにやならぬ…又の御緑があったなら再び当地に参ります。その時はこれにも勝りしごひいきをどうか一重にハアー願いますヨー。をお贈りしてその一生を讃えたい。」と結んでいる。綾子舞現地公開の際のエピソード(途中で降雨があって濡れたが、若井さんは余程気に入ったらしく「もう一回見たいものだ」と言われた。特に膝をくの字に曲げたままで横歩きする古風の芸に心魅せられたようであった。国技相撲の魅力の一つは様式美である。相撲の美に共通する様式美を、若井さんは国指定重要無形民俗文化財、柏崎が誇る「綾子舞」に見い出していたのであった。けだし炯眼というべきものであろう。)も興味深い。

現代語訳北夷談(げんだいごやくほくいだん)
柏崎市米山町出身で北方探検の先駆者松田伝十郎の見聞録を、生家浅貝家の子孫にあたる中俣満が現代語訳、監修は新潟県史編集員の松永靖夫。伝十郎が「カラフトは離島なり」を確認した1808年から200年目にあたる2008年を記念して刊行された。中俣は1994年に柏崎市立博物館で開催された第27回特別展「北方探検の先駆者松田傳十郎」で展示された『北夷談』に触発され現代語訳を決意したとのことで「鉢崎時代と江戸へ出てから松田家の養子となるまで、そして蝦夷地御用済みとなってからの伝十郎に関する資料はほとんど残されていない。大正9(1910)年の大火など、何回か鉢崎宿場を焼いた火災によって失われてしまったのであろう。現在、はっきりしている伝十郎の足跡は、蝦夷地御用済みになってから自ら著した『北夷談』に見られる期間のものだけである。」「今日では、部下として同行した間宮林蔵に比して、伝十郎の功績はあまりにも知られていない。本書によって、並外れた勇気と忍耐力をもって未開の地に挑んだ先人、松田伝十郎を知っていただければ幸いである。」(はじめに)と述べる。底本とした写本について監修者の松永は「国会図書館所蔵本は、文体や狂歌などから推察して松田伝十郎の原本をそのまま写したものと思われるが、写しもれや誤字が多い。特に挿し絵の模写は粗雑である。」「国立公文書館本は、絵は丁寧に写しているが、随所で原文を改変して文章を分かりやすくした感じがする。」と比較、「現代語訳に当たっては国会図書館本を底本とし、国立公文書館本で補うことにした。一方、挿絵は主に国立公文書館本から採用した。狂歌については、すべて国会図書館本を採用した。」などと苦労を語っている。巻頭では、地元近藤家に唯一残る伝十郎直筆書状を紹介。

憲兵(けんぺい)
柏崎市安田出身で元陸軍憲兵曹長の宮崎清隆(1918-2001)が「講和独立記念日を期して、一人の外地憲兵として歩んだ、死の彷徨の一頁をありのまま記して世人の批判を願う」ため1952年に刊行した小説。総売上部数37万部というベストセラーとなった背景について大宅壮一は「現在宮崎は二十歳前後の青年の間に圧倒的人気をもち、特に保安隊では、彼の著書は副読本のような形で読まれているという。」(1953年11月、ヒットラーに敬礼する男)と分析している。2部構成で、第1部「大陸に躍る憲兵」は初任地の漢口憲兵隊本部勤務から敗戦まで、第2部「憲兵最後の日」は敗戦後の混乱と中国からの脱出を描く。本文中で宮崎は「戦後極東国際軍事裁判法廷その他でなぜ日本の憲兵がナチのゲシュタッポとともに"ケンペイ"という悪意の国際語としてのみ通用してしまったかを反省しないものではない。それが一部憲兵の横暴冷酷に起因していることも、敢て否定しようとするのではない。しかし同時に、そうした職権濫用の憲兵が、同じ憲兵の手によってどしどし摘発され、極秘に処分されていたという事実も認めてもらいたいのである。」「国際条約に規定された戦争法規違反を防圧する立場にあった憲兵が、逆にことごとく戦犯として指摘されたことは何たる運命の皮肉であろう。不幸処刑された同僚はおそらく、これも皇軍敗戦の犠牲とあらば、と甘受し、悠々絞首台の階段に立ったことであろう。」などの主張を展開、上官から直接聞いた甘粕事件の真相など具体証言も貴重。三島由紀夫は序文で「最近こんな面白い本はなかった。(略)およそ冒険活劇の十本分にも当るスリリングな事件が、一人の人物の体験をとほして語られ、しかも体験者は生存し、その口から正に語られてゐる物語をわれわれは聴いてゐるのだ。」と絶賛している。宮崎清隆小史(1986)によれば「三島氏の唯一人の正式門下生となり師事」したのは1953年からで、三島事件の起きた1970年まで師弟交流が続いた。三島の1周忌にあたり宮崎はさいたま市見沼区堀崎町の私邸庭に「三島由紀夫之碑」を建立した。なお、『続憲兵』も30万部のベストセラーとなっている。映画「憲兵」については別項。

憲兵(けんぺい)
柏崎市安田出身の宮崎清隆の代表作『憲兵』を1953年に映画化。100分、モノクロ。幻の映画と言われていたが2022年に新東宝キネマノスタルジアレーベル第15弾としてHDリマスター、初DVD化された。宮崎役は新東宝に入社したばかりの中山昭二で、これが主役デビュー作品。中山はその後、『ウルトラセブン』でウルトラ警備隊のキリヤマ隊長として有名になり、宮崎本人との交流も続いた。原作で「彼女は近代中国美人を代表する水蓮を思わせるような存在であった」「私は彼女の凄みの加わって一段と冴えた顔を、この時ほど美しいと思ったことはなかった」と描写されるCC団の間諜・葉白蘭役を岸恵子が演じた。葉白蘭は、原作では「CC団の佐官級特務将校を逃がした後に小型拳銃で自決」となっているが、映画では「(将校奪回後も生き延び)敗戦後、漢口陸軍病院に越路志乃武の偽名で入院中の宮崎と再会、愛する宮崎をMPからかばおうとするが果たせず、MPの銃を奪い宮崎と心中」という驚愕のラストシーンに変更されている。音楽は古関裕而が担当。悪徳部隊長として東野英治郎が出演している。また「米軍将校捕虜救助」は美談に脚色がなされ、救助後ハーモニカとウイスキーで交流、米軍将校に「言葉と眼の色が違うだけでどうして吾々が憎しみ合わなければならないのだ」と発言させてもいる。

県立美術館についてご説明いたします(けんりつびじゅつかんについてごせつめいいたします)
2003年5月26日に柏崎市で開催された県立美術館計画の説明会タイトル。新潟県予算に同計画の調査費が計上されたことを受け、柏崎市と柏崎市教育委員会が主催した。同年1月に平山征夫知事から発表された美術館計画は当初の「摺り合わせ不足」もあって反対や疑問の声が上がっており、副題「皆さんの知恵・ご意見を集めて、より良い美術館を!」に見られるように、市民間の疑問に答えるとともに計画実現に向けた意見、アイディアを聞くことに主眼を置いた。説明会冒頭で西川正純市長は「現在2つの大学が設置されている柏崎の学園ゾーンを、さらにどのように生かしていくかという全体構想のなかでの美術館計画だ。県下4番目の都市でありながら、柏崎には県立の施設といえるものがあまり無く、学園ゾーンに県の教育文化スポーツ施設がほしいと念願していたところだ。平山知事の提案はやや唐突の感を与えたことは確かだったが、長年の念願に対する的を射たリアクションだったと思う。」としたうえで「町の真ん中に美術館を作ったら…という意見を聞くが、モネの庭とセットが大前提。町の美術館ということになると、新潟県が柏崎に美術館を設置する因果関係は薄くなってしまう。」「美術館も競争と競合の時代であり、モネの庭とセットで環境共生公園内に建設することは柏崎ならではの競争力となる。」「『平松礼二氏の個人美術館ではないか』という疑問を受けているが、(同氏が予定している)400点を丸ごと受領するのではない。一定の客観評価、選別を経て、作品を頂戴することになるのだと思う。」などと説明した。経緯等については別項「美術館問題を考える」参照。

【こ】
恋ヶ島-越後柏崎たらい舟の伝説より(こいがしま-えちごかしわざきたらいぶねのでんせつより)
柏崎市のアマチュア劇団・アートラボによるお弁藤吉(お光吾作)伝説をベースにした演劇、山崎勇脚本・演出。柏崎市と柏崎市教育委員会後援で2014年初演。舞台を大久保長安が佐渡奉行を務めた江戸初期に設定、お光の心情を中心に描く「新解釈」が話題を呼んだ。柏新時報の囲み記事「『お光吾作』を新解釈で」(2014年5月30日号)では「1年たっても音沙汰のない(後で、お光の父親が手紙を握りつぶしていたことが明らかにされる)吾作を案じ、柏崎へたらい舟で単身こぎ出していくお光。(略)柏崎人にとって、いつもこの伝説にふれる度、『後ろめたい』思いに駆られる。それは、吾作に妻子があり、『怖くなって番神堂の灯りを消してしまった』ことが、悲劇の直接原因となったからだ。今回の演劇では、吾作側の事情について具体的に描かないことで『純粋性』『普遍性』を高めることに成功した。」と初演の様子を伝えている。

恋の舞扇(こいのまいおうぎ)
綾子舞を守り継ぐ少女の姿をテーマにした楽曲で1991年キングレコードから発売された。高橋満作詞、星野知信作曲・編曲。2人はともに鵜川出身で、郷里に伝わる綾子舞への熱い想いを歌に託した。歌は見咲えつ子。「木枯らし過ぎれば鵜川の里も/情け知らずの雪が降る」「あなたと別れた中山峠/寒さ凍みいる白い朝」「面影恋しい祭りの夜は/濡れる瞳にゆらい髪」などと鵜川の風景と綾子舞を歌い込み、間奏には綾子舞のメロディーを取り入れた。歌詞カードには「ゆらい…綾子舞を踊る時に、茜色の長い木綿の布を頭に垂らして結んだもの」との説明も。作詞を担当した高橋満は「400年のロマンを伝える古典芸能綾子舞…鵜川で育ち、伝承芸能を守り受け継いで行く少女達の悲しくも美しい姿を表現した。作編曲の星野さんも『ふるさとのために』と意気投合して立派な曲になりました。ふるさと鵜川のPRにも一役買えれば…」とコメント。

恋学門妨(こいはがくもんをさまたぐ)
「良寛貞心尼恋人説の根拠となる相聞歌」とする研究者も多いが、柏崎出身の内山知也(筑波大学名誉教授)は柏崎良寛貞心会の設立総会記念講演(1992年)で「伝統的な題詠の歌として詠まれたもの。『恋学門妨』は歌の集まりで提示された歌題であり、良寛、貞心尼を含めた何人かがその場にいた。(貞心尼は)その際に作られた良寛の歌と自分の歌を並記して記録したのがこの紙片。」とし「国歌大観を古い方から調べてみると、1710年の新明題和歌集の恋部、1860年の大江戸倭歌集恋歌の部に見出すことができ、当時すでに一般的な歌題だったと考えられる。『恋草』の表現も新明題和歌集、大江戸和歌集に見ることができ、これらに影響を受けながらの知的空想の産物。(『恋学門妨』という)歌題の制約を受けながら知的に遊んだ歌、というのが本当だろう」などと解説。良寛研究家の谷川敏朗も「歌会にでも招かれた貞心尼と良寛が、『恋学門妨』という題を出されて、それぞれが詠んだ歌を記したものであろう。詠み捨ての歌としたので、貞心尼は『はちすの露』に収録しなかったものと思われる。(略)良寛の歌は蔵書の多いことをいう『汗牛充棟』を応用したものであり、貞心尼の『恋草』は万葉集の恋草を力車に七車積みて恋ふらくわが心から(広河女王)の歌を知っていて、用いたのであろう」(1995年、『良寛』27号)と断定している。1991年に洞雲寺に中村昭三が歌碑を建立、昭三の実妹で詩人の中村千榮子の働きかけで越部信義(「「おもちゃのチャチャチャ」作曲で知られる)が曲を付けている。

校歌調査(こうかちょうさ)
柏崎市小中学校PTA連合会が2001年に柏崎市内の全小中学校を対象に歌詞、作詞、作曲者を調査したもので、統合前の旧校歌についても「ここで集めておかないと散逸してしまう」との観点から収集し、柏崎市内の23小学校、10中学校、統合前の16小学校、11中学校の校歌が集まった。注目されたのは作詞、作曲者の豪華さで、相馬御風(槇原小、日吉小、南鯖石小、旧鵜川小、旧北条中央小作詞※)、中山晋平(槇原小、日吉小、旧鵜川小、旧北条中央小作曲※)をはじめ、芥川也寸志(鯨波小作曲)、堀口大学(旧田尻中作詞)、「夏の思い出」の中田喜直(東中作曲)、「浜千鳥」の弘田龍太郎(南鯖石小作曲)、團伊玖磨(一中作曲)、白鳥省吾(高浜小作詞)ら錚々たる顔ぶれが並び、校閲者として吉野秀雄(一中)や幸田露伴(旧高浜小)も見える。また、デビスカップ選手・監督の太田芳郎(比角小作曲)、學燈社社長の保坂弘司(鯨波小作詞)、中村千栄子(田尻小、東中作詞)ら地元出身者の名前も。取りまとめにあたった市P連の廼島禮二事務局長は「著名文化人の名前が並び、驚いている。各校の校歌にはすばらしい言葉や精神があり、これを温故知新で現在に生かそうという試みでしたが、予想以上の成果となった。」と話している。これらの成果は同年の第17回柏崎フォーラムで校舎の写真とともに展示、会場の模様については別項(幻の校歌)参照。※「平成の合併」(2005年)前の調査のため旧別山小(相馬御風作詞、中山晋平作曲)は含まれていない。

甲子園への道と人材育成の大切さ(こうしえんへのみちとじんざいいくせいのたいせつさ)
日本文理高校野球部監督の大井道夫が2009年11月24日に柏崎市で行った講演。柏崎商工会議所の永年勤続者表彰式に合わせ人材育成講演として公開した。同年夏の甲子園で日本文理高校は準優勝を果たしており、柏崎出身の選手が主力として活躍した。大井は「多くの皆さんから感動をありがとうと言われるが、感動を与えてもらったのは私たちの方だ。柏崎から中村(大地主将)や高橋(隼之介)を文理に寄こしてくれた保護者にも感謝したい。」としたうえで、決勝戦を「勝っても、負けても笑顔で新潟に帰ろう、伊藤(投手)にはどんなに打たれてもお前を替えないぞ-と言ったものの、伊藤も疲れ、打たれた。9回、ベンチで選手たちに、このまま新潟に帰るんじゃだらしないな。1点、2点返そうじゃないかと選手を激励したが2アウトとなった。終わったなと思った瞬間、切手が四球で出塁、ベンチの雰囲気ががらっと変わった。」と振り返った。また「(甲子園閉会式で)優勝した中京大中京と行進したが、高校生と中学生ぐらい体格が違う。あの体格差で本当によくやってくれたと思う。あのチームで決勝に行けたのだから、みんなにチャンスがある。大切なのは新潟県全体のレベルを上げるためにはどうすればよいかということ。甲子園に出るのであれば全国優勝を狙うような気持でがんばってほしい。」と述べた。また指導方法について「上手くなりたかったら自分で考え、自分でやれ-が口癖。監督の采配で勝つのはほんの数試合であり、野球は選手がやるもの。甲子園は目標であり、野球を通じて人間形成をするのが最大の目的。野球ができることをまずは親のおかげと感謝する気持ちが大切であり、野球を通して協調性やあいさつの大切さ、気配りを学んでもらいたいと思っている。」と強調した。

興泉寺(こうせんじ)
新潟県五泉市錦町にある曹洞宗の古刹。1501年に越後守護上杉房能により船越の地に創建、さらに1562年に五泉城主甘粕備後守景継が現在地に移築したとされる。同寺開山堂には上杉房能の位牌「雙碧院殿陽空常重大居士」があり、永正の乱後に奥方綾子が鵜川に匿われ綾子舞の発祥由来の一つとなった縁で2014年と2022年(開創520年)に綾子舞公演が行われ、下野保存会が甘粕景継が創始という帛の帯(はくのび、五泉市無形文化財)と共演した。

弘法大師の霊塩水井戸(こうぼうだいしのれいえんすいいど)
柏崎市岩之入に現存する井戸。弘法の塩水井戸とも。今から約1200年前、諸国で布教していた弘法大師(空海)が岩之入を訪れ、塩がないことに困っていた村人のために錫杖を地に突き刺し、こんこんと湧出したという霊塩水。戦中、戦後は出雲崎や荒浜などからも荷車を連ねて水を汲みに来たという。井戸のそばには弘法大師堂が建立され、毎年2月には霊塩水祭礼が行われている。柏崎市教育委員会のまとめた『水のいいつたえ-柏崎の名水』(1990年)によれば、弘法大師の名は「弘法大師の茶の池」(中浜2)、「弘法清水」(山澗)に残る。弘法大師の茶の池は、岩之入の伝承とは逆に井戸の水が(海岸が近くて)塩辛いとする住民の訴えに真水を湧出させている。

高龍寺(こうりゅうじ)
北海道札幌市にある曹洞宗寺院。4代目篠田宗吉が建築集団を率い渡道し本堂などの建築にあたり、宗吉らが手がけた本堂、山門及び袖塀、金毘羅堂、水盤舎、鐘楼を含む10件が2012年に登録有形文化財となった。文化庁は「9室構成の堂内は、軸部木太く雄大で、棟梁の篠田宗吉以下、越後の工匠が関わった。大規模で装飾性豊かな近代の曹洞宗本堂である。」(本堂)、「本堂を手がけた篠田宗吉の次代となる5代宗吉が棟梁を務めた。蟇股や欄間等に、雲龍や獅子、花鳥等の彫刻を施す、装飾豊かな門である。」(山門及び袖塀)、「大間の正面には軒唐破風付の向拝を付し、千鳥破風を重ねる。澤田吉平を棟梁とし、高龍寺境内で最も装飾的な建築のひとつ。」(金比羅堂、澤田吉平は4代目篠田宗吉の弟子で柏崎市港町の人)などと評価。山門だけで207もの彫刻があり、柏崎で製作され弁財船で当地に運ばれたという。なお、篠田宗吉は高龍寺建設後、さらに北海道増毛町で厳島神社本殿(2018年に北海道指定有形文化財)を建立している。2007年に高龍寺での現地調査を行った東京大学大学院の藤井恵介准教授は「柏崎で材料や部品を加工し、それを現地に持って行って組み上げるという仕事の仕方をしていた。4代目篠田宗吉はプロデューサーとして腕の良い大工、彫刻師、石工など様々な職人を集め、取りまとめる高い能力を持っていたと言える。」と結論付けた。藤井は「4代目篠田宗吉の根拠地柏崎で全体像を調査したい」として翌2008年に来柏し、閻魔堂、称名寺、妙行寺、八坂神社、番神堂、日吉神社、宮川神社(以上柏崎市)、東福院(刈羽村)、光照寺、二荒神社、善乗寺(以上出雲崎町)を調査し、「頑丈な建築物に華やかな彫刻というのが篠田宗吉の手がけた建築の特徴。中でも称名寺は華やかさがはっきりと表れており、価値が高い。代表作と言えるのではないか。」とコメントした。

こーたん(こーたん)
高柳町のゆるキャラ。高柳町商工会主催、新潟工科大学と柏崎信用金庫後援の第3回高柳町デザイン大賞の公開コンペティション(2016年)で、グランプリになった新潟工科大生・川上光の原案をもとに誕生した。岡田名物のひょうたんときつねの夜祭りのきつねをモチーフにしたユニークなデザインで、身長185センチ、25歳。高柳の地酒「姫の井」の徳利をぶら下げるほど「地酒・姫の井が大好き、じょんのび米、ほんのびまんじゅうも好物」「歩き方はよちよちとしている。姫の井を飲むと余計よちよち度が増す」というゆるキャラらしい設定。発表会(2016年10月4日)で高柳町商工会の関井忠和会長は「これまで高柳の統一イメージキャラクターがなかったので、これを機にイメージアップとブランド力強化を図りたい」と述べ、同年の狐の夜祭りでデビューした。その後も各地でのイベントに出演して定着し、地元の伊勢屋(柏崎市高柳町岡野町)では「こーたんクッキー」の販売を行っている。

国際民俗芸能フェスティバル(こくさいみんぞくげいのうふぇすてぃばる)
1996年に柏崎市で開催された第38回関東ブロック民俗芸能大会の名称。主催は文化庁、新潟県教育委員会、同実行委員会。柏崎市と柏崎市教育委員会が共催。アジア文化への視野を広げようという試みとして中国ヤオ族の仮面舞踊、大韓民国の仮面劇、モンゴルの仮面舞踊が来日出演、関東ブロックからは来宮神社鹿島踊(静岡)、雪祭(長野)、逆面の獅子舞(栃木)、田野の十二神楽(山梨)、東金砂神社田楽舞(茨城)、下中野御神楽舞(新潟)、綾子舞(新潟)が出演。10月19日にシンポジウム「民俗芸能、その伝承と発展」、同20日に民俗芸能発表が行われた。

極楽寺(ごくらくじ)
柏崎市若葉町にある浄土宗の寺院。観経曼陀羅及び涅槃像、十住断結経巻第三童真品第八が柏崎市文化財。本堂、庫裏、書院、鏝絵の経蔵、鐘楼、山門は国登録有形文化財。柏崎陣屋詰の桑名藩士で『柏崎日記』を10年にわたり記した渡部勝之助墓、同じく桑名藩士で到人隊や箱館新選組として戦いその軌跡を『戊辰戦争見聞略記』にまとめた石井勇次郎墓、全国巡錫中に同寺で遷化した山崎弁栄上人墓などがある。貞心尼を当時の住職である28世静誉上人が支援したことから、歌集『もしほ草』や貞心尼の遺墨、静誉上人が描いた貞心尼晩年の「病中の図」が残される。鯨波戦争直前に桑名藩主・松平定敬が来柏した際には、勝願寺(本陣)、西光寺等とともに随行藩士の分宿先となった。なお柏崎市内には極楽寺は大洲地区、北条地区、石地地区の3か所にあり混同される。

極楽寺の天井絵(ごくらくじのてんじょうえ)
柏崎市小島・極楽寺(真言宗豊山派)本堂は柏崎刈羽在住の美術関係者が平和への願いを込めて描いた62枚の天井絵で飾られている。同寺は一向一揆による焼失再建から500年の歴史を持つ古刹で、本尊の「木造阿弥陀如来座像」は県文化財指定。本堂の改修(2002年)にあたり桑原和雄住職が「新しい世紀のスタートを記念し、それぞれの思いや祈りの気持をこめ、油絵、日本画様々な手法で自由に描いて下さい」と地域の美術関係者に呼びかけ、「寺側で用意した1枚60センチ四方の秋田杉に1人ずつ描いてもらった。1人もしくは数人程度で描き分けるのが通例で、1人1枚というのは珍しい」という。62枚の絵は米山、黒姫、八石の刈羽三山をはじめ綾子舞、三階節、「市の花」であるヤマユリなどバラエティに富み、桑原住職は「ここまで多彩にテーマが広がるとは思わなかった。地域の文化遺産として後世に伝えていきたい。」と話している。

國領經郎(こくりょうつねろう、1919-1999)
1941年東京美術学校図画師範科卒(開戦のため12月の繰り上げ卒業)で1942年1月県立柏崎中学校に赴任。「縁もゆかりもない越後の小都市への赴任は主任教授の断髪令に逆らったのが原因のようで、当初は長崎に島流しされる予定だったが手違いで実現せず、二転三転して柏崎になった」と後に語っている。同年4月召集、近衛師団を経て中国中央部戦線へ、1946年復員、1947年4月柏崎中学校に復職。学制改革により1948年から県立柏崎高校教諭となり1950年まで美術教師を務めた。柏高3回卒の相澤陽一元柏崎市教育長によれば「褒めて伸ばすタイプの先生だった」という。在柏時1947年の日展に「女醫さん」(モデルは関若菜医師)で初入選、翌1948年最初の個展を柏崎市役所楼上で開催し「女醫さん」「O夫人像」など30点を展示し画家としての原点となった。1950年以降は東京、出身地の神奈川県横浜市に活動拠点を移し、教鞭の傍ら「砂の風景」をテーマに多くの作品を描いた。柏崎では1986年に柏崎市立博物館開館記念展として「郷土ゆかりの巨匠展 村山徑・國領經郎」、2000年に市制60周年記念事業としてソフィアセンターで「国領經郎・阪本文男二人展」が開催された。1986年の柏中・柏高同窓会記念講演会の講師に招かれた國領は「絵を描くこととその周辺」と題して同窓や市民を前に講演、「初任地として赴任した柏崎での日々は芸術活動の出発点であり、大きな栄養分となった。」と振り返りながら、砂の風景を描くことになった経緯についてもふれ「これまでは教師と絵描きの二足の草鞋で来たが(横浜国立大学教授を退官した現在は)一足の草鞋だけに絞り人の心に指定席を作るような仕事をしていきたいと思う。」と述べた。日展評議員・常務理事など歴任。1991年日本芸術院会員、1992年紺綬褒章、1994年勲三等瑞宝章。

國領經郎・阪本文男二人展(こくりょうつねろう・さかもとふみおににんてん)
2000年に柏崎市制60周年記念事業としてソフィアセンターで開催された。「青春の地柏崎に甦る画家の軌跡」が副題で、柏中柏高に美術教師として勤めた國領、学童疎開で柏崎に移り住み柏高で國領の指導を受けた阪本の代表作を展示。國領は柏崎で制作された日展初入選作の「女醫さん」、宮本三郎記念賞を受けた「轍」、日本芸術院賞受賞作の「呼」など17点の代表作に加え、柏崎周辺にある作品として柏崎小学校蔵の「絵を描く少女」、会田写真館スタジオの背景として使用されていた「真昼の夢」などを展示、一方阪本は朝日ジャーナルの表紙に使用された「作品ム-64-1」など15点の代表作、柏崎周辺にある作品、装丁を担当した書籍(倉橋由美子『反悲劇』)などが展示された。オープニングセレモニー(2020年10月20日)には國領昭子、阪本玲子両夫人が駆けつけテープカット、國領昭子はモデルとなった「赤い服のA子」の前で背景などについて説明した。二人展に併せ図録も発行され、國領の教え子でNHK大河ドラマ「独眼竜政宗」などで美術を担当した小林喬が「恩師國領先生の想い出」と題して寄稿し「(柏中北舎の東端にあった部室兼先生のアトリエで)先生は毎日、絵筆をとりデッサンや自画像を巧みにたくさん描いておられました。デビュー作としてして有名な<女醫さん>もここでの作品です。」「時には小説を朗読し、そこからくるイメージを絵にするというユニークな授業も懐かしく思い出されます。」と記している。

孤高の庭匠 田中泰阿弥展(ここうのにわしょう たなかたいあみてん)
田中泰阿弥は柏崎市加納出身の庭匠で、銀閣寺の「洗月泉石組み」「相君泉の石組み」の発見修復で知られ、全国の作庭、茶室の設計、文化財の修復にあたり、新潟県内では新発田市の清水園、伊藤本邸(現北方文化博物館)、柏崎市の豊耀園(植木邸)、同高柳町の貞観園などで優れた仕事を残した。同展は生誕百年を記念して1999年10月1日から31日まで北方文化博物館で開催され、田中泰阿弥研究会が1994年の発足以来進めてきた調査や資料収集成果を中心に展示を行い、写真パネルや実測図、図面、遺墨、書簡など総点数は120点となった。詳細な年譜も完成し、図録『孤高の庭匠 田中泰阿弥』も刊行された。オープニングセレモニーで主催者を代表して日本庭園協会新潟県支部長の池田昭平(柏崎市・池忠造園社長)は「資料が少なく難しい部分があったが、研究会の皆さんの努力によって師の人柄、足跡について輪郭を描くことが出来た。」と語った。

ここに「三ツ石」あり!(ここに「みついし」あり!)
大洲地区振興会が2015年に柏崎港東埠頭入口(船小屋前)に設置したメモリアル看板。三ツ石海岸には烏帽子岩、天狗岩、千鳥岩(牛岩)の特徴的な石があり、名称の由来となった。また、地元の漁師は波や風の荒れ方でゴンゴンと鳴る(三ツ石の夜泣き)ことから出漁の判断材料とした。遠浅で柏崎市内の小中学校の指定海水浴場だったが、1965年からの柏崎港の拡張整備で埋め立てられ港湾施設と港公園に生まれ変わった。柏崎市立大洲小学校校歌にも「波だしぶきだ三ツ石の」と歌われている。現在は「三ツ石交差点」に名を残すだけとなっていたことからメモリアル看板を設置した。看板には三ツ石の概要と歴史、描かれた往時の姿、大洲小校歌が紹介されている。

こころの時代―宗教・人生-「死刑囚 日々の改心~島秋人」(こころのじだい-しゅうきょう・じんせい-「しけいしゅう ひびのかいしん~しまあきと」)
1988年7月3日にNHK教育テレビで放送された。柏崎市立第一中学校で島秋人を教えた吉田好道夫人の吉田絢子が出演、「1960年の秋、島秋人は一通の手紙を書きました。宛先は、彼の中学校の時の図画の先生・吉田好道先生です。吉田先生は、かつて彼を誉めてくれた唯一の人でした。手紙には死刑囚となったこと、故郷から遠い東京拘置所にいることが記されていました。」との紹介を受け、絢子は手紙を受け取った日の印象について「それは秋の彼岸の中日でした。主人が部屋で手紙を広げて読んでおりましたけれど、だんだん、だんだん下を向いて、ほんとにじっと下を向いて動かないんですね。私もちょっとどんな手紙がきたんだろうと心配になりまして『何の手紙ですか?』と訊きました。そうしたら黙って、私に(手紙を)よこしましたので、読ませて頂きましたら『私は、中村覚と言って、昔、先生に教えて頂いた生徒だ。今、死刑囚になって、東京の拘置所にいる。』と書いてありました。」「『自分のことを振り返ると、人に誉められたことは全然なく、いつも低脳だ、バカだ、と言われて過ごしてきたんですけど、先生にたった一度だけほめられた思い出がある。』というんですね。主人はその生徒のことを忘れていたんですが、胸に応えたらしいんです。私も胸がつぶれる思いがしました。それから主人は、早速自分で柏崎の市街と柏崎の海を描いて、主人の絵と一緒に小学校低学年だった娘や息子の絵も心を慰めるんじゃないかと送りました。」と述懐、これに対する島秋人の手紙(1960年10月5日付)も紹介された。絢子夫人は「私も短歌をやることで、自分の青春時代のいろいろ辛いところを切り抜けてきたから、自分をしっかり見つめることがいいことだと思い、短歌をやってご覧なさいと短歌の本も送りました。朝日新聞や毎日新聞に歌壇があるからそこに出してごらんなさい、とも勧めました。(島秋人には)ちっともいいことがなくて、少年院から始まり最後が人を殺して死刑囚ではこの世に生まれてきた甲斐がないと思ったんですね。せめて生まれてきて良かったと思わせてやりたいと思い、この短歌を上手にさしてあげたいと思いまして…」と短歌を勧めた心境を説明した。出演は他に弁護士の土屋公献(高裁は国選、最高裁は無償で私選弁護士)、養母の千葉てる子、「いあいしゅう(遺愛集)」を名付けた前坂和子。大きな反響を呼び、2005年の再放送では、吉田絢子の長女・岡村ひさ子(埼玉県在住)は「母が香積寺のこととお住職のことをよんだ和歌3首を送ったことが歌をよむきっかけになったのですが、そのお寺には父が眠っていて、自筆で『涅槃』と書いたお墓を作った時『誰でも入れるように、中村覚くんみたいに行くところがなくて困った人でも…』と話していたのを思い出します。」と柏新時報にコメントを寄せた。

御巡幸供奉官員姓名幷旅宿割(ごじゅんこうぐぶかんいんせいめいならびにりょしゅくわり)
明治天皇の北陸東海巡幸は「各地の風土や人情にふれ、民意を知る」とともに「新しい政治の統治者としての天皇の権威、存在を国民に浸透させること」(いずれも『柏崎市史』)にあり、岩倉具視(右大臣)、大隈重信(参議)、井上馨(参議)、徳大寺実則(宮内卿)、杉孫七郎(宮内大輔)、大山巌(陸軍少輔)、川路利良(大警視)、山岡鉄太郎(宮内大書記官)ら新政府要人が多数随行した。「御巡幸供奉官員姓名幷旅宿割」は柏崎宿泊(1878年9月13日と同23日)の際に要人がどこを宿所としたかが分かる貴重資料で、当時の柏崎町が記録保存した。表紙には「御巡幸供奉官負(ママ)姓名…」とあるが、「負」は「員」の俗字「貟」を写し間違えたものとみられる。表紙裏には「御巡幸往覆」とあり13日と23日が同じ宿割だったことを示す。柏崎市立博物館報第33号の資料報告(高橋深雪学芸員)によれば「300人ともいわれている随行者の詳しい記録は少なく、柏崎における随行者の宿泊に関する資料は貴重なものといえる。」と評価、「随行者の宿泊所は第壹号から第三十五号までの番号が振られ、64のグループに分かれて宿泊しており、宿泊所としてそれぞれに商家や寺院の名が記載されている。宿泊者は839人で、一か所当たりの宿泊者数には3人から十数人まで幅があり、宿泊所の間取りや家族の状況のほか、宿泊者の社会的地位にも配慮がなされた結果と考えられる。」「第壹号から順に、概ね宿泊者の社会的地位が高い順に宿泊所が整理されている。岩倉右大臣や大隈参議などの政治家に始まり、宮内省の高級官僚、医師などがそれに続く。」などと説明する。当初行在所に計画された聞光寺には徳大寺宮内卿、杦(杉)宮内大輔、山岡宮内大書記官が宿泊したとあり、『柏崎編年史』の記事(徳大寺が聞光寺、杉が山田家、山岡は西永寺)とは差異がある。なお徳大寺と杉は御野立公園の「明治天皇御巡幸記念碑」の揮毫、撰文、山岡(後の鉄舟)は行在所となった「柏崎校」校名額の揮毫を行っている。

『滑稽旅烏』に描かれた柏崎(『こっけいたびがらす』にえがかれたかしわざき)
江戸時代のベストセラー作家・十返舎一九による紀行集。文政3(1820)年刊。第1話「蛇に襲われた朱鷺親子が鶴の助けを借り撃退する話」(群馬県山中峠)、第2話から4話「鈴木牧之と熊の狩猟を見物に行く話」(塩沢~清水村)など『金草鞋』の旅とは趣を異にした物語が採話、紹介される。出雲崎から柏崎へ移動した一九は「樹齢1016年の松の話」「往来に真ん中に立ちたる古仏の話」、「米山峠の弁慶茶屋で常陸の国人と肥前の国人が再会する話」「米山の麓の洞窟に住む巨大蟇蛙の話」を紹介している。「往来に真ん中に立ちたる古仏の話」は、当時街道の中央にあった立地蔵、ねまり地蔵のうち挿絵からしてねまり地蔵と見られるが、「地蔵の裏の方に永平寺と彫り付け」(実際のねまり地蔵は「□光寺」)が一致しない。「米山の麓の洞窟に住む巨大蟇蛙の話」は柏崎市伝説集(柏崎市教育委員会、1972年)にもないので一九の創作と見られる。なお一九の宿は「永井又兵衞」で『金草鞋』の旅と同様「瓢宅」で遊んでいる。

古典芸能綾子舞を観る(こてんげいのうあやこまいをみる)
1997年11月23日に東京都中野区東部地域センターで開催された東中野図書館友の会主催の特別企画。副題は「滅びゆく伝承の美を今にとどめむ!」。綾子舞の恩人・本田安次の弟子で日本民俗舞踊研究会代表の須藤武子がプロデュースした。下野座元による常陸踊披露とともに、布施富治や押田勝幸(鵜川出身で狂言布さらし復活に尽力、群馬県伊勢崎市在住)、須藤による講演が行われた。91歳の本田は「自宅(中野区沼袋)で全集執筆に集中しているため出席できない」としていたが「綾子舞と聞いていてもたってもいられなくなった」と駆けつけ関係者を感激させた。予定になかった亀の舞、恵比寿舞を布施が即興で演じ、観客を沸かせた。講演のなかで布施は「綾子舞を後に残すためには自分が…という気持ちで死に物狂いだった」と綾子舞との関わりを振り返り、本田はひさしぶりに見る綾子舞に感極まった様子で「随一の文化財として本当にいいものが日本に残った。皆さんががんばっている様子をうれしく思う。後進の指導を通して、立派な日本の文化財を後世に残して下さい。」と激励した。本田は4年後の2001年に94歳で亡くなっており、綾子舞について語る最後の機会となった。

詩フェスティバル~花火と良寛の地で(ことばふぇすてぃばる~はなびとりょうかんのちで)
第34回国民文化祭・にいがた2019、第19回全国障害者芸術・文化祭にいがた大会のコア事業として2019年10月26日に柏崎市文化会館アルフォーレで開催された。「良寛と花火」をテーマにした俳句、短歌、現代詩作品募集では5503点の応募があり、柏崎市の桜井雅浩市長は「柏崎の花火、良寛、柏崎を愛した貞心尼を読み込んだ作品を多く応募いただきありがとうございます。7月に開催されるぎおん花火大会は海の花火としては日本一との評価をいただいている。良寛さんの弟子貞心尼は『はちすの露』に師との交流の跡を残し、貴重な文化遺産となっている。多彩な柏崎文化を堪能してほしい。」と歓迎あいさつ。俳句、短歌、現代詩の入賞作品表彰式が行われ、俳句「月の夜は良寛となる案山子翁」、短歌「真夜中の花火のごとき焼夷弾十五の祖母は地獄を逃げたり」(文部科学大臣表彰一般の部)などの表彰が行われた。オープニングアクトでは越の国VOX ORATTAが良寛と貞心尼にちなんだ「君や忘る道」ほかを披露、続くトークショー「詩をめぐる 大人女子のトークショー」には壇蜜(タレント)、神野紗希(俳人)、梅内美華子(歌人)、峯澤典子(詩人)が出演し「秋の恋」をテーマに作品を披露した。翌日は「文芸散策バスツアー~良寛さまゆかりの地を巡る」が行われ、柏崎市緑町の極楽寺で良寛さんの最期を看取った貞心尼の資料展示を見た後、出雲崎町へ向かい良寛と夕日の丘公園、良寛記念館、良寛堂で見学と吟行、さらに和島の良寛の里美術館などに立ち寄った。

此間九日、暑湿の労に神をなやまし、病おこりて事をしるさず(このかんここのか、しょしつのろうにしんをなやまし、やまいおこりてことをしるさず)
『おくのほそ道』越後路の一節。額面通りに受け取ると「越後路の9日間は暑さと雨でまいり、持病も起こったので特に記録も残さなかった」ということになるが、絶唱「荒海や佐渡に横たふ天の河」を効果的に登場させるための省筆とも考えられている。芭蕉研究者の志田義秀は「病おこりて事をしるさず」について「遁辞としての作為」「遁辞の作為」と繰り返したうえで「この次へ掲げ出さうとする二句(文月、荒海)に対する心構即ち二句の詠出地に触れまいとする作為の手段と見るのが至当」(1941年、『奥の細道・芭蕉・蕪村』)と論じ、その後の研究に影響を与えた。また「越後路の記事は、『おくのほそ道』でも屈指のヤマ場である象潟と市振の間にはさまれているのである。ヤマがヤマとしてはっきり存在を示すためには、ヤマとヤマがつながってしまってはならない。必ずその間に谷にあたるものをはさまなければならないのである。その谷が越後路なのであり、ここに内容のある事柄を芭蕉が入れようとしなかったのは当然であった。芭蕉は『おくのほそ道』においてよくこうした配慮をする。例えば、象潟の後ばかりではなく象潟の前にも谷にあたる部分を作ってあるのであって、酒田の条がそれにあたる。(略)芭蕉がこうしたことに気を配るのは、『おくのほそ道』が単調に堕することがないようにということからであろう。実際、『おくのほそ道』には、単調にならないよう種々の配慮がなされている。」(1995年、『芭蕉俳句の試み-響き合いの文学-』、大輪靖宏)といった明快な指摘も出ている。江戸時代の有名な注釈書『奥細道菅菰抄』(蓑笠菴梨一、1778年)では「越後のうちには、歌名所かつてなく、たまたま古蹟旧地ありといへども、いづれも風騒家の取べきものにあらず。殊に往来の道筋には、しかじか風流の土地なく、奥羽の致景佳境につづけんには、何をよしとして書べきや。」といった記述がその後に悪影響を及ぼしたが、1918年に翻刻出版された『曾良随行日記』によれば、実際の越後路は6月27日(温海から旧山北町・中村へ入る)から7月13日(市振を出て滑川へ)までの「16日間」であり、乙宝寺、弥彦神社、西生寺の弘知法印即身仏、居多神社などを参拝拝観したことが記録されている。宿泊に困った新潟(市)では大工源七母の「情」に救われる場面もあり、日光での「仏五左衛門」のようなストーリー展開につながった可能性もあるが、いずれも割愛、省筆された。上越では柏崎と同様に宿を巡るトラブルがありながらも6日間にわたり滞在、5回も句会が行われてる。なお『曾良随行日記』の本県部分には「病」についての記述はなく、「翁、気色不勝(すぐれず)。暑極テ甚。」(7月14日)と記述されるのは越中(富山県)に入ってからである。極端な省筆の一方で「荒海や佐渡に横たふ天の河」の序文「銀河ノ序」(本朝文選)が幾バージョンも残されていることをどう考えたら良いのか。もしかすると芭蕉は最後まで越後路に「銀河の序」を挿入することを考え、迷っていたのではないか。主従の足跡を再現するに有用な『曾良随行日記』だが、これを重視するあまり「しかるに芭蕉が(柏崎に)一泊もしなかったのは、惜しいことであった。若し一泊したら、どのような新事態を起したかわからない。この地で更に名吟が生れたかもしれない。『細道』の本文を、出羽から越中へ一足飛びに省略するような事はなかったかもしれない。」(1978年『越後路の芭蕉』大星哲夫)といった柏崎人の肩身を狭くする論調も少なからずある。

子らとともに(こらとともに)
柏崎市立高浜小、西山町立二田小の校長などを務めた佐藤騏四郎(柏崎市城東2)が教員退職記念に刊行した講話集で、39年間の教職生活のくぎりとして校長時代の朝会講話や学校だよりの原稿等をまとめた。1996年刊。「オゾンホール」「毛利衛さんの夢」「芭蕉の句碑」「トキは舞いあがれない」「中国残留日本人孤児」「おつかれさん橋本聖子さん」「すごいそイチロー選手」「田中角栄さんのこと」など身近な話題や時事を題材にした130編余を収録。佐藤は「まえがき」で「現代の教師は、単なる知識人だけでは、子供を指導することはできません。人間を見る目、人間を育てる目、人間を愛する目がないとつとまりません。私は子供に語りながら教師にも語りかけてきました。(略)子供と共に笑い、子供と共に悲しむ姿こそ、教師の原点なのです。そこから、子供の求める教育が見つけられるのではないでしょうか。『指導する』という一歩高いところから子供を見下ろすのではなく、子供と共に生活していくという心です。子供に学ぶという心です。」と綴っている。

近藤勇を狙撃した男-富山弥兵衛の「真実」(こんどういさみをそげきしたおとこ-とみやまやへえの「しんじつ」)
出雲崎町の郷土史研究家・磯部友記雄による柏新時報寄稿で、2005年1月1日号に掲載された。前年のNHK大河ドラマ「新選組!」で近藤勇の生涯に注目が集まったが、出雲崎では近藤を「黒染の難」で狙撃した富山弥兵衛の研究が進んでおり、壮絶な戦死(1868年閏4月2日)の様子を含め事情に詳しい磯部が執筆した。富山弥兵衛は鳥羽伏見の戦いで負傷した後、黒田清隆(北陸道鎮撫総督参謀)の指示で各地の動向を探っていたとされ、出雲崎での動向について磯部は「富山は、美濃大垣の博徒水野弥太郎の子分と称して、閏4月1日出雲崎町の大崎屋の前に馬を止めている。(略)旅人には相応しくない仕草で、馬からヒラリと降りた富山弥兵衛は出雲崎の警護をしていた水戸諸生党脱走兵の隊員によって『この人物はただ者ではない』と不審に思われた。直ちに捕らわれ、隊長伊東辰之助の厳しい詮議を受けたが、富山は懸命に弁明、業を煮やした隊長伊東は富山を摂津屋へ連行し、さらに拷問を加え、食事もろくに与えられず、2階の柱にくくり付けられた。」「2日目の時に番人の隙を見て縄を解き、短刀も取り返し、2階から屋根伝いに道に飛び降り逃走した。一説には摂津屋の娘が番人の言いつけで見張りをしていた隙に、娘の使用していた鋏(娘が富山を助けるために故意に落とした)を足で近づけ、その鋏で縄を切って逃走したとも言われている。」とまとめたうえで、その最期について「(出雲崎町吉水の)林に身を隠していた富山は、豪胆な性格からか『怯夫衆ヲ頼ム、何ゾ孤剣来リテ勝負ヲ決セザル』と咆哮(ほうこう)し、追手の前に刀を抜いて踊り出た。追手の何人かを傷つけながら戦ったが多勢に無勢、如何ともしがたく、不覚にも誤って深田に転落、足を取られ、身動き出来ないところを50数か所を槍で滅多刺しにされ、泥と血にまみれ、無念の死を遂げた。」と記し、「富山の最期の地『臭生水坂』を昨年5月29日『富山弥兵衛勉強会』で山田燃料店社長山田寛一氏の案内で訪れた。現在は杉林となっているが、当時の様子を偲び、富山弥兵衛の奮戦を重ねて感慨深いものを感じた。」「今の日本の繁栄の礎となった若き獅子達が、血と汗を流して時代を切り開いた事をもう一度考えてみる機会にして頂ければ幸いである。」と結んでいる。

【さ】
最後の聖域鵜川(さいごのせいいきうかわ)
柏崎青年会議所が柏崎市女谷の綾子舞会館前(旧鵜川小)に設置したまちしるべ。「ここ鵜川地区は、水源の里であり、天領の地でもありました。黒姫山、兜巾山、尾神岳のブナ林から流れ出た豊富できれいな水のおかげで、ゲンジボタルやハッチョウトンボ、ミズバショウやリュウキンカなどの貴重な動植物が生き、四季折々のすばらしい自然の景観を残し、最後の聖域(サンクチュアリ)を形成しています。」と説明するとともに「古歌舞伎の源流として日本の宝になっている綾子舞は、この聖域の磁力によって引き寄せられ、大切に守られてきたのではないでしょうか。」と投げかけている。近くには冬季の積雪量観測を行う「雪尺」が立っており、豪雪時に観測担当者は向かいの鵜川体験の里ほたるの2階に上がって数字を確認する。最大目盛りは4・5メートル。まちしるべは雪に埋もれるが通年営業の綾子舞会館への通路は定期的に除雪され「雪の壁」がそそり立つ。鵜川ならではの光景の一つ。

逆川(さかさがわ)
柏崎市青海川にある小川。国道8号(旧北国街道米山三里)の大改修でその俤は失われたが、柏崎フィッシャーマンズケープ駐車場から草むらの中を下ったところに河口がある。地図に表記されないことが多いが「境川」とも呼ばれたように歴史上は刈羽郡と頸城郡の郡境であり、寛保元(1741)年以降は柏崎を支配した白河(後に桑名)藩と高田藩領の境となり、ここで佐渡からの金荷の受け渡しが行われた。「鉢崎関所勤め方日記」(竹村市之丞、1853年)には「正午過ぎ頃、遠見の者が坂の上から大声で『御金荷の一行が見えた』と報告してきたので、すぐさま行列を仕立て、御領分の境川迄行ったところ、早くも御金荷が到着していたので、先例の通り小頭与八郎は御金荷を大声で一々勘定して受け取った。(略)御金荷十六駄は先触れの通り異常なかったので、すぐさま御金荷の前後へ郷足軽を二人づつ、警固として付添わす事を命じた。」(7月15日、米山地区コミュニティ振興協議会刊行の抄本による)といった記録が残る。なお、慶長2(1597)年の越後国頸城郡絵図では「頸城苅羽郡境さかしま川」と表記される。

座頭トーク(ざがしらとーく)
綾子舞には高原田、下野の両座元があり、それぞれ座頭が率いる。座頭トークは綾子舞ユネスコ無形文化遺産登録報告会(2022年12月25日、柏崎市産業文化会館)で初めて行われ、高原田綾子舞保存会長・猪俣義行と下野綾子舞保存会長・関一重が対談した。内容を深めるため、現状や課題などを追加収録(2023年8月5日、同11日、綾子舞会館)し、2024年に発行された登録記念誌「AYAKOMAI 世界へ」に掲載された。「綾子舞との出会い」「楽しさと使命感」「伝承上の課題は…」「復活狂言と囃子方育成」「ユネスコ効果いかに」「困難な時代あった」「綾子舞の柔軟さ」「民主主義と気配り」「綾子舞は安泰か?」からなり、「綾子舞伝承にあたっては、その入り口として新道小学校、南中学校での伝承学習が大きな役割を担ってきましたが、少子化の急速な進展に伴い非常に良いムードで進んできた伝承学習は今後どうなっていくのでしょうか。正直言って心配。さらに地域の理解、学校の理解が必要で、伝承学習がスムーズに継承、発展するよう努力していきたいと考えています。」(関会長)、「20歳代から30歳代の綾子舞(小歌踊)も見てみたい、という声も聞きます。そのことで、綾子舞の豊かさをひろげていけるのではないでしょうか。現在抱えている囃子方の人材不足に、ユネスコ登録効果の良い波を生かしながら抜本的解消を図るのが大きいですね。」(猪俣会長)との言葉で結んでいる。

朔太郎が撮影した写真に見る人物像(さくたろうがさつえいしたしゃしんにみるじんぶつぞう)
多摩美術大学教授・萩原朔美(映像作家、演出家)が2014年にドナルド・キーン・センター柏崎で行った講演。萩原は詩歌を楽しむ柏崎・刈羽の会が進めている祖父・朔太郎の詩碑建立を応援するため来柏、ドナルド・キーン・センターで開催中の特別展で祖父に関する展示を見学した後、講演を行った。萩原は祖父・朔太郎が、前橋や東京、京都で撮影した写真を見比べながらその心境を推理、「祖父はステレオ写真(今で言う3D写真)にも挑戦した人だが、どの写真を見ても人がいない。なぜ、風景だけなのか。廃墟をテーマにした写真もある。記録写真、芸術写真ではなく、自分の心の郷愁、内面を写したのではないか。風景は舞台装置であり、この人はさびしかったんだろうな、ということを感じる。」とし「朔太郎の撮影した同じ風景を撮影しに前橋に行った。風景の激変に驚くと共に、親戚のほとんどは医者、ということを聞いてびっくりした。祖父は結果的には、詩史に名を残し、教科書に載るほどの存在となったが、生きていた当時は(医者だった親から後を継ぐように嘱望されながら)医者になれなくてウロウロしていた人。異端者としての寂しさだったのでは…」と述べた。またキーン・センターに展示されるドナルド・キーンと三島由紀夫の深い交流をふまえ「寺山修司の天井桟敷の芝居に出演した際、三島由紀夫が舞台を見に来てくれていて、楽屋で台詞についての細かいダメ出しをもらった。」とのエピソードを披露し会場を沸かせた。講演の模様は柏新時報2014年10月13日号「祖父・朔太郎を語る」として掲載された。

太宰治と「新佐渡情話」(だざいおさむと「しんさどじょうわ」)
太宰治の「弱者の糧」(1941年)に「五年前、千葉県船橋の映画館で『新佐渡情話』という時代劇を見たが、ひどく泣いた。翌る朝、目がさめて、その映画を思い出したら、嗚咽が出た。」との記述がある。「新佐渡情話」は、柏崎の伝説を原話とした寿々木米若「佐渡情話」の大ヒットに便乗して作られた1936年の浪曲映画だが「お光」も「吾作」も出てこない全くの別物。太宰自身「どうせ、批評家に言わせると、大愚作なのだろうが…」と言っているが、なにが琴線に触れたのか。ところで太宰は芭蕉を通じて佐渡に強い興味、関心を持っていたようで、1940年の旧制新潟高校での講演の翌日佐渡に渡り、その印象を「佐渡」(1941年)に書いている。「佐渡は、淋しいところだと聞いている。死ぬほど淋しいところだと聞いている。」とし、「死ぬほど淋しいところ。それが、よかった。」「眼が冴えてしまって、なかなか眠られなかった。謂わば、『死ぬほど淋しいところ』の酷烈な孤独感をやっと捕えた。おいしいものではなかった。やりきれないものであった。けれども、これが欲しくて佐渡までやって来たのではないか。うんと味わえ。もっと味わえ。」と繰り返し強調している。佐渡の先入観として抱いていた「死ぬほど淋しいところ」を確かめたかったようである。太宰の友人でもあった亀井勝一郎は1950年の「佐渡が島」で「銀河序」(本朝文選バージョンのようだ)を引用しながら「絶海の孤島、流人の島、死ぬほど淋しいところ、そういう観念をもって眺めていたようである。現実の佐渡よりも、芭蕉の『銀河序』を通してみた幻の佐渡の影響を私はつよく受けていたらしい。」「凄絶な寂寥感をもったこの文章が、佐渡の遠望を決定してしまったと言ってよい。荒涼たる夜の日本海の描写が、佐渡そのものの生命にまで枠をはめてしまったとも言える。芸術の力は恐ろしい。描かれた風景に、現実の風景が従うのである。芭蕉は行きずりの旅人だ。ある季節のある時間に限定されているが、『荒海や』の一句は人口に膾炙し、我々の裡なる『まだ見ぬ佐渡』は、芭蕉を模倣するに至ったのである。」と詳細に解説。つまり「死ぬほど淋しいところ」という太宰の大げさな先入観の正体は「銀河序」に起因したものではなかったか。この一方で同年の「みみずく通信」で太宰は「荒海や佐渡に、と口ずさんだ芭蕉の傷心もわかるような気が致しましたが、あのじいさん案外ずるい人だから、宿で寝ころんで気楽に歌っていたのかも知れない。うっかり信じられません。」とコミカルな表現も。

作曲者幾尾純氏について-柏崎小学校校歌論考(さっきょくしゃいくおじゅんしについて-かしわざきしょうがっこうこうかろんこう)
柏崎市立柏崎小学校校長の河合三喜雄が1993年に発表した論考。これまで同校校歌作曲者の幾尾純については資料や記録がなく、その業績や人となりは不明とされていた。創立120周年記念事業で校歌CDを作成するのにあわせ、河合校長が「作曲者について何としても解明したい」と調査に手を尽くし、その成果をまとめた。論考によれば「幾尾純氏は明治17年生まれ、福岡県柳川市伝習館中卒、東京音楽学校卒(現・東京芸大)。東京の茅場小学校に一時勤務後、明治44年奈良女子高等師範学校附属小学校創設と同時に、訓導として昭和16年7月逝去されるまで30年間、附属高等女学校を兼務、さらに奈良商業学校にも兼務された。」「日本の音楽教育の先駆者であり、この道一筋に、この間、学習指導法や指揮法等、『タクト教授とその要領』『略譜全廃論に対して』等かなりの著書がある。大正時代から昭和初期にかけて邁進され、各地の校歌作曲等数多く立派な作品があり、専門家の間では名を知られた業績を残した人である。」とした。また奈良女子高等師範学校附属小学校(現奈良女子大附属小学校)について「日本全国から選ばれた優秀な教官が集まって、教育研究に打ち込んでいる附属実験学校でもある。」と説明したうえで、校歌制定当時の第19代校長・小林三郎と幾尾は奈良附属時代の同僚であり「小林校長は、かっての同僚であった幾尾氏に作曲を依頼されたことは明らかで、伝え聞くところによると、幾尾氏は何度か柏崎の地を訪れ、海釣を楽しまれたり盃を交わしながら、奈良附属時代の思いで話に花を咲かせ旧交をあたためたという。」とまとめている。河合校長は「調べれば調べる程、すばらしい業績を残した偉人であることがわかった。このような校歌を歌い継ぐ子どもたちも幸せで、改めて誇りに思う。120周年という節目に意義ある発見となった。」と話している。

佐藤伸夫画集2001(さとうのぶおがしゅう2001)
「佐藤伸夫半世紀展」にあわせて出版された画集。油彩、水彩など150点、別冊のデザイン・スケッチ集には31点を収録。佐藤伸夫は自筆メッセージ「大きなキャンバス」で「浜辺の砂の温もりがおさまるころの夕日/雨降り前に漂よう不思議な風の匂い/そして/幼い頃に歩いた海の見える坂道の風景/身近なところを遊び回ったその体験が/私の大きなキャンバス/私の絵画への思いは/そんなところから培われてきたのか/ドキドキ感とかワクワク感が私に絵を描かせる」と書き「2001年をむかえ私が半世紀の間に描きためた作品(私の分身)を画集にまとめました。(略)心からなる感謝を込めて」と謝意を表している。佐藤は半世紀を振り返りながら「幼い頃見た夕日を描きたくて、夕日を二年がかりで仕上げた。その絵を、昭和47年に柏崎市美術展に期待を込めて出品し、初入選を果たした。あの感動は今でも忘れない。私にも何かが出来るという力強い予感すら感じた。」(「落日」の始まり)、「『その場の空気を、風を、気温を、香りを、そして見えない物を感じ取る』という観察の本質に気付くのは、ずっと後になってからだった。キャンバスに描き込む前にスケッチの線描をたどると、その『時』が『時間』が蘇る。それを自分の体温で温め育て描き込む楽しい作業が私の仕事となり宝物となった。」(室星董道先生との出会い)などと書いている。2014年には佐藤伸夫美術館(国立病院機構新潟病院内)開館を記念した「佐藤伸夫画集2014」が出版されている。

佐藤伸夫・恒夫二人三脚展(さとうのぶお・つねおににんさんきゃくてん)
柏崎市鯨波在住の画家・佐藤伸夫とその兄・恒夫による二人展。2017年9月13日から18日まで柏崎市文化会館アルフォーレマルチホールで開催された。佐藤伸夫は室星董道画伯に師事、筋ジストロフィー症と闘いながら制作を続けており、2015年の柏崎市展洋画部門で市展賞を受賞した。恒夫は弟の制作を手伝うなかで絵を描き始め、競い合い励まし合う良きライバルに。応援隊のボランティア25人が開催準備にあたり、約200点を展示した。会期初日(9月13日)には、この日に合わせて体調を整えたという伸夫が会場を訪れ即興で制作を行い「たくさんの人に見に来てもらって、今日はまるでお祭りのよう。賑やかさと感謝の気持ちを表現しました。」と述べた。病気の進行により握力が弱っている伸夫は、指にクレパスをマジックテープで巻き付け、スケッチブックをスタッフに動かしてもらいながら描いており、来場のファンに「描くことは生きること」の思いを伝えていた。

佐藤伸夫半世紀展(さとうのぶおはんせいきてん)
柏崎市鯨波在住で筋ジストロフィーと闘いながら創作を続ける画家・佐藤伸夫の50歳を記念し、2001年10月に柏崎市市民プラザで開催された個展。佐藤は1950年生まれで、子どもの頃に筋ジストロフィーと診断され、闘病を続けながら「生きる証」として大好きな絵を描き続けてきた。本格的に油絵を始めたのは車椅子での生活が主体になった中学1年の時、その後様々な壁にぶつかりながらも心象から具象、水彩画へと画風を変え、柏崎市展や新潟県展での入賞、入選を果たした。半世紀展は、佐藤を支えてきたボランティアスタッフが中心となって「車椅子上で制作を続けているノブさんの50歳という区切りであり、これからもがんばって生き、生の証明として絵を描き続けてほしい」との願いをこめ開催された。出品点数は約200点で「なかには習作のようなものもあるが、とにかく私が生きてきた全てを見てもらいたいということで選んだ。壁にぶつかったり、葛藤したりした時期の作品も見ていただければ…」(佐藤)とし、水彩、油彩、素描、スケッチなどを年代順に展示した。会場で佐藤は「へこたれそうな場面も何度かあったが、そのたびに仲間たちに励まされて、絵を続ける原動力にもなった。皆さんに支えられた絵、ということになる。私の絵に関わってくれた全ての皆さんの思いに満ちた半世紀展になった。」と喜びを語った。代表世話人を務めた田村孝医師も「筋ジスという病気は20代や30代で悪化してしまうケースが多く、50歳まで元気でいるということは奇跡に近い。自分のために描き続ける絵があり、それを支える仲間があり、そういったことが伸夫君を刺激し続けてきたのではないか。悩んでいる場面も見たが、よく描いたなあ、と改めて会場を見回した。」と目を細めた。開催にあわせ、150点の作品を収めた「佐藤伸夫画集2001」を出版。半世紀展会場の風景や雰囲気は別項(暖かな気持ちに包まれ)参照。

佐渡金荷通行(さどかねにつうこう)
鉢崎関所の関所奉行竹村市之丞による私的日記『鉢崎関所勤め方日記』は、史料不足でこれまで未解明だった佐渡金荷通行の全容を明らかにした。日記の構成を分析した新沢佳大(「竹村市之丞の『鉢崎関所勤め方日記』-翻刻と読み下しを終えて」)によれば①先触と高田藩②青海川・笠島両村への通達③御金迎え④境川の金荷受取り⑤御絵府と関所⑥御金蔵へ収納⑦高田藩の対応からなる。『鉢崎関所勤め方日記』抄本(米山地区コミュニティ振興協議会、2008年)では「佐渡金荷通行と関所」として各場面をわかりやすく抄訳、「正午過ぎ頃、遠見の者が坂の上から大声で『御金荷の一行が見えた』と報告してきたので、すぐさま行列を仕立て、御領分の境川迄行ったところ、早くも御金荷が到着していたので、先例の通り小頭与八郎は御金荷を大声で一々勘定して受け取った。この勘定中、我等は挟み箱に腰掛けて待っていた。尤も与八郎は我等と向い合って勘定していた。但し、御金荷十六駄は先触れの通り異常なかったので、すぐさま御金荷の前後へ郷足軽を二人づつ、警固として付添わす事を命じた(略)「ここに御金荷十六駄を御渡し致しました』と挨拶があったので、当方も「たしかに受け取りました』と挨拶して引上げて来た。」(境川の金荷受取り)、「午後二時過頃、御関所前まで無事警固して到着したので一先ず帰宅した。但し、御金はすぐさま御金蔵へ下ろして納めた。(略)御関所前午後二時過頃、御金が通行したとき、当番の伊藤友八は羽織袴を着用し、御足軽三人の内二人は御紋付のお貸羽織、一人は無紋縞のお貸羽織とそれぞれ自分所有の袴を着用して、御絵府(徳川の三つ葉葵)に下座して敬意を表した。」(御絵府と関所)、「宰領の方々は御金荷の確認のため、御金蔵の前に移動したので我等は、宰領の方々が確認している間、挟み箱に腰掛けて待っていた。御金荷の確認が終わり、封印の上、御蔵へ格納して戻られたので、我等もなお進み出て、御金荷は相違なく受け取り格納した旨を申し上げ…」(御金蔵へ収納)等で、全般的に「先例の通り」と記されていることが多く、緊張、厳重のなかにも、マニュアルが細かく踏襲され、これに従って進行したことがわかる。また、高田藩の代表として人足、道具の借り物をしながら威厳を示そうとする姿が「我等は、先例の通り御金迎えとして、御領分境の青海川迄、御貸し人菅井定之丞、鈴木梅吉の両人と郷足軽5人、槍持ち1人、挟み箱持ち1人、合羽籠持ち1人、草履取り1人を召し連れて、今日午前7時過ぎ頃、関所の御門外から駕籠に乗って参上した。但し、騎馬鞭を持参したことは当然である。」と描かれ、「召し連れて来た人足達は、それぞれ持参の弁当である。この様なことから、酒二升を茶屋から買って人足たちへ与えた。」との気遣いも。

佐渡情話(さどじょうわ)
寿々木米若による浪曲で、1931年にビクターからレコードが発売され一世を風靡した。原話は柏崎の「お弁藤吉ものがたり」だが、「佐渡情話」ではお光のたらい舟は難破せず、吾作との子・吾一の母親となり、吾作は約束通りお光を迎えに来る好青年として描かれる。米若自身「子供の頃、伝説に柏崎の漁師が佐渡の小木沖合いに難船して助けられ、島の娘と恋に落ち、娘は夜な夜な盥舟で柏崎に通って来る。あまりに頻繁に来るので男がこわくなり荒神様の常夜燈を消した。娘は方向を見失ない遂に海の藻屑となった。娘は男の身体に蛇体となってからみ付き男を絞め殺した。と、いう伝説を思い出してそれをモットーにして筋書を綴ってみた。」(『稲の花』)と回想している通りで、浪曲研究家の芝清之は「米若は新潟にいた頃に父から聞されていた漁師と村の娘の民話を想い出し、それに当時流行っていた『佐渡おけさ』を挿入して、妻と相談の上、男の名を『吾作』娘の名を『お光』と決めて、一夜作りで台本を書き上げ、節づくりをして翌日吹込みを行ったのだという。」(日本浪曲大全集)と補足している。クライマックスは「狂女お光」を「之から先きの介抱は、愛の力の一筋に、治して見せるよ必ずに、なげきかなしむ其の折りに」通りがかった佐渡流罪中の日蓮が救済する場面で、日蓮が題目を唱えると「海上はるかに法華経の七字題目」が出現し、お光が「正気の人」に戻り、柏崎の吾作の許に嫁入りしハッピーエンド、「波は昔に変らねど、いつしか過ぎし七百年。古き昔の夢のあと、黄金花咲く佐渡島、語りつたへて佐渡情話。」と名調子で結ぶ。その後、横恋慕した七之助の凋落した姿とお光吾作夫婦の再会を柏崎を舞台に描いた「七年後の佐渡情話」、お光吾作とは全く無関係の「新佐渡情話」が作られた。なお映画の「佐渡情話」(1934年)、「新佐渡情話」(1936年)、哲学者村田豊秋による「小説佐渡情話」(1935年)も作られている。太宰治が映画「新佐渡情話」を見て「ひどく泣いた」というのも有名な話。全国的に「佐渡情話」ブームだったのは確かなようで、「柏崎」の知名度も上がっていた時期ではないか。草創期の柏崎観光協会が与謝野晶子歌碑「たらひ舟荒海もこゆうたがはず番神堂の灯(ほ)かげ頼めば」建立に向け動いたのも当然と言える。寿々木米若の『稲の花』については別項。映画佐渡情話、小説佐渡情話についても別項。

里で舞う―綾子舞500年の誇り(さとでまう-あやこまい500ねんのほこり)
日本各地の多様な祭り文化を紹介、応援するヒューマンドキュメンタリー番組「ダイドーグループ日本の祭り」としてNST新潟総合テレビが制作、2021年11月27日に放送された。同年は新型コロナウイルスの影響を受け、恒例の綾子舞現地公開が動画配信のみとなった異例の年で、人口減少や少子化に加えコロナ禍という新たな困難に直面するなか「綾子舞の後継者育成」に焦点を当て、共に柏崎高校に在学する九里多映(下野座元)、高橋優哉(高原田座元)という2人の若手伝承者に注目しその懸命な精進の様子、それを取り巻く座元指導者、女谷の風土を紹介。「綾子舞を無くしたならば、鵜川の歴史が消えてしまうくらいの認識を持っている。綾子舞だけは放すことはできない。」(柏崎市綾子舞保存振興会・茂田井信彦会長)といった強い危機感も表現された。後半は、現地公開動画配信に向けた綾子舞会館での撮影風景に密着、若手伝承者の九里は堺踊を披露し「綾子舞ができることに嬉しさを感じる。一生綾子舞と生きていく。稽古を重ね扇に体が導かれる、という境地を目指していく。」、高橋は海老すくいと肴さし舞を演じ「課題が見つかったので、これからもっと完璧にしていきたい。継承することがとても難しい状況だが、自分を含め若者が綾子舞を守っていけたらと思う。」と述べた。ナレーションは柏崎市出身の杉山萌奈アナウンサーが担当、「若い世代にも綾子舞の心が浸透しています」(伝承学習の場面で)などの解説も好評だった。

佐之久の道祖神(さのきゅうのどうそじん)
柏崎市善根(柏崎市上下水道局佐之久ポンプ場前)には2基の双体道祖神が立派な祠に祀られ、縁結びの伝説が伝わる。「昔、『阿部さん』の家と『ののみやさん』の家の男女が相思相愛の仲となった。結ばれぬ恋と知りつつも二人の仲は深まるばかり。この道祖神が縁結びの神様と知り願をかけた。その甲斐あってか二人は結ばれた。そして、二人は願い成就の時はもう一体おまつりするという約束を守ってここに道祖神をたてた。」(『中鯖石地区の石仏と伝承』、1997年)というもので、現在の祠は1982年両家の寄進によって建てられた。2基とも肩組祝言像で、左の道祖神には「当村」「作七」の銘がある。新潟県石仏の会会長の石田哲弥は2基の道祖神に「女陰」の隠し彫りがあると指摘、「県民性だろうか長野県の道祖神に比べおとなしい感じがするが、その反面さりげない所に意味深長な部分が見え隠れするのが特徴。女陰の隠し彫りは男女の和合を表現したもの。」(2000年開催のシンポジウム「新潟県の道祖神信仰の諸相」で)としている。

佐橋神社(さはしじんじゃ)
柏崎市南条。越後毛利、南条毛利の館跡だったが、1598年南条毛利氏の会津移転により廃城。所有者の旧家関家が荒廃を防ぐため1683年に神明宮を建立、保護に努め、1865年に佐橋神社と改名。周辺には古屋敷、長者屋敷などの古名が残っている。1943年渡辺世祐(東京大学史料編纂所史料編纂官、同講師、明治大学文学部長、『毛利元就卿伝』『小早川隆景』著者)の来村調査で「現佐橋神社の境内地及びその付近一円を館跡と認定した」(ふるさと北条ものがたり)とされ、「渡辺博士の言に依れば鎌倉時代の館地として最も好条件に恵まれ、毛利氏一族の吉川、小早川両家の館跡に類似している」(同)としている。

三階節に歌われた心中事件(さんがいぶしにうたわれたしんじゅうじけん)
三階節の歌詞「梅も桜も散り果てた五宅五宅の玉菊桜井良さと心中した」は天保13(1842)年の心中事件を題材にした。下句が「桜井良さとついはてた」も。玉菊は遊行小路(現在の柏崎市西本町3)にあった遊郭・五宅楼の売れっ子遊女で「悪田新田かごやの娘」(柏崎文庫)と伝わる。美男子で知られた中町(西本町2)の糀屋・桜井良助と道ならぬ仲となり、3月27日西光寺(大久保1)下の鵜川鐘が淵で入水情死した。桜井良助は32歳で2人の子どもがあったという。この心中事件は全国的にも有名になり、柏崎文庫には「舞桜恋の枯菊」(口説き)、「五宅玉菊桜井良助児手柏夢の浮橋」(常磐津)などの題材にもなったと記されている。西光寺の鐘が沈んでいるとされる鐘が淵は変死自殺者の多い「魔の淵」として恐れられ、柏崎市伝説集(1972年、柏崎市教育委員会)では「晴れた日この淵をよくみると沈んだ鐘が見えるという。」「西光寺の何代目かの住職が、経文や過去帳をもってこの淵に入水自殺した。」と付記している。

三階節に歌われた難所(さんがいぶしにうたわれたなんしょ)
三階節の歌詞には「A」から「B」に行きたいが「C」(という難所や障壁となるものが邪魔して行けないので)なきゃよかろ、というパターンが多い。最も有名なのが「柏崎から椎谷まであいに荒浜あら砂悪田の渡しがなきゃよかろ」で、類歌としては「柏崎から高田まであいに米山峠や鉢崎番所がなかよかろ」「柏崎から加州まであいに山下駒返り親子知らずがなかよかろ」等が上げられる。さらに「A」を別の地名にした「折居餅粮や女谷あいに安常峠や長原沖がなけりゃよい」(折居、餅粮、女谷ともに柏崎市鵜川地区の地名)、「十日町から千手まであいに千隈の大川孫左衛門(まごぜん)渡しがなかよかろ」(千隈は千曲、千隈の大川は信濃川のこと)、「十日町から上田まであいに栃窪峠や三里のつなぎがなかよかろ」(上田は現在の南魚沼市)、「千手町と伊勢平治あいに機屋の山坂木嶋の橋がなかよかろ」(千手町、伊勢平治ともに旧川西町の地名)などがある。「C」を漁場とした「これから小佐渡まであいにあいのめがんじきなかのめ大魚場がなかよかろ」、さらに夜這いを連想させる「姉さの寝間へ忍べどもあいに唐紙障子やお父っつぁんのお寝間がなかよかろ」、意味深な「右りももから左ももあいに核やま峠や毛穴の番所がなかよかろ」、柏崎の色町を舞台にした「長谷川三町や傾城町もちいとちょこちょこ下れば茂平次の小路がなかよかろ」も。これらは難所と言えるのかどうか。

三階節の歌詞は193番(さんがいぶしのかしは193ばん)
1973年に柏崎市中央公民館図書刊行会が刊行した小冊子『三階節』には、三階節の原歌とされる「しげさしげさとこえにしやる、しげさ、しげさの御勧化山坂越えても参りたや」を始め193番の歌詞が集録される。柏崎の地名や人名にちなんだ時事ネタ、風俗や風刺、男女の機微に関する物など実に多彩だ。柏崎三階節サミット(1993年)で講演を行った柏崎民謡保存会の横村英雄は「三階節の特徴は返し歌。歌い手と踊り手がキャッチボールをする全国でも例のない民謡。そのため(193番から)分かりやすい歌詞、親しみやすい歌詞5番ほどを選んで歌っている。聞き慣れた歌詞でないと返しがこないからだ。」としたうえで「それにしても一つの歌(民謡)に193の歌詞があるのは普通考えられない。柏崎刈羽の広い地域で、近郷近在の歌い手が思いつくまま歌ったものだろう。何かの時、募集したものもあったのではないか。」と分析した。大正時代の郷土史家・関甲子次郎は『柏崎文庫』8巻に自作の8番を含む120番の歌詞を載せている。小冊子『三階節』との重複もあるが、ここに載っていない歌詞もあり、途中で消えてしまった歌詞も数多いのではないかと考えられる。なお、柏崎ぎおんまつり民謡街頭流しでは通常「米山さんから雲が出た いまに 夕立がくるやら ピッカラ チャッカラ ドンガラリンと音がする」「柏崎から椎谷まで あいに 荒浜荒砂悪田の わたしがなかよかろ」「明けたよ夜があけた 寺の 鐘うつ坊主や お前のおかげで夜があけた」「可愛がられた竹の子が 今じゃ 切られて割られて 桶のたがに掛けられて締められた」「ちょうちょ とんぼやきりぎりす お山 お山で囀る 松虫 鈴虫 くつわ虫」が唄われる。

「三階節発祥の地」碑(「さんがいぶしはっしょうのち」ひ)
1993年に柏崎アクアパーク正面広場に建立された。三階節発祥の地としての柏崎の名を後世に残すとともに、改めて全国に発信しようと柏崎ライオンズクラブが35周年記念事業として建立した。高さ2メートル。碑面には「米山さんから/雲が出たいまに/夕立がくるやら/ピッカラチャッカラドンガラリンと/音がする」が刻まれる。揮ごうは柏崎市野田の須田雲翠。なお、三階節関係では真宗大谷派専福寺(柏崎市東本町1)に「三階節発祥ゆかりの寺」碑がある。

三階節漫談(さんがいぶしまんだん)
郷土史研究家の桑山太市が新潟県民俗学会の「高志路」224号(1972年)に発表した論考。三階節がルーツとされる隠岐しげさ節を実地調査した結果を柏崎人の視点から書いており貴重。桑山は「隠岐のしげさ節と柏崎の三階節の歌詞から、字音数を調べてみると、民謡の定型は七七七五-26文字であるがしげさ節も三階節も変形である。(字音数の分析を別表で示し)ご覧の通り、この二ツは、同じ形態にあり兄弟かと思われる。」「酒田の民謡米大舟が、直江津の八千浦に遺り、九州地方のハンヤ節が、佐渡や越後に伝播したように、このしげさ節もまた、海を渡り、船頭衆によって、移植されたものではないかと愚考したのである。」と推理のうえ実際に隠岐を訪問、その結果「柏崎の三階節と隠岐のしげさ節とは、同形であることがわかりました。三味線は、何れも三下がり、文句も同じものが随分沢山あります。柏崎と隠岐とはテニヲハの違い、音便の違い、固有名詞の違い位のものです」として、この例として「蝶々とんぼやきりぎりすお山お山で囀づる松虫鈴虫くつわ虫」(三階節)、「蝶やとんぼやきりぎりすお山お山さんで鳴くのは鈴虫松虫くつわ虫」(隠岐しげさ節)をあげている。

山海見立相撲 越後亀割峠(さんかいみたてずもう えちごかめわりとうげ)
歌川広重が米山三里の難所・亀割坂(柏崎市上輪、上輪新田)の風景を描いた『山海見立相撲』の一枚、1858年作。26・5センチ×36・2センチ。柏崎市立博物館が入手し2012年に柏崎ふるさと人物館で開催された「描かれた≪ふるさと≫-古絵図にみる近世の柏崎」で初公開した。『山海見立相撲』は広重最晩年の作で、10か国の海山の名所20か所を相撲に見立てて紹介した多色刷り版画シリーズ、構成は別項の通り。山は急峻に苦しむ旅人と奇趣、これに対して海はのどかさの中に船舶が描かれ対比される。右肩にあるタイトルは相撲の行司が用いる軍配の形をしているのが特徴。「越後亀割峠」は急峻な坂の様子をデフォルメしながら表現すると共に「弁慶の力餅」が名物だった茶屋が描かれ、空と眼下の海に広重の特徴である「ヒロシゲ・ブルー」の美しい藍色が広がる。柏崎市立博物館の渡邉三四一学芸員は「江戸から相当離れた一寒村が、このように日本を代表する画家のテーマになるのは珍しいが、米山三里、亀割坂が全国的に知られていたのではないか。」としたうえで「広重は様々な資料を見ながら想像で描いたのではないか。実際に現地には来ていないと思う。親鸞聖人の旧跡を辿る『二十四輩順拝図会』(1803)の亀割坂と構図がよく似ているので、元資料の一つである可能性が高い。」と分析している。なお1920年初版の『A Guide to JAPANESE PRINTS and Their Subject Matter』(邦題・浮世絵ガイドそしてその主題 274の挿図とともに、バジル・スチュワート)で「Kamewari Hill, Echigo Province. Considered one of the best plates in the series. View of a winding road round a narrow inlet, leading up through the mountains, which rise sheer up from the water; a rest-house at a bend in the road along which travellers are passing.」と紹介されている。▽『山海見立相撲』の構成=摂津有馬山・拙津安治川口、相模大山・相模浦賀、安房清住山・安房小湊、上総鹿楚山・上総木更津、越前湯ノ尾峠・越前三国、越中立山・越中古国府湊、越後亀割峠・越後新潟、播磨龍山・播磨室の津、備前偸賀山・備前田ノ口、讃岐象頭山・讃岐丸亀(いずれも山・海の順)

産業遺産としての赤れんが棟(さんぎょういさんとしてのあかれんがとう)
赤れんがを愛する会主催の連続講座(2005年)で株式会社グリーンシグマ常務の山崎完一が行った講演。山崎は飯塚邸の修復やギャラリー十三代目長兵衛の国有形文化財登録に尽力、第四銀行住吉町支店(新潟市)の移築保存を成功させたことでも知られる。山崎は旧日石加工柏崎工場のれんが棟について「わが国第一級の産業遺産である。とんでもないほどの価値を持つ文化財との認識をもつべき。」とした上で、「保存への取り組みが遅れたため、ドラム缶塗装場1棟のみの保存※という結果になり、返す返すも残念だが、たとえ1棟でも残すことに大きな意義がある。柏崎市の経済、市民生活に多大な影響を与えた産業遺産であり、何としても守ってほしい。柏崎のシンボルの一つとして、外から訪れる人や観光客に新鮮な感動をもたらすはずだ。」「柏崎ではこのような動きは初めてであり、これを機会に市内全域(の遺産)を見つめ直してはどうか。保存はそうそう成功するものではない。全国的にみても成功例は約1割、しかも時間がかかる。第四銀行住吉町支店の際は13年かかった。」と述べた。※中越沖地震で倒壊し解体、一部を「近代石油産業発祥の地」記念碑台座に活用

三堰完工記念行事絵図(さんせきかんこうきねんぎょうじえず)
1853年、藤井堰の大堰を二分し、小堰と合わせ三堰にした際の工事風景図で、工事が完了し不要となった仮設の堰を埋め戻すため赤いはちまきとふんどし姿で大勢の作業者が采配に従って水をせき止め土俵や粗朶を次々と投げ入れる姿や、完成した新堰をひと目見ようと着物姿の観客が集まっている姿などが生き生きと描かれている。「まるでお祭りのような賑わい。土木工事をお祭りのようにしたのは豊臣秀吉からで、その風流(ふりゅう)の伝統を受け継いでいると見られ、非常に興味深い。」(柏崎ふるさと人物館)とのことだ。柏崎土地改良区蔵でふだん見る機会がないが、2012年開催の「描かれた《ふるさと》」展で公開され話題を呼んだ。68センチ×138・5センチ。

3B短歌発表会(さんびーたんかはっぴょうかい)
3年B組金八先生第5シリーズの第10話として1999年放送。小山内美江子脚本で、島秋人の『遺愛集』が取り上げられ反響を呼んだ。クラス全員が短歌を作り合評するという回で、不登校の生徒からEメールで届いた「友を恋い人を恋いてなお死にたき吾れをいかに説き伏せむ(童子)」が最後に残る。金八先生(武田鉄也)は島秋人が強盗殺人を犯した背景などとともに「少年期さかのぼりゆき憶ふ日をはてしなく澄み冬の空あり」、「白き花つけねばならぬ被害者の児に詫び足りず悔いを深めし」「死刑囚となりて思へばいくらでも生きる職業ありと悟(し)りにき」「土ちかき部屋に移され処刑待つひととき温きいのち愛(いと)しむ」の4首を紹介すると、それまで合評で盛り上がっていた3年B組は静まりかえる。金八先生は「昭和42年11月2日、島秋人さんに死刑執行の日が来たが、なお歌を作り続けた。それが、土ちかき…の歌。処刑を待ちながら、自分の体を触ってみる。ああ命って愛おしいな、と思ったんですね。君達はどんなに苦しくても、悲しいことがあっても死という言葉を使ってはならない。島秋人さんの和歌に失礼です。」と語り「『死にたい』などという歌を作ってしまったこの友達を返歌で励ましてほしい。島秋人さんから『いのち愛しむ』の七文字を借りてはどうか。」と呼びかけた。金八先生の朗詠は見事だったが、温き(ぬくき)を「あつき」と読んだため、歌の雰囲気が変わってしまったのは惜しいところ。血気盛んな中学生には「あつき」の方がストレートに通じるとの配慮であったか。吉田好道・絢子夫妻についても「島秋人は刑務所で少年時代にたった一度だけ褒めてくれた人を思い出した。それは中学校の美術の先生だった。刑務所からの手紙に先生は驚きながら返事を書いた。」「先生の奥さんはその手紙に3首を添えた。返事を受け取った島秋人は感激し、刑務所の独房の中で懸命に短歌を作った。」と紹介した。

【し】
詩歌を楽しむ柏崎刈羽の会(しいかをたのしむかしわざきかりわのかい)
柏崎刈羽ゆかりの文学作品を再発見、発信するため、巻口省三、牧岡孝が中心となって2012年4月発足。萩原朔太郎「海水旅館」詩碑建立の中心ともなった。公開例会「詩と音楽を楽しむひととき」に力を入れ、「海水旅館」の地元である鯨波コミセンを皮切りに、コミセン、お寺、集会施設など19回の例会を開催、これによって地域の文学気運も大きく高まった。詩碑建立に関連して、作曲家・團伊玖磨(だんいくま)の歌曲集に「海水旅館(Seaside Inn)」の楽譜を発見、公開例会で地元音楽家が披露し、話題となった。

椎谷馬市記念の碑(しいやうまいちきねんのひ)
柏崎市椎谷の国道352号線ぞいに椎谷藩主の末裔・堀光宗の寄付を受け2013年に建立された記念碑。江戸時代、椎谷の馬市は安芸広島、奥州白河と並んで「日本三大馬市」と呼ばれ、毎年6月24日から7月2日まで開催された。安政年間には8000頭の馬、1万人の関係者で賑わいを見せたが、当時を伝えるものが失われたことから建立、碑面には「史跡日本三大馬市椎谷の馬市蹟」と書かれている。2013年5月11日に除幕式が行われ、寄付者の堀は「椎谷馬市は江戸幕府の草創期を支えた椎谷藩祖・堀直之公の着眼に依って開かれ、日本の三大馬市の一つとして日本全国に椎谷の名を轟かせていた。この記念碑には江戸時代からの、様々な人々の思いが込められている。皆様方が歴史の灯火を消す事無く大切に守ってくれたからと深く感謝する。」とのメッセージを寄せた。

椎谷観音御開帳(しいやかんのんごかいちょう)
椎谷観音堂は弘仁2(811)年の開創で、本尊の正観世音菩薩は、寛永元(1624)年観音堂焼失で行方不明となったが、佐渡の宿根木に子どもとして生まれ変わり、7年後に再び椎谷に戻った伝承から「子授け観音」とも言われている。御開帳は住職一世一回の大行事で、令和のご開帳は2022年5月26日から31日まで6日間行われ、県内外から参拝客が訪れた。当初は2020年に予定されたが、新型コロナウイルス蔓延のため2度も延期され、2022年の開催となった。前回は1984年の御開帳で、38年ぶり。御開帳を記念し仁王門の改修も行われた。期間中、柏崎市文化財の「三十三身仏額」「船絵馬」「絵馬」などが公開された。髙橋教正住職は「コロナ感染の流行により2年の延期を余儀なくされた。お参りも少ないだろうとの声もあったが、毎回本堂に入りきれないほどの方々からお参りいただいた。」と話している。

椎谷観音坂隧道工事(しいやかんのんざかずいどうこうじ)
1936年12月から翌年にかけて行われた手掘りによるトンネル工事。延長は180メートル。新潟県が発注し、総工費5万円で東京の昭和工業株式会社が請け負った。脆い岩盤や水を多く含んだ地層に苦しみながら翌年の8月19日に貫通、仕上げ工事を行っていた所12月2日に突然大崩落が発生し、隧道も大半が失われ、工事はそのまま中断された。椎谷の海中には崩落当時のコンクリートブロック(トンネルの巻き立てに使った)が沈んでいて「拾ってきて船の碇代わりに使った」という話も。机立観音堂跡には昭和工業の代人(現場監督)を務めた鬼頭銀次郎之碑があり「是ノ碑ハ中途挫折セシ椎谷観音坂隧道工事ニ晩年ノ全力ヲ尽クシテ不遇ノ裡ニ他界セシ故人ノ霊ヲ慰メ当時ノ配下伊藤某ノ建ツルモノナリ」と刻まれる。

椎谷観音堂の砲弾跡(しいやかんのんどうのほうだんあと)
椎谷観音堂参道にある香取神社栄寿丸石鳥居(柏崎市文化財)に、椎谷戦争(1868年5月5日)で旧幕府軍と対峙した新政府軍の砲弾跡が残っている。正面右の柱上部の「享和」の文字の上にある「黒いしみ」がそれで、戦争の激しさを今に伝える。天拝山を舞台にした椎谷戦争は、鯨波戦争を敗走した水戸・大森弥左衛門らと出雲崎から進軍の水戸・市川三左衛門らの旧幕府軍計260人と鯨波戦争を勝ち海道沿いに進軍してきた長州、長府、薩摩、加賀からなる新政府軍約1500人が戦った。長州奇兵隊士・武廣遜の『戊辰戦争従軍日記』は「地形悪しき故海岸より山に攀じ登り、それより我隊三十人を以て密に後ろに廻り、賊の根拠直上の山に激当す。賊狼狽して走るもあり。尤も必死の兵二百人ばかり残り、内五十人余り鎗を持つて山に登り突入せんとす。」「追々と進撃してついに大勝利。朝より九つ時(正午)迄の戦争なり。」とリアルに戦況を記録。旧幕府軍は石地方面へと逃げ、久寛荘内に弾痕を残すなどして、長岡方面に転戦した。鳥居は1802年に地元椎谷の栄寿丸の船主、水夫が航海安全を祈念して奉納したもので、長州(現在の山口県)からの帰り荷として船に積んできたものと考えられている。

椎谷岬トンネル(しいやみさきとんねる)
一般国道352号柏崎市椎谷地内、延長886メートルのトンネル。中越沖地震により観音岬で大規模な崩落が発生したことから、新潟県が総工費34億円をかけ完成させた。開通は2010年1月7日で、開通式では地元に伝承される大和舞が披露され、開通パレードを行った。椎谷岬は、強い雨が降る度に土砂災害が発生し、その都度、長い交通止めをしながら災害復旧工事を繰り返してきただけに喜びは大きく、柏崎市長の会田洋は「長年にわたる悲願だった」と語気を強め、県議会議員の三富佳一は「昭和19年には栗原健二医師が土砂崩れに巻き込まれ殉職、昭和11年には手掘りによるトンネル掘削が行われたが、仕上げに入る直前に雨で崩落するなど様々な経過があった。開通を喜ぶとともに、それらを後世に伝えていかなくてはならない」と述べた。

しいや歴史散策(しいやれきしさんさく)
柏崎市が指定しているウオーキングコースの一つ。「みつけよう!!景観と歴史の感動」の副題がある。椎谷ふれあいセンターを起点にしたA(陣屋跡、御膳水、不動堂、仁王門と芭蕉句碑、夕日が丘公園、明治天皇御小休所跡、椎谷の馬市蹟)、B(陣屋跡、椎谷の馬市蹟、仁王門と芭蕉句碑、頓入坊入定窟、栄寿丸石鳥居、椎谷観音堂、同大欅、同宝物殿、香取神社、椎谷鼻灯台、夕日が丘公園、明治天皇御小休所跡)、C(椎谷海浜公園、椎谷層露頭)の3コースで、いずれも所用時間は3時間。「椎谷は、江戸時代初めから明治までの約250年にわたり、椎谷藩堀氏1万石の陣屋が置かれた歴史息づくまちです。椎谷を歩いて感動を見つけましょう」と利用呼びかけ。

四角い夕日(しかくいゆうひ)
米山町内会長の中山博迪が2021年2月28日、米山海岸から撮影に成功した。四角い太陽は南極や北海道の一部などで稀に見られる現象で、空気の温度差によって光が屈折して起こる上位蜃気楼の一種。撮影スポットとして北海道別海町が知られる。当日は朝からよく晴れ、波も立たないような穏やかな海で、夕方にかけ急に気温が下がったという。テトラポット上の海鳥と夕日を撮影していたが、午後5時半頃、太陽が「マッシュルーム型」に変わり始めたことに気づき、夕日に絞り撮影を継続。5時35分頃「四角い夕日」の撮影に成功した。中山は「だるま夕日(下位蜃気楼の一種)はこれまでに何回か撮影しているが、四角い夕日は初めて。冬の間、新潟県を含む日本海側は曇っていることが多かったり、晴れていても水平線の近くに雲が発生していたりして水平線に沈む夕日を見ることはほとんどない。まさか『四角い夕日』に遭遇するとは大変な驚き。北海道の別海町などで観察されると聞きますが、向こうは太平洋側で朝日。本州日本海側で、しかも夕日ということになると大変貴重なのではないかと思う。奇跡に遭遇できた。」と話している。自身のHP「なかやまひろみちPhoto-memory~柏崎からの発信~」で紹介するとともに、柏崎市立博物館で写真展示も行われた。

死刑囚にかけた無償の愛-吉田好道・絢子夫妻の足跡(しけいしゅうにかけたむしょうのあい-よしだよしみち・あやこふさいのそくせき)
元柏崎市教育長の渡辺恒弘が島秋人と吉田好道・絢子夫妻の記憶を書いた特別寄稿で、柏新時報1997年1月1日号に掲載された。渡辺は西山町立内郷中学校で吉田の同僚となり、越後線で共に通勤中に島秋人の話を聞いたという。「昭和36年夏、その日の朝、先生は出張姿で乗り込んで来られ、学校へ寄って、すぐ上京するという。それは弁護士に会って最高裁判所に行く用事で、出張ではなく私用、年休で行くんだといわれた。何で最高裁に?の質問に、先生は今まで学校では話されたことのなかった話を石地駅までの車中で手短かに話されたのだった。」という書き出しで始まり、「西巣鴨一丁目は東京拘置所であり、差出人の中村覚(島秋人の本名)は殺人犯であった。その人は、自分が勤務する一中で美術を担当した教え子だった。(略)なかなか中村を思い出せなかった先生も同僚に聞き、学籍簿を調べるうちに判って来た。」「吉田先生は公私のケジメをきちんとつける人であり、自らは中学校管理職の立場でもあるので、そうそう中村のことだけにかかわっていられないため、具体的なことは、だんだん絢子夫人が代わってやられるようになっていた。」「特高までした父親が、息子の犯した罪で柏崎におられず、三条へ引越し、窓もない倉庫の二階で、ひっそり暮らしている…」など詳細な事情、背景を説明、絢子夫人が小千谷市郊外にある被害者宅を謝罪のために訪問するシーンでは「現在のような除雪体制もなく、先の見えにくい雪道で立ち往生し…」と感動的な無償の愛が描かれる。また「特にリレーの指導には、独特の教授法で選手の素質を伸ばし、県大会・全国大会で輝かしい実績をあげられた。昭和37年、全国中学校低学年女子400米リレーでは全国一の記録を樹立」「本職の絵の方は、多作ではなかったが、堅実な画風で(略)小林市長時代、米山大橋のデザイン、体育団のマーク、西山町の町章など手がけられた」など地元ならではの吉田先生のエピソード紹介も。

しげさのごかんげ
三階節の元唄にまつわる伝承で『柏崎のむかしばなし』(1982年、柏崎青年会議所)所収。「ごかんげ」(御勧化)は仏の教えを説く説教のこと。著者で、柏崎市伝説集の伝説収集委員長を務めた深田信四郎は複数の伝承を子どもたち向けにわかりやすく整理したうえで「柏崎の専福寺にしげさというお説教の上手なお坊さんがいて、村々から頼まれ、説教して歩きました。しげさのごかんげを聞くと、美しい花が咲き競い、美しい鳥たちが鳴き遊ぶ極楽浄土にいるように思われ、仏様のお慈悲深いお心や、人間に生まれてきた幸せがつくづく思われて『ありがたや、ありがたや』と涙を流して、御礼を申し上げるのでした。」と具体的に記述、さらに「しげさは酒が大好きで、ごかんげが終わると、ニコニコしながら酒を飲み、ひょうきんな格好をして踊ったため、村人達は手をたたいて、にぎやかに囃し立てました。酒盛りはいつまでも続きました。こんなわけで、村の人たちはしげさのごかんげを待ちこがれ、隣の村でごかんげがあると聞くと、どんなに山坂が険しかろうが、どんなに遠い村であろうが、年寄りも、若者もお説教を聞きに集まりました」とし「〽しげさしげさとこえにする しげさ しげさのごかんげ 山坂こえても まいりたや」を紹介した。なお「こえ(声)にする」を「こい(恋)にする」とする歌詞も多く、「しげさ」には、専福寺の僧「繁さ」説のほか、「出家さ」の転化説など諸説ある。小冊子『三階節』(1973年、柏崎市中央公民館図書刊行会)編集者の松田政秀はこの元唄について「三がい節の原歌と言われているが、しげさは『出家さ』の転化説と、『繁樹』又『繁丸』の愛称説の三説があり、こえにしやるも柏崎人は『い』と『え』があいまいなので『恋』か『声』か詳かでない。」と解説。専福寺(柏崎市東本町1)に「三階節発祥ゆかりの寺」碑、柏崎青年会議所のまちしるべ「三階節」がある。

治三郎の清水(じさぶろうのしみず)
柏崎市女谷の名水。「新潟県の名水」に選定される柏崎市内5か所のうち、道路沿いにあり、もっともアクセスしやすい。1日の湧出量は約52トン。同清水の知名度を上げたのは、ライフラインが壊滅状態となった中越沖地震(2007年)の際で、口コミで同清水の存在が広まり、タンクを持った市民が行列し、湧出量の豊富さに感謝し、その後も綾子舞風土市などイベントで提供されることが多くなった。柏崎市内から国道353号で鵜川に向かい、女谷で松代方面へ左折せず、県道13号線を安塚方面に直進すると150メートル先にある。

七年後の佐渡情話(しちねんごのさどじょうわ)
寿々木米若「佐渡情話」の続編として1935年にテイチクより発売されたレコード。「佐渡情話」の大ヒット後、テイチクに移籍した米若第一弾として満を持して発売され、前作の雰囲気を踏襲しながら本多哲が台本を書いた。深々と雪が降る柏崎が舞台で「早や七年の歳月に何時しか変わる人の世の奇しき姿は白妙に今日は暮れゆく銀世界ここは越後の柏崎」と幕開け。雪のなかを「素袷一枚」でさ迷うのは衰弱し目が見えなくなった七之助だった。お光吾作夫妻に助けられ「ここまで落ちぶれ果てたのももとは己の心柄、恥ずかしながら今もなお忘れられない初恋に破れたことから自棄になり、金を持ちだし旅の空、悪の限りを尽くしたが…」との独白が涙をさそい、「遙かに遠く番神の、岬の鼻にちらちらと見ゆる灯りは闇の夜に、沖を行き交う旅人が、頼る命の常夜燈」「お薬師様の米山も、小千谷の向こうの高い山も、皆綿帽子を被ったように…」といった風景も歌い込まれる。「島で歌ったあのおけさ、線香代わりに聞かせて下され」という七之助の願いを聞き入れたお光が佐渡おけさを歌い、それを聞きながら七之助が昇天、「哀れも深き雪の夜に魂遠く消えて行く、雪が降る降る柏崎、間近に響く波の音、七年後の佐渡情話」と名調子で結ぶ。前作「佐渡情話」ではお光が柏崎に通うたらい舟を七之助が壊し、そのことがお光が「狂女」となる原因を作ったがお光はそのことを「昔は昔、今は今、矢っ張り故郷の人ですものね」と許す度量の広さを見せる反面、他の柏崎人が冷淡すぎるのは気になる。なお小説「佐渡情話」(1935年)では、七之助は昇天せず、佐渡へ戻り日得上人の弟子になって一生を送ると宣言して終わる。

篠田宗吉顕彰碑(しのだそうきちけんしょうひ)
三階節に歌われた4代目篠田宗吉の顕彰碑「梓人篠田君碑」(梓人は大工棟梁の唐名)は柏崎市西本町3・八坂神社境内に宗吉死去の翌年1904年に建立された。建立者は八坂神社氏子、弟子沢田吉平ら。撰文は居多神社社司の渡辺巌。碑には、中頸城郡柿崎の藍澤彦作の三男として生まれ「良匠」として知られた篠田家に「来り嗣ぎ、箕業を以て志と為し、日夜黽勉(びんべん)として、技術大いに進む」とし、柏崎光円寺、八坂神祠(神社)、番神堂、高田浄興寺蔵骨堂(親鸞聖人本廟)、函館高竜(龍)寺を列挙、「其の他の宮室、台謝は枚挙に遑(いとま)あらざるなり」とし、さらに「往年、東本願寺伽藍を建つるや、天下の名工巨匠を鳩(あつ)め、君を以て班に列ぬ。人以って営と為す。」と称え、また人柄を「君は資性温和、精力人に過絶す。齢、七旬をこえ、作業懈(おこた)らず、少壮の人の如し、平生風流蕭灑(しょうさい)、俳詞を嗜み、時に秀句の人を驚かす有り。」と表現している。(柏崎出身の内山知也筑波大学教授による訳文、『柏崎市指定文化財番神堂とその防災保全について』)。八坂神社は篠田宗吉による名建築(1892年完成)だったが2008年の不審火で焼失、2010年に再建された。

「渋沢栄一と青い目の人形」展(「しぶさわえいいちとあおいめのにんぎょう」てん)
2019年に柏崎コレクションビレッジの痴娯の家(柏崎市青海川)で開催された特別展。1927年に米国から贈られた1万2739体の「青い目の人形」の受け入れに尽力したのは日本資本主義の父といわれ、社会事業でも先駆となった渋沢栄一だった。排日移民法成立(1924年)で日米関係悪化を憂えた渋沢はアメリカのシドニー・ルイス・ギューリック博士による人形交流プロジェクトに賛同、日本国際児童親善会を設立し、12隻の船で日本に到着した人形の歓迎式を盛大に開催(1927年3月3日)、全国各地の小学校、幼稚園などに人形を届けた。特別展では「パリ万国博覧会に幕府使節団の一員としてフランスに渡った渋沢は、ヨーロッパの文明にふれ感銘を受けました。帰国してからはその経験を生かし、500社にのぼる電力、金融、運輸、製造業等の会社設立に尽力し、日本資本主義の父とも呼ばれました。民間外交にも力を入れ、日米親善のための『青い目の人形』の受け取り代表でもありました。展示では渋沢翁の活躍の一端をご紹介します。」(岩下正雄館長)として、処分を免れ生き残った「ミルドレッド」と「シェラブラー」(同館蔵)2体や関係資料を展示、ちょうど渋沢が新しい一万円札の肖像に決まった直後でもあり話題を呼んだ。日本国際児童親善会が発行した「可愛いお人形が親善のお使」には「日本の美しい雛祭のこと、また日本人が子供や家庭を愛することを知り、さうして日本といふ国に親しみを持つようになること」、「米国から沢山の人形を贈つて日本の人形仲間を訪問させ、米国の子供の好意と友情とを伝へるお使をさせることである。」(世界児童親善会の注意書を和訳)との目的が記されており、渋沢とギューリック博士の願いを端的に表現している。「雛祭」というタイミングを提案したのはギューリック博士で、「ギューリックは、1888年に来日してから20年間、大阪、松山、京都で布教や教育に携わった親日家でした。ギューリックは、日本には古来から五月人形や雛祭りといった人形文化が根付いていることに注目」(渋沢史料館)したからという。※2体が処分を免れた秘話については「アメリカの俘虜二名差上候間 御収容被下度 御依頼申上候」参照

島秋人(しまあきと)
「獄窓歌人」「死刑囚歌人」などとして知られた中村覚(後に千葉覚)のペンネーム。島秋人に短歌の手ほどきをした吉田絢子が、柏崎の短歌同人「朱」指導者の松田政秀に相談して決めた。「しまあきと」と読むのが現在では一般的だが、島秋人自身は「今迄にいろいろな読み方をされてゐます。僕自身まよいます。しま・あきと-これはタイム1962年1月19日号にのった記事の名。しま・しゅうじん-窪田空穂先生の書かれた文章の名。とう・しゅうじん-こんな読み方はひねくれると出ますね。しま・あきひと-これが本当の読み方です。」(柏崎市出身の女性に宛てた1963年1月4日付書簡。HAKUSHINJIHO ARCHIVES寄託)と「あきひと」に拘っている。また、同書簡では「いわれは島町の島と、香積寺の内に秋葉神社という小さな神社があり『あきばさん』と呼んで幼い頃から遊んで居ました。そのころの幼ない心を親しみ偲び、秋と付け、正しい人間の心を合せて持ちたいと云うこと…」などと説明している。香積寺は柏崎市西本町3の古刹、山門手前に島秋人ゆかりの地蔵(吉田好道先生に「(図画の)構図が良い」とほめられた)、山門北側には秋葉神社がある。

島秋人の「意味」(しまあきとの「いみ」)
窪田空穂記念館(長野県松本市)で開催された「ある死刑囚の短歌と空穂-『遺愛集』(島秋人著)が語りかけるもの」を取材した岡島利親による囲み記事で、柏新時報2005年11月5日号に掲載された。島秋人が育った柏崎では「強盗殺人犯」「死刑囚」のネガティブイメージからほとんど顧みられることのない存在だが、『《愛蔵版》遺愛集』の刊行、窪田空穂記念館での企画展示や朗読劇、マスメディアへの登場などを見るにつけ「これだけ多くの場面で取り上げられるのは何故か。特別の意味があるのではないか。柏崎人として顧みる必要はないのか。」と問いかけたもの。窪田空穂記念館の企画展を担当した学芸員の田川恵美子は取材に答え「今回の企画展には、教育の可能性として、島はもっと語られて良いはずではないかというメッセージを込めた。島は低脳児として蔑まれたことになっているが、書簡の字を見ると決してそう思えない。むしろわかりやすく、うまい。ちゃんと相手によって言葉を変えたりしている。」としたうえで「昨年暮れには『《愛蔵版》遺愛集』が出版され、芝居の題材になったり、金八先生に取り上げられたり再び静かなブームになっている。心に潤いが必要となるような節目で(島という存在が)登場する気がする。大げさな言い方をすれば、時代が必要としているのではないか」と述べ、島秋人の「意味」を考えるヒントとなった。

「島秋人」の記憶(「しまあきと」のきおく)
柏崎小学校で島秋人と同級生だった小栗貴三子(柏崎市西本町3)による特別寄稿で、柏新時報2019年1月1日号に掲載された。小栗は島秋人同様、吉田好道先生の教え子でもあった。「島の自宅は現在の高木医院のはす向かいにあった長屋の一軒だったと記憶している。」「(小栗の住んでいた)鵜川町と、島の自宅のあった島町は、目と鼻の先であるが、私が5年生になってすぐ肋膜炎を患い一年間休学して一級下の学年となったため、当時の島秋人の記憶は残念ながらほとんど残っていない。」としながらも『遺愛集』の短歌と共に島秋人の生涯を紹介、「短歌(昭和39年、町内に能登屋いたこ屋信濃屋の置屋ありしを虫聴き憶ふ)の中の能登屋、いたこ屋、信濃屋(現在の寿司処しなのや前身)の名に昔の華やかだった島町を思い出し、島も芸妓さんたちをまぶしく見ていたのでは、と想像してみたりもする。早くに母親を亡くしたがもし生きていれば罪を犯すこともなかったかも知れない。時代も悪かった。」と結んでいる。また、吉田先生についても「第一中学校では吉田好道先生に3年間、受け持たれた。吉田先生は、素晴らしい先生だった。後に死刑囚となる島秋人に、人間としての唯一の『光』を与えることができたのも、吉田先生ならではだと思う。」と振り返っている。

寂聴『手毬』展(じゃくちょう『てまり』てん)
2018年に徳島県立文学書道館(徳島県徳島市)で開催された文学特別展。副題は「良寛と貞心の愛」で、徳島市出身の瀬戸内寂聴の小説『手毬』の世界を、柏崎市立図書館所蔵の『はちすの露』(柏崎市文化財)など原資料をもとに読み解いた。柏崎市からはこの他『やけのの一草』、出雲崎町良寛記念館からは良寛書簡「春毛理老(弟由之)宛」、良寛戒語「ものいふに」、良寛書簡「維馨尼宛(天寒自愛)」、遍澄画蔵雲賛「良寛托鉢像」、安田靫彦「良寛と貞心尼(初対面の図)」など名品の数々が展示され、話題を集めた。51歳で出家した寂聴は、良寛と貞心尼に深い共感と愛着を抱き貞心尼が遺した『はちすの露』を精読すると共に、良寛、貞心尼の足跡を追って柏崎、出雲崎に取材旅行に訪れており、「『手毬』は貞心尼の視点で良寛を描き、貞心尼と寂聴は一体となっているかのようで、出家者の寂聴でないと書けない作品」(同館)と説明している。寂聴本人も「出家の動機など、本人だってわかりっこないのが真実だと私は思っています。それはあくまで仏縁であって、仏さまが選んで引っ張ってくださって、人は出家するものだと、私は思っています」(手毬に寄せて)と書いている。会期中、新潟出身の芥川賞作家の新井満の記念講演「千の風に吹かれながら、良寛について想う」が行われた。

蒐集マニアの町、柏崎(しゅうしゅうまにあのまち、かしわざき)
「オール読物」1953年8月号に掲載された風刺漫画家・近藤日出造による柏崎探訪記で、「コレクションのまち柏崎」として全国的に注目を集めるきっかけともなった。「現代版膝栗毛」と題しカメラマン・樋口進と共に全国各地の「珍しい土地、おかしげな人、変った風物」を訪ね歩く趣向で、柏崎に着目したきっかけは「石黒敬七旦那がいつか東京へ持つてきてハタを騒がせた、甲羅の上の盃に酒を注ぐと動き出す亀」(田中久重が作った亀の盃台、黒船館蔵)という。「この度は越路に赴く。行く先は、柏崎である。目的は、やたらと物を集めてニヤニヤとしている病人衆が、どういういわれかこの土地に沢山いると聞き及び、その往診のためである。彼のゲテ物蒐集家として東京の社交界を混乱させている石黒敬七なる人物が、この柏崎の産なることを思い合せると、これは風土病の一つと見て差支えないようだ。弥次喜多は、この気の毒な病家を七カ所往診した。」としたうえで、吉田正太郎(ペルリや黒船に関する珍品)、平田誠二郎(漆器蒔絵類)、岩下庄司(郷土玩具)、曽田市蔵(大黒様)、内山松次郎(古銭)、小竹忠三郎(絵ハガキ)、桑山太市(古人の書、手紙や古本類)各宅を訪問、「岩下庄司氏は、あわれやもつとも重病である。雑貨文房具類を商う大きな店の、二階三階を五万点はあるという郷土玩具その他のおもちやで昼尚暗く埋めつくし、この夥しいおもちやを、結局どうしていいのか、どうなるか、見当もつかん、とフーフーいつている重病人である。このおもちや屋敷の主人を、痴娯の家主人と名附けてくれたのは、巖谷小波だそうだ。二階三階の七間、のべ畳三十畳敷ほどが、こけし、小細工人形、凧、南洋、支那、満洲の人形、面などでいつぱいだ。」といった具合で、近藤画による吉田の「ロマンチックの図」、岩下の「帰柏の図」などは特徴がよく捉えられていて面目躍如。近藤と身近に接した峯島正行は「このルポのお膳立をしたのは、すべて樋口であった。樋口が行き先をみつけ、現地との交渉、宿泊等すべて樋口が取り決めて、近藤を連れて行った。近藤はこういう場合、何らの注文も出さない。行く先も、宿泊も、おまかせである。そのかわり、何一つ準備をして行かない。仕事は行き当たりばったり、それで仕事はちゃんと仕上げるところに、近藤のインタビュアーとしての腕があった。」(『近藤日出造の世界』、1984年)としているが、柏崎に関しては近藤の「甲羅の上の盃に酒を注ぐと動き出す亀」への興味が先行したのではないか。樋口は文藝春秋初代カメラマンとしてニコンS2を駆使し活躍、容貌が今東光に似ていることから「影武者」になったとのエピソードも。近藤、樋口のコンビによる「現代版膝栗毛」は2年にわたって連載され、「蒐集マニアの町、柏崎」は1954年刊の総集編『日出造膝栗毛』にも収録されている。

十代の顔役(じゅうだいのかおやく)
柏崎市安田出身で『憲兵』が総売上部数37万部というベストセラーとなった作家・宮崎清隆(1918-2001)が、柏崎での「悪童華やかなりし頃を反省し」綴った回想録。1957年刊。十代の顔役、歪められた魂、反抗、落第、放校の5章で構成。少年時代の柏崎の風景(私たち山村の片田舎では、海に行くには、次の町、柏崎港か、その次の鯨波海岸まで、汽車で約二十分乗って出なければならない。当時、安田駅-柏崎-鯨波間の往復三十銭を、親達は、そう毎日はくれられない。一週間に一度か、十日に一度海に入れれば良い方だった。それで、いつも、学校から歩いて十五分位で行ける鯖石川のダム大堰プールに行って、鯉や鮒とともに泥水の中をくぐって泳ぎ廻る…)、理研ピストンリングの活況(当時、この理研は、故大河内正敏博士を会長とする理研コンツェルンで、時の軍需工場として、航空機、船舶、汽車、自動車等あらゆる部門のピストンリング生産に大わらわであった。柏崎市郊外の一角に一大工場敷地を有して、各製作部門ごとに、その会社を異にしていたが、職員、男女職工合せて一万人余の一大軍需工場であった…)も描かれており貴重。大宅壮一も取り上げることになったいわゆる「柏崎商業放校事件」の真相も明らかにされる。宮崎は「日本内地に生還してから、大陸以来、喧嘩らしい喧嘩をしたことが未だなく、大声で怒鳴り飛ばしたり、時たま気に喰わぬ野郎どもを張り倒すことはあっても、それは別に喧嘩でも何でもない。将来、政界に打って出で国会議員たらんとする野望に燃ゆるに外ならないのである。」と並々ならぬ野心を表明、実際に宮崎は1971年の参議院選(全国区)に出馬するため全国遊説までしたが1970年の三島事件により立候補を断念した。

17代当主の来柏(17だいとうしゅのらいはく)
松平越中守家17代当主松平定純の来柏(2003年)に尽力した筑波大学名誉教授・内山知也による随想。柏新時報2004年1月1日号に掲載された。柏崎市大久保(荒町)出身の内山は「戊辰の戦争の時、陣屋にいた侍たちは大体恭順派であったといわれています。そこへ突然殿様が百人の精兵を連れて来て勝願寺に入られ、それから立見鑑三郎などという剛の者が二百人の精鋭をつれて転戦しつつ長駆柏崎に結集したものですから、主戦派が圧倒的多数になり、殿様の意に反する者は上意討ちになってしまう有様で、衆議は一転して武士の意地を貫こうということになりました。」「すでに徳川宗家の慶喜公が大政奉還したのに何でその親戚すじの桑名の殿様が戦わなければならなかったのでしょう。おそらく殿様にとって京都所司代時代には孝明天皇のお気に入りだったのに、天皇が亡くなられると一挙に公家たちが反乱を起こし、薩長に付いてしまったからです。わが殿様は若くて純粋だったからそこに新政府のうさん臭さを見い出し、また大名たちが右往左往して責任逃れをしているのに腹を立てられたのではないでしょうか。」などと戊辰戦争を振り返り、「二つ井戸のあたりで恭順派の侍が斬られたとか、西光寺や極楽寺に桑名藩兵が分宿していたとか。それを支えた町の人たちがいたということも敗戦となれば話る人もいなかったのでしょう。」と述懐。また、松平定純の来柏講演については「松平氏は、四度も柏崎を訪れて法要をした曾祖父定敬公の心を察し、以後の定教、定晴公たちの心を想ってしみじみとご自分の心を語られるのでした。(略)これはあの講演会のあとの深い感想です。」と振り返っている。

宿方雑記(しゅくかたざっき)
北条宿の問屋(宿駅の長役人)を務めた村山八郎兵衛・仲吉親子が天保12(1841)年に書き写した宿駅の記録で、①道中奉行歴代から道中方役人の任務・経費など②大名の参勤交代、公家参向、朱印・黒印などの人馬のこと③街道の整備、宿駅の助郷、飛脚のこと④諸街道の道法と人馬賃銭のこと⑤全国の関所、諸国渡川規則と賃銭のこと⑥荷物・病人など宿継ぎのことなど、北条宿だけでなく諸街道の宿駅制度や慣例など多岐にわたる。柏崎刈羽郷土史研究会は所蔵者から資料の提供を受け、創立30周年記念事業として会員が古文書解読とパソコン入力を分担し2005年に翻刻『宿方雑記-道中奉行留書』を刊行した。郷土史研究会会長の新沢佳大は「解題に代えて」で「街道支配の単なる触書や条文でなく、道中奉行が街道や宿駅の支配について老中から指示を仰ぎ、報告した経緯などが記されているから、『道中奉行らの留書』を基として成立したことがわかる。そして、幕府の道中方の役人が、その任務を全うするに不可欠な、在地に密着した規則や前例を纏めたものが『宿方雑記』といえる。そして、その原典が『五海道方雑記』であったか、同名の『宿方雑記』であったか定かでないが、なにかの事情で道中方役人から有力問屋が借覧し、それが奇しくも村山家へ伝わり、書写されたものであろう。」と述べ、「数ある宿駅の問屋の中で村山家にしか伝存せず、謎を秘めた幻の珍本と言える」と評している。

生涯でいちばん幸福な時は現在です。(しょうがいでいちばんこうふくなときはげんざいです。)
2019年2月24日にこの世を去ったドナルド・キーン最晩年の人生観を象徴する言葉。卒寿を祝う会(2012年)の際の本人発言で、ドナルド・キーン・センター柏崎で2019年4月1日から7月15日まで開催された追悼企画展のタイトルにもなった。追悼企画展開催にあたりドナルド・キーン・センターを運営する公益財団法人ブルボン吉田記念財団理事長の吉田康は「2011年、東日本大震災をきっかけに日本への帰化を表明され、2012年3月に日本人となられたキーン先生は、同年6月、卒寿を祝う会の席で上原誠己氏をご養子に迎えられることを発表されました。『生涯でいちばん幸福な時が現在です』と言ってこぼされた笑顔がまさに『世界一の笑顔』として思い出されます」とコメント。なおドナルド・キーン・センターのパソコンには「キーン先生の笑顔フォルダ」があり、追悼企画展ではこのフォルダから厳選したにこやかな笑顔が展示され、来場者を和ませた。

勝願寺(しょうがんじ)
柏崎市大久保2にある真宗大谷派の寺院。桑名藩主松平定敬が1868年3月30日から閏4月16日まで46日間滞在し、この間に近くの淡島大門で家老・吉村権左衛門の暗殺事件が起きた。藩主の来柏に備え豪商・星野藤兵衛が剣野山に御殿楼を用意したが、「来柏は謹慎が目的。また、大久保の陣屋にも殿様の部屋は用意されていなかった。」(大藤赳麿住職)として勝願寺に白羽の矢が立った。「定敬公と当時の住職は、(京都の)東本願寺で会い面識があったらしい。東本願寺は徳川慶喜の宿舎になっていたので、所司代の松平定敬もよく訪れていたようだ。」(同)との事情があったという。定敬滞在中、住職家族は寺内の徳照寺、さらに10キロほど離れた柏崎市久米・小林家に疎開。山号額「大藤山」は定敬の揮毫であり、定敬から拝領した葵紋の陣笠などが残されている。本堂裏手には桑名藩士の合葬墓、戦没墓(定敬揮毫)が建立されている。2001年に本堂前にまちしるべ「松平定敬公本陣跡」が設置された。同寺は茶室環翠軒(柏崎市文化財)、源義経ゆかりの勝負観音でも知られる。

勝願寺の山号額(しょうがんじのさんごうがく)
勝願寺本堂に掲げられる松平定敬(桑名藩主、京都所司代)直筆の扁額。縦52センチ、横136センチ。「大藤山」「慶応三年(1867年)丁卯春日」「左近衛権中将定敬」とある。扁額が書かれたのは京都所司代時代で、来柏(1868年3月30日)より前から同寺と交流があったことを示している。曾孫の松平定純(神奈川県在住)が2003年に同寺を訪れた際には「我が家は代々、少将の家格だが、曾祖父が京都所司代として、特に蛤御門の変の際に孝明天皇を命がけでお守りしたことから中将の位をいただいた。曾祖父は、尊敬する楽翁公を上回ってしまうと、しばらく固持したそうだ。」との歴史エピソードを披露した。「京都所司代松平定敬」展(2008年)を担当した桑名市立博物館の杉本竜主任学芸員は「いわゆる高須四兄弟は父松平義建に似ていずれも達筆であるが、中でも定敬は末弟ゆえか一際若く勢いのある筆致に特徴がある。(略)管見の限り幕末期の年紀があるものは新潟県柏崎市の勝願寺に残る扁額『大藤山』のみで、定敬二十二歳の大胆な筆さばきを見ることができる」(「高須四兄弟」展図録所収論文)と解説している。

上条城(じょうじょうじょう)
上杉謙信研究で知られる花ヶ前盛明が『柏崎・刈羽』2号(1975年、柏崎刈羽郷土史研究会)で発表した論文。花ヶ前は1967年から顧問を務めていた柿崎高校の歴史クラブ員とともに上条城址の実測調査を行っており、久我勇の『戦国の武将 上條弥五郎』(1968年)とともにその後の研究の先駆となった。花ヶ前は「柏崎・刈羽地方は上越から中越・下越地方へ通ずる交通路にあったため越後守護上杉家にとって統治上重要な地域であった。ここには北条域主(柏崎市北条)北条氏、安田城主(柏崎市城の組)安田氏、赤田城主(刈羽郡刈羽村赤田町方)斉藤氏等の有力部将がいた。越後上杉家にとって柏崎地方の支配を強固にすることがとりもなおさず上杉家の越後支配確立の第一歩となる。上杉家は越後守護5代上杉房方の子清方を上条城主にし上杉家に対抗する在地土豪の牽制にあたらせた。」と前置きしたうえで、1967年8月9日、8月27日~29日(上条公民館に宿泊)、1971年3月29日、同8月24日から26日(竜雲寺に宿泊)、同12月5日の計5回の調査を行った結果について「上条城跡は柏崎市黒滝にある標高15メートルの平城である。」「城の東側に鵜川が流れ、又、城の西側を流れる小川が鵜川に合流している。この2本の川が外堀の役割を果していた。城跡の西に黒滝城跡(標高134メートル)、東に古町城跡(標高148メートル)、南に細越城跡(標高140メートル)がある。これらは上条城の要害及び支城であった。」「上条城本丸跡は周囲の水田地帯より5メートル高台にある。(略)本丸跡は東西76メートル、南北65メートルで広い。但し、南側の一部は県道建設の際に土をとったため欠けている。地元の人の話によると、その際、井戸が出土したとのことである。破壊されてしまい、誠に残念である。」と報告。また「本丸跡には須恵質土器、かわらけ、小石等が落ちていた。本丸跡に建物があったと思われる。しかし発掘調査をしない限り、その規模を知ることが出来ない。(略)遺物は春日山城跡、御館跡、福島城跡出土品より質が悪いが、いずれも戦国時代の遺物である。この平城は上条上杉氏が戦国時代に使用したものと思われる。」と説明しながら「今日よく遺構がのこっているので廃潰から守らなければならない。今後学術的な発堀調査が実施されることを、切に望む。その際上杉氏一族上条氏のことが解明されるはずである。私はその日の来ることを望んでいる」と結ぶ。初回調査(1967年8月9日)では「上条区長(柏崎市上条)中沢正保氏宅にて、上条地区の小字名及び古文書を調査する。所が上条城跡が黒滝地籍であるということを知り、黒滝区長鴨下益美氏宅へ。氏不在のため辞し、鷲尾山観音寺不動院へ…」といった苦労談も。

上条城秋の陣(じょうじょうじょうあきのじん)
2008年10月25日に上条城址で行われた狼煙(のろし)上げ。「にいがた狼煙プロジェクト」の一環で、中越沖地震(2007年)の復興祈念に加え、翌2009年にNHK大河ドラマ「天地人」が放送されることが決まっていたことから150人が参加し盛り上がりを見せた。主催者の上条町内会長・本多光威は時代装束を身につけ「ここには遙か戦国時代、上条上杉氏の城があった。廃城となって400年以上の時が経つ。この城址に集い、過ぎし戦国の世に思いを馳せ、この城を舞台に生き、戦った人々を偲び、中越沖地震からの復興と地域の発展を願い、狼煙を上げる。」と口上、来賓の会田洋市長、内藤信寛観光協会長らと2メートル程に積み上げられた杉の葉にたいまつで点火した。この日は郷土史研究家の平原順二による講演が行われ、「上条城の城主のなかで最も有名なのは上条弥五郎政繁だ。もともとは上杉謙信の一番目の養子として能登・畠山家から迎えられ、上杉家と最も近い分家である上条家を継いだ。人徳があり、しかも戦略にすぐれた。謙信の後継を争った御館の乱で勝敗を分けたのは、実は上条弥五郎の素早い動きで、上杉景勝を後継者にすることに大きな働きがあった。(大河ドラマの主人公となる)直江兼続とは比べ物にならない程、大変な人物だった。」としたうえで、「嫉妬深い人物だった兼続は、主君・上杉景勝に『(弥五郎は)この国を乗っ取ろうとしている』と讒言し、景勝もこれを信じたため上条弥五郎は失脚した。このことは柏崎の人間にとっては大変悔しいことだ。来年の大河ドラマでは(主人公・兼続にとって)都合の悪いことは描かれないと思うが、事実を知っておいてほしい。」と強調した。上条弥五郎は、関ヶ原の戦い後、徳川家の食客としての待遇を受け、その子たちは「高家」の格が与えられ、大名並みの高い地位となったという。当日は柏崎総合高校内の琵琶嶋城址でも狼煙上げが行われ、 宇佐美定満に扮した栗林稔(宇佐美氏家臣の後裔という)が「宇佐美一族と琵琶嶋城に注目が集まっている。定満が直々参上。地震・洪水に負けてはおれん。枇杷島の発展のために鬨の声を高らかにあげてがんばろう。」と口上を述べた。

上条城址(じょうじょうじょうし)
1968年刊行の『戦国の武将上條弥五郎』で久我勇が「上条城は標高15メートルの丘陵とはいえ、城自体の高さは5メートル 鵜川及びその水系の水を城の周囲に廻した平城であった。」と書いたように「戦国時代の城」をイメージして訪ねると意表を突かれる。場所がわかりにくいのが難点。国道353号にかかる新御殿橋手前に「上条城址」(綾子舞街道)の表示があるが、浦の川(地元では「うらんかわ」と発音する。御殿川とも)沿いは道路が狭いので、上条コミュニティセンター(宮之窪)手前交差点で左折、迂回するのが無難。御殿橋を渡り、左側にある建物(上条進修館)を目印に本丸へとあがる。短い坂を登るとまちしるべ「上条城」(柏崎青年会議所2001年建立)があり、「上条城は、戦国時代の政治、戦略拠点として築城された舘城で、直江津に置かれた国府を補佐する政庁の役割を持っていました。関東管領の血筋を引く越後守護上杉家の分家・上条氏が城主をつとめ、上杉景勝を支えた上条弥五郎が有名です。」としたうえで「標高15メートルほどの丘陵で、三方を山に囲まれ、黒滝城や古町城の山城と密接な関連がありました。本丸や二の丸、空堀跡などに当時の面影を残し、御殿橋や弥五郎橋の地名に歴史を刻んでいます。その後も、上条校や進脩館が建てられ、教育や青年活動の拠点となりました。」などと説明。春は桜の名所として知られる。

上条城址入口の碑(じょうじょうじょうしいりぐちのひ)
上条町内会が2001年に上条進修館脇の城址登口に設置した案内標柱。これを目印に坂を上るとすぐ本丸である。上条城は戦国時代の政治、戦略拠点で直江津に置かれた国府を補佐する政庁として重要な役割を果たし、越後守護上杉家の分家・上条氏が城主をつとめたが、その割には知名度が低く、地元・上条町内会が中心となって発信活動に努めてきた。城址は標高15メートルほどの「平城」で、戦国時代の城としては珍しい。本丸や二の丸、空堀、井戸跡などが残り、また弥五郎橋、御殿橋などの地名に歴史を印している。弥五郎橋は、上杉景勝を支えた上条弥五郎政繁にちなむ橋で、その勢力を恐れた直江兼続に謀反の疑いをかけられ、能登へ逃亡した。設置にあたり本多光威町内会長は「上条城は政治拠点として大きな役割を残した。多くの人に城址の存在を知ってもらいたい。毎年8月14日には地域の人が集まって、ここでお城祭りを開催しており、城址を何とかしたいという思いが強い。青年会議所のまちしるべモニュメント設置(2001年)によって脚光を浴び、これを機会に存在をアピールしていきたい。」と話している。

上条城夏の陣(じょうじょうじょうなつのじん)
2008年から2010年にかけて行われた上条城跡の発掘調査。柏崎市遺跡考古館と上条地区コミュニティ振興協議会が夏休み中の小中学生に呼びかけ本丸跡にある4基の「塵芥塚」を調査した。NHK大河ドラマ「天地人」(2009年放送)ブームのなか、地元の要望により行われた初めての発掘調査で「上条城址を地域おこしの核として使って行こうという熱意が行政に通じた形だ」(柏新時報2008年8月13日号)と紹介された。第1回調査(2008年8月4日)では小中学生、地元住民含め60人が参加、珠洲焼や青磁を発見した子どもたちから歓声があがった。上条城址の整備に尽力してきたコミュニティ振興協議会長の本多光威は「長い間、城址の調査をお願いしてきただけに、調査実現を大変喜んでいる。桜やあじさいの植樹などで、様々な季節に来てもらえる城址として整備していこうと考えている。来年のNHK大河ドラマ『天地人』放送は好機。上条政繁は直江兼継にとってライバル的存在だったと言え、地元からは『兼続ライバルの城』としての発信をしてはどうかとの声も出ている。」と話している。3年間の調査で発見された遺物は2000点以上で、中国産陶磁器の青磁、白磁、青花、国産陶器の珠洲焼、越前焼、瀬戸美濃焼、常滑焼、中世土師器(京都系土師器)等が発見されている。最も注目されたのは上条政繁時代の遺物だが、「領主クラスが使うような焼き物は確認されなかった。上杉謙信・景勝政権の中枢にあったことを加味すれば、政繁自身は府中(上越市)に常駐し、上条に滞在することは少なかったのではないか。」(焼き物でつづる上条城の歴史、柏崎市立博物館、2012年)と解説している。

小説・映画で知る柏崎の魅力(しょうせつ・えいがでしるかしわざきのみりょく)
2021年のかしわざき市民大学講座として開催されたユニーク企画。柏崎を舞台とした文学やロケ地とした映画を題材に、作品に表現されている風景や文化から柏崎を見つめ直した。「文学の中の柏崎-読んで訪れたい柏崎の風景」「映像の中の柏崎-観て訪れたい柏崎の風景」「柏崎の魅力を活かす-映像制作誘致の可能性」の全3回で、「文学の中の柏崎-読んで訪れたい柏崎の風景」で講師の小網靖子(かしわざき観光ボランティアガイド、市立図書館職員)は謡曲『柏崎』を皮切りに『金の草鞋』(十返舎一九)、『奥の細道』(松尾芭蕉)、『柏崎日記』(渡部勝之助)、萩原朔太郎の第一詩集『月に吠える』中の「海水旅館」、さらに『黒い白鳥』(鮎川哲也)、『不安な演奏』(松本清張)、「白い波が崩れ、海鳴りが聞こえても、」(椎名誠)、『手鞠』(瀬戸内寂聴)、『えちご恋人岬殺人事件』(中津文彦)、柏崎市でのシンポジウムを契機に誕生した『北陸新幹線ダブルの日』(西村京太郎)、『番神の梅』(藤原緋沙子)等を取り上げ「柏崎を舞台にしたり、登場する作品には柏崎の魅力がつまっている。ぜひ作品を通して、魅力を再発見して下さい」と呼びかけた。また、「映像の中の柏崎-観て訪れたい柏崎の風景」で講師の土田悠(新潟県フィルムコミッション協議会)は、平山征夫元知事が出演したことでも知られる「故郷は緑なりき」をはじめ「千曲川絶唱」、「ラストソング」、「真実を追う男」、「キャタピラー」、「ひぐらしのなく頃に」等を紹介、柏崎オールロケの「劇場版炎の天狐トチオンガーセブン閻魔堂!地獄の大決戦!!」を鑑賞後、主演の星知弘さんが制作の裏話を披露した。

小説佐渡情話(しょうせつさどじょうわ)
哲学者村田豊秋が「文芸哲学者」の筆名で書いた小説、1935年刊。難破した柏崎の吾作と恋仲になった佐渡のお光が、柏崎に通うたらい舟を壊され狂女となったが、日蓮に救済され、柏崎で夫婦子ども仲良く暮らす-というあらすじは浪曲と同様だが、登場人物と伏線が多く煩雑。61章で構成し吾作は24章「難破船」になってようやく登場する。日蓮がお光を正気に戻すシーンは「不思議なことに、海の浪の上へ、南無妙法蓮華経の文字が浮んだが、その文字から、サラサラと電のやうな光りを放つた。」と小説らしい具体的な書き込みも。「(塚原三昧堂で)飢えに苦しんでゐる日蓮上人のところへ、毎日のやうに、優さしいお光坊が、梅干しを入れた握飯を、竹の皮に包んで、人知れず、運んでくれた。」とお光が信者であったことも明かされる。「七年後の佐渡情話」の要素もミックスされ、七之助は日得上人の弟子になる。柏崎の吾作が語る「だんべえ」言葉はナゾ。巻頭には「日本一の大浪曲家」として寿々木米若の写真を載せ「米若師は、これ(佐渡情話)を蓄音器のレコードに吹ッ込んだところ、物凄いばかりの売れ行きで、他のレコードが出なくなり、ひとり佐渡情話のみが羽が生えて飛ぶやうな景気であったから、いッたん下火になりかけてゐた浪曲を、再び盛りかへさせたといふのは事実である。その波紋は引いて、米若師が佐渡情話を演じれば、どこの劇場も、みな超満員の盛況であるから、人気といふものは恐ろしい、それがため、日活でも、米若師の浪曲を中心に、佐渡情話のトーキーを展観したが、素晴らしく大当りで、予想以上の成功を収めたといふから、今や世を挙げて佐渡情話の黄金時代である。」(寿々木米若師と浪曲佐渡情話)と説明、当時の佐渡情話ブームがわかる。米若は「今度、有名な哲学者である文芸家の村田先生が、時代ものをモダン化し、新らしい筆法で、佐渡情話を小説に創作されました。まるで映画のように、場面が変化して、波瀾万丈、悲劇の裡にユーモアを配し、恋愛哲学が織り込まれてありますから、興味も深く、また面白い読物でございます。」との推薦文(小説佐渡情話に題す)を寄せている。

松竹大歌舞伎(しょうちくおおかぶき)
アルフォーレ開館記念事業として2012年11月11日同館大ホールで開催された。演目は御所桜堀川夜討弁慶上使(武蔵坊弁慶・中村橋之助、侍従太郎・片岡亀蔵、卿の君/腰元しのぶ・中村児太郎、おわさ・片岡孝太郎)、手習子(中村児太郎)。製作発表記者会見(同年7月30日、東京都内)で橋之助は「弁慶上使は、子どもの頃から見て好きだった芝居。シンプルな座組みだが中身の濃い内容。同世代の孝太郎と演じられるのは楽しみ。」と語った。柏崎市での大歌舞伎公演は23年ぶりということもあって前売りチケットは2時間で完売。当日は女性客が多く会場は華やいだ雰囲気に包まれ、忠義のために娘を犠牲にした弁慶が親子の証拠を示す小袖を持って生涯一度の涙を流すシーンなどに大きな拍手が送られた。松竹大歌舞伎は2015年にも行われ、尾上松也が教草吉原雀、尾上菊之助が新皿屋敷月雨暈魚屋宗五郎を演じた。

縄文の芸術(じょうもんのげいじゅつ)
哲学者の梅原猛が1991年に柏崎市で行った講演。柏崎美術作家クラブ主催。梅原が、同クラブ所属の伊藤剰(陶芸作家)の京都市立芸術大学時代の恩師だった縁から実現した。梅原は先ず「縄文文化は日本の基礎文化であり、森と海の文化である。そこで生み出された縄文土器は世界最古の土器である。」とし「縄文土器のなかでも中期のものが一番すばらしい。信濃川流域の火焔土器をはじめ、激しいエネルギーと祈りがこめられ、静謐さとダイナミック性が共存している。馬高式土器は火焔土器の最高傑作と言える。縄文文化は日本芸術の出発点であり、世界に誇る文明である。本来、日本人が持っていた縄文のパワーを取り戻して、個性的な芸術が創造されるのを期待している。」と述べた。また友人の岡本太郎についても「岡本は火焔土器を前衛芸術として高く評価した。彼の言葉を借りれば、まさに『芸術は爆発だ』だ。」とモノマネまじりで語り会場を沸かせた。

昭和維新の中の二・二六事件-その中に柏崎市加納出身の男が関与した(しょうわいしんのなかのににろくじけん-そのなかにかしわざきしかのうしゅっしんのおとこがかんよした)
柏崎刈羽郷土史研究会の柏崎刈羽第44号(2017年)に掲載された郷土史家・小栗俊郎による論文。生前の三五恒治(小栗の従兄弟で二・二六事件に伍長として関与)から託された自分史『我が変転の奇跡』や三五自身の生前の言葉を引用しながら波瀾万丈の人生を紹介した。小栗はまた、柏崎公民館のシニアカレッジ「柏崎の来歴と日本史の中の柏崎」(2018年)講師として論文の内容を紹介、「三五さんが二・二六事件に関与したことを知っていたのは身内、関係者のごく一部だった。」としたうえで、「『我が変転の奇跡』には女中部屋捜索のシーンで女中2人が必死になって押し入れの戸を押さえている姿が描かれている。実際はここに岡田首相が匿われていたわけで(首相と誤認された松尾大佐が銃殺されたことによる)総理大臣誅殺万歳の勝どきがなかったら、三五さんが押し入れの戸を開けることになっただろう。そこで岡田首相を発見していれば、彼が銃殺することになっただろう。」とした。「三五さんは武装解除後、軍法会議で禁固5年の求刑を受けたが、結局は無罪判決となり軍隊を離隊し、当時の満州に渡って警察官となり国境警備に従事した。ソ連の参戦と旧満州への侵攻、逃避行のなかで幼子を銃殺され、遺骨を持ち帰ることすら出来なかった。その娘のために柏崎墓園に平和観音像を建立された。最晩年の三五さんを車で墓園にお連れしながら、道中、様々な思いを聞いた。上官に命令されるままの首相官邸襲撃だったとは言え、重大な事件に関わってしまった、という自責の念は亡くなるまで消えなかったのではないか。結局は戦争に翻弄された人生だった。人と人との殺し合いは二度としてはならないという三五さんの思いを継いでいかなくてはならない」と結んだ。

小惑星「小国町」(しょうわくせい「おぐにまち」)
旧小国町を治めた小国氏の末裔である大国富丸が1997年10月に発見した小惑星。おうし座にある。大国は山形県南陽市在住のアマチュア天文家で、これまで100個以上の小惑星を発見している。「小国町」と命名したのは登録番号「33056」の小惑星で「燦々(さんさん)と小国郷 無限に輝く」との意味を込めた。2002年1月に米国スミソニアン天文台の小惑星センターに登録した後、小国町を訪問し大橋義治町長に証明書などを贈呈、「小国町は合併するが、小国郷がいつまでも無限に輝いてほしいと命名した。」と語った。

昭和天皇の御散歩道(しょうわてんのうのおさんぽみち)
昭和天皇が1947年10月11日に歩かれた飯塚邸(行在所)-鵜川神社(大ケヤキ)-参宮橋-風巻山入口-礼宝山-風巻山西南側-飯塚邸の経路を高田コミュニティ振興協議会が歴史散策路として整備を行い、「昭和天皇の御散歩道と新道の柿」のリーフレットにより発信に努めている。昭和天皇は実際にこのルートを約1時間半かけて歩かれ、ルート上には「御散歩の折 豆科紅花えんどう御採取給ふ」「御散歩の折 道を誤り恐惶恐懼」「御散歩の折 村娘と御出会い手籠内の粟茸に付いて御言葉を給ふ」「御散歩御帰途 写真班転倒御笑い給ふ」などの御巡幸碑が18か所に建てられている。当時「松茸山」と称されていた礼宝山にはナナカマド、ハンノキ、コブラ、ミズキ、ムラサキシキブ、シロダモ、ヒサカキ、ネムノキ、ユキツバキなど63種類の植物が「柏崎の標準的な里山の植生」として残っており、樹銘板を見ながらの散策も楽しみの一つ。礼宝山上り口には「昭和天皇の御散歩道のぼり口」、下り口には「お宝探訪たかだ」の案内看板がそれぞれ設置されている。

昭和天皇の御散歩道と新道の柿(しょうわてんのうのおさんぽみちとしんどうのかき)
「昭和天皇の御散歩道」を中心とした地域資源発信のため高田コミュニティ振興協議会が作成したリーフレット。「1947年10月10日・11日の2泊を飯塚邸で過ごされた昭和天皇は11日の午前中、前夜の雨で濡れた庭園を長靴で散策なさり、その後裏門から御散歩にお出かけになった。その後1時間半にわたって飯塚邸付近を歩かれた。御巡幸の中では珍しい出来事と言われている。その後、昭和天皇の御散歩を大変な名誉とし、新道村(当時)の有志で道順に沿って記念の石碑が18か所に建てられた。表面には碑文としてその場所での出来事と時間が、裏面には寄贈者の氏名が彫られている。道順をたどって碑文を読むと、終戦から2年経た当時の世相や、昭和天皇のあたたかい人柄を偲ぶことができる。」と説明したうえで、マップ上で散歩ルートや石碑(御巡幸碑)を紹介。また新道柿栽培組合についても「昭和26年に柿苗の定植が完了し、約10ヘクタールの栽培総面積に植えられた3500本の柿の木から年間約100トンの生産量がある。昭和59年に選果場を新築し、柿ワイン※などの加工品も作られ、平成13年から柿の木オーナー制が始められた。新道小学校で所有している11本は、毎年3年生が総合学習の一環として栽培や収穫に取り組んでいる。」と紹介。※柿ワインは現在生産されていない

書を捨てよ!海に出よう!(しょをすてよ!うみにでよう!)
柏崎市制70周年記念事業として2010年6月11日に柏崎市産業文化会館で開催された月尾嘉男東京大学名誉教授の講演会。柏崎ライフセービングクラブが主催。月尾は「海のエベレスト」と恐れられるホーン岬を60歳の時にカヤックで漕破した自身の体験を通し「『海の柏崎を取り戻そう』という目的の講演だ。日本は海に恵まれているが、海を楽しまない国民となってしまった。柏崎の皆さんには、目の前にある海を活用し、積極的に海に出てほしい。オリンピック種目として最も有望なのはカヌーだ。中高生の皆さんから、国体、オリンピックに向けがんばってほしい」と激励、「私は海への挑戦を通して謙虚さを得た。自然の威力や神秘、人間の限界を知ることは大きな意味がある。海から様々なことを学んでほしい」と力説した。翌12日は石地海水浴場~鯨波海水浴場間の約30キロで「ジュニア柏崎海岸縦断アウトリガーチャレンジ」が行われ、市内の小学生が参加し月尾も伴走した。

白い波が崩れ、海鳴りが聞こえても、(しろいなみがくずれ、うみなりがきこえても、)
作家、写真家、エッセイストの椎名誠が、子どもの頃柏崎に住んでいた伯母を訪ねた記憶を綴った文章で、季刊銀花第60号掲載の「南からの低気圧」(1984年)を改題し『海を見にいく』(1986年)所収。「大福もち」のような「柏崎のねいさん」(柏崎弁を正しく反映し)や「落花生みたいな顔」の「柏崎の伯父さん」が登場し、初めて海を見た印象を「風と波の咆哮の中で、私はおそろしくて、それ以上一歩も海の方に近づくことはできなかったのだ。」などと表現、「その翌年の春に柏崎のねいさんは死んでしまった。すぐあとに伯父は柏崎の家を引き払い、三条市に移ってしまったので、私の記憶の中の柏崎の海は、もうずっとあの時の風景で、私の目蓋の中に暗いモノトーンのまま、凍結してしまうことになった。」と味わい深く結んでいる。柏崎ファンクラブ通信1号(2018年)にも、「かしわざき縁の人」として同様の記憶をベースに「初めて見た大きな波」を寄稿した。

白い龍(しろいりゅう)
柏崎に残る義経弁慶の代表的伝説。舞台は米山峠から剣野(鏡が沖)、比角(白竜神社)と広範囲なのが特徴。義経一行は米山峠を根城とする亀割太郎という山賊に取り囲まれ応戦、多勢に無勢で剣野までやっと逃げのびるが、この先には鏡が沖(鏡の湖)という広い湖があり渡ることができない。義経が源氏の守り神である八幡大菩薩に祈ると「源氏の御曹司よ、わが背に乗り給え」と大きな白い龍が出現、龍の背に乗って対岸まで渡った。霊験に驚き、地元の人達は義経主従着岸の地に小祠を建てたという。ハイライトはやはり白い龍出現の場面で「急に暗くなり、大風がさっと吹きました。その風が、鏡沖のまん中でくるくると回ると、海の水が風に吸いまれて、十メートルもある水柱が立ち上りました。そして、水柱の中から雪のように真っ白い龍が現われました。白い龍は、火のように真っ赤な舌をぺろぺろと出し、金色の目で山賊たちをはったとにらみつけました。その恐ろしさに山賊たちは、腰が抜けて、へたへたと座り込みました。」(柏崎のむかしばなし)と、ボールを集めるとドラゴンが登場する例のアニメのよう。小祠は白竜神社(柏崎市四谷一)となり、一帯はテニスコートを中心とした白竜公園に整備された。柏崎青年会議所のまちしるべ「白竜と義経」はテニスコート駐車場に設置される。また「鏡が沖」は市立中学校の名前として現在に残る。

震災のときに元気をもらった(しんさいのときにげんきをもらった)
中越沖地震(2007年)復興を願い2010年5月29日から6月6日までソフィアセンターで開催された展覧会で、絵手紙の創始者として知られる小池邦夫(山梨県在住)と筋ジストロフィーと闘いながら制作活動を続けている画家の佐藤伸夫との交流を中心に、佐藤の兄で知的障害のある佐藤恒夫、支援する詩人のまきたかし等の作品を展示した。「体は不自由だが、自分の出来る方法で発信する表現者の作品を通して震災の時、お世話になった気持を持ち寄り、地震復興がんばろう!という願いを込めた」(実行委員会)という。小池邦夫のメッセージ「書は手紙に最も向いている自分の言葉だ。相手を思う。だからこそ心が動く。たった一人を思うから書きたいエンジンがかかる。」も紹介された。

陣屋献立(じんやこんだて)
柏崎市西本町2の割烹杵屋が桑名藩時代の陣屋メニューを再現した料理で、2012年から提供を開始した。幕末、柏崎に赴任した桑名藩士の渡部勝之助が天保から嘉永の9年間にわたって記した『柏崎日記』には、当時の料理についても細かく記録がなされており、歴史資料としても貴重。杵屋の渡辺靖社長は『柏崎日記に見る食風景』(田中一郎編著)を通じて当時の食に興味を持ち研究を進めていたところで、柏崎日記を読む会の宮川久子会長らの提案もあり、季節感を生かした「陣屋献立」を提供することになったという。献立の一例は「わらさの刺身」「鮭焼き浸し」「酢だこ」「玉子のふわふわ」「鯛の切り身の吸い物」「生大根白和え」「大根めし」「蕪のやたら漬け」で、刺身を食べる際、高価だった醤油の代用として「みそのたまり」を使ったがこれも再現した。渡辺社長は「化学調味料などはまったく使わない。砂糖の代わりの甘酒、蜂蜜は味に即効性がなく、なかなか味が付かないので苦労するが、その分味にふくらみが出ているようだ。」と話す。宮川会長も「昨年、柏崎陣屋の長屋が解体され、当時を偲ぶよすががなくなった。食文化だけでも残したいと思い、提案した。」とコメント。

陣屋弁当(じんやべんとう)
幕末の桑名藩柏崎陣屋の食事内容を、渡部勝之助の『柏崎日記』を参考に柏崎と桑名の食材を使い再現した。2014年に開催された秋の北国街道ウォーキング(北国街道観光まちづくり会議主催)で初提供され話題を呼んだ。内容は桑名麦めし、身欠き鰊の昆布巻き、煮しめ、カボチャ蒸し、雪花菜(きらず)炒り、出汁巻き卵、切り干し大根とひじきのなます、野菜の浅漬け、餡かけハマグリなど。雪花菜(きらず)は関西風の呼び名で「おからの『から』が『空』に通じると嫌って雪花菜と呼んだ」のだという。レシピ研究を行ってきた大洲コミュニティセンターの担当者は「『柏崎日記』にはハマグリの記載はないが、桑名のイメージが強いので使用した。柏崎で麦はほとんどとれず、桑名から送られてきた麦を、ひじきは桑名から送られてくる伊勢ひじきを食べていたようだ。調味料に何を使っていたかなど難しい部分もあったが、様々に想像をふくらませながら献立を考えた。贅沢ではないが、江戸時代をイメージしながら皆さんから味わってほしい」と話し、参加者からは「麦飯がおいしい」「全体的にやさしい味」などと評判も上々だった。

【す】
水源の里谷根(すいげんのさとたんね)
柏崎青年会議所のまちしるべとして2000年に六拡トンネル谷根口そばに設置された。地元から強い要望があり、用地選定も地元主導で行われた。「柏崎は、水源池の建設に見られるように早くから上水道の確保に取り組み、その先進性は、谷根ダムと赤岩ダムの建設に引き継がれました。分水嶺までの集水地域はすべて柏崎市が所有しており、原水汚染の心配が全くない環境は全国から注目を集め、市民においしい水を供給し続ける谷根は、『水源の里』として親しまれています。ダム建設時の残土で造成され、地元の人たちが植樹をしたここビュー米峰は、水と緑の大切さを市民に語りかけます。」との、柏崎の水道事業の説明を含めた解説文がある。敷地内には地域シンボルマーク看板「たんね、いいね」、「谷根ダム2.3キロ、赤岩ダム4.1キロ」の案内標識が立つ。周辺には新名所として知られるようになった「谷根のハナモモ」がある。

スーパー柏崎クイズ(すーぱーかしわざきくいず)
「ウェルカム柏崎ライフ応援ゲーム」で出題されるクイズ。「新潟県出身の総理大臣、田中角栄の生まれた西山町は、現在のどこでしょうか?」「上杉謙信や武田信玄などの大名に仕えた戦国武将、北条(きたじょう)高広の生まれた土地は、現在の何市でしょうか?」「明治21年、日本海側初の海水浴場がつくられたのはどこでしょうか?」「新潟県で最も多く海水浴客が訪れる自治体はどこでしょうか?」「日本石油の創始者として知られる内藤久寛の出身地は、現在の何市でしょうか?」など12問で難問もあるが、答えはいずれも「柏崎」である。

図解コーチ ボウリング(ずかいこーち ぼうりんぐ)
柏崎出身でボウリング・カルチャー21代表の鴨下三郎監修による入門書。1999年刊。「はじめに」で「ボウリングは、手軽なレジャースポーツとして話題にはなるものの、競技の持つ面白さや楽しさは、あまり浸透しているとはいえません。その理由として、ボウリングの持っているメンタルな部分と、技術を含めた細部にわたる決まり事が、人々の目に触れる機会が少ないことがあげられます。今回、本書を発行するにあたって、ビギナーの方々には分かりやすく、また、マニアックな方々には基礎的知識はもとより、奥の深いメンタルな部分を再認識しやすいように留意しました。」とし、「ボウリングの基本」「ストライクの狙い方」「確実なスペアの取り方」「簡単にできるアベレージアップの工夫」「中級者のためのフォームの矯正」など10章で構成。監修者紹介には「東洋音楽学校(現、東京音大)出身、36歳まで音楽業界に携わる。昭和26年、ABCのリーグメンバー登録。昭和39年、JBC東日本選手権大会シングルス優勝。AMF第1回マスターズ・W杯(国内大会)準優勝。目黒ボウリング場支配人などを経て、昭和42年東京ボウリング場協会理事。昭和49年同協会専務理事に就任。平成2年7月から6年6月まで、(社)日本ボウリング場協会専務理事。」とある。中山晋平の書生として上京した鴨下だったが、その後、大村能章の内弟子時代に米軍基地でボウリングに出会い、結果的にはこれが本業となった。柏崎市制50周年を記念した「第9回外務大臣杯争奪日米学生親善ボウリング競技大会全国大会」(1990年)誘致にも尽力し「柏崎で開催出来た事は、柏崎の皆様に対してのご恩返しの一つでした。盛況裡に開催することができ、当時の飯塚市長さんをはじめ、大いに喜んでいただき、私にとっても心に残る大会となりました。」(柏新時報「続・我が音楽遍歴」)と回想している。

杉平いい里マップ(すぎひらいいさとまっぷ)
柏崎市東長鳥杉平は、勝海舟の曾祖父にあたる「米山検校の出生の地」ということから独自の地域活動を展開する。杉平百年プロジェクト、米山検校顕彰会による「杉平いい里マップ」制作もこの一環。検校塾(越後交通杉平入口バス停近く)に設置されたマップでは、米山検校生家跡や飢饉の際に検校が救援米を送ったことに感謝する3か所の御礼塔(杉平、大角間、岩之入・セナカ峠)、検校公園、検校塾、三虚空蔵と能満寺などを紹介、「勝海舟のような世界へ目を向けた大きな人になって欲しい」とのメッセージを添えている。

洲崎義郎氏の肖像(すのさきぎろうしのしょうぞう)
大正期を代表する洋画家・中村彝が洲崎義郎(比角村村長、第2代柏崎市長)を描いた肖像画の名作。洲崎義郎は1914年柏崎出身の帝大生・小熊虎之助の案内で新宿中村屋裏のアトリエに中村彝を訪問し「初対面で百年の知己のように共鳴し生涯の友となった」(洲崎の回想)という。中村彜は洲崎の顔の構造が「まるでエジプト彫刻のようだから面白い絵ができそうだ」と肖像画の制作を意図したが病気のため実際に着手されたのは1919年11月で、洲崎は20日間下落合のアトリエに通った。「洲崎義郎氏の肖像」は完成後、翌年7月柏崎に送られ、11月洲崎の尽力により柏崎町役場楼上で開催された中村彜の初個展の会場を飾った。洲崎家が所有していたが、新潟県立近代美術館が1994年に購入所蔵、代表コレクションのひとつとなった。2020年には「洲崎義郎氏の肖像」と洲崎2女の関若菜をモデルにした「女醫さん」(國領經郎の日展初入選作、新潟県立近代美術館)がともに同館内で展示され「父娘再会」が話題となった。柏崎では2002年の「中村彝の芸術」(ふるさと人物館開館記念企画展)、2008年の中越沖地震復興祈念県立近代美術館巡回ミュージアムin柏崎で里帰り展示されている。

住吉小路(すみよしこうじ)
柏崎市西本町1・石井神社西側から浄土寺、明照保育園へ至る小路。石井神社が創建時(705年、威奈真人大村)に「住吉大明神」と呼ばれていた名残。天屋弥惣兵衛の旧屋敷地に面しており、小路途中に「芭蕉奥の細道紀行 天屋跡」の標柱が立つ。『おくのほそ道』の旅で芭蕉と曾良が立ち寄った縁を生かし「芭蕉小路」として普及しようとの動きもあったが「不快シテ出ヅ」(曾良随行日記、元禄2年7月5日)によるマイナスイメージのため定着しなかった。

【せ】
政商-大倉財閥を作った男(せいしょう-おおくらざいばつをつくったおとこ)
柏崎市出身の若山三郎が創業者列伝シリーズ第一作として1991年青樹社から刊行。新発田出身で一代にして大倉財閥を築き上げた大倉喜八郎の波乱の生涯を、大久保利通、伊藤博文、山県有朋らとの交流を交え描き上げた。「その点、越後生まれの喜八郎は大きなハンディキャップを背負っていた。(略)人の倍、三倍は働いて商機を掴み、機略と度胸とで、その後の運命を切リ拓き、実業界において確固たる地位を占めるに至った。そして、その地位が喜八郎を次から次へと新しい事業へ駆り立てた。」「田舎者と馬鹿にされまいとして、鶴吉は何事にも細心の注意を払った。(略)後年、この鶴吉は改名して大倉喜八郎となり、財界で活躍し始める頃から必要以上に"江戸っ子"ぶるようになるのだが、それは、この丁稚時代に植えつけられた劣等感の裏返しと考えられなくもない。」など、越後人としての共感、視点も若山ならでは。若山はあとがきで「同県人の喜八郎には、そこはかとない親近感を覚え、いつかは、その生涯を小説にと望んできた。そして去年の春、取材を始めたのだが、すぐさま厚い壁に突き当たり、足踏みを余儀なくされた。(略)見切り発車で、執筆に取りかかってからは、この偉大なる"怪物"にふりまわされ続け、その実像を描く難しさは骨身に沁みた。そんな折に、喜八郎の曾孫に当たる大倉徳一郎氏と知り合い、取材に協力していただくことになった。」と労作上梓を振り返る。好評のため2002年には学研M文庫として文庫化。若山は『政商』を皮切りに『セイコー王国を築いた男』『菓子づくりに愛をこめて』『東武王国』などを執筆、話題を集めた。

精神病理学私記(せいしんびょうりがくしき)
H・S・サリヴァン著。柏崎出身の医師・阿部大樹が須貝修平医師とともに翻訳し「現代精神医療の基礎を築いたアメリカ精神医学の先駆者サリヴァンが、生前に書き下ろした唯一の著作を約1世紀の時を経て初邦訳!」として話題になり、第6回日本翻訳大賞に輝いた。選考委員の柴田元幸(アメリカ文学研究者、東京大学名誉教授)は「英語の本を日本語にするとページ数は2割増えるものだが、この本は簡潔で、逆に減っている。ポイントを絞って枝葉末節を削って訳している。思い切った訳だ。順番を入れ替えている部分もあり、読んでみるとこっちの方が伝わる。内容も素晴らしいが、訳者の姿勢に共感した。感嘆しきりだ。」とコメント、阿部は「翻訳大賞は文芸書が毎年受賞しているので、僕の本のような学術書がまさか受賞するとは思わずびっくりした。古典と言われるフロイトなどは裕福な、症状の軽い患者が対象だが、勤務していた松沢病院ではアルコール依存症や幼少期の差別による対人不安など症状の重い、治療が難しい患者を治療しており、どう治療したらいいかもう少しリアリティのある本を探していて、この本に出会った。翻訳に3年かかったが勉強になった。」と大賞受賞の感想を話している。

世界一の原発基地柏崎刈羽からの市民運動(せかいいちのげんぱつきちかしわざきかりわからのしみんうんどう)
プルサーマルを考える柏崎刈羽市民ネットワークの桑山史子が「私的な記録(1998-2020)」としてまとめた記録資料集。桑山は元教員で、広河隆一写真展「チェルノブイリと核の大地」(1996年)を契機に市民運動に参加、柏崎刈羽原子力発電所へのプルサーマル導入をめぐる住民投票直接請求(1999年)で運動の中心となった。「プルサーマルを考える柏崎刈羽市民ネットワークの歴史」「世界一の原発基地柏崎刈羽の市民運動の記録」「報道から見えるもの」「皆様の貴重なご意見と激励のお言葉」「私の意見」「新エネルギーの町への展望」「なつかしい風景あの時のこと」の7章で構成、桑山は「皆さんと夢中で突っ走った市民活動の現実や大変さ、大会の企画、運営、交渉、広報、どれも皆さんの、新鮮な思考や洞察力、未来への展望、意見交換、討議、提言、協力で前に進めたのだと思います。いつも多くの市民の皆さんの応援は何物にも代えがたいものでした。皆さんと何とか信念を貫けたことで、実践の姿を思うとき、明るさと懐かしさがよみがえります。また身の引き締まる思いになります」(はじめに)と感慨を。有効署名2万5258人を添え柏崎市議会に請求したプルサーマル計画の住民投票直接請求については「6時間の討論の末、予想通り賛成9反対19で条例案を否決。市長や反対議員の発言には全く市民の姿はなく、やり場のない寂しさに落ちる。しかし否定されたとは言え、柏崎に吹いた風は戻ることなく更に新しい風を吹かさなければと市民時代への思いを巡らした。」と当時を振り返っている。

石仏の力(せきぶつのちから)
新潟県立歴史博物館で2013年に開催された企画展。新潟県石仏の会創立20周年を記念し新潟県内の地蔵や道祖神など約150点を展示、中沢新一による記念講演会「石と仏の出会い」、鈴木悟司(石工)による製作実演・体験「心で石仏づくり」が行われた。柏崎市関係ではねまり地蔵、立地蔵が「奇談北国巡杖記」「滑稽旅烏」「柏崎四十八題」などの諸史料とともに紹介されると共に、ねまり地蔵の実物大レプリカ(鈴木悟司製作、像高184センチ)も注目を集めた。双体道祖神の代表例として柏崎市蕨野の肩組握手像、同東長鳥鷹之巣の肩組祝言像の実物が展示され、米山信仰についても「江戸中期以降、米山は作神(農業神)の山として中越地方を中心に信仰が広まった。米山の加護を求める農民たちは代参講としての米山講を組織し、毎年代表者が米山参りをして虫除けの護符などを持ち帰った。米山講では身近な場所に米山塔を造立し、日ごろから豊作を祈った。」といった詳細な説明が行われた。本展ポスター、図録の表紙は柏崎市高柳町磯之辺の風神像が飾り、柏崎の石仏の多彩さを再認識する機会となった。

全国民俗芸能「風流」保存・振興連合会(ぜんこくみんぞくげいのう「ふりゅう」ほぞん・しんこうれんごうかい)
通称全風連(ぜんふれん)。全国各地の41保護団体で組織。2019年設立で、事務局は香川県まんのう町教育委員会生涯学習課に設置。①民俗芸能「風流」の保存継承においては、後継者の減少や高齢化が急速に進行しており。今後保存継承が困難になることから保存会同士が交流を行い、課題の改善を図る。②「風流」の適切な保存・継承を行うため調査研究を行う。③地域の誇りとして「風流」のユネスコ無形文化遺産登録に向けた取り組みを行う。-を活動方針とし、特にユネスコ無形文化遺産登録においては文化庁と密接に連携、連動し、登録実現(2022年)の原動力となり、政府間委員会は「全風連はあらゆる年齢とジェンダーのメンバーにより構成されており、文化庁と地方自治体の支援により、彼らは一丸となり提案書を準備した。」と評価した。なお風流について同会では「室町時代の後期には、衣装や手に持つものに趣向を凝らした集団による歌と踊りが『風流』あるいは『風流踊』と呼ばれるようになり、芸能としての風流は庶民の間で大流行しました。風流の芸能は、ある時代、ある社会に生きる人々が、共通に持つ美意識の上に出来上がってきたものであり、『庶民の情熱』が作り上げ、庶民によって受け継がれてきたことが、風流の特色の一つであります。」「また、風流の芸能には様々な形態があり、太鼓踊に念仏が取り込まれたり、太鼓踊と念仏踊の結合がみられたり、念仏踊から小歌踊や風流踊、盆踊が派生したりします。一見違うように見えますが、少しずつ鎖のように重なり、あたかも一つの輪を作っているような感じ、というのが風流の芸能であります。」(全風連だより創刊号)と定義している。

戦後70年~今こそ伝えたい戦争と平和(せんご70ねん~いまこそつたえたいせんそうとへいわ)
東京大空襲(1945年3月10日)の生存者である清水泰子(柏崎市南条)が戦後70年の2015年にかしわざき市民大学・博物館連携講座で行った講演。錦糸町(東京都墨田区)に生まれ育った清水は「大空襲の際は5歳で、2歳の妹を背中におぶって必死で逃げた。爆発音を聞いて家の外に出た時は、もう辺りは真っ赤だった。あちこちで、助けて…という声を聞いたが、5歳ではどうにもならなかった。人が死んで重なり合っている上を逃げた。隅田川の水は焼夷弾の爆風で熱いお湯になっていた。」と述べるとともに「大空襲が終わり、死体をかき分けて母を探したが結局見つからなかった。どんな姿でもいいから母に会いたかった。天皇の就寝を妨げることを恐れ、警報発令が遅れたと聞いた。(屍を踏みながら逃げたので)今でもマットレスなどの柔らかいものを踏むと当時の感触を思い出し怖さが蘇る。戦争は絶対にやってはいけない。」と語った。その後親戚に預けられ、苦労しながらも育った清水は「自分を育ててくれ、高校にも行かせてくれた養父母には感謝の念でいっぱい。母の死を認めたくなかったので(大空襲の犠牲者を祀る)東京都慰霊堂に行くことを避けていたが、戦後70年にあたり妹と訪ねた。ようやく母と会え、気持ちの整理がついた。今後も語り部の活動を続けたい。」と結んだ。同年の第22回シニア作品展・じまん展の特設コーナー「戦後70年の忘れ形見」では、大空襲の猛火でゴム部分が溶けた清水のモンペが展示され、関心を集めた。

戦場のエロイカ・シンフォニー(せんじょうのえろいか・しんふぉにー)
太平洋戦争中の1945年、情報士官としてホノルルの陸海軍共同情報局に勤務したドナルド・キーンならではのエピソード。従軍日記の翻訳に従事し、その深い内容に驚き日本人への共感を深めていたキーンは、上官に無断でベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」(エロイカ・シンフォニー)のレコードを日本人捕虜に聴かせるため奔走した。『自叙伝 決定版』(著作集第10巻)ではその日の光景を「私は捕虜たちを集めて、まず初めは日本の音楽、それからベートーヴェンの交響曲をやりますと告げた。日本音楽のレコードは、果たして彼らはどんな歌が気に入るだろうかという知識は何もなしに、ホノルルの店で買ったものだった。(略)私にとって大事だったのはもちろんベートーヴェンのほうで、日本の流行歌を加えたのは、クラシック音楽が嫌いな捕虜に、自分たちが無視されたという疎外感を与えたくないからだった。私はまず日本の流行歌を四、五枚かけた。」「初めのうちは、敵国の捕虜と一緒に音楽を鑑賞しているという行為に、私もいささか自意識過剰気味になっていた。しかし音楽を聴いている彼らの顔を見ているうちに、このような状況のもとでは敵だの味方だのという観念自体がもはや無意味だという事実に気づいた。だからしばらく経つと、私はただ音楽のことしか考えないで、ひたすら耳を傾けた。」と描写する。捕虜の一人に同盟通信記者の髙橋義樹(堀川潭)がいたことから、日本人側からも「運命の卵」(1957年)として記録されることになった。2020年にはドナルド・キーン・センター柏崎で戦後75年を記念し再現演奏会が開催されている。柏新時報2020年9月11日号の「蓄音機と『エロイカ』」では再現のため当時の英コロンビア製のポータブル蓄音機を蒐集家から入手した経緯を含め演奏会の模様を紹介、「再現演奏会ではレコード特有のスクラッチノイズもなんだか温かく聞こえた。」と報じている。

専福寺と三階節(せんぷくじとさんがいぶし)
専福寺は柏崎市東本町1にある真宗大谷派寺院。三階節との縁深く「三階節発祥ゆかりの寺」碑、柏崎青年会議所のまちしるべ「三階節」が建立されている。まちしるべには「米山さんから雲がでた…の歌詞で全国に知られている三階節は、十代将軍徳川家治の時代に盆踊り唄として流行しました。三階節の名は、仏教用語の『三界』からとも、また同じ文句を三回繰り返すからともいわれています。ここ専福寺三代目のお坊さん『しげさ』の法話は大変うまく、近くの人々が説教のありがたさをたたえたのが始まりだということです。」と紹介すると共に、「ノーベル文学賞を受賞した川端康成の名作『雪国』にも、三階節が登場するシーンがあり、詩情の世界に彩りをそえています。」としている。三階節がルーツとされる隠岐しげさ節の由来碑(西郷港近くの隠岐ふるさと直売所あんき市場前)でも「越後専福寺の法話が巧みで美男子の僧侶を賞讃して唄ったのがはじまりと言われている。」として同寺が紹介される。

【そ】
続 岐点の軌跡―老いてなお岐点あり(ぞく きてんのきせき-おいてなおきてんあり)
筑波大学名誉教授、元学長の北原保雄が新潟産業大学学長を務めた5年間を振り返った回想録。2020年刊。『岐点の軌跡』(2011年)の続編にあたる。「前著を執筆の際にはもう大きな分岐点はないだろうと思っていたのですが、私には大切なふるさとがありました。本書は、ふるさとの大学とふるさとそのものの再興のために努力した奮闘の記録です。ふるさとに戻ったのが、私の人生の最後にして最大の岐点でした。」(関係者謹呈に添えられた一文)としており、学長就任時の心境を「(当時の広川学長が)この難局を乗り切れるのは先生しかいないと言う。言い合いの根に負けたというか、郷土愛が湧いてきたのか、絶対に承諾してはならないという、あれだけ固かった決意が少しゆらいできた。」「本学の経営は、まさに危機に瀕している。このままで二、三年経つと破綻してしまうかもしれない。(略)高齢だが、主治医の診断によれば、今のところ、特に問題な所はないということだ。」などと綴っている。持論であった公立大学法人化へ奮闘した記録では「桜井柏崎市長への書簡」など市、市議会とのやりとりを含め豊富な資料を残し、「短い期間ではあったが、異郷にあっては味わうことのできないふるさとでの体験を人生の最後においてさせてもらった。老妻には二重生活で苦労をかけた。特に暖国育ちの妻にとって雪国の寒い冬は辛かっただろう。妻の協力があってこその二重生活であり心から感謝するが、結果的には、この選択は間違いではなかった。賢明な選択だった。そう信じたい。」(あとがき)と振り返っている。

続・我が音楽遍歴(ぞく・わがおんがくへんれき)
柏崎市新道出身の音楽家・鴨下三郎が自らの音楽人生を振り返った「我が音楽遍歴」の続編。鴨下は中山晋平や大村能章に師事、市制20周年記念歌「柏崎慕情」、柏崎のPRソング「海の柏崎」で知られる。柏新時報2007年1月1日号に掲載された。「大村先生と三味線」「ジャズとの出逢い」「とっても良いよ…」「シナトラ、サッチモ」「桂子さんの訪問」「独立とリサイタル」「映画音楽の話は」「なぜボウリング?」「市制50周年の思い出」からなり、中山晋平の逝去後、大村能章の弟子となった経緯や活動などについて、「大村先生の内弟子として入る時、先生は『学校の方は東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)で手続きは終わっているから来週から行くように」とのお話でした。学校は雑司が谷にあり、鬼子母神の近くで、また池袋から直進で10分程の所にありました。学校は、2年編入で作曲科の邦楽専攻でした…」「4月に入って間もなく、米軍基地キャンプ・ドレークのマネージャーが我が作曲科を訪問され、レコードから『耳』でコピーして編曲、楽譜にするアルバイトの話を持って来ました。(略)とにかく『2、3曲テストさせて欲しい』とマネージャーに申し入れ、了解を得てジャズのシングル盤を家に持ち帰りました。書生部屋の昔の蓄音機で初めて耳にしたのが名曲『スターダスト』でした。あまりに感激し、この仕事は決して無駄にはならないと、その時確信しました。」「もちろん書生の部屋にはピアノは無く、和音コードの聞き分けは大変苦労しました。1週間後に練馬の先にあるキャンプ地を訪ね、フロアマネージャーに編曲した譜面を渡すと、『次のステージで演奏してみるから、君も一緒に聞きなさい』と言われました。」などと綴り、「米軍キャンプの将校クラブには朝鮮戦争で待機している軍人のために、フランク・シナトラ、ナット・キングコール、ルイ・アームストロング等の超豪華アーティストが来日しました。私は、アレンジに関わった一人として、ミスなく演奏が終了する事をステージの袖で祈りながら、豪華ステージを堪能しました。日本人のバンドも交替用員として常時待機していて、その中に与田輝雄とシックス・レモンズやタンゴの藤沢嵐子、ハワイアンのバッキー白片などがいて…」などと舞台裏を書き、戦後音楽史としても貴重。

『曾良随行日記』と柏崎(『そらずいこうにっき』とかしわざき)
『おくのほそ道』の越後路は極端な省略がなされているが、1943年に山本安三郎が『曾良旅日記』を初めて翻刻出版したなかに「至柏崎ニ△△△惣兵衛ヘ弥三郎状届宿ナト云付ケルトイヘドモ不快シテ出ツ道迄両度人走テ止不止シテ出」(元禄2年7月5日)とあり、これによって柏崎を含む越後路での動向研究は大いに進んだ。「△天や弥惣?」との頭注を付した山本に対し、柏崎市出身の大星哲夫は『柏崎文庫』と大天屋の菩提寺・西光寺での調査をふまえ「天や弥惣兵衛」が「八代目弥惣兵衛(大庄屋)」であることを突き止めた。「天屋の対応が悪かったため芭蕉曾良主従を怒らせた」とする解釈が主流だが、「宿ナト(ド)云付ル」の主語は誰なのか読み取れない部分があり、これまでも疑問が呈されてきた。前述の大星哲夫は『越後路の芭蕉』(1978年)で「天や弥惣兵衛方へ弥三郎の手紙を届け、宿などを言い付けたけれど、面白くないことがあって、宿泊を断って出た。道まで二回も使用人が追いかけて来て、戻るようすすめたが断った。小雨が時々降った。午後4時すぎに鉢崎に着いた。たわらや六良兵衛方に宿った。」と口語訳し「不快」を「激怒」「憤激」と言い換えたうえで「壮年35歳の弥惣兵衛は自他共にゆるす町の大顔役であった。弊衣の旅僧二人が『宿など云付る』と横柄な態度で弥三郎の添書を突きつけたので、かっとして断ったのかも知れない。」との解説を加えた。これに対して「宿ナド云付ル」の主語を「天や弥惣兵衛」と明示したのは近世文学研究者の上野洋三だ。上野は徹底した本文研究で知られ、4月2日(玉生)、4月29日(郡山)、7月6日(直江津)の各記述と比較し大星説を批判、「『不快』は、曾良や芭蕉の『激怒』『憤激』なのではなく、そのような、宿の状態についての記述であろう。また、右の4月2日条においても『宿カル』とあるように、曾良の立場から『云付ル』ということはなかったように思われる。」「曾良が『横柄な態度で』宿を『云付ル』というのは、やはり誤解であり、その宿の『不快』さに、『激怒・憤激』したというのも空想に過ぎるであろう。ここは、せいぜい、あまりのひどさに、コレハアカンナ、とあきらめて、宿泊をあきらめ、辞退して、これならもう少し歩いて、宿屋らしい宿屋をさがす方がましだというので、再び出立したのであろう。」「合計44キロの行程は、一日に十里をふつうとするこの頃の旅程として、とびきり長くはない。たしかに、柏崎からさらに16キロを歩いて鉢崎にいたる道は、往時は険阻な米山峠を含むものとしても、この点から『芭蕉を憤激させ、雨のそぼ降る中を米山峠16キロの悪路を鉢崎まで走らせた弥惣兵衛』というような理解に導くことは、やはり行きすぎた空想であろう。」(『芭蕉の表現』、岩波現代文庫)と結論付けている。櫻井武次郎も上野説を支持、「柏崎に着いて、弥三郎の手紙を天屋弥惣兵衛に届けて宿を頼んだ。日記の『宿ナド云付ルトイヘドモ、不快シテ出ヅ』について、従来は、天屋の態度に不快を感じた芭蕉が出ていったと解されていたが、ここは上野洋三氏の言うように、完全な誤読だろう。天屋が宿を手配してくれたのだが、その宿が『不快』だったので、そのまま出たのである。『道迄両度人走テ止、不止シテ出』、つまり二度も人を走らせて芭蕉たちを止めようとしたのは、宿を頼まれた者だったわけだ。他ならぬ天屋からの紹介であったからだろう。」(『奥の細道行脚』、2006年)と述べている。なお上野洋三、櫻井武次郎は野坡本の鑑定者である。また「44キロ」の解釈については元柏崎市ガス水道事業管理者の月橋夽が『芭蕉が泊った鉢崎宿俵屋』(1995年)で「昔は出雲崎-柏崎を7里(28キロ)といった。柏崎-鉢崎は4里(16キロ)といっていたから、単純計算をすれば44キロということになる。一日にこれだけ歩いたのだから健脚だという人がいる。(略)佐渡に出た金を江戸に送るのには船で越佐海峡を渡って出雲崎に上陸し、ここで一泊する。翌日は陸路江戸へ向うのであるが、その日の泊りは鉢崎なのである。出雲崎-鉢崎は一日行程が常識なのである。」と分析している。

空を飛ぶ米俵(そらをとぶこめだわら)
米山開山縁起として知られ、米山を開いた泰澄の験力を象徴する飛鉢譚でもある。最もシンプルなのは『柏崎市伝説集』に載る「米山縁起」で「和銅五年泰澄禅師、越前の国から来て、この山(当時五倫山という)で授行中ここより鉄鉢を飛ばして食を乞われていた。時に出羽の住人で上部(かんべ)の清定が上米を積んでこの沖を通られた時、禅師は鉄鉢を飛ばして供米を乞われた。清定はこれを拒否するや船中の米一俵も余さず、雁のように相連なって五輪山に飛んできた。清定は恐れて許しを乞うた。この時から五倫山を米山と呼ぶようになった」とし、また鉢を飛ばしていたのは泰澄の弟子の沙弥で「清定は驚いて山に登り泰澄にあい『この米をなくしては死罪になるので、ぜひとも返してくれ』と頼んだ。泰澄がいうには『おれは知らん、おそらくはふもとの沙弥のしわざであろう。行って頼むがよい』と、清定は山を下り沙弥のいる所に行き深くわびた。」との異説も。沙弥は臥行者のことか。ストーリー仕立ての『柏崎のむかしばなし』では米が飛来する様を「『取れるものなら取るがいい。』と清定が言い終わったとたん、鉄鉢がツーッと飛んで、米俵の下にもぐりこむと、その米俵を乗せてツーイと空高く飛び上がり、五倫山にむかって飛んで行きました。驚いたことには、それに続いて千俵の米が、一俵残らず、ツーイ、ツーイと空高く飛び上り、一列になって、五倫山にむかって雁のように飛んでいくではありませんか。そして、五倫山のてっぺんに来ると、ザザアッザザアッと白い米が俵の中から降りそそぎ、五倫山はお米で真っ白になりました。『米の山だ。』『米山だ。』と鉢崎の人は叫びました。」と丁寧に描く。『柏崎市史』は「鉄鉢が飛行して米俵を運ぶという話は、大和の信貴山の僧命蓮に関する奇瑞物語を描いた『信貴山縁起』の挿話に酷似する…」と指摘する。なお、清定は落髪して泰澄の弟子・浄定行者となり、元正天皇の病を治しに泰澄が都に上った際に活躍(仏具を忘れた泰澄に代わり空を飛んで白山まで戻った)した。泰澄生誕地の泰澄寺(福井県福井市)には泰澄ともに浄定行者、臥行者が祀られる。

【た】
泰阿弥挽歌(たいあみばんか)
文部省国宝鑑査官を務めた田山方南が柏崎出身の庭師・田中泰阿弥の臨終に際し書き送った追悼文。「遺友方南」の署名がある。出会いとなった「くゝと鳴き、かゝと鳴くなるかはず道」の越後沢海(そうみ、北方文化博物館)から最晩年の仕事となった茶道宗徧流家元邸庭園(鎌倉市)、関邸茶室及び庭園(茨城県下館市)を振り返りながら「良寛風の歌と書に、孤の尊厳をたゝへたる」「石と取り組む姿こそ真骨頂」と称え「旅に病み、旅に死すてう、泰阿弥のさすらひの旅終るとも、君がのこせし石や木に、その永遠の魂と、禅の悟りを伝へなむ。」と結んでいる。1999年北方文化博物館で開催された「孤高の庭匠 田中泰阿弥展」で公開された。致道博物館内の庭園「酒井氏庭園」の修復では方南から「これ(修復)ができるのは泰阿弥しかいない」との推挙を受け、荒れ果てた状態の同邸園を復旧整備し1976年の国の名勝指定に結びつけた。また泰阿弥の命名も方南で「足利義政同朋衆の相阿弥(将軍お抱えの絵師、鑑定家、作庭家)の生き方に似ているとして泰阿弥の称号を勧めた」と伝えられ、2人には強い信頼関係があった。

「第三のアザミ」調査へ (「だいさんのあざみ」ちょうさへ)
新種「ヨネヤマアザミ」、「タンネアザミ」を発見した植物研究家・柳田宏光(小千谷市)による特別寄稿で、柏新時報2014年1月1日号に掲載された。新種発見の経緯を含め「ヨネヤマアザミの最大の特徴は、頭花が上を向いて咲くことです。外国のアザミでは上向きが多くありますが、日本では極限られており、ヨネヤマアザミは、その中の一種です。」「ヨネヤマアザミに比べ、タンネアザミは極端に枝が横に、直角に近いくらいに開いて、その先に頭花が点頭します。もう一つの特徴はヨネヤマアザミは総苞片が短いのに比べ、タンネアザミは長く反り返る事です。」「タンネアザミについては、昨年、谷根地区の皆さんの要望が叶えられ、学名『キルシウム・タンネンセ・カドタ』と付けられました。一度名付けられれば永久にその名は世界に残ります。本当におめでとうございました。」と振り返ると共に、谷根の沢筋で見つかった「ナンブアザミ(県下に普通に秋咲くアザミ)に似ていながら、非常に葉の大きなアザミ」について「国立科学博物館植物研究部の門田裕一先生が、このアザミに大変興味を持たれ『柏崎、第三のアザミになるやもしれません‼とコメントされ、帰京されました。」「(谷根の株は台風の出水で流されたが)旗持山周辺を調査したところ、数株の存在を見つけることが出来ました。これからもこの辺り一帯を広く調査し、分布を確認したいと考えており、今秋も調査を継続します。」と意欲を見せ「柏崎の最上屋さんがヨネヤマアザミ、タンネアザミというお菓子を作られ、販売が始まったこと、本当にうれしく思います。」と結んでいる。

「第四銀行」がトラウマ(「だいしぎんこう」がとらうま)
旧日石加工柏崎工場の赤れんが棟保存運動が盛り上がった背景を考察した柏新時報の囲み記事で、2005年9月16日号に掲載された。世論喚起と活用模索のため開催された「赤れんが夢だし会議」(赤れんが棟を愛する会主催、同年9月)では「柏崎はこれまで大切なものを2つも無くしている。ひとつは柏崎小にあった明治天皇行在所、もうひとつは東本町再開発で取り壊された第四銀行柏崎支店※。新潟市の歴史博物館に移築された住吉町支店の重厚な姿を見ると(柏崎でどうして保存が出来なかったのかと)涙が出る。日石のれんが棟を3つ目にしてはならない。」との発言があった。これを契機に「(柏崎支店は)あっと言う間に壊された」「無くなってからその価値に気づいた」といった意見が続いた。会場の雰囲気を通した市民感情を「東本町の象徴だった第四銀行の建物への愛着を語る市民が実に多いということだ。」「市民にとって(あっという間に壊されたことが)一つの『トラウマ』になっているということである。」と解説、「柏崎は文化度が高いと言われているが、古いもの、大切なものを次々と壊すようではどうか。」「再開発が進み、柏崎はとてもつまらない町になってしまった。どこにでもある普通の町では良くないと思う。」等の発言にもふれ「簡単に募金といっても、1億円以上という規模の額である。しかし愛する会では『やってやれない額ではない。時間がかかってもやり抜きたい』という強い気持を持ってこれまでのパターンを払拭しようとしている。」「愛する会の世話人の一人(女性)は『市民の力量が試されているのではないか』。新しい市民運動として、今後の動向に注目したい。」と結んでいる。※もともとは柏崎銀行として1929年竣工、施工は柏崎出身の内山熊八郎が活躍した清水組。内山は辰野金吾に「僕の設計は内山君でなければ任せられない」と信用された。柏崎支店は辰野の設計ではないが、赤れんがに白い石を配す「辰野式建築」を彷彿とさせる

「大正の美と心 中村彝」展(「たいしょうのびとこころ なかむらつね」てん)
1997年に新潟県立近代美術館で開催された中村彝の大規模な回顧展。彝の初めての個展が1920年に柏崎で開催された事実に注目し、柏崎での初個展の内容を同館蔵の「洲崎義郎氏の肖像」を中心に可能なかぎり再現、重要文化財の「エロシェンコ氏の像」(東京国立近代美術館蔵)の特別展示が実現した。さらに中村彝を物心両面から支え初個展のために奔走した洲崎義郎との「精神的血縁」を感じさせる書簡、柏崎での初個展の会場写真(黒船館蔵)なども展示された。また、同展図録の分冊として中村彝の洲崎義郎宛て書簡120通を「粕川一雄ノート」(粕川は元比角小教諭で洲崎の依頼で彝の書簡をまとめた)の研究成果なども含め一冊にまとめ、柏崎の縁を一層浮き彫りにすると共に研究推進に役立てた。開場式(1997年10月31日)で前川誠郎館長は「単に不世出の大画家の回顧展というだけでなく、柏崎という文化風土や洲崎との友情のあとをあわせて展示し、特色のある内容となった。」と挨拶、「エロシェンコ氏の像」と「洲崎義郎氏の肖像」は会場奥に並んで展示され、同展の責任者である小見秀男学芸係長は「彝の初個展が、東京でもなく、出身地の水戸でもなく、柏崎で開催されたことは、現在の中村彝の評価を考えると本当にすごいこと」と強調するとともに「エロシェンコ氏の肖像は柏崎の洲崎コレクションに加わるはずだった」とのエピソードを披露した。

第2回全国郷土芸能大会(だい2かいぜんこくきょうどげいのうたいかい)
1951年11月1日に文部省藝術祭執行委員会などの主催で日比谷公会堂を会場に開催され、綾子舞下野保存会一行15人(高橋時中会長)が出演して大評判となり、文化財指定の端緒を作った。演目は昼の部が三番叟、小原木踊、亀の舞、海老すくい、夜の部が堺踊、三条小鍛治で、翌11月2日は明治神宮仮殿(1945年4月13日の空襲で焼失したため)に三番叟、小原木踊、堺踊、明神狂を奉納した。公演の契機は前年の1950年に早稲田大学・本田安次が鵜川村に来村した綾子舞実地調査があり、本田は「危ない瀬戸際にあり、これはぜひ東京に紹介する必要がある」(出羽・本歌・入羽)として奔走。第2回全国郷土芸能大会への出演が決定した時、高橋時中は「綾子舞万々歳」と喜び、下野保存会は出演に向け約1か月半の練習を重ねたという。綾子舞があまりに古歌舞伎踊にそっくりだったことから、鑑賞した折口信夫が「本田のヤツがこういう風にアレンジして舞台に上げたのではないか、と疑った」(本田安次の証言)との逸話も残る。

大八車の真商人(だいはちぐるまのしんしょうしん)
出雲崎町の名誉町民で元良寛記念館理事長の青山庄司の自叙伝。2006年刊。青山は出雲崎町石井町出身、大八車から起業し呉服商人として大成した半生を綴っている。青山は2歳に満たないころ、左足首を脱臼したのが原因で生涯足が不自由になった。これが奮闘努力の原点となり「人よりも早く起きるのにはもう一つわけがあった。店には大八車が10台ほどあったが、一番調子のいい大八車を確保しなければならないのである。大八車は誰がどれと決まっておらず、早い者勝ちだった。実際に営業で自分が引いていくのだから、調子の悪いガタガタの大八車だと大変なのだ。」(藤武良商店東京店に配属後大八車にモスリンを積んで品川、川崎、新宿などへと営業に歩くシーン)と振り返り「不自由な足に私は一度も劣等感を持ったことはない。足は悪かったし、実家は貧乏だったが、それは私の発奮材料になった。(略)身体の不自由な人間は、最初から普通の人に負けている。だから、普通の人以上に努力をしなければならないのだ。」「現実を受け入れて、その逆境を乗り越える努力をする。乗り越えられない障害など神様は与えないはずだ。どうやって生きていくかを懸命に模索して、自分がよしと思ったことを実行する。そうすれば必ず道は開けると思う。要は人に勝つよりも自分に負けないことだ。」と書いている。イオングループ名誉会長の岡田卓也らが発起人となった出版記念会(2006年4月6日、浅草ビューホテル)には、コメリ会長の捧賢一など交流のある多くの財界人が出席した。

太平洋戦争とドナルド・キーン(たいへいようせんそうとどなるど・きーん)
2015年にドナルド・キーン・センター柏崎で開催された特別企画展。戦後70年にあたり、海軍の語学士官として激戦地ガダルカナル島で戦死した日本兵の軍人日記を読み、その人間性に感動し日本文学研究に一生を捧げることになったドナルド・キーンの原点を探る企画展で、「戦場のエロイカ・シンフォニー」など戦争中の足跡を紹介するパネル展示と共に銃弾の後が残る軍人日記も公開。開場式でドナルド・キーンは「もし1941年に、日本とアメリカとの間に戦争が起こっていなかったとしたら、私が自分の一生を日本研究という仕事に捧げたとは思えない。」と述べたうえで「翻訳に従事したハワイにある海軍の事務所には皆が避けていた箱があった。その中には(日本軍が兵士に支給していた)軍人日記が入っていた。なぜ避けていたかというと、ひどい臭いがしていたからだった。蓋を開け、臭いの正体が分かった。軍人日記は死んだ日本の兵隊から取ったもので、臭いは血痕だった。臭いに困惑しながらも日記を読むと、食べ物や水が殆どない状態での激しい戦闘の様子が綴られ、戦争がどんなものか知った。戦争はひどいものです。」と体験を語り「私は反戦主義者です。戦争は一番怖いもの、一番避けたいものでした。私は戦争という人間の行為が嫌いです。」と強調した。「戦場のエロイカ・シンフォニー」は別項。

第60回関東ブロック民俗芸能大会(だい60かいかんとうぶろっくみんぞくげいのうたいかい)
2018年10月21日に柏崎市文化会館アルフォーレで開催された。文化庁の助成により関東近県に伝承されている民俗芸能が日頃の伝承成果を披露する大会で、柏崎市での開催は1996年の第38回関東ブロック民俗芸能大会(国際民俗芸能フェスティバル)以来2回目。新潟県教育委員会と同実行委員会が主催した。田京の三番叟(静岡県伊豆の国市)、新保広大寺節(十日町市)、下市之瀬の獅子舞(山梨県南アルプス市)、上山川諏訪神社太々神楽(茨城県結城市)、日和山神社鬼獅子(長野県中野市)、八木節(栃木県足利市)、綾子舞(柏崎市)が出演。綾子舞は、下野保存会の若手メンバーを中心に海老すくい、恵比寿舞、小原木踊を披露した。解説を担当した芸能解説者の星野紘は「あでやかで素晴らしい。いつまでも綾子舞を見ていたいと思った。心洗われる思いがした。」と絶賛し、「7団体から多様な発表していただいた。2020東京オリンピックに向けて日本ならではの民俗芸能の発信をしていく好機。ご来場の皆さんからもご協力をお願いしたい。」と締めくくった。関東ブロック民俗芸能大会は関東甲信越静の1都10県で回り持ち開催されており、綾子舞は1969年(第11回、新潟市)、1996年(第38回、柏崎市)、2007年(第49回、長岡市)、2018年(第60回、柏崎市)の4回出演している。

高崎市臨海学校(たかさきしりんかいがっこう)
群馬県高崎市が柏崎市米山小学校笠島分校跡地を取得、改修して1967年に開設。施設整備を進めながら50年にわたって児童、引率教員を毎年4000人規模で受け入れたが、2度の地震被害を受け2016年に閉校した。入校者総数は23万8179人(高崎市まとめ)。地元笠島が地域挙げて受け入れに尽力し「海原あおくひろびろと/望めばはるか佐渡が島/水平線に雲湧いて/笠島笠島/ぼくの臨海学校」といった臨海学校校歌も歌われた。最終年度の2016年入校式で高崎市の飯野眞幸教育長は「50年続いてきた臨海学校が今年で終了することになった。我が子や孫のように温かく見守っていただいている地元の皆さんに感謝したい。ルールを守り、たくさんの思い出を作り、有終の美をかざってほしい」と述べた。「3世代にわたって臨海学校にきた家庭もあり、海水浴といえば笠島を思い出すほど。高崎市民にとって柏崎の海は特別の存在となっていた。」(高崎市教育委員会)という。こういった縁もあり高崎、柏崎米山の両ライオンズクラブが姉妹提携、現在も交流活動を行っている。

高須四兄弟(たかすよんきょうだい)
2014年に新宿区立新宿歴史博物館で開催された特別展。副題は「新宿・荒木町に生まれた幕末維新」。同館近くの荒木町には高須藩松平家(尾張徳川家の分家で同家の支藩、代々摂津守を名乗り尾張徳川本家に嗣子のない場合は養子を出した)の上屋敷があった。第10代藩主松平義建の子としてここで生まれ他家に養子に出た徳川慶勝(本家尾張藩を継ぎ明治新政府に与した)、一橋茂栄(維新時、徳川家を代表して明治政府と交渉する立場に立った)、容保(新政府軍に徹底抗戦した会津藩主、京都守護職)、定敬(桑名藩主、京都所司代)兄弟は、それぞれの立場で激動の幕末維新を生き抜き、「高須四兄弟」と呼ばれた。展示は「維新前夜」、「京都へ-一会桑体制」、「東へ-江戸・柏崎・会津、箱館」など7章で構成され、定敬関係では京都所司代時代の書類箱や大政奉還許可を伝える書状、遺墨などが展示された。

高橋実文学展(たかはしみのるぶんがくてん)
2005年に長岡市立中央図書館で開催された。高橋実(長岡市小国町楢沢)は新潟大学教育学部の卒論で『北越雪譜』に取り組み、その体験を著した小説『雪残る村』が第52回芥川賞候補となった。2001年の定年退職まで教員を務めるとともに『北越雪譜』の研究や小国芸術村の活動や機関誌「へんなか」の編集にあたり、瞽女唄ネットワークの立ち上げにも関わるなど数々の文化活動を展開した50年間を紹介した。生い立ち関係、文学活動、北越雪譜関係、民俗・民話関係、地方文化活動関係、自費出版本コーナーの6部構成で『雪残る村』の生原稿や芥川賞予選通知(日本文学振興会)が注目された。会期中、高橋自身による講演「北越雪譜の魅力」「昔話の魅力」、昔話語りや瞽女唄公演なども行われた。

高浜郷土ふるさとかるた(たかはまきょうどふるさとかるた)
柏崎市立高浜小学校が1933年に郷土学習の資料として作成したかるたで「高浜のことをよく知り、高浜を大事にし、高浜を発展させていく人間に育ってほしいという願いをこめ、高木栄太郎先生が作文し、上村義平校長が絵をかいた。時代は移り、忘れ去られようとしていたが、多くの人たちが昔の高浜かるたを探して見つけて下さった」(『高浜ものがたり』1993年)という。「いかつり舟の灯(ひ)が見える」にはじまる48枚で、日蓮の弟子の日朗の滞在や激戦が展開された椎谷戦争、木喰仏13体が安置される机立観音堂、えんま市の起こりとなった椎谷の馬市、椎谷観音堂の長い石段を18年かけて築いた頓入坊や観音さんがまつられている天拝山、椎谷戦争の惨状など、さらに340年前に二そうの漁船が嵐に流され北海道に流れ着いたことから始まった松前地方の人々との交流や、明治天皇ご巡幸の際に命名された椎谷岬の「絶景坂」など、また「ぬた」と初いわし、のり、角網と鮭、きす釣り舟など漁業関係の言葉が多いのも特徴。同校の創立100周年に当たる2001年に宮川コミュニティ振興協議会創立20周年記念事業として復刻した。

高柳の三階節考(たかやなぎのさんがいぶしこう)
高柳町の郷土史研究家・春日義一による論考。高柳町史本文編(1985年)に掲載。「高柳の三階節には二ツの流れがある。ひとつは頸城地方から伝わったと思われるもので門出や石黒に伝わるしげさ節。もうひとつは栃ヶ原に伝わる三階節である」としたうえで高柳の三階節の歌詞を紹介している。「しげさの御参詣」「蝶々トンボやキリギリス」「蔵の戸前でちょいと出会った」「高い山から谷見れば」など柏崎の三階節と同一のもの、「米山さんから雲が出た」の類型と見られる「西の方から雲が出た」、高柳オリジナルの「三角田の水口とめても/止めたとおもいどあとからドンドンとおちてくる」などの歌詞を見ることができる。また高柳の三階節の特徴である「踊りがダレた時とか、音頭とりが疲れたときなど、踊りに変化を持たせるために、音頭取りの判断で入れる」という「イレコ」(インヤ、インヤ、ホニネ/ネズミコンバン、困リマースハヤシヨーイヨイヨイ/ウチノ猫奴ガンヤ道楽猫デヨーイヨーイヨーイ/ニシン五束ニヤ、カツブシ五厘ダシヨヨーイヨーイヨーイ/ソレデ足ラナクニヤネヨーイヨイヨイ/池の中の鯉鮒ダンヨ、ヤレコラセ)を採録していて興味深い。

托鉢貞心尼像(たくはつていしんにぞう)
貞心尼の生誕200年にあたる1997年、全国各地の約700人から寄せられた浄財をもとにソフィアセンター敷地内(柏崎高校側)に建立、全国初の貞心尼像として話題になった。富山県高岡市の石黒孫七(良寛の里・良寛貞心尼対面の像作者)が貞心尼が良寛に出会った30歳当時をイメージし製作。足下には貞心尼が好きだった犬を配し、アクセントとした。原画は石黒春海(孫七夫人)。台座の字は柏崎市内の書家で敬慕者の白倉南寉が揮ごう。台座をふくめ高さ約2・5メートルで「はちすの露」歌碑と向かいあって立つ。除幕式(1997年11月13日)で柏崎良寛貞心会の田村甚三郎会長は「皆さんの熱意で、柏崎を愛し、柏崎で亡くなった聖愛の人・貞心尼の像を立派に完成させることができた。」とあいさつ、全国良寛会の斎藤信夫副会長は「貞心尼は、良寛さんの晩年をファンタジックにいろどった人、これを機にいっそうの顕彰にあたっていかなければならない。」と祝辞を述べた。

竹田満(たけだみつる、1942-2002)
早稲田大学教育学部卒業後、東映動画でアニメ映画監督を務めた。1968年に帰柏し、老舗文具店・竹源の跡を継ぎ、4代目社長に就任。柏崎商工会議所常議員、柏崎市商店連合会副理事長、柏崎潮風温泉取締役、柏崎ショッピングモール副社長、小鳩幼稚園理事長、妙行寺檀徒総代などの地域の様々な要職を務めた。早大在学中にビッグバンドに在籍し、様々な打楽器の奏法を研究したという経験を生かし日本海太鼓を創設、指導にあたるとともに、県内の様々な太鼓の創作につとめ、その数は50曲にも及んだ。イベント仕掛け人としても知られた。著書に和太鼓手習鑑『鼓夢』や『柏崎人物満茶羅』。東映動画時代の縁で、アニメ映画に「柏崎」が登場するきっかけを作った。

竹田満追悼公演(たけだみつるついとうこうえん)
日本海太鼓の創始者・竹田満(2002年死去)が作調、指導した県内の兄弟太鼓、ゆかりの音楽家が一堂に会して演奏を捧げた追悼公演で2003年5月25日に柏崎市市民会館で開催された。日本海太鼓「春の部桜ふぶき」をはじめ、柏崎小学校太鼓クラブ、代官太鼓鼓調、尺八の八久保保、高柳和の会、スイングエース・オーケストラ、ギターの経麻朗、分水太鼓、飛燕太鼓、津軽三味線の木田林松次が出演、日本海太鼓「風神太鼓」でフィナーレを飾った。演奏の合間には、想い出のビデオや写真が紹介され「異能の人」の足跡を振り返った。公演にあたり東映動画時代同窓の宮崎駿は「38年前の満さんは、スマートな青年でした。中古とはいえツートンカラーのヒルマンミンクスに乗っていて、育ちのちがいを感じさせたものです。あの頃の満さんの笑顔が、今でも時々想い出されます。明るい青年でした。」、同じく高畑勲は「ハワイアンをやっていた満さんがまず眼に浮かぶ。それから笑顔。『ホルス』への献身と結束。(略)2000年秋約30年ぶりに行なわれた『ホルス』打ち上げの時の満さんは、明るく元気良く、ほんとうに嬉しそうでした。その後あった東映動画同窓会にお出でにならなかったので、どうしたのかなと思っていたら、訃報に接しました。たいへん驚き、ほんとうに残念でした。そういえば顔色が悪かったなぁ…などとこちらで話し合っていました。太鼓を指導しているところを、一度見たかったです。」とのメッセージを寄せた。「東映アニメ祭りでゆかたで太鼓(左端で笛を吹くのは高畑勲)」「2000年11月26日スタジオジブリにて(左・高畑勲、中・宮崎駿、右・竹田満)」といった貴重写真も紹介された。

竹村市之丞の「鉢崎関所勤め方日記」-翻刻と読み下しを終えて(たけむらいちのじょうの「はっさきせきしょつとめかたにっき」-ほんこくとよみくだしをおえて)
『鉢崎関所勤め方日記』の翻刻と読み下しを行った郷土史家・新沢佳大による論文。柏崎刈羽郷土史研究会の『柏崎刈羽』第35号に掲載された。日記の発見は1991年頃で「屏風の下張りから日記の断簡が発見された。日記は長いタイムトンネルを経ながら、行き交う旅人や役人の生き様を忘却のかなたから語り始めた。(略)古物商がもたらしたこの断簡を拝見した時、粗末な和紙に書かれた書式と、屏風の下張りだという先入観で、内容も整合も期待できないと判断した記憶がある。それから15年余、その折りに頂いておいた原典の写しを再発見し、この二、三年つれづれなるままに試行を続けて、翻刻と読み下しの作業を終えた。意外にも3月23日から7月28日まで、欠字は多いが欠けた頁がほとんどない。屏風の下張りからの劇的な出現であった。」(はじめに)と振り返ったうえで、「関所の最大要務が『出女入鉄砲』であることは特に有名であるが、鉢崎関所の『出女』は、刈羽郡方面、すなわち奥州筋に向かう女である。『出女』は、高田藩主の證文を持っていることが必要であった。このため證文の交付を求める者が多くて、交付に手間取り旅人を苦しめたようである。(略)仰々しい取り次ぎと、武家女性に対するものものしい雰囲気を伝えている。」「『鉢崎関所勤め方日記』にはいろいろと興味ぶかい記事がある。関所ばかりでなく、視角を変えて榊原藩、鉢崎村、金の輸送、俵屋などの研究にも役立つ。」などと分析している。

田尻漫歩今むかし(たじりまんぽいまむかし)
1999年に田尻公民館が発行したふるさと再発見ガイドブック。同館の郷土史講座の受講生が講師の郷土史家・阿部茂雄とともに埋もれゆく心の遺産や石仏の数々に光を当てた。松之山街道(鳥越~茨目)、今が息づく道(安田町~城塚)、山辺の道(明神~下軽井川)、脇街道(平井~両田尻)、橋が結ぶ(今熊~安田町)の5章で街道別の歴史遺産を物語とともにまとめている。特に阿部が石仏研究者であったことから野仏、石仏類について詳細な内容。

達如上人の記念碑(たつにょしょうにんのきねんひ)
達如上人(1780-1865)は 東本願寺第20代法主。三条御坊(現在の三条別院)創立者・15世常如の150回忌法要(1823年)に招かれ、京都から三条まで680人の大行列を連ね、各地で大歓迎を受けた。北国街道手をつなぐ会会員で米山三里の研究に取り組んでいる黒﨑裕人(柏崎市笠島)の調査によれば、柏崎市内には笠島の芭蕉ヶ丘、青海川(国民休養地内)、東の輪、松波の4か所に記念碑が建立されていることが確認され、当時の庶民の感動と熱狂ぶりを現在に伝える。記念碑調査について黒﨑は「母や地元の人に聞いたら、芭蕉ヶ丘の藪のなかに何かあるはずという話になり、藪を漕ぎながら見に行くと、高さ1・5メートルほどの石碑があった。御影石製で達如上人ではなく『六條御門主御休跡』とあった。東本願寺の所在地が京都六条と聞き、記念碑と判明した。また、国民休養地内の記念碑には『東本願寺達如上人御体所』とあった。御体所は何かと考えたが、単に『御休所』の間違いであることがわかった。」と話している。

立見鑑三郎(たつみかんざぶろう、1845-1907)
幕末の桑名藩士。文武に優れ、藩主松平定敬の近習や公用方を務めた。鳥羽伏見の戦いに参加した後、土方歳三らと宇都宮戦争に参戦。柏崎では投票によって一番隊(後の雷神隊)隊長に選ばれ、鯨波戦争を戦った。その後朝日山の戦い、会津戦争など転戦、その戦いぶりは「鬼神のようだ」と恐れられたが、山形県鶴岡市で降伏した。謹慎後、司法省に出仕していたが、西南戦争が起こると陸軍少佐となり新撰旅団を率いて城山の戦いで西郷隆盛を追い詰め、日清戦争、日露戦争でも活躍し陸軍大将にまで上りつめた。三重県桑名市の郷土史家・西羽晃は立見について「戊辰戦争の時に桑名軍の指導者として新政府軍から恐れられた。戊辰戦争以後も評価される点が多い。明治37年の日露戦争では、日本軍は寒さの中で苦戦し、このため立見が育てた寒さに強い弘前の師団が派遣され、ここでの活躍で日本軍は勝利を収めることができた。この功績で陸軍大将になったが、長州閥の陸軍では極めて異例のこと。その葬儀には、長州の山県有朋や薩摩の大山巌が参列、深々と頭を下げたという」(来柏講演)と解説した。『闘将伝 小説立見鑑三郎』ではその波瀾万丈の人生が描かれる。

田中角栄先生顕彰碑(たなかかくえいせんせいけんしょうひ)
「大蔵大臣入閣」を記念して当時の柏崎市長・吉浦栄一、刈羽郡町村会長・安澤純正が中心となって1963年に御野立公園内に建立された。本碑と副碑があり、本碑は伊勢神宮大宮司の坊城俊良が揮毫。経緯を記した副碑は諸橋轍次の撰文「田中角榮君は新潟県西山町の人幼にして穎悟(えいご、さとく賢いこと)二田小学校卒業の後志を政界に立て年二十八衆議院議員に当選す。爾来連続当選七回三十歳にして法務政務次官、三十六歳衆議院商工委員長、三十八歳郵政大臣、四十二歳大蔵大臣と為り躍進栄達常に時人を驚かす最も政務に長じ自由民主党副幹事長、同総務、同じく政務調査会長の要職に歴任し、機略縦横の才到る…」を田中の恩師で元二田村長の草間道之輔が揮毫。副碑には多数の賛助者の名前が記され、その筆頭には「特別賛助者アメリカ合衆国駐日大使ライシャワー」の文字が見える。

田中泰阿弥・その人と作品(たなかたいあみ・そのひととさくひん)
田中泰阿弥研究会の池田昭平(日本庭園協会新潟県支部長)、三鍋光夫(建築家)による講演。社団法人日本庭園協会平成11年度定期総会(1999年1月29日、東京日比谷の松本楼)で行われた。柏崎出身の泰阿弥の生いたちや修業時代を詳しく紹介するとともに、その仕事ぶりについて「寡欲、自ら弟子を取らず、自分が選んだ植木屋や石屋を施主に雇わせ、資材の調達はするが代価は荷主と施主が直接決済するなど賃金や報酬には淡泊だった。一年中家にも帰らず、乞われて全国を歩き、作庭した。」「造園の道につながるとして、茶道、華道、書道、俳諧、謡曲、香道と芸事を極めた。とにかく勉強、勉強の努力人だった。」「嵯峨の天龍寺の石組み修復にあたり、崇高な宗教観を石によって表現した夢窓疎石の庭園芸術の極地を知り、疎石の直参の弟子でありたいと願うようになった。」などと紹介、泰阿弥を名乗ることになった経緯について「1951年に文部省の文化財保護委員田山方南から『あなたは(足利)義政公同朋衆(どうぼうしゅう)の相阿弥の生き方だ。今日から泰阿弥の称号を用いるよう』勧められ、それ以来あたかも通称のようになった。」とのエピソードも披露された。

谷川新田の八重千本桜(たにがわしんでんのやえせんぼんざくら)
黒姫山中腹の谷川新田(標高約300メートル)は、江戸時代に谷川津兵衛が名水・出壺の水を引き開墾した美田として知られていたが、時代の流れとともに荒廃が進んだ。これに心を痛めた有志が谷川新田美伝の会(飯塚悦平会長)を結成、棚田3ヘクタールを地権者から借り受け「すばらしい自然環境を守り、美しさを後世に伝えていく象徴として千本の八重桜を植えよう」と1998年から毎年200本の桜植樹を苗木1本1万円のオーナー制度で強力に推進、2002年に目標を達成した。千本達成記念碑は当時の新潟県知事・平山征夫の揮毫。その後も同会は維持管理活動などを進めており、2012年にみどりの愛護功労者国土交通大臣表彰、2022年には柏崎市功労者として市長表彰を受けた。柏崎市清水谷の林道花立・網張線入り口から約1キロ。

谷干城詩碑(たにたてきしひ)
1879年に大久保の小熊六郎の招きで来柏した谷干城は御野立公園に遊び、鯨波戦争(1868年)と明治天皇巡幸(1878年)を回想し「左米山を望み右大洋 天然の景勝君主を慰む 怒濤何事か声悲怨 すなわちこれ当年の古戦場」(鯨波ガイドマップ添付の書き下し文)と昔を偲んだ。「君主」は明治天皇のことで「天然の景勝」は第1句にある野立所から眺めた米山と福浦八景の景観を指す。谷を招いた小熊六郎が詩碑建立を計画したが果たせず、その子小熊三郎が1931年になって建立した。谷干城は土佐藩出身で明治新政府の農商務大臣、学習院第2代院長を務めた。「坂本龍馬の信奉者で龍馬暗殺の際に真っ先に寺田屋に駆けつけ、新選組犯行説を主張した」「新選組局長の近藤勇が東京板橋で捕縛された際、取り調べに立ち会った」「西南戦争では熊本鎮台司令長官として52日にわたり西郷軍の攻撃から熊本城を死守した」「日露開戦に反対した」など歴史の表舞台に登場する人物だが、作家・加治将一は『龍馬の黒幕』(2009年)で「(アーネスト)サトウの日記には新撰組のシの字も出てこない。(略)実際に龍馬を斬ったのは、中岡、谷、田中(光顕)ではなかったか。」との新解釈を発表、特に谷の存在を重要視し「龍馬の暗号・最後の手紙に隠された謎」(2010年、テレビ東京)制作につながった。

玉屋の椿(たまやのつばき)
柏崎市鯨波に伝わる伝説。金持の玉屋徳兵衛は蓄えた金銀が盗まれる事を心配して裏の竹やぶの椿の根元に金銀を埋め、湯治に出かけたが、湯治客が「越後鯨波、玉屋の椿、枝は白銀(しろがね)、葉は黄金(こがね)」とうたっているのを聞いて慌てて鯨波に戻ってみると、竹やぶの椿は金銀の精を吸い取り、唄の文句通り「枝は白銀、葉は黄金」に輝いていたという。幅広く伝承されたようで、『柏崎市伝説集』(1972年、柏崎市教育委員会)では「保養先については加賀の山中温泉、松之山温泉、広田の湯など複数パターン。また問題の唄をうたったのは、湯治客、となりの湯屋の三助、酒席の湯女などのパターンがある」と分析。鯨波3には屋号が「玉屋」の佐藤氏が現存するという。『まんが日本昔ばなし』に、柏崎の昔話として唯一取り上げられた(121話、1977年放送、語り市原悦子)。この理由として、竹田満(元東映動画プロデューサー、竹源社長)は『柏崎のむかしばなし』(1982年)で、「『日本昔ばなし』は昔の後輩たちがつくっていますので、本を提供して大変喜ばれました。『玉屋の椿』なんかがそれです」と書いている。スタジオジブリ映画『耳をすませば』(製作プロデューサー・宮崎駿)冒頭で「柏崎」という地名が出てくるのも同様の理由のようだ。

たらい舟による越佐海峡横断(たらいぶねによるえっさかいきょうおうだん)
『佐渡情話』では佐渡の「お光」が柏崎の「吾作」のもとにたらい舟で通ったが、果たして本当に越佐海峡をたらい舟で横断できるのか-の実証が2007年に行われた。漕ぎ手は力屋観光汽船(佐渡市小木町)所属の「たらい舟ガールズ」の3人。柏崎港観光交流センター夕海のオープンに合わせた記念事業として、3人は7月13日午前10時に3艘のたらい舟で小木港を出発、小木-柏崎間約60キロを「19時間15分」をかけて漕破し同14日午前に柏崎港西埠頭に到着、吾作役の男性3人から花束贈呈を受けた。到着セレモニーで3人は「20キロ程度のトレーニングを何回も積んだ」「風の強い日に漕いでも安定するように訓練した」などの秘話を話し、番神堂やお光吾作の碑のある諏訪神社を参拝した。なお、1966年にも3人リレーによる海峡横断が行われており、この時は「18時間29分」だったという。1987年には柏崎青年会議所の創立30周年記念事業として「復活佐渡情話-お光吾作のたらい舟レース」が行われている。

たわら屋跡(たわらやあと)
松尾芭蕉が『おくのほそ道』の旅で1689年に宿泊した鉢崎宿(柏崎市米山町)の旅籠で、紀行300年を記念し1989年に「芭蕉奥の細道紀行 たわら屋跡」の標柱を柏崎市が設置した。案内板は「芭蕉は柏崎の天屋に泊まる予定で紹介状まで用意して来たのであるが、思わぬことから米山峠を一気に歩き通して鉢崎まで来てしまった。同行した弟子の『曾良随行日記』には『申の下尅、至鉢崎、宿たわらや六良兵衛』とのみ記している。鉢崎での宿・たわら屋は、代々庄屋で300年以上も古くからこの集落に栄えた旧家で、宿屋を業としていた。大正のころまで、刈羽郡高浜町の椎谷(現・柏崎市)に5月1日(旧暦)に馬市があって、その前夜はこの町も馬の往来が激しく、たわら屋は馬宿でもあったという。」と説明する。前日の宿(出雲崎)から鉢崎間に米山三里という難所も含まれることから芭蕉隠密説の根拠とする識者もいるほどだが『芭蕉が泊った鉢崎宿俵屋』(1995年)で月橋夽は「昔は出雲崎-柏崎を7里(28キロ)といった。柏崎-鉢崎は4里(16キロ)といっていたから、単純計算をすれば44キロということになる。一日にこれだけ歩いたのだから健脚だという人がいる。中には話が発展して伊賀の国出身の芭蕉はもともと忍者であったとか、忍者なればこそこれだけの道が歩けるように言う者さえ出ているが思わざるも甚しい。それはこの時代、佐渡に出た金を江戸に送るのには船で越佐海峡を渡って出雲崎に上陸し、ここで一泊する。翌日は陸路江戸へ向うのであるが、その日の泊りは鉢崎なのである。出雲崎-鉢崎は一日行程が常識なのである。」と一笑に付している。

たんねのあかり(たんねのあかり)
「あかり」と「そこにあるもの」をテーマに柏崎市谷根で開催されたアートイベント。2009年に上米山小学校の閉校イベントとして第1回を開催、その後地域を中心にたんねのあかり実行委員会が組織され、2010年、2011年、2012年、2014年、2016年、2018年の計7回が開催され、女子美術大学が協力した。初回の2009年は、約3000本のキャンドルを上米山小学校をスタートして谷根川を周遊する6か所に様々な仕掛けとともに配置、上米山小校舎に子ども達の想像から生まれた「タンネッシー」を投影するなどのアイディアも話題を呼んだ。谷根を舞台に選んだのは同大学非常勤講師の下田倫子で「女子美附属高校時代の恩師桜井雅浩先生が柏崎にいて、柏崎であかりを使ったアートイベントをやりたいと相談した。実際に先生にロケハンにも協力してもらいながら、柏崎の各地を見て、この谷根の風景、自然に魅了された。素晴らしい景色と人に魅かれて谷根に通い、準備を進めてきた。多くのボランティアの皆さんに支えられ、大掛かりなイベントになった。」と話し、柏新時報は「そういった縁からはじまり、地元の人たちが熱心に協力し、大きなイベントとなった。まるで、大地の芸術祭の柏崎版を見るようで、『アートが地域活性化に大きな効果がある』ということを谷根で実証した形。」(2009年8月28日号)と興奮気味に伝えている。2018年は総務省「『関係人口』創出事業」のモデル事業として、実行委員会主催の「かしわざきカレッジ@たんね」が開催され、新たな展開が期待されたが、コロナ禍以降中断、2024年には当初の目的である「谷根の景観の美しさと古くから伝えられてきた伝統文化を市内外の方々に知ってもらう」が達成できたとして終演宣言を行い、「谷根はこれからも今までの皆様からのお力添えを生かし、これからも継続して美しい土地と伝統文化を守っていきたいと思います。これからも、谷根の四季の美しさを楽しみに訪れてください。」とのメッセージ。下田が谷根との出会いや思いについて書いた「『たんね』と『あかり』」は別項。

「たんね」と「あかり」(「たんね」と「あかり」)
柏崎ならではのアートイベントして注目を集めた「たんねのあかり」のプロデューサー・下田倫子(女子美術大学非常勤講師)による随筆で、舞台となった谷根との出会い、思いなどが綴られている。柏新時報2011年1月1日号に掲載された。下田は「女子美術大学付属高等学校を卒業後20年が経ち、柏崎市在住の当時の恩師に、『大学生と子どもたちが一緒に、アートやデザインを通じて地域を知って学ぶようなワークショップを開催できないか』とご相談したのがきっかけである。そして、2009年3月に柏崎市内をご案内頂く中で、初めて谷根地域を訪れた。その日の米山には鯉型などの残雪模様を見ることができた。」としたうえで、「『なぜ谷根だったのか?』『谷根のどこに惹かれたのか?』とよく質問を受ける。最初は、自然豊かな谷根の風景に魅了されたとお答えしていたが、よくよく考えるとそうではなく、そこでお会いした方々に惹かれたのだと思う。」と振り返る。地元と女子美の役割分担と制作の様子については「谷根側では作品のフレームとなる部分を制作するために、昔使われていた農具・民具や、竹などの自生する素材を集め、事前加工を施す。同時に大学側では、光を溜めつつ透過させる膜素材を選定し、設置場所を考慮しつつ、光と素材の見せ方の検証をする。そして、現地にて互いに準備したフレームと膜を合わせて一つの作品を制作する」などとし「滲み合うことができる間がそこにはあり、昼と夜を、光と影を、ゆるやかにつなぐものである。そのようなキャンドルのあかりが似合うのは、出会い、つながり、結ばれていくことができる何か特別な間が存在する『たんね』なのだと思う。」「初めて谷根を訪れた女子美の学生たちが『またたんねに行きたい!』とか、『たんねで食べたお米がまた食べたい!』とか、嬉しそうに口々に言う。また食べたい、また行きたい、また会いたい。そこにあるものが本当のものでないと、きっと『また』は生まれない。(略)今日もまた「たんね」を思うのである。」と結んでいる。「たんねのあかり」の縁で下田は地域シンボルマーク看板「たんね、いいね」(2011年設置)のデザインも担当した。

谷根の押し寿司(たんねのおしずし)
柏崎市上米山地区に伝わる郷土料理で、米山への参道として知られた北山街道(茶屋峠、鯨波-谷根)を歩いた2015年の北国街道ウォーキングで提供され、話題となった。上杉謙信が琵琶島城への道中同地区に立ち寄った際、あり合わせの山菜などで作った笹寿司を「これは美味しい」と絶賛したのがルーツと言われる。地元で採れたシイタケ(たんねどんこ)、しその実、鬼ぐるみや自家製みそによるみそ漬、かんぴょう、鱒、小女子(こおなご)、干エビ、ひじき、にんじんを具材にした押し寿司で、谷根の根まがり竹の葉で包むなど地元産にこだわった内容。昼食会場となった上米山コミセンではタケノコ汁、山菜漬け物と共に供された。主催の北国街道観光まちづくり会議座長の西川辰二は「昨年の陣屋弁当に続いて、谷根の押し寿司も大きな話題になった。やはり、地域を発信していくには食、グルメだ。食や資源についてまだまだ未知のもの、発掘されていないものがあるのではないか。地域一体となってアイディアを集めながら、今後の企画を進めたい」と話していた。

谷根の双体道祖神(たんねのそうたいどうそじん)
「石仏の宝庫」として知られる柏崎市谷根には4基の双体道祖神がある。中和田の市道沿いコンクリート擁壁のなかに祀られる双体道祖神は「踊る道祖神」の愛称があり有名。同市道を南側に進んだ谷根神社には2基の双体道祖神があり、このうち右側は雲形をしており「石工 源之丞」の銘がある。本県道祖神研究の先駆である横山旭三郎は「特に谷根神社境内の雲形の地石に神祇像を彫刻したものは全国的にも珍しい。」「多分天孫降臨の姿か、猿田彦の命のアメのヤチマタに天孫を迎える姿を彫刻したものであろう。しかしこの村には、神社に来る橋の所の牛頭天王の石塔も輪郭が雲形であるので、石工がこの輪郭をすすめたものであるかも知れない。」(『新潟県の道祖神をたずねて』、1980年)と評する。左側は肩組握手像で、いずれも街道沿いから移転安置されたものだ。上米山郵便局奥にも肩組握手像があるが、風化が進んで表情が見えなくなっている。「踊る道祖神」については別項。

【ち】
地域に根差すスポーツによるまちおこし(ちいきにねざすすぽーつによるまちおこし)
2012年3月3日に柏崎市で開催された第25回「国づくりシンポジウム」のタイトル。(財)国土計画協会、柏崎市体育協会の主催でスポーツによるまちおこし、元気の出るまちづくりを考えた。基調講演「水球のまち柏崎を目指して」でブルボンウォーターポロクラブ柏崎監督・青栁勧は「トキめき新潟国体での強化アドバイザーを務めたことをきっかけに柏崎で水球のまちづくりに取り組むと決心し、2年前にブルボンの協賛による水球チームを立ち上げた。ここ(柏崎)なら絶対出来ると確信している。日本全国の様々な地域で衰退が起こっており、スポーツで地域を活性化させることが必要だ。柏崎では、水球のまちづくりで若い世代にも刺激を与え、若者の流出を防ぎ、市民を元気にしたいと考えている。これまでの水球の歴史や関係者の思いを生かしながら、今後は水球の合宿や各種大会を誘致することで、経済効果も生まれていくと考えている」と述べた。また「福岡にいた大学同級生の永田敏を柏崎に呼ぶことから始まった。彼も日本代表選手でありながら厳しい練習環境で苦しんでいた。皆さんの応援、支援のおかげで、柏崎に来れば水球ができる…という環境が整いつつあり、日本一をめざしてサポーターの皆さんの期待に応えたい。柏崎の花火大会のように大きな花火となりたい。」と決意を語った。続いて、パネルディスカッション「スポーツの魅力を活かしたまちおこし」に移り、ライフケア柏崎社長の池谷薫、プロバスケットボールリーグ社長の中野秀光、新潟大学名誉教授の佐藤勝弘がパネリストとなり、意見発表を行った。

地産地活を語る(ちさんちかつをかたる)
2014年に行われた新潟産業大学の北原保雄学長と広川俊男副学長の対談。二人は柏崎高校の同窓生で、東京教育大学(現在の筑波大学)の先輩、後輩にもあたる。柏崎高校PTAが「先輩であるお二人からじっくり話を聞こう」と企画した。北原は人口減少が続く柏崎の現状を憂い「町に人がいなくなっては、様々な機能が維持できなくなり、町は衰退する。小さい時から、柏崎、家が大事ということを教え、地域で活躍してもらう人材を育てることを意識してやらなくてはならないのではないか。」としたうえで「大学設置審議会の委員として全国の大学を回って見てきたが、東京の大学が全て良いとは限らない。中途半端な中央志向は止めるべきだ。東京の大学に行ったとしても、卒業したら柏崎に、新潟に戻ってきてほしい。人口が減ったら、様々な弊害が出る。限界集落という言葉がよく聞かれるようになったが、柏崎を限界都市にしてはならない。シティセールス以前に自分たちの市を守らなければ、お客さんを呼ぶどころではなくなる。再生産をしなければ、人口は減り続けるばかりだ。何としても柏崎の復活を。あらゆる手段で柏崎を元気にしたい。」と辛口提言、また広川副学長は「地産地活とともに地讃地奨だと思う。岩手県盛岡市を訪ねた際、おいしいものは…と尋ねたら、あそこの何々がおいしい。これもぜひ食べた方がいい-との答えが返ってきて、うれしくなった。地元のいいところを探して、それを褒める、スポットを当て自慢するところから始めるべきだ。今までの50年は緩やかだったが、これから人口減がドンとくる。住みたい度調査で小学校低学年の85%が柏崎が大好きと言っているが、高校生になると数字がウンと下がる。根底に柏崎なんか…という気持ちがあるのではないか。柏崎の活性化に向け意識改革を」と呼びかけた。対談に先立って北原学長の国語講座「言葉は変わるもの、生まれるもの」も行われ、日本語の権威として知られる北原学長だが「柏高時代は理系だった」とのエピソードに一同驚きも。

乳の虎・良寛ひとり遊び(ちちのとら・りょうかんひとりあそび)
1993年1月1日にNHKの正月ドラマとして放送された。江戸時代の越後、代々名主の家柄であった山本家に生まれながらも乞食(こつじき)僧となり、漢詩や歌を作り「清貧」の生涯を送った良寛の姿を貞心尼の目を通して描いたドラマで、桂枝雀の「丸顔良寛」が話題となった。貞心尼役には加茂市出身の樋口可南子が実際に剃髪して好演、凜とした美しさで貞心尼没後120年を彩った。山本秀子(良寛の母)を真野響子、山本以南(良寛の父)を高橋長英、山本由之(良寛の弟)を岸部一徳、京屋佐兵衞(橘屋とライバル関係にあった名主)を六平直政が演じた。冒頭シーンでは良寛が子どもらと手毬をつきながら「三階節」を歌う珍しいシーンも。脚本を担当した早坂暁は良寛の墓碑に刻まれる「僧伽」の一節「縦入乳虎隊/勿践名利路」(たとえ乳虎のむれに入るとも名利の路を践むこと勿れ)を引用したとし「乳虎とは子連れの虎のこと。わが子を守るため一番恐い母虎で、良寛は名利に走る位なら恐ろしい乳虎の群れに身を投じると宣言している。この気迫を見逃しては、良寛を見逃してしまう。良寛の柔和さの裏にある、凄みのある何かを描き出したい。」と語り、「乳虎の隊」(『わがこころの良寛』、1994年)でも「名利の路に入るくらいなら、乳虎の群れに身を投ぜんと言って、実に雄々しく決然とした言葉を吐いて、まさにそのとおりに生涯を終えられた良寛さん。昔の人ですから七十いくつというのは長い生涯だと思うのですが、少しもえらぶることなく、猛々しく見せることなく、静かに闘った良寛さんは、実に素晴らしい人だと思います。」と振り返っている。

秩父の米山薬師(ちちぶのよねやまやくし)
埼玉県秩父市にある米山薬師堂は米山信仰が県外に伝わった代表例である。5月4日に開催される「塚越の花まつり」(埼玉県指定無形民俗文化財)は、子どもたちが薬師堂までの参道を花を撒きながら花御堂(はなみどう)を担いで行列し「極楽浄土を想わせる美しい祭り」として評判に。周辺には柿崎出身の杜氏が先祖という和久井酒造をはじめ、柏崎市や旧柿崎町をルーツとする人達が住み勧請の背景となった。この他、埼玉県東松山市、群馬県太田市、栃木県佐野市などに現在も米山信仰が息づいている。このうち東松山市の武州米山薬師(常安寺内)に隣接する高坂カントリークラブでは、コース名を米山コース(18H)としている。また、佐野市の薬師堂は、「真田父子犬伏(いぬぶし)の別れ」(関ヶ原の戦いを前に昌幸、信之、幸村父子が真田家存続のため敵味方に別れて戦うことを決断した)の地としても知られている。

千原三郎展-抽象では無くて具象である。客観主義では無くて主観主義である。(ちはらさぶろうてん-ちゅうしょうではなくてぐしょうである。きゃっかんしゅぎではなくてしゅかんしゅぎである。)
2014年、ギャラリー十三代目長兵衛(柏崎市学校町)の10周年記念展「かつて、柏崎の文化を彩った作家たち」前期展として開催された。千原三郎(1905-1985)は柏崎市東本町3の出身。柏崎中学、旧制国立東京高等工芸学校卒後、長岡工業教諭、直江津農商教諭を経て、玉川大学教授、跡見学園教授を務めた。「独立美術協会や自由美術協会に参画したこともあったが、基本的には画きたいものを描く自由画家として無所属作家を通した。柏崎人気質の表れと言うべき作家」(実行委員会)として「パリの街」、「梅」、「ひまわり」、「ぶどう」、「赤倉風景」など35点を展示、「墓前で野良三階節を歌ってくれ」といった人柄を表す新資料も展示、再評価につなげた。代表の曽田文子は「文化を育てようという気運に満ちあふれていた時代の作家であり、柏崎特有の文化の空気を感じる。柏崎にこういう時代があったことを再認識しながら、次の世代へとバトンを渡していかなくてはならないと思う。」とコメント。

中越沖地震と博物館-その時、マチに土けむりがあがった(ちゅうえつおきじしんとはくぶつかん-そのとき、まちにつちけむりがあがった)
柏崎市立博物館で2010年に開催された夏季特別展で行われた講演会。講師は前博物館長の三井田忠明。「地震後、市民から文化財や家財の搬出依頼と問い合わせ電話が鳴り続けた。『家を壊すことになったので、もし博物館で役に立つものがあれば寄付したい』との思いで共通しており、最初の搬出は発生5日目の2007年7月21日。同月に5件、8月22件、9月に16件の搬出作業を行い、年度末までには59件に達した。」としたうえで「搬出物の中には市指定文化財の絵馬、仏額、木喰仏などの一時保管が数件含まれていたものの、大半は土蔵などに納めていた生活什器を中心とする家財だった。柏崎市街地では大火が頻発したことから、商品や家財を火災から守るため土蔵造りの蔵が数多く建てられた背景があり、土蔵は火には強いが、地震の揺れには弱く、被害を拡大させた。土蔵は短冊形の屋敷地の奥に建てられていることが多く、搬出物品をもって通路を何度も往復するのは大変だった。ハレの日の家財である膳椀や陶磁器、屏風や掛軸などが比較的多く、昭和の時代を偲ばせる白黒テレビ、搾り機付洗濯機、卓袱台等が集まり、結果として従来不足していた収蔵部分を埋めることができた。」「困ったのは被災資料の保管場所で、博物館の搬入口からエントランスホール、さらに小ホールまで占拠していった。こうした状態が博物館の復旧工事が完了する翌年の4月まで続いた。また、搬入後、小ホールでカビが大量発生し、部屋中が真っ白くなってしまった。市民からの要請への対応を優先し、新着資料の水洗いや清掃など本来の過程を省いてしまったことが原因で、換気と除湿機をフル稼働してカビ繁殖を抑えたのち、特別展示室を使い専門業者による燻蒸作業を行った。」と体験談を語った。

中越沖地震文化財被害調査顛末記(ちゅうえつおきじしんぶんかざいひがいちょうさてんまつき)
柏崎・刈羽郷土史研究会会員の平原順二が2008年の会員発表で行った講演。平原は、2007年8月に柏崎市職員とともに市内の文化財の地震被害調査を行った。その際の苦労、体験談を語ったもので「現時点で判明しているのは、国指定で5件、県指定で7件、市指定で29件、国登録文化財で4件の計45件で被害があった。文化財を保管してある場所は土蔵づくりが多く、外観からは傷んでいないように見えても、基礎が相当やられていた。また大きな被害を受けた寺院からは、再建や復元について切々と訴える声があり切なくなった。」とし、東京国立博物館出展で注目を集める木喰仏については「(柏崎市西港町の)潮風園では、お堂そのものが被害を受け、そこに木喰仏が見えるのにどうしても扉が開かなかった。すぐに博物館に連絡し、道具で扉を開け、木喰仏を保全してもらった。また、関町の十王堂では建物が傾いていて、像にも一部被害があった」と深刻な状況を語り、「被害調査を通してこれまで見る機会のなかったものを見ることができた。特に見隆坊阿弥陀如来像を初めて拝観させてもらったが、実に見事な等身大の立像だった。文化財としての価値もそうだが、大変な美術品でもあった」と結んだ。

中越地方の城館跡(ちゅうえつちほうのじょうかんあと)
上杉謙信研究で知られる花ヶ前盛明が1978年に越後城郭研究会から刊行した冊子で、『柏崎市史』にも成果が継承された。冒頭、花ヶ前は「中越地方にはたくさんの城館跡がある。(略)ここには越後守護上杉氏一族の上条氏(柏崎市の上条城)、越後守護代長尾氏一族の古志(栖吉)長尾氏(長岡市の蔵王堂城、のち栖吉城)、蒲原(三条)長尾氏(三条市の三条城)、上田長尾氏(南魚沼郡六日町の坂戸城)の根拠地があった。また北条氏(柏崎市の北条城)、安田氏(柏崎市の安田城)、斎藤氏(刈羽郡刈羽村の赤田城)等の在地土豪が勢力をもっていた。」「現在、その遺構が確認されているものだけでも334城館跡を数える。未確認のものもたくさんあるであろう。今後、市町村史編修のための調査の過程で、その数はさらに増えることと思う。」と述べ、市町村別に城館跡を紹介。柏崎市では144大清水城(大清水)、145旗持城(米山町)、146笠島城(笠島)、147金山城(青海川)、148桂山城(鯨波川内)、149大久保陣屋(大久保)、150春日陣屋(春日)、151琵琶島城(元城町)、152藤井城(上藤井)、153上条城(黒滝)、154古町城(古町)、155黒滝城(黒滝)、156細越城(細越)、157安田城(安田)、158八石城(善根飛岡)、159加納城(加納)、160小番城(善根久之木)、161南条城(南条)、162北条城(北条)、163北条館(鹿島)、164小島城(小島)、165山澗城(山澗)、166たかうち城(山澗)、167深沢城(深沢)、168広田城(大広田)、169長者屋敷(東長鳥)、170鳥谷城(西長鳥)、171吉井黒川城(吉井黒川)、172畔屋城(畔屋)、173矢田城(矢田)、174椎谷陣屋(椎谷)、175角城(椎谷)=数字は通番=をミニ解説と共に紹介し、このうち特に「椎谷陣屋跡」「上条城跡」「北条城跡」「安田城跡」については「北条城跡は上杉謙信時代、関東厩橋城代(前橋市)として関東平野に君臨した北条氏の居城である。北条氏が相模国毛利荘から越後に入った時期は守護上杉氏よりも早く、鎌倉時代の中頃のことである。鎌倉幕府の公文所別当大江広元の孫経光が佐橋荘の地頭職に補任され、土着して北条氏を称した。(略)北条城跡は標高140メートルの山城である。北条駅下車、徒歩40分である。山麓には北条氏の菩提寺専称寺と北条氏の墓地がある。専称寺から登る道が大手である。本丸跡は幅15メートル、長さ160メートルの細長い曲輪で、北端に『北条古城址』と刻まれた大きな石碑がたっている。春には桜が咲き乱れ、ハイキング客でにぎわう。本丸南下に深さ8メートル、幅12メートル、長さ40メートルの、本丸北下に深さ14メートル、幅10メートル、長さ50メートルの規模の大きな空堀がある。このことからも堅固な構えが想像出来よう。本丸跡から普広寺に下る尾根が搦手で、山麓の諏訪神社境内に館があった。」(北条城)などの詳細解説を加えている。なお、花ヶ前は城郭研究の集大成として1986年に『中世越後の歴史-武将と古城をさぐる』をまとめており、柏崎刈羽からは北条城、赤田城、二田城、旗持城、上条城、安田城、琵琶島城、大久保陣屋、椎谷陣屋が取り上げられている。

中世のおもかげ-柏崎(ちゅうせいのおもかげ-かしわざき)
綾子舞は国立能楽堂に2回出演しており、その2回目が2018年7月29日の企画公演。月間特集「能のふるさと・越路」の棹尾を飾り「中世のおもかげ-柏崎」と題して綾子舞両座元が出演した。下野座元は小原木踊と海老すくい、高原田座元は猩々舞、小切子踊を演じ、続いて世阿弥改作で柏崎と長野・善光寺が舞台の能「柏崎」(シテ・佐野由於)が上演された。綾子舞両座元とも現地公開並みの稽古でのぞみ、能舞台特有の橋掛かりでの出羽、入羽(舞台への登場、退場)タイミングについては2010年下野座元出演の際の経験を元に調整、見事な舞台となった。演目全てが柏崎と関連する「柏崎デー」となったことから柏崎談笑会、首都圏鵜川会の会員も数多く訪れ、柏崎市長の桜井雅浩も柏崎PRを兼ね来場し、観光パンフ配布や物産販売が行われた。来場した日本民俗舞踊研究会代表の須藤武子は「プロの能楽師さんに伍し、綾子舞がどれだけ存在感を発揮できるか、だったが、(公演全体のテーマが中世だったことを考えると)むしろ中世の匂いを濃厚に漂わせたのは綾子舞の方だったのではないか。民俗芸能ならではのしたたかさ、強靱さと言っても良いかもしれない。相変わらず若い世代が頑張っていて、元気をもらった。」、柏崎出身の北原保雄筑波大学名誉教授は「『柏崎』は現在も能舞台で上演されているポピュラーな曲で、世阿弥自筆本にも載っていて、由緒正しい。曲名が『柏崎』そのもの、というのもわかりやすい。能『柏崎』を文化都市柏崎のシティセールスに積極的に活用していくのはどうか」と感想を述べた。

忠平と庫八の軌跡(ちゅうへいとくらはちのきせき)
2017年に柏崎シンガポール越後屋研究会代表の須田信之がドナルド・キーン・センター柏崎で行った講演。同館で開催中のロビー展「喬柏園(まちから)と高橋忠平」の関連行事として、シンガポール越後屋で成功し喬柏園を寄付した高橋忠平と番頭を務めた福田庫八の歩みを振り返りながら、柏崎人の「フロンティア精神」を探った。なお須田は庫八の甥にあたる。忠平の豪快な人生について「父親の代わりに群馬に行商に行った際、高崎の宿で博打に仕入れの金をつぎ込んで無くしてしまい、怒った父親に勘当され、700円を懐中に上海に渡った。ここで4年間、呉服商を営んだことが、シンガポール越後屋の成功の背景となった。」と述べ「なぜ上海だったのかを考えると、当時上海領事だった芳澤謙吉(後に外務大臣、上越市出身)の存在が大きかったのではないか。吉澤は喬柏園の命名者にもなった。」などの秘話を披露、忠平の陰に隠れあまり語られることはない庫八の存在について「敗戦と共にシンガポールの全財産を没収され、捕虜となるなど苦労したが、昭和30年に戦後日本人としては初めてシンガポールに『株式会社越後屋商店1955』を開店した。また、2年がかりでシンガポール当局と交渉し日本人学校の完成に尽力するなど、シンガポールとの友好交流に尽くした。忠平の精神を継承した人と言えるのではないか」と強調した。

【つ】
追懐の情(ついかいのじょう)
満州柏崎村団員として筆舌に尽くしがたい体験をした巻口シズの手記。遺品の中に400字詰め原稿用紙31枚を発見した長男の巻口弘が2007年に自費出版した。「私の渡満」「開墾」「団員の召集」「終戦」「残留組柏崎村に帰る」「中国人王徳財との生活」など10章で構成、特に敗戦後の混乱について「眠る事も出来ず子供をかばって居ると、ものすごい銃の音がすぐ近くできこえるのです。匪賊が来たのだと思って居たのですが話に聞きますと、小古洞開拓団村の人達が全部自決したとの事でした。私達も一時は(船着き場のある)松花江に入って自決の決心もしたのです(略)黒河は満州とソ連の国境で、ソ連兵がどんどん松花江を登って来て関東軍の物資や国民の食料など全部船に積み込んで私達避難民の生活の中まで来る様になり、ありとあらゆる物、腕時計、万年筆、子供のオシメ、下着まで持って行くのです。」と生々しく証言、帰国のためハルピンに向かうことになったものの「私の様に子供四人もつれていては、とても皆んなについて行く事は出来ません。どうせ死ぬなら母子五人で死のうと心を決め残留組に残りました。避難中に耕三、隆を亡くし、十一歳の弘を頭に、稔、綾子、圭子。さんざん苦労させたのに、この先ハルピンまでの道をどうしても私には自信がなかったのです。」と苦しい心境を綴る。現地人の王徳財に命を救われ、子ももうけた巻口シズは「本当に毎日悩みました。(略)五人の命を助けてもらった恩人と(王徳財との間に生まれた)子供二人をすててどうして帰れましょう。」と煩悶、結局長男の弘だけを日本に帰らせ中国に残留する決意をし、結局、1975年に帰国するまで中国での生活が続いた。編集にあたった巻口弘は「旧満州国終焉のまっただ中に孤立し、ただひたすら生きるため、事変への判断を四六時中子どもに思いをつないで生き抜いた運命の人だった。」(あとがき)と振り返る。

机立観音堂の木喰仏(つくえだちかんのんどうのもくじきぶつ)
木喰上人が柏崎市椎谷・机立観音堂に残した13仏。文化2(1805)年6月3日から18日まで12体を彫り、理由不明だが柏崎市新道、柏崎市西山町長嶺での彫仏の後、再び椎谷に戻り6月29日に最後の一体を完成させた。13仏は全国でもここだけ。後の人によって彩色がなされており、柳宗悦は「越後に於ける晩年の遺業」(1925年、『木喰上人之研究』特別号)で「凡そ上人が刻んだ代表的な仏像の種類はこの一堂に集る。従つてその相貌、姿勢、表情等甚だ変化に富む。」と解説しながらも「併し私は何人にもこの堂を訪ねよと勧める勇気を持たない。何故なら上人が残した凡ての美は、心なき塗り師のために抹殺されてゐるからである。今十三の仏は悉く見るに堪へない色彩に染まつてゐる。私はあれ以上俗悪な顔料を想像するのに苦しむ。」と断言、さらに「(私は切に庵主に臨む。躊らふことなくその色を洗ひおとせよ、その化粧を棄て去つた時、仏は色なくして自からを化粧するであらう。その時この世から埋もれたその堂は、それ等の仏の光に甦つて来るであらう。)」とまで書いている。「坂ノ下観音仏」とネーミングした木喰研究家の三宮勉も「木喰上人が世に出る数年前に(恐らく大正5年か7年位に)ここから舟積みされて、衣裳直しに船出したという。多分出雲崎付近であろう。そこでペンキまがいの俗悪な塗料で台無しにされて了った。」と嘆くが、現在では経年による塗料の退色が進んだ結果「微笑仏の特徴がよくわかるようになった。果たして『俗悪』」というほどだろうか」との見方も出て来ている。机立観音堂は中越沖地震で大規模半壊となったため解体され、現在は石碑のみ。13体に地震の被害はなく、本寺にあたる柏崎市西山町大崎の真蔵院に移され大切に安置されている。なお、地元には「海岸からすぐの場所だったため、虫食いや潮風で木喰仏が劣化することを心配し、塗装した」との伝承も伝わっている。

【て】
貞心尼恋慕まっぷ(ていしんにこいしたうまっぷ)
柏崎地域観光推進協議会が2019年に発行したマップ。「良寛と貞心尼の歌物語」モニターツアー(2017年)の成果をふまえ、柏崎市内の貞心尼ゆかりの史跡めぐり(閻王寺跡、ソフィアセンター、托鉢貞心尼像と歌碑、釈迦堂跡、常福寺、不求庵跡、極楽寺、洞雲寺と歌碑、貞心尼墓)、柏崎駅前の貞心尼歌碑(12基)のぐるりんマップ、貞心尼の略年譜、広域マップ、柏崎市へのアクセス、貞心尼のお土産情報を掲載。「ゆかりのある史跡を巡りながら、貞心尼の愛した柏崎を体感してほしい」と発信した。以前の「良寛から愛され、柏崎の海を愛した貞心尼まち歩きガイドマップ」(観光交流人口拡大事業実行委員会発行)に掲載された情報が古くなっていたことから、これに代わるガイドマップ。マップは新潟県柏崎地域振興局のHPからダウンロード可。

貞心尼考(ていしんにこう)
1995年、敬慕者・中村昭三が全国良寛会柏崎総会記念誌として編集発行、大会参加者に配布された。貞心尼に師事した高野智譲尼からの直話を原資料とし相馬御風にも大きな影響を与えた上杉涓潤(けんじゅん、号艸庵)の「貞心雑考」、「続貞心雑考」他2論文をはじめ、吉野秀雄の「良寛の晩年」「貞心尼のこと」、『越佐研究』第40集(1980年)に発表され、「浜の庵主さま」伝承を流布し貞心尼のマイナスイメージを定着させる結果となった宮榮二の「貞心尼と良寛-関長温との離別説」、さらに中村昭三の祖父・中村藤八の残した「浄業餘事」などの主要論文・資料を掲載している。貞心尼研究者の駒谷正雄(柏崎良寛貞心会副会長)は「解説」で上杉涓潤の論考について「私はこの論考を何度も読み返すうちに、これこそ貞心尼研究のルーツであると確信し、本稿が相馬御風氏以降の良寛・貞心尼事跡研究の原点となったのであると想像した。(略)今回、本稿の発刊を機会に、江湖の諸賢に良寛・貞心尼研究の原資料として、日の目を見るに到った事は望外の喜びである。」と書いている。

貞心尼栞(ていしんにしおり)
貞心尼が眠る洞雲寺(柏崎市常盤台)に「恋は学問を妨ぐ」歌碑が完成した際、建碑者の中村昭三が記念としてまとめた栞、1991年。題字「貞心尼 寶龍山洞雲寺」は良寛研究家の渡辺秀英書。歌碑の説明や『はちすの露』に収められた良寛と貞心唱和の歌(「君にかくあひ見ることのうれしさも まださめやらぬ夢かとぞおもう・貞心」「夢の世にかつまどろみてゆめをまたかたるも夢もそれがまにまに・良寛」など11首)、同寺丘上に建つ貞心尼の墓を紹介、貞心尼略伝をまとめている。貞心尼略伝で中村はその功績について「天保2年(1831年)正月6日、手厚い看護も空しく良寛は亡くなられました。生き死にの界を離れて住む身であるとはいえ、その悲しみはあまりに深く、師の形見にもと、良寛の歌をあちこちたずね歩いて集め、また良寛とよみかわした歌をも書きそえて、『はちすの露』を完成させました。天保6年5月、貞心尼38歳、良寛没後4年めでした。これは最初の良寛歌集であり、二人の誠の玉の輝きであります。」「慶応元年の暮、前橋の竜海院蔵雲和尚が良寛の詩歌集を出版するために貞心尼を訪れ、それからたびたび手紙のやりとりがありました。そのかいあって慶応3年(1867年)、江戸の尚古堂から『良寛道人遺稿』が刊行されました。何といっても『はちすの露』『良寛道人遺稿』そして『良寛の肖像画』が後世に残されたことは、貞心尼の功績です。」と解説。なお洞雲寺参道入り口にはまちしるべ「うるはしき尼眠る寺~貞心尼と吉野秀雄」が建立されている。

貞心尼と群馬(ていしんにとぐんま)
柏崎市女谷出身で群馬県前橋市助役、群馬県文化財保護審議会長を務めた大図軍之丞による随筆。柏新時報1978年1月1日号に掲載された。「雪の深い柏崎の女谷から出て既に60余年、これも夢のようです。その間の社会の移り変り、故郷の変化驚くばかりですが、変らぬものは過疎化だけで、矢張り淋しいことです。」「新潟県の誇りとする人に良寛があります。禅師は勝れた和歌や漢詩をしかもすばらしい筆蹟で非常に多く残しています。その歌を始めて世に紹介したのは、禅師の晩年に親しく師事した貞心尼の『蓮の露』で、良寛の没後4年のことです。その貞心尼、実は群馬ゆかりの人というのです。」としたうえで、貞心尼の実家の奥村家が前橋の東に隣接する大胡城主・牧野忠成に仕え、長岡転封とともに従ったことや、最初の良寛詩集『良寛道人遺稿』を出版した前橋・龍海院の蔵雲和尚が若い頃越後に巡錫した話を紹介、「そんなこともあつてか前橋には良寛の讃美者、研究家が少なくありません。冷泉院という寺の熊田道順住職などは、自ら良寛讃仰会を設け、禅師の略伝を出版し、同志を募つては遺蹟めぐりの案内をするなどの熱心家です。」「前橋高等学校の市川(忠夫)教諭は、国学院大学在学当時から20年に亘る良寛研究家ですが、このほど『良寛の人間像』を出版しました。あらゆる面から、まことに巨細に調査し、学究的にまとめられ、敬意を表するものです。」としている。

貞心尼とその周辺(ていしんにとそのしゅうへん)
1992年に柏崎市立博物館で開催された特別展。没後120年、柏崎良寛貞心会の設立などを記念した。柏崎市内をはじめ小千谷、糸魚川の所蔵者の協力で貞心尼と師良寛、外護者の山田静里、静誉上人の遺墨なども含め83点を展示した。市内では貞心尼関係の遺墨、資料が多数あることから節目ごとに貞心尼展が開催されるが、過去最大規模となった。関連行事として瀬戸内寂聴の文化講演会「貞心尼と良寛」が開催された。特別展にあわせ発行された図録には柏崎出身の北川省一(良寛研究家、『史譚貞心尼と柏崎騒動の夜』著者)が「柏崎の海を愛した貞心尼」という印象的な一文を寄稿している。

貞心尼の歌碑(ていしんにのかひ)
柏崎市内には貞心尼の歌碑が、釈迦堂跡に1基(1982年建立)、洞雲寺に1基(1991年建立)、JR柏崎駅から海岸線を結ぶ駅前通り~駅仲通り、ニコニコ通りに12基(1993年、1994年建立)、ソフィアセンター敷地内に1基(1996年建立)の計15基建立されている。各歌碑の内容は次の通り。▽釈迦堂跡=(貞心尼)君にかく逢ひ見ることのうれしさもまださめやらぬ夢かとぞおもふ、(良寛)夢の世にかつまどろみて夢をまたかたるも夢もそれがまにまに▽洞雲寺=恋学門妨(貞心尼)いかにせむ学びの道も恋草の茂りて今は文見るもうし、(良寛)いかにせんうしに汗すと思ひしも恋の重荷を今は積みけり▽潮風ロード=①書き置くもはかなき磯のもしほ草見つつ偲ばむ人もなき世に②秋もやゝ夜さむになれば機織やつづれさせてふ虫の鳴くなり③後は人先は仏に任せおくおのが心のうちは極楽④いつまでも絶へぬ形見と送るなりわが法の師の水茎の跡⑤露の身に余りて今日はうれしさの置き所なき草の庵かな⑥朝げ炊くほとは夜の間に吹き寄する木の葉や風のなさけなるらむ⑦歌や詠まむ手毬やつかん野にや出む君がまにまに何して遊ばむ⑧沖遠く入日の影を慕ふ間に早やさし昇る山の端の月⑨尼の子は桜貝をや拾ふらん波の花散る磯伝いして⑩かりそめの草の庵りも言の葉の花咲く宿となるぞうれしき⑪おのづから心も澄めりくもりなき鏡が沖の月に向へば⑫来てみれば雪かとばかりふる里の庭の桜は散りすぎにけり▽ソフィアセンター敷地内=はじめて逢ひ見奉りて(貞心尼)君にかく逢ひ見ることのうれしさもまださめやらぬ夢かとぞおもふ(良寛)夢の世にかつまどろみて夢をまたかたるも夢もそれがまにまに※本文は仮名文だが読みやすいよう漢字をあてた。

貞心尼のこと(ていしんにのこと)
吉野秀雄が29歳の時に貞心尼について書いた文章で、同人誌『河』1930年10月号に掲載された。刈羽村の文学研究家・巻口省三が同人誌『河』全号調査で発掘した成果の一つで、巻口編の吉野秀雄随筆集『百日紅の花ゆらぐ』所収。当時の吉野秀雄は結核療養で体調が回復し「越信羇旅吟」の旅に出かけており、出雲崎で開催された良寛100年忌、柏崎の洞雲寺で開催された貞心尼忌に列席すると共に周辺の良寛関係史跡を巡った印象を計23首(第2歌集『苔径集』所収)に残した。「貞心尼のこと」は「越信羇旅吟」の印象をもとに書かれた文章のようで「『蓮の露』に見る良寛貞心の唱応歌は、温心が溢れてゐながら凡そ情痴の影なく、淡々また瓢々としてゐてしかも生命の流通しなければ止まない気塊を感じさせる。」「それから柏崎図書館に行って、中村文庫の中の貞心の『焼野の一草』『蓮の露』の原稿と数枚の辞世の歌を一瞥した。(略)貞心は必ずしも書を良寛に真似てゐない。しかし万葉假名崩しを交へて一字一字丹念に書き込む行き方には幾分の影響はあるであらう。貞心の書の味ひは生真面目な稚拙のそれであり、たどたどしい裡に籠る純情のそれである。」といった率直な貞心尼観を表現していて貴重。文中では『蓮の露』から6首を引き「貞心は決して歌人として一人立ちのできる女ではなかった。その遺詠集によって見ても趣味は高からず風韻は覚束ない。しかし良寛との唱応の歌においては不思議に素直な作を残してゐる。ここに掲げた良寛の歌の滋味はいふまでもないが、それが貞心の発想に誘導されて生じたものであることは注意すべきである。」とも指摘、柏崎の風景を「陽春五月の北国は、桃も李も八重桜も山吹も蒲公英も菜種も蛙も鶯も一と時に咲き歌ふのである。間近くの米山にはいまだ幾条の雪が残りながら地には春光が澱み、海面には厚く霞が流れるのである。自分はその日西光寺、極楽寺を経て一端畷にかかって終に洞雲寺に至る道すがら、まことに濛々たる空気に酔ふが如くであった。」と描写している。吉野秀雄は1959年にも「貞心尼のこと」と題する同名の文章を書いているが「恋学問妨」を引用するなど内容はかなり異なっている。

貞心尼の墓(ていしんにのはか)
柏崎市常盤台・洞雲寺の丘上にあり、中央に「孝室貞心比丘尼墳」、右に辞世の歌「来るに似て帰るに似たりおきつ波立ち居は風の吹くにまかせて」、左に「乾堂孝順比丘尼 謙外智譲比丘尼」(弟子の尼僧の名)が刻まれている。瀬戸内寂聴は『手毬』執筆時に参拝に訪れており、檀徒総代でもあった中村昭三は『貞心尼考』あとがきで「新潟で瀬戸内寂聴さんにお目にかかったとき、『貞心尼のお墓は立派ですね』との話しがあった。(略)大火で釈迦堂が焼失し、立よるかげもないと悲しんでいた貞心尼を励まして不求庵を建立し、歌会を盛り上げて外護者となった町の主だちの人々、特に山田静里・関矢大之などが、比丘尼の長い柏崎の暮しに、どんなに心の支えになったことであろう。よそもんを温かく迎え入れ、芸術・文化を育んだ私たちの先人の包容力に、心からの敬意をはらいたい。この貞心尼の墓に、当時の柏崎の人々の善意がこめられているものとおもう。」と書いている。

貞心尼『はちすの露』の仮名遣い(ていしんに『はちすのつゆ』のかなづかい)
柏崎市出身の筑波大学学長・北原保雄によるエッセイ集『青葉は青いか』所収の貞心尼論。『日本の古典-名著への招待』(大修館書店)の「はちすの露」執筆にあたり原本を初めて調べてみた所、「驚いた」ことをきっかけに執筆された。「貞心尼の書が美しいなどというのではない。確かにいい字である。しかし、書道にまったくの素人である私が、美しいとか、いいとかいって感心していても始まらない。それよりも、私が原本を見て直観した第一のことは、その文字の中に、明らかに『秋萩帖』によったと思われるものが頻出することであった。」としたうえで、「この秋萩帖式の草仮名(そうかな)表記は、『はちすの露』の本体ともいうべき和歌の部分だけにしか用いられていない。(略)この部分だけが、平安時代の古典に通じる芸術であるという意識があったのであろう。」と指摘。さらに「私が最も驚いたのは、仮名遣いがほとんど完璧に正用にかなっているということであった。」とし、「貞心尼の学識の深さは、この古典仮名遣いの完璧に近い正用に端的に示されている。『はちすの露』は、良寛の名に引かれて、良寛の歌だけが注目されがちであるが、編者貞心尼があってこその書である。特に、後半は、良寛と貞心尼との唱和の歌からなっている。もっと貞心尼の立場に立って見る視点が大切であろう。」としている。

出壺の水(でつぼのみず)
黒姫山のブナ林を通して湧き出る豊富な湧水量と清冽さで柏崎を代表する名水の一つ、「新潟県の名水」にも選ばれた。こんこんと水が湧き出し、春先には水量が毎時1万トンを超える。本領の桑名藩主に献上されたとの記録も残る。江戸時代後期の文政年間、谷川津兵衛が出壺の水を水源とした開墾事業を行い、岩盤を開削する難工事のため何度も中断したが、私財を投げ打って事業を成功させ2.5キロメートルを引水、谷川新田にその名を残した。1938年に建立された谷川津兵衛頌徳碑は「難ニ遭ヒテ屈セス財ヲ散シテ惜マス頑石(がんせき)ヲ砕キ堅巌(けんがん)ヲ鑿チ具(つぶ)サニ人力ヲ盡シテ漸く水路ヲ通スルヲ得タリ」と難工事の様子を物語っている。林道花立・網張線(黒姫山登山道清水谷コース)の出壺入り口から徒歩40分(入り口の標柱による)、平坦だが道が細いので足下注意。入り口には柏崎青年会議所によるまちしるべ「出壺の水と谷川新田」も建立されている。清水谷の地名も出壺の水に由来する。

出羽・本歌・入羽-綾子舞、21世紀への伝承(では・ほんうた・いりは-あやこまい、21せいきへのでんしょう)
重要無形民俗文化財指定20周年を記念して柏崎市綾子舞後援会が1996年に刊行した綾子舞入門書。表紙に徳川美術館蔵『歌舞伎図巻』(江戸時代初期、重要文化財)から綾子舞との類似点が指摘される「茶屋通い」の図を借用使用した。「『歌舞伎図巻』の中の綾子舞」「伝承のこれまで・伝承のこれから」「綾子舞の魅力」「綾子舞への招待」「綾子舞へのエール」の5章で構成。綾子舞の恩人として知られる本田安次を中心に綾子舞の発見から現在、将来への課題について座談(綾子舞と私-出会い・魅力・そして継承への期待)を行っている点が貴重で、本田はここで「よくまあ、危ない瀬戸際に見出だしたもんだなぁと思いましてね。私もホッとしました。綾子舞がなくっちゃ寂しかったですね。ちょうど慶長時代の、今の歌舞伎の前の『古歌舞伎踊』の、しかも出雲のお国と言われる人が歌舞伎踊を起こしたと言われていますが、そのお国あたりが行っておった踊り、その踊りの面影を一番よく残しているんじゃないかと思うんですね。そうした貴重なものが残っていたんです。」(1950年に初めて鵜川を訪問した際の感想)と述べるとともに「非常に大事な事業は復活。しばらく絶えて忘れたところを、それにタッチした人に集まってもらって、ぜひ復活していただきたい。」と提案し、これが復活演目への起爆剤となった。また「綾子舞の芸能史上に於ける位置づけ」(本田安次)、『綾子舞見聞記』(桑山太市)など主要論文を再録、綾子舞研究文献目録をまとめ研究者のニーズに応えると共に、演目の歌詞や伝承に励む人たちの思いなども掲載しており、ロングセラーとなっている。

手毬(てまり)
瀬戸内寂聴の小説。貞心尼を主人公に、良寛との「四十の歳の差を越え心を通わせ合う師弟二人の激しく純粋な愛」(単行本帯)を静かに鮮やかに描く。『新潮』1990年1~12月号に掲載され、翌1991年に単行本、1994年に文庫化。装画は中島千波。文庫本の解説は吉本隆明。執筆にあたり『はちすの露』(柏崎市文化財、ソフィアセンター蔵)を繰り返し読み構想を練ったと伝えられ、柏崎良寛貞心会の初代会長田村甚三郎も取材に協力した。この縁で1992年に柏崎での文化講演会「貞心尼と良寛」が実現した。講演で執筆の動機について寂聴は「良寛さんが子どもと手毬をついて遊んだという有名な話があるので、まず手毬を媒介にしようと思った。新潟に伺って、良寛が実際についた手毬を見てイメージを膨らませた。この手毬を貞心尼がかがって贈ったのではないか。贈らなかったとしても、自分の小説では贈らせよう。そこから始めようという気持ちになった」「自分で書いた貞心尼に自分を注入して書き進めた。これは必ずしもよくないが、我を忘れるような、貞心尼と作者の間がだんだん消えていくような、そんな愛情を貞心尼に感じた。」と述べた。また『はちすの露』に関連して「貞心尼の文字を見ると、非常に気性の激しい人だったのではないか。字がしっかりしていて、勢いがある。嫋嫋(じょうじょう)とした字ではない」と評。『手毬』を原作にした映画『良寛』(貞永方久監督、1997)では良寛を松本幸四郎(現白鸚)、貞心尼を鈴木京香が演じた。

天井の花(てんじょうのはな)
萩原朔太郎の長女・萩原葉子『天井の花~三好達治抄』(第55回芥川賞候補)を原作に、没後80年「萩原朔太郎大全2022」記念映画として製作された。2022年公開。片嶋一貴監督。プロデューサーの小林三四郎(太秦社長)が柏崎市出身であり、小林の実家の金泉寺(柏崎市長崎)をはじめ柏崎市で多くの撮影が行われた。ロケ地は後述。三好達治役に東出昌大、朔太郎の妹・萩原慶子役に入山法子、朔太郎役に吹越満、佐藤春夫役に浦沢直樹。朔太郎の孫で詩碑「海水旅館」建立に協力した萩原朔美(アルス社社長で北原白秋の弟役)の出演も話題となった。2022年11月27日の完成披露試写会(アルフォーレ)には東出、入山、有森也実ら出演者が駆けつけ舞台挨拶を行った。片嶋監督は「映画の8割は柏崎で作ったもので、柏崎の皆さんと一緒に作った映画だと思っている。」、小林プロデューサーは「ロケを通して四季を感じる柏崎の魅力を再発見できた。地元びいきではなく映画界が放っておくのはもったいない。」と述べた。【ロケ地】▽佐藤春夫の家、朔太郎の家(通夜)、三好達治と知恵子の家(部屋)他=金泉寺▽馬込村の道=不動院(柏崎市土合)▽三好寓=六宜閣(柏崎市上輪新田)、荻ノ島かやぶきの里(柏崎市高柳町)▽朔太郎の家(外、玄関、台所)=安田館(柏崎市安田)▽三好寓裏の崖=牛ヶ首(柏崎市笠島)▽三好寓に続く道=川内ダム(柏崎市鯨波)▽九頭竜河口=笠島海岸(柏崎市笠島)

天神講で小切子踊(てんじんこうでこきりこおどり)
天神講の伝統を伝える柏崎市野田コミセンで2011年2月27日に行われた綾子舞の特別公演。同年から柏崎刈羽、出雲崎が連携してスタートした「天神さま街道」の関連イベントとして開催された。高原田綾子舞保存会が伝承する小切子踊は、菅原道真公が九州に流される際、都七条坊門の娘・文が見送り踊ったとされ、この縁で特別公演が実現した。当日は小中学生を中心に海老すくい、常陸踊、狂言掏摸、小切子踊が披露され、ステージ前には天神像も飾られた。柏崎市綾子舞保存振興会長の須田弘宗は「今から1200年前、右大臣の位にあった菅原道真公が九州に流される際、侍女・文(あや)が別れを惜しんで三条大橋のたもとで見送って踊った。これが小切子踊りの始まり。だから、天神様(道真)と綾子舞は切っても切れない縁を持っている」と名調子で説明した。野田小放課後クラブが主管、高原田綾子舞保存会が協力した。同クラブ代表の小池一弘は「私らの時代は、各集落で男女別でそれぞれの天神講の宿があった。宿は小学校6年生の集落長の家があたり、最盛期は野田地区だけで20か所の宿があったのではないか。宿になった家の人は、自分たちの寝る場所以外はほとんど子どもたちに解放し、子どもたちは6年生のリーダーシップのもと、そこで一晩を過ごす。子どもの祭りということで、よほど危険なことでもしない限り、大人は口を出さなかった。」「天神講のある日は、小学校は午前放課という決まり。まずは、6年生が中心となって買い出しや会場作りを行う。集合は午後3時頃。まず、みんなで宿題をかたづけた後、書き初めを飾った天神さまにお参りし、6年生の企画で、ゲームや隠れんぼを楽しむ。夕飯は宿の人が作ってくれることになっていた。幼年期から少年期の通過儀式だった。」などと思い出を語った。

「天地人」小国氏特集(「てんちじん」おぐにしとくしゅう)
NHK大河ドラマ「天地人」ブームにあった2009年に小国文化フォーラムが「かつて小国を治めた名族小国氏に関心をもってもらいたい」と研究論文、諸史料を一冊にし小国文化の特別号(56号)として刊行した。第1章小国氏と大国実頼(長谷川伸)、第2章小国の山城(山崎正治)、第3章小国氏史料抜粋から(保坂利雄編)、第4章岩室側からみた小国氏(同)、第5章現代まで続く小国氏略系図で構成、小国氏研究の基礎を作った上坂亨作、長谷川正両論文を再録した。編集後記で小国文化フォーラムの高橋実は「大河ドラマ『天地人』の放映は、新潟県にとって大きな出来事である。新聞は、連日『天地人』関連の記事で埋まっている。兼続の弟大国実頼ゆかりの地として、小国は昨年8月『小国よっていがん会』が発足した。(略)この特集がさらなる小国氏解明に連なることを切に期待したい。」と編集後記で述べている。

「天地人」コーナー(「てんちじん」こーなー)
NHK大河ドラマ「天地人」放送開始の2009年1月に日本海の天守閣・岬館フロント前に設置された特設コーナーで、1年を通じて戦国時代の柏崎の歴史、史跡を発信した。仕掛け人は女将の矢口委子で、上越市の春日山や南魚沼市の坂戸城、長岡市の与板城などを多忙な女将業の合間をぬって訪問や見学し、資料収集を続けてきた。もともとは矢口家の菩提寺である福泉寺(柏崎市新橋)が上杉謙信の軍師だった宇佐美駿河守定満の祈願寺だったことが発端で、福泉寺には定満が川中島の戦いに行く際に奉納した妙見菩薩、祈願文などが伝わっている。同寺関係の資料、琵琶島城跡(柏崎総合高校内)、柏崎湊の繁栄と宇佐美駿河守の役割についてパネルを使って説明、また市外関係では上杉謙信や直江兼続の像を紹介している。話題となっている「愛」関連グッズの販売も行った。矢口女将は「自分の足で歩きながら集めた資料ばかりなので、愛着がある。大河ドラマがスタートし、お客さんの関心も高いようです。現在も一生懸命勉強しています。自分のできることで、柏崎の発信につながれば…」と話していた。同年、柏崎観光協会では「天地人」ゆかりの琵琶島城跡や鵜川神社、福泉寺、上杉景勝が戦勝祈願した大泉寺などを回る観光タクシーコースの設定と割引チケットの配布を行い、ブームを活用した観光宣伝に取り組んだ。

「天地人」ゆかりの地を巡るバスツアー(「てんちじん」ゆかりのちをめぐるばすつあー)
かしわざきこども大学が2009年8月に開催したバスツアー。NHK 大河ドラマ「天地人」ブームのなかで「上杉氏や直江兼続に関係するゆかりの地を回り、歴史の宝庫である柏崎を再発見してもらおう」と柏崎市内の小中高校生を対象に開催、NHK 大河ドラマで注目を集めることになった上条政繁(上杉謙信の養子の一人で、御館の乱後は直江兼続と対立)の居城だった上条城跡では2008年から始まった「塵芥塚」の発掘調査を柏崎市教育委員会学芸員の指導で行い、珠洲焼やかわらけ(素焼きの土器皿)、中国の青磁の破片を発見しては歓声があがった。この後、安田城跡、北条城跡を見学、学芸員を目指しているという高校3年生は「大学受験の勉強の一環として参加した。柏崎市内にこんな城跡があったとは…」と驚いた表情だった。

天王小路(てんのうこうじ)
柏崎市西本町3、旧西洋軒角を入り突き当たって左折し八坂公園に向かう小路。かつて八坂神社の前身である天王社に通じる道であったためこの名がついた。天王は天皇の古称。由来譚として地元には「おしの皇子」伝承がある。柏崎市教育委員会の『柏崎市伝説集』(1972年)、深田信四郎著による『昔の話でありました』第3集(1976年)等に集録されており、「まきむけのたましろ宮の品津別皇子」(柏崎市伝説集、『昔の話でありました』では「まきむげのたましろの宮のしなずわけの命」)が鵠(くぐい、白鳥)を見て言葉を発したことから天皇がこれを喜び、家来たちに捕獲を命じ、各地を巡りとうとう柏崎の浜まで来て、わな網を張りようやく捕獲、天皇、皇子に献上し大層喜ばれたというストーリーで、『昔の話でありました』第3集は「父宮様も大そう喜ばれ『空をとぶ鳥をとりおさえる事なんて神様のお力がなければ、とても出来るものではない。きっと柏崎の神様が私たちの心をあわれに思われてくぐいをわな網に追い入れたにちがいあるまい。さっそくそのわなみのみと(柏崎の鵜川の川尻)にお社をたてて柏崎の神様をおまつり申しあげよ』とお命じになりました。けらいはさっそく都の大工さんを大勢つれてわなみのみとにりっぱなお宮を建てました。柏崎の八坂神社はこうして建てられましたとさ。」と具体的に書いている。『古事記』中巻の垂仁天皇紀では皇子の名を「本牟智和氣御子」としたうえで「遂追到高志國而於和那美之水門張網取其鳥而持上獻」との簡潔な記録にとどめている。なお、『柏崎市伝説集』は「和那美」の比定地として他に「和南津村」(旧川口町)を上げている。

天皇陛下越路御巡幸をお待ち申上げて(てんのうへいかこしじごじゅんこうをおまちもうしあげて)
昭和天皇の御巡幸(戦災復興状況御視察)直前の柏新時報1947年10月4日号は「奉迎特集」。柏崎市長・三井田虎一郎、高田村・飯塚知信、国立新潟療養所長・吉田捷治、柏崎警察署長・伊佐早幸吉、刈羽郡町村長会長・村山沼一郎の奉迎所感(コメント)を掲載するとともに、詳細な視察日程、天覧郷土の特産品を紹介し、奉迎ムードの高まりを表現する。このなかで飯塚知信は「天皇陛下越路御巡幸に際しまして、はからずも行在所の大任を拝し飯塚家にとりましては正に空前の大慶事でありまして一世一代の光栄と存じている次第であります。殊に1日のご休養をもとらせ給うとの御予定、只々恐懼感激のほかないのでありまして…」と感激と緊張の心境を伝えている。また社説「御巡幸を奉迎するに当り」も「天皇自らいかめしい神格化を否定し『常に国民と共に在る』ことを宣言されているのであり、今回の御巡幸も親しく地方国民生活の実情を視察して慰問激励を与えられるためのものであると考える。終戦後に於ける惨たんたる崩壊の中から新日本建設のために再起しつつある地方現状をありのままお見せすることこそ最も正しい奉迎の姿であり…」「崩れ去つた歴史の中から再建への真剣な決意と責任とを深刻に認識し新世紀の日本国民としての資格において最大の誠心と敬意とを払つて人間天皇の御巡幸を奉迎したいと思う。」と誇大だが、これが時代の空気そのものだろう。同日付紙面には「安田館と鯖石館臨時休業」「安田駅前旅館安田館と鯖石館は米の買出人の根城と化していたが経済防犯の見地から自発的臨時休業をした。このため今度は附近の農家に陣取つているので柏崎署では近く一斉買出人狩りを断行する」といった世相反映の記事も。

天覧郷土の特産品(てんらんきょうどのとくさんひん)
昭和天皇の御巡幸(戦災復興状況御視察)で柏崎小学校東運動場内通路に陳列され天覧に預かった地元特産品のリスト(後記)で、柏新時報1947年10月4日号に掲載。94点あり、終戦直後の柏崎産業界が、暗中模索しながら懸命に産業を復興していく様子が伺え興味深い。「帽体麻真田」「アンプル管」などは終戦直後特有のものか。「原吉郎(原酒造)」「相沢権吉(相沢大吉堂)」などが個人名となっている事情も同様。柏崎在住の工芸家が作品を競って出陳していて興味深い。「天覧郷土の特産品」北越興業株式会社=男女子供用スエター各6点、大人用靴下、大人用鹿の子織靴下、モール編スミスオーバー、幼児用袖無、綿漁鰊網、鮭網各1点、日本輸出真田商工業協同組合柏崎支部=帽体麻真田1点、サカエヤ=魚卵塩辛1点、日竹工芸所=網代編花籠、同衣装入各1点、旭物産株式会社=農村向電球一般照明用、中華民国向、米国向クリスマス用各電球1点、平田光楽、小山健蔵、森三樹、内田精一、小山金兵衛=漆器各1点、原直樹、原直久、原惣右衛門、原宗治=鋳銅器各1点、原吉郎=清酒1点、西巻達一郎=醤油1点、相沢権吉=鋸、クリツクボール、ビツトオーガー各1点、大矢徳吉=鋸、鉋、のみ各1点、日石柏崎製油所=原油、揮発油、灯油、軽油、重油、機械油、パラフイン、アスフアルト各1点、理研柏崎工場=ピストンリング1点、帝石柏崎鉱業所=原油、天然揮発油各1点、半田製作所=時計旋盤1点、理研農工株式会社=アンプル管、代用調味料、ドングリ糖各1点、注射液2点、明治乳業株式会社=バター、スモークチーズ各1点、渡辺信平=胡爪種子、上杉源治=製粉機、裁断機各1点、近藤繁一郎=簡易搾油機1点

【と】
藤五郎狐(とうごろうぎつね)
高柳町栃ヶ原に伝わる伝説。「狐の夜祭り」のモチーフとなった。1977年刊行の『栃ヶ原郷土誌』に掲載。栃ヶ原の柿の木坂に1匹の古狐が住んでいて、時々人をだますので村の庄屋「おまえ」の藤五郎が一計を案じて狐をだまして退治したが、「おまえ」も衰退するというストーリー。文中には「お寺へ往復じゃくたびれたろう。おれにばれらっしゃい。どうせ遅くなると思って帯も持って来たスケ。」「おらあ、アッパが出たくなったてば。」「ばれたまま、こかっしゃい。」と高柳弁が満載である。『栃ヶ原郷土誌』の注釈によれば、登場人物の藤五郎は「おまえ」の息子、「おまえ」の若衆の両説があるとのこと。また『柳郷の伝説』では「おまえの家は一説には『春日』姓の総本家だといわれている。」と註記。

闘将伝 小説立見鑑三郎(とうしょうでん しょうせつたつみかんざぶろう)
直木賞作家の中村彰彦著。双葉社(単行本)、角川書店(文庫)刊。旧幕府軍最強と謳われた桑名藩雷神隊を率いて戊辰戦争を戦った立見鑑三郎の激動の人生を描く歴史長編。松平定敬の来柏後に藩論が恭順から徹底抗戦に変わっていく過程、立見らが宇都宮から柏崎に急行した事情も丁寧に描かれる。また、柏崎陣屋の風景も「厳寒期にはすさまじいばかりの海鳴りが轟きわたる北むきの正門と、土塁上にしつらえられた板塀とにかこまれた敷地面積は東西百間、南北九十間の約九千坪…」と表現される。『柏崎戊辰史探訪』著者の富永武臣が取材に協力したこともあり、鯨波戦争の激戦についてもリアル。

同人誌『河』と吉野秀雄(どうじんし『かわ』とよしのひでお)
郷土文学研究家の巻口省三(刈羽村正明寺)が柏新時報2020年1月1日号に寄稿した一文で、同人誌『河』に掲載された吉野秀雄の短歌を探索した経緯を振り返っている。巻口は、北海道の古書店から偶然購入した『河』(全156号のうち21冊)を手にし「これを繰ってみて私は驚いた。バラではあるが毎号にわたって吉野秀雄の短歌が少ない時で5首、多い時は30~40首にも及んで掲載されている上に、随想や評論、そしてしばしば同人雑記などまでが載り、当時の吉野秀雄の姿が躍如としてうかがえるのである。」と驚き「そして、この掲載歌文については、全集にも収録されていないので、『河』の歌文をすべて収集したいと念願したのであった。」と決意、全国の関係者に連絡を取ったり、直接訪問したりして欠号を充足し、全貌を明らかにした。巻口の奔走の結果『河』に掲載された短歌は『増補改訂版吉野秀雄全歌集』(2002年、宮崎甲子衛編)に収録され、随筆や評論は巻口が編者となって随筆集『百日紅の花ゆらぐ』として単行本化(1993年)。こうした縁で巻口は第25回艸心忌(1992年、鎌倉瑞泉寺)に招かれ記念講演を行っている。

塔の輪心礎石(とうのわしんそせき)
柏崎市東の輪町にある伝説の石で、角形で中央に四角い穴があいており、その形状は「東西83センチ、南北84センチの大きさ、そしてその石の東寄りに20センチ×28センチ、深さ13センチの四角の穴」(ふるさと鯨波)。「弁慶の硯石」と呼ばれてきたが、郷土史家・笹川芳三の丹念な調査研究によって天台宗時代の法修山妙行寺が鎌倉時代前期に建立した三重塔の心礎石(塔の中心柱の礎石)であることがわかった。礎石の穴の大きさから推定し18・2メートルの三重塔だったとみられる。1973年柏崎市文化財指定。現地には「市指定文化財史跡塔の輪心礎石」の標柱がある。郷土史家の笹川芳三は「塔の輪心礎石考」(1975、『柏崎刈羽』第2号)で「弁慶の硯石は塔の心礎石と思われる」「仏教考古学的に推測すると、三重塔が浮かぶ」「地名トウノワのトウは東でなく、塔ではなかったか」などと論考を展開している。「塔の輪心礎石考」は次項。

塔の輪心礎石考(とうのわしんそせきこう)
郷土史家の笹川芳三が、柏崎市東の輪町にある「塔の輪心礎石」(弁慶の硯石)の調査結果をまとめた論考、柏崎刈羽2号(1975年)に掲載された。笹川は1960年から塔の輪心礎石に注目し研究を続けてきた。1973年当時の状況について「再調査のため出かけたが、その所在がわからなくなった」「スッポリ砂に埋まっていた」「砂から掘りだした」などとしたうえで、①ほぼ中央に位置していたと推察される四角孔の底に線彫りがあるが、鉄棒様のもので壊そうとした形跡が見える。明治初期の仏教否定のとばっちりを受けたのであろうか②四角孔の底に刻まれているのは種子(しゅじ、諸仏諸尊を表す梵字)で、関甲子次郎も「丸の内に阿弥陀の梵字あり」と指摘している通り阿弥陀如来を表す「キリーク」であることがわかる。問題はその下部の台座に書かれている文字で、判読に苦労したが、日蓮宗に改宗する以前の天台宗時代の「法修山妙行寺」と読解することができた③年代については上州泉福寺塔址心礎石、飛騨国分寺塔址心礎石(何れも鎌倉時代)と比較検討、共通点から鎌倉時代前期と推定される④石田茂作博士の『伽藍論攷』(1948年)は心柱座径の40倍が塔の高さであることを検証帰納されており、これに則ると塔の輪心礎石は径1尺5寸なので高さは60尺(18・18m)となる-などとし「この硯石は天台宗時代の法修山妙行寺の建立した塔の心礎石ということができる。」「鎌倉期に、ここに三重塔が建っていた。高さ60尺の三重塔があった。村名は塔の輪が原義であろう。」と結論付けている。一方で、「弁慶の硯石」としての信仰については現地老婆からの聞き取り(ヨウお参りに来たもンだがノ。目のワーリイのがなおるスケ。そこンとこの水ンなかにジドウさんの顔だか、字だかが浮いてくるイウたンだドモ)を記録するとともに「この俗信も、眼疾に悩むことの多かった海辺の生活とのかかわりあいであろうし、養い水と呼んだ生活用水が田の流れ水であったり、ひき水たまり水であった江戸期の生活を思わねばなるまい。」と推測している。

冬柏山房(とうはくさんぼう)
柏崎出身の実業家で文人の内山英保(1868-1945)の私邸書斎で、神奈川県鎌倉市御成町にあり与謝野鉄幹・晶子夫妻をはじめ、有島生馬、石井柏亭、尾崎咢堂(行雄)、戸川秋骨、吉井勇、吉野秀雄ら多くの文化人が集うサロンとして活況を呈した。「冬柏」は椿のこと。与謝野晶子は「内山氏のお宅は千葉が谷の山を占めて、山下に母屋と越山荘が在り、山上に茶室風の冬柏山房がある。」(鎌倉日記の数節)、有島生馬は「鎌倉幕府時代の問註所に直面した山懐に位して…」(山荘懐古)とそれぞれ記すなど、内山の人柄による居心地の良さとともにその眺望、情趣が文化人を刺激、多くの歌や画がここで作られた。鎌倉文学館では2014年12月から2015年4月にかけ開催された収蔵品展「冬柏山房に集った文人たち」で、『冬柏山房抄』(1935年、内山英保による私家版)の作品を中心に山房での交流の足跡を振り返っている。

冬柏山房の記(とうはくさんぼうのき)
柏崎出身の内山英保が1935年に出版した句画文集『冬柏山房抄』の序文として与謝野鉄幹が書き送った。妻の与謝野晶子が「散文の絶筆」と確認している。鉄幹は幾度も冬柏山房を訪れているが、この文章の確認のため二度同所を踏査したという。「鎌倉なる千葉が谷と佐介が谷の境する山に、我が友内山英保ぬしの家あり。その家、四つの所に分れて建てり。」「その名の如く、鎌倉の武人千葉氏の私邸の跡」「路一つ隔てたる向ひの門を入れば、又一つの家あり。(略)これは客間にして、越山荘と名づけたるは、あるじの郷国なる越後にちなめるなり」などと邸内を紹介したうえで、冬柏山房については「登り尽して、なほ木下路を右に暫し行けば、突き当りて小高き所に書斎あり。老樹の枝屋根を掩ひ、幾もとの幹清く痩せて、二方の軒に斜したり。(略)書斎に入れば、浄几あり、炉あり、棚に古書の数巻を重ね、壁に禅家の一軸を懸けて、白き一枝の花を瓶に挿せり。」などとし「この書斎を、あるじが冬柏山房と名づけたるは、山に自生の椿多くして、冬より春に及ぶまで花を絶たず、枝にある、地に散れる、共にあるじの愛する所にして、おのれ寛の早く攷証したる国語の『つばき』の語原が、漢語の『冬柏』の古音Tu-Pak(チュパク)の転音なることに由りぬ。」と命名事情を説明。「椿の花の季節のみにとどまらず、桜、牡丹、若葉、菁莪、萩、紅葉の季節に亘りて、あるじと山房に題を分ち、筆を執り、夜更けては越山荘に宿ることさへありぬ。されば、あるじの雅懐と、この山の清興は、我等にもまた永く忘れ難きものなり。」には与謝野夫妻との交流の深さが伺える。1935年1月14日の内山宛鉄幹書簡には「冬柏山房の記の文章ハあとより(訂正して)差出し可申候。今少しく推敲仕るべく候。」との記述があり、綿密なやりとりがあったものと想像される。妻の与謝野晶子も「鎌倉日記の数節」のなかで内山の邸宅の様子を「内山氏のお宅は千葉が谷の山を占めて、山下に母屋と越山荘が在り、山上に茶室風の冬柏山房が在る。氏が十年前に此処に移られて以来、私達の訪問することもしばしばである。氏は此山の自然を破壊しないやうにして幾筋かの径を造り、清明台、槍浪台、望嶽台などの展望台を設け、山中の一木一草をも四季の好友として愛護せられてゐる。」と紹介している。鉄幹が冬柏山房で詠んだ「君が庵人のたくみを施さず山古くして椿はなさく」については別項。

「童話童謡」創刊号と柏崎(「どうわどうよう」そうかんごうとかしわざき)
「童話童謡」は浜田広介が主宰した童話童謡研究会の機関雑誌。浜田の次女・浜田留美は『〔ひろすけ童話〕をつくった浜田広介』で「高等小学唱歌の編纂に参加すると同時に、廣介は、おとぎ話と混同されている童話を芸術として文学の一形式にまで高めなければならないという熱意に燃え、自分で会を主宰する準備を進めて、昭和9(1934)年3月、『童話童謡』を創刊した。」とその意義を説明する。創刊号(昭和9年3月)には顧問の島崎藤村が激励のメッセージを寄せ、松村武雄、中山省三郎、安倍季雄、岸辺福雄、井上赳、タゴール、草川信、坪田譲治など豪華執筆陣(掲載順)が目を引く。童話童謡研究会の「要綱」によれば「会の目的達成のために、中央部及び地方各地に随時支部を設けます。」としており、この先駆として結成されたのが柏崎支部と鯨波支部。創刊号の「支部設立の報告」では「柏崎支部 新潟県柏崎町に設立、会員が多数となって統制の便宜上二つに分れて、第一第二の各支部となつた。」「鯨波支部 新潟県刈羽郡鯨波村に設立、佐野鯨波小学校長(支部長)ほか…」と紹介、なかでも柏崎支部については写真付きで「星野柏崎小学校長(支部長)」「酒井比角小学校長」「中村大洲小学校長」らに加え、教員時代の「月橋夽」「坂田四郎吉」、浜田広介の私設秘書だった「室星董道」の顔が見え、浜田は「何しろ、雑誌の創刊前では、支部を作っていただく方でも、作る方でも、積極的に働きかけることができない。故に、会から御依頼も致さなかった実情だが、以上は、すべて、趣意書によって、共鳴賛同くだされた諸氏の御好意そのもので、それだけに感激せざるを得ないのである。」と謝意を寄せている。さらに室星は創刊号のカットを担当、巻末の広告スペースには「大吉印の相沢大吉堂(新潟県柏崎町島町)」が「手工用ノコギリ、ノミ、カンナ」の1頁広告を出しており、柏崎関係者が支えたことがわかる。浜田が満を持して「鬼の涙」(後に「泣いた赤鬼」に改題)を発表した第2号でも「相沢大吉堂」は1頁広告を出稿。

遠目にも目立つ美形(とおめにもめだつびけい)
深田久弥の「日本百名山」(1964年)に日本山岳会選定による200座を加えたのが「日本三百名山」で、1978年版の「山日記」(登山ハンドブック)で公表された。新潟県内では金北山、守門岳、浅草岳、米山、八海山などが選ばれている。コロナ禍以降の低山ブームのなかで『山と渓谷』2025年新年特別号は「日本百名山 日本二百名山 日本三百名山」を特集。米山の写真・文を担当したのは『藪岩魂』で知られる低山専門山岳ライターの打田鍈一で、三階節の一節をふまえながら「山頂には米山薬師如来が祭られ、雨乞い、豊作祈願、厄除けなどに霊験ありと伝わる。登山道は6コースあり、大平コースが一番人気だ。山頂からは越後三山、上越国境の山々、北アルプスなどの大展望が楽しい。」と紹介。「遠目にも目立つ美形」はそのタイトルだが、米山を良く表現した。

独眼竜政宗のテレビ美術(どくがんりゅうまさむねのてれびびじゅつ)
NHKチーフディレクターの小林喬が1987年の柏中・柏高同窓会で行った講演。小林は柏高4回卒で、同年放送されたNHK大河ドラマ「独眼竜政宗」で美術を担当した。講演で、小林はテレビ美術の新技術として活用が始まったCADシステムやCG(コンピュータ・グラフィックス)の概念や実際の制作現場を紹介、実際に独眼竜政宗の名場面を通しながら合成手法を説明し、「テレビドラマの中で方向性と対照性(コントラスト)を画面に出していくことが、ひとつの説得力にもなる」との持論を展開し「独眼竜政宗も後半に入りいよいよ佳境を迎える。皆さんの声援を受けながら良い絵を作っていきたいと思う。」としめくくった。小林は、『独眼竜政宗』第45回「ふたりの父」の解説コーナーで、南蛮的ダイナミックデザインが特徴の政宗衣装(紫羅背板地水玉文様陣羽織)を復元する紹介場面に登場し話題を集めた。

ドナルド・キーンと綾子舞(どなるど・きーんとあやこまい)
ドナルド・キーンがいつから綾子舞に興味と関心を持ったかについて、「キーン先生と綾子舞」(岡島利親、柏崎市綾子舞後援会会報41号)では「推測でしかないが、先生と深い関わりを持つ早稲田大学の鳥越文蔵名誉教授を通じて、ある程度の情報を得ていたのではないか」としている。ドナルド・キーン・センター柏崎の市民ボランティアにも綾子舞関係者が多かったことから関心を深めていたようだ。ドナルド・キーンが綾子舞を観たのは、2010年(下野座元)、2013年(高原田座元)、2015年(下野座元)の3回、このうち2015年はドナルド・キーンのリクエストで狂言・三条の小鍛冶を熱演し「キーン先生は改めて綾子舞狂言の世界に興味を抱かれた様子であった。掲載の記念写真は、舞台袖にセットした先生の椅子の回りに、舞台から降り、楽屋へと向かう座元の皆さんから集まってもらい、撮影した。後ろに舞台装置なども見えるが、実にかけがえのない一枚となった」(キーン先生と綾子舞)としている。

富本繁太夫(とみもとしげだゆう)
江戸深川仲町の浄瑠璃芸人。文政11(1828)年に江戸を出て東北各地を渡り歩き、さらに本県、京都で道中日記『筆満可勢』を残した。原本は東北大学附属図書館にあり全5巻だが3巻、4巻が欠落。2巻に柏崎での滞在を含め貴重な庶民生活、風俗、方言が記録される。柏崎には文政13(1830)年10月28日から11月26日まで滞在、扇町(現在の西本町1)平田仁五左衛門方に投宿。興行に加え番神堂に7日間の「徒跣(はだし)参り」を行っている。声の不調に悩み「高調子」を立願したものだが「雪降故、蓑を着て菅笠を冠り出し所、足切れる様也。四五町歩行ば、足に覺なく、樂に歩行める。」(11月2日)、「雪道細き故、待合て居る内、足の痛難絶」(11月4日)と苦闘。番神堂については「濱際にして山高く石坂抔長し。社殊の外立派。脇に行場。堀抜井戸、清水也。直に此下た濱にて風景よろし。」と説明(11月1日)、三階節についての記述(11月13日)、立地蔵とねまり地蔵についての記述(10月30日、「此柏崎扇町といへる通の眞中に六尺程の細長き石有。是江不器用に大きく地蔵尊を彫付けある。又、一町程下モにネマリ地蔵と言て三尺程の石に是も不器用に彫付てある。是は土中になかば埋りある故、すわりゐる様に見ゆる故、右様唱へる。」)もある。三階節の記述については別項。高田への移動に際しては冬の米山三里に「風烈く寔に難所也。然に山江懸りし所荒來り、前後より霰嚴敷風につれて降る。笠抔冠られず、其時は一ト足も歩行事かなわず…」と苦しみ、「辨慶力餅」について「一ト盆三つ盛りて十五文、白き餅也。其家に由來書ありて老人出て言立る。」として茶屋主人の口上を記録している。繁太夫は高田での興行失敗のため、再度柏崎に戻り天保2(1831)年2月23日から30日まで7日間滞在し、長岡へと向かった。繁太夫が名乗った「富本豊後大掾藤原衆秀」は江戸中期の豊後節の創始者・宮古路豊後掾にあやかった僭称。(引用は全て『日本庶民生活史料集成』第3巻)

富山弥兵衛(とみやまやへえ、1843-1868)
薩摩藩の間者として新選組に入隊、後に御陵衛士。示現流の使い手で、油小路事件の報復で近藤勇を狙撃(墨染の難)した。戊辰戦争では黒田清隆の指示で各地の動向を探ったが、出雲崎町で水戸兵(諸生党)に捕えられ、いったん脱出したものの吉水村草生水(現在の出雲崎町吉水)で追っ手に取り囲まれ、50余創も傷を負い、息絶えた。同地の教念寺に墓。地元では「出雲崎の入り口で馬からヒラリと降りた。それが実に鮮やかだったので、水戸兵に怪しまれた」「最期の地は底なし沼のような深田だった」などの話が伝わっている。司馬遼太郎『新選組血風録』、津本陽『密偵 幕末明治剣豪綺談』などでも取り上げられ、司馬は「富山弥兵衛のごときは、日本間者史上からみても、錚々たる者として列伝中に加えるべきものであろう」(「弥兵衛奮迅」)と書いている。なお、近藤勇の甥は「富山の狙撃による肩の鉄砲傷を目印に、板橋の刑場で首のない近藤の遺体(首は京都に送られ晒された)を掘り起こした」と伝えられている。

豊臣秀吉朱印状に見える柏崎(とよとみひでよししゅいんじょうにみえるかしわざき)
天正19(1591)年の豊臣秀吉朱印状に「かしハさき」(柏崎)、「はつ崎」(鉢崎)の地名が見える。関白となった秀吉に津軽右京亮(為信、初代弘前藩主)が「御鷹」を献上する献上使が携帯した朱印状で、秋田分領、(上杉)景勝分領、越中内、越前内、江州内の経由経路を示し「宿幷鷹之餌入」を命じる。このうち景勝分領の経路はふくら、さか田、大浦、あつミ川、中つき、さる沢、岩舟、したい沢、にいかた、竹のまち、とまり、いつも崎、かしハさき、はつ崎、府中、なたち、のう、いとい川、あふミとなっている。新編弘前市史は「戦国期以来、鷹献上は、各戦国大名間のみならず各大名が中央の政権とコンタクトをとるための、重要な媒介行為であった(略)戦国武将たちも織田信長をはじめ、武技の一種として鷹狩りを特に好んだようで、なかでも秀吉の鷹好きは有名であった。」「後背地の蝦夷地に広大な鷹の捕獲地を持ち、鷹の供給には絶好の土地柄であった。」などと背景を説明、「(献上の)道筋は羽州街道の一部、次いで北国街道が大部分を占め、本州北端から京都までの街道と各施設を確定し、各地に負担を負わせるものであった。このように鷹献上が津軽から上方へ恒常的に行われることになり、沿道の各宿泊地並びに道路は鷹献上街道として位置付けられ、当然のごとく整備が図られたはずである。」と指摘する。津軽右京亮は信長次男の織田信雄、秀吉の甥の豊臣秀次にも鷹献上を行っている。

どんなにつらい事があっても戦争の悲惨にくらべたら(どんなにつらいことがあってもせんそうのひさんにくらべたら)
『二龍山』『幻の満洲柏崎村』著者の深田信四郎が柏崎市立荒浜中学校校長当時の1966年3月15日に卒業式で述べた式辞。「昭和20年8月24日、それは敗戦の放送があってから10日目である。この日、銃を持ったり、刃わたり1メートル余もある草刈鎌をふりかざした土匪が、私達二龍山開拓団を襲って来た。」「(生後1日で母の背中で死んだ赤ん坊の)オギャアという弱々しい産ぶ声が、思い出す度によみがえって来て、ブルルン・ブルルンと耳の鼓膜一ぱいに拡がる。いやこの事は、私が息をひきとるまで、私の耳から消えていく事はなかろう。」などリアルな表現で旧満州で体験した流浪体験を語り、子どもたちに平和の大切さを説いた。

【な】
中鯖石地区の石仏と伝承(なかさばいしちくのせきぶつとでんしょう)
おらが村の昔語り第4集として中鯖石郷土史クラブが1997年に発行。中鯖石は柏崎市内でも石仏の多い地区として知られ、地蔵菩薩や月待ち・日待ち塔、米山塔を始め、道祖神、甲子塔や大日報身真言塔といった珍しいもの、上加納・清滝寺の四国・西国・秩父・坂東百八十八箇所霊場めぐり、与板・周広院の西国三十三番霊所など多彩な石仏があり「厳しい生活の中であっても数多くの石仏を建立してきた先人達の思いを、石仏と、それにまつわる伝承を拾い集めることによって少しでも知ることができるのではないか」として4年がかりの調査を行い、その結果を各集落(宮平、与板、上加納、中加納、下加納、久之木、飛岡、佐之久、石川、久木太)単位でまとめた。また、13基の石仏を建立した村松諦真尼(1852-1935)の存在にもスポットをあてた。巻末の詳細な石仏一覧表は圧巻。

長鳥いにしえロード(ながとりいにしえろーど)
柏崎市が指定しているウオーキングコースの一つ。「勝海舟のルーツを訪ねて」の副題がある。JR長鳥駅を起点に、弘法大師霊塩水、米山検校御礼塔、米山検校生家、咸臨丸(現在は解体)、中村の大杉、秀快上人入定堂をめぐる40分のコース。マップでは長鳥三虚空蔵(山本の力満虚空蔵尊、鼻岳の福満虚空蔵尊、杉平の能満虚空蔵尊)、鳥谷城(別名長鳥城、鳥男城)、杉平百年プロジェクト、「炭置きと粥占い」の神事(山本・熱田社)、野の俳人五十嵐牛喆翁(山本)についても紹介している。

長鳥の久遠い流れ(ながとりのとおいながれ)
2000年に北条コミュニティ創立25周年を記念して開催された音楽劇。副題「北条ものがたり」。米山検校とその曾孫勝海舟、人々の苦しみを救うためミイラ仏となった真珠院・秀快上人、八石伝説、塩水の井戸をもたらした弘法大師など北条地区ゆかりの人たちを題材に、北条の文化、歴史、先人の歩みをたたえるふるさと賛歌で、キャストやスタッフ、テーマ曲を公募し、地区民の力をあげて作り上げた。脚本、演出担当は柏崎演劇研究会代表の長井満。少年時代の勝海舟(麟太郎)が曾祖父米山検校が生まれた長鳥を地吹雪に迷いながら訪ねるシーンで始まる。翌2001年の第7回柏崎演劇フェスティバルでも上演された。

中村昭三(なかむらしょうぞう、1927-1996)
柏崎の経済人、政治家。2人の兄が戦死したため家督を継ぎ中村石油の発展に尽力、柏崎青年会議所初代理事長、柏崎商工会議所副会頭、柏崎市教育委員長、柏崎市議会議員、同議長、柏崎野球連盟会長などを務めた。印象に残るのは最晩年の貞心尼顕彰者としての功績で、相馬御風『良寛と貞心』復刻版刊行(1991年)、洞雲寺での貞心尼歌碑「恋学問妨」建立(同年)、『はちすの露』復刻版刊行(1992年)、『良寛と貞心~その愛とこころ』編集刊行(1993年)、全国良寛会柏崎大会開催に向けた『貞心尼考』の編集刊行(1995年)をいずれも私費を投じて行い、現在につながる顕彰、研究の基礎を作った。『はちすの露』をはじめ貞心尼関係資料を収集した中村文庫を当時の刈羽郡に寄贈した中村藤八の孫にあたり、藤八を強く意識した最晩年だった。詩人・作詞家の中村千榮子は実妹。

中村彝の芸術-洲崎義郎との交流(なかむらつねのげいじゅつ-すのさきぎろうとのこうりゅう)
2002年に柏崎ふるさと人物館のオープンを記念して開催された特別展。新潟県立近代美術館蔵の「洲崎義郎氏の肖像」、柏崎市が購入した「苺」、「平磯」、「西巻時太郎氏像」、黒船館蔵の「静物」など7点に加え彝と洲崎義郎との交流を示す書簡類が展示され、大正期を代表する洋画家と柏崎とのゆかりに脚光を当てた。関連行事として近代美術館学芸課長の小見秀男の講演「中村彝・洲崎義郎・柏崎」が行われ、中村彝研究の第一人者として知られる小見は「1920年に開催された中村彝の初個展が東京でもなく、出身の水戸でもなく、なぜ柏崎が会場だったのかの意味は大きい。柏崎出身の小熊虎之助の紹介で、洲崎が新宿中村屋のアトリエに彝を訪ね、百年の知己のように共鳴し合う決定的な出会いとなって以降、洲崎はアトリエ建設資金を出したり、セザンヌの画集や彝の好物だった柏崎のみそを送るなど惜しみなく援助を続けた。その結果、柏崎には多くの彝の作品があり、彝の初個展がここ(柏崎)で開催されたことはある種の必然だった。」とし、さらに「二人の関係は画家と後援者という関係を超越し、精神的な血縁関係と言えるものだった。こんなにも信じ合い、共感しあうことができた時代がうらやましい。麗しい人間のつながりがあり、すばらしいドラマと美が残ったということになる。」と力を込めた。

中村彝の路地(なかむらつねのろじ)
JR日暮里駅前の本行寺脇から諏訪台通りへ抜ける細い路地。入口には有楽館という下宿があり、中村彝が1915年4月から1916年8月まで住んだことから路地の名前となった。地元の人の話では「現在の川むらそば店の辺りが有楽館で中村彝が住んでいた。そこには売れない文士が多数ひしめいていた。」というが、有楽館は戦災で焼失した。新宿中村屋裏のアトリエに住んでいた彝がここに移った理由について中村屋の相馬黒光は『黙移』で「彝さんはとうとう私のアトリエから日暮里本行寺のすぐ隣りの下宿屋に移りました。道場に通うのに近いからという口実のもとに。」と説明している。「道場」とは、本行寺で開催されていた岡田虎二郎の静坐会をさす。この静坐会に黒光は木下尚江の誘いで参加、彝も通うようになった。当時の様子について「この道場にはおよそ社会の各層各階級の人が集まってきました。徳川慶久公、水戸様、二荒伯、相馬の殿様をはじめとして、有爵の方々、実業界の錚々たる人々、学者、芸術家、教育家、基督教徒、僧侶、芸人、相撲取、学生等々いちいち挙げるには限りもないほどでありました。」(黙移)と紹介している。柏崎出身の帝大生・小熊虎之助(後に明治大学教授、日本超心理学会の初代会長)が中村彝と出会ったのもこの静坐会で、彝に同郷の洲崎義郎を紹介し、柏崎との縁が始まることになる。

渚七浦七みさき(なぎさななうらななみさき)
米山コミュニティセンターが2008年に作成した柏崎市米山地区ガイドマップで、「渚七浦七みさき」は旧鉢崎小学校の校歌の一節。霊峰米山、御館の乱で重要な役割を果たした旗持山、大泉寺観音堂(大清水、国指定文化財)をはじめ絶滅危惧種・カワラサイコの群生地(米山町)、鉢崎関所跡(米山町)、芭蕉が宿泊した旅籠たわら屋跡(米山町)、間宮海峡の第一発見者である松田伝十郎顕彰碑(米山町)、聖が鼻(米山町)、妻入りの町並み(米山町)、源義経ゆかりの胞姫神社(上輪)、弁慶の産水井戸(上輪新田)、荻原井泉水句碑(上輪)、牛が首層内褶曲(笠島)、豊漁弁天岩(笠島)、松が崎(青海川)、青海川駅(青海川)、鴎が鼻(青海川)、福浦猩々洞(青海川)、北国街道米山三里旧道・道標(青海川)などを紹介、通常は地図に載っていない小さな島や川の名前も明記したのが特徴。米山地区コミュニティ振興協議会の茂田井信彦会長は「マップを編集してみて、自然だけではなく、文化財にも恵まれている地域ということが分かった。今年は松田伝十郎が『カラフトが離島である』ことを発見してから200年目に当たり、これらを含め発信を強化していきたい。」と話している。

鍋合戦(なべがっせん)
2009年と2010年に柏崎港観光交流センター・夕海で開催された観光復興イベントで、来場者の投票でナンバーワン鍋を決定した。2009年はキノコ汁(米山きのこ園)、おいな汁(南鯖石コミセン)、鯛ともずく汁(多聞)、アンコウ汁(出雲崎どさん子)、クジラ汁(ムラヤマ)、タラの粕汁(鮮魚商組合)の6鍋、2010年はアンコウ汁(出雲崎割烹おおたに)、おいな汁(南鯖石コミセン)、閻魔さまの地獄鍋(えんま通り商店街)、キノコ汁(米山きのこ園)、オリジナルもつ鍋(龍の穴)、オリジナルとん汁(心)の6鍋が出展。両年ともアンコウ鍋がナンバーワン鍋に輝いた。アンコウ鍋を提供した出雲崎町・どさん子の大谷茂社長は「安定した水揚げがあるアンコウを出雲崎グルメとして売り出したいと考え、採算を度外視してアンコウをたっぷり入れた。お客さんの反応がよく手応えを感じている。出雲崎の名物にするためがんばります。」とコメント。

難読地名クイズ(なんどくちめいくいず)
「ウェルカム柏崎ライフ応援ゲーム」で出題される柏崎市内の難読地名クイズ。善根(ぜごん)、礼拝(らいはい)、与三(よそう)、五十土(いかづち)、南下(のうげ)、浜忠(はまつだ)、比角(ひすみ)、高原田(たかんだ)、中道(なかんど)、谷根(たんね)とハイレベル。ゲームを企画した柏崎市役所若手職員が「読めなかった」体験を反映している。なかでも比角は「ひかく」と誤読されることが多く、高原田はユネスコ無形文化遺産・綾子舞が伝承される地区の一つ。

【に】
にいがた・柏崎野菜祭り!(にいがた・かしわざきやさいまつり!)
表参道・新潟館ネスパス(東京都渋谷区神宮前4)で2008年に開催された農産物風評被害払拭キャンペーン。柏崎市担い手育成総合支援協議会が主催。中越沖地震(2007年)後の風評被害が深刻だったことから「元き!活き!かしわ咲き!」をキャッチフレーズに柏崎の元気と地震からの復興を首都圏に発信した。採れたて新鮮な柏崎野菜や特選加工品の販売をはじめ、門出小学校児童が栽培した「山の子米」無料配布、鯛めし弁当の販売、南鯖石の「おいな汁」や杵つき餅の試食など盛りだくさんの内容で、柏崎市出身者も多く訪れ「大変なにぎわいで、買い物もままならない程でした。3階での『おいな汁』振る舞いでは、高柳の『花坂の棚田』の素晴らしい写真が展示されていました。高柳町は棚田100選に3か所も選ばれているとのこと。故郷への思いを強くしました。」(関東高柳会・金子和男会長)等の感想が寄せられた。

新潟県柏崎市の郷土芸能綾子舞(にいがたけんかしわざきしのきょうどげいのうあやこまい)
2023年1月7日に日本教育会館一ツ橋ホールで開催された第33回民俗芸能と農村生活を考える会のタイトル。主催は一般社団法人全国農協観光協会で、ユネスコ無形文化遺産登録後、初の対外公演となった。2部構成で、第1部「民俗文化の背景をさぐる」では現地公開や鵜川の状況、綾子舞伝承の様子などをビデオ紹介、柏崎市綾子舞保存振興会副会長で篤農家でもある関一重が鵜川の現状について「山々に囲まれた東西7キロ、南北5キロの盆地状の地域で、世帯数27世帯、43人。イノシシ対策に苦労しながらも、食味値87というおいしい米を生産している。昔の人は機械を使わず、体一つで農作業を続けてきた。その体が、綾子舞を500年という長い年月伝えてきたとも考えている。」としたうえで「綾子舞伝承にあたっては新道小学校、南中学校での伝承学習が大きな役割を担ってきたが、少子化の急速な進展に伴い学校統合が計画されている。さらに地域の理解、学校の理解が必要で、統合に向けて伝承学習がスムーズに行くよう努力していきたい。」と報告した。第2部綾子舞の特別公演では小原木踊(下野)、常陸踊(高原田)、小切子踊(高原田)、狂言・海老すくい(下野)、常陸踊(下野)が披露された。

新潟県太鼓フェスティバル(にいがたけんたいこふぇすてぃばる)
第34回国民文化祭・にいがた2019、第19回全国障害者芸術・文化祭にいがた大会の関連イベントとして2019年9月29日柏崎市文化会館アルフォーレで開催された。県内の様々な特色を持つ太鼓団体(12団体)が出演、ゲストには「鼓童」の元メンバーである林田ひろゆき率いるプロ太鼓集団「ZI-PANG(ジパング)」と新潟県から世界に羽ばたくダンスグループ「Chibi Unity(チビユニティ)」を迎えた。柏崎からは日本海太鼓が出演し、春夏秋冬四部作から「冬の部~狂瀾怒涛の荒海太鼓」を熱演し、気迫と貫禄で存在感を大きくアピール。ゲストの林田ひろゆきは「冬の日本海の情景が目に浮かぶような演奏だった。面を被りながらの演奏なので(熱演で)酸欠にならないかと心配になった。」と感想を話していた。

新潟県の道祖神信仰の諸相(にいがたけんのどうそじんしんこうのしょそう)
2000年3月に柏崎市で開催されたシンポジウム。新潟県石仏の会・道祖神部会主催。柏崎市内には約2000基の石仏があり、このうち88体の道祖神が確認されており、市民公開で道祖神への理解を深めた。新潟県石仏の会の石田哲弥会長は「道祖神は江戸時代中期から庶民の間で流行し、石仏の中で一番人気のある存在となったが、小正月行事との関係などまだよく分からない部分が多く、様々な角度から研究をしていく必要がある。」とあいさつ、道祖神研究の第一人者として知られる武蔵野美術大学神野善治教授の基調講演「道祖神信仰の展開-人形道祖神と石造道祖神」が行われた。神野教授は東北から本県まで各地で撮影した様々な写真を紹介しながら「村民の災難を背負ったワラ人形が小正月行事で焼かれたり、村外れに放置されたままになっていたのが、いつの間にか村外から入ってくる災いを防ぐ存在になり、石製の道祖神として定着していったのではないかと考えている。道祖神は疫病神から村民の災いを綴った帳面(ノート)を預かっているといわれる。長野県では小正月行事で道祖神を火にくべる習慣が残っている地域もあり、帳面を取りに来た疫病神に、道祖神が焼けて失くなってしまったと言い訳してくれる-と今でも信じられている。」と述べるなど民俗学的な見地から道祖神信仰について説明した。続いて越路町のサイノカミ行事から(渡邉三四一)、柏崎市吉尾のサエの神(大竹信雄)、柏崎市中道の「さえの神」火祭り(阿部茂雄)各発表が行われた。シンポジウムにあわせ、柏崎市立博物館展示室で柏崎市蕨野や鷹之巣の双体道祖神が展示され関心を集めた。

新潟県の名水(にいがたけんのめいすい)
新潟県内の豊かな水環境を保全し、県内外に情報発信するため1985年から選定を開始、現在68か所。柏崎市内からは次の5か所が選定されている。▽出壷の水(清水谷地内)=1985年選定、流量5300L/分、硬度32▽椎谷の御膳水(椎谷地内)=明治天皇の北陸御巡幸の際に献上。別名お茶水の井戸、1985年選定、流量6.2L/分、硬度59▽大清水観音の清水(大清水地内)=2010年選定、流量3.0L/分、硬度44▽治三郎の清水(女谷地内)=2010年選定、流量32L/分、硬度38▽きつね塚湧水(谷根地内、米山登山道谷根コース)=2012年選定、流量約900L/分、硬度27※水質調査は新潟県が2010年実施、きつね塚湧水のみ2012年

新潟県民俗芸能誌(にいがたけんみんぞくげいのうし)
桑山太市が新潟県下の民俗芸能を長年調査した成果をまとめた労著。1972年、錦正社から刊行。舞楽(弥彦神社の神事、天津神社の神事、白山神社の神事)、特殊神事(日吉神社の神事、国上寺の院宣祭、関山神社の火祭り、本成寺の追儺、北条の灯籠祭、つぶろさし、王神祭、筒粥神事、流鏑馬、鉱山祭、能と狂言)、神楽(巫女神楽、里神楽、湯立の神事)、田楽、獅子舞、風流(花笠踊、綾子舞、念仏踊、あめや踊)、人形芝居と地芝居、凧合戦、門付、民俗の各章から成る956頁の大著。このうち綾子舞については182頁を割き、綾子舞の文献、遺品、舞台構成、服装、扇の使い方を詳しく説明するとともに、歌詞(小歌踊11曲、囃子舞22曲、狂言14番)を紹介。このなかには現在は上演されない日蔭踊(小歌踊)、松虫踊(小歌踊)、塩汲踊(小歌踊)、錦木踊(小歌踊)、大黒舞(囃子舞)、うれしき舞(囃子舞)、できたり舞(囃子舞)、かがみとき舞(囃子舞)、蟹の舞(囃子舞)、さんき舞(囃子舞)、天ぽ舞(囃子舞)、松の舞(囃子舞)、笛の舞(囃子舞)、杓子舞(囃子舞)、菊の舞(囃子舞)、兎の舞(囃子舞)、ひじり舞(囃子舞)、立たり舞(囃子舞)、うづら舞(囃子舞)、だんづる舞(囃子舞)、石山詣(狂言)、大熊川(狂言)、祐善(狂言)の歌詞も掲載しており貴重。中央発信の契機となった本田安次の鵜川訪問(1950年)については「若し、この折り、本田安次様が、鵜川にお越しにならなかったなら、綾子舞は、永久に土にうもれ、鵜川の村から一歩も外に出ないで、亡び去ったであろう。かく考えると、綾子舞を再発見して下さった人は、本田安次様である。本田安次様は、綾子舞にとっては大恩人である。勿論、地元の人々が、幾度か危機に遭遇しながら、屈せず、努力をつづけ、保存して下さったことは大いに感謝する。」と述懐する。

新潟県民謡紀行(にいがたけんみんようきこう)
近藤忠造(監修)、横山孝弘、金子泉、水落忠夫が県内各地を訪ねて執筆を分担、近藤が監修を行った。県内民謡の掘り起こしと記録保存を目的に発足した越後民謡研究会の10周年を記念し、新潟県内を網羅した民謡入門書。野島出版から1993年刊。県内を上越地方(7)、中越地方(32)、下越地方(27)、佐渡地方(12)に分け計78の民謡を収録した。柏崎からは野良三階節(金子)、柏崎おけさ(近藤)、米山甚句(水落)、柏崎甚句(水落)、柏崎松坂(水落)、出雲崎からは出雲崎おけさ(横山)が取り上げられている。さらに「越後杜氏と酒屋唄」では近藤が綾子舞調査で鵜川女谷に入った際、シンパチインキョ(堀井家)に滞在して「越後杜氏」や「越後流」、唄に明け暮れる酒造を表現した「唄半給金」について聞き、興味を持った話題を紹介している。近藤はあとがきで「滅びゆく民謡の記録もさることながら、民謡本来の姿を模索することや、また本県の民謡を多くの人々から知っていただくことも大切なことだと痛感するに到った。(略)一人でも多くの人々から本県の民謡に関心を持ち、親しみをいただいていただければ幸い…」と書いている。

新潟の仏像展(にいがたのぶつぞうてん)
2006年に新潟県立近代美術館で開催された中越大震災復興祈念特別展。新潟県内各地の優れた仏像を一堂に集め「地震で大きな被害を受けた中越地方復興への祈りをこめる」を目的に開催され、重要文化財、新潟県指定文化財をはじめ54点が展示された。柏崎市内からは極楽寺(小島)の阿弥陀如来坐像、周広院の阿弥陀如来坐像、二田物部神社の狛犬(いずれも県指定)、無指定だが仏像研究の第一人者である水野敬三郎館長が絶賛した大泉寺の千手観音菩薩坐像が出品された。このうち最も時代の古い極楽寺の「阿弥陀如来座像」は平安時代後期、12世紀半ば以降の製作と考えられており、一向一揆で大角間に避難した際に傷んだ傷を修理するため「室町時代の1500(明応9)年に京都に修理に出した」との墨書銘が像内に残っていることから「500年ぶりのお出まし」として話題を集めた。調査に訪れた水野は「目を伏せるやさしい丸顔の表情やおだやかな肉付け、浅くなだらかなひだの起伏などに平安時代後期に日本各地に広まった定朝様の特色を示す一方で、両脚部中央の反転する衣文線には規範から一歩踏み出そうとする新趣も見られる。」と評価した。桑原和雄住職は「仏像展の話があり、世話人の皆さんに相談したところ快諾を頂き、こうやって送り出すことになった。被災した皆さんのいやしになればと思います。会期中、留守になるのは淋しい気持ちですが…」と語った。搬出作業は「乾いており、もろい部分がある」として専用の運搬用具を使って慎重に行われた。水野は2009年にも同寺を訪問、本堂の毘沙門天像、不動明王像を調査した。

にっぽん百低山「米山・新潟」(にっぽんひゃくていざん「よねやま・にいがた」)
酒場詩人の吉田類が全国の低山を訪ね、その魅力を堪能するNHKの人気番組で我が米山さんが取り上げられた。2024年10月下旬に撮影が行われ、初回放送は2025年1月10日(NHK BS)。「新潟の米山。お米の神様が住むとされる山に自生する豊作をもたらす『あるもの』とは?」と題し米山信仰について柏崎市立博物館学芸員の渡邉三四一から説明を受け、山頂を目指すという設定。吉田類はJR米山駅で下車し、同駅前で「信越本線の米山駅まで来ています。目指す山は正面に見える米山なんですが、お米の神様としてひときわ信仰を集めているそうです。登りながら探りたいと思います。」と米山を見上げる。当然大平口からの登山を予想するが柿崎側の「下牧ベース993」へ移動、柿崎山岳会のバックアップでゲストの大桃美代子とともに登山を開始。しらば(尸羅場)避難小屋で待ち構えていた渡邉学芸員から「トウキの葉を昔は米びつや衣装びつに入れ虫除けに使った。この効能を転用し、トウキを(厄除けのお札とともに)田んぼの近くに下げれば虫が寄ってこないと考え、豊作をもたらすと期待した。トウキはお米の豊作をもたらす大事なアイテムとして、多くの米農家がこれを求めて米山に登った。」などの説明を受けた。米山ならではの「物語」や山頂からの素晴らしい眺望が発信されたのは素晴らしいことだが、米山駅から「下牧ベース993」までの移動手段が示されていないため低山ファンには不親切ではなかっただろうか。「下牧ベース993」までは約15キロ。ゲストの大桃美代子を含めロケバス移動なのだろうが。

二・二六事件関与の柏崎人(ににろくじけんかんよのかしわざきじん)
柏崎市駅前2の三五恒治は、柏新時報掲載の「小さな旅をたのしむ41 赤坂から六本木の坂と歴史を」(2006年3月24日号、同31日号)を読み「小さな旅をたのしむを拝読して昔を偲ぶ」と題する感想を投稿した。「もう七十年も昔のことです。(歩兵第一連隊所属で)一ツ木通りに住んでいた頃の懐かしい思い出が脳裏をかすめます。(略)近頃は六本木ヒルズなどの高層建築が目立ちますが、昔の六本木の街は兵隊の街で…」という穏やかな書き出しで始まったが、後半で「私は二・二六事件のとき首相官邸を占拠して二十九日迄立籠もっていました。」と明かし、占拠中の秘話も添えられていた。「柏新時報社さんの記事に感動を覚えコンガラがった心の糸を少したぐり寄せながら思い出して書きました。」と結んでいた。その後、改めて本人から「私は二・二六事件に兵隊の一人として関与しました。市内出身の人間がこの大事件に関与したことを知って頂きたくてお知らせしました。ですが、生前の公表はしないでください。」との連絡があり、掲載を見送った。

日本語の正しい使い方講座(にほんごのただしいつかいかたこうざ)
新潟産業大学学長の北原保雄が2014年の柏崎市立教育センター研修講座で行った講演。教員対象だが市民にも公開された。茨城県鹿嶋市誕生(1995年)の経緯について「鹿島町と大野村が合併して、鹿島市を誕生させたいと考えたが、佐賀県に同名の市があったため、地元の人たちが困って相談に来られた。自治省(当時)は同じ名前の市は二つあってはならないという方針だったからだ。鹿島神宮の門前町にちなんだすばらしい名前であり、名乗れないのなら(合併を)やめてしまえ、という話もあったほどだった。解決策は鹿島を別字体の鹿嶋とすること。奈良時代からの歴史をひもときながら、なぜこの名でなければならないかの理由を文書にして当時の野中広務自治大臣宛に出した。これが認められ、めでたく鹿嶋市が誕生した。」と説明、極端な珍奇名前「キラキラネーム」については「子どもの幸福を願ってつけるのが名前なのに…。現場の先生方は困っていると思う。ふざけている。有名人が子にふざけた名前をつけることが悪影響を与えている。ずっとこの名前を呼ばれていくと思うとかわいそうだ。我々世代がしっかり指導しなくてはならない。」と強調した。また奥の細道の「荒海や」中「横たふ」の文法的解釈についても説明し関心を集めた。

日本語ブーム(にほんごぶーむ)
柏崎市出身の北原保雄(前筑波大学学長、独立行政法人日本学生支援機構理事長)が日本語ブームの背景などについて柏新時報2007年1月1日号に寄稿した随筆。『問題な日本語』のベストセラーによってブームを作り出した北原は「昨年も日本語ブームが続いた。嬉しいことである。私の本が売れるからではない。日本語に関心を持ち、言葉を意識する人が多くなれば、その人の言葉の力が強くなり、日本語全体も美しく豊かなものになるからである。」「大新聞の社説に、名前を出してもらい、拙著やテレビ出演のことまで紹介してもらったことは、ありがたい。私は日本語ブームの仕掛人の一人であると認められているらしい。」などとしたうえで、「テレビが日本語の乱れを助長していることは多くの人が共通して感じていることなのだ。それなら、テレビを使って正しい言葉の力を強化しようではないか、ということで、テレビ番組を始めたのだった。公務のかたわら毎週放送のレギュラー番組を継続するのは正直楽ではなかった。それでも約1年間は続けることができた。この間、講演の依頼が多く、雑誌や新聞の取材は週に何回とあり、1日に2回などということもしばしばだった。」と慌ただしさを振り返る。さらに柏崎高校の同級生である金の星社・斎藤雅一会長との柏崎コンビで刊行した『日本語どっち!?』や北原の似顔絵が登場するDSゲームソフト「クイズ!日本語王DS」などについてもふれ「今年も書籍、テレビともに計画が進められている。日本語ブームは継続させたいし、継続させなければならない。頑張りたいと思う。」と結んでいる。

『日本の古典』に取り上げられた『はちすの露』(『にほんのこてん』にとりあげられた『はちすのつゆ』)
日本古典の名著を紹介する『日本の古典』(1986年、大修館書店)で貞心尼の『はちすの露』(柏崎市立図書館蔵)が取り上げられたことは関係者にとって嬉しいニュースとなった。編者は柏崎市出身の北原保雄で、執筆も担当した。北原は「『はちすの露』は、良寛の晩年の愛弟子貞心尼の編んだ良寛歌集である。良寛は天保2年(1831)に74歳で遷化するが、貞心尼は、師への思慕の情おさえがたく、良寛が生前詠み捨てた歌をあちこち尋ね歩いて拾い集め、また、自らが良寛の庵に通って詠み交わした歌どもを書きそえて一巻とした。」「才女で、幼児から古今集などを愛読していたと伝えられている。そういうところが、良寛に愛されたのであろう。」と説明、紹介しながら、その価値について「原本で50丁たらずの小さなものである。しかし、良寛歌集としては、最も早く編まれたものであり、良寛を最も深く理解した者の編になるものだけに、所収歌、一巻の構成ともにすばらしい。原本を読んでみると、貞心尼という人がなみなみならぬ学識の持ち主であることが知られる。一例をあげれば、仮名遣いは歴史的仮名遣いによっているが、ほとんど間違いがない。」「前半の『月の兎』『鉢の子』『白髪』などの長歌もユニークな名歌だが、後半の唱和の部分も貞心尼の歌と合わせた形で、味読されるべきであろう。(略)貞心尼の歌も、良寛の歌に劣らずすばらしい」と評している。『日本の古典』は幅広いジャンルにわたって日本古典の名著132編を解説した読書案内で、時代別(上代、中古、中世、近世)に編集。『はちすの露』が属する近世では好色一代男、おくのほそ道、雨月物語、南総里見八犬伝、東海道中膝栗毛、信長記、太閤記、養生訓、北越雪譜、氷川清話など54編が紹介されている。なお、北原は「貞心尼『はちすの露』の仮名遣い」(『青葉は青いか』)で同書を取り上げた心境などについて書いている。

「日本百低山」に選ばれた米山(「にほんひゃくていざん」にえらばれたよねやま)
イラストレーターの小林泰彦が『山と渓谷』に「低山徘徊」という連載を始めたのは1979年のこと。以来、29年間にわたり387座を紹介、ここから100座を厳選したのが2001年刊行の『日本百低山』で、山歩きの楽しみを味わい深いイラスト紀行として紹介し、低山歩きのバイブルになった。基準は「標高1500メートル以下で、昔から多くの人々に親しまれてきた知名度が高い山」「歴史と伝統、ストーリーのある山」「楽しくハイキングできる山」で、本県からは弥彦山、米山、金北山が選ばれている。多くの登山コースがある米山を柿崎側の水野林道から登った小林は「小沢に残雪がつまっていて、それをザクザクと踏んで、雪深い越後の山であることを実感した。雪の圧力に屈した樹林が続き、登るにつれてブナやナナカマドが現われ、足もとにはイワカガミがかれんな花をつけていて、気分も次第に高まった。」山頂では「薬師堂を一周することで、360度の大展望を楽しめる。北は柏崎から遠く弥彦山、南に妙高連山、西は日本海という雄大な眺めで、いつまでも見飽きない。」と記し、「私事ながら、ぼくは少年の頃に新潟県の新井町(現新井市※)にいたことがあり、そのときに一方は妙高山、もう一方は米山さんの守護によってわれわれは穏やかに暮らすことができるのだよと教えられた。その後、妙高山には何度か登ったものの、米山には登る機会がなかった。」との述懐も。「米山寺近くから仰ぐ米山。独立峰の立派な姿は、さすがに越後の名峰である。」などのイラストも印象的だ。なお米山は「日本三百名山」(1978年、日本山岳会)、「日本百低山」(『山と渓谷』2024年11月号)でも選ばれている。2024年の「日本百低山」は「日帰りで行ける山」も条件の一つとなっており柏崎側の大平コース(JR信越本線米山駅下車)を推奨している。一方、日本山岳ガイド協会編の『日本百低山』(2017年)には米山は選ばれていない。※現妙高市

日本文理の夏はまだ終わらなーい(にほんぶんりのなつはまだおわらなーい)
柏崎出身の選手を擁した日本文理と中京大中京が対戦した第91回全国高等学校野球選手権大会決勝(2009年8月24日、阪神甲子園球場)での朝日放送テレビ・小縣裕介アナウンサーの名実況。正確には「一人ホームイン、そして二人目もホームイーン。つないだ、つないだ、日本文理の夏はまだ終わらな-い。10対8。6点差が2点差に変わりました。何と表現していいのかわからない。日本文理の最後の最後の凄い粘りだー」(9回表、伊藤直輝の適時打)で日本文理の猛追を表現、9対10で終えた試合直後には「壮絶な決勝戦」を繰り返した。日本文理には柏崎リトルシニア出身の中村大地(主将、東中学校)、高橋隼之介(第一中学校)、平野汰一(鏡が沖中学校)が出場、なかでも高橋は3回に同点ホームラン、6点を追う9回2死からの猛攻でも高橋の二塁打が反撃のきっかけとなった。同年11月に柏崎市で行われた大井道夫監督の講演でも「中村(大地主将)や高橋(隼之介)を文理に寄こしてくれた保護者に感謝したい。」と述べた。同試合は100回を記念した「甲子園ベストゲームファイナル」(2018年)で2位に選出された。

女人の参るまじきとの御制戒とはそもされば如来の仰せありけるか(にょにんのまいるまじきとのごせいかいとはそもさればにょらいのおおせありけるか)
謡曲「柏崎」の第二場破の段、柏崎からさ迷い歩き信濃・善光寺に辿り着いた柏崎殿の妻と善光寺の住僧との問答場面での印象的な詞章。善光寺内陣で参拝しようとする柏崎殿の妻に住僧が「何者だ、ここは女人禁制だぞ。」と咎めたのに対し、柏崎殿の妻は「極悪人も善光寺の仏様なら救って下さると聞き(女人である私も)参詣に来ました。どうかすがらせてください。」これに対し住僧は「おかしな女人だと思ったら、教養があるようだ。誰に教わった。」と糺す。柏崎殿の妻はさらに「内陣は極楽の九品上生の台(極楽を九つの段階に分けてその最上級の蓮台)と聞きました。」としたうえで「女人の参るまじきとの御制戒とはそもされば如来の仰せありけるか(女人禁制は善光寺如来が仰ったのでしょうか)」とやりこめ、結局内陣での参拝が叶う。『善光寺史』(1969年)で郷土史研究家の坂井衡平は「柏崎女の伝説に注意す可きは、内陣女人禁制の風が尚保たれて居たのを解いた事実である。」(柏崎女の悲劇と女人禁制)、また能楽研究家の松田存は「謡曲『柏崎』考-史実と虚構のあいだ-」(1965年)で「信濃善光寺における"女人禁制"の禁を破ったのは、ほかならぬ狂女故に成し得た花若の母が、その始祖ではあるまいか。」とそれぞれ指摘している。

【ぬ】

【ね】
ねまり地蔵のレプリカ(ねまりじぞうのれぷりか)
2013年に新潟県立歴史博物館で開催された企画展「石仏の力」で話題を呼んだ像高206センチ(光背を含めた総高270センチ)、奥行き60センチの巨大レプリカ。石工の鈴木悟司がスタイロフォームを使用し13日かけて製作、製作会場は前半が柏崎市立博物館、後半は柏崎ふるさと人物館。製作の様子について鈴木は「石で石仏を作る様に想像しながら、ノコギリでスタイロフォームを切り削っていく。写真を見ながら、感覚でお地蔵様の姿にしていく。大きなものなので、スタイロフォームの上に乗り、素足になって黙々とノコギリを引き、荒彫り(大体の形に)していきました。離れては見て、写真では立体の感じがわかりづらく、ホンモノのねまり地蔵様の元へも行き、頭や体の感じをメモしたり、手で確かめたりしながら、ホンモノの形に近づこうとしていましたが、なかなかうまくいかず、石のもつ荒々しさ、重さを表すのは難しかったです。電動ドリルを使って削ったり、刃先の丸いカッターナイフを使ったり、キッチン道具、金ブラシ、いろいろと、ありとあらゆる道具を使い、石の表情を出そうとしました。」(「石仏ふぉーらむ」第11号)と苦労の様子を振り返っている。

【の】
能「柏崎」を文化都市柏崎のシティセールスに積極的に活用してはどうか(のう「かしわざき」をぶんかとしかしわざきのしてぃせーるすにせっきょくてきにかつようしてはどうか)
国立能楽堂での2018年7月企画公演「中世のおもかげ-柏崎」で綾子舞、能「柏崎」を鑑賞した筑波大学名誉教授・北原保雄(柏崎市出身)のコメント。柏新時報2018年8月3日号に掲載された。当日は綾子舞と能「柏崎」が初共演、綾子舞は小歌踊「小原木踊」(下野)、狂言「海老すくい」(下野)、囃子舞「猩々舞」(高原田)、小歌踊「小切子踊」(高原田)を上演、続いて柏崎と善光寺が舞台の能「柏崎」が宝生流・佐野由於らによって演じられた。終了後、北原は柏新時報記者の質問に答え「以前から、柏崎の宣伝のためには能『柏崎』と思っていたので、感慨深く公演を鑑賞した。『柏崎』は現在も能舞台で上演されているポピュラーな曲で、世阿弥自筆本にも載っていて、由緒正しい。曲名が『柏崎』そのもの、というのもわかりやすい。能『柏崎』を文化都市柏崎のシティセールスに積極的に活用していくのはどうか。」と提案、さらに「綾子舞には狂言があるが、狂言はもともと能とセットのもの。綾子舞とセットで柏崎を売り出すには、能「柏崎」が断然有効。どうかもっと綾子舞とセットで売り出すようにお願いします。私も努力します。」と語った。

農業に夢を「柏崎野菜」(のうぎょうにゆめを「かしわざきやさい」)
JAバンク新潟県信連が発行する「Sole! にいがた」2011年 秋号に掲載されたシリーズ特集「地産地消とにいがた野菜の未来」の6回目。概況を「全農家の90%が稲作の兼業農家という柏崎市。かつては豊かな自然環境を生かし、多くの野菜がつくられていた。『伝統野菜を復活させ、日本古来の食文化を見直し、街の活性化と人づくりに生かそう』。平成18年度に柏崎市、JA柏崎、新潟県が連携し、市に担い手育成係を創設。平成20年度から農林水産物地産地消支援事業をスタートさせ、『農家の所得を上げ、農村を元気に』『農業に夢を』と地域に根差したブランドの強化を進めている。」と説明したうえで、柏崎伝統野菜の刈羽節成きゅうり(西中通地域橋場地区)、緑なす(南鯖石地域宮之下地区)、与板菜(中鯖石地域与板地区)、仙人菊(南鯖石地域西之入地区)、黒姫人参(高柳町磯之辺地区)、新道いも(南部地域新道、黒滝地区)を紹介、2010年にオープンした愛菜館についても「1年間で15万人の来場があった」との活況を伝えている。なお「旬の柏崎野菜料理が食べられるお店」として荻ノ島かやぶきの里、味楽庵を取り上げている。

野田のエンマさん(のたのえんまさん)
柏崎市野田の称名寺入り口にある閻魔堂にはユーモラスな表情の閻魔大王像が安置され「野田のエンマさん」として親しまれている。天保11(1833)年の建立で仏師は梅沢要七。要七は称名寺本堂増改築工事で名棟梁・篠田宗吉(番神堂改築で三階節に歌われる)を手伝った弟子で、地元梅沢家と縁付き入婿した。木製で像高2・5メートル、重量は約1トンあり、かつて「えんま市に合わせて出開帳を」という声もあったが重量がネックとなって門外不出に。大王像の目の部分にはガラス玉が入っており、消防小屋を兼ねた時代には「入口の(消防の)赤ランプが閻魔様の目を赤く光らせ、地域の子どもたちを震い上がらせた」という。1996年檀家の篤志により、閻魔像の彩色、格天井絵、壁画などの改修が行われ、以来えんま市に合わせて特別ご開帳を行っており、五十嵐顕祐住職は「参拝に来られた方は、大きく色鮮やかでびっくりされる。柏崎の見所のひとつとして、ふるさと再発見につながっていけば…」と話している。

野に生きる仏・木喰上人(のにいきるほとけ・もくじきしょうにん)
元新潟県木喰会会長の広井忠男が2006年の柏崎刈羽郷土史研究会の総会で行った講演。小千谷市の小栗山木喰観音堂(木喰上人作三十三観音など35体が新潟県文化財)の世話役である広井は、木喰上人の足跡をたどりながら、①江戸時代にあって93歳まで生き、生涯1000体を彫った。このうち600体が全国で確認され、その43%にあたる270体が新潟県内にある。特に柏崎-小千谷-長岡のゴールデントライアングルには最も秀作が集中している。②木喰上人は、貧しい民衆を救い、心の支えにしてもらいたいと仏像を彫り、無料で与え続けた。また、芸術史的には「鎌倉時代の運慶、湛慶パターン」を脱し、独創的な彫り方をした。③そのため、同時代の人に理解されることはなかったが、大正時代に民芸運動を主張した柳宗悦が評価し世に出た。柏崎市内の調査は、柏崎の文化人が下調査と案内を担当し、この時に木喰の代表作と言える十王堂仏が世に出た。新潟県木喰会初代会長を務めた三宮勉先生(柏崎市)が後の研究者のために様々な問題点を整理し、基礎を作った功績も大きい-と述べると共に、柏崎の木喰仏について「十王堂のおびんずるさんは全国展のポスターに使われるほどの代表作だ。これだけの代表作が残っている地域であり、木喰さんがどのような思いを込め、港町柏崎に作品を残したのか考え、今後も大切にしてほしい」と話した。また、木喰仏の本質について「たとえつらいことがあってもがまんして生きてほしい。すがるもののない民衆を、無料で彫った仏像で励まし、支えた。秘仏とか、何年に一度とか言ってもったいぶらない。そういう仏ではない。常に民衆と共に生きたのが木喰さんだ。」と述べ、感銘を呼んだ。

【は】
『梅花無尽蔵』に描かれた柏崎(『ばいかむじんぞう』にえがかれたかしわざき)
『梅花無尽蔵』は室町時代の禅僧・万里集九の詩文集で7巻8冊からなる。太田道灌謀殺後の江戸城から美濃に向かう旅で柏崎を通過(1488年10月9日~10日)し、この際の印象を第3上巻に残している。「市場之面三千余家。其外、深巷凡五六千戸。」(市場の正面には三千余戸の家々があり、さらに通りから見えない奥の方にはまだ約五、六千戸の家があるようだ)と商いが盛んな様子を描いたうえで「深泥没股力弥微。暮鼓鼕々就柏崎。民戸三千市場面。満棚鱒尾帯潮肥。」との七言絶句を残した。「(雨中の移動で)深い泥に足を取られながらくたくたになった。柏崎についた時ちょうど寺の鐘が鼕々(とうとう)と鳴り響いた。街道沿いの市場の正面には3000戸もの家が建ち並びにぎやかだ。魚屋の店先には新鮮な鱒が棚にずらりと並べられている。」といった意味か。筑波大学名誉教授の内山知也(柏崎出身)は「市場(之)面」について「本町の商人通りか?」と推測したうえで「当時の柏崎は八千戸以上もありそうな大きな町で、漁業を産業としていた様子が伝わってきます。まだ北方からのにしんやたらの干物などが少ないころですから、柏崎からの塩鱒の売り上げは多くの町の人口を支えていたのでしょう。集九老師は酒も魚も好んでいたようですから、新鮮な鱒を食べて行ったのでしょう。」と解説(柏新時報2007年1月1日号、「万里集九が通った柏崎は…」)。柏崎市史は「『市場之面三千余家。其外、深巷凡五六千戸』とあるから、漢詩文の誇張を割引いたとしても、当時の柏崎がかなりの規模の中世都市であったことが分かる。」と評。翌日(10日)はすぐに柿崎に向けて出発している。なお『柏崎編年史』は第6巻の「鑑湖詩」をふまえ「僧万里、琵琶島城に宿し、鑑湖詩を呈す(1488年10月9日)」としているが、その琵琶島城主・宇佐美孝忠による接待が3日間に及んでいることを考えると鑑湖詩が読まれたのは「10月9日」とは別の日。したがって宿泊場所は北国街道沿いと考えるのが妥当のようだ。鑑湖詩については別項。

萩・世田谷幕末維新祭りと柏崎(はぎ・せたがやばくまついしんまつりとかしわざき)
「吉田松陰への尊崇とふるさと世田谷への愛着を醸成し、地域の皆様と共にまちの発展を目指す」として1992年から始まったイベントで、吉田松陰を祀る松陰神社(東京都世田谷区若林4)と松陰神社通り商店街で毎年10月最終週に開催され、柏崎は2008年の第17回から参加。柏崎が「長州安芸毛利氏のルーツ」「勝海舟のルーツ」であるとともに、戦争中世田谷区にある若林小学校の子どもたちが柏崎市北条・西方寺に学童疎開した縁などから、柏崎市出身の関正一郎(世田谷区在住)が「柏崎との縁を深めてはどうか」と実行委員会に働きかけ実現した。同年は毛利氏家紋(一文字三ツ星)の幟旗を立て柏崎産コシヒカリ「綾子舞」、餅、鯛乃味噌、もぞく、米菓などを販売した。関は「700年の歴史ロマンを背景に、地域振興、交流促進を期待しています。」とのコメントを寄せた。その後も柏崎から出展を続け交流を深めた。関は東京柏会会報「とっこつ」89号(2009年1月)に「世田谷・萩・柏崎の縁」と題し、経過を含め寄稿。なお萩・世田谷幕末維新祭りは2019年開催の第28回をもって終了した。

萩原朔美(はぎわらさくみ、1946-)
萩原朔太郎の孫、多摩美術大学名誉教授。前橋文学館館長。祖父の「海水旅館」詩碑建立に際し発起人の一人となり、3度にわたり来柏、建立計画推進に一役買った。また、完成にあたり「人は言葉によってつくられる。この詩碑は、そのことを後世に伝えるため、柏崎市民によって建立されたものである。」とのメッセージを寄せ、裏面に刻まれた。除幕式(2015年11月1日)では「私の朔太郞体験」と題して記念講演を行った。

幕吏松田伝十郎のカラフト探検(ばくりまつだでんじゅうろうのからふとたんけん)
『幕吏松田伝十郎のカラフト探検』著者の中島欣也が1991年に柏崎市(第11回明るい選挙推進員研修会)で行った講演。松田伝十郎の人生について中島は「75年の人生のなかで、はっきりと記録が残っているのは『北夷談』を著した寛政11年からの24年間で、当時の日本は航海技術のレベルも低く命の保証はない…といわれながらも計7回にわたって厳しい北方勤務につき、人生の最も輝く時期を北の天地に捧げた。」としたうえで、文化5(1808)年のカラフト探検について「レザーノフによるカラフト、エトロフ襲撃事件(文化露寇)を受け、鎖国を続けていた日本は北限国境確定の必要に迫られた。カラフトは島なのか、それとも大陸と地続きになっているのか。日本側だけでなく、世界の誰も知らないことだった。そういった背景下で伝十郎に命じられた探検で、部下として配属されたのは襲撃事件に遭遇した間宮林蔵だった。2隊に分かれ松田隊は西海岸を、間宮隊は東海岸を進み、松田隊は大変な困難を乗り越え65日目の6月19日、北緯52度のラッカ岬にたどり着きカラフトが離島であることを確認し、国境を見極めた。間宮隊は探検に失敗したが、幕府への発見報告は林蔵が伝十郎に先んじて直接行った。後年、シーボルトが公にした『日本辺海略図』の翻訳図でこの海峡が世界に『間宮海峡』として広まった。」とし「極めて少ない史料から典型的な越後人としての松田伝十郎の愚直な足どりを、同郷人の一人として描きたかった。ひたすら幕吏としての忠誠心に生きた伝十郎には実際のところ、松田海峡でも間宮海峡でもかまわなかったのではないか。名が残らなかったからこそ、伝十郎に越後人としての愛着を感じる。生誕地に近い聖が鼻には大きな顕彰碑が建っており、柏崎人として認識を新たにしてほしい。」と締めくくった。

芭蕉奥の細道紀行 天屋跡(ばしょうおくのほそみちきこう てんやあと)
奥の細道紀行300年を記念し1989年に柏崎市が天屋弥惣兵衛(大天屋)の屋敷跡に設置した標柱。柏崎市西本町2の北国街道沿い、石井神社西側から浄土寺、明照保育園へ至る住吉小路途中にある。民家敷地内にあるため見つけにくい。セブンイレブン柏崎西港町店南側の「天屋旅館」とはよく混同される。天屋の一件は『曾良随行日記』元禄2年7月5日に「柏崎ニ至リ、天や弥惣兵衛へ弥三郎状届、宿ナド云付ケルトイヘドモ、不快シテ出ヅ」とあり、これが「芭蕉を拒んだ天や弥惣兵衛」(大星哲夫、『越後路の芭蕉』)と解釈され、越後路が極端に省筆された理由とも関連付けられて、その後柏崎人は肩身の狭い思いを抱き続けることになった。だが「宿ナド云付ケル」の主語が誰なのか、省筆されながら「銀河の序」(「荒海や佐渡に横たふ天の河」の序文)は何故幾バージョンも存在するのか、解明しなけれなならない疑問も多い。

芭蕉が泊った鉢崎宿俵屋(ばしょうがとまったはっさきじゅくたわらや)
元柏崎市ガス水道事業管理者の月橋夽が1995年、叙勲記念に自費出版した冊子で、『曾良随行日記』に記録された「宿たわらや六良兵衛」について詳細に研究している。「私はこの『たわらや六良兵衛』に興味を持って、調べ出したのであるが、まず資料が非常に少ない。いくつかの説があって、どれが本当かわからないという有様である。なんとかして少しは筋道のたったものにしたいと考え非力をも顧みず馳せかかった次第である。何しろ基礎教養の全くない素人のことであるから、独善と偏見に満ちていることと思うが、御叱正いただければ幸である。」(前がき)としたうえで、菩提寺や子孫などを調査した結果「たわら屋は俵屋であり、(曾良随行日記にある)六良兵衛は六郎左衛門が正しい。」、「俵屋の先祖は西村隼人佐、西村五郎左衛門であり、御館の乱の戦功で上杉景勝から感状を受けた。」「芭蕉の宿泊については俵屋一族には何も言い伝えがないそうである。」などとまとめ、さらに「出雲崎から鉢崎まで歩いた芭蕉は健脚なのか、普通なのか」「俵屋の先祖西村隼人佐、西村五郎左衛門が戦功をたてたのはいつか-柏崎市史と北条町史の大きな喰いちがい」へも論考を広げている。

芭蕉は鼠ヶ関を越えたのか(ばしょうはねずがせきをこえたのか)
2018年の第28回奥の細道天の河俳句大会で金森敦子が行った講演。金森は『芭蕉「おくのほそ道」の旅』『「曽良旅日記」を読む』などの著書で知られる作家、芭蕉研究家。「『おくのほそ道』の行程には幕府が設置した栗橋、鉢崎、市振の3関所に加え各藩が設置する番所があり、各番所で手続きが違い、芭蕉と曾良を悩ませた。番所の出入りには手判が必要で、基本的には入国より出国が厳しかった。諸藩は隠密を警戒し、旅人をなるべく早く領内から出すのが原則だった。芭蕉達のような風流な旅人などはいなかった時代なので、怪しまれることも多かった。」としたうえで「『おくのほそ道』のハイライトである松島、平泉を回った仙台藩内で10日も余計に宿泊したことになり、尿前(しとまえ)番所で怪しまれることになった。『袖の下』で通過したのではないか。また鶴岡藩の手判規定も複雑で、温海から鼠ヶ関までの悪路を考えると、芭蕉は単独で小岩川から鼠ヶ関を遠望した後、小国街道に戻り、曽良と合流し小国番所を通ったと考えるのが合理的。芭蕉は(鼠の関を越ゆれば、越後の地に…と書いているが)鼠ヶ関番所を越えていないと考えられる。」と述べた。また「当時の人は1日10里、約40キロを歩いた。芭蕉の場合は1日7・5里くらいと普通の人よりゆっくり目。これは全行程を移動した日数で割った計算。1日14里の日もあれば1日2里の日もあった。」と解説した。

芭蕉は本当に不機嫌だったのか(ばしょうはほんとうにふきげんだったのか)
『曾良随行日記』の元禄2(1689)年7月5日記事「不快シテ出ヅ」に関して「では芭蕉も不快(不機嫌)だったのか」と疑問を持っていた岡島利親が柏新時報2014年11月14日に執筆した囲み記事。前日の出雲崎での行動、「銀河ノ序」(「荒海や佐渡に横たふ天の川」の序文)が複数バージョン存在する背景を考慮しながら「柏崎通過時の芭蕉は『荒海や』の句を言語として定着させるため懸命な大格闘を続けていた。曾良には無口、寡黙に見えたかもしれないが、不機嫌ではなく、むしろ芭蕉の精神はこれまでになく高揚していたのではないか。」との試論を提起した。まず柏崎前日にあたる出雲崎(元禄2年7月4日)での行動だが「数々の文人墨客を迎えてきた出雲崎であり、さぞや賑やかな歌会が催されたのでは…」と想像するが、地元の郷土史家・佐藤耐雪が「当時の出雲崎でこれを歓迎した人のなかったことは千歳の恨事といはざるを得ない。敦賀屋二代祐貞が活躍していた時代であり(略)それが敦賀屋の真向かひの大崎屋に芭蕉主従の宿ったことを知らなかったとすれば、まことに迂潤なことであった。」(銀河序建碑由来、1954年)と悔しがっているように、芭蕉はひっそりと住吉町の大崎屋に宿泊、1泊しただけでさっさと柏崎に向け旅立った。まるで来杖を知られないように、との印象も受ける。奥の細道天の河俳句大会実行委員長代行で郷土史研究家の磯部遊子は「芭蕉はすでに『荒海や』の手応えを得ていた。新潟に入ったあたりからすでに構想はあったのかもしれないが、実際に出雲崎の地に立ち、詩人としての感覚は冴えに冴えた。何としても『荒海や』を畢生の句として完成させたかった。芭蕉が泊まった大崎屋の前には(文化人として知られた)敦賀屋があり、もし芭蕉が来ていることが知れたら、句会をということになるだろう。『荒海や』の推敲で七転八倒を続けている芭蕉は誰とも会いたくなかった。騒がれたくなかった。正確には、芭蕉が来たことを出雲崎の人たちが知らなかった、というより、芭蕉が知られたくなかった、ということなのでは…」と指摘、さらに「出雲崎と同様、芭蕉は柏崎も素通りしたかったのではないか。それは、『荒海や』の句の推敲がまだ続いていたからで、天屋で曾良が宿を断られたのをこれ幸いに、とっとと先に進んだ。よくも高名な芭蕉先生を…と曾良は不機嫌だったに違いない。柏崎も文化人の多い地、芭蕉の来柏が知れ渡ると、歌会だ、揮毫だということになる。だから、柏崎も素通りしたかった。」と推測してみせた。柏崎人を暗い気持ちにする「不快シテ出ヅ」も再検討に値する。曾良の目には芭蕉も「不快」に見えたかもしれないが、芭蕉は「荒海や」の句の文学的成果(まだ感触だったかもしれない)に内心興奮しながら、胸を高鳴らせながら柏崎を通過し、米山三里にさしかかった。過酷なアップダウンのなかで、これまでにない境地を言語として定着する「舌頭千転」(『去来抄』)の作業も却って捗ったのではないかと思われる。柏崎(天屋)~米山三里~鉢崎(現在の柏崎市米山町)は「荒海や」の句推敲の地とも言えるのではないか。磯部の「これで行こう、と決めたのは米山三里を越えたところにある鉢崎宿だったかもしれない」を受け「『銀河ノ序』の背景を知ることは『芭蕉を怒らせてしまった』と悔やみ続ける柏崎の名誉回復にもなるようである。」と結んでいる。※「県境のまち市振の『一つ家』」(柏新時報2022年3月4日、同11日、同18日掲載)での資料、見解を交え一部加筆した。

芭蕉ロード(ばしょうろーど)
柏崎青年会議所が1989年に企画、提唱したウォーキングマップ。「奥の細道」紀行300年にちなみ、芭蕉、曽良主従が通った青海川駅から米山駅までの海岸線(全長約8キロ)を、JR信越本線を活用しながら歩くことを提案、日本海に一番近い駅・青海川駅、えぼし岩、牛ヶ首層内褶曲、胞姫神社、鉢崎関所跡、芭蕉が泊まったたわらや跡を紹介した。特にそれまで活用されることのなかった米山海岸遊歩道(トンネル部含む)の積極活用を呼びかけ、その後、柏崎市青少年健全育成市民会議の柏崎海岸トライウォーク(1991年に第1回、約900人参加)に一部活用されることになる。柏崎JCのふるさと再発見事業第一弾。

長谷川健一写真展(はせがわけんいちしゃしんてん)
2013年5月17日から19日まで柏崎市で開催された写真展。長谷川は「日本一美しい村」と言われた福島県飯舘村で酪農を営んできたが、福島第一原発事故で伊達市に避難。事故後の飯舘村の映像を記録し続け、日本国内、海外に発信した。著書に『原発に「ふるさと」を奪われて-福島県飯舘村・酪農家の叫び』『【証言】奪われた故郷-あの日、飯舘村で何が起こったのか』。写真展は柏崎刈羽実行委員会が主催し、餓死した牛の写真など厳しい現実を知らせる約50点を展示した。会期中の5月18日には長谷川本人が来柏し「原発にふるさとを奪われて」と題した講演を行った。長谷川は「福島第一原発から直線距離で30キロから45キロ離れているのでまさか…と思ったが、事故直後の放射線モニターの数値が40マイクロシーベルトを超えた。すぐに避難をしなければならないのではないかと村に掛け合ったが、このこと(放射線量が高いこと)は言わないでくれと口止めされた。」「体育館や集会所に私たちを集め、大丈夫だ、何ともありません、と繰り返した。原子力安全・保安院も避難の必要はない、と後押しした。3月27日、京都大学の今中哲二助教のグループが村内の汚染状況を調査し、『こんな数値の場所に住んでいること自体、信じられない。今すぐ避難を…』と村長に詰め寄ったが、村長は『このデータを公表しないでほしい』の一点張りだった。結局4月22日の避難開始まで村民は無用な被ばくを受け続けた。」と不信感を露わにし、「飯舘村のモニタリングポストの放射線量は、土を入れ替えるなどして徹底的に除染した結果の作られた数値。10メートル離れるごとに放射線量は高くなる。いくら除染しても、山林は除染をしないので(放射性物質が)流れてきて再汚染される。戻りたいが、住めるわけがない。私たちはモルモットではないのだ。」と苦しみを語った。

長谷川三町(はせがわさんちょう)
貞享元(1684)年に長谷川新五左衛門が鵜川橋を架橋したことから、新しい通りと町が形成され、開拓者の姓にちなんで「長町」「谷町」「川町」と命名された。現在の柏崎市西本町3、八坂交差点南側一帯。長谷川新五左衛門は「旧名を藤右衛門と称し、松平越後守の家士であったが主家の没落とともに柏崎に移住、代官岡上治郎兵衞の手代となり改名した」(柏崎編年史)という。特に陣屋の大久保移転後は歓楽街として殷賑を極め『柏崎文庫』には「妓館にて人口に膾炙する瓢宅、源宅、五宅、半宅何れも此町にありしなり」と記され、かの十返舎一九も『金草鞋』『滑稽旅烏』の旅で立ち寄った。三階節の古歌詞には「長谷川三町や傾城町モウちょいとちょこちょこ下れば茂平次の小路がなかよかろ」と歌われる。柏崎市史は「総合的にみると、街端れの小町内の消長を除いて、柏崎の町街の原型は、長・谷・川三町と扇町の成立した貞享~元禄期に求めることができる。ことに、元禄八年丁頭制が発足し、一町内に一丁頭が置かれ、急速に町内制度が整って行ったようである。」と位置付ける。

『はちすの露』と良寛(『はちすのつゆ』とりょうかん)
第36回全国良寛会柏崎大会(2013年)で新潟産業大学学長の北原保雄が行った記念講演。北原は柏崎市文化財の『はちすの露』を丹念に読み解きながら「後半の唱和の部分では良寛と貞心尼の師弟関係がはっきりと映し出され、興味深い。特に『(師弟といえども)男女二人の托鉢姿を世間の人はどう思うか』と心配する良寛に対し、『トンビはトンビ、雀は雀、カラスに子ガラスがついて行くのだから一向にかまわないではありませんか』と貞心尼が返す場面では、貞心尼の女性としての強さ、和やかで楽しい師弟関係が伝わってくるようだ。」と指摘したうえで「まるで伊勢物語のような高い文学性を感じ、貞心尼の文才の豊かさ、高さをはっきりと表している」と述べた。続いて綾子舞公演、カンタータ「良寛と貞心」(演奏・柏崎フィルハーモニー管弦楽団、合唱・柏崎フィルハーモニー合唱団)も行われた。全国良寛会会長の長谷川義明は柏崎大会を振り返り「柏崎と貞心尼の関わりがはっきりと打ち出される内容になり、得るものが多かった。改めて『はちすの露』の価値が大きいことを感じた。この宝を柏崎市民の皆さんで守り伝えてほしい」とコメント。

〈蓮の露〉と〈良寛と貞心〉(〈はちすのつゆ〉と〈りょうかんとていしん〉)
カトリック総合文化誌『世紀』1980年12月号に掲載された柏崎出身の詩人・中村千栄子による随想。作詩構成を担当したカンタータ『良寛と貞心』初演までの歩み、思いなどが綴られている。「柏崎市の図書館に足を運ぶと、そこには、中村文庫という一室があって、前々から聞いていた『蓮の露』が納められている。それは、私の実家の祖父、中村藤八が、半生をかけて蒐集したもの-古文書あり、土器あり、掛軸あり-を、図書館のかたわらに土蔵を建てて納め、町に寄贈したものであって、そのなかに問題の小冊子がある。その『蓮の露』の原本を手にして私は、しみじみと血の流れを感ぜずにはおれなかった。」「その思いがしだいにふくらんで、最初の構想であった『良寛』の歌曲はやがてカンタータへと大きく発展していったのであった。」「しかし、上演のめどはなかなかつかず、昭和55年良寛没後150年という、最もタイムリーな機会をとらえることは、不可能かも、と考えかけたとき、最後に祈るような気持ちで、全国一の会員をもつ柏崎労音のかたがたを在京組が東京で待ち受けて会合をもち、その折の在京組の熱意が、創立20周年を迎える労音のかたがたを動かし、『よし、自分たちの初めての企画として世に問おう!』という力強い言葉になったのであった。」と経緯を説明、「越後人は郷土意識が強いといわれているようであるが、まったくその通り。その結晶が、カンタータ〈良寛と貞心〉に結集したような気がする。」とし「祖父から母へ、そして私へとバトンタッチされた貞心さんに寄せる思いを、良寛研究家以外のかたがたにも、ぜひ知っていただきたいと願って、ここ数年を、この一点に賭けてきた私である。」「(幼な子と遊ぶ枯淡の人といった)今までの良寛のイメージとはまた違った、温かい血の通った良寛像が生まれることを期待したい。」と結んでいる。骨子は初演プログラム(1980年)に掲載(『良寛と貞心』の作詩をめぐって)。

鉢崎(はっさき)
柏崎市米山町の旧名。「昔八つの岬があった」(『柏崎市伝説集』)ことから「八崎」と呼ばれていたが、泰澄が鉄鉢を飛ばす米山開山縁起で「沖を通る船はこの辺を鉄鉢が来るところから八崎と書かずに鉢崎と書く様になったと伝えられる」(同)という。1488年の『梅花無尽蔵』(万里集九)には「途中有鉢崎。晝眉多。頗似楊州十里之簾。」とあり、十返舎一九の『金草鞋』第8編(1816年)でも鉢崎の項があり「十七、八」の「馬方姫」に下手の横好きが「(坂東)三ツ五郎」「(澤村)田之助」などの歌舞伎役者をネタにちょっかいを出し、迷惑がられる。『おくのほそ道』には記述はないが『曾良随行日記』には「申ノ下尅、至鉢崎。宿、たわらや六良兵衛。」(1689年)とある。現在のJR信越本線米山駅は鉢崎駅と呼ばれていたが1961年に米山駅に改称、鉢崎の名を残すのは「鉢崎郵便局」「鉢崎神社」のみとなった。厳しい取り調べで知られた鉢崎関所跡には「鉢崎関所跡」の石碑と「高札」が復元され、往時の雰囲気を漂わせる。

鉢崎関所跡(はっさきせきしょあと)
柏崎市米山町の最も聖が鼻寄りに「鉢崎関所跡」の石碑と復元高札などが整備されている。いずれも明治百年を記念し1968年に建立した。復元高札には「定 榊原式部大輔」として「右は奥州筋へ通候女領主の証文を以て相通し申し候 所の女は名主手形を以て相通す 奉行」(右の道は奥州方面へ向かう道である。ここを通る女性は在住する領主の証文、地元の女性は名主の手形が必要である)と書かれ、女性の通行に特に警戒していたことが伺える。鉢崎関所は江戸時代の全国53関所の一つで、現地案内板は「戦国期、鉢崎関所は、当地域の戦略的拠点であった旗持城を擁する旗持山山麓が海に迫っているという地の利を生かして、軍事・治安上の要衝地として、重要な役割を果たしていた。江戸時代に入り、この機能は、高田藩に引き継がれたが、最も取締まりが厳しかったのは、女子と鉄砲に対してであり、『出女入鉄砲』という言葉があった。(略)当時の覚え書きによると、関所の木戸が開くのは午前6時で、閉まるのは午後6時とあり、夜間の通行は一切禁止されていたが、飛脚などの通るときは、委細を改めて(理由を聞いて)通行を許したということである。」と説明する。『おくのほそ道』の旅で芭蕉・曾良主従は鉢崎関所を通過し同宿内のたわらやに宿泊(1689年)、伊能忠敬は第3次測量で鉢崎関所を通過(1802年)した際に関所役人との間で「鉢崎事件」が起きた。

鉢崎関所勤め方日記(はっさきせきしょつとめかたにっき)
鉢崎関所の関所奉行を務めた竹村市之丞良延(高田藩士、130石)による私的記録で、愛知県岡崎市の民家の屏風下張りから断簡が発見され、古物商を通じて柏崎の郷土史家・新沢佳大に持ち込まれた。竹村の任期は嘉永6年(1853)から3年だが、発見された日記は奉行拝命の同年3月23日から7月28日までの83頁(縦33センチ、横12センチ)で、これ以外は発見されていない。発見されたなかに偶然、鉢崎関所における佐渡金荷通行が含まれていたため関所通行の全体像が明らかになった。また私的ゆえに「御金宰領(佐渡から江戸まで随行する道中の責任者)が金荷より遅れ、金荷受取りに間に合わなかったため、警固を優先させ、先に関所に向けて出発した」などの小事件、「関所道具には良いもの、悪いものの二通りがあって、平常は悪い方を出しておき、金荷通過など必要な時は良いものと替える」といった内幕を披露していて興味深い。日記のうち「佐渡金荷通行と関所」と「女性通行と人見改め」について新沢と米山地区コミュニティ振興協議会歴史勉強会による共同作業で翻刻と読み下しを行い、同振興協議会が抄本として2008年に刊行した。米山コミュニティセンター長の中山安一は抄本まえがきで「当地区は上郡(頚城・高田藩)、中郡(刈羽・桑名藩)の境界地区で、政治、軍事面としての鉢崎関所は慶長二年上杉家により設けられ、中世に入り徳川幕府の全国五十三関の一つとして領内出入りを取り締まり、越後頚城地方の三関(関川・鉢崎・市振)の一つの関所として重要な拠点として位置づけられていたことは知られています。(略)日記には、金荷受け渡しについて、当時の四ヶ村(鉢崎・上輪・笠島・青海川)の各庄屋の関わりや当地区民との関わりなど詳細に記されており、当地区にとっては興味深く、当時の様子を知ることができる貴重な資料と思われます。」と書いている。

「浜千鳥」異聞-二つの童謡碑(「はまちどり」いぶん-ふたつのどうようひ)
文学・歴史散歩ガイドブック『越佐路散歩』(1977年)に掲載された新潟大学教授・箕輪真澄(柏崎出身)によるコラム。「童謡『浜千鳥』碑は、柏崎の碑(昭和36年建立)の他にもう一つ、千葉県南房総の和田浦の碑(昭和40年建立)があり、どちらもまったく同じ作者の筆跡が刻まれている。後者の建碑由来によると、鹿島鳴秋の娘昌子が病気のため和田浦海岸に保養に来て、そこで亡くなり、亡き娘を思う父の切々たる傷心から生まれたのが童謡『浜千鳥』である旨を記している。」と前置き、「鳴秋の娘昌子の死んだのは昭和6年で、『浜千鳥』の童謡が生まれて12年も後のことだという」と指摘しながらも「昌子の死後、鳴秋の生活は乱れ、心の『はり』を失う状態だったので、『浜千鳥』を娘への挽歌と思うようになったのも無理はない。」「亡き子を偲ぶ父の哀しい愛情から『浜千鳥』が生まれたとする哀話は作者自作の伝説ということになる。おそらくそれが真相であろう。そうすると、その偽わりの伝説をそのまま碑に刻んだ和田浦の詩碑はどういうことになるのだろうか。最近、文学碑が乱立される傾向にあるので、一考を要する問題であろう。」と解説している。この童謡碑については、「浜千鳥」誕生の現場に居合わせた桑山太市の甥・桑山省吾も「『浜千鳥』誕生秘話」(柏新時報2005年1月1日号)で同様の指摘をし「後年、酒を飲んでは昌子の悲しい短命を語ったという。それほどに愛情を注いでいた娘の死だったから、人が『浜千鳥』に昌子の死を回想して詩作したと言われても否定をしなかった」と説明。

「浜千鳥」誕生秘話-名曲を生んだ鹿島鳴秋の生涯(「はまちどり」たんじょうひわ-めいきょくをうんだかしまめいしゅうのしょうがい)
柏崎ふるさと人物館長の桑山省吾が、鹿島鳴秋が柏崎海岸で作詞した「浜千鳥」誕生秘話について執筆した特別寄稿で、柏新時報2005年1月1日号に掲載された。「青い月夜の浜辺には/親をさがして鳴く鳥が-市の防災無線から毎夕流れる叙情歌は一日の疲れを癒してくれる。鹿島鳴秋が大正8年、柏崎海岸で作詞された『浜千鳥』はロマンを秘め、そこはかとなく哀愁を感じる。その詩碑はみなとまち海浜公園にあり、石碑材は谷根川上流から運び、鳴秋自筆の歌詞を原直樹氏が銅板のリリーフにして自然石にはめこんである。」と書き出し、東京下谷の梅林寺で開かれていた河東碧梧桐の句会で鹿島鳴秋と当時早稲田の学生だった桑山太市が出会い、鹿島鳴秋のもとに童話の原稿を持ち込んだことから柏崎との縁が始まり、「大正8年6月、晴天の海に来柏され、当時越後タイムス主宰の中村葉月氏と3人で裏浜海岸から番神岬へと散歩。地平線上に沈む真赤な太陽に心を奪われ日暮れとなる。いずことなく鳴きながら飛んできた千鳥に想いをよせ手帳につづる。その詩をほほえみながら太市氏に見せた。それが『浜千鳥』の誕生であり、後日1メートル半位の半紙に詩を書き、礼状が添えて届けられた。」と紹介する。また、鹿島鳴秋の生いたちについてもふれ「浜千鳥の詩にはそんな生い立ちが悲しい回想となって心を捉えたのではないだろうか。心のどこかに父母の愛を求めつつ、13歳で社会の荒波にもまれ耐えつづけた。月光に照らし出された銀の世界、そして今は幸せの宿る月の世界へと羽ばたく心情がみえかくれする。」と歌詞に秘められた心情を想像している。桑山はまた「詩碑は柏崎の他に千葉県和田浦海岸、そして作曲者弘田竜太郎の出生地高知県安芸市の三ヶ所に建てられている。和田浦の詩碑には『昭和6年鳴秋は南房総半島の和田浦海岸の療養所で12歳の愛娘の臨終に立ち合う。その娘の短く悲しい生涯を回想してこの海岸で作詞した』と書かれているが、娘昌子さんは大正9年に生まれ、昭和6年に没したので疑問を抱く。」としながらも「後年、酒を飲んでは昌子の悲しい短命を語ったという。それほどに愛情を注いでいた娘の死だったから、人が『浜千鳥』に昌子の死を回想して詩作したと言われても否定をしなかった」と書いている。桑山省吾は太市の甥にあたる。

「浜の庵主さま」伝承(「はまのあんじゅさま」でんしょう)
良寛研究家の宮榮二が『越佐研究』第40集(1980年)に発表した「貞心尼と良寛-関長温との離別説」の根拠とした伝承で、その後の貞心尼のマイナスイメージを定着させる結果となった。宮は「医師の長温は竜光村の酒倉のおつさ(弟)であったが、酒倉の仕事に堪えられず長岡に渡り奉公に出たが、これもよくなくて、栖吉の医者の弟子となり、長岡の家中の娘と一緒になり、四日町(現在の魚沼市四日町)の彦助ドンの家を借りて医者を開業した」「何年経っても子供ができなかった」「妻は長岡の家中の娘で、黄表紙や発句が好きで、医者が留守のときなど、薬をもらいに行っても愛想がわるく、気位が高くて評判がよくなくて、はやらなかった。」「酒倉のおつさと家中娘の夫婦仲はよくなく、亭主の方は彦助ドンの妹といい仲になり、一緒に栃尾の方へ逃げられた」「女房は背が小さく、なりがチマヂマして色が白く、きりょうが佳かったが、ツッケンドンで気位が高かった。いつの頃か、女房の片方の頬にホーソだかハスができて、黒いアバタになり、行燈の影にいつも一方の頬をかくすように坐っておられた。そんなことで、猶更亭主に嫌われた」「亭主に逃げられ、実家に帰った後、一、二度小出に来て、もと世話になった四日町の大屋と塩屋と松原家にはミガキニシンをみやげに持って来て配った。その頃は浜のあんじゅさまとよばれていた」などの伝承を貞心尼が嫁いだ小出で聞き取り、「貞心尼と長温とは死別ではなくて生別であり、離縁であった。」「伝承の一つ一つの事柄の事実如何はともかく、老女達の語り伝えていた浜の庵主様が、長温妻の貞心尼であったことだけは確かであろう」と断定した。その後、本間明、松原弘明の調査によって「浜の庵主さま伝承は貞心尼とは別人の貞心尼(じょうしんに)の伝承だった。貞心尼(じょうしんに)の夫も関姓だった」などが明らかになったが、「浜の庵主さま」伝承の影響は大きく、本間は『華厳の愛-貞心尼と良寛の真実』(2021)で「この論文そのものは、従来死別とされていた奥村マス(のちの貞心尼)とその夫関長温の関係は、離婚であったことを初めて根拠を示して明確にした画期的な論文で、高く評価される内容のものである。しかしながら、この論文の中で『浜の庵主さま』伝承が紹介されて以来、貞心尼は気位が高く、愛想が悪く、好きな文学に熱中し、家事をおろそかにし、不倫した夫に逃げられて離婚し尼になったとされてしまった。そして、その後はなぜか積極的で情熱的な女性として描かれる傾向が顕著になり、良寛との関係も、僧と尼僧の間にはあってはならない関係にあったのではないかとする見方をする人も出てくるようになったのである。」と指摘。

板画家棟方志功に絶賛された僧旭達文板画彫刻作品展(ばんがかむなかたしこうにぜっさんされたそうあさひたつぶんばんがちょうこくさくひんてん)
2010年に出雲崎町で開催された旭達文の大規模な回顧展。旭達文版画彫刻展実行委員会が主催。師の棟方志功から絶賛された「からたち」や「月と河」(第11回日本版画院展入選)、柏崎市の綾子舞に取材した「綾子舞の娘たち」など代表作約200点を版木とともに展示、師・棟方志功との交流を示す多数の「はがき」も公開し「カラタチは見事でした。これは、今までの作の一番、力も出、板画の入念を一杯に盛ったものとして立派です。これは日展に出品してみませう」(1960年7月27日)などの記述に関心が集まっていた。実行委員会の長谷川浩代表は「町内外の皆さんから改めて旭達文の偉業に関心を持って頂き、苦労の甲斐がありました」と話していた。出雲崎町・出雲崎町教育委員会・出雲崎町史談会後援で、板画彫刻作品集も刊行された。

番神山政三郎(ばんしんざんまささぶろう)
柏崎青年会議所が番神岬夕日の森(柏崎市番神2、柏崎市立西部保育園西側)に設置したまちしるべ。地元から「番神山という大活躍した力士がいたが忘れ去られている。光を当てたい」「『ばんじんざん』と誤って読まれることが多い。碑には『ばんしんざん』と読み仮名をふってほしい」との要望を受け、2000年建立。碑面には「『相撲じゃ番神、柔道じゃ石黒』と柏崎の民謡・三階節にも唄われた番神山政三郎は、柏崎市岬町(現在の番神)出身の力士です。初土俵は1927年1月、最高位は前頭二枚目で1934年5月の天覧相撲で優勝しました。番神山が相撲界に入った昭和初期は世界的不況の暗い時代でしたが、そこに彗星のごとく番神山が登場しました。地元柏崎刈羽の人々のみならず、新潟県民も大変誇りに思い、世の不況を吹き飛ばすほどに熱狂し、声援を送りました。」と刻んでいる。建立地の番神岬夕日の森は、その名の通り夕日の絶景ポイントとしても知られる。

番神堂がよくできたごはい向拝のしかけは新町宗吉大手柄(ばんじんどうがよくできたごはいごはいのしかけはしんまちそうきちおおてがら)
4代目篠田宗吉の番神堂での仕事ぶりを称えた三階節の代表的歌詞。旧柿崎町の出身で25歳の時に新町(現在の柏崎市西本町3)の篠田家に弟子入り、3代目宗吉に見込まれ養子として迎えられた。柏崎市内では番神堂、閻魔堂、称名寺、宮川神社などで優れた仕事を残すとともに上越市高田の浄興寺本廟、北海道函館市の高龍寺など市外、県外の仕事も多い。京都の東本願寺では副棟梁を務めている。三階節に歌われた番神堂は1871年の下宿大火で類焼したため1873年に再建着手、1878年に完成した。歌詞の通り向拝の彫刻が見所で「蝶の彫刻を見つけると幸福になれる」との伝承も。なお三階節には類歌「上輪妙宣寺に御堂が建つ、ごはい、向拝のしかけは新町宗吉大手柄」、「高野本龍寺の左松、ごはい、向拝の棟梁新町宗吉ようできた」(高野本龍寺は旧板倉町・高野しげさ伝承の寺院)がある。

番神堂の梅(ばんじんどうのうめ)
藤原緋沙子著『番神の梅』で話題となった番神堂で、「桑名藩の時代、主人公を偲んでほしい」と秋山文孝主管(妙行寺住職)が2015年に本堂前に白梅を植樹、翌年から花を付け始めた。「番神の梅 藤原緋沙子著」の案内看板が目印。『番神の梅』執筆にあたり藤原は3年前から柏崎を訪れるなどして資料の収集と調査を行っており、秋山も取材を受けた一人。刊行後、「梅はどこにあるんですか」との問い合わせがあり、実際に境内で梅の木を探す参拝者が増えたことから、これに応えた。秋山は「藤原さんから著書と共にお礼の手紙が届きました。出版の影響は大きいものですね。問い合わせも結構あって、反響に驚いています。」と話している。

番神堂の彫刻(ばんじんどうのちょうこく)
新潟県建築士会柏崎支部が専門家の立場で行った保存建築物調査結果が『柏崎市指定文化財番神堂とその防災保全について』(1985年)にまとめられている。このなかで主要材料については「使用されている木材のうち殆どがこの地方特産の欅材である事。そして奥の院の外部周囲の、大彫刻の施されている欅材に至っては、縦、横、ともに1メートル60センチ以上、厚さ15センチ以上にも及ぶ驚嘆すべき巨木で、しかも全部一枚ものである事。(この事は極めて重要な事であって、今後このような巨木は永久に調達出来ないと思われる)」とし、施工技術については「彫刻の技術は勿論のこと、その他あらゆる点において総てが余りにも優れていて、(特に木工事関係)、現在の施工技術では、いかに手間(工賃)ひま(歳月)をかけても、残念乍ら到底再現出来ないであろう事。」と評価。この一方で「建立以来既に100年以上を経過し、欅のもつ特有の、かたさ、ねばりも既に脆弱となり、浜風による塩害の為、ボルト鎹等補強金物が錆でかなり腐朽し、台風、豪雪等に対して果たしてどこ迄安全といいきれるか、疑問である。」「火災に対しては全く無防備に等しい。」「盗難についても同様である。全く無防備である。奥の院外部の飾り金具、唐戸の飾り彫刻も既に5枚程持ち去られている。名彫刻の鳳凰の羽根、亀の首の一部も欠きとられている。」と指摘。これらの指摘がその後の防災保全工事の契機となった。

番神堂の防災保全工事(ばんじんどうのぼうさいほぜんこうじ)
柏崎市の貴重な文化財である番神堂が防災上危険な状況にあったことから、1990年に市民募金2500万円を含む総額4050万円で「①拝殿の床下に金網を張る。②拝殿と庫裏との渡り廊下に簡易防火シャッターを取り付ける。③奥の院外部を透明耐火ガラスで囲む。⑤屋外に消火設備を設置する。」(募金活動を行った「柏崎市指定建造物文化財を護る会」趣意書)の防災保全工事を行った。透明耐火ガラスは網入りで厚さ6ミリ、あわせて20トン水タンクも設置した。事業主体は妙行寺。落慶法要(1990年7月8日)で妙行寺の秋山文孝住職は「番神堂は郷土の心の拠り所。関係者、市民の皆さんのおかげで保全工事が立派に完成した。」と述べた。

番神の梅(ばんじんのうめ)
藤原緋沙子による時代小説。2015年徳間書店刊、その後2018年には徳間文庫にも収められた。江戸時代、桑名藩の柏崎陣屋へ夫の渡部鉄之助(柏崎日記著者)と共に赴任した妻・紀久が主人公で、桑名に子を残し柏崎で暮らす望郷の思いを軸に、日々の暮らしがドラマチックに描かれ「望郷の念が胸を衝く、至高の時代小説」と高い評価を受けた。執筆にあたり藤原は3年前から柏崎を訪れるなどして資料を収集、調査。柏崎が桑名藩の飛び地となった事情についても「桑名藩の現当主は松平定猷、三代前の藩主は寛政の改革を行った白河藩主松平定信だ。白河藩が桑名藩に転封したのは文政六年、定信の長子定永の時代だが、松平家は白河時代から飛び地として領してきた柏崎のこの地を、そのまま桑名藩の飛び地として治めることを許されたのだった。その背景には、隠居したとはいえ定信の力が隠然としてあったということだろう。」「柏崎陣屋が領する土地は六万石(実質八万石余)。本藩桑名の総石高十一万石(実質十四万二千石)の半分以上を占めている。また、桑名藩の領地以外にも五万石余の幕府の領地も預かっており、陣屋は実質十三万石余の土地を治めている。柏崎が桑名藩にとっていかに重要な地であったか知れようというものだ。」と詳細に描き、歴史ファンをうならせる内容となった。タイトルは紀久が番神堂に植えた桑名の梅に由来。だが3年経っても一輪も咲かなかった。

番神の梅執筆に寄せて(ばんじんのうめしっぴつによせて)
『番神の梅』著者の藤原緋沙子が2016年に柏崎市で行った講演。ソフィアセンター開館20周年記念事業として開催された。藤原は執筆の背景や動機について「3年前、取材に訪れた際、岬ひとひらに宿泊し、冬の風の強さを体験した。一晩中、大きな海鳴りの音を聞いて過ごし、胸が騒いだ。胸の奥から響いてくるものを感じ、小説の核を着想した。また、柏崎陣屋跡にあった梅の木を見て、厳寒の冬を耐えて咲く梅の花と凜とした生き方の主人公を思い描き、全体のイメージが固まっていった。『柏崎日記』『桑名日記』も読んだが、女性の視点からもっと掘り下げたものを伝えたいと思った。」としたうえで「出版後、購入者から『こんなに大変な暮らしをしていたのか』との感想が寄せられたが、それは柏崎だけではなく、全国の武士も同様だった。新米をもらったら、それを売って、そのお金で古米を買って食べていた武士もいたほど。柏崎は米も魚もあったからそれでも恵まれていたのではないか。」とし「番神堂の老夫婦を登場させたのは、柏崎の人の優しさを表現したかったから。番神堂境内に小説刊行に合わせて秋山住職から梅を植えてもらった。(小説とは違って)1年目から咲いたと聞いている。梅の木の成長を見にまた柏崎に来たいと思います。」と結んだ。藤原は「(柏崎を治めた名君)松平定信が大好きで『隅田川御用帳』シリーズ最終巻は柏崎陣屋を舞台に書きたい」と約束、第17作「寒梅」所収の「海なり」として実を結んだ。

半田・岩上の暮らし(はんだ・いわがみのくらし)
半田・岩上郷土史研究会による郷土史、1995年刊。発展をとげる半田地区の歴史や風俗、習慣を「温故知新」の精神でまとめ、先人の歩んだ道を振り返り、将来の発展にいかそうと、5年をかけて聞きとり調査や資料収集を進めたもので郷土史家の大竹信雄が指導。「自然環境と歴史」「家と村」「生活とリズム」「生活と心」「暮らしの変貌」の5章で構成、特に聞きとり調査を中心に明治以降の暮らしや風俗、現在の変貌ぶりを描くことに力点を置き、写真や参考資料を多く使うことで分かりやすさを心がけたという。巻末には年表と石仏一覧を掲載。研究会代表の植木重雄は「水と戦い、泥沼から這い上がってきた先人の生き様を描き出すことに主眼を置いた。素人の集まりなので、不十分な部分も多いと思うが、この一冊から、半田・岩上の人たちの暮らしぶりを知ってもらい、これからの地域発展の一助になれば幸い。」と話している。

万里集九が通った柏崎は…(ばんりしゅうく※がとおったかしわざきは…)
筑波大学名誉教授の内山知也(柏崎出身)が柏新時報2007年1月1日号に寄稿した新年随想。万里集九の柏崎通過(1488年10月9日)を中心にふるさと柏崎への思いを綴っている。まず万里集九について「彼は京都五山の東福院で詩文の頭角を現わし、蘇東坡の注釈をした人として最近注目されている人です。岐阜に隠棲していたのを江戸城の太田道灌に招かれ、関東の詩壇や学問の水準を上げるのに努めていました。」と紹介、柏崎を通過することになった経緯についても「ところが頼みの道灌は上杉定正に殺され、2年後の長享2年(1488)には江戸を出発し北陸道を経由して美濃の家に帰ることになったのです。中山道も東海道も危険で旅行できなかったようで、安全な柏崎への道をたどることになりました。当時60歳だったのです。(略)一日10里くらいのスピードで山路を踏破し、信濃川を妻有(十日町)で渡って柏崎に着いた時一首を遺しました。」とし、その詩(詩文集『梅花無尽蔵』所収)について「時は10月9日、股を没する沼にへとへとになりながら(川を越え)柏崎に入ると、夕暮れの太鼓がドンドンと轟いたといいます。柏崎の『市場の面』(本町の商人通りか?)は三千余軒、深い小路には凡そ五、六千戸がある。海から採りたての鱒が棚にずらりと並べられている、と歌っています。」「彼の七言絶句柏崎はなんとも風情のない情景詩ですが、当時の柏崎は八千戸以上もありそうな大きな町で、漁業を産業としていた様子が伝わってきます。まだ北方からのにしんやたらの干物などが少ないころですから、柏崎からの塩鱒の売り上げは多くの町の人口を支えていたのでしょう。」と評釈、「集九老師は酒も魚も好んでいたようですから、新鮮な鱒を食べて行ったのでしょう。」との想像も加えている。※「ばんりしゅうきゅう」との読みもある。

【ひ】
彼岸花の小径(ひがんばなのこみち)
柏崎市堀の「ふるど大池」にある里山遊歩道。2019年から高田コミュニティ振興協議会環境部が南側法面を整備、約1万球の彼岸花を植栽し「彼岸花の小径」と命名し維持管理を行っている。同地区の新たな名所として、9月下旬から10月初旬のシーズンには見物客、カメラ愛好者が訪れるようになった。2021年、2022年には布施公幹による周辺植物調査が行われ、この成果を「ぶらりふるどの森散策ガイドマップ」にまとめており、「マルバマンサク、ツルマシキミ、ミヤマフユイチゴの3種は、市内平野部の里山では極めて珍しい植生です。地域の宝として保護をしていきたいものです。」としている。

悲劇の柏崎勝長公(ひげきのかしわざきかつながこう)
郷土史家の宮川嫰葉(邦雄)の遺稿集『柏崎郷土史話』(1978年)に収録された「柏崎の最初の長」とされる柏崎勝長に関する物語。「柏崎権之守勝長公一家の悲劇は、承久の乱を契機として、痛ましくも宿命の幕をくりひろげるに至った。これより数年前、遙々京の都からこの北国の波かぜ荒い僻地柏崎へ、身分いやしからぬ白面の貴公子が、一人の逞しい武士と思われる男に案内されてやって来た。」「源家の嫡流柏崎家は、地方の豪族として郷民の信望篤く、特に当主勝長公は文武両道に秀でた地方稀にみる支配者である事は、小国の蔵人源頼行一族と共にその地方的勢力はすでに上聞に達しており(略)頼仁親王が勝長公を頼って潜入した事はなにも不思議の出来ごとや機縁ではなく…」という書き出しで、承久の乱で兎島に流された後鳥羽天皇の第四皇子頼仁(清見原)親王の脱出を画策、鎌倉幕府と厳然対抗したヒーロー柏崎勝長の姿を描き、「荒削りのデッサンとしてこの一篇を試作してみたまでである。謡曲『柏崎』よりは史実に近いであろう。」と結ぶ。宮川が編纂に関わった『稿本柏崎史誌』には「承久年問、柏崎へ某親王が流されたと伝えられる」の項目があるが、柏崎市制30周年記念の『柏崎編年史』(1970年)では採用されなかったことを念頭に「(後世の郷土史家は)有力な史料を蒐集しながら勝長を架空の人物化して了った嫌いがある。」と批判。

美術館問題を考える(びじゅつかんもんだいをかんがえる)
2002年から2003年にかけ市民世論を賑わせた「県立美術館計画」についての特集記事で、柏新時報2002年7月5日号(前)、7月12日号(後)に掲載。冒頭「本来は美術館建設計画であり、構想だったはずなのが、いつから『問題』になってしまったのか。」「事の発端は、今年1月に柏崎で開催された平山知事の新春講演会で、知事が『柏崎に文化的施設を』と発言したことに始まる。この時、知事はなぜ県立美術館柏崎分館ではなく、『文化的施設』と抽象的な表現にとどめたのか。」と問い「ちょうどフォンジェ支援問題と時期が重なったため、『中心部を盛り立てようという時に、建設場所がなぜ共生公園なんだ。フォンジェ再生を軌道に乗せるためにも中心部に文化的な核を持ってくるべきなのではないか』といった意見をはじめ、様々な声や疑問が噴出したのである。」などの経緯を説明。さらに「平松礼二作品の収蔵展示」「建設地(環境共生公園)」「モネの庭」などの論点を整理、「天才画家・中村彝をはじめ市内北条出身で恩賜賞を受けた村山徑さん、柏中・柏高で教えた国領経郎さんらゆかりの人が多くいて、これだけ美術との関わりが深く、風土としても充実しているにもかかわらず、なぜか美術館だけはなかった。これだけ箱モノが多い柏崎にとって逆に不思議なことであり、美術会の皆さんの切実な気持はもっともだと言える。」といった市民世論も紹介。訪欧視察の際にジヴェルニーに立ち寄り本気モードとなった西川市長の姿勢を評価し「(市長は)これまでどちらかといえば静観の姿勢だったのと比べると大変身である。ようやく本質的な議論がスタートすることになる。」と期待を込め結んでいる。結局、「わたしたちの美術館を考える会」の請願を柏崎市議会が採択したことを受け平山知事が同計画の白紙撤回を表明。柏新時報2003年10月17日号「すべて終わったのか」では背景について「行間を読む努力をするならば、東京電力の一連の不祥事で増幅された不信感が問題の根底に流れていたのでないかという点で、市民感情がピーク化していく時に、ちょうどそこに美術館問題があった。3点セット(平松作品、モネの庭、環境共生公園内)での建設を推進する側が、この事を過小評価したのは、明らかなミスだといえる。」「3点セットのうちの1点(環境共生公園)だけでも『はずす』ことができたなら、世論の集中砲火は少しは柔らいだかもしれない。今となっては結果論であるが…。」などと分析した。※環境共生公園(仮称)は東京電力柏崎刈羽原子力発電所全号機完成を記念し計画、現在の柏崎・夢の森公園

聖が鼻(ひじりがはな)
柏崎市米山町にある岬。米山福浦八景の一つで、米山開山縁起に関連する。かつて上杉謙信の狼煙場だった旗持山の裾が海にせり出した景勝地で、先端の聖が鼻展望広場には松田伝十郎顕彰碑、柏崎青年会議所によるまちしるべ「松田伝十郎生誕地」があり、聖が鼻層露頭の観察地でもある。『柏崎市伝説集』には「泰澄上人は越前の国から越後の国へ来られ、八崎のたくさんの崎の中で一番高い岬の上に住まわれて修行された。食べ物が欲しくなるとここから鉢の子を飛ばして沖を通る船から食物を寄進してもらってそれを食べて修行された。沖を通る船はこの辺を鉄鉢が来るところから八崎と書かずに鉢崎と書く様になったと伝えらている。土地の人はいつしか泰澄上人のいられる崎を聖が鼻と呼ぶようになった。」(聖が鼻)とあり、「泰澄禅師が居住されたとも、臥行沙弥が居住したとも言う」(米山地名考)とも。かつては米山崎灯台が設置されていたが、中越沖地震で損傷後、撤去され廃止となった。

ひとすじに真実を、ひとすじに命を-吉野秀雄・中野幸一郞往復書簡展(ひとすじにしんじつを、ひとすじにいのちを-よしのひでお・なかのこういちろうおうふくしょかんてん)
歌人吉野秀雄没後50年を記念し2017年に群馬県立土屋文明記念文学館で開催された企画展。柏崎と関わりの深い歌人吉野秀雄と、その生涯の親友で柏崎出身の中野幸一郞の往復書簡を通して、吉野の人間像や文学の原点を探った。中野幸一郎は柏崎市島町の出身で柏崎商業卒業後、15歳で高崎の吉野藤一郎本店(現在の株式会社吉野藤、秀雄の生家)に入社、吉野藤監査役、高崎本店副支配人など幹部社員として活躍後、39歳で独立して高崎布帛有限会社を設立した。幸一郎はトルストイや長塚節を読み耽る文学青年でもあり、社長の次男だった秀雄とは同い年だったことから意気投合し、47年間にわたって友情を深め、多くの往復書簡が残された。中野家に大切に保管されていた吉野の書簡は同家から土屋文明記念文学館に、吉野家に残された書簡は神奈川近代文学館に寄贈され、往復書簡がまとまった形で展示されるのは初めて。「中野幸一郎との出会い」「慶応義塾大学入学」「病牀歌集『天井凝視』」「平安とおぼしき日」「『寒蝉集』愛する者を喪うということ」「作品抄」の6章で構成、柏崎関係ではふるさと人物館前の秀雄歌碑「北の海の冬呼ぶ風ぞ砂に這ふ枯莎草を根掘じむばかり」が紹介されたほか、「三階節の絵葉書頂戴、なかなか洒落た絵だと思ったら(小川)千甕ではないか。君は『芸術の無限感』(中村彝)を手に入れたか。俺は今日から読み始める所だ。」(1926年の幸一郎宛書簡)、「鯛の子塩辛は好物中の好物」「雪国には雪国独特のおもしろさもある」(1928年幸一郎宛書簡)などと柏崎色の濃い内容となった。幸一郎の次男で、父親の仕事の関係から中学2年まで柏崎で育った中野完二さん(詩人、艸心忌世話人)は「吉野先生の慶應時代の資料はなかなか残っておらず、父との往復書簡は歌人としての人格形成された時期のものとして研究者、ファンの注目も集まっているようです。」と話していた。

評伝銀のつえ-米山検校をさがして(ひょうでんぎんのつえ-よねやまけんぎょうをさがして)
柏崎出身(柏崎高校23回卒)で駒沢大学講師の德間佳信著。2012年刊。「勝海舟の曾祖父、米山検校のはじめての本格的評伝」として話題を集めた。「米山検校への旅」、「鍼道指南の学校設立の願文」、「海舟、神戸海軍操練所始末」「米山検校をさがして」「己丑歳飢人道行」の5章で構成、波瀾万丈の人生を描くとともに詳細な山上家、米山検校系図を掲載する。德間は、米山検校が出た山上家(検校の兄徳右衛門の子孫が継いだ)の末裔で、文中で「伯父からは、『明治になって海舟から手紙が来てね、親戚だから遊びに来ないかって言われて、山上のジイサンが行ったら、海舟から疱瘡を移されて、いやぁ、頓死しちゃったんだよ』、と教わったこともある。」との秘話を披露している。なお、德間は2016年の柏中・柏高同窓会記念文化講演会で「蘇る米山検校」と題して講演、「鍼道指南之学校願文」を丁寧に読み解きながら米山検校の実像を語り「社会貢献の意図をはっきりと持ち、剛胆の人だった。ひ孫の勝海舟ととても似たものを感じた」と力を込めた。

平松礼二展-路・ジャポニスムへの旅(ひらまつれいじてん-みち・じゃぽにすむへのたび)
2002年12月7日から18日まで柏崎市立図書館で開催された日本画家・平松礼二の作品展。県立美術館計画で収蔵展示が予定された平松作品を市民に実際に見てもらいたいと柏崎市が主催したもので、「ジベルニー モネの池・風音」、「路-白い波の彼方に」、「睡蓮幻視」など大作を中心に30点、「文藝春秋」表紙原画12点他などを展示した。オープニングセレモニー(12月7日)で平松は「柏崎は文化レベルの高いまちと聞き、こうして皆さんに見ていただくのは足が震える思いだ。この地でいろいろな意味合いで勉強させてほしいと思っている。」とあいさつ、テープカットのあと、平松本人による作品解説が行われた。同日夜の講演会「日本画から世界画へ-ジャポニスム」では「モネにジャポニスムの原点を見ようと北フランス・ノルマンディーを旅した。柏崎は地形も風土もノルマンディーに似ていて、ここにたどり着いたのは何らかの理由があったのだと思っている。柏崎の子どもたちとともに芸術ワークショップを展開したい。」と熱っぽく語った。計画経緯については別項「美術館問題を考える」参照。

悲恋のヒロイン・ベニズワイガニ(ひれんのひろいん・べにずわいがに)
NHKアナウンサーの古屋和雄が『愛されたい症侯群』(1987年刊)で書いた柏崎と自分の父親(大富・古屋佐郷)にまつわる随筆。「生まれたのは、富士山の麓、山梨県の河口湖畔ですが、小学校から高校までの学生時代は北陸の富山で過ごしました。今は両親が佐渡ケ島を対岸に望む新潟県柏崎市で呉服商を営んでいますので、休暇中はその日本海沿いの町に身を寄せることが多くなりました。」(私の三つの故郷)としたうえで「私の三ヶ所目の故郷は、佐渡情話の悲恋の伝説が伝わる新潟県柏崎市です。父は若い頃から呉服の商いのために富山と新潟を往復していましたが、私と弟に手がかからなくなってからは、日本海沿いのこの人情味豊かな土地に腰を落ちつけたのです。ここはなんといっても、主食の米のうまい所です。(略)そして、海の幸も豊富なところです。」と柏崎のPRも含め詳しく説明する。さらに国道8号線のカニ露店での父親の値引き交渉にふれ「私の父親はそのカニをさらに値引きさせるのが得意でした。最初は、店の人がサービスで差し出たカニの足を賞味しながら、まず『うまい、うまい』を連発するのですが、そのうちおもむろに『よし、買いますで、まけなせえの』と持ちかけるのです。このぐらいは私でもできるのですが、そのあとがしぶとい。それでなくとも格安に並んでいるカニをまけることに店の人がしぶっていると、『お百姓さんは米とるのに一生懸命肥やしをやって育ててるのに、お宅らは別に海に肥料まいてるわけではないでしょうさ』ときり出すのです。」とユーモラスな姿を活き活きと描き「これ(値引き交渉)はもうほとんど父の趣味の領域とさえいえるものでした。」と振り返っている。

琵琶島城の興亡と宇佐美氏(びわじまじょうのこうぼうとうさみし)
『柏崎編年史』本編第3章「戦国の争乱と柏崎」の冒頭概説。編著者の新沢佳大が執筆した。NHK大河ドラマ「天と地と」(1969年)の時代考証を担当した國學院大学教授の桑田忠親が「宇佐美定行は完全な架空の人物」(週刊読売1969年3月14日号「つくられた甲越両軍の名軍師」)と主張したことを受け、力の籠もった筆致となっている。まず「琵琶島城主宇佐美定秀が早世し、家督をめぐって御家騒動がおこり琵琶島城が大いに混乱すると、越後守護房定は宇佐美一族の結束が乱れるのを焦慮し上杉の慣例に倣って、宇佐美氏の宗家、伊豆の宇佐美能登守定興の子四郎左衛門尉孝忠を迎えて解決している。(略)家督を嗣いだ孝忠は時に15歳であったという。この孝忠(房忠)の子が定満で、この父子が越後上杉氏の存続に力を尽くし、上条家を奉じて最後まで長尾為景と戦ったのである。越後軍記・北越軍記・越後軍談等で有名な宇佐美定行(良勝)は、この孝忠の晩年の名である房忠(改名)と定満を間違えて同一人物としたものである。守護代長尾為景の越後征覇の道程は、宇佐美孝忠(房忠)定満父子の抵抗の歴史であり、琵琶島城の哀史でもあった。」として宇佐美氏の系図をまとめ、孝忠(房忠)には「宇佐美能登守定興の子」「四郎左衛門尉」「越中守」、定満には「四郎右衛門尉」「初め貞之(定行)」「英正軒」「良勝」の注をつけ、「最近ブームにのって次々と上杉謙信やその武将伝を書いた人達は、『北越軍記』を虚構なりと全くその全文を抹殺するかのごとき言辞を弄している。しかるに一方では『北越軍記』に依拠しているため、軍記が殺すとそのまま孝忠を殺して自らその馬脚を表わしている。」との痛烈批判も。なお大河ドラマ「天と地と」では宇佐美定満を名優・宇野重吉が好演した。

【ふ】
不安な演奏(ふあんなえんそう)
松本清張作、週刊文春1961年3月13日号から12月25日号まで連載された推理長編。翌1962年にポケット文春として単行本化、文春文庫にも収められた。盗聴テープを聞くのが趣味という雑誌編集者の宮脇平助が手に入れた湯島のラブホテルでの録音テープに「柏崎の鯨波の洞窟にモノを置いておけば、潮がモノを攫(さら)って沖に運ぶだろう」との密談が吹き込まれていたのが物語の発端。この話を聞いた映画監督の久間隆一郎は「鯨波の洞窟」という言葉に惹かれ、夜行で柏崎へ向かい「青海荘ホテル」に宿泊、鬼穴前で偶然出会った保養中の青年・葉山良太から「この辺は内海と違って、あまり満干の差が激しくない」という情報を聞きがっかりするも、地方紙朝刊の社会面に「出雲崎の沖合で女性の水死体発見」の記事を見つけ「出雲崎警察署」を訪ね女性が京王電鉄の新宿・調布間の回数券を所持していたとの情報を得たことからストーリーが一気に進行する。「直江津からの海岸道はひどく悪い。運転手にそれを言うと、新潟県は海岸浸蝕がひどいために護岸工事費に金を食われ、道路まで手が回らないのだ、と答えた。車の窓から見ていると、しばらくは褐色の砂だらけの景色である。丘も家も砂の上にあった。」(直江津駅から鯨波までのハイヤー車中)、「旧い町に工員の姿が多い。」(柏崎駅前)など執筆当時の風景表現も貴重。「三階節」の一節「柏崎から椎谷まで」も登場する。みうらじゅんは文春文庫新装版解説に「僕は数年前、松本清張の小説の現場を訪れるブームがあってその柏崎に行ってみたことがある。そしてこの『不安な演奏』に出てくる映画監督久間隆一郎が泊った"青海荘ホテル"を捜し出した。まるで自分も小説の中にいるような不思議な気持ちがして、旅館の方に尋ねると『取材旅行で一度、清張さんもお見えになっています』とおっしゃった。実際の名称は"蒼海ホテル"、僕は何度も旅館の前でシャッターを切った。」と書き、撮影した蒼海ホテル玄関の写真を紹介している。また、梓林太郎は『回想・松本清張』(祥伝社文庫)で新宿凮月堂で知人が耳にした3人の男による密談(「新潟県柏崎市に鯨波という場所がある。信越本線の駅もある。日本海に面した海岸で、夏は海水浴場になる。断崖が海に突き出ていて、その上はマツ林だ。断崖の下には海水に浸食された洞穴が口を開けている。その洞穴に、殺した人間を棄てる…」)を松本清張に聞かせたところ、「柏崎へ行って、鯨波の海岸に、はたして人間の死体を棄てられるような洞穴があるかどうかを、見てきて欲しい」と依頼され、鯨波を実際に訪問し「死体」ではなく「波が運び込んだゴミがつまっていた」ことや洞穴周辺の様子をカメラに収め「清張さんに報告した。翌年、清張さんは週刊誌に『不安な演奏』を連載された。私の話した鯨波の洞穴をヒントになさっていた。」と書いている。社会派と言われた松本清張の特徴が良く表れた作品だが、現在までドラマ化がなされていないのが不思議なほど。

深田信四郎(ふかだのぶしろう、1909-1999)
高田師範学校卒、三島郡五千石小・刈羽郡上条小・柏崎市大洲小、南魚沼郡大巻小の訓導を経て1941年在満教務部に出向、通化省柳河在満国民学校の訓導、1942年から北安省二龍山在満国民学校長を務め、旧ソ連参戦と敗戦に伴い筆舌に尽くしがたい逃避行体験をしながら1946年引揚帰国。三島郡出雲崎小・刈羽郡北条中・柏崎市一中、同二中・南魚沼郡三用小・柏崎市荒浜中に勤務し1968年退職した。荒浜中校長時の1966年、卒業式の式辞で二龍山開拓団時代の悲惨な体験を生徒に語りかけ、感銘を呼んだ。旧満州で体験した敗戦時の悲惨な体験、記憶を『二龍山』(1970年、深田信との共著)、『幻の満洲柏崎村』(1982年)にまとめた。また、「レポートアルロンシャン」(1948年から1997年、250号)、「いくさ、あらすな」(1997年から1999年、12号)を自費で発行、1300部を無償配布しながら、最晩年まで「いくさあらすな」を訴え続けた。「いくさ、あらすな」第6号巻頭には最期の自筆メッセージ「書く力語る力も失せ果てぬただたのみますいくさあらすな」を残している。柏崎市社会教育委員、民生委員、柏崎市大洲公民館長を歴任、『昔の話でありました』(柏崎の民話全5冊)、『柏崎のむかしばなし』を著すなど、柏崎の民話収集でも功績を残した。

深田信の歌碑(ふかだのぶのかひ)
三条市の法華宗総本山・本成寺本堂北側墓地内にある歌碑で、二龍山(あるろんしゃん)開拓団慰霊碑と共に1974年建立。『二龍山』(深田信四郎・深田信共著)に掲載された「なんと言うて拝み申さん十一の幼なほとけは飢餓仏ぞも」が、「敗戦の年の十月十一日ゴハンガタベタイナと言って幼児十一人が餓死していきました」の説明文ともに刻まれる。『二龍山』第二部「流氓の歌」で、飢餓と病気のため長春で亡くなり「防空壕にすてられた」という11人の子どもに捧げた6首のうちの一つで、「十一の幼ほとけ」には深田の長男正弘も含まれる。6首に加え、深田は正弘死去時に「幼な子にいかなるゆゆし罪ありてうえ殺せしや神よほとけよ」「餓死したる吾子にそなえる白米のひとにぎりだに落ちてあらぬかも」など4首を詠んでいる。柏崎市出身の深田信は、二龍山開拓団国民学校長を務めた深田信四郎の妻で、旧満州で体験した筆舌に尽くしがたい敗戦、流浪体験が『二龍山』として出版され、その後『暮しの手帖』や『デルタの記』にも再録され、反響を呼んだ。

福泉寺由緒沿革(ふくせんじゆいしょえんかく)
「宇佐美駿河守祈願の寺」として知られる柏崎市新橋の古刹・福泉寺が2009年の第43世住職・中嶋教峨就任にあたり縁起、歴代住職、年表、寺宝などをまとめた小冊子。開基について「日蓮聖人佐渡御難の時、高弟日朗上人は鎌倉より便船を得て佐渡に渡り高祖日蓮聖人に会い、帰りに柏崎に着き、宿を常在坊阿闍梨福泉法師に求め、法師これを許し、終夜互いに法論を重ね、ついに日朗上人に従い法号を授けられ、福泉院日舟となる。寺も天台宗から日蓮宗福泉寺と改めた。」(1271年)、宇佐美氏関連では「琵琶島城主・宇佐美駿河守貞之の領地で有り、北辰妙見菩薩を勧請し当山は祈願所となす。川中島の戦いの中で最大の激戦となった第4次合戦があった年であり、宇佐美駿河守夫人が彫ったと云う子安三十番神と宇佐美駿河守貞之の直筆で戦いに行く際の祈願文と共に納められている。当時の本堂は間口八間、奥行七間半の大伽藍なり。」(1561年)、柏崎大火関連では「柏崎大火の際延焼し全焼する。」(1911年)、「西山の大山持の西倉弥一氏の所有のお堂を弐千円で買取り、壱萬円をかけて檀家総出で本堂を建立する。」(1923年)などとまとめている。寺宝「宇佐美駿河守祈願文」「北辰妙見菩薩」「子安三十番神」の紹介も。

二人の守護を輩出したわがふるさと上条城に光を(ふたりのしゅごをはいしゅつしたわがふるさとじょうじょうじょうにひかりを)
上条地区コミュニティ振興協議会が上条城址の史跡活用を考えるため2006年7月22日に開催した視察研修会。同振興協議会の「わがふるさと歴史講座」の一環。講師は前センター長の村山不二雄で①上条城は標高15メートルの丘陵に作られた平城だが、堅固な守りをもち、中郡と呼ばれていた中越地方支配の拠点となり、上杉房定(7代守護)、上杉定実(9代守護)の二人の越後守護を輩出した。②城主の住んだ本丸跡は東西76メートル、南北65メートル。南側で道路工事が行われた際、古井戸が発見された。東南角は物見やぐらの跡と言われている③城主の家族が住んだ二の丸跡は東西40メートル、南北85メートルで、土塁や曲輪が残っている。西端の登り口を「大手」と呼び「御殿橋」「弥五郎橋」などの名前が残っている-などと説明、政治の中心だった往時を偲んだ。当日は上条城を守っていた黒滝城跡を視察。黒滝城は標高140メートルの山城で「本丸跡」「二の丸跡」「三の丸跡」「不動院元屋敷跡」「馬場跡」「のろし台跡」などが残っており、説明役の村山は「琵琶嶋城や上条城をはじめ、安田、北条、古町番、細越の各城を見渡せるようになっており、見事な城を作ったものだ。」と解説した。

『筆満可勢』に登場する三階節(『ふでまかせ』にとうじょうするさんがいぶし)
江戸の浄瑠璃芸人・富本繁太夫による道中日記『筆満可勢』の文政13(1830)年11月13日の記録に「柏崎の名物」として三階節が登場する。由来については「三つ重ねてうたふ故三階ぶしと言。江戸にて言シゲサ也。」と説明、「三ヶ節」とも表記し、歌詞「〽しげさしげさとこいにしやるしィげェさしげさのごかんけ山さと越へても参りたや」を紹介している。この歌詞は三階節の元歌とされるもので、当時の雰囲気をよく表現している。「階」には「ガイ」と傍訓あり。また「此唄を当所にては三下りにて弾く。又同国今町にては二上がりにて弾くと言。」(今町は現在の直江津)とも説明している。

古川通泰・古川歩親子展(ふるかわみちやす・ふるかわあゆみおやこてん)
「狐の夜祭り」30周年を記念した作品展で、2018年柏崎市高柳町内のギャラリー狐の館、ギャラリーじょんのび、ギャラリー姫の井酒の館、じょんのび村ロビーで開催された。古川通泰は「狐の夜祭り」の開始時から毎年のポスター原画を担当するなどして同イベントを応援してきたが2009年に惜しまれながら他界。これまでの功績に感謝し、改めて祭りの原点に立ち返ろうと古川通泰が高柳に残した屏風絵、油彩画などの作品、「狐の夜祭り」のポスター原画の数々を展示、子息で陶芸家の古川歩の陶芸作品も展示し「親子展」とした。また、祭りを運営してきた「ゆめおいびと」や実行委員の奮闘の姿も展示し30周年を飾るにふさわしい内容となった。ゆめおいびとの主催、グルグルハウス高柳がプロデュースした。同年の第30回狐の夜祭りは古川の縁で越中八尾民謡おわら保存会福島支部によるおわらが披露され、例年を上回る賑わいを見せた。

ふるさと柏崎ゆかりの詩歌を楽しむ会(ふるさとかしわざきゆかりのしいかをたのしむかい)
柏崎市制施行70周年記念事業として2010年に柏崎市立図書館で開催されたゆかり詩歌の鑑賞会。柏崎図書館後援会主催。バイオリンやピアノの生演奏に乗せ、あなたとふるさと歌う(まき・たかし作、塚田由幸作曲)、海水旅館(萩原朔太郎作)、竹(同)、金色夜叉(宮島郁芳作、後藤紫雲作曲)、遙かなる海辺の町よ(中村千栄子作、石井歓作曲)、浜千鳥(鹿島鳴秋作、弘田龍太郎作曲)など柏崎ゆかりの6作品を朗読、歌唱し、多くの詩人、歌人が訪れた「文学の町柏崎」を再認識した。このうち「海水旅館」では、「大正5年7月25日から8月9日まで朔太郎一家が鯨波海岸で避暑した際の印象を記した作品で、第一詩集『月に吠える』に収められ、詩の最後に『くぢら浪(鯨波)海岸にて』と付記されたことで柏崎の名を高めた」と解説、また柏崎市上方出身の宮島郁芳が浅草の人気を集めた同名の芝居にヒントを得て「熱海の海岸散歩する/貫一お宮の二人連れ」とバイオリンを弾いて歌い爆発的なブームを呼んだ「金色夜叉」では米山大橋脇に建つ歌碑の写真が紹介されるなど、音楽と映像による効果的な演出も好評だった。構成演出を担当した牧岡孝は「『月に吠える』は、近代詩史上最も重要な詩集で、ここに鯨波で作った『海水旅館』という一編が収められているという意味は非常に大きく、凄いことだと思う。市の宝として市民の皆さんからこの文学遺産に改めて注目してもらいたい。」とコメント、「海水旅館」詩碑建立※へと動き出す契機となった。※2015年県立柏崎アクアパーク記念碑コーナー(柏崎市学校町)に詩歌を楽しむ柏崎刈羽の会によって建立

ふるさとの唄を想う(ふるさとのうたをおもう)
自民党幹事長時代の田中角栄が『ふるさとの歌中部Ⅰ』(1969年、主婦と生活社刊)に寄せた味わい深い一文。「『米山甚句』で親しまれている米山には、登ろうと思いながら、ついに登れなかった。米山さんは999メートル、一般に千メートルといわれている。軽井沢がちょうど海抜千メートルだから、軽井沢に行くと、いつも『ああ、米山の頂上へ登ったな』という感じがするのである。」「〽柏崎から椎谷まで…と『三階節』にうたわれている椎谷は、少年時代の私も海水浴に行ったところだが、〽間(あい)に荒浜荒砂悪田の渡しが…とつづく文句のように、途中に荒浜というところがある。唄にうたわれているのは、鯖石川の河口だが、ここは漂砂のたいへん強いところで、その漂砂にさえぎられて、河口が右へ行ったり左へ行ったりする。」等と記憶を語ると共に「新潟は昔から与える県であった。米をつくって与え、女工哀史のころは農村から労働人口を供給し、その一ページを築いた。頼まれれば米搗きにもくる。米屋、魚屋、八百屋、風呂屋など薄利多売の仕事、骨身を惜しまない商売には新潟県人が多い。それは、半年間雪のなかに埋もれるという宿命を背負って生きてきた人のあきらめでもあり、培われた忍耐でもあった。」との辛辣な表現も。同誌には石黒敬七も「三階節」と題して寄稿しており「音頭取が、前歌も後歌も唄ってはいけない。後歌を踊り子たちが唄うところに、三階節の特色があるので、これは野調でもお座敷でも同じことである。ヤグラを建てて踊る場合など、音頭取りばかりが、マイクを独占して、前歌も後歌もひとりで唄う習慣が郷里にあったので、僕がそれを指摘して、踊り場のマイクを増し、踊り子だけが後歌を唄うようにしたが、これで始めて三階節が自然の姿に戻った。ほとんどの民謡は、唄う者と踊る者とが分かれているが、三階節などは唄う者踊る者双方が相互に唄うので、その楽しみも増すというものだ。」と書いている。

ふるさとの山米山さん(ふるさとのやまよねやまさん)
柏崎市市制施行60周年記念番組としてNST新潟総合テレビが制作、2000年7月1日に放送された。企画は柏崎出身で同社社長の村山稔、「米山はこの地に生まれ育った誰の心のなかの風景にも刻み込まれている山なのです」とふるさとの山への思いを込めた。案内役は阿川佐和子、語りは西村知道で、米山の成り立ちや四季の表情、米山信仰、特徴的な雪形など様々な角度から米山を紹介、「米山は標高993メートルと一般的な高さの山だが海抜ゼロメートルの日本海からそびえ立ち、その存在感は圧倒的。米山は見る場所によって様々な表情があり、東側からは豪快で勇壮な姿、北東側からは鶴が翼を広げたような雄大な姿、また西側からは緩やかで柔らかな姿を見せる。三階節や米山甚句をはじめ多くの歌に歌われるが『米山さん』と敬称をつけて呼ばれる山は全国でも珍しい。」「『越後之國米山従奥』(三諦寺経塚法華経)という表現に見られるように中世には東日本を二分する山として当時の都の人々に認識されていた。また米山三里は北国街道の難所といわれ、幕末ごろまでは米山を境に上越後、下越後と区別され、越後を二分する山でもあった。」「柿崎口、吉尾口、野田口、大平口、谷根口の各登山道が整備され、気軽に登れるようになったが、明治の初め頃までは女人禁制で女性信者のために女人堂が建てられた。それぞれの登山口には払川があり、身を清めることで登山が許された。男の子は数え12歳になると米山に登ることで一人前として扱われた。運が良いと朝日によって出来た米山の影が海に映る影米山に出会える。海に近い米山ならではの現象。」「病気に悩む人の間に米山信仰は広がり、特に眼病治癒に効果があるとされた。付近の農民にとっては農耕の神様、作神でもあり、里山伏が布教活動を行った。各地に建てられた米山塔は柏崎刈羽や長岡、蒲原平野を中心に400程あり、米山信仰の広がりを物語っている。」などと分かりやすく説明した。小村峠の美しいブナ林で阿川が飛鉢譚「空を飛ぶ米俵」(柏崎のむかしばなし)を朗読するシーンも。1年余をかけた丹念な取材で、中之島町中野東講中の登拝、柿崎町下牧地区の初寅行事でのかんじき登山に同行するなど貴重な映像を残した。

ふるど大池(ふるどおおいけ)
ふるど(古土)大池は柏崎市堀にあるため池で、別名弁天池。水深3メートル、総貯水量4万3000立方メートル。1999年に県営防災ダム(防災ため池)事業による大規模改修が完成、遊歩道が整備され、近年は「彼岸花の小径」で知名度を上げている。この池に住み着き村人を困らせていた大蛇を琵琶湖竹生島の弁天神が退治したという伝説も伝わり、『柏崎市伝説集』採話者の深田信四郎は『昔の話でありました第二集』(1973年)で「ガラガラガラッと耳が破けるほどの雷がとどろき渡り村中が流れるかと思うような雨が降りだしました。そして一段とまっ黒い雲がおおみの国からやって来て池の上にすうっとおりて池をすっぽりと包みました(略)『あッおろちのしっぽだ』見ると黒雲の中からまわりが1メートル近いおろちのしっぽがさがっていました。おろちのいなくなった堀の村は又平和になりました。『二度とおろちが来ないように』と村人たちは竹生島ににた島を池のまん中につくりそこへ弁天さんをおまつりし堀の名前を堀の弁天池とよぶようにしましたとさ。」と想像力豊かに膨らませている。柏崎青年会議所のまちしるべ「堀のふるど」も設置。天気の良い日は「逆さ米山」も楽しめる。県道鯨波宮川線の「夢の森公園前信号無交差点」を右折、(分かりにくいため)グーグルマップ参照。

ブルボンウォーターポロクラブ柏崎の発展経緯に関する研究(ぶるぼんうぉーたーぽろくらぶかしわざきのはってんけいいにかんするけんきゅう)
筑波大学大学院(人間総合科学学術院体育学学位プログラム)の髙橋知志による修士学位論文。2021年度。髙橋は全日本ジュニア(U17)水球競技選手権大会「かしわざき潮風カップ」の第1回大会(2015年)で優勝した埼玉選抜メンバーで、筑波大学に進学した。修論の目的について髙橋は「近年の日本水球の国際競技力向上の背景には社会人チームの台頭が大きな影響を及ぼしており、その筆頭とも言えるブルボンウォーターポロクラブ柏崎の特徴的な取り組みを明らかにすることで社会人チームを基軸とした今後の水球界の発展に向けた資料としたい」とし、柏崎は髙橋の祖父の生まれた地でもあることから関係者は資料収集に好意的に対応したが、新型コロナウイルスの影響もあって直接に柏崎を調査に訪れることができず、国立国会図書館で柏新時報バックナンバーを閲覧と複写、さらにブルボンウォーターポロクラブ柏崎創設者でシンガポール水球男子ナショナルチーム監督の青栁勧にリモートでインタビューをするなど苦労しながら論文を執筆した。髙橋は各記事を分析した上で「ブルボンウォーターポロクラブ柏崎の地域密着型クラブとしての多様な取り組みと、その充実度が浮かび上がった。」、「柏崎をホームタウンとするブルボンウォーターポロクラブ柏崎の地域に根ざしたクラブ経営は、国内の他のトップチームには見ることのできない特徴である。」などと分析、さらに青栁へのインタビューを加え「資金を得たいクラブと、ビジネスチャンスを求める企業と、アイデンティティを持つ市民と、あるいはそれを研究の対象とする大学と、ときにはそこにメディアが介入していわゆる産学官の連携を通したそれぞれのメリットが相乗的に大きくなっていくことが総合的な地域貢献につながる。」「ブルボンウォーターポロクラブ柏崎は、地域密着型というひとことには収まらない、大きくて深いビジョンと具体的な取り組みから構成される、独創性の高いオリジナルなクラブであると言えよう。日本水球界にこのようなクラブが誕生したことは戦後の日本の水球史から見て画期的であり、さらに青栁氏の今後の10年間のグローバル化に期待が高まるとともに、そこでもやはり、青栁氏の強調する国内の『競い合い』が重視されるものとなるだろう。」とまとめている。

文化財たちの「復興」-博物館がみた新潟県中越沖地震(ぶんかざいたちの「ふっこう」-はくぶつかんがみたにいがたけんちゅうえつおきじしん)
柏崎市立博物館と柏崎ふるさと人物館で2010年に開催された夏季特別展。中越沖地震(2007年)では多くの土蔵が倒壊したほか、寺社や仏像・石仏など地域の歴史遺産や文化財にも大きな爪痕を残した。博物館と人物館では、地震直後から柏崎市内各地の文化財の被害確認、寺社に出向いての文化財の救出、さらには被災家屋からの民具資料の保管・寄贈受け入れなどの活動を行ってきた。博物館では民具、古文書、写真、書画軸、石仏、土器など、ふるさと人物館では屏風、漆器、古文書などを展示、文化財の復興の現状を紹介し、関心を集めた。

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へびの詩人(へびのしじん)
へびの視点でアイロニカルな詩作を続けた柏崎市出身の詩人・中野完二(1937-2021)の異名。中野は柏崎出身、早稲田大学仏文科卒、文化出版局で雑誌編集の傍ら3冊の詩集『へび』『へびの眼』『へびの耳』を出版し、柏崎ゆかりの吉野秀雄の顕彰や太極拳の指導でも活躍した。同人誌『飛火』は61号を中野完二追悼号として、巻頭で太極拳や飛火の会の活動スナップを掲載するとともに、同人各氏が在りし日の故人を振り返り、中野完二略年譜、著作目録もまとめている。次女の岡わかなは「父の最期の半年」のなかで、「私が物心ついたころから晩年まで、父は仕事、太極拳、吉野秀雄さんの会や早稲田学報の編集、柏崎談笑会、またこちらの『飛火』の刊行などに忙しく飛び回っており、充実した、濃い人生だったと思います。やりたいこと、やりたくないことは曲げないびっくりするほど頑固なところも家族には見せていましたが、穏やかで、お酒や甘いものが好きで、ダジャレばかり言っていた姿が思い出されます。」との一文を寄せた。

弁慶茶屋(べんけいちゃや)
北国街道最大の難所として知られた米山三里の亀割坂、その坂上(柏崎市上輪新田)にあった茶屋で、義経弁慶伝説にちなみ「弁慶の力餅」を「源氏の白茶」(白湯)とともに提供した。茶屋の主人が胞姫神社縁起を語ることでも知られ、十返舎一九の『金草鞋』にも「今に、その胎衣(えな)を埋めし所とて、胎衣の社、産湯の池というあり。」として「この所の茶屋にて、弁慶の力餅という餅を売る。主人親父、旅人を見かけて、その由来を物語りする。」と紹介される。ここでの狂歌「弁慶の力餅売る親父こそ垢だらけにて武蔵坊なれ」は果たして宣伝になったのか。歌川広重の名所絵(山海見立相撲 越後亀割峠)にも登場するほどなので、当時から全国的に有名だったのだろう。江戸時代には2軒の茶屋があったとされるが鉄道の時代を迎えて一軒が廃業、もう一軒は亀割坂から胞姫神社下に移って営業を継続した。柏崎市上輪の広田和良家に残されていた茶屋の看板は新潟県立歴史博物館での春季企画展「旅つれづれ-江戸時代の旅と越後・佐渡の名所」(2010年)で展示され、話題を呼んだ。看板には「米山峠安さんちから餅(安産力餅)」の名称に加え「金剛杖で産清水を湧出させる弁慶像」がトレードマークのように描かれている。広田家の屋号は江戸時代からの家業にちなみ「茶屋さん」で、「この家に嫁いだころは、明治14年生まれの孫ばあちゃんが健在だったので、茶屋の話を聞かされた。毎日、ついたもちを亀割坂上の茶屋まで背負って上がるのが大変だったそうだ。長野・善光寺のご開帳の年には、茶屋の前に行列が出来るほど繁盛したが、忙しすぎて『早くご開帳が終わればよい』とこぼしたと聞く。茶屋をやめた時期、事情についてはっきりしたものはわからない。鉄道の開通(1897年)で街道を歩く人が激減し、やめたのではないか。」(広田チエ夫人)とのことだ。胞姫神社下に移って営業を継続した茶屋は上輪大橋(1965年開通)、米山大橋(1966年開通)などの大改修によるモータリゼーション発達で閉店したと見られる。郷土史家の笹川芳三は『続こどものために柏崎ものがたり』(1963年)で、子どものころの思い出を「茶屋で休むのが目あてでした。べんけいの力餅を売っているからです。えん台に腰かけて待っていますと品(ひん)のいいおばあさんが力餅をもりあげたオテショと、きなこをいれたオテショを丸ぼんにのせて持ってきてくれます。白いご石のような形ですべっこい餅でした。きなこにまぶしてたべながら見下ろすと、小杉から深い谷をつくって流れてきたはらい川が海に流れこむところで、上輪の集落がひと目に見渡せます。おみやげの力餅はへぎに包んでいただいて、ヨナヒメさんへおまいりしましょう。エナヒメというのが正しいのですが、ヨナヒメとなまって呼んでいました。」と述懐している。なお、「弁慶の力餅」は米山コミセンの復刻プロジェクトで2010年に復活した。

弁慶の硯石(べんけいのすずりいし)
柏崎の弁慶伝説の一つ。『柏崎市の伝説集』では「石の中に細い穴があり、その中にたまった水が真夏でもへらないで、眼病をなおすといい伝えられている。丸の中に阿弥陀の梵字がある。明蔵寺、大乗寺、妙行寺、万福寺等の古寺があった古地であるから、その礎石であろう」(弁慶の硯石)とするとともに、「この硯石、一説に『義経の硯石』ともいう。」「この石一名『弁慶の投石』というものあり。仏塔の中心礎石であろう。」とも伝える。『昔の話でありました』第三集「すずり石」では「昔弁慶がここを通った時清水を掘りあてました。弁慶は持っていたほらがいで、この水をすくっては飲みすくっては飲み何べんも飲んだ後ほらがいに残った水をこの石の上にあけて墨をすりその墨で『御主人義経様の御運が開けますように』という願い文を書いて八まん様に奉納したと言われていました。その墨をすった後がくぼんでそこにはどんな日でりの夏でも決してひあがることがないという水がいつでもたまっていました。そしてこの水で目をたでるとどんな重い目の病気でもきっと『なおる』と言われていました。」「七へん目の水で目を洗った時ぼんやりとすずり石が見えました。『おやッすずり石が見えたぞッ』おばばは驚きの声をあげておどる心をおさえながらなおもじっくりとすずり石の水を見つめていると水の底がきらきら輝いてそれが地蔵様のお姿になりました。水底にお地蔵様のお姿を見た者は必ず目がなおると言われていました。」と由来、霊験を具体的に記述する。柏崎市東の輪町の民有地に現存し「市指定文化財史跡塔の輪心礎石」の標柱がある。

弁慶の力餅(べんけいのちからもち)
柏崎に残る義経弁慶の代表的伝説。「かめわり坂」(上輪~上輪新田)での義経北の方出産にまつわる伝説で、同地の胞姫神社縁起ともなった。柏崎市教育委員会の『柏崎市伝説集』では「かめわり坂」「うぶゆの井戸」「よなひめ神社」を一括し「上輪地内に『かめわり坂』という地名がある。上れば見渡し広く、平な所に茶店があって、義経公の記念といって『力餅』を売っている。」「道から50間(90メートル)へだてた水田の中に『産水(うぶみず)』といって水がわき出ている所がある。義経の北の方がここで出産した時、弁慶がこの水で産湯(うぶゆ)をつかわしたという。近年高田の城主榊原家から石の井筒と『産所の跡』という石碑をおくられた。」「向いの山林の中に胞姫権現という社がある。」などと簡潔に紹介する。一方、『昔の話でありました』第1集ではこれらを繋いでストーリー化、「上輪のかめわり坂という峠にさしかかった時、義経の奥方が産気づかれました。家一軒もない峠の事とてみんなあわてて困ってしまいました。大きな木の下に敷き皮をしいてそこでお産をすることにしました。(略)ところがそこは山の中で生まれてくる赤ん坊を洗いきよめる水がありません。」と状況を説明した上で、産清水について「けらいの弁慶は何やらお祈りをして『水のある場所をお教えください』と叫んで持っていた杖を『えいっ』と空中高く投げました。杖は小鳥のように上輪新田の方へとんでいきました。(略)『かッ』と大きな音がして杖は大きな岩につきあたりました。『こここそ神様がお知らせくださった場所にちがいない。』『よいしょッ』弁慶が満身の力をこめて、その大岩をころがすと思った通り岩の下にはきれいな水がこんこんとわきでていました。」、胞姫神社について「そばにあった小さなほこらの前に義経もけらいも集まって『どうかごぶじでお子様が生まれますように』と、神様にきこえるように声高々と一心にお祈りいたしました。いつかみんな顔にはあぶらあせがにじみ出てたらたら流れだしました。真夜中になって『おぎゃあ』という力強いうぶ声がきこえました。(略)子どもが生まれる事がこんなにすばらしいなんて誰も思ってみなかった事です。ゆうべお祈りしたほこらのそばにかめつる様のえなを埋めました。」、さらに弁慶の力餅について「『かめつる様が力持ちになられるよう餅をついてお祝いしようじゃないか』けらいの一人が言いました。(略)ぼうず頭にはちまきをした弁慶はひょうきんなかっこうをして餅をつきました。『アハハハハハ』『ウファファファファ』『弁慶の力餅だ』『ぺったん』『ぺったん』」などと具体的に書いている。なお地元には「出産の際、弁慶が懐から餅を取り出して北の方に献上した」(義経公北方御産所傳記)とも伝わる。

「弁慶の力餅」復刻プロジェクト(「べんけいのちからもち」ふっこくぷろじぇくと)
難所として知られた米山三里の亀割坂、その坂上(柏崎市上輪新田)には弁慶茶屋があり、茶屋の主人や老婆が義経弁慶伝説を語りながら「弁慶の力餅」や源氏にちなむ「白茶」(白湯のこと)を旅人に出すことで知られた。この「弁慶の力餅」を復活させようと米山コミュニティセンターが取り組んだ2010年のプロジェクト。古い文献を調べ、古老からの聞き取り調査も行ったが、江戸時代の力餅の味や形についての詳しい記録は見つからず、胞姫神社参道下に茶屋が移転した明治時代以降についても茶屋の経営者が何度か変わり、その都度味も変わったことから再現は難航した。「いっそ江戸時代のものを再現しよう」ということになり、当時手に入ったと思われる材料を使って作る方針で「ふわふわ感を出すために里芋を入れる」「きな粉を石臼で挽く」などこだわりながら再現した。米山コミセン茶屋やイベントなどで提供し好評。茂田井信彦会長は一連の活動を「茶屋も、弁慶の力餅も、覚えている人が相当高齢化して、今掘り起こしておかないと、永久に復活できなくなると考えた。懐かしく感じたり、驚いたりと、様々な反応があった。そういう点ではタイムリーな復活だったと思う。米山地区ならではの発掘になった。」と話している。

【ほ】
謀殺された八石の殿さま(ぼうさつされたはちこくのとのさま)
1993年、おらが村の昔語り第3集として中鯖石郷土史クラブが発行。同地域には「土地の人から大変敬われた八石の殿さまが隣の北条城の毛利丹後守によって謀殺された」「落城日の毎年4月18日(旧暦の3月18日)は殿さまが殺された日でその魂がさまよっているから、八石山に登ると崇りがある」「殿さまの死後、大きな火の玉が音を立て北条城下を飛びかい、これを普光寺の住職が雷休権現(らいきゅうごんげん)として祀り、鎮めた」といった伝説がある。史料の少なさを想像力で補いながら「謀殺事件は天正以前にあったが、その後善根毛利の誰かがお家を再興して天正年代まで続いた。そして御館の乱の時廃亡した」「謀殺事件によって善根毛利が根絶したとすれば、浄広ゆかりの浄広寺が現在まで大きな力で存続するとは考えられない」「浄広と周広は、毛利氏伝統の『広』の字がついているから、家老ではなく嫡流の親子と考えるのが自然。北条で殺されたのは八石城主の周広で、この時父の浄広はこの世にいなかった」などとし「三つの仮設」を立て事件の真相に迫っている。また、終戦直前に陸軍参謀本部が八石山を調査した際、ある将校が「八石山は(楠正成が籠城戦を展開した)千早城とそっくりだ」と述べたことについて、「楠正成に軍学を教えたのは越後毛利2代の(毛利)時親であり、八石城は時親が南条に居た頃築城したのでは」と夢を広げている。

僕は「しま・あきひと」のつもりなのです(ぼくは「しま・あきひと」のつもりなのです)
島秋人が獄中から窪田空穂に宛てた1962年7月17日付書簡で自らのペンネームについて言及した一節。同書簡は『遺愛集』には未収録で2005年に窪田空穂記念館で開催された「ある死刑囚の短歌と空穂-『遺愛集』(島秋人著)が語りかけるもの」で初公開され、作歌への思いが凝縮されていて注目された。島秋人は「ペンネームは色々と呼ばれますけど僕は『しま・あきひと』のつもりなのです。『タイム』には『あきと』となり、『大法輪』では『しゅうじん』となります。正しくはどう読むのか文法的にはわかりませんが名の原因をなすものは故里の町が島町であったこと、香積寺の前に家が有って香積寺内に秋葉神社と云う小さなお宮が有って町内ではふつう秋葉さん『あきばさん』と云って居ったので秋をとりました。人は『ひと』、(正しい人)にかえる様にと云う意味です。だから僕は島秋人は「しま・あきひと」だと思ってゐるのです。」としたうえで、後段はその香積寺・田辺住職からの激励にも触れ「歌は悪人の心をも変える不思儀なものです、学力のない僕が人なみに近い短歌を詠めるとは僕の以前を知ってゐる人は考えられないらしく中には云はば山下清みたいなんだろうとも云います。僕には明日はかならず歌が詠めると云う自信はありませんが心のままに短歌らしいものをぽつりぽつりと詠みためて居ります。そして処刑移送になっても処刑台の上に立つまでは毎週毎日歌壇に投稿を続けたいと思って居ります。」と心境を綴っている。島町は1966年7月1日の第2次住居表示実施で「柏崎市西本町3丁目」などに変更され、現在は「島薬師」などとして一部に名が残るのみである。なお、島に短歌をすすめた吉田絢子の最初のお手本は「少年期を過した家の前の香積寺とそのお住職様を読んだ短歌三首」(『遺愛集』あとがき)だったという。この他、公開書簡には「数葉の写真(師の一家のくじらなみ公園キャンプ場での一日を写したもの)によって昔と変らない故里を知り…」(1962年9月12日付、師は吉田好道のこと)、「子供の頃柏崎市の極楽寺と云うお寺に古い梅の樹があって紅梅、白梅の花の美しさと樹皮に生えてゐたコケにふくむ光りが清しく…」(1963年3月5日付)など柏崎がたびたび登場する。

北陸新幹線ダブルの日(ほくりくしんかんせんだぶるのひ)
トラベルミステリーの第一人者・西村京太郎による550作目の著作。北陸新幹線上越妙高駅開業に向けた関連5市PRプロジェクトの一環として開催されたトラベルトークショー「越五の国、柏崎を想う」(2013年9月29日、柏崎市産業文化会館)に出演した際、「柏崎が舞台になった新作を書きます」と発言、その際に「鯛飯、鯛茶漬けを(小説のなかに)出したいですね。もずくがドンと出てきたのには驚いた。(長く暮らしている)京都では料亭でしか出ない貴重品。柏崎は豊かな町なんだと実感した」「(捜査の舞台となる)柏崎署も見てきました。何階建てなのか、色は何色か。これをやっておかないと、ウソを書いてしまうことになる。だから、必ず警察署を見ることにしている」などと話していた。この実現が十津川警部シリーズ『北陸新幹線ダブルの日』で、徳間書店「読楽」2014年4月号から10月号にかけ連載、同年12月には単行本になった。

誇り、語り継いでいきたい柏崎陣屋(ほこり、かたりついでいきたいかしわざきじんや)
柏崎陣屋の歴史、周辺史跡を紹介するため大洲地区振興会(大洲コミュニティセンター)が2014年に作成したリーフレット。「寛保元(1741)年、高田藩主松平定賢(久松松平家)が奥州の白河藩へ移封されたとき、飛び地領である刈羽、三島、魚沼、蒲原、岩船の5郡(8万余石)を支配するため、越後領の総支配所として新たに柏崎市大久保の高台の地に築造されました。久松松平家は、その後に伊勢桑名へ移封されますが、この飛び地領はそのまま桑名藩が支配を続け、幕末までの約126年間この陣屋は存続しました。」と複雑な事情をコンパクトに解説、規模などについて「天保8(1837)年の絵図によると、東西180m×南北160m、約9000坪の広さを持ち、2段の地形を利用して築造され、その内部には、自藩領を支配する御役所、天領を預かる御預役所、各郡代官の詰める刈羽会所などの諸役所、また郡代を筆頭に50人余の役人とその家族の居住する長屋などがありました。ほかにも学問所、火術細工所、馬場、弓術場、稲荷社等がありました。」と説明する。この他、松平定敬(幕末の桑名藩主、京都所司代)、藩士の墓(勝願寺、極楽寺)、勝願寺に伝わる松平定敬拝領の陣笠、生田萬の乱と藩士長屋の刀傷、『柏崎日記』と『桑名日記』などについても紹介している。翌年、旧北国街道(県道柏崎港線)沿い、新田坂途中の陣屋大門付近に紹介パネル看板が設置された。

北国街道(ほっこくかいどう)
新潟県歴史の道調査報告書第二集『北国街道Ⅰ』(新潟県教育委員会、1991)は「北国街道は近世五街道の一つである中山道追分宿から分岐し、越後高田城下までをさす。はじめは福島城下までをさしていたが、慶長19(1614)年高田築城とともに高田城下までとなった。その後、佐渡に通じる街道として重要度が高まり、渡海場である出雲崎まで延長して呼ばれるようになった。」と定義、「幕藩体制下の北国街道は、佐渡産金の輸送路として、また北陸諸大名の参勤交代路として伊勢路や中国路とともに五街道につぐ重要な街道として位置づけられる。中山道の追分宿から分かれ、野尻宿から関川を越えて越後国内へ入り高田城下を経て出雲崎までを連絡していた。」と説明する。「北國街道の手をつなぐ会」が研究対象としているのも追分宿から出雲崎間だ。柏崎市内の北国街道調査を行った新潟県歴史の道調査報告書第五集『北国街道Ⅱ』(新潟県教育委員会、1993)では、「第三節鉢崎・鯨波」で国道8号-JR米山変電所前-米山町-鉢崎関所跡-県道-上輪-払川渡河-亀割坂登坂-旧国道8号-国道8号-JR笠島駅-村道-国道8号-青海川-米山大橋の少し上流で渡河(河口渡河ルートもあり)-国道8号-米山三里・旧道松並木-逆川道標-国道8号-鯨波3丁目-前川橋-JR鯨波駅裏-東の輪町-御野立公園-番神2丁目-下宿橋-閻王寺跡-弘法井戸-中浜2丁目、「第四節柏崎」で中浜2丁目-県道柏崎港線-大久保2-勝願寺、豊洲神社前-虚空蔵寺前(青面金剛像等)-鵜川橋-水道橋-五(御)坊小路-西本町通-ねまり地蔵-立地蔵-石井神社前-牛つなぎ石(旧池田家門前)-東本町商店街-閻魔堂-東本町交差点左折-諏訪町(不動明王)-桜木町-鯖石川渡河(悪田の渡し、1854年以降は安政橋、諏訪町から大和町へ右折する内陸部ルートもあり)と街道の確定を行っているが、鯨波3丁目以降の明快さに比べ、米山三里周辺は些か大雑把である。これは「4キロごとにあるはずの一里塚が改修や災害で失われ、さらに山中の田畑が耕作放棄されたため峠道がわからない」といった事情からで、北国街道手をつなぐ会の黒﨑裕人によれば「米山三里を確定するのは至難の業。まだ3分の1くらいしかわからない。」という。なお市内では北国街道を「奥州道」「上方道」「高田道」など様々な名称で呼んでいたが、これについて郷土史家の新沢佳大は「旅人にとって、道標は住居表示と異なり、道がどこへ通じているかが重要である。これが様々な呼び名の生まれた理由である。たとえば、北国街道の西へ向う道標は京都や金沢へ通ずる意味で『上方(かみがた)道』や『加賀街道』と書かれ、東へ向う道標は佐渡や奥州へ通ずる意味で『佐州路』や『奥州路』と標示されて四ツ辻や町角に建てられていた。」(柏崎刈羽35号、竹村市之丞の「鉢崎関所勤め方日記」-翻刻と読み下しを終えて)と説明する。

北國街道と佐渡金銀山荷揚げ地出雲崎宿(ほっこくかいどうとさどきんぎんざんにあげちいずもざきしゅく)
越後出雲崎天領の里館長の三輪正が北國街道の手をつなぐ会の平成29年度総会(会場・出雲崎町)で行った講演。三輪は「佐渡の金が正式に運ばれたのは相川の金銀山が発掘された1601年、関ヶ原の戦いの翌年で、幕府が出雲崎に陸揚げすることに正式に決め、現在の金銀御用小路(伊勢町)の入り口当たりに揚げた。出雲崎は幕府にとって非常に大事な場所となり、1616年に幕府直轄となり出雲崎代官所が置かれ、平均で7万石くらいの領地を支配した。江戸前期は非常に多くの産出があったので、金の行列は多い時で年に2回、3回、少なくなって途中から年に1回となった。出雲崎周辺の村々に助郷の割り当てがあり、現在でも『中山村佐州附』(出雲崎町中山)といった幟が残っている。」としたうえで「春を中心に一番穏やかな時期に運んだという記録が残っている。渡海の際は千両箱に300尋(尋は大人が手を広げた長さ)の綱、浮きを着け、万が一沈没しても後から引き上げられる仕組みになっていた。陸揚げ後の輸送は、高田で大地震が起こった時に一度三国街道を通ったのみで、それ以外は全て北国街道を運んだ。」「御金蔵の位置は当時の名主橘屋、良寛さんの生家であり現在は良寛堂になっている場所にあった。当時は敷地が(現在の良寛堂の)3倍くらいあったと言われており、その裏にあった蔵を使ったのが最初の御金蔵と伝わり、その後天領の里すぐ近くに移転した。」などの話題を提供した。

北国街道と鉢崎関所(ほっこくかいどうとはっさきせきしょ)
郷土史家の新沢佳大が2011年に米山コミュニティセンターで行った講演。北国街道の手をつなぐ会平成23年度総会の記念講演として行われた。新沢は慶長2(1597)年の越後国頸城郡絵図に「関所木戸」が描かれていることについて「(柏崎側でなく)高田寄りに描かれているため(関所とは)違うのではないか、関所ではないのではないかという見方もあるが、歴史的な前後関係、俯瞰図としての性格を考慮すると、多少の位の誤差は許容でき、慶長2年には関所が出来ていたと考えるのが妥当。なぜ、鉢崎に関所が設置されたかについては、この海岸線が口碑による源義経草分けの道から始まり上杉謙信の時代、上杉景勝の時代を通じて非常に戦略的な意味があった。」としたうえで、「(上杉謙信の後継者を争った)御館の乱で勝敗を決めたのは米山峠と旗持山の攻防戦だ。柏崎は上杉景虎方の拠点で、主将として御舘に入り戦っていた北条景広への救援物資を、旗持山の城将である佐野氏、蓼沼氏が阻止したのが大きい。御館の乱に勝利した景勝が、戦略的重要性から旗持山下の八(鉢)崎に関所を作ったのではないか。全国53関所の一つとなった江戸時代においては、通常の関所機能である出女入鉄砲に加え、佐渡の金荷通行も大きな役割を負った。」などと説明した。終了後、鉢崎宿に残る関所跡、松田伝十郎生家、芭蕉が泊まったたわら屋跡、御金蔵跡などを視察した。

北國街道の手をつなぐ会(ほっこくかいどうのてをつなぐかい)
江戸時代、佐渡の金銀を江戸に運んだ北國街道(長野県軽井沢町~新潟県出雲崎町、32宿)の沿線関係者が連携するため1995年に結成された。「共通の歴史的つながりである北國街道を通じ、その歴史・文化の継承・保存及び復活に務め、豊かな街づくりを考え、地域文化の発展に寄与するとともに、会員相互の親睦を図る」(会則第2条)のが目的で、年に1回総会を沿線各地で開催、会誌「北國街道研究」を発行している。事務局は「追分宿」の長野県軽井沢町。柏崎市からは鉢崎宿、柏崎宿、椎谷・石地宿の関係者が参加し、2005年(青海川・米山三里)、2011年(鉢崎宿)、2015年(椎谷宿)、2019年(柏崎宿)に総会が開催されている。

北国街道米山三里旧道道標(ほっこくかいどうよねやまさんりきゅうどうどうひょう)
道の駅「風の丘米山」(柏崎市青海川ワカサレ、休止中)の第2駐車場下にある道標。通称「逆川道標」。高さ104センチ。正面に西行法師像、左側面に「右ハかみがた道(北国街道)」と刻まれる。建立年代は不明。「北国街道米山三里旧道道標及び松並木」として柏崎市文化財指定。「ここは頸城と刈羽の郡境にあり、桑名・高田両藩の境界でもあった。出雲崎からの佐渡金銀はここを経て高田藩に引き継がれたのである。」(柏崎市の文化財)と説明され、幅1メートル位の沢道が旧道の俤を残していたが、1980年に6メートル道路に改修され、松並木の一部と道標のみとなった。

没後150年貞心尼と魅せられた人びと(ぼつご150ねんていしんにとみせられたひとびと)
貞心尼没後150年の2022年、柏崎市立博物館で開催された企画展。「貞心尼とその事績」「貞心尼を支えた人びと」「貞心尼を顕彰した人びと」の構成で、柏崎市文化財『はちすの露』をはじめ柏崎市内外に現存する貴重な遺墨を展示。門外不出とされた『もしほ草』(柏崎市若葉町・極楽寺蔵)公開でも話題になり、新たに存在が確認された良寛の里美術館蔵の『焼野の一草』を柏崎市立図書館本と比較展示、「新たな『焼野の一草』が見つかったことにより当初は複数が存在していたと考えられるようになった。直筆の歌集が複数見つかったことで、今後貞心尼の歌集の制作方法や伝わり方などについての研究が進むことも期待される」とすると共に、2冊の差異について「良寛の里美術館本の方が内容が若干詳しく(長岡を訪ねた理由について、柏崎市立図書館本は『親の墓参り』とするのに対し良寛の里美術館本は『親の27回忌』とするなど)、柏崎での八木大火を知った日についても『翌日』(柏崎市立図書館本)、『2日後』(良寛の里美術館本)といった文字や記述の相違が見られる」と解説した。さらに中村藤八や関甲子次郎、堀桃坡、上杉涓潤(艸庵)、木村秋雨、相馬御風ら貞心尼の事績を語り継ぎ、顕彰した先人たちにも焦点をあてながら、貞心尼の魅力を柏崎の文化風土とともに伝えた。同年はアオーレ長岡(長岡市)で「貞心尼没後150年忌良寛の愛弟子貞心尼展」、良寛の里美術館(旧和島村)で「貞心尼没後150周年展和島は良寛と貞心尼の出逢いの地」といった関連展が開催され、いずれも柏崎市から『はちすの露』が貸し出された。

北方経営の先覚者-松田伝十郎物語(ほっぽうけいえいのせんかくしゃ-まつだでんじゅうろうものがたり)
郷土史家・前澤潤による松田伝十郎の初の本格的伝記。1975年に自費出版。前澤は元教員で、米山中学校在職時に松田伝十郎顕彰碑が聖が鼻に建立されたことを機縁に伝十郎の研究をはじめ、退職記念として同著を刊行した。「郷土の偉人伝十郎について、郷土の誰一人としてさだかに知っている人がありませんでした。伝十郎と同行した間宮林蔵の活躍は何冊かの書物となり、その郷里には立派な記念館もあるというのにと思うと、まるで自分の責任でもあるかのように感じ、それから暇を見つけては資料を尋ね、文献をあさりつづけてきました。伝十郎の人物がわかって来れば来るほど、その誠実さ、忍耐強さ、その抱擁力の大きさに全く頭の下る思いがし、この人こそ典型的柏崎人であり、この人こそ柏崎が世に誇ってよい人物であると信じました。」(まえがき)と経緯を述べたうえで、おいたち(関所の町鉢崎で)、江戸へ(松田家へ養子)、北方の動向(ロシアの南下)、第1回渡航(政徳丸に乗り込んで)、第2回渡航(エトロフ島での越冬)、第3回渡航(ロシア船の襲来)、カラフト奥地探検(カラフトを離島と見極む)、第4回渡航(北方警備の最前線)、第5回渡航(山丹交易)、第6回渡航(江差経営)、第7回渡航(蝦夷地あけわたし)、晩年の伝十郎の各章でこれまでよく分からなかった伝十郎の生涯を明らかにし、巻末資料として松田伝十郎探検報告書、関係年譜、関係資料一覧を掲載した。前澤はあとがきで「伝十郎を夢に見つづけて、やっと一応のまとめをつけることが出来ました。(略)誰にも読みやすくと考えて物語風にしました。それだけに史実的に見れば物足りなく不徹底の謗りはまぬかれません。どうかこの上とも郷土の多くの方々の力で松田伝十郎伝が作られますことを、切に切に祈ってやみません。」と締めくくっている。

北方探検の先駆者松田傳十郎(ほっぽうたんけんのせんくしゃまつだでんじゅうろう)
1994年に柏崎市立博物館で開催された第27回特別展。国立国会図書館蔵『北夷談』をはじめ、函館図書館蔵の「から婦と嶋奥地見分仕候趣奉申上候書付」(松田伝十郎)、「風聞書」(同)、「から婦と嶋奥地之義奉申上候書」(同)、「カラフト島見分仕候趣申上候書付」(間宮林蔵)、「カラフト嶋大陸地図凡例」(同)、北海道立文書館蔵の「唐太島見分記」(松田伝十郎・間宮林蔵)、松田伝十郎の正五位贈状など関係資料を網羅し、柏崎出身の松田伝十郎の存在を発信し、顕彰の機運を高めた。図録解説は子孫にあたる中俣満が担当、「間宮海峡は、松田伝十郎が第一発見者にもかかわらず、林蔵がいち早く江戸の天文方高橋景保に報告を送り、景保が『カラフトは島である』ことを書き、これがシーボルトに採用されて地図に間宮海峡と書き込まれた。そのため、間宮林蔵の名が世界的になり、伝十郎の名は埋もれてしまった。」と悔しがりながらも「伝十郎は、24年間もカラフトに勤務し、その間の事を『北夷談』に書き残した。その最後に『在府在勤とも長き年月の中煩いもせず皆勤せし事、是全く御威光故と、言語筆紙に述べ難し。さて又此勤役中取扱し事共綴りしは、伝十郎勤功を顕すためにはあらず。子孫へ伝えるため、愚意をもって其趣を書き残すもの也』と記している。伝十郎が探検の功を競うよりも、役人として真面目に与えられた責任を果たすことを心がけたかを窺う事ができる。」と揚々。

炎の天狐トチオンガーセブン 閻魔堂!地獄の大決戦!!(ほのおのてんことちおんがーせぶん えんまどう!じごくのだいけっせん!!)
ドラマシリーズ続編として新潟県柏崎市オールロケによる初の劇場版として製作。橋本一監督、星知弘主演で2018年公開された。柏崎市長の櫻井雅浩も「記者会見する市長役」で出演、閻魔大王に真夏竜(ウルトラマンレオ)、ナレーションを佐々木剛(仮面ライダー2号)が担当するなどプロデューサー・三井田孝欧の趣味と人脈が生かされた。「風光明媚な地方都市・新潟県柏崎市。海風が吹き抜けるこの美しい地で起こる通り魔事件。そして鬼の目撃情報。仲間を失い復讐心に燃える星狐太郎=トチオンガーセブンは宿敵を追って柏崎へとやってくる。そこで出会う地方の新聞記者・長浜瑞希と弟の一彦もまた両親を謎の通り魔に殺されていた。事件の影に蠢く蛇王一族の影。そして柏崎に根ざす閻魔信仰との繋がりが見え隠れする中、ついに地獄への扉が開く」(公式HP)とのストーリーで、笠島、恋人岬、薬師堂海水浴場、鬼穴、柏崎港、閻魔堂、みなとまち海浜公園、山室、西山ふるさと公苑で撮影が行われた。西山ふるさと館での特別試写会でトチオンガーセブン役の星は「附属高校時代お世話になった柏崎を特撮の力で盛り上げたいと映画を撮影した。柏崎フィルムコミッションにお世話になり、著名な橋本一監督のメガホンで素晴らしい作品になった。10月公開を楽しみにしてほしい。」と述べるとともに、「トチオンガーセブンを見る子どもたちには、正義の味方の生き様を通して、これからの社会でどんなものとも戦っていく勇気を学んでほしい。子どもたちにはこれからもふるさとを愛し、一生懸命生きることを学んでほしい。(人口減少、人口流出が問題となっているが)若い人がいったん大都会に行っても、ふるさとの素晴らしさに気付いてかえって来てほしい、というメッセージも込めた。」と強調した。柏崎観光協会はロケツーリズムを推進するため「柏崎ロケ地めぐりマップ」を発行した。

「捕虜」として延命をはかる(「ほりょ」としてえんめいをはかる)
武田英子(児童文学者)による1981年の著作『青い目をしたお人形は』は、全国各地に現存する「青い目の人形」にまつわる様々な物語を取材し、研究の嚆矢となった。柏崎の人形2体(ミルドレッドとシェラブラー)が処分を免れた経緯を調べるため痴娯の家の岩下鼎にも取材を行っており、「『捕虜』として延命をはかる」のタイトルで紹介される。武田は柏崎小学校校長の角張信隆から痴娯の家・岩下庄司にあてた依頼状について「そこには、まさかのばあい、人形の処置を詰問されたときの申しひらきのために、当事者がその責任と罪を問われないよう配慮がこめられている。」「この人形は、いわば敵国アメリカの『捕虜』だから、そちらへ収容しておいてもらうのである-という入念な策略である。」としたうえで、当時少年であった岩下鼎に事情や背景をインタビュー。岩下は「この人形は、父のほうから申しでて、角張校長から託されたのです。あのころ、どうもアメリカからきた人形が危い、あのままではすまないのじゃないかということで、それならうちに預かろうではないか、と父から申しでたのです。自宅の二階も三階も人形や玩具がぎっしりおいてあったので、べつにかくすということでもなく、そこにおいてありましたよ。」「父に預けた角張校長の見識は、りっぱでした。処分のことが、軍の命令か文部省の命令かは知りません。しかし、全国で一万二千あまりの人形がなくなったのですから、命令があったと考えられるでしょう。そういう時代でした。ファッショの時代だったのです。二度ときてはならない時代です。」と答えている。武田は「岩下鼎さんは、熱気をこめて語った。小さな人形をめぐって、角張校長と岩下さんが苦肉の策をねり、ひそかに書面をとりかわしたドラマには関心をひかれた。」と結んでいる。武田は1985年刊の『写真資料集青い目の人形』で全数調査の成果を紹介、ここでも「土蔵のなかのアメリカ人形」として2体が紹介される。

本田先生と綾子舞(ほんだせんせいとあやこまい)
綾子舞を見出した恩人・本田安次早稲田大学名誉教授と綾子舞の関わりを、「綾子舞応援団長」として知られる須藤武子(日本民俗舞踊研究会代表)が綾子舞ユネスコ無形文化遺産登録記念事業実行委員会の依頼でまとめた貴重な証言。2024年刊行の登録記念誌「AYAKOMAI 世界へ」に掲載された。本田と綾子舞との出会いについて「本田先生が女谷に向かうきっかけとなった『綾子舞見聞記』ですが、皆さんもご承知のように、この小冊子は小さいし、薄い。演博の書庫で多くの本に埋もれてしまうところでしょうが、これを先生は手に取ったのです。結果として、当時危機的な状況にあった綾子舞を救うことになったことを考えますと、やはり奇跡、もしくは天啓としか言いようがないんです。」と振り返るとともに、本田の民俗芸能に対する基本的な姿勢は英語教師として赴任した宮城県石巻時代に確立されたのではとし「石巻に赴任し、そこで20年間、教師を続けながら、休日には民俗芸能を訪ね歩いたそうです。そのもととなったのが大学1年生の時に、日高只一教授らと埼玉県の秩父神楽を見学したこと。先生の兄貴分である小寺融吉氏と出会ったのもこの時だそうです。英文科の学生ですので演劇の参考になろうかと参加したそうですが、これが縁で『民俗藝術の會』に参加し、そこで柳田國男先生や折口信夫先生にもお会いすることになったそうです。」「石巻赴任では『宝庫』ならではの多彩な芸能との出会いがあり、とりわけ岩手県花巻市の早池峰神楽に魅了されたそうです。先生は休日ごとに東北各地を訪ね歩いては芸能の見学と伝承者の話の聞き書きを続け、それらの成果を自分だけの資料にしておけないと民俗藝術の會の機関誌『民俗藝術』に投稿していたことが母校早稲田の河竹繁俊教授の目にとまり『(秩父神楽のときお伴した)日高教授が定年退職するので、その後を継いで文学部で講義をしないか』とお誘いを受けることにつながったそうです。」との秘話を披露。また「先生にとって、綾子舞は特別な存在だったと思えるんです。(略)綾子舞の現地公開に行く前には必ず本田先生のところをお訪ねし『綾子舞を見に行ってきます』とごあいさつし、東京に戻ると再び訪問し現状や課題、座元の皆さんの近況などを伝えるようにしていました。奥様(まさ夫人)に後で聞いた話ですが、綾子舞現地公開の報告を聞く本田先生は『いつもの先生』ではないんだそうです。応接間に通され綾子舞の報告をすると先生はニコニコし、ホッとした表情をされました。一瞬ですが少年のような表情になるんです。」といったエピソードを紹介し「本田先生は常に伝承者とともにいた。常にそちら側にいた、その中にいた、と言ってもいいかもしれません。伝承者と同じ目線で向き合い、その気持ちや立場に立てる人だったと思います。その姿勢には多くを学ばせてもらいました。多くの学者、先生と呼ばれる人たちにお会いしましたが、民俗芸能を伝承している人たちの気持ちや立場に立てる学者さんはまずいない。本田先生のような方は極めて少ないんです。先生はいつも静かに正座して御覧になられ、終わると必ず『皆さんご苦労様でした』と声をかけられました。これが終生変わらぬ本田流でした。日本を代表する学者ではあったけれど周囲を緊張させない先生でした。柔らかい空気を醸し出す先生でしたね。」と結んでいる。

本田安次(ほんだやすじ、1906-2001)
福島県出身。早稲田大学教授、日本民俗芸能協会会長などを務めた。全国の民俗芸能を踏査研究し、『日本の民俗芸能』(全5巻、木耳社)、『本田安次著作集 日本の傳統藝能』(全20巻、錦正社)など著書多数。「綾子舞を世に出した人」「綾子舞の恩人」として知られる。桑山太市の『綾子舞見聞記』を契機に1950年に綾子舞調査で初めて鵜川入りし、「よくまぁ、こういう山里に残っていた。どうして知られなかったんだろうと驚いた。古歌舞伎踊りの面影を一番良く残しているんじゃないか」と感激し、「危ない瀬戸際」との認識のもと、その後もたびたび鵜川に調査に訪れるとともに、国をはじめとした関係者、関係機関に働きかけ、綾子舞の国重要無形民俗文化財指定(1976年)の大きな原動力となった。1951年に東京で開催された第2回全国郷土芸能大会への綾子舞出演にも奔走、「会場で綾子舞をみた折口信夫が、本田か藤田(徳太郎)が昔の歌舞伎踊そっくりにアレンジしたのではないかと疑ったほどだった。」とのエピソードが残る。1995年には、民俗芸能の分野から初めて文化功労者に選ばれた。綾子舞について語る最後の機会となった「古典芸能綾子舞を観る」(1997年、東京)では、「随一の文化財として本当に良いものが日本に残った。皆さんが頑張っている様子をうれしく思う。立派な日本の文化財を後世に残してください」と述べた。

【ま】
巻口文庫(まきぐちぶんこ)
郷土文学研究家の巻口省三(刈羽村正明寺)は刈羽村立図書館に貴重な郷土資料や文学書など221冊を寄贈、同館では「巻口文庫」と名付け2019年から公開している。巻口は若い頃から文学に親しみ、特に地元ゆかりの文学作品、作家についての研究を続けてきた。また文学好きの仲間と共に「詩歌を楽しむ柏崎刈羽の会」を結成し、柏崎市内外で朗読公演を行い文学の楽しさ、魅力を発信しながら「萩原朔太郎詩碑」建立を実現した。寄贈した中には、柏崎出身作家で三島由紀夫の文学上の弟子だった宮崎清隆の『憲兵』、高柳町出身の若山三郎『ぼくのふるさとみどり村』など手に入らないものも多く、地元郷土史家の磯貝文嶺、桑山太市、笹川芳三、田村愛之助、前澤潤らの労著もあり、地元色、郷土色が濃厚。巻口は「中でも柏崎ゆかりの作家である若山三郎『ぼくのふるさとみどり村』、石黒敬七『随筆集蚤の市』、島秋人『遺愛集』などはぜひ手に取っていただきたい本です。」と話している。

マスオさんの日本家族考(ますおさんのにほんかぞくこう)
国民的テレビアニメ「サザエさん」のマスオさん役で知られる声優の増岡弘が2002年に柏崎市で行った講演。柏崎刈羽グラフィティ展(柏崎地域ニューにいがた里創プラン事業)の記念講演として行われた。副題は「サザエさん一家は幸福みつけの達人ぞろい」。「サザエさん」が長寿番組となった背景について「サザエさんは飲みごろの日本茶のような番組。熱くもなければ、ぬるくもない一服のお茶。日本茶の良い味のなかで、家庭のあり方や幸せをさらっと教えてくれる。家族そろって安心して見る番組が少なくなったなかで貴重。」とし「多くの皆さんに見ていただいているので言葉を大切にすることを出演者全員で心がけている。人は、使った言葉の中に生きている。いい言葉を使えばいい生活に、悪い言葉を使えば残念ながら悪い生活になる。当たり前のことだ。言葉にも心にも温度があり、全ての言葉は相手に対するプレゼント。大事にしてほしい。」と続けた。「30年後のマスオさん」を即興で演じるサービスもあり盛況。

まちしるべ事業(まちしるべじぎょう)
柏崎青年会議所が1997年から10年間をかけ柏崎市内の史跡や名所50か所(うち1か所は刈羽村)に、ふるさと再発見の一環としてモニュメントを設置した事業。鎌倉町青年団(神奈川県鎌倉市)の石碑事業を参考にした。1番「かしわの大樹」から50番「米山の伝説」まで、地域の自然、歴史、文化、偉人、伝説などを取り上げ、地元でも取り上げられることの少なかった番神出身の力士・番神山(ばんしんざん)政三郎や未完成に終わった藤井城などに光を当てた。2010年度には50基建立を記念し、まちしるべかるたも完成している。

松平越中守家(まつだいらえっちゅうのかみけ)
江戸時代の柏崎を治めた大名家。藩祖は徳川家康の甥にあたる松平定綱。もともと桑名藩(三重県)を治めていたが「野村増右衛門事件」をめぐって1710年に高田藩に移封。さらに1741年白河藩(福島県)へ移封となったが、この際、良質米の生産地だった柏崎を含む6万石の越後領を分領とし、広大な飛び地支配のため大久保の高台に柏崎陣屋が築かれた。さらに、松平定信の子・定永の時代に藩祖の旧地である桑名に復封(1823年)となった。白河・桑名両藩の飛び地支配は126年にも及び「藩主の直接支配を受けなかったことで自由闊達な気風と独自文化を形成した」と言われている。桑名市・鎮国守国神社の嵯峨井和風宮司は柏崎市での講演「松平越中守家と柏崎」(2002年)で「柏崎刈羽などの越後領は、白河、桑名時代の本領とほぼ同等か、それ以上の石高を稼いでいた。今の言葉でいえばドル箱。だから国替えの際も、ここを放したくなかった。藩の半分が飛び領地というのは全国的にも珍しいのではないか。」「柏崎は、藩にとって江戸の上屋敷、下屋敷に次ぐ重要拠点だった。出城がなかったことが不思議なほどで、大久保に設置された柏崎陣屋がその役割を果たした。出城でなく陣屋であったことが、独特の伝統や風土を生む背景になった。」と解説した。

松平定敬公本陣跡(まつだいらさだあきこうほんじんあと)
勝願寺(柏崎市大久保2)に柏崎青年会議所が2001年に設置したまちしるべ。本堂前に建つ。「松平定敬は幕末の桑名藩主で、1864年から4年間京都所司代を務め、15代将軍・徳川慶喜や実兄で京都守護職の松平容保、新選組とともに、動乱の時代を駆けぬけました。鳥羽・伏見の戦い後、江戸へ脱出した定敬は、桑名藩の分領である柏崎に入り、ここ勝願寺に本陣を敷いて鯨波戦争が開戦、さらに会津若松や函館・五稜郭へ転戦しました。」と波乱の生涯を振り返るとともに「戦死した藩士の追悼に心を砕き、法要のため三度勝願寺を訪れ、戦没碑を建立しています。同寺の山号額をはじめ、柏崎小、比角小の校名額も定敬が書いたもので、晩年は日光東照宮宮司を務めました。」とある。

松平定敬の来柏(まつだいらさだあきのらいはく)
松平定敬は幕末の桑名藩主で京都所司代。京都守護職の会津藩主・松平容保は実兄。ともに幕末の京都の治安を守ったが、王政復古(1867年)で突如解任された。柏崎市史は「(京都所司代任命は)兄容保の推薦といわれ、文久2年以来京都守護職に在任した容保の女房役として最適のコンビであった。京都所司代は禁裏の警衛・監視、京都の警戒、西国大名の監視など幕府重要職の一つであるが、尊攘志士の暗躍が激化するに及んで、京都守護職を京都所司代の上位に新設して京都の警備を強化したものである。したがって守護職・所司代を藩主とする会桑2藩は尊攘志士と相対立する立場にあり、8月18日の政変や蛤御門の変では会桑2藩と薩摩藩が連合して長州藩を宮門から排撃したが、王政復古の今日、形成逆転して宮門の警備を解かれた」と当時の情勢を解説する。鳥羽・伏見の戦い(1868年)での幕府軍惨敗を受け、大坂城から密かに脱出した将軍慶喜に伴い海路江戸に帰城、深川の霊巌寺(松平定信らの墓がある菩提寺)で謹慎、その後柏崎へ向かい風雲急を告げることになる。定敬の来柏(1868年3月30日)については柏崎市史が「(水戸で謹慎した慶喜を見習い)定敬もまた分領越後の柏崎に退隠する決意を固めた。」「(1868年)4月に至るまでの定敬の心境は、慶喜の内意に体し、ただ謝罪恭順にあったようだ。」としているのに対し、桑名市史は「江戸は慶喜が水戸へ出発後、人心一定せず且つ地広く戦に便ならず、然るに分領越後柏崎は幕府よりの預かり地を加えると10万石を越え、人心も一和しているので本拠を構えた場合に軍備に欠ける処なく、又会津と気脈を通じる点に於て最も便利であるのでこれに赴くことになった」と抗戦への強い決意をもっての柏崎入りであったと分析する。定敬は品川沖からロシア船コリア号に藩兵100余人とともに乗船、津軽海峡を越えて新潟に上陸、江戸からの陸路組を加えた219人が陸路柏崎に入り、定敬は勝願寺(柏崎市大久保2)を宿所とした。この時点では恭順派が圧倒的だったが、吉村権左衛門の暗殺(閏4月3日)、立見尚文ら主戦強硬派の柏崎入り(閏4月11日)で形勢逆転、「主戦」に藩論を統一し同13日には入れ札(投票)で軍事体制を決定している。閏4月16日には「柏崎は藩主の根拠地として不適と判断」(柏崎市史)として預領の加茂に退去した。鯨波戦争は閏4月27日に開戦。その後定敬は会津、米沢、福島、仙台、さらに松島湾から榎本武揚の軍艦で函館へと転戦、五稜郭陥落前に横浜の貿易商・金子寅吉(柏崎出身)の手配で上海に脱出した。

松平定信(まつだいらさだのぶ、1758-1829)
徳川吉宗の孫で第12代白河藩主。幕府老中首座として寛政の改革を断行した。隠居後の号が楽翁で、県立柏崎高校校歌に「楽翁公が旧治蹟/汲め白河のその流れ」と歌われる。同校の名物教員・橋本桂一の『熱血!ガリ版日本史』には「柏崎高校の校歌にも登場する人物。田安宗武の子から奥州白河藩主の養子になり、1783年藩主となるが、同年は全国的な大飢饉であった。飢饉に直面した定信は、自ら一汁一菜を実行し、藩士の減俸を行う。また、領民には藩の米を分け与え、不足分は物資を外から集めて切り抜け、以後、農政を重視していく」「1787年、江戸で天明の打ちこわしが起こり、その暴動のさなか、定信ははじめて老中として登城するが、質素な木綿の着物を身に付け、ごま味噌つきの弁当を持参したという。また、途中の行列も駕籠をわざとゆっくり進めさせ、行列に民衆が訴えられるようにしたという」「柏崎高校に定信の『忠孝』の書があるが、定信は、こうしたものを沢山書いて町人にやり、お礼を貰うことで、少しでも多くの金を集めようとしていた」との説明がある。椎谷藩の圧政を訴えるため江戸に出た天明義民の勝訴も、松平定信の公平な政治姿勢が大きく影響したと言われている。6年をかけた寛政の改革は志半ばに終わったが、七分積金制度などは明治時代まで継続、結果143万両が残され、東京府と東京都の庁舎建設、ガス事業、上水道、養育院建設などの公共事業に活用され、渋沢栄一は「東京の恩人」として感謝した。桑名市・鎮国守国神社の嵯峨井和風宮司は柏崎市での講演「松平越中守家と柏崎」(2002年)で、同神社の御祭神である松平定信について「天明飢饉の際に領内から一人の餓死者も出さなかったことが評判となり、8代将軍吉宗の孫でもあったことから老中待望論につながった。これは、越後領でとれた米の支援を受けたおかげであり、越後の米が老中・松平定信を誕生させたことにもなるのではないか。定信公は、白河の領民に大変慕われた人で、桑名に国替えの際に、農民たちが米を自主的に集め、餞別として殿様に贈った。過去にも領民から餞別をもらった殿様というのは定信公だけではなかったか。」と述べた。

松田伝十郎顕彰碑(まつだでんじゅうろうけんしょうひ)
「間宮海峡」の第一発見者・松田伝十郎の偉業を顕彰、発信するため米山町内会が1970年に旧国道沿いに建碑、2004年に生家に近い聖が鼻に移設した。台座含め高さ3.3メートル、重さ4トン。2007年の中越沖地震で崩壊したが2009年に再設置された。松田伝十郎は米山町の浅貝家出身で才能を見出され幕臣となり、カラフト探検と蝦夷地経営に参画しロシア船ディアナ号の艦長ゴロウニンの護送にもあたった。1808年に部下の間宮林蔵と2隊に分かれカラフトを探検し、間宮より3日早くカラフトが離島であることを確認した。碑面には、その際の感銘を記録した『北夷談』第3巻を引用し「カラフトは離島なり 大日本国々境と見きわめたり」、また裏面には「カラフトは離島なり 大日本国々境と見きわめたり 標柱を樹て日本国々境の旨相記し 遙かに南天を再拝して祝意を表せり 右は樺太海峡を発見せる松田伝十郎快心の感懐なり 文化五年四月間宮林蔵は樺太東岸 松田伝十郎 西岸を北上す 怒濤群狼疲労と闘うこと二箇月余 遂にラッカ岬に立ち樺太海峡を発見せり 時に文化五年(一八〇八)六月二十日 間宮林蔵の到る三日以前なり 伝十郎は鉢崎村浅貝源右衛門の長子 俊才の故に幕臣松田氏を嗣ぐ 偶々露国進出の秋に当り 幕命を帯び蝦夷地に赴くこと七度 二十三年に亘る 功成り御支配勘定役に昇進 天保十四年歿 七十五歳 昭和三年特旨を以って正五位追贈 茲に遺業を讃えて後世に伝えむ」と刻む。撰文新澤佳大、揮毫山岸暁翠、篆額揮毫は設置時の柏崎市長・小林治助。

松田伝十郎考(まつだでんじゅうろうこう)
郷土史家・前澤潤が1975年に『柏崎刈羽』2号に掲載した論文。前澤は同年松田伝十郎の初の本格的伝記『北方経営の先覚者-松田伝十郎物語』を刊行しており、この執筆動機等がコンパクトに紹介される。前澤は「宿場町鉢崎(今の米山町)に生まれ、その生涯を困難な蝦夷地経営のためにささげ、特に前人未踏の樺太奥地探検に挺身し、それが島であることを発見した松田伝十郎は、柏崎の誇るべき人物であるにもかかわらず、あまりにも郷土に知られず、その資料も散逸しておることは、誠に口惜しい限りである。」としたうえで「伝十郎は生粋の越後人であり、柏崎人であって、その性格は極めてまじめであり、極めてがまん強く、そして極めて抱擁力に富んでおったということである。(略)抱擁力の大きなことの中に、伝十郎の特質を見出すことが出来るように思われる。例えば、蝦夷地に疱瘡が流行すると身の危険も忘れてその救済に奔走したり、蝦夷人の苦しみを自分の苦しみとして相談相手になり、行政者として誠意をもってあたった。幕命で任地宗谷を離れる時、離別を悲しむ蝦夷人たちがイナヲをささげて神としてあがめたこと、又暴戻な山丹人をも心服させ、困難な山丹交易の実をあげたこと。更に樺太探検にあたっては、功名心にたける間宮林蔵を輩下として指図し、林蔵をその腹中に入れて探検を成功させたこと等々である。」と評価、「柏崎が生んだ最も典型的な柏崎人としての剛毅の人、松田伝十郎を、もう一度今の柏崎人は思いかえす必要はないものだろうか。」と結んでいる。

松田伝十郎生誕地(まつだでんじゅうろうせいたんち)
柏崎市米山町聖が鼻展望広場に設置される柏崎青年会議所のまちしるべ。1998年に設置されたが、中越沖地震(2007年)で土砂とともに海中に崩落、行方不明となっていたことから2010年に再建された。「樺太海峡の第一発見者である松田伝十郎は、1768年に鉢崎村(現在の米山町)の浅貝家に生まれ、13歳の時に幕臣松田家の養子となりました。のちに北海道松前奉行所勤務になり、1808年に間宮林蔵と共に樺太の探検に出かけ、林蔵より早く樺太海峡を発見、『カラフトは離島なり、大日本国国境と見極めたり』と宣言しました。」とカラフト発見の偉業を記すとともに、「ここは、聖ヶ鼻など伝説の宝庫でもあります。かつて鉢崎関所が置かれ、俳人芭蕉が泊まったたわら屋跡が残されています。」と紹介している。

松田伝十郎を讃える詩(まつだでんじゅうろうをたたえるうた)
まき・たかしが柏崎出身の松田伝十郎の功績を讃えるために創作した叙事詩。詩歌を楽しむ柏崎刈羽の会の特別公演として伝十郎の地元、米山コミュニティ振興協議会創立30周年記念式典(2015年)で初演された。「新潟県柏崎市米山町が生んだ探検家・松田伝十郎は、江戸時代文化5年間宮林蔵を伴って、蝦夷地を伝十郎としては第3回目の探検に出かけました。その時、初めて『樺太は離れ島である』ことを見極めたのであります。そもそも松田伝十郎は、江戸幕府の役人として蝦夷地に赴任し、延べ24年間かけて、その開拓に努め、北海道全道を日本国としてまとめた偉大な功績を残されたのであります。私たちは改めて松田伝十郎の遺徳を偲んで、遙か、聖が鼻の顕彰碑から聞こえて来る伝十郎の声を聴くことにいたしましょう。」と始まり、特にラッカ岬に到達し国境を見極めるシーンでは勇ましい音楽とともに「わが伝十郎の隊は樺太の南海岸を、林蔵の隊は西海岸を、それぞれに北へ北へと幾多の難関を乗り越え、わが伝十郎の隊は、遂に大陸との国境にある『ラッカの岬』にたどりつく。そしてそこに木の柱を高々と打ち立てる。『カラフトは離島なり』われはここを『大日本国国境と見極めたり』」と歌い上げ、「われ松田伝十郎、寛政11年31歳から文政5年54歳まで、その間24年間蝦夷地御用人として勤め、そのうちなんと19年間、かの蝦夷地に在り、ひたすらに開拓に努め、蝦夷地に暮らす人々の平和な生活のために、わが命捧げて働かせていただいた。まさにわが人生に悔いなく…」とドラマティックな人生とその思いを表現した。

松本良順(まつもとりょうじゅん、1832-1907)
蘭学医・佐藤泰然(順天堂大学の祖)の2男として生まれ、代々幕医を務める松本家の養子に。幕府長崎海軍伝習所の医学教授・ポンペから医学を学び、1863年幕府の医学所頭取に就任、14代将軍家茂、15代将軍慶喜の侍医を務め、家茂の死を看取った。会津戦争では藩校日新館で旧幕府軍傷病兵の治療にあたり降伏前に脱出、米沢、庄内(鶴岡)を経て仙台に至り、箱館戦争への従軍を企図するも、土方歳三から「到底勝算のある戦いでなく、前途有用の君は江戸に帰るべきだ。もし捕まっても新政府軍の将官は皆君を知っているから危害を加えられることはないだろう」(蘭疇自伝、意訳)と勧められ、武器商人スネルの船で横浜に向け脱出した。スネルの商館に隠れていたところを捕縛、江戸に送還され、本郷の加賀藩邸などで一時拘禁されるが放免。1871年順に改名し、私立病院に医学校を併設した蘭疇舎を早稲田に開設、1873年には山県有朋の要請で初代の陸軍軍医総監になった。退任後は海水浴の好適地を求めて全国を行脚した。柏崎には長崎遊学時代の友人・布施良斎がおり、その孫貞二が蘭疇舎の教え子だったこともあり、1888年5月に「禎二の開業祝いに来臨、約一ヶ月滞在」(布施家累代、布施輝夫著)し、診察とともに海水浴の効能を宣伝し、日本海側初の海水浴場開場に尽力した。柏崎市女谷の旧鵜川スキー場入り口にある布施良斎の寿蔵碑には「正五位松本順書」とあり、良斎の養子で種痘に積極的に取り組んだ布施健二の墓碑も松本の揮毫である。

松浦静山の見た綾子舞(まつらせいざんのみたあやこまい)
松浦静山は江戸時代後期の第9代平戸藩主。明治天皇の曾祖父。「学芸大名」として知られ、隠居後に江戸本所の別邸で20年間、随筆集『甲子夜話(かっしやわ)』の執筆を続け、278巻の大著として残る。綾子舞が登場するのは「三篇巻之十」の「越後国あやこ舞之事並番組」(東洋文庫413『甲子夜話三篇1』版では227頁から236頁)で演目ごとに内容や衣装、道具などが詳細に記録され、当時の綾子舞の様子が活き活きと残る。10の演目をどふけ(道化)、まじめ(真面目)にグループ分けしている点もユニーク。「まじめ」に分類された「三条の古鍛治」では「小鍛治は古を小に改むべし(番付には古鍛冶とあるが小鍛治が正しい)。能に為す小鍛治とおなじ。」「番付にでき(デキ)とあるは弟子の訛言か」などと指摘した上で「能の如く勅使ありて剣を造るの命あり。小鍛治帰て婦と謀り剣を鍛へんとす。時に相槌を打者(デキのことか)来てこれを打つ。又ときに信仰する所の稲荷の神、其形を顕はし、相槌を並び打て、迺(すなわち)新剣三振を為し、勅使に上るの事なり。」とある。一部説明を省いている部分もあるが、「扇」の使い方について「全く古の存したる成るべし。是等採るべき也」と注目。また、「烏帽子折の殿様は今で言えば大名だが、本来引き立て烏帽子を被っていなければならないはずなのに彼らが手作りしたらしい小さい烏帽子を被っている。伝旋の変形か」などと大名ならではの苦言も。静山の世子・煕(ひろむ)に松平定信(楽翁公)の6女・蓁姫が嫁したため親戚関係にあり『甲子夜話』には何度も楽翁公が登場する。

まなびやのコレクション展(まなびやのこれくしょんてん)
1993年に新潟市美術館で開催された新潟県内の学校所蔵美術作品を「まなびやの美術」として紹介した企画展。開催にあたり、県内の小中学校、高校にアンケート調査を実施、この結果762点の美術作品が一般の目にふれない形で所蔵されていることがわかり、このなかから代表的な93点を選び、展示した。柏崎市内の学校からは、村山径が地元北条の小中学校に贈った「待春」「樹」「天神平」(順に北条中学校、北条北小学校、北条南小学校=いずれも当時)をはじめ、國領經郎「御野立の崖」(柏崎高校蔵)、同「絵を描く少女」(柏崎小学校蔵)、千原三郎「双」(柏崎高校蔵)、宮芳平「コスモス」(比角小学校蔵)の7点が展示された。同展を担当した新潟市美術館の北上あつ子学芸員は、「まなびやのコレクションノート」(同展図録)で、1919年に洲崎義郎の後援で比角小を会場に開催された宮芳平の個展と県内における自由画教育の先駆となった比角小での試みについてふれ「(個展は)若き日の宮の情熱と洲崎の支援、学校の協力により成功を収めた。比角小学校の『コスモス』は、この柏崎初の油画展の足跡を今に伝えている。」と述べている。

幻でなかった柏崎(まぼろしでなかったかしわざき)
『ガラスのうさぎ』著者の高木敏子は1983年5月27日に柏崎で講演を行っており、その前日譚をふくめ柏崎への思いを「幻でなかった柏崎」として綴り『めぐりあい-ガラスのうさぎと私-』(1984年)に収めている。高木は「わたしにとって新潟県・柏崎というところは、もし父が二宮で機銃掃射で殺されていなかったら、あの昭和20年8月6日にはたどりついていたところなのです。父は、どうして自分の出身地・福島ではなく、新潟へ工場を作ったのでしょうか。たしか、共同経営といっていましたが、いったい誰と一緒にガラス工場をやろうとしていたのでしょうか……。これは、約38年間、わたしにとって解明できない、大きな『謎』の部分でした。」とし「戦後すぐは、訪ねて行きたくとも生活がたいへんだったので、とてもそんな余裕はありませんでした。父の残してきた荷物などもあったでしょうし、行けば何かがわかるかも知れないと思っても、柏崎しかわからなくては捜しようもありません。(略)どなたも覚えていてくださる人もないだろうという歳月が過ぎてしまったのです。」と半ばあきらめながらの柏崎訪問だったが、講演主催者の柏崎寿大学講座・渡辺十一郎自治会長と面会、さっそく「謎の部分の糸」がほぐれ始めたという。渡辺の情報により①高木の父親の共同経営者は石渡という人ではないか。「父と一緒に満州の奉天に、軍の要請でガラス工場を作った人」という高木の記憶とも合致②柏崎に戦前からあったのは吉川ガラスだが、戦争中に東京からやってきてガラス工場を作ったのは石渡という人しかいない③石渡が柏崎を頼ったのは石川薬局(柏崎市東本町2)の縁ではないか-などが判明し、渡辺は「東京の工場が空襲で焼失して困っていた石渡さんと高木さんのお父さんが、(石川薬局の縁を頼り)柏崎に疎開してこられたのではないか。」と推測したという。高木は『ガラスのうさぎ』を世に出した金の星社会長の斎藤佐次郎が柏崎に疎開していたことにもふれ「まったく、人生どこでどなたと結びついているのやら、不思議なご縁、仏縁という言葉がこのときほど心に残ったことはありませんでした。亡き父が、柏崎へ、柏崎へと導き、ご縁のある方々との出会いを作ってくれたような気がいたします。」「いまさらながら、あの戦争中、父がわたしを連れて再疎開しようと決意したのがわかりました。厳しい自然環境の中に生きる方々なのに、寒い寒い新潟なのに、心はとっても暖かい人々の住む土地だったからです。」と感慨深く結ぶ。なお高木は1988年にも柏崎で講演を行っている。『柏崎商工会議所50年史』の「未曽有の企業整備」(1942年-1943年)の項には「転廃業者の家族労働転用事業の一つとして、駅通りに柏崎国光硝子器株式会社が設立をみた。東京・石渡器機店と吉川硝子工場の出資で軍需のアンプル管、注射器、試験管、ガラス瓶製造等をはじめた。戦後のアンプル産業につながる。」との表記があり、これが高木の父親が共同経営しようとした工場か。柏崎市史下巻は「柏崎にガラス産業が登場するのは明治40年以降である。当時、日本石油会社は機械油を製造する際に残滓となる硫砂ピッチの処理に困り、ガラス製造の燃料として利用することとし…」「柏崎のガラス産業の草分け的な存在と考えられる事業所の一つに、吉川硝子製作所がある。同製作所の創業は明治40年で、創業以来コップの製作を行っていたが、昭和17年頃より硝子管の製造を開始した。その理由は詳かでないが、この製品の転換は、昭和21年以後盛んになるアンプル工業の布石となった感がある。」などと時代背景を説明。

幻の校歌(まぼろしのこうか)
2001年の第17回柏崎フォーラムで展示、公開された市内小中学校の校歌調査の内容を、会場を取材した岡島利親が執筆した囲み記事。同年11月30日号柏新時報に掲載された。「市小中学校PTA連合会(市P連)が、それぞれの校歌に込められた子どもたちへの思いや地域性を市民に見てもらおうと資料の収集を進めてきたもので、こういった形で校歌が勢ぞろいするのは初めて。統合前の旧校歌や懐かしい校舎の写真なども展示されて、インパクトの強い内容となった。」としたうえで、柏崎の文化人脈を象徴するような豪華な作詞、作曲者の顔ぶれ(別項「校歌調査」参照)を紹介、「今回の展示の大きな成果は、統合前の小中学校の校歌にも手を拡げ27校分を集めたことだ。ここでまとめておかなければ散逸の可能性もあったからである。このなかで旧上条小学校校歌の作曲者が岡野貞一となっていることに気づいた。」「岡野は、高野辰之とともに『ふるさと』『おぼろ月夜』『もみじ』『春が来た』『春の小川』等々、数多くの名曲を生んだ。長野県豊田村にある高野辰之記念館の足ふみ式のオルガンで聞いた『ふるさと』はまるで賛美歌のように聞こえた。岡野は、日曜日の教会で賛美歌の演奏を続けていたとのことだった。」と続け、さらに「旧上条小学校の校歌には2通りあって、昭和10年から24年にかけて歌われたのが堀久四郎作詞、岡野貞一作曲。その後昭和25年から閉校する56年まで歌われたのが大橋士郎作詞、大平民弥作曲によるもの。岡野貞一作曲による校歌が14年間しか歌われなかったのは、どういう理由か。また、作詞を担当した堀久四郎という人がどういう人なのか。このあたりを調べていくことが『まぼろしの校歌』が誕生した背景を探ることになりそうである。」と指摘、「もっとも興味があるのは『ふるさと』の作曲者による校歌がどんなメロディーだったのか、である。」と結んだ。さっそく読者からの反響があり「堀久四郎」が貞心尼研究家として知られる「堀桃坡」の本名であることがわかった。また高浜小学校長を務めた佐藤騏四郎からは「高浜小学校にも二つの校歌があった」との情報が寄せられた。佐藤によれば戦前の校歌(渡辺八十一作詞、石川潔作曲)は幸田露伴校閲で、校歌を改定した際の高野盛義校長が1985年の同窓会誌に書いた「改定高浜校歌について」から「敗戦によって進駐軍の教育に対しては苛烈をきわめた厳しい指示があり、校歌改定もその一連の中にあったのでした。」「軍国主義、国家主義と関連のあるものは破棄を命ぜられた。校歌の歌詞の内容についても、この面から検討しなければならなくなった。これは高浜校だけでなく、全国的なものであって、このような厳しい進駐軍の命令によって戦前からの校歌のあるところは稀になった。」「(詩人でもあった高野校長は)学校が日本一であるなら、校歌もこれに匹敵するものでありたいと野望を抱き、私が師範学校時代から詩人として師事していた白鳥省吾先生に泣きついて頼みこみ、当時日本一流の作曲者堀内敬三先生から、白鳥先生の尽力で作曲してもらった。高浜の校歌は県下一だと評判高くありました。」といった背景、事情を引用し、「軍国主義、皇国史観の校歌は改定させられたということのようです。中には一部分を改訂したり、歌わなくしたりというところもあったと思います。」「(高野)先生は詩人で、自分でも校歌の作詞をされていました。こういう方であるだけに、戦後自分の手で新しい校歌を作りたかったのでしょう。」と説明。一方、岡野貞一作曲による旧上条小校歌の価値に気づいた上条コミュニティ振興協議会では、当時の楽譜などを探し当て創立20周年記念式(2003年)に合わせて復活演奏を行い、話題を集めた。旧上条小校歌復活演奏については別項(「幻の校歌」の復活)参照。

「幻の校歌」の復活(「まぼろしのこうか」のふっかつ)
岡野貞一作曲の旧上条小学校校歌復活にあたり、岡島利親が書いた囲み記事。2003年11月14日の柏新時報に掲載された。旧上条小学校校歌は、地元関係者の奔走で同年の上条コミュニティセンター創立20周年式で柏崎市立南中学校ブラスバンドにより復活演奏された。「ちょうど2年前の紙上で『幻の校歌』を掲載し、このことをきっかけに地元での楽譜探しが始まった。さらに上条小創立記念日の歌や上条地区応援歌など、これまで埋もれていたメロディーの採譜を行うなど、2年がかりで準備をすすめてきたそうだから、関係者のご苦労は相当なものだったはず。」と経過を振り返りながら「南中学校のブラスバンドによって演奏された旧上条小校歌は、実に岡野らしい、美しい旋律だった。岡野の代表曲『ふるさと』もあわせて演奏され、地域への様々な思いが凝縮される場面となった。こんなに高名な人の作った歌が地元にあったとは…といった感想が多かった。」などと会場の様子を紹介、さらに「旧上条小校歌については資料不足で前へ進まなかった部分もあるのだが、いろいろ調べているうちに二つの?にぶつかった。」とし①旧上条小校歌は昭和10年から24年までの14年間歌われただけで、戦後新しい校歌がとって代わった。なぜ14年間しか歌われなかったのか?②どのような経過で岡野貞一に作曲を依頼することになったのか。そのパイプ役をつとめたのは誰か-と問題提起。このうち①については読者などからの情報提供もあり解明が進んだものの、実際は歌詞のどの部分が抵触したかは不明。②については「岡野貞一は、心に残る数々のメロディーを小学校唱歌教科書編纂委員として作曲したが、実際に小学校学習指導要領に『高野辰之作詞、岡野貞一作曲』と明記されるようになるのは平成に入ってから※で、現在のようにメディアが発達している時代ならば『あの名曲を作曲したあの先生に…』ということになるのだろうが、岡野に作曲を依頼した『眼力』も見事だ。」とし「柏崎の小中学校の校歌は、相馬御風、中山晋平、芥川也寸志、弘田龍太郎、團伊玖磨、中田喜直など著名人が作ったものが多い。以前より、中央の文化人脈との関わりが強かったと言え、それぞれにパイプ役をつとめた人物がいるはずだ。」「推理するにも、あまりに資料が少なく、所々想像力でつないでいくしかない。背景に、柏崎の文化人脈や風土があることは間違いない。」と結び、さらなる情報提供を呼びかけた。※「ふるさと」に「高野辰之作詞、岡野貞一作曲」と明記されたのは「平成元年3月」の小学校学習指導要領からで、「昭和52年7月」以前の指導要領には「文部省唱歌」としか記載されていない。

幻の満洲柏崎村(まぼろしのまんしゅうかしわざきむら)
深田信四郎著、1982年刊。満州柏崎村に隣接した二龍山(あるろんしゃん)開拓団で在満国民学校長を務め、柏崎村と同様に敗戦とソ連侵攻に直面し「軍隊に見放され、祖国に見棄てられた開拓民と共に流浪の旅をつづけ、その悲惨をつぶさに体験した。幻と消えた柏崎村そして開拓民のことを黙って見のがす事が出来ないのだ(略)満州柏崎村の崩壊の跡を記録する事は市民の義務であると思い数少ない引揚者の証言をもとにして書きとめた。」(著者のことば)もので、巻末に開拓団員名簿を載せる。反響は大きく、満州柏崎村の塔建立(1986年)の市民運動へと結びついた。

厩橋北条氏(まやばしきたじょうし)
『前橋市史』第1巻第9章「戦国の世の厩橋」では「上杉謙信の上野支配と厩橋北条氏」の節を設け、厩橋(まやばし、現在の前橋)城の城代として前橋に常駐した北条高広の動向を詳細に解説している。「北条高広イコール北条城主」の先入観を持つ柏崎市民にとっては奇異に映るが、北条高広の動向、独特の存在感を如実に示す。「この厩橋城には、上杉謙信が関東に入って以来、ほとんどその部将北条丹後守高広が在城していて、上杉・北条(小田原)両氏間の和平に奔走したようである。北条は謙信死後も引き続き在城し、北条(小田原)氏についていたものと見られるが、その最後は不明である。」(戦国の争乱と厩橋)と前置きしたうえで「上杉氏の関東経略の中継後方基地が沼田(倉内)だとすれば、前線基地は厩橋である。ここに腹心の北条高広を常駐(城代)させた。(略)謙信は、永禄3年の関東進攻直後に、厩橋を長野氏から奪って北条を配置し、厩橋長野氏の家臣の多くは北条氏の麾下に入った。謙信自身関東進出の場合、ここに滞在しないことは殆んどなかった。」「越後の前線基地である厩橋の北条高広は長年月の経過の中で土着化し、上野の在地領主になってしまい、かなり小田原の北条氏に接近する始末で、第一期に築いた謙信の勢力圏は、西上野の喪失もあって、全くの点と線になってしまった。」などと解説、柏崎市の毛利研究家・関久による『越後毛利氏の研究』の成果をふまえ「厩橋の守備隊長北条氏」の足跡を摘記、「御館の乱後、武田氏と後北条氏の間にあって、両者とも関係を保ち、武田氏減亡後は一時厩橋に進出した織田信長の家臣滝川一益に従い、本能寺の変後、滝川氏が北条氏に追われると、北条氏に従うというめまぐるしい上部権力との対応を示しながら所領を維持した。」とまとめている。なお、章末には厩橋北条氏の寄進、安堵、宛行状を年代順に整理(17件、うち9件が上杉謙信の属将時代、8件が御館の乱後の上杉氏から独立した在地領主化時代)しており興味深い。群馬県史(通史編3、1989年)には「厩橋北条氏」の表記は見られないが、第6章「戦国動乱と上野」に「北条高広と厩橋」のタイトルで「北条高広の厩橋入城」「上杉氏の関東経略と高広」「越後北条氏の厩橋・大胡支配」「その後の北条氏の動向」各項目を通して「高広はその去就をめまぐるしく変えている。永禄12年(1569)には越相講和によって上杉氏に帰参が許されたものの、天正6年(1578)の謙信の死・御館の乱で再び後北条氏に付き、次いで武田勝頼、さらに天正10年(1582)の武田氏滅亡後は滝川一益に服属している。このような複雑な動きは、所領を守り没落を免れるためには必要不可欠のものであろう。ともかくも越後出身の北条氏がここまで命脈を保ち得たのは、高広が上杉氏の支城の城将の立場を越えて、この地で在地領主化したことがその主因の一つであろう。」と特徴をまとめている。「越後北条氏の厩橋支配」(久保田順一、1986年、『群馬文化』206号)、「厩橋北条氏の存在形態」(栗原修、1996年、『ぐんま史料研究』7号)など、厩橋北条氏に関する群馬県側の研究も進展している。

厩橋城主となった越後北条の北条高広と前橋(まやはしじょうしゅとなったえちごきたじょうのきたじょうたかひろとまえばし)
柏崎市女谷出身で群馬県前橋市助役、群馬県文化財保護審議会長を務めた大図軍之丞による随筆。柏新時報1976年1月1日号に掲載された。大図は前橋新潟県人会会長も務めた。「前橋には、古くから新潟県出身の人が多く、早くも明治45年には前橋新潟県人会が設けられた。その子や孫も次第に増し、また続いて新潟県から移り住む者も多く、県人会は今も続いて盛んである。」「裏日本の宿命で、越後の国は冬ともなれば深い雪にとざされ、今と違つて昔はその間殆んど冬籠りのほかない有様であつたので、勢い若い人達は天候と産業に恵まれた関東の地に生活の場を求め、やがて土着するようになつたわけで、わが群馬県はすぐ隣県だけに一番多いということであろう。」などとしたうえで、郷土越後北条の北条高広について「今から410余年前の戦国の当時、上杉謙信に招かれて厩橋城主となり、死亡するまでの20余年間厩橋の護りを固め、神仏をあがめて善政を施いたことである。しかし、これは一般にはあまり知られていない。後で記すように北条(ほうじょう)と読みすごされることが多いためでもあろう。」として北条高広の生涯と功績を「群馬の上代から戦国時代」「越後の北条高広厩橋城へ」「滝川一益の入城と高広の晩年」の3章で紹介、「北条高広は、かように上杉謙信の上野侵攻とともに越後から移って厩橋城主となり、周辺領主の圧力に抗しながら上野の中央部を確保しつづけ、上部権力の交替とともに武田、滝川、そして後北条とめまぐるしく帰属を代えて、ねばり強く生きながらえたことで、その苦闘の歴史は賞讃に値いするものである。」と結ぶ。北条高広が厩橋八幡宮に送った寄進状を写真で紹介。小田原北条氏と区別するため「きたじょう」「ほうじょう」に多数のルビを振っているのも特徴的。1982年刊行の『前橋新潟県人会創立70周年記念誌』に「越後の北条高広と前橋を語る」と改題、再掲された。

満州柏崎村(まんしゅうかしわざきむら)
国策に従い、新潟県移民送出第11次として柏崎市と柏崎実業協会(現在の柏崎商工会議所)による満州国柏崎村建設期成同盟会が募集を行い、「五族協和」「王道楽土」(満州国の建国スローガン)の名の下に1942年から67世帯、214人が夢を抱いて海を渡った。「一つは満州国の護りを強固にするという国策のため、二つには沈滞した柏崎の経済の活路をもとめるため、三つには戦争によって転廃業を余儀なくされた市民更生のために、柏崎市の分村として満州国に新しい柏崎村を建設しよう」(『幻の満洲柏崎村』、深田信四郎)が目的だった。旧満州三江省通河県檳榔(ひょうろう)地区の東西15キロ、南北14キロに本部・八坂・神明・鏡・岬の5集落を設置、ほとんどが農業経験のない商工業者により編成された転業開拓団であり、慣れない開墾、農作業は困難を極め、「柏崎村は小高い雑木林が生い茂る丘陵地にあった。ほとんどが農業未経験で、農業をやっていたという人は1人か2人だったのではないか。おおかたは商人や職人で、零下30度まで下がるような過酷な環境ではまともな農業など出来ようもなかった」(柏崎村生存者で語り部の巻口弘)という。1945年8月の旧ソ連侵攻、敗戦により残された女性、子ども、高齢者(成人男性は全員現地召集されていた)はハルビンまで300キロの過酷な逃避行を強いられ、寒さと飢え、病気で121人が亡くなった。翌年秋に柏崎に戻ることができたのはわずか33人だった。この悲劇について柏崎市史では「しかし、終戦の昭和20年8月、『アルロンシャン』(深田信四郎)などで知られる悲惨な運命が待ち構えていた」との記述しかなく不備を指摘する声が多かったことから、柏崎市立博物館のリニューアルオープン(2018年)に併せ「満州柏崎村」のコーナーを新設、「昭和20年の敗戦と同時に人々は置き去りとなり、男性は召集され、残された人々は寒さと飢え、病気で多くの人が亡くなった。翌年秋に柏崎に戻ることのできたのはわずか33人。その後も応召者や残留者の帰還が実現したが、日本での生活もまた困難なものであった」と紹介した。2002年には西川正純市長、2006年には会田洋市長=いずれも当時=が満州柏崎村生存者の巻口弘ら関係者とともに現地を訪問、慰霊を行っている。

満州柏崎村開拓団 引き離された家族(まんしゅうかしわざきむらかいたくだん ひきはなされたかぞく)
柏崎市立博物館内の人文展示室(歴史・民俗展示室)で公開されている満州柏崎村の生存者・巻口弘のインタビュー映像。2018年の大規模改修にあわせ新設された「語り継ぐ記憶(現代から近代)」中で見ることが出来る。「満州柏崎村誕生の経緯」「満州柏崎村での生活」「戦争の影響」「開拓団の退却」「中国残留日本人としての生活」(計7分19秒)で構成され、巻口は時折言葉につまりながら当時を回想。「家財を売り払い、満州で地主になれるという希望を持って渡満したが、ねぐらは雨が降れば泥だらけ。草ぼうぼうで、蚊、虻が多かった。狼の遠吠えはほぼ毎晩聞いた。慣れない開墾、農作業に苦労も多かった。」「父は徴兵検査に不合格となったが、敗戦目前の最後の召集で取られ、1週間で武装解除、結局はシベリアに送られた。残された家族は昭和20年の敗戦で置き去りにされ、逃避行のなかで弟二人を亡くした。心配と不安の毎日だった。残った母子で支え合い、生きるために畑の落ち穂、豆殻、蛇、ネズミであろうが何でも食べた。母は子どもを何とか育てたいと中国人の妻となった。母は死ぬ時は日本へ帰りたいと泣いた。想像を絶することばかりだった。」と生々しい言葉で柏崎村の現実と敗戦後の悲劇を伝え、「満州で死んだ人達はつらかっただろう。日本に帰りたかっただろう。犠牲者の魂を語り継ぎ、継承していく。満州での悲劇を決して忘れてもらいたくない。」とのメッセージを伝えている。

満州柏崎村の塔(まんしゅうかしわざきむらのとう)
赤坂山公園内(柏崎市緑町)の柏崎市立博物館前に1986年に建立された白亜の双塔。終戦直後の混乱のなか旧満州(現在の中国東北部)で亡くなった244人の関係者を慰霊、平和を祈念するため、市民6300余名、320余事業所の篤志で完成した。高さは7メートル。設計は鋳金造形作家の原正樹(柏崎市出身、東京芸大名誉教授)で、遙か遠くの旧満州の方角を向き「大陸に眠る人達に合掌し、祈りを捧げる心」を象徴した。建立の趣意は後述。塔背面には「満州の土となった柏崎開拓関係者」(柏崎村開拓団121人、柏崎村奉仕隊7人、二龍山開拓団2人、阿倫河開拓団1人、五福堂開拓団16人、清和開拓団28人、西火犂開拓団2人、東火犂開拓団25人、満州開拓義勇隊42人)の銘板を埋め込んでいる。建立以来毎年碑前祭が行われていたが、関係者の高齢化などにより2005年(終戦60年)の第20回碑前祭で終了。終戦70年の2015年には、市内中学生が参加しての旧満州柏崎村開拓団慰霊式典(柏崎市戦後70年事業)が行われ、未来に向け悲劇を語り継いでいくことを碑前で誓った。翌2016年以降は8月の終戦記念日にあわせて市民献花が行われている。▽建立の趣意=太平洋戦争当時、「満州は日本の生命線」との国策にそって、柏崎市も北満の曠野に柏崎村建設に情熱を傾けました。しかし、敗戦という運命に、一転、柏崎市民は祖国から見捨てられた流浪の飢餓集団と化しました。栄養失調に追いうちをかける伝染病、そして極寒悲惨のどん底で、柏崎開拓民たちはどんな想いで異国の果てで息たえていったことでしょうか。「再びこの過ちは繰りかえしません。この誓いの前に、どうか安らかにお眠りください」この祈りをこめて、今私たちは歴史に証を立てるため、この塔を建てました。雲白く、風光るこの丘に、鎮魂の鐘よ、この悲愁の想いを永遠に伝えよ。

満州の土となった柏崎開拓関係者(まんしゅうのつちとなったかしわざきかいたくかんけいしゃ)
満州柏崎村の塔(柏崎市立博物館前)前に2023年度に設置された銘板。塔の背面に刻まれている銘板の一部が風化していたことから新設した。柏崎村開拓団121人、柏崎村奉仕隊7人、二竜山開拓団2人、阿倫河開拓団1人、五福堂開拓団16人、清和開拓団28人、西火犁開拓団2人、東火犁開拓団25人、満洲開拓義勇隊42人、計244人の名前を刻み、終戦直後の混乱のなか旧満州(現在の中国東北部)で亡くなった悲劇を継承している。

【み】
岬カード(みさきかーど)
海水浴場開場130周年(2018年)を記念して、柏崎シティセールス推進協議会の発案で制作された7枚のカード。柏崎の42キロの海岸線には荒波によって作り出された不思議な形の岩や洞窟が連続し、日本海の澄んだ青と相まって美しい景色が広がっており、岬、岩礁、洞窟、断崖、断層など多様な風景を楽しみ、柏崎の海の素晴らしさにふれてほしいというキャンペーン、「岬カードはおそらく日本初」(桜井雅浩柏崎市長)という。見所や写真撮影ポイントなどを紹介する「K130 かしわざき岬マップ」を活用して、観音岬、番神岬、御野立、鴎ヶ鼻(恋人岬)、田塚鼻(牛ヶ首)、聖ヶ鼻の6岬をめぐり絶景を満喫、松が崎のプレミアムカードがプレゼントされた。好評のため翌2019年も実施された。

三島由紀夫之碑(みしまゆきおのひ)
「弟子を持たない三島由紀夫の唯一の弟子」と言われた柏崎出身の宮崎清隆が、さいたま市見沼区堀崎町の私邸庭に建立した文学碑。宮崎は1971年の参議院選(全国区)に出馬するため三島を後援会長として全国遊説中だったが、三島事件により立候補を断念し、表舞台を避け坊主頭となり謹慎と師の冥福を祈るため大宮市(現在のさいたま市)に移住。師の1周忌にあたる1971年11月23日に自宅庭に文学碑を建立、除幕した。高さ1・5メートル、幅2・3メートル、厚さ80センチの三波石製で、揮毫は三島瑶子夫人。柏新時報1971年11月12日号、12月17日号には、宮崎の挨拶文とともに経緯などが詳しく紹介されており「こむずかしい政治思想のそれとは全然無関係、いささかなりとも、ありし日の故人の慰霊にもなればと…」等としている。建立発起人には、柏崎出身の文藝春秋社長・池島信平、奈良薬師寺管長・高田光胤、映画「憲兵」で宮崎役を演じた中山昭二、作曲家の船村徹らが名を連ねている。

水のいいつたえ(みずのいいつたえ)
柏崎市制施行50周年記念事業として上演された市民ミュージカル「水色の世紀(とき)」(1990年)に関連して、柏崎市がまとめた小冊子。副題は「柏崎の名水」。市内26か所の名水を網羅し、各地区に古くから言い伝えられてきた水のいわれなどを紹介している。掲載されている名水は次の通り。▽大洲地区=二つ井戸、弘法の井戸(茶の池)▽鯨波地区=清水▽西中通地区=いぼ清水、▽田尻地区=地蔵清水(お清水)、涎(よだ・えだ)れ清水▽北鯖石地区=うがい(おがい)清水、湯の谷(ゆんたに)▽高田地区=石山清水、八幡清水、ばば清水▽米山地区=明治天皇御膳水(弁慶の手掘りの産水井戸)、お弁が滝、大清水観音の清水▽椎谷地区=明治天皇御膳水、椎谷観音の湧清水、不動滝▽中鯖石地区=清水▽上米山地区=不動山の湧水、きつね塚の湧水▽野田地区=出壺の水▽別俣地区=長者清水、お梅清水▽北条地区=弘法の塩水井戸、弘法清水▽鵜川地区=大沢の水

水戸黄門(みとこうもん)
テレビ、映画、講談などで数々取り上げられたおなじみ水戸黄門(水戸藩第2代藩主・水戸光圀)の世直し旅。特にテレビシリーズのナショナル劇場(パナソニックドラマシアター)は第1部から第43部の長寿番組となり、その後BS-TBSで2シリーズが放送された。柏崎が舞台となったのは第27部(佐野浅夫版)22話の「恋を探した盆踊り」と第29部(石坂浩二版)20話の「岸壁に祈る母」。また、出雲崎が舞台となったのは第40部(里見浩太朗版)13話の「男を変えた女の純情」。第27部22話の「恋を探した盆踊り」は柏崎市と柏崎民謡保存会が協力。冒頭、悪田(あくだ)の渡しで柏崎が民謡の宝庫であることが紹介されたり、悪代官を懲らしめた後、民謡保存会の音頭でご老公一行が三階節に興じるシーンも。ちぢみで活況を呈した当時の柏崎の様子も紹介され、ゲスト出演の湯原昌幸に「この柏崎は小千谷ちぢみ、十日町ちぢみの仲買で知られたところ」と語らせている。映画『水戸黄門』(1978年公開)でも柏崎が登場する。テレビシリーズ放送開始10年を記念して製作され、東野英治郎はじめテレビ版の主要俳優が出演、柏崎では悪代官とニセ黄門一行(ハナ肇、植木等、谷啓)をコメディタッチで懲らしめる。

南鯖石おいなの里(みなみさばいしおいなのさと)
柏崎市文化財「おいな」を普及するため南鯖石おいな保存会が2003年に作成したパンフレット。おいなの由来(由来にまつわる諸説、古いとされる事由、三階節の祖型である事由)や伝承活動の様子、さらに同地区の日本画家・柳重栄画による振り付け説明や現在伝えられている歌詞22番を紹介。「鵜川及び南鯖石地区でうたわれた盆踊り唄で、『三階節』の祖型ともいわれ、今日では南鯖石だけに伝承されている貴重な唄である。踊りは三階節よりテンポが早く難しいといわれている。輪になって踊る踊り子の中に音頭とりの一群が入り、踊りの輪と反対方向にまわる。」と説明するとともに、「今後、解明したいこと」として「囃子言葉に当たる『どうほうれいか』とはどのような意味があるのか」「なぜ『鳴り物』を用いないのか」などを挙げている。

南条いにしえロード(みなみじょういにしえろーど)
柏崎市が指定しているウオーキングコースの一つ。「越後毛利・安芸毛利発祥の地」の副題がある。JR北条駅を起点に、駒返橋、刈羽神社、正雲寺跡、十王堂跡、毛利氏の城館址と佐橋神社、妙姫庵跡、城址殉難者碑、三余堂跡、藍澤南城の墓碑をめぐる1.5時間のコース。「南条の生い立ちとあゆみ」「越後毛利・安芸毛利発祥の地南条」「南条が生んだ人物(藍澤南城、星見天海、樫出勇」についても紹介している。

源義経伝説の地交流会(みなもとよしつねでんせつのちこうりゅうかい)
NHK大河ドラマ「義経」(2005年放送)にあわせ、義経伝説を持つ出雲崎町、栃尾市、寺泊町、柏崎市の関係者が情報交換と発信のため集まり、活動を展開した。出雲崎町の「おけさ源流の地」伝承は、源義経の家臣佐藤継信、佐藤忠信兄弟の母・音羽御前が息子の立派な最期を聞き袈裟(けさ)のまま踊ったのが「おけさ」の源流になったと伝え、念相寺(尼瀬)にはゆかりの袈裟が残る。正応寺(大門)、法持寺(勝見)、善勝寺(尼瀬)にも伝説が残り、出雲崎の佐藤姓のなかには佐藤継信の末裔を名乗る家もある。また、寺泊町円福寺には佐藤継信・忠信の追福の塔、栃尾市の瑞雲寺も音羽御前にゆかりがある。第1回目の交流会(2004年12月、出雲崎町)では勉強会の後、念相寺や法持寺を見学し、念相寺では音羽御前の「袈裟」、「九穴(くけつ)の貝」を拝観した。音羽御前が開基という栃尾市の瑞雲寺・石田哲哉住職は「義経主従の逃亡ルートとして南蒲・下田村から会津へと抜ける八十里越えに注目している。また音羽御前が福島から新潟入り(出雲崎、栃尾)したのも、八十里越えだったのではないか。」などと述べ、注目された。

未明童話の本質-赤い蝋燭と人魚の研究(みめいどうわのほんしつ-あかいろうそくとにんぎょのけんきゅう)
『赤い蝋燭と人魚』成立の背景に「番神岬」など柏崎の風景があると指摘した児童文化研究家・上笙一郎の作品論。1966年刊。小川未明の代表作のモデルやモチーフについて具体的な探究を行った労著として知られ、未明本人にも実際に面会して取材している点で作家研究の嚆矢となった。上はまず「未明の『赤い蝋燭と人魚』は、彼がその少年時代に高田の町で出逢った足萎えの親子やベックリンの『波のたわむれ』と共に、この直江津地方の人魚伝説からも、その養分を得ていると断定して誤たぬのではあるまいか。」「北国越後の土地は(略)具体的な意味で、彼の代表作『赤い蝋燭と人魚』の揺籃の地であったとも言える。だが、この作品と越後の土地とのあいだには、人魚伝説のほかにも未だ、聯関するものが二つほどある。そのひとつは蝋燭であり、そしていまひとつは岬である。」としたうえで、「岬」について「小田嶽夫は(略)未明一家が移り住んだ春日山であると仄めかしているが、しかし、わたしには、それよりもむしろ、柏崎市の番神岬がその発想の母胎ではなかったかと思われてならないのだ。」「柏崎の番神岬は、リアリスティックな意味においても、また幻想の美学という見地からしても、そのイメージが、『赤い蝋燭と人魚』の山にぴったりと符合するのである。」などとし、その論拠として未明本人に取材した際の「『赤い蝋燭と人魚』が山田五十鈴の主演で映画化される予定になっているということを話し、然るのち、断乎とした口調で、『ロケは、あの番神だな。それ以外の場所では、だめだな』と言ったのである。」との証言を紹介、「なおつけ加えれば、(略)人魚のミイラと伝えられるものを保存している妙智寺という寺も、この番神岬からさして遠くないわけであるが、こうしたことも、番神岬が未明の頭のなかで『赤い蝋燭と人魚』の海辺の山と化すにあたって、なにがしかの役割をはたしたのかもしれない。」と結んでいる。なお小川未明の次女・岡上鈴江も『〔赤いろうそくと人魚〕をつくった小川未明-父小川未明』(1998年)で、未明童話の代表作成立に「鯨波のあたりの景色」「番神岬のあたり」があったことを指摘、箕輪真澄は『越佐文学散歩』(下巻、1975年)で「番神堂と向かい合っている諏訪神社の境内などは、『赤いろうそくと人魚』の舞台をほうふつさせるものがある。」とさらに踏みこんでおり、柏崎の海岸風景が大きな役割を果たしたことは間違いないようだ。

宮芳平(みやよしへい、1893-1971)
新潟県北魚沼郡堀之内村出身。宮家に入婿した父親・飯塚末八の実家や親戚が柏崎にあった関係から県立柏崎中学校に入学、柏崎の夕陽を見て感動し画家を志すと共に「聖書」や「詩」と出会い芸術的原点となった。洲崎義郎と出会ったのも柏中時代で、自伝には「中学校の時、まだ入学したばかりの頃、わたしは平行棒から落ちて胸を打ち、息が出来ずにいた。そこへ駆け寄った上級生があった。漆黒の髪と雪のように白い顔と『どうしたんです?』と、静かに起こしてくれた貴公子-のような先輩だった。」とある。1913年東京美術学校に入学、翌1914年の第8回文展に自信作「椿」を応募するも落選、その理由を聞くため審査主任の森鴎外宅(観潮楼)を訪問したことから交流が始まり、短編小説『天寵』にM君として描かれる(「私の所へ、アカデミイの制服を着た一人の青年が尋ねて来た。痩長で色が稍蒼い。長くした髪を肩まで垂れてゐる。これが点描の画の作者であつた。名はM君と云ふ。(略)それにM君はいかにも無邪気で、其口吻には詞を構へて言ふやうな形迹が少しもなかつた。」)ことになった。1915年の第9回文展で「海のメランコリー」が入選、1919年に来柏し9月24日、25日に初めての個展を洲崎義郎の協力で比角小学校で開催、10月から柏崎商業学校嘱託教員として教鞭を執った。1920年7月、赤沢助太郎、姉崎惣十郎を訪ね柏崎の海に遊んだワシリー・エロシェンコを偶然にも目撃、自伝や詩「落日」にその印象を残している。比角小学校の校章は在柏中の宮芳平のデザイン(1920年)によるもの。1920年10月には妻の転地療養のため柏崎を去ったが、同年洲崎に中村彝を紹介され師事した。生誕120年にあたる2014年には全国5会場で宮芳平展が開催され、この4会場目として新潟県立近代美術館で開催、森鴎外と知遇を得るきっかけとなった「椿」や柏崎の海を題材にしたとされる「落日の耽美」も展示された。なお、文京区立森鴎外記念館には鴎外が購入所有していた「歌」「落ちたる楽人」が所蔵されている。

みゆき弁当(みゆきべんとう)
昭和天皇が1947年10月に柏崎市新道・飯塚邸に2泊された際の御献立を弁当にしたもので、2012年の「飯塚邸・昭和天皇の御散歩道めぐり」(高田コミュニティ振興協議会主催)で初めて提供された。行幸(みゆき、ぎょうこう)に因んだ。メインは昭和天皇がお代わりされたというおはぎ「米山名月はぎの華」で、新道産の新道芋に人参の彩りを加えた「巻麩大徳煮」、鼈甲色の再現に苦労したという飯塚家自家製の「鶏卵鼈甲漬」、「胡麻豆腐」、「べにずいきの胡麻酢漬」など地元野菜を中心とした内容。これらを「おはぎは10月10日のご夕食に出されたもので、飯塚知信夫人が手づくりされたものでした。あんこ3つ、きなこ2つの小形ではありましたが5つ盛り一皿をお代わりされたということで大きな話題となりました。」といった説明を聞きながら名園・秋幸苑を眺めながら賞味した。

妙行寺(みょうぎょうじ)
柏崎市西本町1にある日蓮宗の寺院。山号は海岸山で、三階節にも歌われる番神堂は境外仏堂。北越戊辰戦争では新政府軍の会津征討越後口総督・仁和寺宮嘉彰親王(兵部卿、後の小松宮)の本営となり、同親王が1868年7月15日から8月11日にかけ滞陣、四條隆平副総督、西園寺公望・壬生基修両参謀が随行した。『柏崎文庫』によれば2万人余の兵が駐屯し、本堂内にはその際の兵士による落書き「仁和寺宮御旗本兵隊三番分隊休所 慶応四辰年七月十五日ヨリ八月十一日迄御滞陣之事」などが残っている。秋山文孝住職によれば「星野藤兵衞の奔走で柏崎を戦場にしないという方針が決まり、兵士たちはすることなく、本堂の所々に落書きをしたり、天井裏にあがって鬼ごっこをしたりしていた。あまり行儀のよい軍隊ではなかった。(「御礼」の落書きは)何も知らないお手伝いさんが濡れぞうきんでごしごしこすったため、文字が薄くなってしまった」という。尚、仁和寺宮は会津戦争終結後、東京への帰途(同年10月21日から22日)妙行寺に1泊されている。同寺墓地には柏崎を戦火から救った星野藤兵衛、淡島大門で暗殺された桑名藩家老・吉村権左衛門、和島で戦死した加賀藩隊長・水野徳三郎の墓がある。境内には柏崎青年会議所のまちしるべ「柏崎の恩人星野藤兵衛」が建立され、剣野山にあった星野別邸御殿楼は同寺の奥座敷として移築されたが中越沖地震で大きな被害を受けた。

未来に残したい柏崎の宝綾子舞(みらいにのこしたいかしわざきのたからあやこまい)
2016年に柏崎市文化振興課と柏崎市綾子舞保存振興会が作成した綾子舞パンフレット。文化庁文化芸術による地域活性化・国際発信推進事業の補助を受けた。綾子舞の由来や構成、小歌踊、囃子舞、狂言の演目紹介や伝承体制などをオールカラーで紹介し、えちゴンをナビゲーター役にした「どのくらいすごいの?」「楽器の紹介」「座元のちがい」といった基礎知識コラムも。長老から伝えられた綾子舞を習う心得五箇条「大きな誇りをもって…堂々と胸を張れ」「型を崩してはならぬ…古典芸能は型が命である」「自信をもって立て…練習を一生懸命やれば湧いてくる」「ゆとりをもって…自分のものとして生きた芸とする」「芸はぬすめ…積極的な気持で」や鵜川の風土も紹介。同年開催の夏休み子ども向け体験教室「柏崎の宝『綾子舞』を楽しく学ぼう」のテキストとして使われた。

ミルドレッドとシェラブラー(みるどれっどとしぇらぶらー)
1927年に米国から寄贈された「青い目の人形」1万2739体のうちの2体。約40センチ。ミルドレッド(マサチューセッツ州から寄贈)は柏崎小学校、シェラブラー(コネチカット州から寄贈)は柏崎保育園に贈られ日米関係改善に一役買ったが、人形交流プロジェクトを推進したシドニー・ルイス・ギューリック博士、渋沢栄一らの願いむなしく開戦。「敵国の人形」として処分される寸前の1943年、角張信隆校長の機転と痴娯の家・岩下庄司の尽力で処分を免れた。シェラブラーは正式には「ナオミ・ルース・シェラブラー」。現在では2体とも柏崎コレクションビレッジの痴娯の家(柏崎市青海川)で、米国の特別旅行免状(Special Passport)・人形査証(VISE)、DOLL TRAVEL BUREAU(人形旅行局)発行の99セント切符、ギューリック博士の日本語メッセージ「此人形は『友情の人形』と申して御友達同志の御使で御座います。米国にある世界児童親善会と申す団体を代表して、此人形は貴女や御貴家の皆々様の御機嫌伺ひに日本に参ります。(略)どうか此人形が貴女や御姉妹様方、又御友達の間に可愛がられ面白がられますやうに、さうして日本と米国といつもほんたうの仲良し御友達であるやうにと常に私は希望して居るので御座います。」、「俘虜」として「収容」を依頼した角張信隆校長の依頼状※などとともに保管展示されている。各地に現存する「青い目の人形」全数調査を行った武田英子(児童文学者)による『写真資料集青い目の人形』(1985年)ではシェラブラーについて「コネチカット州ハートフォードのケネディミッションスクールの教授夫人によって命名されたとのこと。当時の記録では、同地マッケンジーホールで、盛んな送別を受けて送り出されている。」と記録。※依頼状については「アメリカの俘虜二名差上候間 御収容被下度御依頼申上候」参照

「民俗芸能の会」による綾子舞現地調査(「みんぞくげいのうのかい」によるあやこまいげんちちょうさ)
1952年に発足した「民俗芸能の会」による綾子舞現地調査が行われたのは1956年8月31日のことで、綾子舞を見出した本田安次をはじめ、郡司正勝、西角井正慶、町田嘉章、三隅治雄ら錚々たる顔ぶれが女谷を訪れている。本田の奔走で第2回全国郷土芸能大会(1951年、日比谷公会堂)に綾子舞が出演、大評判となり、その後中央の研究者が相次いで鵜川を訪れており、「民俗芸能の会」による調査もこういったブームのなかにあったと見られる。なお郡司には早大院生の鳥越文蔵が随行した。当日は鵜川中学校講堂を会場に、三番叟(下野)を皮切りに常陸踊(高原田)、常陸踊(下野)、小切子踊(高原田)、小原木踊(下野)、布晒し(下野)、亀の舞(下野)、伊勢移(高原田※)、龍沙川(下野)、烏帽子折れ(高原田)、閻魔王(下野)、海老すくい(下野)、三條の小鍛冶(下野)の各演目が演じられ、さらに黒姫神社境内に移動し大杉のもとで写真撮影が行われた。現地調査の様子は、本田が「民俗芸能の会の催しとして有志を誘ひ(8名が参加した)、赴いて数々の踊、囃子舞、狂言を演じてもらった。國學院の西角井正慶教授はこれらを16ミリの映画に収めた。」(『余韻』、綾子舞のこと)、郡司が「昨年、同好の士とこの村を訪ずれ(略)われわれの目の前に現はれたのは、なんといっても大きな喜びであり、これによって発生期のかぶきの研究は、いちだんと飛躍が期待されることとなった。」(『演劇界』1957年2月、阿国かぶきの村を訪ねて)とそれぞれ書いている。なお「民俗芸能の会」の機関誌『芸能復興』第13号(1957年2月)の表紙は、同日の黒姫神社境内で撮影された「小原木踊」が飾っている。この日は研究者に加え、戯魚堂・桑山太市の手配で柏崎市西本町1の写真家・山口三郎が調査の様子を写真撮影、綾子舞ユネスコ無形文化遺産登録記念誌『AYAKOMAI 世界へ』の「昭和31年の綾子舞」ではこのうちの17枚が紹介されている。※伊勢移(高原田)のみ現行演目にない。

みんなちがってみんないい-21世紀のまなざし金子みすゞ(みんなちがってみんないい-21せいきのまなざしかねこみすず)
2002年に童話作家の矢崎節夫が柏崎市で行った講演(柏崎・刈羽地区同朋会主催の第23回仏教文化講演会)。矢崎節夫は散逸した金子みすゞの作品を集め、現在の再評価の契機を作った「発掘の人」として知られる。2001年放送のTBS創立50周年記念ドラマ『明るいほうへ明るいほうへ-童謡詩人 金子みすゞ-』(松たか子主演)では監修を担当した。講演では「大漁」「わたしと小鳥とすずと」「こだまでしょうか」などを朗読、「みすゞ作品には果てしない深さがあり、大切な自分を取り戻すために何の抵抗もなくストンと体の中心に落ちてきてくれる。人間本位、自分本位でこちら側の見方しかできなくなった私たちに、ぜひ眼差しを変えてほしいという願いをこめ、現代によみがえったのではないかと思う。」「子どもの心にこだまする大人がいなくなった。大切なのは丸ごと認め、傷つけないこと。こだまする事をせずに、子どもを一方的に否定し、一方的に励ます大人ばかり、これでは子どもの心はそっぽを向いてしまう。喜びや悲しみ、痛みをいかに分かち合うべきか、みすゞ詩を読むことで素敵な大人になってほしい。」等と述べた。また「『わたしと小鳥とすずと』では、あなたはあなたであることが一番であり、この世に生まれてきたことだけで百点満点。勉強ができる、できないではなく、あなたはいるだけで素晴らしい、なぜなら子どもは大人に夢や希望を与えてくれるから。大人は子どもに対して、あなたは私にとっての宝物だということをはっきりと伝えるべき。そういううれしい言葉があふれると世の中は変わる。」と述べ、深い感銘を与えた。

【む】
結びの里・谷根ウォーキングMAP(むすびのさと・たんねうぉーきんぐまっぷ)
自然の宝庫として知られ、男女睦まじい双体道祖神も多いことから「結びの里」と称される柏崎市谷根地区を発信するため、たんねのあかり実行委員会が2013年に作成。委員会が選定した「結びの里・谷根道祖神巡り(小杉往復)コース」「谷根-古道・北山街道-薬師堂健脚コース」「谷根-小杉-吉尾コース」「鯨波林道・いちご・ブルーベリー狩りコース」「結びの里・谷根道祖神巡り(谷根神社・集落)コース」「水源の里・谷根コースA(谷根ダム・赤岩ダム)」「水源の里・谷根コースB(不動の水)」「谷根-宮平-田屋健脚コース」「谷根-小杉-笠島コース」「ビュー米峰・花桃の丘・谷根集落周回コース」の10コースを各種施設と共に紹介、新種発見で話題となった「タンネアザミ」「ヨネヤマアザミ」をはじめとした谷根の花々、米山講のメインルートとして使われ長さ160メートルの手掘りトンネル跡が残る「古道・北山街道」にもスポットを当てている。

棟方志功からのハガキ-出雲崎が生んだ版画家・旭達文(むなかたしこうからのはがき-いずもざきがうんだはんがか・あさひたつぶん)
柏新時報2011年1月1日号に掲載された長谷川浩の寄稿。長谷川は2010年に出雲崎町で開催された旭達文板画彫刻展で実行委員会代表を務めた。長谷川は、ようやく脚光を浴びることになった旭を改めて「旭達文(1909-1984)画伯(号、黙亭)であるが、出身は長崎県南高来郡有明、現在の島原市、生家は浄土真宗のお寺、勝光寺に生まれた。母親が越後に布教(本山の依頼により地方巡教師の講演)にこられたとき、たまたま出雲崎町羽黒町の光照寺に立ち寄り、縁あって入寺された。画伯は、版画は勿論のこと彫刻・写真・俳句を嗜んでおられ、俳句仲間であった出雲崎町文化財調査審議会の会長磯野猛氏によれば、『黙亭さんの人柄は、①温厚篤実、②穏健控え目、③感性豊か』と評されている。」と紹介すると共に、師である棟方志功との交流については「世界的巨匠の棟方志功画伯を師としたのは四十二歳の時である。それから二十四年間の交流があり、交わしたハガキは二三〇通に及ぶとも言われている。」「ある時は師に作品を送り、ある時は作品を背負い、杉並区荻窪の自宅まで行き指導を受けたという。旭達文画伯の荻窪通いは年2回、6月の『町の市』(出雲崎の大祭)の頃、『ちまき』を持って、秋は稲刈りが終わった頃『コメ』とか『もち』を持って、棟方志功宅を訪問することが定番のようだった。」と説明した。また、板画彫刻展で展示され話題となった志功からの「ハガキ」を紙上紹介、「『米山と樹海』は、上半空が白く、また中景から下は白で、白と黒とに区切られてゐるのですが、この区切られてゐる至難をよくやり遂げたと存じます。(略)このところ何も悪口が出來ないところまで創りつづけて参りました。旭氏のためによろこびです。自分の道々が、もう判然して來た様です。思ふだけを、急がず、あせらず遂げ進むといふだけです。伏して健斗期します。」を取り上げ、「時にはハガキに絵を画き、指導批評するものを見ると、如何にもその親交の深さが伝わってくる。」と評した。

棟方志功と出雲崎(むなかたしこうといずもざき)
柏新時報2004年1月1日号に掲載された磯部游子の新春寄稿。磯部は出雲崎町の郷土史家、俳人で、出雲崎と棟方志功の係わりについて「棟方志功を応援した人の中に、亀田町の長谷川家がありました。昭和7年、志功は版画「亀田・長谷川邸の裏庭」で国画会奨学賞を受賞し、ようやく世間に名前が知られるようになってきました。この長谷川家と出雲崎町の津山家は縁戚関係にあって志功は長谷川家の紹介で昭和11年ごろ出雲崎の津山家を初めて訪れました。(略)その後、志功は頻繁に出雲崎を訪れるようになり…」とし、「柏崎市での講演を依頼されたものの、長岡駅で降りてしまった志功は、講演のことをすっかり忘れてしまったのか、タクシーで出雲崎町の津山家へ向かい、夕食をご馳走になっていたのだそうです。その頃、当の柏崎の人たちは、予定の時刻になっても志功が来ないので、あちこち連絡をとったがわからず、『もしや出雲崎の津山家にいるのでは…』と電話をしてみたところ、津山家では志功の突然の訪問に大慌ての様子だった」とのエピソードを披露している。後半は、棟方志功の弟子となった旭達文を紹介、「旭達文氏と棟方志功の出会いは昭和30年に入ってからのことで、志功が旭氏の版画を見て感心し、『出雲崎にこんな素晴らしい版画を彫る人がいたのか』と驚き、是非自分の弟子にならないかと熱心に話をしたのですが、旭氏は自分は師匠も要らない田舎の版画家でよいと言って断ったそうです。」との逸話を紹介し、「今後、棟方志功と出雲崎の係わりや旭達文氏の人物像などを掘り起こし、出雲崎の人たちからも二人のことについて再認識してもらうべく、作品の発掘と関係資料の調査をしていきたいと思っております。」と結んでいる。磯部らの奔走があって2010年に出雲崎町で「棟方志功に絶賛された僧旭達文板画彫刻作品展」が開催された。

室星董道随筆集 画室の星霜(むろぼしとうどうずいひつしゅう がしつのせいそう)
「米山さんの画家」として知られる室星董道(1904-1988)の随筆集。1980年刊。室星ファンによる「新潟米山会」が発行した。NHK新潟放送局の「朝の随想」出演(1978年)の際の原稿をはじめ、浜田広介との出会いと交流、師である古家新や神原泰の記憶、諸資料をまとめており、特に浜田との交流の深さを示す書簡、資料類は貴重。室星は「はじめの言葉」で「画を描く傍ら、たまに詩や散文などを作りそれで慰められる事が多かった。東京にも出稼ぎ中に色々な作家や音楽家との交流を得て、絵の外に自分の歩るく道に大変勉強になる事が多かった。」としたうえで「今更ら…こんなものまでもと、言う感じもしたが、これから何年元気で居られるか判らない自分の年齢を考える時、永い間誰にも語る機会もなかった心の記録とも言えるものなど捨て難いものがあり、それに何よりも今日まで導びいて下さった方々への感謝の意を現わしたい意欲が強く涌いた。あれやこれやでとりとめのない雑文集となったが、日頃孤独を愛しつづけて来た己が、今感謝し切れない心持ち一パイで書いたものには間違いない。」と述べている。所々に室星自身によるスケッチ画が挿入され、精文館の忘年会で「越後人はあばら骨が一本足りない」と発言した北原白秋に敢然と立ち向かった「出稼ぎの頃」も興味深い。浜田の次女・浜田留美の『〔ひろすけ童話〕をつくった浜田広介』でも一部が紹介されている。

室星董道と浜田広介(むろぼしとうどうとはまだひろすけ)
「米山を描いた画家」「米山さんの画家」として知られる室星董道(1904-1988)が浜田広介の友人であったことはあまり知られていない。室星董道随筆集『画室の星霜』(1980年)には浜田から「室星大兄」に宛てた書簡が紹介されている。「むかしの友を忘却し去ったのではありません。むしろ今の世の有様を見るにつけ、聞くにつけ、昔の友の尊さが思ひ出さるばかりです。(略)君も恐らく、人後におちぬ世間苦をおなめになられ御生来の賢明さがいよいよ磨きをかけられて、玉のように光を増されていられるのではありますまいか。お会いが出来れば、つもる話は山のようになりました。」(1947年9月3日)、「御長男敦郎君の成長ぶりも想像が出来ます。(略)いろいろつもる話は、長岡へんのある年の雪の深さと同様でしょう。」(1947年9月30日)など交流の深さが伺い知れる内容で、浜田は室星の長男敦郎の仲人も務めている。随筆中にも「昭和7年頃は私の東京での筆の出稼ぎ時代であって、浜田先生とのかゝわりが一番深かった。神田の精文館で小学生一年と二年の絵雑誌を発行していたが、童謡が北原白秋、童話が浜田ひろすけ、その他坪田譲治、与田準一、徳永寿美子氏等が作品を書き、絵は初山滋、鈴木信太郎、黒崎義介氏が勝れた童画を描き、それに下手な僕も加えてもらった。」「僕はひろすけ先生の私設秘書であったのかも判らない。それにしてはヒゲを生やした親父ぶったませた秘書で、時には迷惑だったのではあるまいか。急に金策の必要に迫まられた時、或は出版会社への交渉や原稿を届けに行く時、高弟ぶった僕の方が都合の良い事もあった。先生を師とも大先輩とも尊敬していた僕は、それ等の事柄は全く自分の事の様に思っていた。だから別に苦痛とも恥かしいとも何ともこだわる事は少しもなかった。」といった興味深い記述がある。戦時下には「ある日、浜田廣介さんと千葉の友人宅へ食糧の工面に行き、あす東京へ帰ろうとした前夜、西の方がうす気味悪るく赤く、東京がB29の大空襲を受けた事を知った。到々やって来たナァと思った。翌日もらった南京豆の袋を腰に巻き、若干の米を鞄に入れ、汽車を乗りつぎながら漸く日暮里に着いたのだった。」と共に食料確保に当たったり、帰柏した室星が浜田に「荒浜の芋」を大量に送るなどして浜田家を支え、浜田からの「わが家井戸ばたに、どしんとばかり物凄い音がしました。スハ何事と怪しむ間もなく、荷運び人が、お台所の戸をあけて、これにはんこと、紙片をさし出しました。それが即ち荒浜お出しのものであります。即ちお芋は安着のわけであります。何しろ余りの大量とて一体、これは当方に項いたのかしら、それとも、貴兄或は焼芋屋を発心いたされ、まづ芋を先発せしめられたるか、(略)毎度の御友情うれしく有難く三拝、このことに存じます。姉や家内も大喜びで、子供等と毎日頂戴いたしました。」といった礼状も残る。室星は浜田創刊の「童話童謡」も懸命に支えたようで「たしかに当時としては児童文学界に色んな意味で大きな反響があった。引き続き二号の編集にとりかかり、僕も絵を描く傍ら、出来る丈け協力したのである。」と述懐。「童話童謡」創刊号に見える柏崎色の濃さは室星の奔走によるものではなかったか。田園調布にあった浜田宅の増築にあたっては「その後子供さん達も成長され、増築や改築もせねばならず、資材の乏しい時、柏崎から知り合いの大工左官を連れて行って、十日間位で工事を手伝った。」というから、柏崎との関わりは相当深かったようである。

【め】
名園から偲ぶ庭師田中泰阿弥展(めいえんからしのぶにわしたなかたいあみてん)
2004年に柏崎ふるさと人物館夏の企画展として開催された。柏崎市加納出身で、銀閣寺の「洗月泉石組み」「相君泉の石組み」の発見修復で知られ、全国の作庭、茶室の設計、文化財の修復にあたった田中泰阿弥の足跡を名園を通し振り返った。鎌倉の瑞泉寺石庭、鶴岡の斎藤家庭園、旧藩主酒井氏庭園、北方文化博物館、新発田市の清水園、柏崎市の豊耀園などを紹介。なかでも豊耀園作庭(1966年から1967年)の様子を泰阿弥自身が絵と文で綴った「豊耀園造庭記」(乾坤の2巻、1巻の長さ9・5メートル)が注目を集めた。ここには「郷里への最後の奉仕」として「命がけ」で作業に取り組んだ様子が細かく記され、なかでも「南無不動明王、守護したまえ」と経文を唱え続けた「三本杉」の移設は圧巻。

明鏡国語辞典(めいきょうこくごじてん)
柏崎出身の国語学者・北原保雄編による辞典。2002年刊。『日本語逆引き辞典』で逆引き辞典ブームをつくった北原が「今までの辞書にはないオンリーワンの国語辞典をめざしたい」と刊行作業を進めてきたもので、検討会議だけで100回を超えたという。豊富な文例やニュアンスの説明を大きな特徴としており、使用頻度の高い現代語約7万語を厳選して収録した。「『明鏡』は曇りのない澄みきった鏡のこと。二十一世紀の日本語を歪みなく正しく映していく鏡にしたいという願いをこめた。これまで記述されたことのない意味、指摘されて初めて気づくような意味、どこまでが許容されどこからが誤用とされる表記かなどの問題についても突っ込んで記述した。全体的に読んで楽しい、表現と理解に役立つ使える辞典になっているはずです」とコメント。キャッチコピーの通り「日本語の達人になる」辞典として評判になり、第2版(2011年)、第3版(2021年)も北原が編者となった。

明治天皇柏崎行在所(めいじてんのうかしわざきあんざいしょ)
明治天皇北陸東海巡幸の柏崎行在所があった柏崎小学校内には「柏崎行在所」(1926年建立)、「明治天皇柏崎行在所」(1937年建立)の記念碑がある。なぜ2基なのかは不明、「柏崎行在所」碑側面には「大正十五年三月子爵清浦奎吾題」(清浦は第23代内閣総理大臣)、「明治天皇柏崎行在所」碑側面には「史蹟名勝天然記念物保存法ニ依リ史蹟トシテ昭和十二年八月文部大臣指定」とある。現地看板(柏崎市教育委員会、1976年)は風化して読みにくいが「柏崎行在所は四代目篠田宗吉を統領として和風二階建て35平方メートルの木造独立の建築物であったが昭和48年6月柏崎小学校改築工事のため解体された。」とある。当時の状況について『子どものための柏崎校ものがたり』(1994年、柏崎小学校)は「柏崎校は明治11年5月から、校舎新築にとりかかり、また明治天皇をお迎えするために、同じ所に天井が金紙貼りの和風二階建ての豪華な建物を建設しました。これが天皇が旅行するときの仮の宿、行在所です。しかし、一行の先発官はこの建物を見て、町民に負担をかけすぎていると言い、また、行在所に至る通路は曲がり、西日が差し、夜は波の音が聞こえるなどの理由で、聞光寺を行在所に当てることにしたのです。この決定におどろいた町民代表は、なんども県の役人や県令(今の知事)にお願いしましたが、許されませんでした。しかし、町民全体の負担で建てたのではなく、心ある人たちで建てたことを強調したり、さらに天井を銀紙に貼り替えたりしてやっと柏崎校に決定したのです。」と説明する。宿泊は9月13日と23日で「御巡幸供奉官貟(員)姓名幷(並)旅宿割」(柏崎市立博物館蔵)によれば随行者のトップは岩倉具視(右大臣)で、大隈重信(参議)、井上馨(参議)、大山巌(陸軍少輔)、川路利良(大警視)、山岡鉄太郎(宮内大書記官)等と錚々たる顔ぶれが続く。このうち、聞光寺に宿泊した山岡鉄太郎(鉄舟)に揮毫を依頼したのが「柏崎校」の校名額で、現在も柏崎小職員玄関に掲示される。1922年の創立50周年にあわせ制定された柏崎小校歌二番に行在所となった歴史を「明治大帝そのかみの/かしこき御宿たまわれる」と讃えたが、戦後歌わなくなった。解体された行在所の部材一部は旧野田小学校内で保管。

明治天皇御巡幸記念碑(めいじてんのうごじゅんこうきねんひ)
御野立公園(柏崎市東ノ輪町、鯨波2丁目)にある巡幸記念碑で、正しくは「駐蹕之碑」。駐蹕(ちゅうひつ)は「天子の行幸中、一時のりものをとめる」(広辞苑)の意味で現地の説明板には「明治天皇御巡幸の翌年明治12年(1879年)2月、大区長、副戸長の主唱により、鯨波村民が記念として駐蹕之碑を建てた。」とある。「明治十一秊(年)天皇北巡し觀(観)風省俗、親しく民瘼(みんばく、民の悩み苦しみ)を訪う。九月十三日越後刈羽郡鯨波邨(村)に到り山上に駐蹕し以って海山の勝を覧(み)る。明秊(年)二月邨(村)民相謀りて石を建て以て盛事を記しこれを後昆(こうこん、後世の人)に垂る。嗚呼聖徳にあらざれば詎(いずく)んぞ能(よ)くかくの如くあらんや。臣扈従(こしょう、貴人につき従うこと)の班にあり、その請(こ)いによりてこれを記す。」とある。碑は詩にある「山上に駐蹕」の辺りに建立されており、碑の一部は破損のため判読不能。篆額は「宮内卿兼侍補正二位勲一等徳大寺實則」、撰文と書は「宮内大輔兼侍補正五位杉孫七郎」。徳大寺は西園寺公望の実兄で明治天皇の側近、杉は長州出身の宮内省官僚で漢詩や書の名人として知られた。『ふるさと鯨波』(1995年、鯨波公民館・鯨波地区コミュニティ振興協議会)は「当時御年二十七歳の若き天皇は、この地が十年前東西両軍が厳しく戦った戊辰の役の戦場であったことに、深いご感慨を催されたことと拝察されるのである。」と背景を説明する。なお、同碑近くには「明治天皇東ノ輪御野立所」碑(1937年建立)、「皇太子殿下御慶事紀年樹」碑、公園入り口には「先帝駐蹕址」碑(1928年建立)がある。

「名族小国氏発祥の地」記念碑(「めいぞくおぐにしはっしょうのち」きねんひ)
小国町時代の2003年に小国森林公園(小国町上岩田、現在は長岡市おぐに森林公園)駐車場の一角に建立された記念碑。小国氏は清和源氏の流れを汲む名族で、源頼政の弟にあたる頼行が小国保を賜り小国氏を名乗ったのが起源。その後、小国氏は岩室に移転したため小国氏の遺跡が少なく、その居城さえも判明しない状況だが、子孫は大国氏として連綿と続いている。「合併論議のなかで小国の地名存続は風前のともしびとなっており、小国町民の心の拠り所として記念碑を建て、名族小国氏の名を後世に伝えたい」との機運が高まり、小国文化フォーラムが中心となって募金を集め建立した。高さ5メートルの主碑には「名族小国氏発祥の地」、副碑には「中世の頃小国町一帯は『小国保』と称され、国衙領であった。この小国保一円を支配し開発に努めたのは小国氏である。小国氏は清和源氏の嫡流で源三位頼政の弟源頼行を祖とする。長承年間(1130)小国保に入部し土地の地名を名字として『小国氏』を名乗った。頼行-宗頼-頼継(連)と続くが、この地に定着したのは頼継である。後白河法皇の第二皇子高倉宮以仁王が小国氏を頼ってこの地に隠れ住んだという伝説もある。源頼朝が鎌倉に幕府を開くと頼継は有力御家人として小国保地頭に補任された。/頼継は建暦二年正月、鎌倉幕府の御弓始めに射手として選ばれ,堂々第一位を獲得し、三代将軍実朝公より『天下一の精兵なり』と賞賛され、一躍小国の名を全国に轟かせた。/その後、蒲原方面の領地経営のため、本拠を岩室の石瀬に移したが、一族をこの地に残し、小国の開発発展に尽した。/南北朝時代には小国政光が越後南朝軍の総帥として大活躍した。戦国時代には小国頼村・小国重頼等が上杉謙信配下で有力家臣として重要な位置を占めていた。上杉景勝代に『大国』と改名したが,家系は綿々と続き、現在に至っている。/今ここに小国氏居城跡と推定されるこの地を選び、碑を建立して名族小国氏の名を後世に伝えるものである。」(山崎正治撰文)と経緯を刻んだ。除幕式(2003年8月30日)には小国氏の末裔で東京都三鷹市在住の大國昌彦ら一族も駆けつけた。

【も】
「毛利」北条城山まつり(「もうり」きたじょうじょうやままつり)
1997年8月16日に北条城山(柏崎市北条)で開催された「西国毛利ルーツの地」発信イベント。大江広元の孫である毛利経光が三浦泰村の乱(1247年)により佐橋庄(柏崎市)に下向したことで「毛利」の命脈をその後の西国毛利につなげることになったが、この事実が看過されることが多く、同年のNHK大河ドラマ「毛利元就」放送を機に地元関係者あげて実行委員会を組織、発信を行ったものだ。メイン行事の「武者行列」では地元の人達50人が時代衣裳を身に付け「毛利館」のあった佐橋神社(柏崎市南条)をほら貝の合図とともに出発、JR北条駅を経て、北条毛利の菩提寺である専称寺まで約6キロを勇壮に練り歩き、歴史絵巻の再現に沿道から声援が送られた。専称寺では鈴木昭音住職により「毛利公法要」が営まれ、鬼丹後で知られた北条高広ら歴代城主の時代に思いを馳せた。また、例年9月に行っている北条十五夜まつりを1か月早めて15日と16日の2日間行い、北条城趾では今イベントのシンボルとして高さ8メートルの一夜城が建造され2日間にわたってライトアップを行った。記念酒「毛利北条城山桜」や「城山煎餅」「城山里そば」の販売も行われた。

毛利浄広(もうりきよひろ、?-1574?1578?)
越後毛利一族の善根(ぜごん)毛利、八石(善根)城主。『郷土誌中鯖石村史』(1912年)は、天正年間(1573~1592)に同族の北条城主毛利丹後守に謀殺されたとする。同村史には「浄広は容貌魁偉、豪胆な英傑として知られ、丹後守は敵わなかった。奸佞の徒である丹後守は女(むすめ)に機を見て暗殺せよと名刀一振りを授けて浄広に嫁がせたが、果たすことができず、そこで一計を案じ、北条城に浄広を招き、歓待して(油断させ)風呂に入った所で天井を切り落とし、蓋をして出られないようにし焚殺した」(本文は漢字と片仮名による仮名交じり文、意訳)とあり、浄広殺害の急報を聞いた与板城主の毛利周広(ちかひろ、浄広の弟、子、家老などの説あり)は「北条城に駆けつけたようとしたが、敵勢に囲まれ南条で引き返し、周広院の老杉の下で自害した。浄広の妻は剃髪し、柏崎市木沢の花栄寺に入った。」(同)としている。没年について「浄広寺の位牌には天正2(1574)年、墓には天正6(1578)年と刻む。」とする。なお、殺されたのは周広との異説もある。浄広、周広とも確実な資料がないため、今も謎の存在。地元に伝承が残るのに、なぜ史料が皆無かも謎。

毛利氏供養塔(もうりしくようとう)
柏崎市南条の佐橋神社そばに2012年建立。撰文は関久(越後毛利研究者)。毛利経光(玄番)、長男基親、4男時親ら12人が墓誌に刻まれる。副碑には「この地は大正12年まで関修家の居住地(屋号・城)であり、同家が毛利氏の霊牌を奉祀してきた」「毛利氏は大江広元の四男季光が神奈川県厚木市の毛利庄に住み毛利家を称したことにより誕生した」「三浦氏の乱で毛利一族は族滅したが、偶然にも季光の四男経光が生き残り、佐橋庄へ下向し、その子孫は当地南条から北条、安田、石曽根、善根へと分流した」「毛利元就が出た西国毛利氏の先祖は、経光の四男時親である」などを刻む。

毛利季光(もうりすえみつ、1202-1247)
大江広元の4男で、鎌倉3代将軍・源実朝に仕えた。実朝暗殺後は出家(入道西阿)。承久の乱(1221年)の軍功で安芸国吉田庄を与えられる。1233年には関東評定衆の一員となった。三浦泰村の乱(1247年、宝治合戦)では御所に向かおうとしたが、鎧袖を握りしめた妻(三浦泰村の妹)に「兄泰村を見捨て北条時頼に味方することは武士のすることではない」(吾妻鏡「若州(泰村)を損(す)て左親衛の御方へ参る之事は武士の致す所か」)と引き留められ三浦陣営に付き、これによって毛利一族は大半が討死、自刃した。北条氏はこの乱によって専制支配を確立した。前将軍護送のため乱に加わらなかった4男経光だけが唯一生き残り、この子孫から越後毛利、西国毛利が出る。

毛利経光(もうりつねみつ、生没年不明)
大江広元の孫、毛利季光の4男。相模国毛利庄(現在の神奈川県厚木市)に居住し、毛利姓を名乗ったのが毛利の始まり。鎌倉幕府4代将軍・藤原頼経が宮騒動(1246年)で鎌倉を追放され、京都に送還される際、護衛の武士として随行(1246年7月11日の『吾妻鏡』に「供奉人として毛利蔵人経光」の記述あり)。上洛中に鎌倉では三浦泰村の乱が起こり、一族がほとんど自刃したため鎌倉に戻ることができなくなり、佐橋庄(柏崎市)に下向した。明治初期に藍澤朴斎(藍澤南城の養子)の漢詩に「毛公ここに左遷さる」とあるが、当時の政治情勢などを考慮すると「避難」であろう。三浦泰村の乱の結果、毛利氏発祥の地である毛利庄(神奈川県厚木市)は没収されたが、佐橋庄、安芸吉田庄の領有は許され、1270年に4男時親に譲渡。吉田庄の子孫からは毛利元就が出ている。また長男基親は北条毛利、安田毛利などの祖となった。越後毛利研究家の関久は「毛利経光は宝治合戦による痛手から立ち上がることができず、寒村の南条城で一生を終えたようだ」(越後毛利の殿さま)、「経光が越後毛利と西国毛利の祖であり、南条城館はその宗家をなす。南条城館の嫡孫基親の系統から、北条毛利・安田毛利・善根毛利・加納毛利などの支族が分れ、宗家の南条毛利を合わせて、これをいわゆる越後毛利という。これに対して、南北朝時代に時親の系統を引く毛利元春が南条城館を出て安芸の吉田庄に移り、いわゆる西国毛利の祖となる。従って本邦における毛利の一族は南条城主毛利経光とその一族の流れを汲むものである」(北条町史)と分析、解説している。

毛利時親(もうりときちか、?-1341)
越後毛利と西国毛利の祖となった毛利経光の4男。父が三浦泰時の乱後、鎌倉から柏崎市南条に「避難」している際に当地で出生したとみられ、古老の間では「修理様」と呼ぶならわしがあった。再び鎌倉幕府に復帰、京都六波羅探題の評定衆を務める。鎌倉幕府から在京料として河内国加賀田郷(大阪府河内長野市)を拝領、隠居後はここで若き楠木正成、正季兄弟に兵学を教え、吉川英治の『私本太平記』に登場、「生地は越後だ。同国佐橋郡ノ南条の守護、毛利経光の4男である。少壮から変り者の方だったらしい。しかし、六波羅の評定衆に加えられ、その才はほどなく、鎌倉の執権代長崎高資の一族泰綱にみとめられた。そして泰綱のむすめを妻に娶った。」などと描かれる。父経光から1270年に佐橋庄、安芸吉田庄を譲渡されるが、吉田庄が奪われたため、1335年に南条にいた曾孫の元春を安芸国へ派遣、翌年の1336年自身も安芸に移り、領土奪還に奔走しながら、同地で死去。

毛利元就ルーツの地(もうりもとなりるーつのち)
柏崎市南条の佐橋神社の境内地や付近の丘は、越後毛利氏の祖となる毛利経光(鎌倉幕府の重臣・大江広元の孫)が三浦泰村の乱(1247年)を逃れて下向、居住した地で、その後の越後毛利、西国毛利の発祥の地となった。「三本の矢」の故事を残した戦国大名・毛利元就ルーツの地でもある。大江広元の子孫には「元」を通字としている武将が多く、毛利元就もそのひとり。佐橋神社境内には柏崎青年会議所がまちしるべ「毛利元就ルーツの地」を2000年に設置、「佐橋庄の経営拠点として7か村(高柳、南鯖石、中鯖石、北鯖石、西中通、北条、矢田)に及ぶ広大な領地を経営し、現在の鯖石の語源になった」「学問を好む風土は江戸時代の教育者・藍澤南城にも引き継がれた」などと記している。

毛利安田氏文書(もうりやすだしもんじょ)
越後文書宝翰集(えちごもんじょほうかんしゅう、722点、国指定重要文化財、新潟県立歴史博物館蔵)のうちの51点。越後毛利の一族安田氏(柏崎市安田に拠点、その後山形県米沢市に移住)に伝来した1374年から1612年までの幅広い期間の古文書群で、室町将軍家、上杉房能、上杉顕定、長尾為景、上杉謙信、上杉景勝などの文書が含まれ貴重。新潟県立歴史博物館の前嶋敏専門研究員は柏崎市制施行80周年記念かしわざき市民大学特別講座「柏崎の武将と越後上杉氏―毛利安田氏の古文書をもとに」(2020年)で「700年前の文書がこれだけまとまって残っているということが大変すごいことだ。室町、戦国を通じて、これだけ大量の古文書群が存在するのは、意識的に残さなければ不可能。同家の姿勢とも言える」と評価した。

木喰さんにまつわる無数のわからないこと(もくじきさんにまつわるむすうのわからないこと)
木喰研究家の三宮勉(柏崎市)が、木喰上人にまつわる謎や伝説を含めた様々な問題点を整理、公開し、研究への道筋を示した手書きの小冊子。「第一次」(1973)版では12頁にわたり総計170もの疑問点についての情報収集を呼びかけ、全国各地の木喰研究者や郷土史家がこれに応えることで研究が進展した。表紙には「おねがい」に続いて「木喰さんに関心をもちつづけて40年余。近づけば近づくほど巨大な存在で、正体がわからなくなってしまう。つぎつぎと湧き出るわからないことがらは際限もなくふえていく。そのわからないことを大小となく気付くままに書きならべてみた。総計170にも及ぶこの?一生かかっても解けないであろうが…心をお寄せ下さるお方から、一つでも二つでも教えていたゞけばまことにありがたく存じます。そんなねがいをこめて粗末な資料お届け致します。」とあり、「生涯」、「木喰さんの人間像」、「木喰仏、彫刻」「木喰さんの心願」「木喰さんの歌(和歌、俳句)」「木喰さんの絵」「木喰さんの書」「僧名」「木喰研究」の各項目で疑問点を整理。「丸畑四国堂八十八体仏完成後、千体仏悲願達成を目ざして頽齢をおかして、その造仏の舞台を何故に雪深い越後にえらんだか」(第2回越後入り)、「一夜にして4体という超能力のヒミツ」(西光寺十二神将仏)、「6尺ゆたかの偉丈夫説と、むしろ小男と相反する伝承があるが果たしていづれが真か?」(体つき)、「卓越した体力、脚力、彫刻のスピード。その超人的な力は何によって養われたものか」(同)、「当時としては極めて稀な93歳という長寿、晩年にして偉業達成のヒミツは?これを木喰戒のためとのみみてよいかどうか?」(同)、「木取り方もわきまえていない、素人芸…とみる向きもあるが、像底に墨打ちしてあるものも多く、全くの素人とはみられないのでなかろうか」(仏師としての地位)、「大和、山城、鎌倉はじめ多くの古刹、名門を遍歴し、飛鳥、天平以来の名作仏像に無数、接していると想像されるにもかかわらず、木喰さんの作品にそれらの影響らしいものが現れないのはなぜであろうか」(同)、木喰さんの用いた彫刻用具は何であったか」(同)、「円空仏の直線性と対比される木喰仏の特質、丸み-曲線-量感のもつものは何か」(同)といった率直、簡潔な表現が目立つ。

もしも良寛さんが今の学校に転校してきたら(もしもりょうかんさんがいまのがっこうにてんこうしてきたら)
出雲崎小学校文化祭で1998年に行われた創作劇。「心の教育」活動の一環として良寛さんの優しさ、思いやりをオリジナル劇に仕上げたもので、脚本から準備、練習を児童手づくりで進めた。ある日、ボーッとした転校生が出雲崎小にやってくるところからはじまる「良寛さんが私たちの学校にやってきた」、良寛さんならではの優しさをちりばめた「パンと子犬と良寛」、「おばあさんと良寛」の3幕で構成。4年生から6年生までの25人が出演し、40分ほどの熱演に大きな拍手がおくられた。柏崎演劇研究会代表の長井満が指導、校長の高橋功一は「これだけのスタッフで素晴らしい芝居を作り上げた子どもたちのパワーに脱帽。これまでの良寛学習の成果が着実な下地となっていた。」と感激した様子だった。なお同校では1997年にも良寛劇「良寛の一生」を行っている。

以仁王伝説(もちひとおうでんせつ)
旧小国町に伝承される以仁王伝説を広く発信するため小国町歴史ロマンを語る会が2002年に刊行した歴史マンガ。小国町等で伝説を調査、取材した柿花仄による『皇子・逃亡伝説』が出版されたことから機運が高まり刊行に至った。脚本は高橋実、作画は高橋郁丸。平家追討の令旨を発した後白河天皇の第三皇子・以仁王は奈良光明山で戦死したことになっているが実は脱出し、清和源氏の流れを組む小国氏を頼り越後小国郷に隠れ住んだという伝説をもとに「巻物出現」「平家追討以仁王令旨」「小国をめざして」「以仁王小国入り」の4章で構成、資料編では伝説の根拠となった「北原家巻物」を紹介するなど充実。小国町歴史ロマンを語る会会長の北原勲は「発刊にあたって」で「私たちの子どもの頃、正月の十一日(戦前の正月は一ヶ月遅れ)になると、北原家総本家(北原信義氏)に巻物様について身内がひそかに確かめあう行事が行われた。私の曽祖父(天保五年生れ)曽祖母(安政六年生れ)、祖母(明治六年生れ)などよく語り伝えてくれた。それはそれは大事な巻物なのだと語ってくれた。戦争が終り、平和となった今日、一族だけでというタブーを改めるため、公開致す事となった。幸いにも大変苦労をなされて、『皇子・逃亡伝説』として世に出された、柿花仄先生とは、一族の内に姻戚関係の方もおられ、町企画商工課、歴史ロマンの会有志の方々に改めて厚く御礼を申上げます。」と述べている。同年には「もちひとまつり」が開催され、歴史野外劇「以仁王伝説-遙かなる轍」初演やシンポジウム「もっと知りたい。以仁王逃亡伝説」が行われた。

元内閣総理大臣田中角榮遺墨展(もとないかくそうりだいじんたなかかくえいいぼくてん)
2016年に田中角榮記念館で開催された遺墨展で、日中国交正常化の際に詠んだ漢詩「国交途絶幾星霜/修交再開秋将到/隣人眼温迎吾人/北京空晴秋氣深」、「以和為貴」など50点(掛軸、色紙、額)を展示した。オープニングセレモニー(2016年5月4日)で財団法人田中角榮記念館の田中眞紀子副理事長は「揮毫を頼まれた父は、『書を見れば人がわかる』と懸命に、しかも楽しみながら書いていた。父の人生とともに書の数々を見てほしい」とあいさつ、「書を頼まれると、大変熱意を持って書いていた。うまく書けても、款(はんこ)を押すとき曲がってしまうと、捨てろ、そんな物が残ったら困る、と言った。それほど集中していた。今時の政治家は『愛』とか書くが、うちの父は違った。依頼された人のことをよく聞いて、その人に一番合う書を書いた。そのため、中国の書家の本や四文字熟語を夜中勉強していた姿が懐かしい。」とのエピソードを披露した。また「父は大正7年5月4日生まれ。元気だと98歳になる。鶯の鳴くのどかな地で父は生まれた。その後の政治家としての激しい人生を考えると、言ってみれば突然変異の人だったのではないかとも思うことがある。あんな変わった政治家はもう現れないかもしれない。」と振り返った。

聞光寺と西郷吉二郎(もんこうじとさいごうきちじろう)
聞光寺は柏崎市西本町1にある真宗大谷派の寺院。戊辰戦争の際は新政府軍の野戦病院となり、多くの負傷者が担ぎ込まれた。西郷隆盛の実弟・西郷吉二郎もその一人で、1868年8月2日三条市五十嵐川の激戦で瀕死の重傷を負い、聞光寺に担ぎ込まれた。井上温成住職は先代からの伝聞として「(聞光寺が)官軍の病院で、西郷さんの弟がここで亡くなったという話は聞いている。(同時期に西郷隆盛も柏崎を通過しているが)西郷さんが来たとは聞いていない」と話している。NHK大河ドラマ「西郷どん」(2018年、第38回「傷だらけの維新」)では西郷隆盛が弟を見舞うために聞光寺を訪ねたシーンが描かれたが、実際は柏崎は通過したものの聞光寺には立ち寄らなかった。西郷隆盛の柏崎における足どりについても未解明。その後、西郷吉二郎は上越市金谷山の薩摩藩戦死者の合葬墓に埋葬され、西郷隆盛は日枝神社(上越市寺町3)に永代供養料を奉納したという。

聞光寺梵鐘(もんこうじぼんしょう)
1838年に造られた名鐘で、書家としても知られた楽翁公(松平定信)直筆の「無量寿経』の一節と「左近衛権少将源定信」の文字などが刻まれている。大久保の鋳物師(歌代佐兵衛、小熊武左衛門、歌代喜右衛門、原孫左衛門)による鋳造で柏崎市文化財に指定。口径は約1メートル、重量1・5トン。鐘楼は本堂とともに中越沖地震(2007年)で倒壊したが、檀家の協力で見事修復した。

『問題な日本語』(『もんだいなにほんご』)
柏崎市出身の北原保雄(国語学者・日本語学者)が編者となって2004年に刊行された。ベストセラーとなり日本語ブームを牽引、その後も『続弾!問題な日本語』、『問題な日本語その3」『達人の日本語』『かなり役立つ日本語ドリル』『KY式日本語』『言葉美人の知的な敬語』などが刊行された。北原は契機について「『明鏡国語辞典』の携帯版を刊行したことを記念して、全国の高等学校の国語科の先生方に『気になる日本語』を指摘してもらい、それらの使われ方や問題点などについて解説した『明鏡日本語なんでも質問箱』という小冊子(非売品)を作って頒布したところ評判がすこぶる良かった。そこで、より具体的な情報なども加えて書き改め、一冊の本にまとめた」(岐点の軌跡)と記している。発売と同時に大ヒットし「一万部、二万部の単位で版を重ね、それでも間に合わなくなって五万部、最後の方は十万部という単位で増刷を続けるような状態だった。」(同)という。ブームに伴い「クイズ!日本語王」(TBSテレビ)などテレビ、ラジオ出演も相次いだ。2006年の里帰り講演の際、北原は「コピーライターの天野祐吉さんからは『これは書名が良かった』との評をいただいた。中身はともかく顔が良いといわれているようなもの。ともかく書名の微妙な違和感で、多くの皆さんから手に取ってもらった。変な言葉をダメと言うだけでなく、なぜおかしいのかをわかりやすく説明したのが売れた理由ではないか。例えば『問題な日本語』の場合、『問題』は名詞だから『な』はつかない。『問題の日本語』となる。日本語としては問題だが、キャッチコピーとしては正解だった。」と分析した。

「問題な日本語」と「日本語の問題」(「もんだいなにほんご」と「にほんごのもんだい」)
柏崎市出身の北原保雄(前筑波大学学長)が2006年に柏崎市で行った講演。『問題な日本語』がベストセラーになり、「クイズ!日本語王」(TBS)をはじめマスコミへの出演が続いている北原による里帰り講演で、司会者の「それでは(講演会を)始めさせていただきます」に「それはさ入れ言葉で、ら抜き言葉とともに最近の問題。させていただくというのはお願いではなく一方的な宣言で、丁重ではない。」と素早く指摘、会場は笑いの渦に。一問一答形式で「6歳と6才はどう違うか。『才』は難しい『歳』を習うまでの代用漢字。複雑な漢字を習うまでは使って良いですよというもので、大人になっても簡単な『才』をつかっていては問題。」「一所懸命と一生懸命は本来どちらだった。ハイ、手をあげてください。本来は、封建時代に一つの場所(領地)を安堵してもらい、それを命がけで守ったことから、一所懸命という言葉が生まれた。最近では本来の意味が薄れ、一生懸命となった。」などテンポ良く進め「美しく豊かな日本語を身につけるためには、本を読んだり、人の話を聞いて分からない言葉があったらすぐに辞書を引いて確かめる習慣を持つことだ。そういう積み重ねをしていると、美しい言葉、汚い言葉をかぎ分ける能力が備わってくる。適切な場面で適切な言葉が出てくるためには、単語の数が多くなければならない。日ごろから言葉を磨き、言葉美人になってほしい。方言は美しく豊かな日本語の象徴であり、ぜひ大切にしてほしい。」と締めくくった。

【や】
柳生新陰流と「柏崎」(やぎゅうしんかげりゅうと「かしわざき」)
柳生新陰流の秘伝「西江水」(せいごうすい)は能「柏崎」の足さばきがヒントになったという話。俄には信じがたいが、尾張藩の兵学者近松茂矩の『昔咄』に「金春家に一足一言(見)と云ふ大事の秘伝あり。これを柏崎の能にあづけて、二まわり半の伝といふ。此事をゆへ(故)ありて、金春家より柳生家へ語りしかバ、殊の外懇望にて、柳生家の一大事西郷(江)水とかへあひになりぬ。ゆへに、互に弟子となりぬ。依而金春太夫かの九十三番を自筆に書きて相伝せし。」(第3巻、金春家秘伝「一足一言」、柳生家の一大事「西郷水」とかねあひの事)の一節があり事実のようだ。「金春太夫」は柳生石舟斉から剣を学んだ金春63世宗家金春氏勝のことで、新陰流兵法目録を受けた。では実際に「西江水」とはどのような剣なのか。隆慶一郎の「ぼうふらの剣」が参考になる。金春氏勝を「能以上に兵法の天才だった。」と説明したうえで、その子重勝に「それは新陰流が当金春の秘事を映したものです」と答えさせ、実際に「西江水」が使われた場面を将軍家光や柳生十兵衛ら豪華な登場人物とともに「又十郎は一瞬迷った。宗矩が家光に何か解説するのかと思ったのである。それは許すべからざる油断だったが、それにしても宗矩の足運びは異常な早さだった。進んだとも見えぬ間に、宗矩は間境いを越え、又十郎の眼前にいた。」「さっき道場で突然父宗矩のあの日の足運びが見えたのも、決して偶然ではなかったのである。金春氏勝が能の所作に新陰流兵法を映したのか、柳生新陰流が金春の足運びを映したのかは知らないが、宗矩の足運びは明らかに金春流の能と無関係ではなかった。」「その不思議な足運びは、今は不思議でもなんでもなかった。金春の稽古場で日毎鍛えている猿楽の足の運びだった。」と具体的に描いている。厳しい批評で知られた坂元雪鳥の『能評全集』にも「茲(『柏崎』のクセ)には柳生但馬守と金春大夫との逸話さへある…」(1917年、「喜多から梅若へ」)との記述があり、関係者間では柳生新陰流と「柏崎」の話題は周知のことだったようだ。

弥五郎橋(やごろうばし)
上条城主・上条弥五郎政繁にちなんだ橋で、上条城址東側で御殿川(浦の川、鵜川支流)にかかる。十王堂側の銘板には「弥五郎橋」、反対側の銘板には「や古らう者し」とある。上条弥五郎は能登・畠山家の出身で、上杉謙信から優れた才能を認められ、上杉氏の一門である上条氏の家督を継いだ。謙信の後継となった上杉景勝の妹(姉の説も)と結婚し景勝の義兄弟にあたるが、腹心の直江兼継から謀反の疑いをかけられ能登に逃亡したとも、その後徳川家康(豊臣秀吉の説も)に仕えたとも言われている。御殿川はよく氾濫したため河床掘削などの河川改修を行い、現弥五郎橋はこれに伴い1974年に竣工した。上条町内会長として上条城跡の保存に尽力した本多光威は「『弥五郎橋』は、上条上杉家六代の城主で、上杉謙信の武将として大活躍した上条弥五郎政繁にちなんだ橋で、当時としては大変立派なコンクリートの橋でした。今の『弥五郎橋』の西側に河川改修の時、そのまま埋められています。」(我が故郷の上条城)と記憶を綴っている。周辺には御殿橋(1975年完成)、新御殿橋(同)など上条城にちなんだ橋や屋号「御殿」の家があり、往時の名残を残す。

八坂神社祭祀に伴う諸活動推進と一考察(やさかじんじゃさいしにともなうしょかつどうすいしんといちこうさつ)
2005年の柏崎刈羽郷土史研究会総会で小栗俊郎(柏崎市西本町3)が行った会員発表。小栗は元小学校長、八坂神社氏子。小栗は歴史と伝説、祭祀などについて説明、「『ぎおんさん』として親しまれている八坂神社はその昔、和那美水門祇園社(わなみみなとぎおんしゃ)と呼ばれた。古事記中巻11代垂仁天皇の御代に記事があり、創建はさらに古いと見られている。お供え物として海山の幸に加え、胡瓜をあげることになっている。昔、柏崎神社、石井神社、八坂神社の3つのみこしが激しくぶつかり合い、八坂神社のみこしが崖下に落ちたが、胡瓜畑がクッションとなったおかげで助かったことにまつわるもので、胡瓜が取れるとまずは八坂神社に備える伝統ができた。最近では一つの町内でみこしを担ぐことができなくなった。ドーナツ化の厳しい実態だ。」と述べた。また祇園大祭について「7月7日の始祭から27日終了奉告祭まで続き、氏子町内にとって7月は大変慌ただしい。ぎおん柏崎まつりの花火はもともと八坂神社が発祥。桑名藩の柏崎陣屋とも関係が深く、渡部勝之助の『柏崎日記』にも記事が出てくる。陣屋の人たちも大変楽しみに花火の打ち上げを待っていたようだ」などとエピソードを語った。

弥三郎伝説シンポジウム(やさぶろうでんせつしんぽじうむ)
2002年8月17日に小国町で開催されたシンポジウム。小国文化フォーラムの主催で「八石山の岩穴に住み空を飛ぶ山姥弥三郎婆さんの真実に迫る」として弥三郎ばば(弥三郎婆さん)伝説が伝承される県内の関係者が一堂に会した。基調講演「弥三郎伝説の周辺」(日本口承文芸学会会員で相模女子大学講師の倉田隆延)に続いてシンポジウムに移り、小国町、柏崎市、広神村、六日町の伝承地関係者が意見交換を行った。柏崎市から出席した中鯖石郷土史クラブ事務局長の植木専一は「中鯖石の言い伝えでは、葬式の際の赤い日傘と赤い衣を目印に弥三郎ばばが飛んできて死人をさらっては食うというので、浄広寺では青い日傘と青い衣に改めた。また、戦前まで弥三郎ばばの爪が入った箱というのが地元に伝わっていた」、小国文化フォーラム顧問の山崎正治は「障子戸が鳴るような吹雪の日には必ずこの話が始まり、本当に恐かった。泣く子もすぐに泣くのをやめた。今でも悪い子はいないかあ、悪い子はいないかあ、という一節が頭に残っている。この伝説はずいぶんと教育効果を発揮したのではないか。」と述べた。コーディネーターの越佐地名を語る会事務局長・藤田治雄は「本家の弥彦をはじめ新潟市、新津市、分水町、小千谷市、安塚町、佐和田町などにこの伝説が伝わっており、遠くは山形県にも同様の伝説が残っている。これは上杉家の領地替えに伴うものではないか。」と指摘した。当日は八石山婆石(高さ約15メートル)の見学も行われた。

弥三郎ばば(やさぶろうばば)
柏崎市善根(ぜごん)の久木太(くきぶと)に伝わる伝説。鍛冶が嚊(高知県室戸市)に見られるような「千疋狼」説話の類型伝承。弥三郎が山から帰って来る途中狼に襲われ、漆の木に登って難を逃れたところ狼たちは頭目である弥三郎婆を呼び出す。弥三郎は勇気を奮い鉈で婆の額を切りつけ婆も狼も逃亡。ようやくの思いで弥三郎が帰宅すると婆は「風邪を引いた」といって額にはちまきをして寝ている。翌朝、赤ん坊を喰ったことで正体を現した婆は弥三郎に左腕を切り落とされ、破風から飛び出し吉井峠を風のように突っ走って弥彦山に逃げたという。『柏崎市伝説集』(柏崎市教育委員会、1972年)には「弥三郎ばば一」「やさぶろうばば二」、関連して「浄広寺の青傘」「吉井の芝峠のかやなびき」が集録され「金助の家には、この伝説にまつわる刀や秘仏があったと伝えられていたが、今では家も改築され、遺品も散失してわずかに仏様の巻物が残っているだけであるという。」と註記。弥三郎ばばは妙多羅天になったとも。同様の伝説は新潟県内各地に伝承される。2002年に小国町で開催された弥三郎伝説シンポジウムについては別項。

安田の今昔物語(やすだのこんじゃくものがたり)
藤巻泰男(元柏崎市議)編著、2016年刊。安田村の沿革、大地の生い立ち、中世、近世、近代、現代の6章構成。同地を拠点とした安田毛利の歴史については、大江広元を祖に持つ初代・憲朝から19代・元義(うち9代以降は米沢時代)までの流れを毛利安田氏文書(越後文書宝翰集、国指定重要文化財)を解読しながら紹介。上杉謙信の後継を争った御館の乱の際いち早く景勝を支持した7代顕元の行動について「北条高広が小才を利かせて立ち振る舞ったのに対し、安田親子は筋が一本通っていて、忠義に篤く、江戸時代の地方武士を思わせるようなところがあって、後世の私共にも気骨ある生き方を教えているような気がします」と解説。1906年に地域の重立衆6人が城址の中心部を買い取ったことから始まった安田城址の保存整備の歴史、1979年の記念碑建立についてもふれている。

弥彦の婆々スギ(やひこのばばすぎ)
「弥三郎伝説」にまつわる巨木で、弥彦村弥彦の宝光院の裏山にある。樹齢約千年、目通り周10メートル、樹高約40メートルで、弥三郎ばばが住んだと言われる。1952年に新潟県天然記念物指定。柏崎市の弥三郎伝説では「弥彦の妙多羅天はこの弥三郎ばばを祭ったものだという。」(柏崎市伝説集)、「この鬼婆は後、弥彦の方に飛んで行ったということである。」(同)と具体的でないが、同じ八石山を舞台にする旧小国町では「弥彦に行った鬼婆は、やはり近在の子供をさらって食べ、その着物を一本の杉の木につるした。村人は困って坊さんに相談して、鬼婆を妙多羅天女という神様として祭る。それ以後、鬼婆はわるさをぴたりとやめて子供の守り神になる。弥彦の山手に大きな婆杉が今もそびえている。」(『小国の昔話・伝説』第二集)と詳細に書き込んでいる。弥彦村には婆々スギに加え婆々欅、宮多羅などの縁の地が残り「明治時代まで弥彦神社の稚児の舞には、稚児一人に一人ずつのかみしも姿の壮漢が、太刀を持って守っていた。これは昔、鬼婆の襲撃に備えて、始められたことであるという。」(『弥彦村誌』)という。

「山の陣」での綾子舞公演(「やまのじん」でのあやこまいこうえん)
「山の陣」は地域活性化イベント「かしわざき風の陣」の山イベント会場として1994年から3年間、柏崎市鵜川で開催された。メインは綾子舞の公演で、1年目の1994年は小河内の鹿島踊(東京都奥多摩町)、2年目の1995年はおててこ舞(糸魚川市)、3年目の1996年は大の阪(堀之内町)がゲストとして招かれ共演、多彩な山菜料理の提供を始めとしたふるさと料理&バザール、ブナ林探勝教室、そば打ち体験、マウンテンバイクフェスティバルも行われた。「山の陣」はその後みなとまち海浜公園での「風の陣」に統合され、1997年から2007年まで綾子舞の出演が続いた。

山本五十六の米山登山(やまもといそろくのよねやまとざん)
山本五十六は少年時代、柏崎市の同級生を訪ね米山登山を行っており、その際の様子が兄高野季八に宛てた1899年8月14日付書簡に記録されている。山本五十六は旧長岡藩士族高野家の6男として生まれ、古志郡立長岡中学校から海軍兵学校へ進んだ。会津戦争で戦死した旧長岡藩家老・山本帯刀家を継ぐのは1916年のことで、柏崎市の同級生はいずれも長岡中学校の友人のようだ。柏崎滞在は8月1日から5日で、2日は番神海岸散策と海水浴、3日に米山登山を行い山頂で一泊、4日に下山という日程で、書簡には登山の様子が「真直なる坂あり」「或いは鉄索の助けを得て上る所あり」などと表現、後年も米山登山のことを懐かしがったという。柏崎刈羽郷土史研究会の金子宏は同書簡を山本五十六記念館の協力で分析、柏崎刈羽33号(2006年)に「高野五十六少年の米山登山」を掲載した。金子は「鯨波から八号線をトルコ文化村の入り口に入った所に寛政十一年建立の高さ二米ほどの『説法一萬座供養塔』があり、左右に『右の砂はら道ハ京江戸往来、左の坂ハ米山薬師さんけい道』と刻まれている。五十六少年たちが見た道標はこれであったのではないかと思う。隧道については私も昭和十年頃に通ったことがあるが狭い曲がりくねった隧道で真っ暗であった。隧道を通り抜けて辿り着いた別郷のような村落は谷根であろう。そこで昼食を摂り、鉄索の助けを借りて釣瓶落としの坂道をよじ登る様子が目に浮かぶようである。」「山頂から道に迷ったりしながら大平に下り、鉢崎から二年前に開通した北越鉄道に乗って柏崎に着き、その夜は豊田村の友人内山省吾氏宅に宿泊した。(略)内山省吾氏宅は田子屋の内山さんと呼ばれる大地主で上条郷の入口に位置し、邸宅前を無料休憩場所に開放されていた素封家であった。上条郷を往来する人達は必ず内山さんで冷たい水を一杯頂いて、また歩き出したものである。その水の美味しかったことを今も忘れない。」などと解説している。

山を見て海を知る(やまをみてうみをしる)
2016年10月29日に柏崎市立博物館の渡邉三四一が、同年から始動した「柏崎市WEBミュージアム」の周知イベントで行った講演。式内社・御島石部神社(柏崎市西山町石地)蔵の「石地漁場の海図」を題材に地元漁民が長く伝承してきた漁場認識技術であるヤマアテ(山当て)をわかりやすく説明した。石地・大崎・椎谷から寺泊・野積等まで4町11か村の間に漁場争いがあり、これらの漁民代表が県令・永山盛輝に提出した漁場の約定申合せを絵図化した大型の漁図で、1882年製。柏崎市文化財。「ヤマアテ」により漁場の位置、境界を確認、設定しているのが大きな特徴で、扇形の山頂で知られる小木ノ城を「オヤ山」、海岸付近にある約80座を「シタ山」とし、さらに立山や守門岳などの高山と結ぶことで2~3点観測を行い、タラ、シイラなどの漁場を35に区分、岩礁の位置や水深などを詳細に記録している。260センチ×251センチの絹本画幅。細密な彩色描写が施されており金粉も使用、重量は40キログラム超。渡邉は「水産博覧会出品を目的にプロ絵師にたのんで製作した絵図で、絵図の発注者は当時石地区長を務めていた内藤久寛ではなかったか」と推定、「優れたヤマアテ技術を絵師に描かせた稀有な民俗資料。WEBミュージアムのメリットである精密画面で拡大や回転をしながらじっくり見てほしい。」と説明した。

【ゆ】
夕陽を忘れ得ぬ人々(ゆうひをわすれえぬひとびと)
盲目のエスペラント詩人・エロシェンコが柏崎の赤沢助太郎、姉崎惣十郎を尋ねたのは1920年7月の出来事。画家の室星董道はこのことを記録に残そうと柏崎市中浜の赤沢宅を訪問し、当時の模様を改めて聞き取り随筆に残した。「先日、近くにお住まいのマッサージ師の赤沢助太郎さんを久しぶりにお訪ねした。84歳の高齢乍ら、元気で大変嬉しく思った。55、6年程前に、柏崎の海にやって来たロシアの哲学者、盲人エロシエンコとの思い出をもう一度聞きたかったためである。」としたうえで、「当時、赤沢さんの家の裏は、すぐ海岸で、はだしにても海に行ける位であった。今は港の開発で、全く様想は一変してしまっている。エロシエンコが赤沢さんとこの海で、まっぱだかで褌をしめ、海水浴をしたり、角力をとったり、日本海の彼方に沈む陽の輝きを全身に浴び、両手を高くあげ、おおワンダフル、ワンダフルを連発したと云ふのである。」「赤沢さんは遠い昔を思い出し、語ってくれた。『中村さんの画を見ることは出来なかったけれど、色々の批評を聞いて、私の頭にはエロシエンコのすばらしい風ぼうが描かれました。日本語は大変うまく、その物語りには、音楽があり、詩がありました。なぎさの岩に腰をかけて人生をよく語り合いました。』」と貴重な証言を記している。また偶然にエロシェンコらを目撃したとされる画家・宮芳平についてもふれ「彼等が夕陽に感動した番神港は、今は国際港となり、ソ連より沢山の貨物船が入って、荷あげのウインチをひびかせている。赤沢老は見えぬまぶたを静かに閉じて、50有余年の昔、エロシエンコと、浪にたわむれ、砂と遊び、太陽に手をかざした感激をもう一度、思い出して居られるようだった。」と結ぶ。1978年6月のNHK新潟放送局「朝の随想」で室星の朗読により放送された。

『雪国』に登場する三階節(『ゆきぐに』にとうじょうするさんがいぶし)
川端康成の代表作『雪国』に登場する謎の歌詞「蝶々とんぼやきりぎりすお山でさえずる松虫鈴虫くつわ虫」(蝶々には「ちょうちょう」の傍訓)について、湯沢町歴史民俗資料館「雪国館」の河村勝は長年この歌詞を研究テーマとしてきたが「ようやく三階節の歌詞だとわかった」という。その経緯について河村は「湯沢町の芸者衆に聞いたが、わからず、全く手がかりのないところからのスタートだった。手まり歌を調べてもわからず、新潟県内の全民謡を調べるなかで県教育委員会の資料の中にようやくこの歌詞を見つけた。」とし、「駒子のモデルである松栄が、川端先生の耳に入れたのではないか、と考えている。松栄は昭和3年から湯沢に芸者として勤め、いったんここを離れた。その後再び昭和7年に湯沢に戻ってきて『雪国』を執筆する川端先生と出会った。湯沢を離れた時期に柏崎で芸者をし、柏崎で覚えた三階節の一節を川端先生に聞かせた、と考えると説明がうまくつく。」と推測。松栄が柏崎にいた正確な時期は不明だが「蝶々とんぼや…」がローカルな歌詞であることを考えると、数か月程度は柏崎にいたと考えるのが自然」とする。一方で「川端康成に三階節を教えたのは鎌倉文士として交友の深かった吉野秀雄ではないか」という推測も。吉野秀雄は酒好きで知られ、鎌倉の自宅で鎌倉アカデミアの学生達の前で三階節をよく唄ったそうだが、同じように川端の前で上機嫌で三階節を披露したのではないか。なお、三階節がルーツとされる隠岐しげさ節にも類似の歌詞「蝶やとんぼやきりぎりす、お山で鳴くのは鈴虫松虫くつわむし」(「三階節覚書」、松山雍二)がある。「鈴虫松虫」の順序が入れ替わっているのが面白い。

雪残る村(ゆきのこるむら)
旧小国町出身の高橋実の第一作目。初出は文学北都18号。『北越雪譜』を卒業論文のテーマにした主人公・北原が「中学教師か、大学院進学か」に揺れながら「『北越雪譜』は江戸に出た牧之の手から決して生まれはしなかっただろう。もし生まれたとしても、今日の読者の、読むにたえるものにはなっていなかったであろう。」「牧之が暖かい国に憧れながら、雪国から動かなかったのは、雪に埋もれた人と土地とを愛していたからではあるまいか。」と牧之の生き様に自らを重ね、結局「T市のさびしい農村部の中学校」に赴任していく姿を描く。文学界1965年1月号に「高橋実『雪残る村』は、地味な作品であるが、文学の魂とでもいうべきものがここに、確実に息づいているという感がする。」(久保田正文)との評で紹介され第52回芥川賞候補作となり、他の候補作(南勝雄『行方不明』、なだいなだ『トンネル』、伊藤沆『母の上京』、飯尾憲士『炎』、立川洋三『ラッペル狂詩曲』、向坂唯雄『信じ服従し働らく』、長谷川修『真赤な兎』、津村節子『さい果て』)とともに井上靖、石川淳、石川達三、井伏鱒二、川端康成、高見順、瀧井孝作、中村光夫、永井龍男、丹羽文雄、舟橋聖一(うち井伏は欠席、高見は書面回答)が選考にあたったが「該当作品なし」となった。「雪残る村」を好意的に取り上げたのは高見で「創作意識より問題意識の方が強く感じられる『雪残る村』(高橋実)は、それ故私の心を強くとらえた。同時にそれ故また、小説として幼さもそこから来ているようだ」、これに対して石川淳は「今回もっともうすっぺらな『雪残る村』の作者に、わたしはマジメに忠告する。牧之牧之というこの主人公は牧之についてちっともベンキョーしていない。」などと意味不明の酷評をした。

雪割草と観光(ゆきわりそうとかんこう)
新潟県雪割草連合会会長の大原久治が2012年に柏崎市で行った講演。大原は雪国植物園(長岡市宮本町3)の園長を務めており「大正時代の長岡市民が寄付、造成した悠久山公園の活動に習い、次の世代にふるさとの懐かしい風景を残したいと雪国植物園を作り、市民参加の公園作りを進めている。観光という字は光を観ると書く。光るもの、珍しいもの、よそにないものを見つけてきて、徹底的に磨くと、人を呼び込み、活性化につながる。その一つが新潟の雪割草だと思う。関係者がネットワークで連携することが重要。」と述べた。雪国植物園は、大崎雪割草の里(柏崎市西山町大崎)、国営越後丘陵公園(長岡市宮本東方町)と「えちご雪割草街道」として連携中。大原は長岡市出身だが、長岡空襲(1945年8月1日)で新町の自宅を焼失したため、小学校時代を柏崎で過ごした。「水道橋の近くに住み、鵜川で釣りをした。剣野山は良くズボが採れた。卒業は柏崎小です。」と思い出を披露した。

「豊かさ」と「絆」-コミュニティの力を信じて(「ゆたかさ」と「きずな」-こみゅにてぃのちからをしんじて)
柏崎市コミュニティ推進協議会長、米山コミュニティセンター長の茂田井信彦がコミュニティづくりのヒントや思いを綴った文章。柏新時報2012年新年号に掲載された。2003年3月制定の「柏崎市市民参加のまちづくり基本条例」について「条文の裏に、何か一文字隠れているような気がしてなりません。それは、『力』という文字と考えます。コミュニティの『力』とは、物理的な力が作用して物体が動くように、人を動かして考え方や行動様式を変えるいわば意識変革を促すことです。そのためには、ただ、そつのない活動(仕事)を続けても、このような力を現すことはできません。また、権力の代弁者となって、地域民に高姿勢に臨んでもそんな力が生まれるものでもありません。人を動かすコミュニティの『力』は、人間的な力以外にはあり得ないと考えています。」としたうえで、米山コミセンの実践例として地域歴史講座(鉢崎関所勤め方日記、御館の乱と旗持城、大泉寺観音堂、安産の神・胞姫さん、北國街道と米山三里、鉢崎関所、米山信仰の史跡、青海川の石仏等)やかつて米山三里の難所・亀割坂頂上の弁慶茶屋で供された名物「弁慶の力餅」の復刻プロジェクト、さらに米山コミセン茶屋、コミセン寺子屋(ミニ学習会) の開設などについてふれ「これからのコミュニティは、家族・友人・地域の絆を一層深め、真の豊かさを求め、よりよい地域づくりを行うことと考えます。そのためには、地域課題解決を地域の方々で行い、皆でアイディアを出し合い、それを形に変え、実践していくことではないでしょうか。」と結んでいる。

夢を実現するためには(ゆめをじつげんするためには)
ブルボンウォーターポロクラブ柏崎主将の永田敏が柏崎市体育協会の平成24年度優秀体育人表彰(2013年2月2日)で行った激励講演。永田はブルボンウォーターポロクラブ柏崎創設者・青栁勧の筑波大学の同級生で、同クラブ発足(2010年)にあたり青栁が「柏崎で社会人チームを作ることになった。手伝ってほしい…」と最初に声をかけた一人。当時、永田は地元福岡でたった一人の練習を続けており「福岡の公立プールで働きながら練習を続けていた。冬は使っていない飛び込み用プールが練習場所、ブルブル震えながらひたすらシュート練習。仲間がいない練習、仲間に支えられない練習ほど、つらいものはなかった。競技を続けるとともに、生活もしていかなくてはならない。非常勤職員のため、日本代表として活動すれば(仕事を休まなければならず)収入が減ることになる。海外で国際試合が続いた時など、給料はゼロ、社会保険料の請求だけが来た。とてもレベルアップは望めなかった。」とマイナースポーツならではの厳しい練習環境を振り返るとともに「青栁の誘いを受けすぐ決断し、未知の柏崎にやってきた。柏崎に来た時誓ったのは、オリンピックへの出場と日本一のタイトルを取ること。この夢を持つことができるのも柏崎の皆さんが応援してくれているおかげ。日本一を取ることができたので、次は確実にオリンピック出場を狙う。」と決意を述べた。さらに会場の若手選手に「まず、夢をはっきりさせ、はっきりさせた夢に向かって努力し続けること。そして周りの協力に感謝の心を持つこと。よく『努力すれば夢はかなう』というが、それはちょっと違う。本当は『叶うまで努力するから夢は叶う』だと思う。」と呼びかけた。

【よ】
謡曲「柏崎」(ようきょく「かしわざき」)
室町時代に榎並左衛門五郎が作り世阿弥が改作して完成した四番目物で、観世、宝生、金春、金剛、喜多各流とも演じる。「いわゆる狂女物の中でも典型的な内容をもつ」(能楽研究家・松田存)が、難曲のため上演機会は少ない。「越後国柏崎の豪族が訴訟のため鎌倉に滞在中に病死した。一子花若はこれを悲しみ出家してしまった。その臣小太郎は形見の品々を持って柏崎に帰り、花若の母に事の次第を告げる。二重の悲しみに母は狂乱の体となり、わが子をたずねて迷い出る。信濃善光寺に辿り着いた女は、夫の後生善所と、わが子との再会を祈ると、折よくこの寺に居た花若と再会を得るという物語である。」(駒札「謡曲『柏崎』と香積寺)という物語で、作者については本願寺三世覚如の長子・存覚とする(『山科連署記』)説もあるが、世阿弥の次男・元能がまとめた『申楽談儀』で「又、鵜飼、柏崎などは、榎並の左衛門五郎作也。さりながら、いづれも、悪き所をば除き、よきことを入られければ、皆世子の作成べし。今の柏崎には、土車の能の曲舞を入れらる。」(世子は世阿弥の敬称)とあり、榎並左衛門五郎作、世阿弥改作と見るのが一般的。『月刊国立能楽堂』第419号(2018年の7月企画公演「中世のおもかげ-『柏崎』」プログラム)では「世阿弥が〈サシ〉〈クセ〉を自作の『土車』から取り入れて改作した作品です。(略)世阿弥の改作によって善光寺の浄土信仰や、仏法に依った虚仮的世界観が反映されて、心理描写が濃厚な作品となっています。」「本曲では浄土信仰に寄せつつ、夫への思慕の情を濃厚に示すところに特徴があります。その際、〈クセ>が二段グセ(途中にシテ謡が二度入る)となっていて、流麗な音楽的構成のなかにも宗教的な重厚さが表現され、法悦的感覚へと到る展開となっています。」などと解説している。なお江戸時代の謡曲注釈書『謡曲拾葉抄』でも「柏崎」を取り上げており、「越後国柏崎は米山の麓也。海辺也。昔し柏崎殿といひし人知行し給ひし所なり。柏崎殿の系図未考。今其所に寺あり。号香積寺。本尊薬師也。禅宗也。前に小橋あり、こうろぎの橋といへり。』といった記述を見ると、本曲を通じて当地柏崎の知名度も上がっていた様子が伺える。世阿弥自筆本は重要文化財で宝山寺(奈良県生駒市)蔵。

謡曲「柏崎」考-史実と虚構のあいだ-(ようきょく「かしわざき」こう-しじつときょこうのあいだ-)
世阿弥研究者の松田存による謡曲「柏崎」についての論文で、日本演劇学会演劇学論集紀要7号(1965年)掲載。柏崎市での実地調査をふまえて書かれており「たまたま今夏、新潟県柏崎市へ出向する機を得、いわゆる狂女物の中でも典型的な内容をもつ謡曲『柏崎』についての私見をまとめたので、ここに披瀝し、大方の御高覧を仰ぎたいと思う。」と前置き、「柏崎開闢勝長公由緒書」について「謡曲に脚色されている柏崎殿=柏崎権頭勝長一族の悲事顛末をそのまゝ物語っている。」と実在説に踏みこむ一方で、「後年、謡曲『柏崎』が人口に膾炙、流布されるようになって、無理に故事つけたことも充分考えられることである。」との危惧も。また、長野善光寺に関連して「恐らく花若の出家は善光寺そのものではなく、いや、初めはそうであったかも知れないが、老母との再会によって善光寺を辞し、少なくともその近在に僧庵をむすんで、母子ともに弥陀に仕える生涯をすごしたものと思われる。その僧庵こそ今に残る柏崎地蔵の由縁ではなかろうか。」と指摘。なお「世阿弥の佐渡配流赦免の時期について、『金島書』の奥書等から論考した諸説があり、最近では、大和の補厳寺において、その納帳が発見されたが、赦免後、補厳寺に至る経路は全く不明である。一説として、本土帰還の第一歩は、佐渡との至近距離である柏崎辺りに印したのではあるまいか。特記しておきたい。」として、世阿弥が直接柏崎殿の伝説を見聞したとの可能性を示唆して注目された。なお、文末には柏崎での現地調査に協力した布施宗一(郷土史家)、桑山太市(郷土史家、綾子舞研究者)らの名が挙げられている。

謡曲「柏崎」と香積寺(ようきょく「かしわざき」とこうじゃくじ)
謡曲史跡保存会(中村京三会長、京都本部=京都市中京区)が1990年、柏崎市西本町3・香積寺境内に建立した駒札。「謡曲『柏崎』は、越後国柏崎の豪族が訴訟のため鎌倉に滞在中に病死した。一子花若はこれを悲しみ出家してしまった。その臣小太郎は形見の品々を持って柏崎に帰り、花若の母に事の次第を告げる。二重の悲しみに母は狂乱の体となり、わが子をたずねて迷い出る。信濃善光寺に辿り着いた女は、夫の後生善所と、わが子との再会を祈ると、折よくこの寺に居た花若と再会を得るという物語である。」とあらすじを説明、さらに「近くにある質素なお堂は、柏崎勝長が鎌倉に出向く際に火災のお守りとして祀った秋葉神社で、それが今もなお守り続けられているのを見ても、庶民の辛苦を訴えた領主の優しい心を連綿と受けついでいる姿がほほえましく思われる。また花若地蔵尊が長野市新町に有る。」と説明を加えている。同保存会は、全国各地の関連史跡で駒札設置を行っており、同地が謡曲「柏崎」とゆかりの深い地であることから地元関係者の永井繁、飯塚知作らの協力で設置。同駒札は老朽化のため2000年に再建された。設置場所は山門北側の秋葉神社「柏崎勝長公石碑」の前。なお長野県長野市の善光寺にも謡曲史跡保存会による駒札「謡曲と善光寺」が設置され、「大衆信仰の寺である善光寺は、謡曲にも数多く謡われております」「『柏崎』『山姥』『道明寺』『藤』なども、この弥陀如来さまに救いを求めてお参りに来るのは同じで、昔から善光寺がだれにも頼られ、だれをも受け入れてきたことを物語っています。」と説明している。

「横たふ」問題(「よこたふ」もんだい)
『問題な日本語』シリーズで知られる国語学者・北原保雄(筑波大学名誉教授)による芭蕉「荒海や佐渡に横たふ天の川」に関する問題提起。新潟産業大学学長時代の2014年に柏崎市立教育センター研修講座「日本語の正しい使い方」で言及したのち、柏新時報2021年1月1日号「コロナ禍や佐渡に横たふ天の川」を加筆発表した。柏崎出身の北原は「柏崎に近い出雲崎の海岸で詠まれた句だ。地上の荒海と大空の天の川とを対置した雄大な句である。夏の句で、新年号にはふさわしくないかもしれないが、以前、柏崎で、この句には問題があることについて触れたことがあり、もう少し詳しく説明してほしいという要望があるというので、この場を借りて説明しておきたい。」としたうえで「『横たふ』が問題なのだ。天の川は佐渡に向かって『横たわっている』のだから、『佐渡に横たはる天の川』と自動詞になるべきではないかという疑問である。これに対しては、意味の上からはまことにその通りだが、俳句は詩形が短いのでやむを得ず起こした破格だという自動詞説と、いや『横たふ』は文字通り他動詞で、この句は、天の川が自己を『佐渡に横たふ』、荒海が天の川を『佐渡に横たふ』、出雲崎の景観が天の川を『佐渡に横たふ』などと解釈すべきだという他動詞説とがある。」とこれまでの学説を整理、さらに「自動詞説には、意味の上からはまったく賛成だが、そんな破格が簡単に許されるか。自動詞『横たはる』を『横たふ』に縮めてしまったら、他動詞と同じ形になってしまうではないか。そんなことを巨匠芭蕉先生がするだろうか。いろいろ疑問が出る。一方、他動詞説には、『横たふ』は他動詞だ、その点ではまったく問題ないが、解釈がいかにも不自然だ。無理がある。どちらの説も今一つ腑に落ちない。」とし「従来あまり指摘されていないことだが、『佐渡に横たふ』は『天の川』を修飾する連体修飾語だろう。それならば、他動詞であっても連体形は『横たふる』であって、字余りになるはずだ。ともかく、『横たふ』という連体形は自動詞『横たはる』にも他動詞『横たふ』にも存在しない。『横たふ』は捻出された架空の連体形だということになる。それでは、芭蕉はどうして『横たふ』という連体形を捻出したのだろうか。実は、芭蕉の生きたころ、二段活用動詞の一般活用化という大きな変化が進んでいたのだった。」などと展開している。なお、「横たふ」は歴史的仮名遣いなので「ヨコトー」と発音するのが正しい。

「ヨコタウ」問題(「よこたう」もんだい)
こちらは「荒海や佐渡に横たふ天の川」の音韻に関する問題。芭蕉が大いに悩んだであろう「横たふ」は「ヨコトー」と発音すべきだが、「ふ」を「ウ」に置き換えただけの「ヨコタウ」と読んでしまい絶唱を台無しにしている場合が多い。最近では半数以上が「ヨコタウ」と発音しているのではないか。音韻の立場からは「『荒海や』の句をみると、上句と下句とにa母音が極端に多く、しかもそれが幾つかずつ重ねられている。ところが中句には、o母音が多く、殊に四音分も続けられている。(「横たふ」はヨコトーyokotōと発音する。)a・oともに強い音であって、a音は開放的で広く雄大な感覚をもたらし、o音は壮重で暗さを感じさせるので、この両母音の対立はひどく衝撃的である。またその間にはさまれる「ウミ」「サドニ」などの音が微妙に働いて、独特の情感を生み出している。」(松隈義勇、1995、文教大学女子短期大学部現代文化学科文藝論叢)といった芭蕉の思いを理解する明確な指摘がある一方で、ご当地の天領出雲崎時代館(出雲崎町尼瀬)では「旅籠大崎屋」、「橘屋」両コーナーとも未だに「ヨコタウ」と音声案内している。芭蕉の思いに触れるためにはまずは正しく読むことだと思うのだが。また柏崎市立教育センター主催の「楽しく学ぼう!ドナルド・キーンの世界」(2014年)でも某講師が「ヨコタウ」を連発、2015年のNHKラジオイベントカー「90ちゃん号」による公開生放送(出雲崎町良寛記念館前)では、アナウンサーが「ヨコトー」と正しく読んだが、実は直前のリハーサルで「ヨコタウ」と誤った読みをしその場にいた地元俳句関係者に指摘され、本番では事なきを得たという「未遂事件」も。なお、発音では「ヨコトー」だが、現代仮名遣い(文化庁現代仮名遣い 歴史的仮名遣い対照表)では「横とう」となる。こちらもややこしい問題。

与謝野晶子歌碑(よさのあきこかひ)
柏崎市番神2・諏訪神社境内に1950年に建立、「たらひ舟荒海もこゆうたがはず番神堂の灯(ほ)かげ頼めば」と晶子自筆で刻まれる。隣には「お光吾作の碑」がある。柏崎出身の箕輪真澄は「この碑の歌は、全国に数多い晶子歌碑の歌と異なり、初めから歌碑作成のために詠まれたものである。昭和15年、柏崎に市制がしかれ、観光協会が誕生した時、その関係者が協議して、柏崎の名所番神堂を全国に喧伝する目的で、晶子に作歌を依頼して特別に作って貰ったものである。晶子の亡くなる2年前、彼女が脳溢血で倒れる直前のことらしい。晶子は大正から昭和にかけて、しばしば越佐を旅行しており、越佐詠草も数多いが、この歌だけは、最晩年の机上作である。」(『越佐文学散歩』下巻)としており、脳溢血で倒れる1940年5月までに作歌されたものと見られる。『定本與謝野晶子全集』(講談社、全20巻)未収録。さらに箕輪は「歌碑は昭和15年にでき上ったのだが、戦時下ということで、建碑の業は立ち消えになり、10年間、石屋の作業場に放置されたままになっていたのが、昭和25年、計画が再燃して、番神岬に建てられたという話である。」と建碑事情を説明している。関係者が与謝野晶子に白羽の矢を立てた理由は「お光と共通する情熱的な女性のイメージ」からか。晶子との仲介役となったのは柏崎出身の実業家で神奈川県鎌倉在住の内山英保。内山は「三渓園」で知られる原富太郎の薫陶を受け、共益不動産専務取締役や横浜興信銀行(現在の横浜銀行)常任監査役を歴任。文人としても知られ神奈川県鎌倉市御成町の私邸書斎「冬柏山房」は与謝野鉄幹・晶子夫妻をはじめ有島生馬、石井柏亭、尾崎咢堂(行雄)、戸川秋骨、吉井勇、吉野秀雄ら多くの文化人が集うサロンとして活況を呈した。晶子から内山に宛てた1935年7月4日付書簡には「御郷里の柏崎に近きあたりまでまゐり候ひしこの度の見聞につき近く御目にかゝり候日に御報告申上ぐべく候。」との記述があることから作歌以前に柏崎の地名はしっかりインプットされていたようで、内山は仲介役として最適の人物だったようだ。

吉井の三枚岩(よしいのさんまいいわ)
柏崎市吉井に伝わる義経弁慶伝説。「吉井の御中山(おなかやま)を通ろうとする主従の前に立ちふさがった怪物を、弁慶が三太刀切りつけて退治すると、五枚に割れた石となり一陣の風により二枚が佐渡の国に吹き飛ばされ三枚が残った。血潮が飛び散ってこの辺りを赤く染めたため『赤坂』と呼ばれることになった。」(柏崎市伝説集)という。深田信四郎は『柏崎のむかしばなし』で、この「怪物」を「二本の角をもった青鬼」に置き換え「牛の化け物そっくりでした」「青鬼は、畳のような大きな舌を、ペロリペロリとなめずり、ダラリダラリとよだれをたらして、まっくろな鼻の穴から『ブウ、ブウ』荒い息をはき出して」と想像力豊かに描く。当の「三枚岩」は吉井に現存。県道鯨波宮川線「吉井入口」バス停(曽地方面ゆき)のそばに「三枚岩」「おかめが井」の案内看板があり、ここから徒歩10分ほど。現地には「赤坂の三枚岩」の看板があり、幅約110センチ×高さ約80センチの、見事に三枚に切断された伝説の岩を見ることができる。なお「おかめが井」にも、義経主従の「亀井六郎」にまつわる伝説がある。亀井六郎は義経四天王の一人で、義経の最期まで付き従い、衣川の戦いで戦死した。『昔の話でありました』第2集で深田信四郎は「亀井の井戸」と「吉井の三枚岩」を一連の伝説としてまとめている。なお「おかめが井」には「おかめという女の化粧の清水だった」「天神社の御手洗水(お神の井戸)だった」との説(柏崎伝説集)も。

吉田好道(よしだよしみち、1917-1978)
高田師範学校卒、教員。柏崎市立上条小学校長、北条中学校長を歴任、東中学校長で退職、その後、青少年健全育成センター所長を務めた。日本水彩画会所属、青丹彩同人。第一中学校時代の教え子である死刑囚歌人・島秋人との交流で知られる。島が「バカと言われ続けたが、一生のうち一度だけ自分の描いた絵を褒めてくれた」と中学時代の記憶をたどって東京拘置所から恩師の吉田に手紙を送ったことから交流が始まり、吉田の妻詢子(あやこ)も短歌の手ほどきをし、夫婦で刑死(1967年)までの日々を支えた。島とのやりとりは『遺愛集』に収められ、現在も読み継がれている。

吉野秀雄と綾子舞(よしのひでおとあやこまい)
吉野秀雄は1960年の旧盆に母方の実家である刈羽郡黒姫村野田(現在は柏崎市野田)の罇家を訪ねた際、NHKが1958年に撮影した綾子舞の16ミリ映画を鑑賞する機会があり「踊、狂言、囃子舞の三つを総称して綾子舞といつてゐるが、三人または二人の女性(男の女装もある)が、ユライと呼ぶ赤い布の冠りものをうしろへ垂らし、長袂の振袖、たぐり、白足袋の装ひに扇をとつて舞ふほんたうの綾子舞は、慶長頃の風俗屏風や歌舞伎絵草紙でわれわれの見なれたすがたで、出雲の阿国に発したといふ初期歌舞伎踊もさこそとおもはわれる古雅掬すべき風情であった」(『艸心洞雑記』中の「越後の秋風」)と感想を記している。なお、映画会は「村長さんの好意により」実現したとあるが、須田武盛黒姫村村長のこと、須田は黒姫村綾子舞保存振興会長でもあった。

吉野秀雄の幟(よしのひでおののぼり)
1958年に吉野秀雄が柏崎市野田の旧家・罇家を訪問した際、吉野藤社長で従兄弟の罇吉之助に請われ揮毫した神社の幟。「連年豊穣里人安楽」「天然恵多郷民平和」「暑熱十分五穀満作」など6本で、長さは約10メートル。罇吉之助の長男・吉郎と須田弘宗の証言から「座敷からずっと襖を取っ払って書いた。大好きな野田のために気合いを入れて書いた。」「書き終わって、酒を上機嫌で飲んでいる時に、お礼に何をと聞いたら、米が良いと言うので、毎秋、米を送り続けた。」などの様子が伝わっている。また、吉野秀雄自身も『病中雑記』のなかで「わたしは土用のさなか素ッ裸で六本のノボリを書いたことを思ひ出す。また、これを何日もかかつてかいてゐるうち、目方が二、三百匁減つたことも思ひ出す。ノボリの礼は出せぬが、その代り毎年野田の新米を食はせるといふ約束で、これは今もつづいてゐる。」(「罇吉之助さんを弔ふ」、1966年)と書き、新米にちなんで「この秋も越の黒姫の米を食ふわが亡き母の山里の米」1首を紹介している。

吉村権左衛門(よしむらごんざえもん、1820-1868)
幕末の桑名藩江戸詰家老。藩主松平定敬とともに江戸から柏崎に同行し、執拗に恭順を説いたが高木貞作、山脇正勝に淡島大門で暗殺された。これによって藩論は抗戦に統一され、鯨波戦争が勃発する。新陰流の名手で桑名藩内でも屈指の腕前として知られるとともに和歌に優れ謡曲をたしなみ、部屋には小鳥を飼う優しい人柄だったという。遺骸は実弟鵜飼兵右衛門が引き取って妙行寺(柏崎市西本町1)に葬った。本堂脇の墓には「勤王の志士吉村権左衛門墓」の表示がある。桑名市史は「もし吉村の恭順論が達成して北越戦争がなかったら、桑名藩は格段の減地もなく疲弊せずに済んだであろうに吉村の死は誠に惜しく多勢に敗れた先見論者、幕末の悲劇をここにも見るのである」と評している。柏崎市立図書館には吉村の軸「残雪」、短冊「愚」が所蔵されており、2008年に三重県桑名市で開催された「京都所司代松平定敬」展で出張展示が行われた。

米山(男谷)検校・勝海舟年譜(よねやま<おだに>けんぎょう・かつかいしゅうねんぷ)
米山検校生家跡に近い検校塾(柏崎市東長鳥杉平、越後交通杉平入口バス停近く)前に「杉平いい里マップ」とともに設置され「米山検校の出生の地」をアピールする。年譜は1701年に長鳥村平沢山上徳左衛門十男銀一として生まれ、苦難のすえ江戸に出た米山検校の波乱の人生と共に、検校の9男男谷平蔵、平蔵の3男で勝家の養子となった小吉、その長男勝海舟への流れを系図とともに紹介、検校の孫で小国上谷地観音堂を再建した恵山尼についてもふれている。

米山検校御礼塔(よねやまけんぎょうおれいとう)
勝海舟の曾祖父である米山検校が宝暦の飢饉の際、郷土長鳥郷の百姓の窮状を知り、白河藩主に願い出て蔵米を買い受け、3年にわたって救済を続けたことに感謝した石碑で、杉平の生家近く、大角間、岩之入・セナカ峠の3か所に建立されている。このうち最もアクセスしやすいのが大角間の御礼塔で、県道東長鳥五十土線沿いにあり、「宝暦八歳寅三月」「飢人」「米山検校御礼塔等」などの文字が見える。長鳥いにしえロードのサイン看板が目印。なお同時代の記録として注目される「米山検校己丑歳飢人道行」(『目明きを救った盲人、米山検校』所収、南魚沼市・茂木家蔵)には、「飢人三千人余と相見え候」などと当時の状況を記すとともに、「米山公検校様は鎮守氏神様」と検校の善行を称えた様子を伝えている。

米山検校生家跡(よねやまけんぎょうせいかあと)
柏崎市東長鳥杉平、主要地方道柏崎越路線ぞい平田神社先に「米山検校生家」(長鳥いにしえロード)の入り口看板がある。そこから50メートルほど入ると本掲示板が設置されており、「米山検校は元禄14年(1701)、山上徳左衛門の子(銀一)として長鳥村平沢のこの家で生まれた。幼少にて失明したが、困難に耐えながらも明るく聡明な少年は17歳で一念発起して江戸に出た。」と紹介する。

米山検校と孫恵山尼(よねやまけんぎょうとまごけいざんに)
2001年10月27日に小国文化フォーラムが開催した文化講演会。講師は『目明きを救った盲人、米山検校』の著者・福原滋(長岡看護福祉専門学校講師)で、勝海舟の曾祖父にあたる米山検校(市内杉平出身)と小国町の上谷内観音堂庵主で一生を終えた孫の恵山尼の人物像や生涯について講演した。福原は「米山検校は鍼灸と金融業の両面で成功し、水戸家に70万両の金を融通するほどの富を蓄えた。注目されるのは、蓄えたお金を日本で最初の盲学校建設に使ったり、ふるさと長鳥が飢饉になったときには3年間にわたって救援米を送るなどして社会のために尽くした点で、自分が成功した有り難さを社会や人に還元した。検校は江戸時代にすでに伝説の人になるほどだった。」と述べるとともに、「孫の恵山尼も同様の人柄で『救済軒』と号して恵まれない女性救済を使命とした。観音像の寄進を受けるほど親しかった従姉妹で大奥御年寄の瀬山に頼めば、どんな栄華も思いのままだったはず。けれど小国を離れず社会の役に立つことばかりを考えた。信念に生きる強烈な精神力は、勝海舟にも共通する。」と力説した。当日は講演に先立ち柏崎市杉平の米山検校生家・山上家跡や同家墓、柏崎市大角間の米山検校御礼塔、小国町上谷内新田の上谷内観音堂を視察した。

米山検校の遺伝子(よねやまけんぎょうのいでんし)
米山検校の地元柏崎にいると「その遺伝子は曾孫の勝海舟に受け継がれたか」という問いを聞く。勝海舟伝のなかで最も米山検校について多くの頁を割いているのは勝部真長による『勝海舟』だが、その上巻で第2章「光明への旅立ち-男谷家の家系と盲人・米山検校」を立項、「杖に秘めた決意」「出世のいとぐち」「質素倹約の気風」「盲学校設立の夢」「水戸藩の後ろだて」「検校一族の多彩」などを通してその実像を描くことに傾注している。勝部は米山検校が懇願した「鍼道指南之学校」と、曾孫勝海舟の「神戸海軍操練所」を大胆に比較し、「神戸海軍操練所は、まさに米山検校流で、幕臣よりも薩長土その他各藩の若者を自由に出入りさせ、土佐の饅頭屋でも町人でも身分にかかわらず海軍術を学ばせ、そのために幕府当局から睨まれ、ついに解散させられたところなどは、やはり検校の血が入っているとみなければなるまい。」と評したうえで「検校は、子供の平蔵や鳩斎(水戸藩士となった信連)よりも、もっとスケールの大きい傑物だったのではないか、と。検校のその血は、むしろ孫の小吉に伝わったのかもしれない。そしてさらに海舟において開花したのではないか、などとも思ってみる。」と結論づける。さらに『勝海舟伝』(1967年)では「この越後人(米山検校のこと)のねばりと経済的能力-これが海舟の血の中にも流れているとみてよいであろう。海舟はたんなる江戸っ児ではない。軽薄な江戸っ児の枠をはみだしたものを先天的に受け継いでいるのである。」と踏みこんでいる。「越後人、柏崎人としての米山検校の遺伝子は勝海舟に確実に受け継がれ、海舟はそのバックグラウンドを強みに幕末、明治と大きく活躍した」と胸を張ってよいようだ。

米山検校の鍼道指南之学校計画(よねやまけんぎょうのしんどうしなんのがっこうけいかく)
米山検校は江戸での成功後、自身の苦しい体験を振り返りながら鍼道指南之学校設立を計画する。生徒募集のため榊原式部大輔(高田藩主)に提出した「乍恐書付を以奉願候」(嘆願書)が『高田藩制史研究』資料編第一巻(1967年、『万年覚』三印 上)で紹介され、米山検校研究を大きく進展させることになった。「宝暦四甲戌年(1754年)二月」の日付があり、出自については「松平越中守の領地である三嶋郡長鳥(原文は長嶋)村で生まれた」「親元が不如意で幼少のころに江戸に出て御医師嶋浦惣検校の弟子となり杉山流鍼道を学び(大名など)お歴々様方を療治し、それによって少々町屋敷なども所持するようになった」などと記されている。曾孫である勝海舟の口述を吉本襄がまとめた『氷川清話』(1897年)の「越後小千谷村の農家」「17、8歳の頃300文を持って江戸に出たが大雪のなか行き倒れ、奥医師石坂宗哲に救われた」などの記述とは明らかな差異がある。なお『氷川清話』には「刻苦勉励し、巨万の富を得て江戸に17か所の地所を有し、水戸家だけでも70万両を貸し付けるに至った」とあり、嘆願書の「少々町屋敷なども…」は謙遜に見える。いずれにせよ米山検校が自らの生いたちについて語っているものはなく、史料性が高い。「鍼恩に謝し」「数年の願望」だったという学校計画は「無芸の貧窮盲人たちを諸国から招き」「所持している町屋敷からの地代などを当てることで食費を無償とし」「およそ5年間の特訓で杉山流鍼道のあらましを学ばせ、出身の国々に戻して療治させれば病人の助けにもなるので末代の世まで重宝となる」という画期的な特徴を持ち、まずは「盲人が多い北国辺、なかんずく越後」「20歳から40歳」を対象に生徒を募集する予定だったが、高田の同業者が京都の職検校を動かすなどして反対運動を展開し、結局は挫折した。出生地の柏崎周辺でも同様の文書は出されたはずだが見つかっていない。上越市の郷土史家・渡辺慶一は「勝海舟の祖米山検校」(1974年)で嘆願書の内容について「実に用意周到の計画」「贅沢三昧な生活を送る勾当、検校が多い中で、米山検校の盲人学校開設の意気たるや絶賛に値するのものがある」「もし、この時、盲人学校が彼の意の如く開設されたとすれば、天明4年(1784)アウイ氏によって、パリに設立された盲学校より30年も早いことになり、世界最古の盲人学校となったであろう。」としている。

米山検校之碑(よねやまけんぎょうのひ)
米山検校(1704-1771)の事績を紹介するため柏崎青年会議所が建立したまちしるべ。2001年に生家跡に近い検校公園(柏崎市東長鳥杉平、越後交通杉平入口バス停近く)に設置された。「米山検校は東長鳥・杉平の山上家に生まれ、幼くして光を失いましたが、逆境のなか苦労して江戸に出て、杉山流鍼道をきわめました。努力と才能が水戸光圀公に認められ、その後、盲人官位最高の検校にのぼりつめました。富をたくわえながらも、質素倹約の人で、ふるさと長鳥郷が大飢饉の際には救援米を送り、当時の御礼塔が今でも残されています。」とコンパクトにその生涯を紹介、さらに「臨終の直前、『親の財産をあてにするな』と証文に火をつけて灰にし、我が子に独立自尊を教え、その精神は曾孫である勝海舟に受け継がれました。」とのエピソードも伝えている。

米山三十里(よねやまさんじゅうり)
米山三里は親不知と並ぶ難所としてして知られたが、かつては「米山三十里」と呼称された時代があった。「越後治乱記」などに登場するため軍記物ならではの誇張と解釈する研究者もいたが、『柏崎編年史』(1970年、柏崎市教育委員会)では貞享2(1685)年の「近藤喜八郎文書」を挙げ「米山三十里の証」とした。近藤家は米山町の旧家で、同文書は「米山三十里道作り申村之事」として「けんしん殿より越後様御代迄」(けんしんは上杉謙信のこと、越後様は越後中将松平光長のこと)の時代の道管理の沿道村負担割合を記載している。文書に書かれた村名をみると、青海川村から谷根村、小杉村、大平村と内陸部に入り、さらにおかや村、大清水村、法音寺村、中山村、谷地村、かんかい(雁海)村、とりえ村とあり、「義経草分けの道」といわれた海岸部のアップダウン(米山三里)とは全く異なる別ルートで、米山山麓に分け入るさらに急峻難路だったことがわかる。『柏崎編年史』編著者の新沢佳大は「米山三十里と書いてあるこの史料を50年前に拝見した時は、発見の喜びに快哉を叫んだ。軍記物の中の誇張ではなく、昔は本当にそう言っていたんだな、と確認した。」(北国街道手をつなぐ会での講演、2011年)と述べている。

米山三里「亀割坂」歴史散策ウォーキング(よねやまさんり「かめわりざか」れきしさんさくうぉーきんぐ)
米山コミュニティセンターが2012年に開催した歴史散策。米山地区には奥州へ逃れる源義経・弁慶一行が残した数々の伝説と史跡があり、これを活用した地域活性化が進んでいる。「弁慶の力餅」復刻プロジェクトもそのひとつで、北国街道一の難所と言われた亀割坂を江戸時代の旅人になった気分で歩き、弁慶の力餅を味わおうという企画。六宜閣前(柏崎市上輪新田)に集合し、弁慶の産清水や亀若丸誕生地、弁慶茶屋跡を見学しながら、「通常は草ぼうぼうで通れないが、この日のために地元・上輪の人たちが草を刈ってくれた」という亀割坂を下り、上輪会館に出張開店の米山コミセン茶屋で「弁慶の力餅」を堪能した。また妙泉寺(柏崎上輪)では、台座に源氏の紋所である「笹りんどう」があしらわれている胞姫尊天も拝観した。

米山三里はどこを通っていたか(よねやまさんりはどこをとおっていたか)
奥州へ逃れる源義経が、追手を交わす最短コースとして海岸部を開拓しながら進んだ「義経草分けの道」との口碑が残る米山三里だが、現在そのルートを確定することは簡単ではない。したがって「米山三里の道はどこを通っていたのか」の即答はできかねる。米山大橋の架橋をはじめとした国道8号の大改修、地滑りなど様々な事情と変遷が重なっているからで「米山峠は、現在、①国道8号線、②旧国道、③江戸時代の道が錯綜している。江戸時代の道は芭蕉や明治天皇が往来した親しみぶかい道であるが、これが米山三里とうたわれる峠である。」(柏崎編年史)と解説する通りである。米山三里の古道確定を研究テーマとする北国街道手をつなぐ会の黒﨑裕人(柏崎市笠島)によれば「街道沿いで道標の役目を果たした庚申塔、二十三夜塔、江戸幕府が定めた一里塚、北国街道沿いに植えられたヨロンゴなどを探し、これらの点をつないでいっても古道を確定するのは至難の業。4キロごとにあるはずの一里塚は改修や災害で失われており、昔の米山三里の道がどこを通っていたか、まだ3分の1くらいしかわからない。特に峠道がわからない。時代とともに山中の田畑が耕作放棄され、そこへ通う道も失われたからで、まったく手つかずで古道のままに残っている道は芭蕉ヶ丘の達如上人記念碑周辺ぐらいではないか。」という。「ヨロンゴ」は榎の柏崎方言で、詳細は別項。

米山信仰-山とひとの民俗宇宙(よねやましんこう-やまとひとのみんぞくうちゅう)
柏崎市立博物館の第36回特別展として1998年に開催された。朝夕ながめ、暮しに息づく霊峰米山の信仰の歴史や民俗世界について、関連する諸資料を一堂に展示し、米山とは何かを知り、ふるさとの大切な個性として確かめてもらいたいという異色の企画展。「プロローグ-米山への誘い」「米山開山」「史料が語る米山」「広がる米山信仰」「祈る山・仰ぐ山」「米山登拝」「エピローグ-籠り、そして再生」で構成、「越後之國米山従奥」の文字が見える三諦寺経塚法華経(史料上の初見、1203年)や多様な米山信仰の姿をわかりやすく紹介し話題を集めた。会期中、担当学芸員の渡邉三四一による講座「米山を民俗学する」(①広がる米山信仰-その普及と伝播②霊山としての米山-仰ぐ・祈る・登る」も開催された。特別展開催中に図録が売り切れになるなど反響を呼び、この特別展に感激したNST新潟総合テレビ社長・村山稔(柏崎出身)による柏崎市市制施行60周年記念番組「ふるさとの山米山さん」制作へとつながった。

米山地区お宝探訪マップPart1(よねやまちくおたからたんぼうまっぷぱーと1)
米山地区コミュニティ振興協議会が2014年発行した。柏崎市文化振興課主催の「地域の歴史文化・お宝探訪講座」で米山町、大清水、上輪、上輪新田、大平、高畔を踏査し、この成果をマップとしてまとめたもので、大泉寺(観音堂が国指定重要文化財、前立観音が県指定文化財)、荻原井泉水の句碑「泉あり青空は手にしていただく」、旗持山、義経伝説の残る胞姫神社、泰澄創建の蓮光院、松田伝十郎顕彰碑、鉢崎関所跡、松尾芭蕉の泊まったたわら屋跡、金蔵跡、亀割坂、御膳水などを解説とともに紹介。お宝探訪おすすめモデルコースとして米山町まち歩きコース(3キロ、1時間半)、上輪・上輪新田まち歩きコース(4キロ、2時間)、車でぐるっとコース(4時間)を提案している。米山町まち歩きコース、上輪・上輪新田まち歩きコースは柏崎市指定ウオーキングコースとなっている。

米山地区お宝探訪マップPart2(よねやまちくおたからたんぼうまっぷぱーと2)
Part1に続いて米山地区コミュニティ振興協議会が笠島、青海川を踏査し、成果をマップとしてまとめたもので2015年発行。高崎市臨海学校、ヨロンゴの木、笠島海岸沖合いの岩(柏崎市市民会館の緞帳図柄となった)、明治天皇行在所跡、牛頭天王塔、鴎ヶ鼻(恋人岬、お弁が滝、福浦猩々洞のコウモリ生息地、宮島郁芳の歌碑)、北国街道松並木、同米山三里旧道道標、風の丘柏崎コレクションビレッジ、多聞寺、十二神社、弁天岩、5号トンネル(信越本線の前身である北越鉄道開通時に掘られ約70年間使われた)、牛ヶ首層内褶曲(田塚鼻)、柏崎さけのふるさと公園、米山大橋、六割坂、様々な映像作品に登場している青海川駅、青海神社にある酒精礼賛の碑などを解説とともに紹介、六条御門主御休跡の碑(親鸞ゆかりの達如上人の越後下向を記念し建てられた)といった隠れた名所も登場している。お宝探訪おすすめモデルコースとして笠島まち歩きコース(2キロ、1時間)、青海川まち歩きコース(2・5キロ、1時間半)、車でぐるっとコース(4時間)を提案している。笠島まち歩きコースと青海川まち歩きコースは柏崎市指定ウオーキングコースとなっている。

米山は語らずされど語るをやめず(よねやまはかたらずされどかたるをやめず)
柏崎市出身でNST新潟総合テレビの社長を務めた村山稔が柏新時報2001年新年号に寄稿したエッセイ。前年の2000年に村山の企画による柏崎市市制施行60周年記念番組「ふるさとの山米山さん」が放送され、その制作動機を改めて綴ったもの。「なぜ、いま、米山さんなのかね、と尋ねられたり、不思議そうな顔をされたりしたことがありましたので、そのあたりの事情を少しばかり、書きつらねたいと思います」としたうえで、「この番組は六十歳の定年を迎え、故郷に帰ってきた柏崎市生まれのサラリーマンが、ふるさとへの思いを米山さんに名を借りて語った『ふるさと讃歌』がテーマです。米山を歴史的、民俗学的、宗教的、地質学的に研究した学術書は少なくありませんが、一度、映像として、まとめてみたいものだと長い間、思いつづけておりました」としたうえで、「むしろ、本当の企画意図は内的なところにありました。」とし「遠い昔、このふるさとから自分を送り出してくれた父も母も大地に還り、帰郷の報告をすべき人はいないけれども、祖霊の地に人生の旅人として、いま、自分は帰って来た。山河を前に人生を大過なく送り得た自分に胸を張り、頭(こうべ)をあげて、つらい時には、無言のうちに自分をはげましてくれた『米山さん』を仰ぎ見ることの出来ることを、今、大きな喜びとしよう。(略)この日まで、自分を支え、はげましてくれた米山さんに柏崎市市制施行60周年も祝いつつ、ささやかではあるが、心からの感謝状を呈上することにしよう、というのが、この番組の内的な制作意図でした。」と振り返っている。

米山薬師信仰についての一考察(よねやまやくししんこうについてのいちこうさつ)
『高志路』224号(1972年)に掲載された諏訪部政子の論文。「米山の地理的位置」「米山薬師の開山と遊行修行僧」「米山別当密蔵院と薬師堂」「地域社会における米山薬師信仰」「米山塔」「米山まつり」「結び」で構成、南蒲原を中心に70基余りの米山塔を実測調査して注目され「米山薬師信仰の飛躍的な発展は、近世になつてからである。近世越後における新田開発によつて多くの農村ができ、穀倉地帯が拡大した。米山薬師信仰はこの農業社会との出会いにあたり、農業神としての性格は決定された。」「維新後は他の代参講の流行と機を一にして、米山講は最盛期を迎えた。講数六百あまりといわれた時期である。(略)米山薬師は農薬の普及によつてその最大のキヤツチフアクターであった『虫除け札』に対する信仰も失われ、年々信仰者が減少している。」と結論づける。「米山薬師と米山講」と改題され山岳宗教史研究叢9『富士・御嶽と中部霊山』(1978年)所収。米山信仰研究の先行研究として引用される。

「米山薬師」と「お弁の滝」(「よねやまやくし」と「おべんのたき」)
日本全国の伝説を網羅した『日本伝説大系』(野村純一編、全15巻、別巻1)第3巻南奥羽・越後で「伝承地 新潟県柏崎市」として収録されるのは「米山薬師」、「お弁の滝」の2話。それだけ知名度が高いということか。また「伝承地 新潟県西蒲原郡弥彦村」として紹介される「弥三郎婆さん」の類話として柏崎市と旧小国町の計7話を収録、新潟県北蒲原郡に伝承される「河童」は「骨つぎとアイスとで有名な宮尾さん5代前の当主は、北蒲原郡京ヶ瀬村猫山のお百姓であったという。」という冒頭を除けば柏崎市鉢崎、柏崎市鼻田に伝わる河童伝説とそっくりである。佐渡に伝承される「いさごの松」も、柏崎市茨目の「かたがり松の京参り」とよく似ている。なお、編者の野村純一は第3巻解説「『タイシ』伝説の担い手」で、柏崎市岩之入の「霊塩水井戸」と酷似する塩の宮(栃尾市上塩)の伝説を取り上げ「塩井の湧出発見にかかわって、何故に格別弘法大師の巡杖、巡錫が取沙汰されるのか。(略)おそらくは土地の人の気持の中に、よそでそういうのならば、ここの塩井も大師様の事蹟であって何の不思議があろうか、といった、いわば信仰上の一種の合理化が働いて、そうした結果を招来したのではないかと思われるのである。」と説明する。※別項「柏崎のかっぱ伝説」「かたがり松」「弘法大師の霊塩水井戸」参照

「米山より奥」という言葉(「よねやまよりおく」ということば)
柏崎市新道の三諦寺経塚から出土した法華経※に「米山□奥」(1203年、□は水損)とあり、これが米山の初見史料とされる。上越郷土研究会『頸城文化』42号(1984年)に掲載の中野豈任による研究論文「『米山より奥』という言葉-上越後と下越後の意識」で、中野は京都大学所蔵の来田文書に見える「越後国米山より奥」(1560年)について「米山以北は、越後の『奥』であり、米山以北の刈羽郡からは『下』であると言う、中世の人々の考え方がここに反映されている。」「上越後は中央の政治権力が確実に及ぶ世界であり、政治・経済・文化的に中央と密接な関係のあった世界でもある。上越後の人々が上越後を越後の窓口と考え、下越後にフロンティアを見たとすれば、『米山より奥』の意識は都の人の意識であると共に、上越後の人々の意識でもあったと言える。」と分析したうえで、三諦寺経塚出土品にある「米山□奥」の□を「徒」と推測し「米山従奥(米山より奥)と読めないだろうか」と問題提起を行い、その後の研究を進展させた。※法華経、陶製壺、銅製経筒残片、銅製梅花双雀鏡等を一括して新潟県文化財指定、柏崎市立博物館の第36回特別展「米山信仰」(1998年)で展示された

米山をみる きく のぼる 考える(よねやまをみる きく のぼる かんがえる)
新潟産業大学人文学部広川俊男研究室で「米山」をテーマにした卒業論文を一冊にまとめた。2005年刊。掲載論文(かっこ内執筆者と執筆年)は「米山薬師に関する研究」(松永隆、1999年)、「米山の民謡と地域の人々との関わりについて」(武部真人、1999年)、「校歌と米山」(畠山陽一、1999年)、「続・校歌と米山」(鈴木康雄、2000年)、「米山トウキに関する研究」(丸田章広、2001年)、「米山登山者の動向分析」(北山博文、1999年)、「米山登山の運動強度~米山海岸から大平林道コースについて~」(石田幹雄、2002年)、「米山登山の運動強度~大平登山道ルートの場合」(近藤弘将、2002年)。なかでも「校歌と米山」「続・校歌と米山」では上中越地域の小学校、中学校、高校にアンケート調査(「校歌と米山」62校、「続・校歌と米山」104校)を実施、128校中52校で「米山」「米峰」などの表現があることを明らかにし、「学校から米山を見ることができる場所では校歌に米山がほぼ歌われていた。」「柏崎市内では米山が見えないのに校歌には『米山』が入っている例(北条中学校)もあった」「『米山』は予想していたより広範囲で見ることができた。遠くは出雲崎町立出雲崎小学校、中頸城郡大潟町立大潟小学校、大潟中学校で『米山』を確認できた」「調査した学校のほとんどが米山を『強さ・崇高さ・高さ・歴史・象徴・風景』として表していた」(いずれも「続・校歌と米山」)とまとめた。指導にあたった広川は「この冊子が米山への関心を高め、登ったり、別の角度から検討したりするきっかけになれば幸いです。」(終わりに)とした。

米山をめぐる民俗文化(よねやまをめぐるみんぞくぶんか)
柏崎市立博物館学芸員の渡邉三四一が2017年11月4日のかしわざき市民大学講座で行った講演。米山を開いた泰澄の「白山開山1300年」にちなんだ。渡邉は「米山は富士に負けない力を持っている。山の高い、低いよりも地元や近隣の人たちとの密接な関わりが重要。米山には親しみを込め『さん』が付くことにも注目してほしい。身近な原風景としての霊山がそこにある」としたうえで、「仰ぐ山ー米山へのまなざし」「祈る山ー米山信仰の多様性」「登る山ー生きる力を授かる」の3つの視点から説明し「三階節で『米山さんから雲が出た…』と歌われるように、米山に笠雲がかかると大雨と言われてきた。様々な予兆や兆しを米山の姿から得て、山麓の市民は生活を続けてきた。雪形がこれだけ多く存在、確認される山も珍しく、それだけ米山と人々の生活が密接に関係していたということだ。全市を調査した結果(雪形の代表例である)スジまき男が3人いること、嫁岩など地域限定の雪型があることもわかった。」「特に治病神としての米山の存在は広く知られた。米山登山は1回ごとに起死回生の意味があった。米山の麓の行者(泰澄)が鉄鉢を飛ばしていたというのは漁民信仰の表れでもある。米山の山頂からのパノラマは素晴らしい。思わぬ景色、動物とも出会える。ぜひ登ってほしい。」と述べた。

ヨロンゴ(よろんご)
柏崎の方言で榎のこと。『柏崎・刈羽の樹木』(柏崎植物友の会、1991年刊)は「海岸丘陵や人家に近い山間地に見られる落葉高木」「昔、一里塚、屋敷木に利用していた」「昔、子どもが実を食べたり、ヨロンゴ鉄砲の玉にして遊んだりした。」と説明する。高田藩主の松平忠昌(家康の二男・結城秀康の子)が、柏崎の市川家に泊まった際、風除けに植えることを勧めたと伝えられる。特に季節風の影響を受けた独特の吹き流し樹形が柏崎ならでは風景として今に残り、写真愛好家のテーマとなることも多い。最も知られるのは旧高崎市臨海学校(元笠島小学校)校庭の一本。「北國街道手をつなぐ会」の黒﨑裕人は「ヨロンゴの風景」(柏新時報2021年1月1日号、「北国街道・まち歩きの魅力」)で、「柏崎は『風の陣』の通り、風の強い街なので、榎は倒れながらも天に向かう、盆栽の『吹き流し』という特有の樹形をしています。榎は柏崎ではヨロンゴ、笠島では、その実が小さなリンゴに似ていることから、ユリンゴ(楡林檎)と呼ばれています。旧笠島小学校(高崎市臨海学校)には、今も一本の榎が、強風に耐え残っています。比角小学校PTA紙の石黒敬七書『よろんご』など、榎に愛称があるのも、昔から柏崎市民に身近な樹だったからでしょう。」「改めて街道を歩くと、米山町、笠島、青海川、鯨波、東の輪町、西本町、松波で、確かに大きな榎を見ることができました。しかし、その後の中越沖地震で被害に遭い、惜しくも大木が次々と切り倒されました。そのため、現存するヨロンゴは、四百年前の北国街道を彷彿させる貴重なものとなっています。」と書いている。

【ら】
楽翁公が旧治蹟(らくおうこうがきゅうぢせき)
県立柏崎高校校歌の一節。4番で「右文尚武勤倹に/重き責任尽くされし/楽翁公が旧治蹟/汲め白河のその流れ」として歌われる。江戸時代の柏崎を語る際によく引き合いに出され、柏高同窓生も誇らしげに引用することが多い。

乱暴きはめし会津軍(らんぼうきはめしあいづぐん)
天拝山を舞台にした椎谷戦争(1868年)の惨状を伝える高浜郷土いろはかるたの一枚。絵札には、凶暴な顔をした男が刀を振り回し、背後の建物が燃えている様子が描かれる。「政府軍に敗れた旧幕府軍(会津桑名)は、椎谷藩が自分たちに敵対したことをうらみ、逆襲して来て火を放ち、陣屋民家をほとんど燃やしてしまった」との説明だが、「会津軍」「旧幕府軍(会津桑名)」とも誤り。正しくは水戸藩執政免職後脱走した市川三左衛門一派の所業で、椎谷藩の歴史に詳しい郷土史家の尾崎忠良は「市川一派は諸生党の中で特に過激な乱暴者の集団だった。椎谷に進撃した際、当然旧幕府軍に付くと思っていた陣屋役人が新政府軍に内通したことを逆恨みして乱暴狼藉を働き、椎谷の町に火を付けた」とする。椎谷戦争における兵力は、旧幕府軍が、鯨波戦争を敗走した水戸・大森弥左衛門らと出雲崎から進軍してきた水戸・市川三左衛門らの計260人。対して新政府軍は、鯨波戦争を勝ち海道沿いに進軍してきた長州、長府、薩摩、加賀の約1500人。「どうして会津の名が出てきたのか」について椎谷観音堂で知られる華蔵院住職の髙橋正樹は「かるたのできた1933年当時は富国強兵の真っ最中で、戦争に勝った官軍、敗れた賊軍の違いをはっきり示す必要があった。(敗者を貶めるという)軍への配慮があったのかもしれない」と解説。

【り】
龍海院の「良寛さま」(りゅうかいいんの「りょうかんさま」)
群馬県前橋市紅雲町の龍海院本堂前には等身大の良寛座像「良寛さま」が建立されている。同寺29世住職の蔵雲は『良寛道人遺稿』を江戸の尚古堂より版本として頒布し、良寛の存在を世に広めたことで知られており、良寛敬慕者である37世過外一雄住職が良寛の人柄を偲び、蔵雲の偉業を後世に伝えるため、『遺稿』掲載の良寛肖像を忠実に復原して2003年に建立した。蔵雲については資料が少ないが、長野県下高井郡穂高村(現木島平村)の出身で、柏崎の善法寺※住職を務めたことがあり「まだ良寛が広く世に知られていない良寛没後20年を経た嘉永の初年、越後柏崎で良寛の遺稿に接してその真価を見抜き」(龍海院寺史)漢詩の収集を始めたのではないかとされている。龍海院には1857年から1868年まで12年間在住。座像の左側には「1847年(弘化4年)、後に当山に住持することとなる謙巌蔵雲禅師が越後の国を巡錫中、良寛さまの遺稿を見て感銘を受け、その詩集の発刊を思い立った。その後、貞心尼などの助力を得ながら、1867年(慶應3年)、良寛さまの漢詩50編を集めて『良寛道人遺稿』と題し、江戸の尚古堂より版本で頒布したが、これによって一躍良寛さまの名が全国に広まることになった。」「遺稿の最初に掲載された良寛肖像は、貞心尼が越後国北魚沼郡小出の画家雪堂に依頼して描かれたものであり、もっともよく良寛さまの風貌を伝えていると言われているが、本像もこの良寛肖像を基に作られたものである。」と建立の趣旨がまとめられている。コンパクトな文面の中に2度も「貞心尼」が登場しているのが印象的。龍海院は徳川家康ゆかりの寺で寺号は「是字寺」(ぜじじ)。墓所入り口には、武田、北条連合軍に攻められた際、上杉謙信がこの上から敵情視察したという「陣屋杉」の大きな木の根が残る。草野心平の詩「前橋紅雲町五十六番地の一角」にも登場(龍海院の鳩ぽっぽから豆腐屋の喇叭まで。)する。訪問記は柏新時報2014年1月24日号「柏崎の貞心尼(4)」(新・柏崎ものがたり)参照。※現在は柏崎市吉井の清月寺に合寺

柳郷の四季(りゅうきょうのしき)
高柳の四季を短歌で詠み続けた米山仙治(柏崎市高柳町漆島)の歌集。1992年刊。米山は80歳を過ぎてから独学で歌を学び、柏新歌壇に投稿を続け年間賞にあたる文芸賞を3度受賞。歌集は元町長の永井勇雄らが編集委員となって、柏新歌壇の入選歌を中心に千余首を集録した。「雪降らば雪にしたがい暮しあり吾がふるさとはやすらけくあれば」「冬の歌うたう術なし妻も子も雪の下からわが家掘り出す」「いついつと待ちたる春風今来たり肌雪あれど山毛欅(ぶな)は青めり」「老いたれど田植魂捨てきれず指先きかず苗こぼしけり」「汗拭きて谷川の水すくい呑み葉越しの空見てあすを占ふ」「泥搔きて除草終れる山の田の葉末を風の波渡りゆく」「晩生蜻蛉わづかの生を今日も舞ふ稲刈る空を広ろく自由に」など高柳の四季の移ろいや時の流れを情緒豊かに紡いでおり、貴重な農民文学誌として評価された。同年6月13日には高柳町で出版記念パーティーが開催され、永井発起人代表は「高柳を守り、今なお農人としてがんばられておられる米山翁の素晴らしい歌の数々を何とか高柳のために残したいと計画を進めてきたが、皆さんのご協力で今までにない歌集が完成した。」、樋口昭一郎町長は「この歌集は農民文化として将来に残っていく貴重なものだ。」と称え、米山は「貧しく、泥臭い、何のとりえもない歌ですが、いくら下手でもいい、この高柳の素晴らしい自然の中で生かしてもらっているという感謝の気持ちを、三十一文字にこれからも託し続けていきたい。」とお礼の言葉を述べた。

柳郷の伝説(りゅうきょうのでんせつ)
高柳町の郷土史研究家・春日義一編著による高柳伝説集。2002年に自費出版。「高柳の伝説」、「伝説と歴史の断片」、「怪談聞書帳」の3部構成で、「狐の夜祭り」のもとになった藤五郎狐(栃ヶ原)をはじめ、藤の城物語(岡田)、和田の長者(岡田)、小白倉の大蛇(白倉)、黒姫の伝説(黒姫山)、観音様の恋(高尾)、七ツ釜伝説とタイ原(高尾)、しゅうじん宮の由来(漆島)、釈迦堂の怪物(荻ノ島)、深野の団左エ門狢(門出)、片腕の不動尊(栃ヶ原)、盗賊三十若の墓(栃ヶ原)、中谷家の刀(山中)、蛇に乗った黒姫様(上石黒)などの伝説を取り上げた。高柳町史未収録の「巨木の下の田村麻呂」(1959年に川磯の観音様境内で巨木を伐採した際、巨木の下が大きな空洞となって田村麻呂伝説に合致する大きな頭蓋骨が発見された)も紹介していて興味深い。春日は「小さなお話でも、文章にして残すことが、後世への贈り物にでもなれば幸…」と話している。

良寛さまと貞心尼(りょうかんさまとていしんに)
2011年に柏崎市で行われた全国良寛会理事・高橋郁丸による講演。柏崎良寛貞心会主催。高橋は『まんが良寛ものがたり』『まんが貞心尼ものがたり』著者で良寛と貞心尼の理解普及に取り組んでいる。高橋は「新潟市の上古町にオープンした良寛てまり庵に来場した2人の高校生に、良寛さんってどういう人だか知ってる?と聞いてみた。彼らはポカーンとした表情で、『良寛牛乳※なら知っている。ヨーグルトがおいしいから』と答えた。若い世代が良寛さんを知らなくなっていることに危機感を覚える。」としたうえで『はちすの露』に収められる唱和の歌の数々をていねいに紹介し「貞心尼にとって良寛さんはお父さんのような温かい存在だった。唱和の歌からは温かくも楽しい交流の姿が浮かんでくる。貞心尼は良寛に会わなかったら『10×10が100になるとわからずにいた』と歌っているほどだ。誰もが辛い思いを抱きながら生きているが、いがみ合うのではなく認め合うことが大切。飾らず生きることの魅力を、自分の行動をもって示してくれた人が良寛さんだと思う。」と結んだ。高橋はクイズ形式の良寛検定で「貞心尼が初めて良寛さんを訪ねた際に持参したものは歌と何?」などを出題、正答率の高さに「さすがに貞心尼さんが晩年お世話になった町」と驚いていた。※2023年に事業停止、破産

良寛さんとアイス(りょうかんさんとあいす)
柏崎市出身の内山知也筑波大学名誉教授によるエッセイ。柏新時報2006年新年号に掲載された。越後島崎(旧和島村)の医者桑原家に伝わる「水神相伝」(良寛書)を紹介、その秘薬阿伊寿(アイス)について考察している。「水神」はかっぱのことで、桑原医師の先祖が「其の面は血盆の如く垂髪肩に及ぶ」という水神を助けた礼に「椰子の実くらいの蓋付きの函」を持って来て「これを患部につけると出血を治癒するのに役立ちます」「親子の間でも秘密にして蓋を開けてはなりません」と薬方を授かり、それから桑原医師を訪ねる患者が多くなったという内容。「その秘伝の霊薬アイスが、柏崎にも昔から伝わっていて、私もその恩恵に浴した一人であるのは有り難い」として、その記憶を「アイスは黒色の粉末で、打身や骨折の腫れや痛みが生じたとき、ご飯粒を適量こねて『そくい』にし、酢とアイスを混ぜて伸ばし、患部に塗り、和紙で押さえ油紙と繃帯で固定する。やがて乾燥すると、ベリベリと紙を引っぱがすのである。私たちの子どものころは整骨・マッサージ師が使っていたようであるが、大ていは自宅に買い置きの粉末があって即席に日用薬的に使われていた。」と綴る。また、「その中身は二酸化マンガンであり、同類の薬に接骨散というのがある。」とし「良寛は血止めの薬のように書いているのに打身くじきの貼薬になったのはおかしいと思って柏崎談笑会で同席した布施鉦蔵ドクターに聞くと『どっちにも利くんですよ』というお答えであった。まあアイスが郷里の人たちの痛みを救ってくれた妙薬であったことはまちがいない。」と結論付けている。

良寛さんとちぢみ屋(りょうかんさんとちぢみや)
良寛にまつわる伝承のひとつ。『柏崎のむかしばなし』(1982年)に収められている。四谷のちぢみ屋の店先で番頭が「国産越後縮布(ちぢみ)」と書くのに追われていると、通りかかった僧が「紙袋の表書きに苦労しているようだが、わしがひとつ書いて進ぜよう」と言って残り全部を書いてしまった。子どものいたずら書きのような字にあきれたものの、京都への飛脚便を待たせていたので、番頭はそのまま荷造りして出してしまった。京都で荷を待ちかねていた主人がさっそく五条のお公家様の所へ持って行くと、「これだけの字の書ける人は、国上山におられる良寛和尚の外はあるまい」と喜ばれ、京中の評判となり、たちまち売り切れてしまった、というストーリー。生前の良寛さんの知名度を知る逸話であるとともに、柏崎商人の行動範囲を物語る伝承として貴重。

良寛・耐雪・御風特別展(りょうかん・たいせつ・ぎょふうとくべつてん)
良寛没後180年を記念し2010年6月10日から20日まで出雲崎町で開催された特別展。良寛顕彰に功あった佐藤耐雪の没後50年、相馬御風の没後60年に当たることから両先達が残した足跡にも光を当てた。良寛記念館での遺墨展示(30点)を始め、心月輪、磯野骨董店、北国街道妻入り会館、良寛剃髪の寺・光照寺、大黒屋、佐藤耐雪生家などを会場に総展示点数は100点とこれまでにない大掛かりな規模となり、東京在住の個人が所有する良寛遺墨「籠屋」(ろうおく)が50年ぶりに一般公開された。記念講演「良寛と佐藤耐雪について」で、佐藤耐雪の孫で全国良寛会参与の反町タカ子は「祖父は(出雲崎を訪れた)芭蕉から郷土史研究の道に入った。本格的に良寛の顕彰と良寛堂の建立活動に取り組んだのは1917年、42歳の時点から。良寛さんの生誕地でなければと、現在の場所にこだわったたため、土地買収に難渋した。血のにじむような苦労があったと用留(日記)に記している。」と述べた。

良寛たずね道 八十八ヶ所巡り(りょうかんたずねみち 88かしょめぐり)
特定非営利活動法人良寛の里活性化研究会編集、新潟県長岡地域振興局企画振興部発行のパンフレットで、「生まれ育った出雲崎」「越後に帰り仮住まいした寺泊」「定住期間の長かった分水」「父が生まれ弟と親交を深めた与板」「貞心尼との出会いと遷化の地和島」5地域の関連史跡などをルート化、「その足跡をたどる『良寛たずね道』で『良寛八十八ヶ所巡り』を楽しんでください。良寛さんの面影に触れると、きっと、あなたの心も和むことでしょう。」と呼びかける。2015年刊、好評のため二度増刷。2017年には「モデルコース&ガイドマップ」も発行されている。貞心尼関連では和島地域の木村家・庵室跡(良寛貞心尼の出逢いの地)、はちすば通り(貞心尼の「はちすの露」にちなんで名付けられた通り。庵室跡や墓など多数の史跡が点在)、良寛の里美術館(良寛と愛弟子・貞心尼の詩歌の書を中心にゆかりの文人墨客の作品、良寛貞心尼対面像を展示)、和らぎ家周辺歌碑群(良寛像と歌碑が点在、このうち出逢いの庵入口の良寛貞心尼の唱和歌碑「きみにかくあひ見ることのうれしさもまださめやらぬ夢かとぞおもふ」「ゆめの世にかつまどろ見てゆめをまたかたるもゆめもそれがまにまに」は白倉南寉※揮毫)など。また与板地域の良寛詩歌碑公園「いしぶみの里」(旧黒川沿いの河川緑地公園)には貞心尼にまつわる「わが恋はふくべで泥鰌を押す如し」句碑が建立されている。※柏崎市の書家で良寛貞心尼研究者

良寛と弘智法印(りょうかんとこうちほういん)
良寛研究家の小島正芳が2015年7月にドナルド・キーン・センター柏崎で行った講演。「良寛は即身仏が安置されている西生寺に仮住したことがあり、その際『弘智法印の像に題す』という漢詩を作っている。入定から440年後のことだった。人々の苦しみを一人で背負われ、民衆救済のため生きながら成仏した弘智法印の生き方を良寛は尊敬していた。」とした上で、弘智法印をモデルにした古浄瑠璃「越後國柏崎 弘知法印御伝記」について「これがきっかけとなって当地にドナルド・キーン・センターができたと聞いている。不思議な縁と言うよりない。文章としても名文で、いろいろな出来事をストーリーに織り込んで読者を引き込んでいく魅力がある。角書きがもし『越後國弥彦』や『越後國寺泊』となっていたら、おそらく柏崎にドナルド・キーン・センターはできなかったのではないか。しかし、作者孫四郎はあえて若き弘知法印が遊郭通いをし、悲劇のきっかけを作った柏崎を題名に入れた。禍がきっかけとなって善根が宿ることになった地柏崎に思い入れがあったからではないか。」と分析した。なお、小島は2020年7月より全国良寛会会長を務めている。

良寛と貞心 その愛とこころ(りょうかんとていしん そのあいとこころ)
1993年に中村昭三編で考古堂書店から刊行。執筆陣は全国良寛会会長の小島寅雄(良寛と貞心の風景)、全国良寛会常任理事の谷川敏朗(良寛と貞心のこころ)、新潟良寛会の子田重次(『はちすの露』断章)、新潟大学教授の加藤僖一(書から見た良寛と貞心)、柏崎出身の大東文化大学教授・内山知也(「恋学問妨」の歌について)、柏崎出身の良寛研究家・北川省一(柏崎の海を愛した貞心尼、柏崎市立博物館特別展図録のために執筆された遺稿)、柏崎良寛貞心会会長・田村甚三郎(貞心尼と柏崎)で、帯には「良寛・貞心を語る最高の執筆陣!!」とある。瀬戸内寂聴が1992年に柏崎で行った文化講演の内容が柏崎良寛貞心会の駒谷正雄副会長の筆録により51頁にわたって掲載(講演時は「貞心尼と良寛」だったが「良寛と貞心の愛」と改題)されているのが貴重。また、柏崎出身の詩人・中村千榮子によるカンタータ「良寛と貞心」「良寛と貞心抄」、荻原英彦作曲による「良寛と貞心抄」の楽譜も収録。

良寛と貞心尼(りょうかんとていしんに)
2015年3月4日に柏崎、刈羽、出雲崎の5ライオンズクラブ合同例会(柏崎市産業文化会館)で良寛記念館館長の本間勲が行った講演。本間は、「ご当地柏崎は、貞心尼ゆかりの町であり『はちすの露』という貴重な文化財も伝わっている。貞心尼は前橋・龍海院の蔵雲が国内で最初に発行した良寛詩集『良寛道人遺稿』に協力するなど、後世の良寛顕彰の基礎を作ったという点で大きな役割を果たした。良寛の話をする際に避けて通れない人だ。」としたうえで、中村藤八、堀桃坡など顕彰の歴史にふれると共に「貞心尼は、師良寛から仏法の神髄をしっかり教えられ、よく理解していた。亡くなってからも良寛に教わったことに則って質素な生活を送り、思いやりの心を忘れなかったので、多くの人から慕われ、尊敬された。貞心尼歌碑12基をはじめ、柏崎は史跡がしっかり整備されている。立派なパンフレットを作って町おこしに活かしている姿に現在も顕彰の伝統が続いており、柏崎の人たちの貞心尼への思いを感じる。」と述べた。

良寛と貞心尼-書の達人細さと歪みの美と教え(りょうかんとていしんに-ことばのたつじんほそさとゆがみのびとおしえ)
良寛と貞心尼の書を取り上げた「石川九楊の臨書入門-男と女の素顔の書」(2015年、NHK)の第6回タイトル。良寛記念館蔵のすもり(良寛の弟・由之)宛書状「人も三十四十を」、柏崎市立図書館蔵の『はちすの露』中の「良寛禅師戒語」を取り上げ、良寛書について「一点一画が痩せていて、紙から受ける反発をねじ伏せることなくその力に任せて退く自制の書。子どもじみた稚拙美と評する人もいるが、揺れとずれは独特。夏目漱石などの近代の知識人が良寛の書に興味を抱いたのは、その近代的な意識に近さがあったからだ。」と解説。また貞心尼を「良寛の教えを広く後世に伝えるきっかけを作った。『はちすの露』は貞心尼によってまとめられた良寛の最晩年を伝える貴重な資料。」などと紹介した。NHKテレビテキスト(NHK出版)としても出版された。

良寛に学ぶ(りょうかんにまなぶ)
全国良寛会会長の長谷川義明が2010年11月27日に柏崎で行った講演。会場は「貞心尼展」(柏崎良寛貞心会主催、柏崎市制70周年記念協賛事業)開催中のソフィアセンター。出雲崎での国仙和尚との出会い、玉島・円通寺での修行、五合庵での生活など数々のエピソードをふまえ「実際に五合庵を訪ねてみるとわかるが、あの厳しい環境で30年間暮らした。まさに行としての山中独居だった。また、子どもと戯れては子ども達と同じ気持ちになって、子ども達の行く末を心配した。これは同事(どうじ)の行だ。良寛さんにふれた人は心が自然と和らいだという。良寛は道元の言う愛語の実践者だった。今の世の中に最も不足しているのはこの愛語ではないか。」と述べ、貞心尼については「良寛さんの晩年を華やかに彩った人。幕末の三大女流歌人と言われるだけあってその作品も見事。貞心尼が島崎を訪ねた際の歌のやりとりを見ても、最初からお互いに信頼しあう関係だったと言える。分水良寛会の解良会長の研究によれば『良寛さんと貞心尼が会ったのは5~6回ほどだったのではないか』としているが、これだけの回数であれだけの信頼関係にあったことは驚きだ。」と述べた。また長谷川は「柏崎高校でも教鞭を取った渡辺秀英先生(漢文、良寛研究家)から新潟高校で習った。3年生の時の担任だった。このご縁で全国良寛会の会長を引き受けることになった」とも話した。

良寛の芸術と仏教(りょうかんのげいじゅつとぶっきょう)
哲学者の梅原猛が第22回全国良寛会出雲崎大会(2005年、出雲崎町民体育館)で行った記念講演。梅原は当時『日本の霊性―越後・佐渡を歩く』執筆のために新潟県内を取材した直後で「これまで良寛は毬ばかりついている坊さんのイメージが強く敬遠していたが、4、5年前から必要に迫られて読み直した。やっぱり良寛は素晴らしい。大変な人だと思うようになった。」と心境を語ったうえで、「良寛は孤絶の人であり、童心の人だった。良寛の芸術そのものが仏教で、仏教の表現手段が良寛の芸術だった。托鉢をして寒い越後の冬を暮らした良寛のそのストイックな行の方法は、道元の座禅を超えていたのではないか。」と評価、また宮沢賢治との共通点として常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)をあげ「全ての人を拝んだ常不軽菩薩のことを詠んだ良寛の歌があるが、心が果てしなく澄んでいく純真さは良寛そのものだ。仏教が空洞化する江戸時代にあっても偉大な精神を持ち続けた。また万葉集以来の長歌の精神を復活させた点でも偉大。」と締めくくった。

良寛、由之の兄弟に想う(りょうかん、ゆうしのきょうだいにおもう)
出雲崎町良寛記念館の開館50周年記念講演会として2015年5月16日に隣接の心月輪で開催された。講師は良寛の弟・由之子孫で東京良寛会会長の山本良一で、副題は「山本家直系子孫が語る」。良寛の弟・由之から7代目の子孫である山本は、良寛の出家理由について「色々な説があるが、名主見習いとして様々な人の争いに見るにつけ、どうやって解決したらいいのかを真剣に考えた。仏の力を以て世の中の争いをなくしたいと考えたのではないか。」と述べると共に、名主を免職になり、身を持ち崩した由之を戒めた「人も三十四十を」(良寛記念館蔵)に込められた心情をていねいに解説、「自分の経験をふまえながら戒めの言葉を送ると共に、さらに『この頃出雲崎にて』(同)でアフターケアをしている。良寛さんの優しさ、兄弟ならではのほほえましさを感じる。良寛さんは由之を含め、弟、妹たちにとっての精神的な支柱だった。」と述べるなど、身内ならではのわかりやすい良寛像を描き出した。「生誕の地で良寛さんの子孫が講演」ということから注目され、県内外から多くの参加があった。

良寛をめぐる人々(りょうかんをめぐるひとびと)
出雲崎町出身で横浜国立大学講師の齋藤廣作が1992年に考古堂から刊行。良寛生家の橘屋近くに生まれ、良寛が剃髪した禅宗光照寺が菩提寺という著者が、「内に対して峻厳で、外に対して寛容だった良寛上人の偉大な人格や教養がどのようなプロセスで形成されたか」という視点で周辺の人々に光を当てた論考。「敬慕した人たち」では父と母、子陽、玄乗、仙桂、国仙、宗龍、超元、道元、芭蕉、西行、寒山、「交わった人たち」では求古、之則、左一、魯仙、有願、鵲斎、文台、維馨尼を取り上げ「その人格の形成の源となった父母を初め、上人が在世中に敬慕した人々について調べたところ、同時に良寛が交わった年上、年下、同年配の多くの人々からも敬愛されて、そしてこれ等の人達に感化を及ぼしていたことがわかって来た。このことは、上人が偉大なる教育者であったことを物語っている。」(おわりに)と締めくくっている。

【れ】
レンガ坂(れんがざか)
柏崎市中浜一丁目の急坂。昭和10年頃、明治時代に地元で生産されたレンガが敷き詰められたことからこう呼称された。現在はコンクリート舗装され、残念ながら当時の面影はない。2021年に大洲地区振興会による案内看板が設置され「金比羅宮の裏の道を鵜川に向かって進んで行くと現れる傾斜の急な下り坂」「明治時代、大久保で作られたレンガが敷き詰められ『レンガ坂』と呼ばれていました」と説明する。『柏崎伝説集』によれば、この頂上附近に柏の大樹があり、柏崎の地名の由来となったという。

【わ】
我が音楽遍歴(わがおんがくへんれき)
柏崎市新道出身の音楽家・鴨下三郎が自らの音楽人生を振り返った回想、柏新時報2006年1月1日号に掲載された。鴨下は中山晋平や大村能章に師事、市制20周年記念歌「柏崎慕情」、柏崎のPRソング「海の柏崎」で知られる。2005年に開催された野薔薇会60周年記念演奏会を機に「柏崎の皆さんにお話ししていないことがたくさんある」として執筆した。「兄のクラリネット」「中山先生柏崎へ」「弟子は取らないが」「いよいよ熱海へ」「君に教えるのは」「情景を浮かべる」「雨情との出会い」「ポンポコポン」「『砂山』の秘話も」「運命ののど自慢」「大村先生のもとへ」「柏崎市の歌を」の12章で構成、中山晋平に師事した経緯については1946年に中山が来柏した際、野薔薇会の創設者・須田七郎が「音楽の才能のある15歳の少年がいるが、先生の弟子にお願い出来ませんか」と要請したことにあるとし、いったんは晋平に断られながらも、その後の働きかけ(柏新時報初代社長・岡島利夫ら)により「中山先生の奥さんから連絡があり、弟子ではなく書生であれば引き受けても良い」と回答があり、1947年10月末柏崎駅前で多くの関係者に見送られ晋平の自宅のある静岡県熱海市来宮へ出発した。「修行をイメージ」していたところ、晋平からは「11月から学校に行きなさい。学校はお茶の水の文化学院で、手続きは済んでいるからね。学校では音楽専攻で、基本を勉強しなさい。僕が君に教えるのは、物を作る(作曲)心構えや、今までの経験を話すから、その中から君が理解し、自分の物として表現しなければ、ここにいる意味がないのだからね。」と言われ、毎朝午前5時15分来宮駅発の電車に乗りお茶の水へ通学したという。晋平は特に「曲を作る時は心の中にまず情景を浮かべる事」を強調し、「柏崎はいろいろの民謡や埋もれている歌、例えば野良の三階節や、神社の奉納舞や里神楽、そして綾子舞と非常に多彩な芸能や歴史・文化を保有している数少ない町の一つだよ。それを世の中の人達に伝えるのも君の仕事の一つだと思うよ。」とのアドバイスも受けたという。後半には「柏崎慕情」誕生秘話も。好評のため鴨下は「続・我が音楽遍歴生」(柏新時報2007年1月1日号掲載)も執筆。

わが恋はふくべで泥鰌を押す如し(わがこいはふくべでどじょうをおすごとし)
良寛の俳句。「ふくべ」は瓢箪のこと。原文は「和我こ非者布久へ亭東ちやうをお春こ東し」で、長岡市与板町与板の蓮正寺に実物があるという。蓮正寺第9世住職真教の妻「とお」は良寛の叔母(父の妹)で「ある時同寺を訪れると漆師屋が本堂で仏具を修理していた。この漆で良寛は瓢箪にこの俳句を書いた。」と伝わる。では、瓢箪で泥鰌を押すとはどういう意味か。2013年の柏崎良寛貞心会文化講演会「良寛と貞心尼」で講師の小島正芳は「『はちすの露』のやりとりに残されているように、貞心尼がかなり積極的に良寛の托鉢に同行し、(異性の法弟の同行が)町の人の話題になっていた時期があり、良寛の叔母にあたる住職夫人が、誤解を生むようなことをしたらダメだと注意をした。その際、良寛さんがさらさらと書いた句です。」と背景を説明、「瓢箪もつるつる、泥鰌もつるつる。どちらも捕らえどころのない実態のないもの。心配はないよ、と言いたかったのではないでしょうか。」と解説した。与板町の良寛詩歌碑公園に句碑がある。

我が引揚げの記(わがひきあげのき)
宮尾登美子による満州引揚げ体験記。暮しの手帖2世紀61号(1979年)掲載の後、『デルタの記』(1995年)にも再録された。ソ連兵の進駐や「土着の満人」の暴動による恐怖とともに「空腹との戦いはすさまじいもので、私はとうとう泥棒になり下り、人の家の干してあるおむつを失敬して饅頭一個と替えました。」「坊主に刈った頭はおかっぱくらいにのびていましたが、ブラウスは例の紺木綿の汚れはてたもの、スカートは麻袋をほどいてまきつけ、足はかろうじて底のある男靴をはいていました。ひきあげ者を見なれているはずの船のボーイたちも、さすがに珍しそうにじろじろと見るのでした。」といった体験が赤裸々に綴られる。暮しの手帖の大橋鎭子は『デルタの記』あとがきで、契機は深田信四郎・信共著の『二龍山』(「なぜ、どうして-二龍山開拓団の終末」と改題して暮しの手帖2世紀37号に掲載)にあったとし、宮尾の「暮しの手帖の、あの二龍山開拓団の記事を読みました。私も同じ経験をしましたの。当時は四国、九州の人たちは、地理的にも近い満州によく出かけたものでした。私も四国だったので学校教員だった主人について満州に行き、深田信さんと同様、それは恐しい体験をしました。」という話を紹介している。大橋は「先生、そのことを暮しの手帖にお書きいただきたい。どうしても、どうしてもお書きになって下さい。宮尾先生が、このような引揚げの体験をなさった、ということをお書きになって下さい。後世の人たちに、読みつがれ、語りつがれなければならない大切なことです。」と懇請し「我が引揚げの記」が執筆されたという。『デルタの記』には「なぜ、どうして-二龍山開拓団の終末」も再録されている。

我が故郷の上条城-「幻の城址」に夢を託して(わがふるさとのじょうじょうじょう-「まぼろしのじょうし」にゆめをたくして)
上条城址の保存整備に尽力した上条町内会長・本多光威が柏新時報2007年1月1日号に寄稿した新年随想。「上条城址は柏崎駅から国道353号線を通って7キロ、車で15分位のところにあり、東側に鵜川、更に西側に標高186メートルの高河内山がある15メートル程の小高い丘で、東西78メートル、南北65メートルで上の部分は平坦です。以前は、畑として良く管理されていましたが、今は一部植林された杉林があるものの、その外は荒れています。」「南側に本丸があったと言われていますが、戦後の県道(現在の国道353号)のバイバス工事の際、新潟県により土砂が削り取られ、今はその部分が欠落しているのが大変残念です。その当時の関係者の話ですと、数多くの土器、古瀬戸、石臼等が出てきたそうです。」「北側には、物見櫓があったと言われています。今では大分崩れましたが、古井戸の跡もあります。本丸西下3メートルに東西40メートル、南北85メートルの二の丸跡があります、この南北には土塁跡もあります。」などと現状や規模を説明、「上条城主は関東管領山内上杉氏の血筋を引く越後守護職上杉家の分家と言う名門で、越後の政権抗争の一翼を担った立役者でした。だが、四百数十年と言う歳月で、そのようなたたずまいは何処にも無く、『幻の城址』としてその名を留めるだけで史実も史跡も風化しようとしております。」と危機感を伝え、「寂れ行く上条城址を何時までも残したく、荒れ野を切り開き、20年後、30年後『立派に咲いてほしい』と桜を植え続け、城址の保存、活用へ夢を託しております。」と結んでいる。

若山三郎さんのこと(わかやまさぶろうさんのこと)
詩歌を楽しむ柏崎・刈羽の会会長の巻口省三が旧高柳町出身の作家・若山三郎について回想した。柏新時報2015年1月1日号に掲載された。巻口は若山との出会いは1996年だったとし、若山の生涯、著作を「昭和30年代に、大きなブームとなった貸本小説の書き手作家の一人として活躍。青春小説、明朗小説、ユーモア小説、推理小説、SF小説など、大衆文学の作品を数多く発表した。」代表作として、映画化された『大空に乾杯』、青春小説『ドカンと一発!』、創業者列伝シリーズの『政商-大倉財閥を創った男』、柏崎関連では『ぼくのふるさとみどり村』、『至誠一途-西川亀三の生涯』を紹介、若山本人の書簡から「現代風俗モノは、よく言われるように、『新しい部分から古くなる』宿命を免れず、文庫が絶版になって久しく、そのため創業者列伝に転じ、現在森永太一郎(森永製菓創業者)の生涯を描いております。」と引用している。また、柏新時報に掲載された若山の寄稿を紹介、最後の寄稿となった2009年の「アンチエージング-ピンピンコロリを願いつつ」にふれ「訃報記事を見ると、亡くなられたのが78歳である。『自分でも呆れるほど寒さに弱いのに』が的中して、残念ながら肺炎で病院に入院されたようだが、殆どピンピンコロリに最も近い旅立ちであられたようである。」と追悼している。

ワシリー・エロシェンコ(わしりー・えろしぇんこ、1890-1952)
ウクライナ出身、盲目のエスペラント詩人。4歳の時に麻疹で失明、盲学校時代にエスペラント語に出会う。来日は1914年、1919年の2回で、中村彝の「エロシェンコ氏の像」のモデルとなったのは2度目の来日の時。彝は画友・鶴田吾郎とともに1920年9月9日から16日にかけて下落合のアトリエで制作した。当時、エロシェンコは新宿中村屋に寄宿し、エロシェンコは中村屋の相馬黒光に連れられアトリエに通ったという。この2か月前の7月、エロシェンコは柏崎に赤沢助太郎、姉崎惣十郎を訪ね、交流を深めている。赤沢とは東京盲唖学校で知り合い点字で文通を続けていたという。姉崎は柏崎にあった中越盲唖学校の全盲教師で自宅に全国初の点字図書館「姉崎文庫」を開設した。川崎久一著『死んでも一枚の絵を描きたい』によれば、エロシェンコは「柏崎の海岸で夕日に感動した」「きすの刺身を賞味した」「三階節に興味を持った」「漁師の弁当をつまみ食いした」などのエピソードを残した。柏崎滞在は10日間ほどだったと見られているが、滞在中のエロシェンコの姿をその後中村彝の弟子となる宮芳平が目撃し『宮芳平自伝』に「国を追放された若い盲の詩人が――所もあろうに、わたしの浜へ来て泳いでいたのです。たった一人で。その時は海いっぱいに落日が輝いていました。盲の詩人は、白い人魚のような体を跳ねさして、その落日を讃美しているのです。大声を出して、悲しみもなく、何と無邪気な様子でしょう」と記した。1921年5月にエロシェンコは「危険性のある思想団体と密接な交渉を持ち社会主義、無政府主義の宣伝を実行しており、社会状態に悪影響を及ぼし治安維持を危うくする」との理由で国外退去処分を受ける。その後は魯迅に招かれて中国にわたり、北京大学で教鞭を取りつつ演劇活動を行った。1923年ロシアで視覚障害者のための仕事に従事、1949年故郷ウクライナに戻り1952年永眠した。

忘れしゃんすな番神の(わすれしゃんすなばんじんの)
三階節の古歌詞の一つで「忘れしゃんすな番神の、みなと、港の灯かげが主(ぬし)さん恋しと泣いている」と歌われる。「しゃんす」は近世上方の遊里で使われた女性語で「お忘れなさいますな」の意味。1973年の『三階節』(柏崎市中央公民館図書刊行会)に集録される。隠岐しげさ節の代表的歌詞「忘れしゃんすな西郷の港、港の灯影(ほかげ)が主さん恋しと泣いている」は「番神」が「西郷」に置き換わった類歌と考えられる。西郷港は、番神港と同様に古来から沿岸漁業の基地、日本海航行の帆船寄港地として利用され、明治以降は隠岐航路の基地として発展した。

私が歩んだ道(わたしがあゆんだみち)
柏崎市教育長、柏崎市立第一中学校長などを務めた相澤陽一(柏崎市栄町)の回顧録。2016年刊。「誕生と小学校時代」「旧制中学校時代」「高等学校時代」「大学時代」「教師時代」「柏崎市の教育長に」「退職後の諸活動」「閑話休題」「共に歩んだ人たちからのコメント」など9章で構成し、苦労話や秘話を披露している。教育長時代に担当した県立美術館問題については「粗製乱造だ!個人美術館だ!とドタバタ騒ぎを演じた美術館問題であったが、平松礼二先生は今やフランス公立美術館での作品展の全作品が美術館に購入された他、ドイツでの個展等、世界的に高い評価を受けている。なお、平松先生は、県内外の人たちを対象に美術を中心とした生涯学習の拠点にしたいとも話しており、そのために骨身を惜しまないと言っておられた。また、モネ財団お墨付きのスイレンを寄贈して下さるとも言っておられた。県立美術館ともなると内外の名品を鑑賞する機会が格段に増えるし、併設のモネの池も実物の90%の大きさとすることで合意していただけた。今日シティセールスの大きな柱になることは間違いなく、釣り落とした魚は大きいと言わざるを得ない。それにしても今後は芸術、文化の問題に政治的思惑を持ち込む愚だけは避けてもらいたいものである。」と改めて痛恨の念を。「私は、かねがね、柏崎には三つの宝があると言ってきた。綾子舞と木村茶道美術館と夢の森公園である、しかし、近年、ドナルド・キーン・センター柏崎ができたので四つである。(略)以上の四つ以外にも柏崎にはお宝が沢山ある。お宝の山と言った方が良いくらいである。」としたうえで、鯛茶漬け、貞観園、飯塚邸、様々な詩碑、歌碑、記念碑、演劇関係の活動、柏崎フィルハーモニー管弦楽団、植物友の会、刈羽三山と36キロの海岸線、御島石部神社のスダジイ林、大崎の雪割草や鵜川のミズバショウ、リュウキンカなどをあげ「シティセールスのためには市民が柏崎の魅力を知ること、とりわけリーダーと言われる人達がそこを訪ねたり理解することが不可欠、まずは『隗より始めよ』である」と結んでいる。

私たちが魅つけたぁ(わたしたちがみつけたぁ)
柏崎商工会議所女性部「ウイングス柏崎」が2017年に発行した手づくりマップ。2年がかりでまちあるき事業「柏崎(じもと)を知ろう」に取り組み、実際に歩いたコースや見どころをマップ化した。一般社団法人柏崎観光協会、観光ボランティアガイドが協力し「柏崎をもっと知っティセールス」との願いも込めた。マップでは、柏崎勝長ゆかりの香積寺、ぎおん柏崎まつり発祥の八坂神社、生田萬の墓碑、立地蔵、貞心尼ゆかりの釈迦堂跡、三階節発祥の専福寺、福厳院を紹介、小路の旅タイムスリップとして旧北国街道沿いの小路名を詳しく紹介。また、大洲地区の洞雲寺、勝願寺、柏崎陣屋・柏崎県庁跡、北条地区のごぼう庵、高柳地区の貞観園、かやぶきの里も取り上げている。2022年に改訂と増刷を行っている。

私の二、二六事件記録(わたしのににろくじけんきろく)
柏崎市出身の三五恒治による自分史『我が変転の奇跡』(2001年、私家版)に収められた貴重記録。「東京赤阪歩兵第一聯隊機関銃隊 第五内務班長 元陸軍歩兵伍長 三五恒治」と当時の所属、階級を示したうえで、事件首謀者の一人である栗原安秀陸軍歩兵中尉の命令で首相官邸を襲撃した経過を場面ごとにリアルなイラストと共に「先頭将校マントの栗原中尉が拳銃を(官邸警備の)警官に突き付け威嚇する/警官は銃剣の兵に囲まれ正門の方に連行される」(侵入時)、「線香と蝋燭/顔に白布/総理の写真/和服/喉元に拳銃弾痕三個/顔の白布を除き写真と見比べたが/痩せ型だが?」(26日午前6時、総理居室で)、「松尾さんの遺体と勘違い/私達は総理を載せた車を捧げ銃をして見送る/松尾さんの死を首相と信じ疑わなかった栗原中尉の誤算」(総理脱出)などと紹介。その記憶力、観察眼には驚かされる。よく知られるように同事件では岡田啓介首相の妹婿で容姿の似た松尾伝蔵大佐が間違って殺害された。岡田首相は女中部屋の押し入れに隠れて難を逃れ、翌日弔問客の乗ってきた車に紛れて乗り込み官邸を脱出した。官邸侵入後、三五は首相が隠れたとされる女中部屋の捜索を担当、女中の様子を「二人で(押し入れの)襖の両かまちを確り押さえていた感じ」(2月26日午前5時半頃)と記し「(直後に起きた総理大臣誅殺)万歳の声を聴いて出る」(同)と証言。なお『我が変転の奇跡』は生前20部を自前のワープロ、プリンターで作り身内、関係者に配布したのみで、柏崎市立図書館にも寄贈しなかった。死後、父方の従兄弟にあたる小栗俊郎によって公開(柏崎刈羽第44号「昭和維新の中の二・二六事件-その中に柏崎市加納出身の男が関与した」)、柏新時報も生前の約束をふまえ2018年2月23日号紙面で紹介した。

わたしの風紋-中村千栄子 詩の世界(わたしのふうもん-なかむらちえこ うたのせかい)
柏崎出身の詩人・中村千栄子(本名・新野千栄子、1997年死去)没後5周年の2002年に開催された偲ぶ会。同実行委員会主催。中村は『レモンと海』、『ツッピンとびうお』、『トランペット吹きながら』、カンタータ『良寛と貞心』、新潟大学学生歌、常盤高校校歌の作詞や『わたしの風紋』出版など数多くの活動で知られており、生前の足跡を辿りながら詩の朗読、校歌、歌詞の朗読、こども歌、対談「中村千栄子の憶い出」、愛唱歌、女性合唱組曲『愛の風船』、フィナーレをカンタータ『良寛と貞心』で飾った。出演は田尻小学校児童、東中学校生徒、常盤高校合唱部、同放送部、柏崎少年少女合唱団、コーロ・カンタービレ、コーラス枇杷の実、柏崎市民合唱団、柏崎フィルハーモニー管弦楽団。実行委員会代表で中村の甥にあたる三井田勝一は「単なるコンサートや仏事ではなく、故人の30年に及ぶ詩作の道の全貌を理解し、人柄、才能を偲ぶために開催した。エンディングの『遥かなる海辺の町よ』(『良寛と貞心』)の美しいメロディーを、ふるさと柏崎の人たちがいつまでも大切にしてくださることを願っています。」とコメント。偲ぶ会にあわせ記念誌(作品集、足跡)が刊行され、子ども歌(87編)、その他愛唱曲(41編)、合唱曲(54編)、合唱組曲(33編)など貴重なリスト化も行われた。

私の文学放浪記(わたしのぶんがくほうろうき)
郷土文学研究家で「巻口文庫」を寄贈した巻口省三が2019年に刈羽村生涯学習センターラピカで行った講演。同文庫(ラピカ2階)公開開始を記念した。巻口は「旧制中学1年、13歳の時に出会ったのが、林芙美子の『放浪記』だった。足にゲートルを巻いて学校に通っていた頃だ。今まで読んでいたものとは違って、しみじみ人生を感じさせてくれた。自我の目覚めでもあった。あまりの現実の厳しさに『神様こんちくしょう』と述べる場面が最も印象に残っている。」とした上で、黒岩涙香翻案の『巌窟王』、アルチュール・ランボーの『地獄の季節』、吉野秀雄と佐藤佐太郎(短歌)、上林暁『聖ヨハネ病院にて』などを紹介、「吉野秀雄探求では、吉野先生が結核で療養中に加入していた同人雑誌『河』156冊のうち、苦労して145冊を集め、全集未掲載の短歌、随筆、短文など調べ、本として出版した。追及するとわからないことが見えてくるのも楽しさの一つ」と話していた。また、柏崎関係では旧本町4出身の玉井幸助『更科日記錯簡考』の成果に言及、萩原朔太郎「海水旅館」では、「詩歌を楽しむ柏崎刈羽の会」と共に進めた4年がかりの詩碑建立経過を振り返った。

私はこんな知事になりたかった(わたしはこんなちじになりたかった)
新潟県知事を3期12年務めた平山征夫(柏崎市出身)の回想録で、知事退任から5年後の2009年に刊行。「知事になるまで」「知事の仕事、役割とは」「知事はオールマイティか」「知事と国や政党との関係は」「望まれる知事像とは」「知事は地方から国を変えられるか」の6章で構成し、「中越地震以外にも多くの災害に見舞われたし、原発を巡り2回の住民投票を経験、また柏崎・刈羽原発全号機の停止、北朝鮮拉致家族被害者の方々の受け入れなど、苦悩・苦労を伴った案件も多かった。」(はじめに)と振り返る。「私自身は、東電の事故隠蔽事件に伴い柏崎・刈羽原発全号機停止・点検を要求した時に、自分自身で知事の権限の巨大さを実感した。」(大統領なみの大きな権限)など柏崎に関する話題もたびたび登場、県立美術館計画の白紙撤回については特に力がこもり「私の12年の知事在任中、議会に出した予算関連法案で反対が多く、私の判断で取り下げた案件は1件だけあった。それは、柏崎市に建設を予定した『モネの庭と美術館』構想だった。(略)この案件については、終始社民党が県議会で反対の急先鋒に立っていたが、後日その背後に社民党系の美術館労組のメンバーの活動があったことが分かった。政治というものはなかなかややこしいと感じた。」(自ら取り下げた案件)との舞台裏も。

渡部勝之助の米山参詣(わたなべかつのすけのよねやまさんけい)
渡部勝之助の『柏崎日記』に米山参詣の記述がある。柏崎陣屋着任から1年たった天保11年5月24日、快晴。「当番に出ようとしたところ、米山参詣に今から行かないかと誘われ、午前9時に計10人で出発した。」(口語訳)と書き出す辺りは、柏崎陣屋の悠長さをよく表現している。小菅(小杉)、祓川、女人堂を経てまもなく山頂に到達していることなどから見て吉尾コースのようだ。「鉄の鎖につかまって登る所」は同コースの難所「釣瓶落とし」か。「話に聞いていたより険阻」で、吸筒2本に入れた水を半分も行かないうちに飲み干し「雪売り」で喉を潤したとの記述も。山頂では「高田の御城」「大海で操業する夥しい漁船」「佐渡、能登鼻」「椎谷鼻から寺泊浦、弥彦山」「遙かに見える信濃川、蒲原平野」などのパノラマビューを「文章に書き表わすことが難しいほどだ」と表現している。帰途、小菅村の茶屋で酒を呑みゆっくりしたため陣屋の門限(午後8時)ぎりぎりに帰陣。米山三里のアップダウンにも「こりごり」し、翌日は「大くたびれ」「こむらはり」「這って歩くほど」で、さらに水を飲み過ぎたためか腹痛になり「大こりごり」を繰り返している。「釣瓶落とし」については『柏崎市伝説集』に「米山の吉尾口の一の坂に『つるべおとし』という難所があって金ぐさりで登らねば危険の所があるが、ここを「びくに落し」とも言っている。女入禁制の聖山とされていたころ、尼さんが米山へ登ろうとして神罰をうけて、ここからころがり落ちたので『びくに落し』と言われているのだそうだ。米山は昔四方の峰に女人堂があって、これを四方屍羅場といい、これから上は女は登る事を禁じられていた」との記述がある。